暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

ノルウェー産鮭のバター焼き

2009年05月31日 06時28分42秒 | 喰う
土曜日ながら今日は外に出かけたためマーケットで買い物ができずスーバーで求めたもので間に合わせた。

魚はノルウェー産鮭の切り身 180g 塩コショウをした小麦粉を絡ませバターで焼いた。 庭に茂ったやわらかく新緑のディルを添えた。

野菜のチコリを二つ割りにして根元近くの芯を取り、熱くしたフライパンにバターを溶かし軽くチコリの両面を狐色になるまで焼いて塩コショウし、そのあとクリームシェリーを軽くふりかけ蓋をして7,8分そのまま蒸す。

ジャガイモを洗い、皮剥くのではなく皮を包丁でこそげ落とし、キャセロールに入れて電子レンジで蒸すようにする。 7分ごとに混ぜてそのあと7、8分置いて蒸らせ塩コショウ、バターと庭のパセリのみじん切りを振りかけて混ぜる。

サラダは普通のミックスサラダ、ドレッシングにライムジュースを足して少し酸味を加える。

1日で20km弱歩いたから咽喉が渇き白ワインではなく今日はビールだった。 

ラベンダーに何かの卵

2009年05月29日 08時45分41秒 | 日常
買い物から戻り、大きなプラスチックのクレートに入った猫のトイレの砂やワインに食料品、トイレットペーパーなどごたごたと20kg以上のものをよっこらしょっと一旦玄関のドアの前に降ろして合鍵を探しているとそばのそろそろ伸びだしたラベンダーの古い株から小枝が伸びて芽吹いているのが目に入ったのだがそこに今年もまたいつものように石鹸の泡のように見える何かの卵があちこちにくっついているのが目に入った。

いったい何の卵なのだろうか。 これだけあるのだから孵化したあとはあたりに小さくがさがさ動く虫かパタパタ飛び回る小さな羽虫のようなものの記憶がありそうなものだが泡の卵を毎年この時期に見るけれどこの行く先には想いが行かないからこのあたりで急に何かがうごめくということはないのだろう。

ラベンダーに戻る。 このうちに越してきてから誰かにもらって植えたのだろう。 たぶん義弟の庭から一株もらってきて家人が植えたのだろう。 18年前でそれから何もしていない。 今では1m以上になりこれからの時期、どんどん延びてそのうち青から薄紫の穂になった花が咲き出して芳香を放つ。 

家人は裏庭のナメクジのことをこのところ言っている。 何とかしてくれないの、と言われてもこちらはなんとも仕様がない。 大きな葉が柔らかくでている水芭蕉のようなものを食い荒らすのだそうだ。 周りを貝の殻を細かく砕いたものを撒いておけばナメクジやカタツムリはそういう鋭角な角やエッジを持つものをこのまない、と聞いたことがあるが、そういうものを施したこともないし、一旦そうすると連中、庭の中を歩き回って、というか這い回って他のところに行くに違いなく、そうするとあたりかまわわず須く貝殻で覆わなければならなくなるのは理屈の行き着くところであり庭の土の部分をそういう眺めにしたくない、という想いが意識的に働いているのか、ああ、とか、うう、とかいって冷たい風が頭を通り過ぎるのをじっと避けているわけだ。

たぶんこれはこちらでいう植木のダニ、とか蚤みたいなものじゃないのと家人は言うけれど、どうだろうか、そういえば広葉の裏にツブツブと沢山そういう虫がついてみるのを見ることがあるがそれはここではない。 もしそれがこれの孵ったものならそれでは人の知らないときに孵って人知れずどこかに大移動するのだろうか。

子供のときの記憶ではこの手の卵は蛙だったり蟷螂であるのだがここでは蟷螂も飛蝗も見ないから今でも謎であるしこの15年以上もわからなかったのだから急にそれが分かるとは思わないけれど以前に比べて今まで見なかったことが見えてきたのだからそのうちどこかでこれが成虫になったものに出会えるかもしれない。




苧環(おだまき)が咲いた、と書いてほぼ一ヶ月

2009年05月28日 05時51分49秒 | 日常
今年はうちの庭にいろいろな苧環(おだまき)が咲いて昨日、一昨日の大雨で今まで庭のあちこちに大小散らばって咲いていたもののシーズンが終わったようだ。 花の色も赤が淡く入った白から濃い青までいろいろとあって楽しめた。

花弁のひ弱そうな外見と比べてどれも結構長く咲いているから驚きだった。 ほぼ同じ満開の形で2週間ほどそのままだったのがこの強い雨で大体一ヶ月ほどの盛りが終わったようだ。 これが終わればまたいろいろな花が咲き始め乾きぎみだった庭にも程度の湿りとなりこのあいだ刈ったばかりだと思ったのに芝生が急に伸びたように見えてこの週末にはまた刈らねばならないだろう。

そんな庭にもクロウタドリの若いツガイがときどき猫のいないときをぬって地中の小さなミミズをついばみに来るようにもなっているから春も本格的で初夏へと移りつつあるのだろう。 街の木々にはもう新緑の緑に濃さが加わって大きな木にも細かい花が咲くのが見えはじめているからこれから一気に木々に葉が茂り始めてその下を歩く年寄りたちが背筋を伸ばして仰向けになっても強い日が目に入らないように適度な覆いとなるだろう。

セント・オブ・ウーマン/夢の香り; 観た映画、May 09

2009年05月27日 09時45分16秒 | 見る


セント・オブ・ウーマン/夢の香り   (1992)

原題; SCENT OF A WOMAN

157分

監督: マーティン・ブレスト


出演: アル・パチーノ
クリス・オドネル
ジェームズ・レブホーン
ガブリエル・アンウォー
フィリップ・S・ホフマン
リチャード・ヴェンチャー
サリー・マーフィ
ブラッドリー・ウィットフォード
ロシェル・オリヴァー
マーガレット・エジントン
トム・リース・ファレル
ニコラス・サドラー
ロン・エルダード
フランセス・コンロイ
ジューン・スキッブ
デヴィッド・ランズベリー

 気難しく人間嫌いな全盲の退役軍人と、心優しいエリート寄宿学校の苦学生との年齢差を越えた友情を描き出した感動作。A・パチーノの熱演(彼のまったく動かない“瞳”の演技に注目!)やC・オドネルのさわやかな演技は言うに及ばないが、「ミッドナイト・ラン」で男同士の奇妙な友情を軽快に見せてくれたM・ブレスト監督が、今度は打って変わってじっくりと人間愛を描き、コミカルなアクション映画が得意と思われていた監督の奥の深さを認識できる点も記憶しておきたい。尚、A・パチーノは七度目のノミネートにして遂にアカデミー主演賞受賞! G・アンウォーとタンゴを踊るシーンは絶品!(ゴールデン・グローブ賞でも作品賞、脚本賞、主演男優賞を受賞している)

上記の映画データーベースの記載でこの作品がアル・パチーノにオスカーをもたらしたのをはじめて知ったのだけれど私はこれを見るのは初めてではなかった。 本作を再度見ようと思ったのにはいくつかの理由があった。 一つはフィリップ・シーモア・ホフマンをみようとおもったこと。 スパイク・リーの「25時」に助演して「ハピネス」や「カポーティー」で主演して困惑顔が特徴の俳優なのだがそれが10年以上前に本作を見てどこか心の片隅に強く印象つけられたこと、特に後半の諮問公聴会での困惑振り。 

退役軍人を住まわせている甥、姪夫婦のパチーノに対する気持ち、姪の対応に興味があった。 パチーノは厭われているのは承知だがそれがどのように嫌われているのかが焦点だ。 姪の主人は嫌っているのかどうかはよく分からないが少なくとも姪のほうは愛情をもって離れにパチーノを住ませているのだが私が今回確かめてみたかったのは以前に見たときに彼らの子供の一人のパチーノに対する嫌い方だったからそれがその家族全体のパチーノに対する態度だったのかどうかを確かめたかったこと。

パチーノの兄の家の感謝祭の晩餐に飛び入りで訪れるシーン。 歓迎されない家族の一員がそこいることで凍りつくようなざらつく食卓の場面。 パチーノがどのようにして全盲になったかを兄の息子から毒のある厳しい事実の一面をみせられるその場の家族の対応を見たかったのだ。 兄の態度に興味が行き、エリート軍人を出した平均的家庭の典型的な風景だと感心した。

もう一つはタンゴを踊るシーンで踊りが終わったあとガブリエル・アンウォーがどのように二人から、つまり映画から離れるかというところだ。 彼女がいなくても本作の話には何の支障もないのだがこのシーンが本作を代表するものとして華やかな思い出となって我々の胸に残るのは間違いないのだからここでの彼女は重要だ。

本作では全盲退役軍人のハンディキャップを補い、彼の第一級の軍人であったということを我々に示唆する武器としてここでは嗅覚が機能して、盲人の頭に世界を正確に形成するための知覚としての嗅覚を、特に女の香りがパチーノをこの世に引き止めるものとして「性」と「生」が混ざったものの象徴、主題としていることが我々「目あき」の目をいまさらながら匂いの達人のさまざまな感性表現を示されることで感心させられるのだ。

退役軍人は日頃ジャックダニエルとテレフォンセックスの生活だと姪から学生に告げられるのだが世間から離れて厭世的に生きている男にこれ以外に何があるのだろうか。 映画の当初、この学生がパチーノの離れに入ってくるシーンが秀逸だ。 敵を分析して一番弱いところをすばやく見つけてそこを突くというのが軍の常道であり鋼のような論と正確な叙述が汚い言葉を斟酌しないまま飛び出してくるというのはパチーノの映画の中では時々見られるものだがこれほど効果的なものはなかったのではないか。 だれでもそこにいるのが嫌になるような出だしはのっぺりとした学生の態度と対照されて我々に記憶される。 

このようなアメリカの軍人を見せられるとまだ国軍と正式に呼ばれるようになって間のない日本の軍隊で汗水ながして国のために生死をあずけて精勤する日本国軍人の影の薄さに対照されて驚く。 古くから情報伝達媒体を使って最大限、軍の宣伝を行ってきたアメリカの政策と戦後は日陰の花として扱われてきた自衛隊の差が同じ軍人の扱われかたの差となってでているのだ。 ここでも人間がすべきこと、何への忠誠がもっとも大事かということが求められている。 学生のジレンマはかつての軍人のジレンマでもありそれが小気味よい公聴会でのスピーチにつながる。

二日ほど前、BBCテレビの深夜映画でB級映画としてテレビガイドにも載っていなかったロッド・ホルコム監督のテレビ映画「Code Breakers」(2005)を観た。 そこでは1951年にウエストポイント陸軍士官学校で実際に起こった、大学選抜アメリカンフットボールのチームが組織的に試験を不正な方法で受けたとして退学させられた経緯を描いたものがこれで、不正を届けることとそれによって友人、同志を裏切るようになることのジレンマの境で悩むことがテーマなのだが本作でもそれがサブテーマとなっていて苦学生の貧しさと友人への忠誠、友人と思っているものが状況によれば簡単に裕福な親の袖に隠れて自分は裏切られる結果になるようなことは多分そこを卒業しただろう退役軍人には目が不自由になるまえから見えていたことだろう。 けれど公聴会でのパチーノのスピーチが自分をも回生させる転機となり結局は大団円で終わるのだが、パチーノを死から生に戻らせ、ニューヨークのホテルから公聴会に向かわせる直接の動機、言葉を見逃し、聞き逃した。 そこにコマーシャルが入ったのだ。 その間他のチャンネルを見ているうちにシーンはもう次に移っていた。

結局また大事なほんの一瞬を見逃し聞き逃してしまった。 それがなくとも話の流れには支障はないのだが人一人が死から生に戻る確かな契機に立ち会えなかったのは残念で間抜けなことだ。 その瞬間をこの次テレビの放映で見られるのは何年先のことだろうか。

ターゲット・ブルー ; 観た映画、May 09

2009年05月26日 10時51分26秒 | 見る


ターゲット・ブルー(1994)

中南海保縹

THE BODYGUARD FROM BEIJIN

93分

監督: コリー・ユン
製作: リー・リンチェイ
脚本: ゴードン・チャン
チャン・キンチュン
撮影: トム・ラウ
音楽: ウン・ワイ・ラップ

出演: リー・リンチェイ
ケント・チェン
クリスティ・チョン
イー・シン

殺人の目撃者である美しい女性の若きボディーガードと悪の組織との戦いを描いた香港版「ボディガード」。主演は「ワンス・アポン・ア・タイム/天地大乱」のリー・リンチェイ。

BBCの深夜映画にかかっていてクレジットに日本人(小中和哉)が出ているので監督か役者かもわからず日本・香港94年の合作と記されているものを見た。 上記のデーターベースの記載をいろいろあちこち比べ合わせ結局は英語のシネマサイトかここでのクレジットを引っ張ってきたのだが、そもそもBBCで放映されたタイトルがここでは影も形もない。 私の見た「The Defender」というのが本作で、退屈な安物アクション映画で誰が日本人か中国人か、はたまたどんな趣向かというのがソファーに私を座らせる動機であり、あまり陳腐で面白くないからやめようかと思っているとアクションが始まりもともとカンフーにはまったく興味のない身としては装飾的なすばやい動きを能のない冗談でサンドイッチにしたお涙頂戴の安っぽいヒーロードラマを初めて観た。 

今ではこういうものを見るものは多くはいないだろうけれど当時は流行ったに違いない。 この15年の変わりようを本作の背景、小物で想像することが出来る。 今から15年前なら本作のデザイン、ガジェットなどは納得がいくものだがそれでは何故今の段階でBBCがこんなもの(失礼!)を流すのかに想像が向かった。

鑑賞後ネットで主演俳優のプロフィールを見て納得がいった。 もしかするとこの人(リー・リンチェイ、BBCクレジットではJet Li)もしくは当時のエリート生徒、学生たちを79年に北京で見ていたかも知れぬ。 9月に北京で体育エリートばかりを集めた講堂で演技を見せられたことがあり、そこでは何年かあとにはオリンピックでメダルをとる候補生たちだと紹介されて同時は中国はIOCには入っていないもののその後80年代には加入して世界の舞台に出た後は周知のこととなったのだが、そのとき中国古来の武術をいくつも見せられてその技術、訓練の完成度にこのノウハウがあれば体操などなんともないと感嘆したものだった。

本作の要は、国軍エリート兵士が経済発展を推進する若手ビジネスマンのガールフレンドをガードする使命を受けて使命を全うするという物語なのだがそこに何かモラルのきな臭さが漂う。 金で何でも解決するビジネスマンのガールフレンドに漂う安っぽい退廃をジェームス・ボンドとまでは行かぬ、逆に杓子定規、使命一番の堅物、つまり国益のために身を挺し、そして芸(武術、射撃の腕)は身を助け、周りのものを「素直に」かつ道徳的に更正させその使命完遂後は元来た国に戻る、といういかにも香港返還後の二つの中国世界を大国の英雄が偃武するプロパガンダとしては上出来の作だ。 ただ、どういう観客がこれに踊らされるか、というところがミソだ。 我々の若いころは高倉健の深夜映画がおわるとぞろぞろ出てきた観客は大抵ミニ高倉だったし、燃えよドラゴンのあとはみんなアチャー、チョーと腕をやたらと振り回したものだ。 たぶんここでは観客はこの手の映画にはジェット・リーの演舞のエンターテイメントアクションを見てそとに出てもアチャーとかチョーと遊ぶことはあまりなかったのだろう。 ジェットのカンフーは映画の中だけで去勢されている。 暴力はあくまで怨念、私怨では行使されるべきものではなく社会悪に向かってのみ行使されるべき種類のものなのだ。 それは国軍兵士のモラルという性格のものだ。 けれどここで我々が見るのは社会主義国がいかに先鋭的に資本主義を導入して世界に対抗するとき暴力とは一切関係ないような野太鼓的若きエリートを守る機能を果たしている事実だ。

次の日に同じ主演俳優の、英題「The Enforcer」、映画データーベースでは「D&D/完全黙秘 (1995) MY FATHER IS A HERO」のはじめの30分か40分を見た。 そうしているとこれはだいぶ前に後半だけを見てそれも最後まで行かずに途中でやめてしまったものへと繋がったのでへえ、あれがここに繋がるのかと最初の、息子が大講堂で100人ほどの子供たちに混ざってカンフーの演技で一糸乱れぬ小さな孫悟空よろしく映っているところで、ああ、これはジェット・リーの子供のころにかけてあるのだなと思ったもののその後の陳腐なアクションには鼻白んで止めてしまった。 

教訓; 陳腐なC級「カンフー?」映画にもしっかりある種のメッセージがこめられていて94年当時のアジア世界では一定の評価を得たことと想像できること。 15年後に再度みるとそれがいっそう露になってそれをどのように回答、料理するのかという命題を本作を観る者に突き詰めるのだ。

あの花がまた咲いた、ディルの隣に

2009年05月24日 13時23分09秒 | 見る
一年ほど前に同じところで同じ花が咲いたのをブログに載せたのは覚えていたけれど花の名前は忘れていたから記憶を頼りに調べたらそれはルピナスだった。

名前に取っ掛かりがなく覚えらない。 もうひとつぐらい何か和名でもあれば覚えることができるだろうもののルピナスという名前にしても去年の日記を調べなおして「ルビナス」と思い違いをしていたからそれをウキペディアに再度放り込んでも何もでてこずだめだったわけで、仕方なくまたまた同じことをして「ルピナス」だと確認しなおしたのだからこんなことをしているのではあと2,3ヶ月たってからあの花の名前はなんだっけ、とまた思い返しても同じようにでてこないことは目に見えている。 だから今回はハウチワマメ属(葉団扇豆属)というところをひいておいたけれど、これにしても同じことだ。 葉団扇豆とは葉の形が天狗のもつ団扇に似ているからそんな名前がついたのだろうか。

またルピナスの名前はオオカミに由来して、、、と書かれているけれど、オオカミってなんのことなのだろうか。 オオカミの項を見てみるととりわけルピナスということはでてこないけれど学名で種のところでラテン語の「lupus」が出ていてこれが多分ルピナスに絡むのだとおもうけれどそれでは何故これなのかといってもそれから先はわからない。

ルピナスの後ろにディルが大きく茂っている。 金魚藻のこまかいようなものだが、これが魚料理にはかかせないもので、その香りのよさに時々は先の細かいところを千切って口に入れるようなこともするのだけれど茂った葉の細かさに感動する。 多分今が一番きれいなときでそのうち緑色が濃くなり花が咲き始め穂先が重くなり傾いて秋の終わりには庭の厄介者のようになり、冬にはかれてしまうという具合だ。 毎年ここに同じように若い枝が伸びて少なくとも十数回は食卓に上る魚の香草として使われることになる。 和名がイノンド(蒔蘿)とあるけれどこれも取っ掛かりがつかめないような名前だ。 漢字にしてもなんのことかわからない。 稀にカワラボウフウ属 (Peucedanum) に分類されることもある、とあってボウフウというのはハマボウフウという名前でおぼろげに覚えているがそれがどのような花なのかは確かではない。 ディルのほうはほぼ日常的に見たり使ったりするから忘れないけれどルピナスのほうはどうも頭に入らない。

土曜の青空マーケットで

2009年05月24日 06時02分32秒 | 日常
雲が出ているものの陽が間接照明のように当たる土曜の午後、12時を回ってからゆっくり寝床を離れ、晩飯の材料を買いに青空マーケットにやってくれば八百屋がたくさん並んだ市場の前に若いのが何人もかたまっていてやおら二人の若いのが何か歌いだした。 昔スティービー・ワンダーが歌っていた「That’s what friends are for]でそれを調子はずれでやたら怒鳴るだけで紙に書かれた歌詞を見ながら歌っているようだ。 それまでは前奏で下手なギターをかき鳴らしていた一人が本題にはいってちゃんと伴奏するかと思えば何もしないで座り込んで転がっているだけだ。 他の若いのはとみると後ろに横一列に並んで通りかかる多くの人たちに向かってただ立ちん坊で少々の恥ずかしさも見せているものの前の二人をにやにやしながら手にはハイネケンのビール瓶を手に時々は声をかけるだけだ。 その前を絶えず通りかかる人たちは横目で眺めニヤニヤしながらまた、なにかやってるな、という顔つきでとまって眺めるものもなく買い物のほうに注意を注ぐ。

なるほど、二人がここで歌っているのは何かの罰ゲームなのかもしれないし、何かのことから賭けをして負けたのがこうなったのか、この二人がこの町を離れるかなにかで送別のパーティーの趣向がこうなのかもしれない。この様子をヴィデオに収める役の男が一人私の横でニヤニヤしながらカメラを動かしているのだがもう既にアルコールが回っているようで足取りがあやしい。

マーケットでは夏のにぎやかな時期は徐々に始まっているのだがまだ街頭芸人が出るほどでもなく向こうの通りの角にはロシア人の若者が猛烈な速さでアコーデオンを弾いてバッハの曲をあたりに響かせているけれどそれは今の季節には関係がない。 南の端にはこのごろギターを持ってフラメンコを聞かせている若者もいるけれど今目の前にいる若者の一団は音楽を聞かせる態度でもないしその技術もないのは明らかだ。

水周り改修工事(6) やれやれやっと仕上がったかな?

2009年05月23日 21時21分19秒 | 日常
もう4週間以上もがたがたやっていた家の水周りの改修工事のうち、風呂場、トイレが仕上がったようだ。 ようだ、というのははっきりしないが、どこもやっと使えるようになったということだ。

階下の天井近く、温水パイプの一部に漏れがあるようで天井の一部に染みが出ている。 隣家にもそれが伝わって壁越しに染みているようだ。 先日隣家を訪れて目でそれを確かめ、住人となごやかに話し、それを写真に収め、業者の出方を様子を見すこととしてその場を収めた。 隣人は自宅の保険で解決するといっているものの我々は業者からの回答と月曜日に来るケースの出方に注目している。 

我々、施主の問題ではないものの、けれど、せっかく壁の中の配管を接続しなおしてそこをコンクリートで固め、漆喰を施した後、そこを木のカバーで配管を覆い塗料を施した部分をもう一度配管接続部分まで掘りかえして漏れを止め、再度復元しなければならぬ手間を思うとうんざりするものの向こうもそういうことは鳴れているに違いない。

改修が終わったところで代金の2割を払い込むことが契約書には記載されていて先週にはその請求書がうちに届いているものの当分その払い込みは見合すことになるようだ。

升天祭(しょうてんさい)の日に

2009年05月22日 08時58分43秒 | 日常
祭日であるものの最近は昔と違いプロテスタントが優勢のオランダでも徐々に休日にも店が開くのが多くなっていることから、まあ、いつも利用するスーパーは開いているだろうと車に乗って快晴の午後出かけたら二階の駐車場には車が一台もなくこれはしまったと高を括っていたことを少しは悔やんで、さて、晩飯の材料はどこで買うのか思案しながらもと来た道を戻って途中の別のスーパーに行っても住宅街のスーパーは同じこと、結局空瓶と紙くずを近くの再生コンテナーに放り込んで帰ってきただけだった。

それでは駅の近くには殆ど年中無休の単身者向けのスーパーがあるからそこに行けばいいと自転車に乗ってノコノコと普段の仕事場に向かう道筋にペダルを漕ぎ出した。

オランダ語でHemelvaart(へーメルファート)と言えば英語では「へメルの屁」と響きそうな名前の国民の祝日である。 Fart というのは英語で「屁」 オランダ語ではHemelは天国、Vaartはそれに向かって移動すること、つまり昇天であり、よくは知らないけれどイースターで復活したキリストが改めて決定的に昇天した日であるらしい。 それでは復活したのは、ええっと、6週間前だからその間キリストはどこで何をしていたのだろうと埒もないことを信心のない外国人はぶらぶらと昨日も入ったスーパーの前を通りかかったらなんとさっきのスーパーと同じチェーン店なのにここは開いているではないか、駅前まで行かなくともいい、それじゃ昼飯はその前のスナックバーに入って揚げ芋とビールで、、、と店の前に来ると、諸事情のため一時閉店と札が下がっており中のショーケースの冷凍揚げ物の入っているはずの場所が空でステンレスの大きなガラスケースの入れ物だけが光っているだけだ。

ぶらぶらと町の中を、それでは別の揚げ芋屋にと頭の中の地図をたどってもどこにもない。 日曜日でも開いているところがあいにく今日はキリストが昇っていったから芋屋もそれについていってしまったのだろう。 あとは女子供向けのジュースやアイスクリームを売る店ぐらいでマクドナルドに行ってもビールは売ってないし、、、と思っているうちにモロッコ人が経営する魚屋のチェーン店が開いていて若くボケーっとした兄ちゃんがカウンターの向こうで退屈そうに新聞を読んでいて、家の近くにもこのチェーン店がありたまにはそこで食うのだけれどそこはアルコールを置いていないからここも駄目なら買い物の後、家でベーコンエッグでひるめしにしょうかと店に入り飲み物の棚を見てもなにもない。 帰ろうかとその若者の前の冷蔵陳列ケースを見ると無造作にハイネケンの緑の瓶や缶が並んでいるから瓶と白身魚の揚げ物にニンニクタルタルソースをかけた物を頼んで小さなテレビで女子テニスがかかっている前でビールをちびちび飲みながら魚を待った。

女子テニスもしばらく見ていない。 私が好きだったのはテレビでテニスを見始めたころ、クリス・エバート=ロイドの内向的なところ、マリー・ピアスの優雅さ、アンナ・クルニコワのお人形さんのかわいさ、リンゼイ・ダベンポートのごく普通の素朴なアメリカ女性的なところなどであとのスーパースターたちのパワープレーにはのめりこめなかった。 オランダではなんともなかったのに日本では「シャラちゃん」などと呼ばれて騒がれてから大分経って何かの選手権のときにテレビで見て他の何人かのようにやたらと声をあげるマナーの悪さとプレーには魅力を感じなかった選手が今、名前からして同じくスラブ系の若手と対戦している。

それはマリア・シャラポワでポーランドのワルシャワでのトーナメント、6-1の劣勢でやる気もだいぶ失せているのかこれでは勝てそうもない。 彼女の右肩に何か力士の膏薬のようにべったりと貼り付けられたものもある。 黄色のスカートが可愛いものの可愛いだけで勝てなければどうしようもない。 魚が来てそれを口にしているうちにテレビの画面で負け試合の最後の握手をレフリーにするまでに店に何組かの客が来て揚げ物を買っていくのだがこういうぽかぽかと天気のいい日には日差しの中で立ち食いをするほうが気持ちがいいのか誰も空いたテーブルに座るものがない。 

気持ちのいい青空の下自転車を押して遊覧船の乗り場まで歩いてくればそこにはかなりの客が3時発の船を待ちながらのんびりとアイスクリームを舐めていた。 先々週市役所と教会で結婚式を挙げた知人の娘が持つカフェー・レストランは当分休業の札が出ており航空会社に勤めている彼女の兄の家族特典で2割ほどの料金で世界中飛べるということだったからどこかでまだハネムーンを楽しんでいるのだろう。 

そういえば、我々にはハネムーンというようなことはなかったように思う。 二人であちこち何日もいろいろと旅行はしたが結婚後にはゆっくり旅行しているような時間はなくそのまま20年以上そのまま来たようでそのうち完全に定年になればハネムーンで四国八十八箇所を巡る、というようなことをするかもしれない。 けれどそれでは何だか線香臭いハネムーンのようで、或る程度の実体はあってもハネムーンとは呼べないだろう。


明日は息子が裏庭でバーべキューをするからリストにはその材料が並んでいるものの祝日の数少ないスーパーからなのか昨日とは違いかなり込み合っており生鮮食料品の棚にはかなり空のところが見え売れ筋のものが消えているようだ。 バーベキュー用の各種肉の個別の材料にはないものが多く、結局詰め合わせのものと鶏のドラムスティック、七面鳥のステーキ肉を買った。 車だとバーベキュー用の炭やビールのケースなども買うのだけれど自転車ではそんなものをいれるスペースもないので買い物袋3つに一杯住めこんで家に戻った。 橋の上を通るときには水上スポーツのシーズンが始まったのか沢山のボートに飲み物、食い物を積んで家族、友達の小さなグループが行きかうのが見られた。

買ったものを冷蔵庫に詰め込んでいると庭で日向ぼっこをしている娘と家人がお茶の時間だというからそれに加わり買ってきたミニドーナッツを二つほど平らげたがそんなものはビールにもワインにも合わないので仕方なく濃いセイロン紅茶を飲んでいると家人が、真の男は濃いものをのむのよね、とニヤニヤしながら言う。 真の男はこんなときには紅茶など飲むものか、と嫌味に返した。 じゃ、真の男は何を飲むのよ、と娘が言うから、真の男はSiSiさ、というと二人とも笑い転げた。 おとうさん、SiSiなんて飲んだことないのに、、、とは、冗談のわからぬ娘だ。 

分からないのはこの間から始まった全国共通高校卒業試験の物理の問題だ。 大学で理系医学部に進みたい娘が今日の試験の問題を眺めていたのだけれど、問題がどんなことを求めているのかは分かるけれど具体的な解法や数式などさっぱり分からない。 大方40年以上前に高校で覗いたことなどもう忘れているし国も違い程度も格段に違い分かるわけがない。 おまけにDNAのスパイラルにかけてそれをいくつかに分析してスパイラルの方向を示す方程式を求めるなどというのまであり、例に挙げられている方程式や数式など今まで見たこともなく全くお手上げだ。

夕食まで天気がいいから両隣との境にある垣根の散髪をした。 2年ほど前に父の日に送られた電動ヘッジトリマーでやると楽なものだ。 それまで15年以上毎年大きな剪定バサミを両手でチョッキンチョッキン蟹さんよろしく梯子に登って片面が1時間以上かけてやっていたものが電動では15分ほどなのだから早いのだけれどなければないで別段手でやってもその間は耳の中でジャズが鳴っているのだからどうということもないのだけれどあったらそれを使わないということはない、ということだ。

今日はのんびりポカポカの一日だった。 こんな日に昇天するのも悪くない。


ウィキペディア; キリストの昇天、升天祭(しょうてんさい)の項
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E6%98%87%E5%A4%A9

天空の草原のナンサ ; 観た映画、May 09

2009年05月21日 20時25分28秒 | 見る


天空の草原のナンサ  (2005)

独題; DIE HOHLE DES GELBEN HUNDES
英題; THE CAVE OF THE YELLOW DOG

93分

製作国 ドイツ


監督: ビャンバスレン・ダヴァー
製作: シュテファン・シェシュ
脚本: ビャンバスレン・ダヴァー
撮影: ダニエル・シェーンアウアー
編集: ザラ・クララ・ヴェーバー
音楽: ベーテ・グループ

出演:
ナンサル・バットチュルーン     長女ナンサ
ウルジンドルジ・バットチュルーン     父
バヤンドラム・ダラムダッディ・バットチュルーン     母
ツェレンプンツァグ・イシ     老女
ナンサルマー・バットチュルーン     次女
バトバヤー・バットチュルーン     長男

 モンゴルのウランバートル出身で現在ミュンヘンに拠点を置くビャンバスレン・ダヴァー監督が、「らくだの涙」に続き再びモンゴル遊牧民一家の暮らしを綴ったドキュメントタッチのドラマ。
 モンゴルの草原で羊の放牧をして生計を立てる一家。たくましい父親と優しい母親、6歳になる少女ナンサとそのかわいい妹と弟は、家族5人で仲良く平和な日々を送っていた。ある日、ナンサはお使いの途中でかわいい子犬と出会う。ナンサはその犬を“ツォーホル”と名付け連れ帰るが、父親はオオカミの仲間かも知れないといって飼うことを許してくれなかった。それでも、父親が羊の皮を売りに町に出かけたのをいいことに、こっそりツォーホルを飼い始めるナンサだったが…。

上記の映画データーベースの記載事項で映画の体裁は説明できてはいるが作家が本作を映像にして今後これからも自分で何度も観るだろうというその動機は多分話の筋からは窺われないのではないかという気がする。 それは大地であり空でありその下で暮らすまだ若い夫婦と小さな子供3人の家族5人の生活を綴るということであり大自然の中で生活する遊牧民の日常を生のままで我々に見せるということなのだろうし実際にこの家族は実の家族だと確認したのは終了時のクレジットからだったのだが本作を普通のドキュメンタリーにしなかったところに作家の眼目があるに違いない。

モンゴル語で話される各人の俳優としての資質は分からないけれど驚くのは日常生活の各人の動き、しぐさ、目配せから、ここでは主役となっている6歳の長女をはじめ、よちよち歩きの子供までが実に自然に生活している様子が記録されていることだ。 遊ぶあいだにお互いが声を掛け合い、体に触れ合い、時にはよちよち歩きの長男が次女の顔をぶつのだが次女はそれに対して弟の顔をぶち返すというようなことをせずそれでも背中をたたき返し、それに対してまた弟は姉の頬をぶち、姉がまた背中を、、、ということが2度、3度と繰り返され、それで姉がやめて自然にまた和やかに遊びがつづく、というような映像が続けばこれは演技ではありえないことは確かで、このような映像をシナリオの中に各所にちりばめている結構はドキュメンタリー以上に遊牧民の家族の真実を映している。 この段階ではこれが実の家族だとは知らなくてあまりにもそれぞれのつながりが親密、信頼による落ち着いたものであることに感動もし、夫婦の自然さに上手な演技であり、父親の羊の解体、薪を割る様子の技、母親の煮焚き、乳絞りの手際のよさなどに俳優の訓練された手際と感心していたものだが子供たちの実の親で実の生活だと知ってそこには普通のドキュメンタリーにありがちな素人臭さがないことに改めて驚き、誠に暖かくて愛情にあふれた家族の映像に接することで我々の胸は幸福感でいっぱいになるのだ。 

父親が子供たちを抱き上げほお擦りし額に接吻する様子とこどもの自然な反応をみるといい。 家の中にはテレビもラジオも冷蔵庫もなく見晴らす限り大草原の中にみすぼらしく立つ風車は裸電球一つだけを発電するためのもので母親が歌う歌が子供たちの脳に生涯刷り込まれるそんなプロセスをそこに観るときにはそれに加えて風や雨の音、草、羊の匂いも当然刷り込まれていることも理解できるだろう。 刷り込まれた歌がそれから60年後、70年後に歌われるとしてそのときには多分次世代は同じ生活を続けているということはなく、ノスタルジーとして思い起こされる種類のものとなるのだろう。 だからヨーロッパにすむ映像作家は未来に再度思い起こされるべきものとして本作を残したのではないか。

6歳の長女はすでに町の学校に寄宿していて草原を移動しながら生活する家にずっと住み着くということはないからここでの何世紀にもわたる遊牧民の生活にしても将来もこのように続いていくという保障は何もなく、父親はこどもに教育を受けさせることを当然のこととし、教育負担のことを考え町に定住して現金収入の道を考えるようなこともいう。 次世代には自分が受けた以上の教育をつけさせて、と考えるのはどこの親でも同じなのだがここではまだ受けさせるという選択ができるような気配はあり、じっさい猟師との会話では狼に羊が襲われたときには昔は遊牧民たちが集まって狼を狩り出したものだが今ではそれも猟師の数が減ってできなくなり、、、、というようなことから伺えるように遊牧民の定住化が徐々に進んできて伝統的な遊牧生活がなくなっていくようなことが示唆されている。

子供を育てた経験のあるものにはよちよち歩きから6歳までのこども3人を広大な草原の中で羊の放牧とヤクを何頭か飼いながら夫婦二人で育てる光景を見るとき、その親の気苦労に疲労を覚えることもあるだろう。 それはよちよち歩きの子供をまだ4つ5つの娘に看させて母親は作業に出かけたり遠くに出かけて戻らない6歳の長女を探しにでかけるのだがその間にも下の子供二人はテントの家の中に取り残され、というよりそれが普通なのだから取り残されていると意識は子供たちにはなく、何時間も幼い子供たちだけで過ごしてそのうち暗くなっても明かりもない空間で眠っている、という風景でもある。 

6歳の娘には家族の仕事分担が子供のできることとして課せられている。 たとえば草原に散らばったヤクの乾いた糞を木切れでつついて背負った籠に放り込みもどってくること、これは煮炊きの燃料になるからこの仕事が重要なことであるのは子供にもわかっている。 羊の群れを馬に乗って引き連れながら移動することも課せられた仕事でありこの作業のためには既にこの歳で馬を乗りこなすことはできる。 父親が狼に殺された羊の皮を売るために町に出かけた2日間は家族の生活のためには6歳の子供も親がする放牧の一部分を分担する用意ができていて、それは古来からあるここでの生活様式であり当然のこととして身につけられているのだ。 6歳にして労働する少女であるのだが、そう書くとインドやアジアでの児童労働という風に響くかもしれないがここではそれと明らかに違う点がある。 小さいときに我々が買い物籠を渡されててくてくと歩いて隣村の店までお使いにいくことであり、一年で一番大切で忙しい時期の田植えや稲刈りを手伝うことであり、それは家族の生活形態にミニチュア成員として子供が参加できる誇らしいことでもあるのだ。 貧しく工場ともいえないところで自分たちとは何の縁もない世界の有名ブランド製品を一日中単純労働をして過ごすこどもたちとはその労働の質はちがうのだ。

我々が本作で見るものは根源的な人の生活であり世界がどのように動いていくかということを示す話であり、だからそれを映像で話として束ねるタイトルは重要だ。 「天空の草原のナンサ」というような情けないタイトルではだれもが「アルプスの少女ハイジ」のまがい物かと想像するに違いない。 ハイジがスイスかオーストリア民族衣装をつけてアニメとして20年ほどまえにヨーロッパに逆輸入され子供たちを無意識的に日本アニメに引きずり込む働きをしたのとは違ってナンサの世界はアニメにならずお話が現実世界として我々の眼前に提示されるのだからそのタイトルとしては単に甘い夢物語をさそうものでは失格である。 6歳のこどもの世界観を形成する、その世界観はこの草原に住む何世紀にも亘る人々の世界観を形成してきた寓話に関わる本作の原題「黄色い犬の住む祠」でなければ本作には背骨はとおらないだろう。