暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

自分が働いていた辺りの250年前を見る

2019年03月31日 19時01分11秒 | 思い出すことども

 

市立図書館で古いライデン市の風景画や古い写真を集めた本を見ていた。 そこに一枚の銅版画があり見覚えのある建物があってその記述を読むと1750年頃のものだと示されていた。 ここは自分が1986年から29年間通っていた職場がある場所である。 正確に言えばオランダ国立ライデン大学の日本学科の建物だ。 実際の建物はここに見える塔のある建物ではなくこの後ろで、今でも、この銅版画の右奥にある門とそのそばの小さな橋はそのままある。 門を抜けて二列に並木がある通りは豚市場という名前がついていてこの当時には定期的に豚の市がたっていたところだ。 今でもそんな名前が付いた通りや広場が町のあちこちにある。 例えば魚市場、鰻市場、羊市場にチーズ市場や糸(繊維)市場などだ。 門の左の奥に見える風車はレンブラントの父親が持っていた粉ひきの風車で、今は形が変わった風車が再建されてボランティアが定期的に粉をひいている。

この正面に見える建物は今はない。 当時ここは町の自警団の建物で広場は射撃の練習場になっていた。 多分この時代から50年ほどでこの建物は取り壊されてこのサイズの2割ほど大きな塔のない建物がここから門のあるところまでずらせて建てられ、それが兵廠となりこの場所は兵隊の訓練にも射撃練習にも格段に広くなったようだ。 それが自分の働いていた建物で、それはこの正面の長さで言うとここに見える左側に馬に乗った男と子供が見えるあたりまであるようにおもう。 だからこれの2割は大きいように思う。 なお自分のいた建物の通りは兵廠通りとなっている。

正面に見える建物は今はなく、今はそこには左手前の自警団の男が二人いるあたりまで3階建てのフラットが建っている。 尚、この絵の画家が立っているところにこの水路を渡る橋があり、ここを毎日自転車で渡り水路に沿って桶を両肩から下げている男のところを二人立っている男の方に左折すれば日本学科の旧兵廠の建物になる。 その建物は1980年頃に改修されて中国語科、韓国語科、日本語科が入っていた。 けれどこのアジア学科は去年運河を越した大学図書館あたりの味気のないコンクリートの建物に移動することになって自分が長年働いた建物は歴史的価値からさまざまなイベント会場になるらしかった。 

今この版画を眺めていると現在と過去が交差するような気分になる。 それを引き出す契機になるのは奥の門と小さな橋だ。 橋のすぐ右の角には奥に見える風車でひいた粉をつかってパンを焼くうまいパン屋があって昼にはそこで好みのサンドイッチを作ってもらって昼食にするのが常だった。 昼食時には学生で小さなパン屋は入りきれなく待つものが橋まで溢れていたから自分はいつも時間をずらせて行った。 水路は今もそのままで右の通りで婦人が二人歩いているところの家だけはいまでもその形を残しているのではないか。 そして水路を手前に50mほど行けばシーボルトが江戸時代後期に日本から持って来た植物が植わっている植物園がある。 


路上の怪しい姿

2019年03月17日 10時12分07秒 | 思い出すことども

 

家庭医のところで足に出来た豆を診てもらったあと歩いて近所のスーパーに行った。 その途中で路上にフワフワというかパタパタというか何か風船とかパラシュートかのような布がはためいていた。 その動きが面白いので足を止めて幾つかシャッターを切った。 何か剽軽なようでこちらを誘うようなそんな動きにもとれなくもない。 まるで西洋演劇の中でときどき現れては主人公をどこかに導こうかというような狂言回しのようだと思った。 

そのとき昔学生だったとき一度だけ誘われて演劇をやったときのことを思い出した。 1974年ごろだっただろうか。 ジャズと写真に明け暮れていた。 伊予松山の下宿の近くに山頭火も逗留したという寺がありその離れに友人が住んでいてそこに胡散臭い仲間がつるんで集まっていた。 友人は演劇部の部長で当時のことで状況劇場の赤テントに完全にはまっていて自分でもそのような戯曲を書きそれをやろうという。 部長ではありながら演劇部員からは完全に浮いていた。 アクが強すぎるのだ。 すべてに過剰なところがある男でいつも高下駄を穿き由比正雪ばりの腰まである髪をなびかせて肩で風を切るようにノソノソと歩く大男だった。 他の部員は保守的でそんなアヴァンギャルドな現代演劇を解しないばかりか彼の提案にことごとく反発し演劇部の活動はほぼ停止していた。 

彼の下宿につるむ連中は胡散臭いものばかりだった。 酒を飲む金もなく安物の茶でうだうだと写真や美術、音楽、ことにロックやジャズ、文学のことを暇にあかせて喋り合った。 学生運動のセクトに参加している者もいたから議論にはことかかなかった。 自分は演劇にはそれまで関わり合いがなかったけれど唐十郎のものを彼に勧められて幾つか読み面白いと思った。 出演者5人ほどで彼がでっち上げた唐十郎もどきの1時間ほどの戯曲を公演した会場は場末のキャバレーだった。 だれかがただ同然で手配したのだったけれどその夜何人客が来たのか覚えていない。 自分がチケットを周りに配ったかどうかも記憶にない。 とにかく我々の目的は人が来ても来なくても公演するということだった。 

そこでは何故か主演をやらされた。 唐の戯曲では主演より狂言回しに重点が置かれておりここでの主演は添え物だった。 けれど誰もが猛烈なスピードで台詞を畳み懸けるように進める演題はやっていて気持ちが良かった。 今ではその内容、筋書きも覚えていない。 生まれて最初で最後の舞台で主役だった。 小学校の学芸会などでは舞台端の樹だったが、それまでの華はカトリックの幼稚園でクリスマスの折りにキリスト誕生の劇で東方の三賢人の一人になったことだった。 一番可愛い何とかちゃんはセルロイドのキリストを抱く聖母マリアでその子をぼおっと眺めていた。 台詞はなかった。 

よくもそんなテント芝居まがいのものをやったものだと思う。 それはひとえに友人のねじ曲がった演劇部員に対する怨念のなせる業だったにちがいない。 それに自分たちが付き合わされたということだ。 授業にも行かないものたちが何かやったというちっぽけな達成感は一晩くらいは皆感じていたのではないか。 ただそれだけでテント芝居まがいのものをやったのではなかった。 その公演を始めるにあたって実際に赤テントの公演を観ようといいだした首謀者は広島大学演劇部とも交流があり広大のキャンパスで赤テントの公演があるのに合わせ我々仲間がそこに出かけたのだった。 その迫力は度肝を抜くものでそこに居るもの全てを魅了した。 そのときに魁偉な体躯に白粉を塗り舞台を駆け回り、遂にはテントの外に消える麿赤児にはみな甚く感動したものだ。 その姿をもうほぼ半世紀も経って異国の曇り空の通りでオートバイに被せたものがはためくのを見て一瞬幻影を観たように感じたのだった。  尚広島では友人が赤テントと交渉をしてその後何週間かして愛媛大学のキャンパスでも公演をする手配を整えて戻ったのだが自分は何かの用事があったのかそれを見逃している。 だから狂言回しのフワフワした動きを本当にあのテントのなかで見たのかどうかは記憶としてはっきりとはしなく、ただ薄暗い路上にフワフワしたものをみたことでそう思っただけかもしれない。


おんごろおんごろ

2019年02月27日 17時21分31秒 | 思い出すことども

 

 

朝食を摂っていた。 抗癌剤の副作用か歯茎が弱くなって場所によっては痛む。 硬いイタリアパンをオーブンで焼いてそれにツナペーストを塗って齧った。 噛むと痛むので普段のように噛み切れず奥にパンを押し込んで奥歯で噛み切った。 そうすると塊が大きくて口の中でごろごろする。 前歯で噛まず奥歯辺りをごろごろ廻して時間をおいて少し湿り気で柔らかくして何とかかみ砕き喰った。 そのとき急に、ああオンゴロオンゴロするなあ、という言葉が口から出た。 こんな言葉はもう50年も60年も聞いてはいないし自分でも口にすることはなかったのだがパンの塊を口の中で転がしている時にふと湧いて来たものだ。

大阪の南部の村で育った。 田舎の言葉を馬鹿にしていたきらいがあるがそれが見直されたのは高校の時だ。 あるとき祖父が使う単語を古語辞典で調べると載っていた。 殆ど普段は誰にも使われない言葉なのだがそれが古いものとして確かに登録されているのをみてこの土地の歴史と祖父の言葉を見直した。 例えば、あいつはむさんこなことをする、という。 ものを考えずに無茶なことをする、という意味なのだがムサンコと音だけ聞いていると何のこともないのだが表記になると「無算考」と甚だ分かりやすい古語となる。 だから暇なときはその時々で方言に出てくる言葉を漢字表記でどうなるのか古語辞典にあたっていたことがある。 けれどそんなことは系統だってするわけではないのでそのまま雲散霧消していた。

そこでこのオンゴロオンゴロだが祖父の口からは聞いたことはなく母が言っていたのを覚えていてそれも食うときに聞いたのではなかったか。 やはり自分が今イタリアパンの塊を口にして苦労しているような事態に似た状況下だったのかもしれない。 オンゴロオンゴロする、は副詞+動詞なのだろう。 おんごろい、や おんごろな、と言う形容詞にはならない。 オンゴロという言葉を繰り返す。 動作や動きを表すオノマトペなのだろう。 だから名詞ではなく副詞なのだ。 口の中でおんごろおんごろさせながらパンを喰う。

そのとき単に音が似ているからかこれも久しく聞いたり発したりしたことのない「どんごろす」という言葉も思い出した。 ドンゴロスは百姓家の納屋の中に転がっている穀物を入れる粗い麻袋で感じとしては薄い物より厚みと重みのあるもののことを言っていたような気がする。 それでは薄いものはどう言ったのかというとそれは聞いたことがないか知らない。 袋だけではなくそんな麻袋の分厚いものを穀物を干すのに使う敷物にしたものもドンゴロスといっていたのだから必ずしも袋という意味だけではなく生地のことを指していたのかもしれない。 おんごろおんごろ と どんごろす である。 何か重みのある物がのっしりと転がっているようなイメージが湧く。 60年も時と場所を隔てて急に頭の中に湧いてくるのだから記憶というか脳の働きというのは不思議なものだ。 

 尚この文を書くのにネットをあたっていると「おんごろ」はモグラだというのが出ていた。 あのモグラが口の中で転がるようだったのか。 なるほど口の中、土中であの丸いものがごろごろするイメージだ。 そういえば祖父が田んぼで、盛り上がった土の下に「おんごら」がいる、と言っていたのを思い出す。 それにドンゴロスの語源は麻袋 dungaree(ダンガリー)だというのには思わず笑った。


' 18 秋季帰省覚書(3) センチメンタルジャニー;レコード屋

2018年11月22日 22時24分24秒 | 思い出すことども

 

今回の帰省では地元の町の駅近くの宿屋に16泊独りで滞在するという比較的ゆったりとしたものだったので外に出かけるときには日付が変わる前に戻ってくるという日が続いたけれどこの町にいる日も多かったから自然と駅近くを散歩したり食事を摂ったりしてそんな時嘗て自分の住んでいた村からこの町に自転車でよく来たことを思い出しそのあたりを歩いては少々感傷的になることもあった。

そんなときにところどころで思い出を喚起するものにカメラを向けてその感傷を記憶しようとしたけれどそれも覚束ない。 けれどもその中でとりわけ今は寂れた通りを歩いていてはっとしてカメラを向けたものがあった。 その一つがハヤカワ楽器店だった。 

自分が小学校の5年生のとき学校に鼓笛隊が出来、その小太鼓となり6年生のときには背丈が平均より高かったから指揮者にさせられた。 田舎の農家で家には楽譜を読める者もピアノもなく母親は簡単なターンテーブルを買ってそれをラジオのスピーカーにつなげてレコードを聴けるようにした。 そして最初に買ったのは当時ペラペラな色付き透明のビニール盤のソノシートと呼ばれるものだった。 ライトクラシックと呼ばれる曲が入っていたと思う。 エリーゼのために、か何かだったかもしれない。 それにドーナッツ盤で表はビートルズの「I Want Hold Your Hand」、裏面がルイアームストロングの「Hallo Dolly」という奇妙なレコードも買った。 それが1962年、63年のことだ。 それは東京オリンピックの前年でこれを機に我が家にも白黒テレビが来ている。 その後中学校に入るとテレビではミッチミラー楽団をメインにした音楽番組が放映されていてそのなかで当時封切りになった「大脱走」や「史上最大の作戦」のテーマがミッチ・ミラー楽団で演奏だれていることからそれらが入ったLPを買っている。  そして中学の時にウクレレも手にし簡単なコードを弾くことを覚え始めた。 それから高校になるとステレオセットやギターを買ってもらい何故か最初のLPが渡辺貞夫「ボサ・ノヴァ’67」だった。 今を思えば自分のジャズ入門はボサノヴァで始まっていた。 

このように自分の音楽経歴の端緒となる音源・楽器は全てこのハヤカワ楽器店もしくはハヤカワのレコード屋からもたらされたものだ。70年代になってこの駅の山側にロータリーや商店街ができてこの浜側が一挙に廃れた。 かつての国道26号線の浜側にはこの町で一番賑わった春日町商店街のアーケードがあるが今ではシャッター商店街の見本ともなるものでその衰退ぶりは目を覆いたくなるほどである。 今はイオンモールにみるような大駐車場を備えたショッピングモールでなければ集客も出来ずこれら旧商店街のような車も入れず駐車場もなく家族連れで来れるようでもない歯抜けの商店街には年寄りの店主たちが暇を持て余し気味に通りを眺めるだけの景色が続く。 何年か前に叔父の家に土産にするのに上等の牛肉を買った肉屋も今はなくこの商店街には生鮮食料品店は魚屋と天婦羅屋だけになっている。

このハヤカワ楽器が駅の山側の新しい商店街に越したのは80年代の中頃だっただろうか。 だからこの店がそのままの姿でまだここにあるというのは驚きだ。 30年以上そのままで残っていたのだ。 ここから持ち帰ったレコード、LPは日本の家を整理したときにオランダに持ってきてそれらは今でも屋根裏部屋にある。 500枚ほどあるLPはほとんどが学生時代に松山や大阪で集めたものでハヤカワのレコード屋から買ったものは余りないものの自分の音楽遍歴の端緒となったものでありそれは今から55年ほど前にここから始まったのだった。


ほぼ60年前の写真を見ていると、、、

2018年10月18日 00時21分21秒 | 思い出すことども

 

市の図書館でこの町の写真を眺めていた。 新しい写真は兎も角として古い写真が面白く、この100年ぐらいの町の変遷を眺めていると日本の明治・大正時代にあたる時期のものには現在も建物が残る地区や通りがそれと分かるものがあっても懐古調ながら、1970年頃からの写真には自分もちょっと前にそこにいたような気分になるのは日本の当時の様子と比較すると写真に現れた雰囲気が同じようなものをもっているからだろう。 そんなときあるページに見覚えのある景色が映っていた。 それは我が家の前の景色であって建物も配置も今と殆ど変わっていない。

1959年7月5日日曜日と記されている。 家の前の運河沿いの写真で夏の一日である。 今からほぼ60年前、景色は今とほとんど変わっていない。 我が家の並びは1958年に建てられているからそれはこの写真の前年のことである。 奇しくも昨日の日記に近所の蔦が這っているフラットの壁のことを書いたのだがその壁が我が家のものと相似であると書いた。 その我が家の壁がこの写真の左端に映っている。 ここにハーグから1991年に越して来て暫くしてからこの並木の木が害虫にむしばまれ感染を防ぐ為に切り払われたのだが、写真の木はこれからまだ30年ここに立っていたことになる。 それから若木が植えられてほぼ30年、今ではその苗木であったものがかなり大きく成ったとはいえまだ写真に見るほどまでは行っていない。 1983年頃グロニンゲンで知り合った今の家人のライデンから遠くない生家に北の町から来た時にライデンに来て車でここを通ったことがあった。 その時はまさかそれから7,8年後にここに住むことになるとは夢にも思わなかったけれどその時、この運河沿いの大木の並木とそれに続く風車の景色に感銘を受けたことを覚えている。 

60年前の長閑なことはこの写真に見られるように、暑夏のピクニック、水遊びが運河とその堤・路肩で普通に家族連れで行われていることだ。 このような風景は今では考えられないことだ。

1959年というのは自分が大阪南部の小学2年生、ヒロコちゃんと一緒にクラスの級長になった時だ。 製麺所のヒロコちゃんは輪郭のしっかりとした可愛い女の子で何かの時にはクラスの代表として自分と並んで立った。 意識しないではなく好意は持っていたけれど恋心というところまでは行っていなかったのではないか。 ヒロコちゃんとはちゃんと話したこともないけれどただ一つだけ覚えているのは鉛筆の握り方とちょっと字を書いてはくるりと鉛筆を回すやり方に、同じだね、と言ったことを覚えている。 彼女の返事はどんなものだったか記憶にないし会話らしいものはそれだけだったように思う。 5年か6年のときも一緒に級長になったかもしれない。 中学校、高校とも同じ学校だったけれど同じクラスになったこともなく、話したこともない。 ただフォークダンスの時に偶然順番が回ってきて手を握ったことがあったかもしれない。 そういえばヒロコちゃんの消息は同窓会でも聞いたことはない。 存命ならもう何人も孫がいるだろうしその孫たちにしても我々が級長だったときよりも大きく成っているに違いない。 どうして急にヒロコちゃんのことを思い出したのかというとそれは1959年だったからだ。 今自分は写真の場所にいるけれど写真が撮られた時には大阪南部の田舎にいて、もうすぐ夏休みが来るのを楽しみにしていた小学2年生だった。


白鳥に頭を撫でられたこと

2018年09月06日 18時23分22秒 | 思い出すことども

 

この間青空マーケットで生鰊を喰っている時にカモメに攫われたことをここに書いた。 そのときその無礼で傍若無人なカモメが自分の頭を羽根で張り倒す形に自分の昼飯を咥えて行ったのだがこれを後で思い出して苦々しく思っていた時に、そういえば鳥の羽根が自分の頭に触れたのはそれが初めてではなかったことを思い出し、初めての時はこのカモメの時のように腹を立てることもなく、それをむしろ今では懐かしむような気持になっていることを思い出しつつ、だからそのときの事をここに書き留めておくのも一興だと思い、散歩の途中その場所にでかけて写真も撮ってきたのだった。

それは自分が1986年にライデン大学で教え始めて10年ほど経った頃だろうか、だからもうかれこれ20年以上前になる。 自分の部屋は18世紀の兵廠を一部改築した静かな歴史的建造物の中に在り、そこからさまざまな建物にある小教室にこちらから出向いて行って授業をする。 16世紀にオランダで最初の大学が設けられた記念碑的な建物でも授業をしたし、一方、1980年に建てられたモダンで醜い工場にも見えなくもない建物の中にある視聴覚教室でも新しい機器を使って語学の授業をした。 運河に架かる橋を渡って向かいの大学図書館の並びにも地域研究、言語学、社会学等の研究棟がありそこにある小教室に橋を渡って出向くことが多かった。 当時は今の様にコンクリートの薄い橋ではなくごつごつとした木の橋が掛かっており、その下をボートで行く者は皆背をかがめて橋の下を通り過ぎていたから今よりかなり低かったのではないかと思う。

いつもなら時間に追われ橋の往復はセカセカと足早に通りすぎるのにその日は時間の余裕があったのだろうかノンビリと歩いていた。 雪は降っていなかったけれど寒く11月から12月の初めだったかもしれない。 その理由はどんよりとした空ではあるけれど急いで暖かいところに入り込みたいというほど人を追い立てる寒さはまだそこにはなかったからだろうと思う。 橋の中央まで来た時に運河の先100mほどのところにあってレンブラントの銅像が袂に建っているあたりから一羽の白鳥がこちらに向かって飛び立ち始めた。 KLMオランダ航空のコマーシャルにもあったように白鳥が飛び立つのにはその体を持ち上げてバタバタと水面を脚で叩き徐々に離陸する、いやこの場合は離水か。 そんな場合、他の小鳥とは違い身軽に飛び去ることはできずジャンボジェットなどの場合と同じく直線的に先ず高度を徐々に上げてから進路を決める。 こちらに飛んでくるので初めはその距離の短さからひょっとして自分の立っている橋の下をくぐっていくのかとも思ったもののここは一気に上昇して過ぎるのが筋だろうと思った。 けれど白鳥の真正面には自分がいるしそれは向うにも充分承知のはずだ。 だから右か左に少しずらせるか力任せにかなり自分の上方まで高度を上げて過ぎなければ白鳥にとっては危ない瞬間が訪れるはずなのだ。 けれど白鳥は精一杯羽ばたいているのかそのうちキシキシという羽根音まで聞こえ自分に向かってまっしぐらに進んでくる。 その時にはもう橋の下をくぐるには遅すぎるしそれで力いっぱいだとして自分の頭3つ4つ上を行くには弱すぎるようで左右の羽根の調整をする余裕もないのか方向も変えない。 自分は始終動かず見つめていたからただの棒か杭のようにも見えたのだろうか、自分に向かって一直線に飛んできて一瞬パサッという音が聞こえ頭を羽根で撫でられた感触があった。 振り返ると白鳥はそのまま少しづつ上昇していきシーボルトが日本から持ってきた植物が植わっている植物園とアインシュタインが天空を覗いていた天文台の望遠鏡がある棟の方に飛び去った。

あの白鳥にしてもよくあんな風に危険を冒してまでも橋を越えて飛んだものだ。 あるときに飛ぶのを止めるとか橋の下を潜るというような決定ができたものが、ええいままよ、という気になったものだろうか。 もし若くてすばしこい者がここに立っていてその上を飛んでいったのならその若者は飛び上がって白鳥を捕まえようとしたかもしれず、もしそうしていたならば出来ないこともないかもしれないのに敢えてそれをやったその気概というか必死さに感心したものだ。 ただ自分を橋の上から眺めているだけの人間には危険を感じなかったのだろうか。 

日頃水辺で2,3羽の雛を従えている親鳥の白鳥の外敵に向かう威嚇力の激しさは人間や犬さえ距離を保つほどなのは承知しているけれど真正面に一直線に飛んでくる白鳥の無防備な印象とは違う。 あの時のことを思い出すと何故か懐かしさのような想いが湧いてくるのだがその理由は何故なのか分からない。


初めてのカメラは Start 35 だった

2018年04月21日 18時55分17秒 | 思い出すことども

 

 二年ほど前に自分のものとなった初めてのカメラについて、そのカメラで幼稚園児の自分が撮った母の写真を載せて下のように書いた。

https://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/65012678.html

そのときそのカメラがどんなカメラだったか思い出せないと書いたのだが今日偶々古書店でドイツのプライベート博物館のカタログを見ていてこれだと思うものがそこに載っていた。 時期的にみてもここに記されている Start 35 のようだ。 形といいシャッターノブの形状も懐かしくシャッターの押し具合まで蘇ってくる。 家に帰って更に資料がないかとネットを検索していると次のようなものが出てきてこれではっきりこの Start 35 が自分が1956年の夏に父にもらった一光社製トイカメラであることを確信した。 

 http://camera-wiki.org/wiki/Start_35

写真を見ていて組みひものような子供にはちょっと太く感じられる黒い紐、小さな四角いサイコロが乗ったような覗き穴のファインダー、フィルムを脱装着するのに開ける上蓋についた二つのネジをみるとどのように開け閉めしたかその感触や、その内部を示した写真では蓋を取ってからフィルムを装着するための薄いブリキ細工のようなフィルム押さえの感触、ちゃちなシャッターなどが目の前に在り、もうほぼ60年前の記憶が鮮やかによみがえる。 

6つの時に貰って10ぐらいまでは使っただろうか。 10歳になったころには壊して使い物になっていなかったからカメラに関しては自分が使えるものはなく、叔父のキャノネットを眺めていた。 このカメラで撮ったといっても父に貰っただけの2,3本のフィルム・ロールを使っただけでその後は買ってもらうこともなくだから現像にだすこともなかったのではないか。 父と別れてからの母にはそんな玩具にかまっていられる手間も金銭的余裕もなかったはずだ。 だからこどもの時の記憶は空のカメラをカチカチとシャッターを押したり蓋を開け閉めしていて遊んでいただけなのだろう。 だからこの写真を見ただけでそんな感触が蘇って来たのではないかと想像する。 だから自分でフィルムを装着するようになるのは高校の秋、写真部に入ったときに買ってもらったペンタックスSVの金属製のパトローネに入った35mmフィルムまで待たなくてはいけなかった。 このトイカメラには変則の紙が巻かれたフィルムが使われておりそのことは覚えているものの脱着の感触の記憶はほとんどない。

半年ほど前に買った新しいカメラにやっと慣れてきてほぼ45年前の写真をやっていたときの興味が戻ってきたような気がしている現在、自分が初めて手にしたカメラのことを具体的にその資料に接して60年ほど前の感触が蘇ることに感動しつつ不思議な気持ちになったことは記憶してよい。 何かの具合にその他の記憶がまざまざと新鮮に蘇る経験はこれからもまだあるのだろうか。


未だに心にチクチク残るもの

2017年11月14日 16時12分34秒 | 思い出すことども

 

 

このあいだ川上未映子の小説「「苺ジャムから苺をひけば」を読んで次のように記した。

https://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/65817433.html

その中に主人公・小学校6年生の女の子の親友、麦君が元気のいい女子グループのリーダーから、そのうちの一人が麦君に好意をもっているので付き合えと強要されるエピソードがある。 その女子リーダーの押しの理屈と弱気で煮え切らない麦君、それに憤る主人公がよくできていると思った。 ここまできて自分に起こった、これに似たエピソードのことを想った。 それから半世紀以上も経ってそんなことを思い出し心にチクチクするものがあるのを覚える。 麦君の場合はその後麦君に好意を持っていた女の子が他の男の子に興味が移ったので事なきを得たが、自分に起こったことは中途半端な宙ぶらりんで自分には何とも後味の悪いものとなった。 その後味はあとになるほど苦くなる種類のものだった。

中学3年のときだった。 あるとき同じクラスの或る女の子が自分のところにきて、となりのクラスのKさんはvogelpoep君のこと好きなんやて、と言った。 多分そのときの反応は、自分に寄ってきてそのことを告げるKさんの友人のすこしニタニタしたような物腰と下から見あげるような目つきに反発しただけだったのだろうと思う。 麦君が言われたように付き合えというような強制でもないしただそれだけだった。 そのとき咄嗟に、俺、あのこ嫌いや、と言ってしまった。 それだけでことは終わった。 実際そのKさんとは同じクラスになったこともないし話をしたこともない。 同じクラブに属していたわけでもない。 Kさんのことは一切しらないし好きも嫌いも考えたこともない。 ただ、同学年に生徒は300人以上いるといっても3年間一緒にいれば名前は別としても顔はうろ覚えでもなんとか判別はつく。 思い返してみると端正な顔つきでそれまで自分の意識にのぼるようなことは一切なかったから咄嗟の自分の反応に驚いて後になるほど何か罪悪感のようなものが胸の奥に蓄積し始めていた。 鈍感なことにその居心地の悪さと罪悪感は中学生の自分にはまだ充分感じられていなかった。 

居心地の悪さを感じ始めたのはそれから何か月も経って高校に行くようになってからだ。 私鉄の電車通学で田舎の駅から4つ目で降りて少しばかり歩くと城のそばに自分の高校がある。 Kさんは同じ町の別の高校に通うのだが田舎の駅は同じだからたまに顔を見かけるときがある。 それから居心地が悪くなり始め、何か罪悪感がつのりはじめる。 どうしていいか自分でもわからず向うにKさんがいるなと分かると避けるようになる。 

居心地の悪さと罪悪感は自分が咄嗟に放った、嫌いや、という言葉に起因する。 好きでも嫌いでもない晴天の霹靂だったのだから、嫌いというのは本当ではない。 嫌いというのは好きの反対で、好きだという意識はなかったからこどもの条件反射的な反応から咄嗟に嫌いと言ってしまったのだろう。 その時点ではその言葉を受け取った相手に対してどのような反応を与えるか鈍感な自分には思いつきもしていない。 いわば防衛本能のなせる業だったのだろう。 藪から棒に鉄拳が跳んできたのでそれに条件反射的に反応した、というところだろうか。 それにしても少々の怒りがあったのではないか。 なぜ自分で言いに来ずわざわざ他人にあんな目つきで言わせるのだろうか、という気もあったのかもしれない。 自分ではほのかに気に入っていた女の子に自分から言い出せないまま、言ってどうするということにも思いが行かずただうろうろとしていたくせに他人のことが分かっていない。 

高校の帰宅時、田舎の駅でプラットフォームから降りて駅を出るまで向かいの線路に来た電車が行き過ぎるのを待つ間遮断器のところで待つ人の中にKさんがいるのに行き会って一瞬彼女と眼が合ったことがある。 その後彼女は何事もなく自分の先を歩いて改札を出た。 そのとき自分は逡巡していた。 何か話しかけなければならないと感じ、けれど何を話していいのか分からず、それは自分の言った言葉に対する釈明と謝罪であるのだが、一方でそんなことをして何になる、という気もしていた。 あんなことは一過性のことで彼女は自分のことなどどうとも思わず、それ以上にあれ以来嫌われているのに違いないのだから恥の上塗りをすることはない、という囁きも聞こえていたようだ。 それ以来Kさんに会うこともないし消息もまったく聞かない。 高校の同窓生とは緊密に親しく交わってはいるけれど中学の同窓会というのは経験がないしそういうことをするというのも聞いたことがない。 もしそういうものが今あって彼女がそこに来ていたら今ならそのときのことを話して侘びることができると思う。 そんなことがあったかどうか思い出せない、と彼女が笑いながら言うのが大方の予想なのだが、、、、果たしてそうか。

 

foto; Mark Riboud, Magnum  ; Christine Arnothy 日本の女性たち 1959年刊 から


赤子をみて昔を思い出した

2017年11月05日 12時13分07秒 | 思い出すことども

 

 オークションの会場で休憩中に若い母親が体を静かに揺らしながら赤子を胸に抱えているのが見え、その布の巻き方が面白かったので話しかけた。 肌触りのいい厚手の木綿地の長い一枚ものを無造作にぐるぐる巻いただけのものらしい。 誰かに巻き方を教わって何回かやってみるとすぐに慣れるから簡単でいいしそれに布だけだから嵩張らないということだった。 これをみてもうほぼ30年前のことを思い出した。 

我が家に長男が生まれた時、知り合いが自分でミシンをかけて布を輪にして途中を緩く縛った簡単なものを祝いに貰った。 スリングといっただろうか。 これが甚だ使い出がよかった。 いわば小さなハンモックとでもいえるようなもので肩から半たすき掛けにして自分の体の前側に赤子をすっぽりいれてハンモック状にすると赤子は静かになって大抵は安らかに寝る。 外から見ると赤子が入った満腹の胃袋にも見えなくもないが家ではワンダー・アイテムだった。  大きくなって子供をバギーに乗せて移動するまでこの布袋はあちこちに出かけるときには重宝した。 海岸を散歩したり、旅行には重宝した。 ことに長く歩くときにはいくら軽い赤子だと言っても荷重がかかる。 けれどルーズな布であるから肩への負担が普通の紐もしくはリュックサックのベルト状では肩がそのうち痛くなるけれどこれは肩全体を包むような帯状にもなるので負荷が分散して甚だ都合がいい。

生まれて半年ほどたった赤子と日本から来た母親、家人の4人で夏休みに一週間ほどパリの中心部に部屋を借りて滞在したことがあった。 自分たちだけなら夏のパリなど行かないのだが母親がパリの街と美術館巡りをしたいと言う。 それで出来るだけ昼間の暑いときはそれを避ける算段をしたのだがそのときにパリのカタコンベ見物をした。 何百万という遺骨がパリの地下に累々とかつ整然と並べられている常温17℃の地下道を何キロも歩いて巡るのだ。 そこをこのベビー・スリングに赤子をいれて黙々と歩いたのだがその間むずかることもなくすやすやと赤子は眠り、大人たちは粛々と進んだのだったけれどどういう訳かこのスリングを想うとあのカタコンベを思い出す。 

 オランダでは赤子をこのようにして運ぶ若い母親も父親もみるけれど日本のように子供を背中におんぶ紐でおぶるという姿をみることはない。 日本では赤子を背中におぶってねんねこで巻いた姿が昔から見慣れた風景なのだが赤子を前にぶら下げる形というのはあまりないのではないか。 ただ、七五三の宮参りの姿をみれば前に抱えているのもあってそんな晴れ着では寧ろそのほうが普通のように見えるのだがそれには何か理由があるのだろうか。

 

ベビー・スリングの画像

https://www.google.nl/search?q=%E3%83%99%E3%83%93%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwiQsIjDpafXAhXEuBoKHUeIBcQQsAQIUg&biw=1711&bih=899


ジョージタウン大学のカエル

2017年04月09日 15時50分30秒 | 思い出すことども

 

クラロー・ミューラー美術館でバックスキンの皮を何枚も合わせて大きなワニのインスタレーションを展示しているところに行き会ってその愛すべき姿に思い出すことがあった。  

37年前にオランダに来ることになったのは当時グロニンゲン大学の言語学研究所の所長をしていたアメリカ人教授の曳きがあったからだ。 その人は戦中対日戦のための海軍日本語学校で日本語を修め戦後日本に進駐し海軍元帥東郷平八郎の邸宅に住んでいたそうで東大の言語学教授に師事しよく服部先生の名前が教授の口から出た。 朝鮮戦争がはじまると半島に駐留しそこで国連軍将校として赴任していたオランダ人の日本学者と意気投合し親交を深める。 戦前はコロンビア大学で工学と言語学を研究し角田柳作の日本学、仏教にも触れていたが戦後はワシントンのジョージタウン大学で研究しオランダに渡りグロニンゲン大学で教授職を得ていた。 

83年ごろだろうか、教授の引っ越しを手伝った。 離婚した中国系の前夫人がパリに二人の娘と住んでいたから住まいはアメリカから引っ越してきた家財道具一切がガラクタの山となって散らばっており書籍に関しては研究書・資料は大学の今では考えられないような旧式の図書館ほどの自室にぎっしりと積まれ足の踏み場もないほどで教授は実務整理のできない人だった。 郊外の家からグロニンゲン市内に引っ越したときに「ガラクタ」を全て処理するように任された。 衣類・雑貨をゴミに出し使えそうなものを拾い出して当時付き合い始めていて後年結婚することになるガールフレンドのところに大分運び込んだ。 多くのものがアメリカから運んできた1950-60年代のものだった。 例えば今ではダッチオーブンと言われている厚い鋳物の鍋がある。これは今でも日常に使っているし、また庭仕事のスコップ、熊手や長い柄のついた雑草を掘り起こすショベル、ヘラなども今も物置に旧式の方向が変えられる橇と並んで現役としてある。 日本の木の玩具、透明プラスチック製の解剖学セットなど蚤の市さながらで興味が尽きなかった。 娘と彼自身のためには教材の為にかオランダ語のマンガ、「タンタンの冒険」のハードカバー約50冊もあった。 そのガラクタの中でも特に興味深かったものが絹のスカーフ裏表に画かれた東京を中心とする何枚かの地図で海岸付近には曲線がいくつも迫りそこには時間と記号が記されている。 戦時中もしアメリカ兵が日本本土に不時着した場合救助の艦船がそのコースを辿って拾いに来てくれる「タクシー」のコースが描かれたスカーフなのだと説明された。 それは先日DVDで観た戦中に制作された「東京上空30秒」の中で使い方が説明されていたものだ。 それに海軍日本語学校で使われていた違法コピーの研究社の和英辞典がある。 そこには、本品はアメリカ合衆国のものであるので使用後は速やかに当局に戻すこととスタンプの後に教授の名前と兵士としての登録番号が記されている。

それにもう一つそのままゴミに出すには忍びないものがあった。 それがジョージタウンのカエルだ。 セサミストリートのカーミットをご存じだろうか。 彼の襟巻を取り除き表情を面白くなく極普通のカエルにし手足に肉をつけて伸ばした姿が腹の部分が辛子色、その他が薄緑いろのビロードの布で出来ており中に細かい砂が入れてある。 だからいつもぐったりと伸びきって横たわったり捩じれて転がっていたりしてそれを片手で拾えばぐったり手にぶら下がる。 大抵は椅子の背にうつむきに引っかかっていたりする。 手に取って手足の先に溜まった砂を揉み解していると気持ちがよくダランともたれ、垂れ下がるカエルを暫し無意識に弄ぶことになる。 そして不思議なことにだれもこのカエルをどこにでも仰向きにぶら下げたりはしない。 その背にほぼ消えかかった文字でジョージタウンと読めるからジョージタウン大学のマスコットだと思いアメリカの大学にしてはこのようなまるでやる気を放棄したものをマスコットにするなどウイットが効いていると思ったものだが今ネットで見てみると今の大学には凶暴なブルドッグはマスコットとしてあるけれどカエルなどどこにも見えないから妙な気がする。 このカエルも擦り切れて徐々に砂が見えない内に減っていき痩せ細り終に10年ほど前に棄ててしまった。 結局40年以上の命だった。 亀はそれほど生きることはあるけれどカエルでは聞いたことが無い。 その愛すべきジョージタウンのカエルをクルラー・ミューラー美術館の大きなワニを見ていて思い出したのだった。 印象で違うことはこの大きなワニは少々疲れているのか、また世間を憂いているのかここにドカッとうつむいている姿がそういう風に見えないこともないのだが、カエルの方にはそんなそぶりは全く見えずただグウタラにぶら下がっているという風で見ていて力が抜けるとかバカバカしくて苦笑いが出るという種類のものだった。 カエルにしてもワニにしても卵から孵る両生類、と書きそうになったがワニは爬虫類でそこがここでの印象の違いに出るのかそんな訳の分からない理屈をこねてみる。 爬虫類の憂いというのはどんなものだろうか。 それともそう見えるのは「ワニの涙」と言われるウソ泣きの類なのだろうか、そんな振りして近づく我々を引き付けて置いて、、、、、。