暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

イギリス の ケンブリッジ、ノフォーク、サフォーク州 旅行 (6)海岸の湿地帯を歩く

2015年08月26日 18時55分54秒 | 日常

 

一週間ほどのこの旅では行きと帰りのフェリーのキャビンでそれぞれ一泊し、後はテントを張ってのキャンプだった。 早朝に到着して Harwich の町からそのあたりで一番大きな町、 Ipswich の古い町の中心に行き朝食を摂り、その後西に向かい昔の海岸の保養地、 Great Yarmouth では憂鬱になるほどの落ちぶれた町の景観に驚いたもののそこから北上して Sheringham の町から手前に東1kmもない崖の上の教会の傍にあるキャンプ場に一晩テントを張った。 そこから東へ2kmほど離れた Cromer という地元の保養地は活気があり夕食はその海岸沿いにあるホテル・レストランで旨い夕食を採り、だからそののちもう一度ここに戻ってくることになる。

それからケンブリッジの隣村の Granchester というところで知人の夜中のパーティーに陪席するのにそこから4kmほど離れた Comberton という村のキャンプ場 Highfield Farm で2泊、 また海岸に戻って Sheringham から西に15kmほどの Stiffkey Marsh を望む大きなテント村キャンピングサイトに来て2泊した。 今回はホテルに泊まったのは行き帰りのフェリーだけだった。 パラパラと細かい雨はちょっとだけあったものの雨宿りをするようなこともなく幸いだった。  

キャンプで一番気になるのがテントが濡れることだ。 そのときはいいのだが移動する時に困る。 晴れていても例えばアルプスの山の谷間のキャンプ場なら一方の斜面は7時を周って陽が射しても反対側は9時を周らなければ陽が射さないことがあり、そんな晴れた朝の朝露に濡れたテントはある程度乾かさなければ畳めない。 晴れていてもこれだから雨が降る中の出発ならウンザリしつつ仕方なく畳む。 重い、嵩が高い、匂う、すべてが湿気るなどといいことはない。 だからそんなテントの下に敷くグランドシートの裏はいつも湿っているので泥を落としておかなければテントは何年も使えない。 だから乾いたまままで畳めるというのは贅沢である。 

このキャンプ場はグーグル・マップスにも出ていない、A149号という細い海岸沿いの道からよっぽど注意していないと見落とすような Green Way 通りのつきあたりにあるテント中心のキャンプ場だ。 突き当りに注意しないでいればそこから海に落ちる。 我々もこの入口を見落とし引き返し戻ってきてやっと探し当てたというような小路だ。 掘っ立て小屋のような事務所でチェックインすればそこには携帯を充電するためのソケットのジャングルだった。 一回充電料50円也を払い差し込むのだが案の定ヨーロッパの2ピンプラグ用のコンセントはなく、我々が持って行った2ピンからイギリスの平たい3ピンへの変換プラグにつないだら一つだけそれが目立ったので他のと見誤ることはなかった。 100から200はあるかもしれない大小さまざまなテントが勝手にあちこちに張られていてその間をソロソロと車を走らせている間周りの様子を見るのには飽きなかった。 大体今ではキャンプ場でテントを張って旅するというのはマイノリティーなのだからこれだけテントが集まっているのは嬉しかった。 けれど時代は変わりバスや電車、駅から徒歩で来るというのは流石希少価値であり殆どが車に積んでここに来て設営するというものだ。 2世代、3世代、友人、クラブなど家族、グループが多く、概ね開放的で子供たちはすぐ近くの家族の同じような年頃の子供たちと仲良くなりなり走り回り群れを作り喧嘩をしては仲直りをし、大人も子供ものんびりと寛げるようなところだった。 多分昔からヒッピーのたまり場だったのではないか。 海岸緊急救助手漕ぎボートの敷地が元になっていると聞いたしまだ10年に一度あるかないかの水害に備えて数隻のボートもキャンプ場の傍の納屋にあった。 上げ潮の時はそこから20mも移動させればその湿地に出られるのだが夏の今あたりなら引き潮の時は水辺は3kmほど先になる。

自分たちのテントを二つ設営して周りを見て回ることにした。 衛生・調理施設は清潔で、込み合う食事後、朝夕のシャワー混雑時を避ければ概ね問題はない。 敷地のすぐ外は Stiffkey Saltmarsh と呼ばれる塩水の湿地帯だ。 この自然を守るのに二人の今は老人となっている男たちが50年格闘してきて保存の運びとなったものらしい。 そういうボードが立っているところまで大潮のときは水が来てこの写真にある部分は全て冠水する。 一日に2回潮が満ち、引く。 だからそのボードから3km歩いて渚に出てもそこで能天気に水に浸かっていたらその後の満ち潮の速さに追いついていけない場合が多くこの時間がキャンプ場に大きく表示されている。 今はあまりそういうことはないけれどフランスのモンサンミッシェルでも同じことだ。 引き潮の時にそこを歩いた。 家人と息子は泥、海水に対応するために水着にT-シャツ姿だが自分はどうもその気にもなれずマーシュの乾いた土の上を選んで歩いた。 当然ウォーキング・シューズだけれど子供・若者はサンダルでビチョビチョと歩き回っている。 湿地帯ではあるけれど乾いているところを選べば問題ないのだがどこも乾いているとは限らない。 結局は前に誰かが歩いたところを歩くことになるのだがそれだけ見ていれば自分の行きたい方向に向かうとは限らない。 あちこちに水路が走っていてそこに落ちれば1mはある。 こういう水路はカヌー遊びのルートになるのだがもしカヌーがどこかに乗り上げて引っかかり手間取れば潮は引いてしまい悪くいけば12時間こんな何もないところで待たなければならない羽目になる。 自分は左膝のこともあるので3kmもそんなところを歩く気もなく緑が途切れる2km先まで出かけてきた。 二人はその先,貝も海藻もない完全な砂浜をほぼ1km歩いて10分ほど浅い海水の中を泳いできた。 背が立つか立たないかというような深みまで行くにはまだそこから随分沖にでなければならなくそんなリスクを負うバカは周りにはだれもいない。 

自分はのんびり見渡しても誰も周りにいないところを水溜りを覗いては妙な渦巻き型のニュルニュル巻いた形のものを見たりしながら1kmほど戻ると深い水路の上に橋が架かっていて、そこには来るときにはいなかった中学生らしい男女のカップルが木切れとヒモで蟹を釣っていた。 海辺で育ったのではなく町から来て偶々このキャンプで知り合ったのだと言い、屈託なくなんやかや話しながら釣っているので別段釣れなくともいいようなそぶりだった。 十分に性を意識していながらもまだ子供を十分残して他愛のないこういうカップルをこんなところで見るのも悪くない。 彼らを残してそこにあたりの植生を見ているとキャンプでの晩飯に使えるものがあるのに気付いたので喰えそうな大きさのものを摘んで戻った。

 和名ではアッケシソウといわれ、シー・アスパラガスも呼ばれる美しい緑の茎草が見渡す限り育っていて、それと和名ではイソマツ属のスプーンの形に似ているのかハマサジとよばれ、またオランダでは子羊の耳と呼ばれその花が香草のローズマリーの薄紫の細かいものと同じであるから湿原に立つとまるでヒースの平原にいるような気持にもなる葉肉の厚いものが旨い植物で一杯だ。 ただ季節が収穫には早すぎるのか緑のアッケシソウの方は茹でたり炒めたりするだけで旨かったがハマサジのほうは大きいものは見つからず葉に肉もなく採ってきた3分の1ほどしか喰えなかった。

テントのところに戻ってくると強風で隣のテントが倒れていた。 そのまま向うに飛ばされて行きそうだったので管理人に連絡すると持ち主の電話番号があるから連絡するというけれど繋がらない。 向うに飛ばされてしまえばそこからドミノ倒しのように被害が行くだろうから切れたロープの端を繋いでペグを打ち直し何とか保ったがここでは普通は陸から海に風が吹きその先はオランダの自宅あたりだ。 だからここでは潮風がなく湿らない。

暫くして大分陽が陰ってきて息子と家人が膝辺りまで泥だらけにして戻ってきた。 自分は持ってきた本をスコッチをチビチビ食前酒として飲みながら読んでいる間に彼らは前日に買ってあった鶏肉と米に先ほど採ってきたアッケシソウとハマサジを混ぜて夕食をつくり地元のエール・ビールで喰えばキャンプの夕食としては悪くはなかった。 


入れ墨・タトゥー に シトロエンのアンティーク・カー

2015年08月26日 00時48分22秒 | 日常

 

いつもの如く午後遅く起きだして物を喰わなくても腹が満足するようにジェネーヴァを飲んで景気を付けてアイ・ポッドでジャズ・ヴォーカルを聴きながらボロい買い物袋をぶら下げながら自転車を漕いだ。 ゆったりとしたスーパーで何を作ろうかと思案しながらあちこち見回していると時々見る背の低いオバサンがいてちょうどいいと買い物籠をお互いに見せ合って何を作るのか昨日何を喰ったか今晩何にするのかというような話をするのだがそれでもどうしようかというインスピレーションが湧かない。 ま、何とななるだろう。

果物のコーナーで生のプルーンの固さを指で確かめていると横に手を伸ばしてきたのが40前ぐらいの整った体格の男でT-シャツの両腕から東洋の入れ墨に材を採ったような模様が見えて金髪の肌毛の間だから彫り物の色彩の鮮やかさが昏(くす)むけれど美しかったので思わず、多分T-シャツの中まで同じような意匠だと思うけどそれを彫るのに何時間ぐらいかかってるの、と訊いた。 すると彼の顔がぱっと開いてそんなことここで訊かれるとは思わなかったけれど嬉しいね、22-24時間ぐらいかな、何日かかかっているけど、と答えてくれた。 その後野菜の辺りを歩きながら話していて、さっき是非日本に行きたいと言っていたけどそんなもの彫っていては日本じゃ不便だよ、とアドヴァイスした。 ほんのここ最近だっただろうかネットで西洋と日本の入れ墨に対するコンセプトが徐々に変わってきたと読んだのは。 

知人に80年代、日本の入れ墨を研究し、それが今は国際関係の研究者になっている英国人がいてその写真集には魅了された。 ただその美が西洋に受け入れられるのと日本では社会に入れ墨がどのように受容されているかいないかが問題なのだ。 80年代から徐々にハワイやカリフォルニアに行った若者が持ち帰った「タトゥー」はカリフォルニアやハワイの空のように抜けて底がなく入れ墨の屈託などどこにもなさそうで、だから日本に戻ってその落差に70年代の若者は驚いたに違いない。 それも少しづつ海外からの観光客が増えるにつれ、簡単に言えば文化摩擦が裸の場で起こるうちに、それでは東洋人でなければ許容しようという、まだ人種差別の匂いも十分残しながらの裸の付き合いが始まってきたようで、そういうことをこの男に話していると、エド(江戸)とオオサカに行きたいけどどうかな、というのでまあ、あんたならだれもヤーさんとは思わないだろうからそのまま行けばいいのじゃないの、と言ってそこで別れた。 入れ墨とタトゥーこの文化摩擦なのだ。 能天気な Manga と Anime の違いではない。

母が看護婦だったもので、年老いたヤクザの世話をしたときに日頃は皺々の肌が風呂に入った後では輝いて倶利伽羅紋々が綺麗だったということも聴いていたから入れ墨に関係したセックス・ジョークも思い出しそれに苦笑いしつつ入れ墨を入れるのもどうかな、と思った。 もう何人も孫がある義妹には踵に小さな鳥が飛んでいるのタトゥーがある。 もう20年以上前に入れたときに見たものだが彼女には何か思うところがあったのだろう。 BMWオートバイの代理店をしている旦那には右の二の腕にはぐるりと巻いたマオリのデザインがあってそれは悪くない。 自分の息子はそんなことに興味もない能天気だが何か思うところもあるらしい娘はそういうものを入れているのかもしれないがからこの間そんなことを話したときに、私が小さい時にオランダでは自由だけど日本では困るから入れてはだめだ、とパパ言ったじゃないの、と言った。 そんなことを言ったかもしれないけど、今はもう駄目だと言っても聞かないだろう、それに大人なんだから俺の知ったことじゃない、入れた結果を全部背負うというのなら別に何でもいいよ、と答えたのだが別にその後入れたというような話は家人からも聴いていない。

買い物を済ませ、帰路自転車を漕いでいると葬儀社の傍にクラシック・カーが停めてあるところを通り過ぎ、そのフロントを見るとそのエンブレムはシトロエンではないか。 この間ボロいシトロエン2CVのことをここで写真を付けて書いる。 

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/64771472.html

これは余りにもレベルの違うクラシック・カーだったので引き返し戻ってそこにいる年寄り2,3人に話を聴いたりしていると、10年ほど前にフランスのバカンスの折これが売りに出ていたので買ったと言う。 今とは比べ物にならないほどボロだったけど主人が機械ものが好きで仕事もそれだったし家には旋盤や他の工作機械があるからボチボチと5,6年かかって修復したのだとオバサンからお婆さんになりつつある女性が言う。 自分にはそういう趣味も技術も辛抱もないから羨ましく思った。 流石6気筒の排気パイプには錆が来ていて次の課題はそれだと言っていた。 部品が見つからなかったところはブリキで繕ってあるのもちょっと微笑ましかったが、けれどここまで回復させたというのは誇っていいと思う。 1934年か38年製と言っていたから後でネットで調べるとシトロエンのトラクシオン・アヴァンと出ていた。 ドアが今の後ろから前方向に開けるのとは違い前から後ろなのにもクラシックを感じるものだ。 流石に昔の塗装では重いし錆びるので今のものにしてあるとのことだが抹茶色が似合う車だ。

ウィキペディア ; トラクシオン・アヴァン の項

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%88%E3%83%AD%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%90%E3%83%B3


ミッドナイト・イン・パリ (2011);観た映画、 Aug. '15

2015年08月24日 19時33分15秒 | 日常

邦題; ミッドナイト・イン・パリ   (2011)

原題; MIDNIGHT IN PARIS

 94分
 
監督: ウディ・アレン  
製作: レッティ・アロンソン  
  スティーヴン・テネンバウム  
  ジャウマ・ロウレス  
共同製作: ヘレン・ロビン  
  ラファエル・ベノリエル  
製作総指揮: ハビエル・メンデス  
脚本: ウディ・アレン  
撮影: ダリウス・コンジ  
プロダクションデ
ザイン:
アン・シーベル  
衣装デザイン: ソニア・グランデ  
編集: アリサ・レプセルター  
キャスティング: ジュリエット・テイラー  
  パトリシア・ディチェルト  
  ステファン・フォンキノス  
出演: キャシー・ベイツ ガートルード・スタイン
  エイドリアン・ブロディ サルバドール・ダリ
  カーラ・ブルーニ 美術館ガイド
  マリオン・コティヤール アドリアナ
  レイチェル・マクアダムス イネズ
  マイケル・シーン ポール
  オーウェン・ウィルソン ギル
  ニナ・アリアンダ キャロル
  カート・フラー ジョン
  トム・ヒドルストン F・スコット・フィッツジェラルド
  ミミ・ケネディ ヘレン
  アリソン・ピル ゼルダ・フィッツジェラルド
  レア・セドゥ ガブリエル
  コリー・ストール アーネスト・ヘミングウェイ
  デヴィッド・ロウ  

本国アメリカではウディ・アレン監督作としては最大ヒットとなったチャーミングなファンタジー・コメディ。作家志望のアメリカ人男性が、ひょんなことからヘミングウェイやフィッツジェラルド、ピカソといった伝説の作家や芸術家たちが集う憧れの1920年代パリに迷い込み、幻想的で魅惑的な時間を過ごすさまを、ノスタルジックかつロマンティックに綴る。主演は「マーリー 世界一おバカな犬が教えてくれたこと」のオーウェン・ウィルソン。共演にレイチェル・マクアダムス、マリオン・コティヤール、キャシー・ベイツ。また、フランス大統領夫人カーラ・ブルーニの出演も話題に。アカデミー賞では作品賞を含む4部門にノミネートされ、みごとオリジナル脚本賞を受賞。

ハリウッドでの成功を手にした売れっ子脚本家のギル。しかし、脚本の仕事はお金にはなるが満足感は得られず、早く本格的な小説家に転身したいと処女小説の執筆に悪戦苦闘中。そんな彼は、婚約者イネズの父親の出張旅行に便乗して憧れの地パリを訪れ、胸躍らせる。ところが、スノッブで何かと鼻につくイネズの男友達ポールの出現に興をそがれ、ひとり真夜中のパリを彷徨うことに。するとそこに一台のクラシック・プジョーが現われ、誘われるままに乗り込むギル。そして辿り着いたのは、パーティで盛り上がる古めかしい社交クラブ。彼はそこでフィッツジェラルド夫妻やジャン・コクトー、ヘミングウェイといった今は亡き偉人たちを紹介され、自分が1920年代のパリに迷い込んでしまったことを知るのだった。やがてはピカソの愛人アドリアナと出逢い、惹かれ合っていくギルだが…。
 
上記が映画データベースの記述である。 オランダ国営テレビで深夜映画として観た。 出だしからの色彩が少々薄目のウェス・アンダーソンの「ライフ・アクアティック (2005)」を思い出したのだったが作品の質ではアンダーソンの作を採る。 アンダーソンを牽くのは本作主役のウイルソンつながりで牽くだけのことだ。 アメリカでは特にスノッブの、文学にコンプレックスを感じている批評家を十分承知しているアレンにはアカデミー脚本賞というのはヤッタという達成感をもったのだろうしこの手の映画は内輪話として受けることは理解できるけれど彼の作を辿ってきたものには凡作と映ることは確実だ。 ヘレン・ミレンの「女王」でトニー・ブレアーを演じ、またニクソンに迫るインタビュアー、デヴィッド・フロストを演じた紛れやすい名前のマイケル・シーンをペダンチックでスノッブだというのなら捩じまがったそれがここでのアレンである。 喜劇役者・映画作家がここに辿りつくと言うのはいささかロマンチックに過ぎて面白くない。 文化SFファンタジーなのだがパリのアメリカ人たち、20年代の若き芸術家を登場させて主演に絡んでどうするというのか。 そこでの本作製作者たちのレベルは軽薄な中産階級の婚約者とその両親と変わりがない。 映像だからゴーギャンやロートレックにモネやマネ、ピカソにダリを出してそれがどうだというのだろうか。 映画に関して「アンダルシアの犬」への示唆をして、、、と芸術満載のスラップ・スティックだろう。 それでは今の40代の若きアメリカ人インテリをエンターテインすることはできないのではないか。  もしそうならアメリカの文化は停滞しているということだ。 だからそうなら本作を観た骨のある観客はアレンの老化としか映らなかったのではないか。 いずれにせよアメリカ人のフランス・コンプレックスを端的に示した自分をも笑うシニカルな退行に映る。 もう少しましな面白い作かと期待したのだが失望した。 主人公がパリで50年代のマイルス・デイビスやアメリカから来たジャズメンたちと交流して婚約者の父親が評するようにトロッツキストとしてアメリカに戻るような結末にするとガートルード・スターンやヘミングウェーのアドヴァイスした姿にも繋がるのではないか。 
 
フランス大統領でゴム製の巨大なペニスだと例えられた二コラ・サルコジの第三妻であるカーラ・ブルーニにセーヌの河畔で買った古本を訳してもらう件には少々のSFファンタジーとしての骨組みをみたけれど彼女と初めて出会うロダン美術館、考える人を見ていてそこにあったゴッホの郵便夫や広重のコピーを見た35年前を思い出す。 そのころには日本からの留学生、佐川君がオランダ人の個人フランス語チューターを殺した挙句バラバラにして冷凍庫に保存して喰い、喰えなかった部分をスーツケースに詰め込んで捨てたことから捕まったのではなかったか。 その話を書いて芥川賞を取ったのが唐十郎だったように記憶する。 ロダンに関してはそこでのシーンとのディスカッションで大統領夫人が言うことに付け加えて愛人カミーユ・クロデールから容赦なく意匠を奪い取ったロダンも思い出し愛人カミーユの弟ポール・クロデールは駐日大使として関東大震災を経験している。 先日テレビで見た「天皇の料理番」とは多少の面識があったかもしれない。 ポール・クロデールのオランダ絵画に関する著作にはオランダの土地に住むこととなって得るところが多かった。

夜中の蝸牛

2015年08月24日 02時22分45秒 | 日常

 

8月も22日を過ぎれば大分日が短くなったと実感する。 先月末にイギリスの知人の満月のパーティーに行ってから3週間経つとそのお月さまも今は三日月になっている。 夜中に月明かりだけの暗いキッチンに降りて何か飲もうと冷蔵庫を開けていると窓ガラスに小さな蝸牛が這っているのが見えた。 この数日比較的湿った天気が続き地面にはオランダ語で言う naakt slak が這いまわっている。 これは何度かここにも写真と共に載せたのだけれど余り気持ちのいいものでもなくズルっと踏んでしまえば黄色いものが出て靴底やサンダルが汚れそれに気を付けるべく下を見ながら歩くのだがどういうわけかこの殻つきの蝸牛は植物の葉についたりしてあまり地面を這いまわっているということはない。 けれど何年かに一度は踏みつけてガシャっという音を立ててしまう。 けれどその時にはどんな色になるのかは記憶にない。 オランダ語では同じ slak なのになぜこうも違うのか。 殻つきなら大蒜とパセリにバターを混ぜたものでエスカルゴとして喰えるものが身だけでいえばものすごく大きい茶色の方は喰えれば量に関しては随分増えるのだろうが味の方はどうだろうか。 子どもの頃、農家で育ち、当時アメリカザリガニが大量に発生した時に水田の稲を鋏で刈り取るから駆除のためにバケツに何杯も取ったけれど誰も喰い方を知らずそれらを無駄に殺して捨ててしまった思い出があるのだがあの時泥を吐かせ味付けの事を知っていたら当時の蝦蛄の塩ゆでと並んで随分楽しんだものをと考えるとちょっと残念だ。

 

蝸牛、三日月を背に、窓を這い

 

裸のカタツムリ

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/64160102.html

ウィキペディア;ナメクジ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%A1%E3%82%AF%E3%82%B8


鶏を湯灌してから焼いた

2015年08月22日 17時20分42秒 | 喰う

 

野菜スープに何時間か浸しておいたハム用の生豚肉の塊500gほどをその後160度ぐらいのオーブンで1時間ほど焼いたものを昨日の夕食にしており、余った野菜スープを捨てるのはもったいないから今日はそれを使ってスーパーの特売で売っていた地鶏に余分に庭から摘んだセージやローズマリーに加え月桂樹の葉や黒コショウの粒を足して沸騰しないよう90度ほどで2時間ほど鶏を湯灌した。 その後引き揚げてパセリをそのままにしたまま水けをキッチンペーパーで拭い、塩コショウを振りかけた後サラダオイルで鶏をマッサージし30分ほど200度のオーブンでグリルにした。 その周りには赤パプリカ、薄切りの人参と玉ねぎの小粒シャーロットを敷いてサラダオイルを野菜に振りかけた。 別鍋でマッシュポテトの粉をを箱に書いてある通り作れば2分で出来た。 それに粉チーズとバター、ナツメッグを振りかけ茹でたグリーンピースを混ぜた。 

地鶏の肉を如何にしっとりと瑞々しく保つのかが眼目だったけれど、それはともかくとして湯灌の味が少々薄かったのかもしれない。 けれど肉には香草の香りがしみ込んでいる。 魚と同様鶏の味付けは楽ではない。 別鍋でバター、塩コショウだけでソテーにした茄子や生椎茸の味が全体的に薄味の中で普通に増して立ち上がってきたのがその証だ。 鶏の肉がドライにならなかったのがこの日の救いで出来合いのものを買って温めるよりよっぽど旨いのを実感した。


イギリス の ケンブリッジ、ノフォーク、サフォーク州 旅行 (5)ケンブリッジで3時間

2015年08月22日 03時57分20秒 | 日常

 

 

2015年 8月 1日 (土)

前夜12時を周ってパーティーからキャンプ場まで戻ってそのまま眠り、目が覚めたのは5時ごろだったのだろう、とても寒くて枕元に置いてあったフラコンのジョニ赤を一口啜らなければ暖かくならないほどでそれを済ませてまた眠りに落ちた。 8時半ごろまで眠っただろうか。  まだ皆が静かに眠っている中、テントの外に出ると人は朝のシャワーを浴びに向かいまたその建物から出てくるバスローブの人たちを横目で見ながら注文してあったパンとミルクを貰うため、それと昨晩到着した娘のテント代を払うべくタブロイドの新聞を読んでいるお上さんのところに行った。 そのオバサンは昔のコメディー、モンティーパイソンのジョン・クリースが演じた「フォルティータワーズ」で ホテルのマネージャー、バジルの妻シビル・フォルティによく似たはきはきしたタイプの人だった。 このキャンプはすべてが「ちゃんとした」整ったイギリス的で、常連、キャンピングカーのセクションはきれいすぎて少々息が詰まるほどだったのだが我々が案内された外縁の広大な穀物畑に続く周りには殆ど人がいない広々とした芝生には感激するほどの解放感があった。 柵も何もなくそのままなだらかな穀物畑の田舎の風景が続き、遠くにはケンブリッジ大学の研究所のものか大きなパラボラアンテナが見えた。 テントを畳んで出発前にそこからだらだらと続く田舎道の一本道を辿って丘に登りそこで初めてこの辺りの大まかな地形が分かった。 キャンプ場の事務所にはイギリスでもっともすぐれたキャンプ場というような認定書が賑々しく飾られていてそのお上さんが髪型を気にしながらスカしてまたどうぞ、と言った。

夕方4時ごろまでに Stiffkey Marsh に近い海岸の次のキャンプ場、Highsand Creek という家族・友人たちのグループが車で来て百以上のテントを設営し何日か過ごすというようなところに行けばいいわけでケンブリッジからは車で2時間もあれば辿りつける。 だからそれまでケンブリッジの町を見物することにした。

混雑する狭い市内の道路に入って車をショッピングモールの駐車場に入れるには10分ほどノロノロと混雑するところを進まねばならず当然そこで外の歩道を行く御上りさんを眺めていると中国人の団体がやたらうようよしているのに驚く。 市内の地図をもらおうと観光センターに行っても同じことだ。 土産物に取り付く若い中国人で溢れている。 なんともはや、堪らず売店の青年にいつもこうなのか、と尋ねると、今が一年で一番ひどいという。 だから来るなら11月か2月だというのに同意した。 大学ではこんな時期にだれが勉強するか、11月、2月がいちばんいい。 それにこの時期はヨーロッパのどこでも観光地はこうなのだ。 堪らないから取敢えずセントなんとかいうカレッジの中を見学しようとしても同じこと、 賢そうに見える中国人の家族に話しかけたらオランダから来た、というのでオランダ語で話しかけたら通じない。 2年の契約でインダストリアル・デザインの研究のためアイントホーベンに来ていて中国に帰るまでにできるだけヨーロッパを見て回りたいけど時間が、、、、という。 2年だったらだれもそうなると納得した。

町中の喧騒が嫌でそれなら大学の植物園に行って時間を潰そうとそちらの方向に歩いて行き途中のカフェーで下を流れる cam川 を眺めていたらボートに乗って上下する人々で一杯だった。 普段ならのんびりと行き来できる白鳥は今の時期隅に追いやられ迷惑そうだった。  小路を通り人が来ないようなところを縫って大学の裏の雑草が茂るところを辿って普通の道に出て植物園に入ったら大分静かになってのんびりと散歩できる雰囲気に戻る。  カンティーンで肉のパイとエールで昼飯にしたらやっと落ち着いた。 整然とさまざまに植えられた植物を眺めていて縁の大木が植わっているところにあるピクニックもできる4人用の木のテーブルのところで半時間ぐらい昼寝をした。 我が家の子供たちは生えるところに十分毛が生えたいい大人なのにじゃれあって松かさを投げ合って遊んでいる。 息子とは15年ほど前に行ったロンドンのキューガーデンでは広大な緑のあちこちにリスが沢山みられたのだがここでは見かけなかった。 これだけ木があるのにいないとは不思議だ。 けれどこの植物園で感心したのは敷地の芝生だ。 細かく、それはゴルフ場のホールの周りの細かさで流石イギリスだと認識した。 

 一渡り歩いたのでぼちぼち車で北東部海岸に向かうべくまた喧騒の中に入り何処も同じショッピングモールに入り駐車料金を払ってエレベーターに乗るとどこにいるのか一瞬分からなかった。 大きな町ならどこにでもあるようなブランドの店が並びユーロに比べると高いポンドで買うメリットは我々には全くない。 だから今回は誰も土産を買って帰らなかったのではないか。


旅行キャンセルとロブの店

2015年08月20日 19時23分39秒 | 日常

 

この間妙な電話がかかってきて、おめでとうございます、抽選により格安の旅行券があたりました。 トルコの西海岸の保養地に一週間、二人ですべて込みで50ユーロだという。 この手の電話は時々かかってきてすぐ断るのだがそのまま相手の言うのを聴いていた。 訛りのあるオランダ語でどちらかというとヒンドスタンの響きがあるからスリナム系の黒人女子だと想像するのだが、一生懸命これは嘘ではなく後で沢山料金がかかるような囮商法でもない、と定款をどんどんしゃべりだす。 実際に別に要るのは空港税と手数料の50ユーロのみ、これはこのリゾートホテルが冬の間の旅行者の少ない時期の空き部屋を埋め合わせるのに身を切ってやっているのです、 と言う。 そこで気が変わった。 

別段何も予定もないしすることもないので朝4時に飛んで夜中の2時に帰ってくるような詰め込み飛行機でも面白いとおもうし、冬のガランとしてだれもいないトルコの人里離れた田舎に放っておかれても別段どうということもない。 どうせ200ユーロぐらいはなんやかや言われて払うことになるのだろうがそれでも一週間時間を潰して4万円にもならないのだからいいだろうとそれに乗る、と返事をしたらそれから1週間もせず旅行のクーポンが来て自分で出発日を旅行会社にネットで連絡して決めるネット接続のコードが数字とアルファベットで10以上並んでいるのが来た。 少々危ないかな、と思ったけれど相手の身元がはっきりしているからこちらの銀行番号をいってあり、それがこちらの身元保証でもあるから出発日と必要な旅券番号などのデータを送ると50ユーロが引き落とされるのだと言われていたし手紙の中にもそのように書かれていた。 ネットでこの旅行会社を調べると幾つかのソースからもそれは存在し商工会議所に登録されておりその番号も手紙に書かれている通りだったので8月の終わりまでに手続きを済ませないと無効になる旨のところをみて、もし放っておいても50ユーロだけだろう、無茶を言って何百ユーロもむしりとられることにはならないだろうと最悪のシナリオにも頭が行ったけれどそれはその時のことにして、家人にいつ行こうかと訊くと、去年ウオーキングのグループでそのあたりを歩いて来てその場所には別に行きたくない、あんなとこ、ホテルがたくさんあるだけで何もないのだから、と取り合わない。 だからもう引退した同僚で気の合うアウトドアなど何の縁もないただぶらぶらと読書と音楽を聴くのを趣味にしている男に暇を持て余しているのなら自分とそんなところに行って今までの我々の10年ほどのブランクを取り戻そうと電話したらそれもいいというのでお互いの都合のいい時期を調整するのに何週間か置いていた。 一番人が少ないであろう1月ぐらいがいいなとも話していた。 二人で憂鬱なトルコの寂れた人気のないホテルで何もせず持って行った本やCDを聴き、酒を飲んでは侘しい通りを1日に10分ほど行ったり来たりする。 当然二人は土産物など店を覗いても買う気は毛頭ない。 そんなシナリオだった。 ところがこの数週間でトルコ国内の政情がガラッと変わり少々きな臭くなってきていた。

トルコの内閣が人気取りにこのところシリア情勢に関連してこれまで100年以上敵対視していたクルド人独立党PKKと暗黙の合意をしてたものをトルコ軍がPKKの地域を爆撃しまたもや険悪な関係になってきてこれには西側も、アメリカもこれでISに対するこの地域の堡礁の基盤が崩れ仲間割れ、、、堤の一穴から水が漏れ、崩れて、、、、というような状態になりかねない危機である。  トルコ、クルドの共同戦線で IS に対してはクルド人は果敢に戦い西側には有益であったものがここに来てトルコの態度には困惑している。 これに対抗すべくとうぜんPKKもこの一週間ほどでトルコ内の様々なところで爆弾テロを開始し、少々混乱気味にもなっており先日もイスタンブールで爆弾が爆発した。 こうなるとこれに乗じて IS の一層無差別な自爆テロも起こりそうで、そのようなことはここ何日かのタイのバンコクのようなものでは済まされない。 友人がこのことを電話してきて遊びに行って巻き込まれては何もならないからやめようということになったので自分は手紙に書かれている旅行者に電話し、事情を話すと先方もこの急変を理解しそれがキャンセルの理由になった。 けれどちゃんとこれを書いてレターヘッドに書いてあるハーグの住所に、前に送ったクーポンと一緒に郵送してくれというので今日手紙を書いてそれを出した。 係りの女性は、普通ならキャンセルするのは難しいけれど時期が時期だからキャンセル料は派生しない、と言った。

その手紙を出しに市役所の前にあるキオスクまで行って、出した後、斜め向かいを見たらそれまで何年も入れ代わり立ち代わりオーナーが代わり、店の種類も代わっていた大通りの角の一等地にシックでクラシックな宝石店が出来ているので見に行った。 宝石はもとよりあと5年もすればもう30年は使っているセイコーの時計もいよいよダメになるので同じようなものをとクラシックなセイコーの時計が飾ってあったので観ていると見知った顔が店の奥に覗いた。 もう2年ほど顔を見ていない射撃クラブの会員のロブだった。 そういえばその横道を入ったところにあるロブの店も再開発が進むこの地区でどれくらい後やっていけるのかと観ていたけれどそれがここに移ったということだった。 ロブがアイスクリームを買いに行ってくるから店に入って待っていてくれというので中に入るとこの町にはないような、まるでハーグの高級宝石店や呉服店のような広々とした天井の高い100年以上そこにある店が現れた。 我々がこの町に住み始めた25年前にはそこに今と同じような店構えで高級紳士服の店が入ってそれが何年かで店を畳むと後は中途半端な店が続き、けれどそこは歴史的モニュメントであるから規制が厳しくテナントも勝手に改造できずそれがこの15年ほどの不況の波を乗り切れずに中途半端になっていたのだ。 この何年かは表はパネルで覆われて使われている様子もなくこの何か月も注意して見ていない間にロブが入ったと言うわけだ。 個人商店が何世代に亘って家業なり持ち主を変えて同業を続けるのは楽ではない。 中小の店舗はより資本の大きい企業に喰われて後には全く根のない新企業が現れるのだが一旦歴史的記念物となると話は変わる。

ロブは50半ばで親の代から宝石商をしている。 何十年かの間に強盗に入られたこともあり、実際は市民が緊急避難の目的で強盗を銃器でいくら正当防衛の為と言っても銃器を使うことは禁止されている。 けれど何年か前にある村の宝石商が二人の強盗に襲われ主人の妻がカウンターの中に置いてあった夫の銃で二人に発射しそれで二人が死亡し、これが問題になっていたものの結局調査の結果裁判で訴追されないこととなりある意味限定的であれば市民が合法に取得していた銃で防衛しても訴追されない場合があると言う判決を出したのは数日前だ。 アンティークが趣味のロブは10年ほど前に我々のクラブに来て同じくオランダ王家の宝石細工も手掛けていたヘンク爺さんの指導でオリジナルのレミントン・パーカッション・ピストルを撃っていた。 けれどヘンク爺さんが逝ってからクラブから遠のいていてお互いに時々は町で見かけるけれど話す機会がなかったのが今日こういう嬉しい機会となった。 筋向いの前の小さな店の時は一週間に一度ヘンク爺さんがその作業場に来て若い宝飾研究生、実習生に教える作業場もありそこで宝飾のことやアンティーク銃器の修理、分解するのに立ち会っていたのだがロブはヘンク爺さんのことが今でも忘れがたいので爺さんの道具や作業場をそのまま上に移してあるという。 けれどロブが見せたいと言うのは地下だった。 当然こういうケルト人の時代から人が住んでいたところであるからいろいろ何か出るのは当然で今回地下室を拡張するのに掘ったら13世紀の壁が出てきたと言ってまだ粘土が白く残ったままの壁の下部でそこから20メートルほど北のライン川に続く壁と住居の基礎だと言った。 

大きな装飾品の陳列棚のスペースにはそれ以前からある壺や道具が並んでいてこれらはすべてここから掘り起こされたものだという。 何か月か前にそこから1kmも離れていない考古学博物館で観たこの辺りの様子がおぼろげにも浮かんできて興味が尽きなかったのだが邪魔しては何だから、さっきロブが買ってきたアイスクリームが溶けるから、といってそこを出た。 今は閉鎖した前の店の向いはこの何年も帰省するたびにオランダ土産に陶磁器を買っている土産物屋でそこの80を越す主人が怪しくなれば消える運命にある。 その老人もそう言っていた。  あと5年保てば、、、、というような土産物屋なのだがそこがロブの隣となる。 ロブが少なくともあと10年はこの新しい店で隣の陶磁器を売る土産物屋はそのころには確実に消えている。 そこで売っていた陶磁器はもうよっぽどあちこちを走り回らねば買えないような種類のものだ。 そこの主人は自分のストックを売っているわけでそれが無くなれば終わりなのだ。 ストックを作っていた何百年も続いていた工房、窯元も今はない。 それを知っていてその爺さんはショーウインドウに並んだ安い商品の値札をそんなストックの陶磁器に重ね見せるような姑息なトリックを使う。  こちらから見てあの品質でこの値段はない、と思ってその老人に糺すとそれは隣の安物の値段だとしれっと言う。 そんな古狸でもいいものがあるからそこで買うのだがそれもなくなると自分には土産ものの底がつく。 古いものはこのようにして消えていく。 

ロブと久しぶりに話して思い出すのはヘンク爺さんのことだ。 もう3年になるのか、というから思い返してもいつのことだったか咄嗟には出てこない。 ここにはその時次のように書いていたからもうそろそろ4年になる。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/62359085.html


ハモンハモン (1992);観た映画、Aug. '15

2015年08月20日 11時36分18秒 | 見る

邦題; ハモンハモン  (1992)

原題; JAMON JAMON
英題; SALAMI, SALAMI
    HAM HAM

スペイン、  93分

 
スペインのあっけらかんとした熱いラブ・コメディ。スペインのごく小さな街で繰りひろげられる男女6人の恋愛ゲーム。金持ちの息子と、彼の子供を身ごもっている娼婦の娘。二人の仲を引き裂こうとする金持ちの母親と、母親に雇われた男。そして、もう一組のカップル。それぞれに思わくを秘め、策略をめぐらせて関係していく……。娼婦役のアンナ・ガリエナが「髪結いの亭主」に続き、ここでも情熱的な女性を演じている。
 
上記が映画データベースの短い記述である。 英語圏以外の映画を観ることの少ない中、スぺイン語の映画が今日のお勧めとしてベルギー国営テレビにかかり、主演がペネロペ・クルスだというのが本作を観ようとおもった理由だ。 アメリカ映画でペネロペ・クルスが出るのをいくつか観ているがスペイン語訛りが気になって人気があるとは聞いていながらもそれが何故か分からなかった。 けれど自国語で演じるその姿と若いセックスアピールには将来に可能性を秘めているのは確かだと確信したのだがそれも今から20年以上前の本作で感じたことで、今から見るとこの先どうなるのやらとの心配もある。 けれどここでのハビエル・バルデムには現在に至る足掛かりのやはりセックスアピールをまき散らしていたのだが初めて彼を観た時の彼が自分がコーエン兄弟の「ノーカントリー(2007)」、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトのメキシコ映画「ビューティフル(2010)」でそこでの目を見張らせる演技を見ていたので本作の人物とは思いもつかなかった。  重厚な演技で圧倒する現在と軽薄マッチョな単純ボーイの20年以上前の姿を見て笑いを誘われた。 恋愛コメディーであってもラテン系ホルモンが充満した如何にも南ということを示す作だ。

当初タイトルコールの終わりごろ、埃っぽい道路を見下ろす看板の黒く丸いものが下に落ち、それがのちに本作の核心を示すことになるのに気付いて後で笑うことになる。 これはだから良質の映画は初めの30秒以上前から見なくては面白さを逃すことになるという証明でもある。 マッチョだと形容されるラテン文化ではあるがその実、生活力、生命力で勝っているのが女で、本作でもそれが如何なく示されている。 クルスの母親をみるといい。 おんぼろバイクにまたがって道路そばの曖昧クラブに通うママであり、色気の十分でてきたクルスを始め、3人の娘を女手ひとつで育て上げまだまだ噎せ返るほどの色気を見せ誰彼ともなくその魅力を振りまいてはそこから収入を得ているのだから嘗てのマカロニウエスタンの撮影ロケーションになったような広大な埃と砂漠のような高原の何もない道路沿いに貧しく住んでいてはそれが最善の生きる方策ではないかと無言で示すその態度には誰も文句は言えない。 

クルスは地元でランジェリー工場を切り盛りする女社長の元で多くの女工の一人として指に金属製の防具をつけ電動鋸で女性下着の裁断をする。 その女社長の独り立ちできない独り息子として甘やかされてそだったぼっちゃんと恋仲になり身ごもる。 それを知った女社長は仲を引き裂くために、荒野の中のハム工場に住み込んでいて金玉だけがとりえの若者にクルスを誘惑するように金で釣り、承諾させて行動に移すのだが、この能天気な金玉男も単純であってもあながち悪い男ではなさそうで、、、というのがミソで、そのホルモンと大蒜のなせる業かこの男、女社長までも喰ってしまい虜にもし、やがてクルスも煮え切らないへなちょこぼっちゃんに愛想をつかしドタバタとなる、というのが筋なのだが、ハム、大蒜、オートバイの筋肉隆々バルデムと所詮は強い金玉に靡くクルスの生命力バンザイというメッセージがあって初めのタイトルコールの際落ちたのが闘牛の牛の金玉だったのだと納得して笑うという仕掛けなのだ。 

映画の終わりにそれぞれがそのままの格好でとどまる中、ハム工場のはるか彼方から砂塵を上げて徐々に近づいてきて去っていく羊の群れのショットは後まで印象に残るものだ。

雨が降りそうなのにBBQか

2015年08月19日 04時09分05秒 | 喰う

 

雨が降りそうな空を見上げながら帰宅すると家人が庭の隅でバーベキューの火を起こしかけていた。 気温も16度ほどで肌寒いのにこの天気にバーベキューは無いだろうと糺すと、オーブンのグリルでチキンサテーを焼くよりこちらのほうが焼き鳥仕立てで美味しいそうだからと言う。

自分で作って秘密だと言うタレに付け込んだ串を15ほど山にして3,4人分だという。 娘が来ることは確かなのだから一人3,4本でいいだろうという計算らしい。 バーベキューの火の起こし方を教え、豆炭を盛り上げ下から火をつけて団扇で扇ぎ、それぞれの豆炭に火が付き炎が上がるように燃えるよう扇ぎ、確実に着火したらそれぞれの豆炭を上下に裏返し同じようにして力を込めて扇ぎ炎が怒るままにしてそのままに放っておいて表面が白い灰に覆われた豆炭が炎を上げずに赤い色を見せ始めたらそこから30分は焼き鳥、サテーに適した火となる。 片側4,5分も焼けばいい色になるだろう。 裏返しては余ったタレを塗り様子を見ながら10分ほどで初めの5,6本が出来上がるのだけれどそのうち徐々に火が衰え始め最後の5本はキッチンのグリスオーブンで仕上げをしなければならないほどの弱火になっていた。 豆炭の数が少なすぎたのだ。 けれど何とか15本を焼き上げそこに正月にもらった高校時代の女友達が自宅で栽培し煎った胡麻を振りかけたら旨いものになった。

インドネシアの米に中国食材店で買ってあった冷凍のエダマメのマメを混ぜて炊き、ココナッツの粉を散りばめた飯に茹でたブロッコリ、サラダ菜に黄色いパプリカと小粒のオリーブでサラダにした皿をビールで喰った。 結局息子は来ず3人で5本づつきれいに平らげた。

デザートは何だったのだろうか、はっきりとは憶えていないけれど扁平なワイルド・ピーチ・中国風の原始桃だったのかもしれない。

 


イギリス の ケンブリッジ、ノフォーク、サフォーク州 旅行 (4)夜中のパーティー

2015年08月18日 17時14分59秒 | 日常
 
 

 

2015年 7月 31日 (金)

田舎の海岸からケンブリッジの町に入ると車窓からは若者に溢れる喧騒が眺められた。 そこではことに中国人の若者が溢れていた。 そこを抜け2kmほど離れた田舎の村に住む家人の師匠というべき女性造形作家に会い、この日の晩のパーティーに参加するのが今回のイギリス旅行の核心で、これに付随して何日かノフォーク、サフォークの海岸を巡るのがプランだ。 ケンブリッジと言うのはケム川に架けられた橋というのが意味らしく大きくもないその川の上流にその村はあった。 彼女の工房は戦前にはクリケット・フィールドの休憩場所、パヴィリオンでそれを使っていて、それに続く嘗てのクリケット・フィールドは今は牧草地になっておりオランダのホルスタイン種とは違って薄茶色の乳牛があちこちに散らばっていた。 彼女の家はそこから歩いて2,3分のところにあるパブ近くのほぼ単身者用の普通の住宅で、そこで息子を二人そだて今は彼らは二人とも40前後にはなっていて一人はコーンウォールで芸術家用の長期滞在用の貸家を提供しているはずだ。 この日、オランダから飛んでくる娘を加えてはその家には4人も泊まれるわけでもなくそこから3kmほど離れた村のキャンプ場にテント二張りを設営してから彼女の工房を訪ねた。

嘗てのパヴィリオンは周りに木が茂り小さな森の中の寂れた温室の雰囲気を持っており彼女はその近くに掘っ立て小屋を建ててそこに電気を絶ってこの6か月住んでいたた。 パン、ミルク、と基本的生活維持に必要なものだけで暖房もなく日本のどこかの河原に木を集めてきて枠組みを作りそこに自分だけの空間を創造して住む老人たちと同じだ。 必要最低限な機材は揃っており寒さと湿気を除いては何不自由はない晴耕雨読の6か月だったらしい。 この夜も彼女の知人が二人泊まると言うので森の中にブルーのビニールシートが二つ離れて藪の中に架けられているのをみた。  彼女に会ったのは家人と知り合った頃の1983年頃だったと思う。 自分は1980年に大学助手としてグロニンゲン大学で働き始めてから市の外れにある墓地公園を見下ろす学生アパートの10階、3mx4mの小さな部屋に住んでいて、美大で造形・陶芸を専攻している学生だった当時の家人と知り合った頃で、彼女は15kmほど離れたドイツ国境に近い大きな農家を改造したコンミューンに工房を持っており、その村とグロニンゲンを往復していた。 その頃陶芸の講師としてオランダに来ていたこのオーエン先生に知己を得てこの彼女のうちを何回か訪れており、このパヴィリオンの傍にも二人で窯を築き作品を焼いている。 娘と家人は何回かここを訪れているのだが息子と自分は今回が初めてだ。 

今年の2月に彼女は久しぶりに我が家を訪れ三日ほど家にいて彼女のこの1年ほどのプロジェクト、「ブルー・ムーン」にのことを語るところでは、コーンウウォール、スコットランド、イングランド、オランダ、フランスと自分の作品、12個のムーンボウルをその人たちを訪れては贈り、プロジェクトが完成する7月31日の満月にはこの森の牧草地で80近くなる彼女の行き越しを想いながら皆と月を愛でようではないかという趣旨のパーティーに招かれ、また彼女の周りの人たちに興味を持ちつつ家族4人で訪れだったのだった。

息子がロンドンが郊外の空港から娘を拾ってきてこの村のグリーン・マンというパブ・レストランの裏庭に落ち着きビールやワインを飲みながら席が空くまで待って陽が落ちて肌寒きなってきたと感じられたころに呼ばれて中に入れば昔の民家を改造した空間だった。 階級社会であるイギリスではここは労働者階級の来るパブではない。 客の大抵はケンブリッジ、その近郊から来る中産階級、その子弟と思われる。 地元の連中はオーウェン先生の家から3軒ほど離れたパブなどに行きそこでオダを挙げる。 残念ながら近所のパブは一杯だったからここに来たのだけれど喰い物はそつなく悪くはなかった。 そこを出て息子が車で入れなかったという工事中の村の外れの橋を見ているともうパーティーが始まる8時だった。 川に沿った曲がりくねり薄暗く細い道を早足で15分ほど歩いて牧草地の外れに来て牛糞を避けながらパヴィリオンに向かうと遠くに30人ほどがこちらに向かって横一列に並んでいるのが見えた。 他に我々とは反対の方向から来た10人ほどと一緒に列に加わると、中世の魔女とはいかないものの白熊の毛皮を纏いそのころ老婆が被っていたような帽子えお付けて長い紐に自分の作品を何メートルも繋げたサラが我々が今来たケム川方向に無言歩いて行く。 招待状には8時からは自分は別人格のサラであるから儀式が終わるまで無言である旨書かれていたから皆お互いにその意味を戸惑いながらも想像しつつそれに従い広いなだらかな牧草地を川辺に向かう。

川に来てみればそこには遠くにカヌーが一隻控えておサラは筏に作品を乗せ幾つもの蝋燭を点しカヌーの若者に促されそれに乗って小さな筏を引いて下流に消えた。 すでにこの頃には互いの顔を見るのも怪しくなっている。 別の何人かが川に近い傾斜地に備えた大きな6つのカーペットとその周りに備えた12の松明の壺に火を起こし、そこからそれぞれが持ち寄った飲み物、喰い物でパーティーは始まった。

始めはそれぞれ互いに知らないもの同士だったけれど口にいろいろなものが入りだすと話が弾みここではサラではあるけれどオーエンさんとはどんな縁故になるのか話が続き、初めはサラの詩の朗読の中では雲間に隠れた月を呼び出すべく叫び歌ったのだがそのうち宴が闌になる頃には満月が川の向こうに眺められた。 自分のプレゼントにはもう10年以上使っていない中国土産の硯と墨で「蒼月」と小さ蘇武に倣って認めた書を贈っていたからこの薄桃色の満月は蒼月とはちょっと違うな、と思ったのだった。 ギターを弾く若者が二人我々が歓談している間にそれぞれ歌い弾き、その中にはジャズのスタンダード、Blue Moon もあって年寄りたちはそれに唱和したし子供たちも音楽関連で彼らと話しを弾ませてもいた。 けれどそれぞれ火桶の熾火が静かになり日付も大分変った頃にはそれぞれ三々五々と家に散り、そこには薄オレンジ色の月が残るだけだった。 

印象的だったのはそれぞれと四方山話に弾んでいる時にサラがこちらに来て来て自分がスコッチを勧め、それを啜った後彼女に何か訊こうとしたとき、あなた、又難しいことをいうのでしょ、と言われたことだった。 今まで喋っていて何もそんなことを訊いていないのにそれは意外だった。 

サラ(オーエン先生)と初めてあった30年以上前に自分のフラットから歩いて家人と3人でグロニンゲンの映画館に出かけ、大島の「愛のコリーダ」完全版を初めて見た。 そのあと、家人は日本のことはよく分からない、彼らの関係は甚だ暴力的で自分の好みではない、と言ったけれど、私はこんなに女に優しい男はいないよ、とそれに遮り、その前に小沢昭一が実際に阿部定にインタビューしたときのものを読んでいたから大島の作品などのことを彼女たちに説明し70年代にみた大島を含め様々な作品などの印象を語ったのだけれどサラの口からはそのとき何も聴かれなかったから、やはりヨーロッパ女性として男女の愛の形には否定的だと思って済ませ、それから10年以上たってその時の彼女の印象を言うと、それは自分の誤解であの後いろいろ思うこともあってあれは素晴らしい作品だと言うのを互いに確認したのだったけれど、今80に近い彼女の口から又難しいことを、と言われるのがそのことに関連しているのか他のことかそれを聞きそびれてしまいその時の成り行きから次の機会まで先送りになってしまった。 60人以上のパーティーでそれぞれに親しく接するというのは楽ではないのはこの3か月ほど前に自分がホストとなったことで経験している。 次の機会にそれが何だったのか尋ねてみようと思う。

そこを辞し草地の中をもう何百メートルも先を行っている家族の後を頭に付けたランプの灯で牛糞を避けながらやっとのこと車のところに来、何もない暗い深夜の田舎道をキャンプ場まで戻ってテントに潜りこもうとしたら彼方には雲間から覗いている満月が望めた。 Blue Moon You Saw Me Standing Alone,,,,,,,