暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

平成と令和

2019年04月30日 13時08分53秒 | 想うこと

 

今日平成が終わり令和になるのだと言う。 ネットの日本のニュースをみていると終わる平成とこれから始まる令和のことで一杯だった。 自分は昭和に生まれ昭和に日本を出たので平成には何の想いもなく、ただああそうかと思っただけだった。 昭和の年を数えることがもうできなくなっていたけれど平成何年なのかは忘れなかったのはたまたま長男が平成初年に生まれたからで、時たま領事館に出かけて何らかの書類に年月日を書き込むときには長男の年齢を思い出してそこに書き込むぐらいで、そのほかには日常の生活には年号が現れることもその影響もなく、だからそれには何の感慨もないものだった。

自分は天皇制はなくともいいと思っている。 オランダも立憲民主主義の王政ではあり、国民には60%以上で支持されてはいるものの自分はそれでも王政を廃止して共和制になればいいと思っている。 どんな理由であれ特権階級を持つ国は平等の精神に欠け、国民の自立・独立に何らかの影響をあたえることになる。 けれど自分はすぐに王や天皇を追放せよなり、平民にもどせといっているわけではない。 それに越したことはないのだが、それはそれぞれの国民が決めることだ。 国民がその政体を自覚しなければどんな政治形態もうまくは動かないことは歴史で明確ではあるが、そこでも権力をだれが握るのか、その権力者がどのように王なり天皇を扱うかが問題になる。 昨今見るところでは日本の権力者が天皇に接近して自分のアナクロニズム的な政治信条を押し付け、憲法に定められた規約に則って平和を希求する天皇の反発を受けていたことが明らかになり、新天皇をも巻き込もうとしているとも伝えられている。 この行為こそ日本の歴史の中で天皇が様々な局面で経験してきたことの繰り返しでしかない。 

国民は単に代替わりで浮かれるばかりでなくこのような歴史を顧み、天皇制のありかたを考えるべきではある。 これまでの保守は伝統的に天皇を奉じその精神的基盤としていたものが今の政府では、天皇の国民の平和を願う心情を自分が考える政治方針に沿うよう操作しようとしているとさえ報じられている。 メディアの殆どが現政権の監視・操作の下に骨抜き的にあるといわれ、その権力監視機能の劣化を国連関連の委員会からも警告として指摘されているようだ。 だからこの代替わりに際してメディアに踊らされた狂騒は今更とはいえ想像に難くないことではある。

天皇皇后が1990年にオランダを訪問されたときにレセプションの場で当時のベアトリクス女王と同席もし、両陛下に拝謁したこともあり、その数年後、秋篠宮両殿下とも接見はしたことはあるけれど自分の考えは変わらない。 皇室・王家の人々には何の意見も想いもない。 彼らはそのように生まれそれ、ぞれぞれの憲法の制約の中でそれぞれの役割を果たしているだけのことだ。 公式の場ではそれぞれの言動に非のあるわけはない。 人々に接し、声をかけ、人々の日々の活動を労うのが役目であるのだからそれを律儀に行う活動は重労働ともなるのは明らかなことだ。 現代における王、天皇は200年前とは違うのだ。 人は自分の足で立ち、自分の頭で考え、自分で世界の在り様を規定し、あらまほしき形を希求する。 そういう意味では現実の王・天皇には悪いが自分には神も王も天皇も必要はない。

 


抗癌剤の副作用なのか怠惰なのかパジャマのままだ

2019年04月30日 00時13分25秒 | 日常

 

2019年 4月 29日 (月)

木曜にキツイ抗癌剤の点滴を大学病院で打たれて戻ってきてからベッドに沈んだ。 翌日は姪夫婦と子供が見舞いに来たので元気がでて5時間ほどシャキッとしてそのときはちゃんと服を着て対応したのだがその後はずっとパジャマで着た切り雀のままだ。 土曜日はオランダの国王、ヴィレム・アレクザンダーの誕生日で祝日、町は賑わうはずだから散歩がてらに出かけようと思ったのだが寒さが戻り、雨まで混じる鬱陶しい日となり、出かけるのを諦めてそのままグズグズとベッドと居間の間を行ったり来たりしていた。 日曜も体がまだ怠く一日中外に出なかった。 ニュースでは国王が「王の日」に毎年或る町に行幸するのが慣例になっているけれどそれを土曜テレビのライブで見た人が数百万に登り記録的だと言っていたがその理由は天候が悪かったから人々は町や外に出かけることもなく家でテレビを見るぐらいしかない休日だったからだと説明されていた。

何れにしても何だか力がなく眠いような怠い様な日が続く。 今日の午後陽が照った。 午後のお茶の時間、裏庭に出てパジャマのまま野球帽を被り日光浴をした。 気持ちがよくまたここでもウトウトとした。 何とも気持ちのいい気分なことか。 自分の育った大阪南部ではこのような陽射しはなかなかない。 ここと比べると日光の量が3倍以上あるのだ。 だから多分冬の陽射しがあるときにガラス越しの縁側で感じられる猫が傍に眠るその心地よさに比べられるかもしれない。 これからの時期、町や田舎のカフェーやレストランでは皆テラスに出て日光浴がてら団欒するけれど日本で育った者には人のいない店内が静かで涼しく気持ちがいいと言う習慣の違いが明らかにあるけれどこちらの友人と集う時には浮かれた人で賑わうテラスがいい。 そのときには自分にはサングラスは要らないけれど野球帽が必携となる。

午後遅く居間のソファーに坐って何をすることもなくボーっとしていた。 日が傾き東向きの窓からは街路樹の先が連なっているのが見え、葉が開いてまた緑の季節が戻ってきたのが分かる。 自分にはほぼ来年はない。 これから自分の見るもの体験することが最後のものとなる。 どういう訳か世界が美しく見え、人を愛しく感じる。 これから何か月か先にはパジャマのままでいることが多くなるだろうが明日あたりからまた気力・体力が戻り近所を毎日何キロか歩くことになるだろうと感じる。


ニワトコの花が咲き乱れてくると、、、、

2019年04月28日 00時43分13秒 | 日常

 

気温が23℃を越えて街中を自転車で走っているとあちこちに白い細かい花が咲き乱れているところにでくわす。 それらはニワトコの花なのだがそんな花を見ているとそれを摘んで家に持ち帰りたくなるような気持が起こる。  もうだいぶ昔のことだ、14年ほど前に「ニワトコの花で自家製”ビール”を作ったこともあった」と題して下のように記している。

https://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/4738544.html

この花で砂糖水をこの時期の陽気を利用して発酵させ3%ほどのアルコールを醸造できる。 味はそこはかとない酸味がこの花の香りと一緒になってなかなか美味い。 今は余り市場に出なくなったのだがベルギーのビールでビールのシャンパンといわれるベルブー・ブランドのゲウスというのがあって好みだったのだがそれによく似ていた。 アルコール分はベルギーのものの半分ぐらいだが味は遜色のないものだった。 10リットルの水に1kgの砂糖を放り込み10個のレモンを輪切りにしたものを加え、この花の束を花を逆様にして水に浸し日向に晒す。 夕方になれば毛布で包んで温かみを保ち、また翌日それを繰り返す。 3日ほどでこの液体を濾して450ml の壜に詰めると20本ほどできただろうか。 3か月ほど物置の隅に放っておけばこのビールが出来るという寸法だ。 甚だ簡単なのだがポイントは壜を熱湯で消毒して菌が蔓延らないようにすることだ。 それに一番時間がかかるのだからこれで全体のプロセスの簡単さが分かるだろう。

道で手の届くようなところにこれが咲いていればその花に鼻に近づけて香りを確かめる。 ドイツやオーストリア、スイスに行ったときにはこの花のエッセンスをシロップにして水で薄めレモネードにする濃縮ジュースが土産物として売っていて、それを家人が好みよく買ってきた。 それにこの果実もジャムにして売られているからちょっと手をかければ町のあちこちに咲いているこの花は中々使い出もあるものだというのが理解できるがそんな花を摘んでいる人を今まで見かけたことがないのはオランダでは一部の人を除いてあまり関心がないのだろうと見受けられる。 このビールは別としてスーパーに行けばこの濃縮ジュースにしてもジャムにしても棚に並んでいるのだから今更手間暇かけてつくることはない、ということなのだろうが、このビールはどこのビール専門店を覗いてもみかけたことはないから自分で造ってみる価値はあると思うのだがそんな自分でももう長年造っていないのだから自分にもその怠惰の虫が巣くっているのだろう。


抗癌剤投与第6期第二日、嬉しい来訪があった

2019年04月27日 00時11分13秒 | 日常

 

20019年 4月 26日 (金)

昨日は抗癌剤投与第六期目(最終期)が始まる日でバスで大学病院にキツイ抗癌剤の点滴をうちに出かけた。 バス停まで300mぐらい歩いてバスの表示を見るとまだ15分ある。 それなら歩けるところまで歩いてその近くのバス停から乗ればいいとブラブラ歩いていると藤の房がたわわに咲いているところを通った。 うちの藤はまだ植えて3年か4年しかたっていないのでこれほどではないがこの2年ほどチョロチョロと咲き始めている。 日当たりがここほどよくないのか自宅のは蕾が開き始めで、その写真を撮ったのだがまだここに載せるほどではないと思っていたので今日の写真は自宅よりましなこの藤をここに載せることにした。 近所では肉屋の近くにもっと豪華な4軒ほどの軒先に一株が豪勢に連なって咲くところがあるのだが代替わりをしたその肉屋には行くことがないからその藤をもう見ることはない。 それにもう一か所、自分が通っていた大学の近くの豪邸の玄関にかかった藤の古木だ。 昔ここにその写真を載せたかもしれないが今はもうそこを通ることもないのでこれももう観ることもないだろう。  昨日は抗癌剤の副作用がかなりの状態だったから日記は書けなかった。 

抗癌剤の点滴はもう何度も同じことをやっているので今回もその例に漏れずスムーズに行った。 2時半から初めて5時前には済んでいた。 右腕の血管は左より細いのでいつも左腕に打ってもらっていたのが今回今までの抗癌剤の影響かなかなか血管が出ない。 3度4度と看護婦は血管を探して、腕時計を外すぐらいのところも探ったがだめだった。 だからもっと上手な看護婦を呼んで左腕を諦めて右腕の血管にやっと針を収めることができてからはスムーズに事が運んだ。 これで15分無駄にした。 時間が見る間に過ぎて行ったのは点滴中ウツラウツラとしていたからで、これも前回と同じく抗癌剤の副作用だ。 これが終わって素早く着替え、荷物をまとめて冬のスキー帽を目深にかぶり、分厚いマフラーを首に巻いて悪寒が続く点滴の副作用に備え11階から玄関に降りて家人の車を待っている間もウツラウツラとしていた。 車に乗り込みシートにもたれると瞼が下がり気が付いたらうちの玄関だった。 すぐに自室・病室に入りパジャマに着替えたが酷い悪寒がした。 そのまま眠り込み6時半に夕食だといわれて起きた。 食欲はなかったが無理をして喰った。 食事中にも居眠りそうだったが食後すぐにまたベッドに戻り眠った。 9時に起こされた。 朝の9時だと思ったが暗かったから夜だと思い直したのだが頭の中が少し混乱していた。 抗癌剤の錠剤を飲む時間だったのだ。 その後朝の5時まで眠った。 下に降りたり階段を上がるときには手すりを持たないとフラフラして足が覚束なかった。

翌朝、朝食のときには幾分か意識がしっかりしていたが第二日ではまだフラフラしてベッドに居続けるのが常だったが今日はその通りにはいかなかった。 姪夫婦とその子供が11時に見舞いに来る筈になっていたからだ。 体調がよくなかったらベッドに戻るつもりだったが彼らが来て見れば気分がシャキッとして彼らが4時に帰るまで元気だったのが不思議だ。 前にもこのようなことがあった。 それは抗癌剤の時ではなく2年前の手術後に日本から友人が来てくれた時だった。 体には食い物を入れる管がつながれベッドにくぎ付けだったのが友人夫婦が来た時には半日シャキッとしていたからそれが不思議だったのだが今日もそのようなものだった。

この前に日曜日にうちで誕生日会をした集まりは身内だけだったのだが家人の一番上の姉夫婦は来ていなかった。 去年夫婦は義兄の故郷シシリアに戻っていたからだ。 義姉夫婦には3人子供がいて一番上の娘はシシリアの家を守ってもう20年ほどになる。 一番下は息子でオランダに住み電気工をしていてそれが唯一その彼女と先週の会には参加していた。 次女はハーグの美大を卒業しハーグで知り合ったイタリア・サルジニア島出身のジャズ・ピアニスト、 Augusto Pirodda と一緒になりブリュッセルに住み彼らには5つになる女の子がいる。 彼らが今日自分の見舞いに来る予定になっていたのだ。 

何年か前にアントワープのカフェーで Augusto が演奏すると言うので自分、義姉と家人の3人で出かけたことがある。 その時はトリオだったから7人分の寿司を造って持って行き喜ばれた記憶がある。 そのときトリオのフリー・インプロヴィゼーション演奏のバックには姪が操作するオーバーヘッドプロジェクターによる流動体が動く像が投射されていた。 前回に会ったのは義姉夫婦がシシリアに帰るパーティーのときでその時初めてちょこちょことよく動き回る彼らの人見知りのする娘を見たのだった。 今日は以前と同じく自分たちにはなじまないものの居間のフロアで玩具を弄び静かにしていたが昼食となるとあれこれテーブルのものを集めて嬉しそうに自分のサインドイッチを作ってそれを頬張っていた。 姪は母親の乳牛のような体に似合わずイタリアでも小柄な方に属する姿だがその娘も同様小柄で、大きくなっても170㎝には届かないだろうと想像するけれど自分にはもうそれを確かめるすべもない。 アウグストはもう4年近く、第二次大戦の折りオランダ解放を画策するために貢献した兵士の物語を70年代に映画にしたそのリメイクのミュージカルの音楽監督をしていて、週に2日は軍の空港だった場所に設置された劇場で働いている。 だからそのためもあってオランダ語が話せるようになったから前回のように英語で話さなくともよくなっている。 

我々が5月の中頃から2週間ロシアのセントピーターズブルグへいくクルーズから戻ってきた後このミュージカルに招かれることになったのは嬉しいことだ。 ライブのミュージカルなど見に行く機会がなかったけれど身内が演奏するミュージカルに招かれると言うのは嬉しい驚きだ。 10人のバンドで演じるそうだがこのミュージカルは国民的な話であることからロングランを続け来年はロンドンに舞台を移して公演するのだそうだ。 この仕事と自分のスタジオでのレコーディング、ライブ演奏、姪がアトリエで活動する間の子育てと忙しい日々を送っているようだ。 アウグストのアルバムの装丁・デザイン・グラフィックは姪が担当している。 自分の身うちにフリージャズ・ピアニストがいるのは嬉しいことだ。 ジャズの話をあれやこれやと話して合間にピアノで曲想やソロ、コンボのやり取りの実際を弾くのを聴くのには興味が尽きなかった。 いつだったか山下洋輔トリオのメンバーだった坂田明と共演して感動したというのでもう自分では聴くことのない山下トリオ・ソロのLPを探して5枚進呈した。 友達に見せびらかして羨ましがらせると言うのを聞いて嬉しく思った。 自分の死後散逸するはずの500枚ほどジャズLPを身内で聴く者がいるというのはこれも無駄ではなかったことの証になる。

彼らが帰ってから疲れたのか2時間ほど居眠りをした。 抗癌剤投与の第二日目、ふつうならグッタリしている日だったが嬉しい来客があって普通の日が過ごされたのが嬉しい誤算だった。 

尚、ここで身内の宣伝をさせてもらう。 Augus Pirodda のホームページを下に記す。 短いながら曲の部分を聴くことができる。

http://www.augustopirodda.com/

 


残念な料理

2019年04月25日 01時58分43秒 | 喰う

 

先日オランダ国王が皇太子の時から住んでいてこの間ハウステンボス宮が改修されそこに引っ越すまで住んでいた森を歩いたことをここに書いた。 そのとき昼食に寄った森の中で摂った料理のことをここに記す。 今までこの38年間オランダではいろいろなところで色々なものを喰ってきたけれどそれぞれその料理にはそれなりに満足していたのだがここに来てどうにも残念な料理に行き当たったからそれについて記そうと思った次第だ。

森での散歩であり、小さな茶店であり、休日には家族連れでにぎわうのだからどこでもあるオランダの代表的な食い物、チーズとベーコンのパンケーキでもと思って入ったのだがメニューにはパンケーキはない。 妙だなと思っていると殆どがサンドイッチのバリエーションである。 自分は昔の百姓家で育ったから朝は必ず炊き立ての飯に味噌汁と決まっており弁当の時代は仕方がなかったものの成人してからは昼食、夕食と暖かいものが欲しく仮令貧しいカップラーメンでも暖かいから喰っていた。 だからオランダに来ても未だに出来るだけそういうようにしたいのだが朝食は熱いコーヒーか紅茶でトーストである。 オランダの伝統的な百姓の食生活は昼に暖かいものをどかっと腹に入れる。 だから昼食がいわばディナーであり、朝食、夕食はミルクか紅茶でハムやチーズを挟んだものでぼそぼそと済ませる。 自分はこれには耐えられない。 殊に冬の寒い夜にそのようなぼそぼそと喰う簡素な食餌には耐えられない。 尤もこの夕食の簡素な「冷たい」食事というのは流石に今の時代にはなく、そんなこともあったというようなことを知る若者も少なくなっていて何処も同じく夕食は大抵は暖かいものを摂る。

茶店のメニューを眺めていて暖かいものはスープぐらいしかなく、そこに一つ、「猟師の鍋」というものがあった。 猟師が射止めた鹿肉を鍋で煮たものだ。 それに簡単なサラダと梨の煮もの、黒パンがそえられているというのでそれにした。

ヨーロッパのあちこちでこのメニューがあれば喰う。 どこも同じような調理法であって大概梨の煮ものがついている。 古今の経験上これが合うということだろう。 実際何年もクリスマスの前になるとクリスマスティナーの為の料理講習会が開かれそこでは鹿の肉を主菜として使われることがよくあり、ここにもそれを書いたこともある。 最近は鹿の背肉のステーキだった。 それに鹿の頬の部分を低温で12時間ほど湯燗をしたものも添えられて何とも柔らかい感触と美味かったことを覚えている。 そこでも添え物としてこの梨の煮たものがあった。

けれどここでは猟師の昔からあるレシピーの、鍋でことこと煮たものがこのメニューである。 鹿肉の一切れを口に入れた。 すると噛んだ感触は硬く、レバーのような血の味がした。 梨を噛むとこれまた硬く、硬いのはいいけれどクローブやシナモンの味、香りがほとんどない。 明らかに煮込み不足だ。 特に鹿肉は多分1時間も煮ていないのだはないか。 普通自宅では肉の煮込みには少なくとも弱火で3時間は煮る。 だからどちらにしても仮令香草や香辛料を加えていたとしてもその味がまだ沁み込んでいないのだ。 トイレに行った家人がいうのにはここにはキッチンがない、とのことだった。 つまりこのような肉や梨は卸業者からプラスチックの袋に入ったものを飾りの小さな鍋に入れて電子レンジで温めただけなのだ。 自分で味を確かめずに客にこのように供するのは料理に無知かちゃんとパッケージの指示を読まなかったからなのだろう。 これを鹿肉をあと2時間煮込んでいればちゃんとした味になるし、梨にしても煮込むかシナモンシロップを振りかけてごまかすぐらいの知恵があっても良さそうなのだがそんなことに斟酌しない店なのだ。 つまりまともな料理人がいないということだ。 材料は間違っていないのに調理が不完全だからこういうことになる。 二口ぐらい肉を口にしてそのままにしてその茶店をでた。 もうここに来ることはないだろう。 あと半年弱で自分はこの世から消えるけれど、たとえそれから長く生きられたとしてももうここに来てこのメニューを注文することはない。 残念なことだ。


自分にとっては最後の合同誕生日パーティ―

2019年04月22日 23時15分42秒 | 日常

 

この時期の天気のよさそうにな日曜日に家族一同まとめて合同誕生日のパーティーをやっている。 家人の姉妹たちの家庭では当人、連れ合い、子供たちの誕生日に合わせてそれぞれパーティーをする。 6人いれば一年に6回、姉妹4人の家庭だったから、それぞれ子供が3、4人いるとして、シシリアに帰った義兄夫婦の家族を除いて、5人x3家族 で一年に15回以上ほぼ毎月勝手知ったるそれぞれのうちに出かけてそれぞれこの30年ほどで知りあったそれぞれの友人などを含めて4,5時間過ごすことになる。 これを30年ほどやっていて、そこに参加するのは家族の義務でもあるから出かけるけれど、大抵は同じ顔ぶれで同じようなことを話すのだから少々退屈もし、だから自分の家では面倒だからその回数を端折ってこの20年ぐらいは家族4人分の合同パーティーを今の気候のいい時期に設定してある。 実際わが家族では4月に生まれたものなど誰もいない。 家人息子、娘は1月、2月で自分は5月だから天気のよさそうな時期を選んで30人も40人も入れない居間から庭に向いたドアを開けて広く使えるよう意図したものだ。 今まで雨が降ったのは1回か2回でそれも大きなパーティーテントを庭に張ってバーべキューをやったりしてやり過ごした。 殆どが今日のような上天気だった。

自分にとってはこれが最後の親戚・家族との集まりとなり、今迄はそこにそれぞれ友人知り合いを招待していたのが今回は身内だけに絞って妹夫婦たち、それぞれの子供、その孫たちで30人弱が集まることとなった。 午後3時から初めて茶・コーヒーにケーキが定番で、子供たちにはレモネードにお菓子が配られ、今の時期イースターには卵型のチョコレートを庭のあちこちに隠してそれを探すというのが子供の遊びになっており、それも子供たちが大人に探させるのに庭の様々なところに隠し、結局は隠した子供たちがそれを見つけて頬張るといういつものパターンをも滞りなく済ませ、それから1時間ほど経つと各種アルコール飲料なども含めたものに各種ハム・チーズに乾き物の摘みが廻り、6時を周るとスープに寿司が夕食となる。 寿司が嫌な子供たちにはパンとペーストを用意したがそれに手を付けるものはいなく、皆寿司を待ちかねていて、小さな子供までが美味い美味いと頬張っていた。 何年も自分でこのような機会には寿司を作っていたから子供たちも皆それに慣れて寿司を好いているのだが今回は自分では作らず町で嘗て寿司の仕出しをしていた日本人のシェフに頼んだのだった。 30人弱の中に採食のものが5人いてそれ用の寿司も頼んでいた。 

自分が65になったときに65人を招いてパーティーを開いた。 その時にもその人に寿司の仕出しをしてもらっていて、そのときにはその出来栄えと美味さに一同感激、また驚き、忘れられないものとなっていたので今回もその時の感動をまた思い出した者が多かった。 お前の寿司も美味いけどこれは特別だと皆言った。 当然のことだ、相手はアムステルダムの日本ホテルのミシュラン星のあるレストランで働いていた人だ。 残念なことにライデンの街で仕出しの店を出しても味の分からないオランダ人には彼の造るものがその質からは少しながら値が張ることで周りに幾つもある中途半端な中国人の寿司屋に走り、味を知る顧客だけでは採算が合わず結局撤退したのだったけれど数がまとまるならば頼めば個人的に造ってくれることも聞いていたから無理を言ってなんとかしてもらったのだった。 寿司を届けてくれた時にこれが最後になることを言い、今まで彼に本を貸したこともあり、生前遺品の形見分けとして屋根裏部屋から好きな本を持って行ってもらおうと言ったのだが彼は次の仕事が待っていると言いい、改めて出直すからと約束して急いで次の仕事に向かったのだった。

これが最後の親戚・家族が集まってのパーティーになるだろうと書いたけれどまだこれから何か月かの間に何回か誰かのパーティーで顔を合わすのだから湿っぽい雰囲気などもまるでなく、和やかに日曜の午後を過ごしたのだった。 茶菓子やコーヒー、酒類のことは子供たちと彼らのボーイフレンド、ガールフレンドが給仕として仕切ってくれたから我々はゆったり兄弟やその子供、孫たちと遊んでいればよかった。 小さな子供たちと遊ぶのは罪がなくて心和むものだ。 Nおじさんは近寄ると必ず抱きつかれて捕まるからと距離を置いて遠目に鬼ごっこをするようにこちらをうかがうのがまだ3つから5つまでの頃の義妹の孫たちだったがもう中学に行くようなものまで出てくると一人前に生意気なことをいうようになるからそれでこちらの年の寄りかたを自覚する。

食事が済み、デザートにアイスクリームにコーヒーを摂りぼちぼち帰り支度となるけれど5年ほど前まではまだリキュールや強い酒がでたりして夜遅くまで宴は続いたのだが最近はもうそれもない。 孫たちはその若い親たちと家に戻り、義兄弟、義姉妹たちはその後それぞれもう子供たちが家にいない夫婦だけの家に戻る。

9時になってやっと暗くなり子供たちは家人と一緒に後かたずけをした。 その後キッチンのテーブルで余り物を口にして2時間ほど6人で駄弁った。 娘は物置で今日の飲み物やケーキ類を冷やしていた冷蔵庫を次の日に取りに来ると言った。 ナイメヘンからロッテルダムに越したところで当分の間冷蔵庫がないので古いうちの冷蔵庫を持って行くことにしたのだと言う。 家人は新しい家の為にもう使わない色々なものを娘や息子たちのために用意している。 それも家にある沢山のもう使わないものを処分することにもなる。 我々には四人で住んでいたときの日々の料理に使っていた鍋の類はもう大きすぎてしまわれたままになっている。 若いカップルににはこれから30年ほどは使えるものであるから悪くはないはずなのだがそれぞれにはそれぞれの思惑や好みがあっていつも家人の思う通りには行くとは限らないようだ。 

娘のボーイフレンド、息子のガールフレンドはこれがこちらの親戚には初のお目見えだった。 嘗て甥や姪にそれぞれ同棲しようかというような友達ができるとこのようなパーティーが家族に顔を合わせる「公式の」場となっていた。 若ければそのうち嘗て見た顔ともその関係もたち切れてその後見なくなることもあるのだが、30前ごろからのお目見えはほぼ定着するような関係となり、ここにいる小さな子供の親たちもそれぞれもう10年以上も前に顔合わせをしてそれぞれの住まいを築いている。 小さい時からそのように付き合って来た甥や姪であるから今回の同じような年頃の「初顔合わせの新参者」でも既にどこかで年寄りたちのネットワークから聞き及んでいるはずで、会って挨拶の後はすぐに打ち解けている。 これはどの家庭でもほぼ同じようで、若者たちにしても新しい親戚のこういう場の出るのに結構忙しい。 ことに彼らに80、90代の爺さん、婆さんがいるとなると何度もそれらの家を訪れることになる。 このようにして家族の絆というか関係が徐々に深まっていくのが一般的なオランダの社会における家庭環境のようだ。 

斯くして春の麗らかな一日、このようにして集える何気ないパーティーはいつまでもそれぞれの心にひっそりと残るものとなる。

 


晩春なのか初夏なのか

2019年04月22日 10時52分59秒 | 日常

 

外気が23℃を越えたと言っていた。 だからなのだろうかもうオーバーもセーターも要らずカッターシャツ一枚で自転車を漕いだ。  

土曜のマーケットはもうヴァカンスかと思うほどみなウキウキして笑顔に溢れていた。 相変わらず馴染みの店でムール貝を揚げてもらい前を行く人々を眺めながら立ち食いをしているとこちらを見て旨そうだな、という者がいて、それに摘まむかいと差し出していうと、いや、それを買って喰うからと魚屋の店に並んでいる人の後ろについた。 先々週は抗癌剤の影響で全部喰えないから半分頼みやっと完食したのだが今日は調子がいいので山盛りの一人前をゆっくり喰った。  自分には完食できそうもない量だから興味を示すものには摘まめばいいと差し出すのだが大抵は白身の魚を刻んだ揚げ物を好むようで、ムール貝は美味いと言うものの実際に摘まむものはそんなに多くない。 

今の自分には白身の魚の揚げ物はその繊維質が胃にもたれるから美味いとは分かっていても注文しない。 そのあとブラブラしながら歩いているとこの陽気からか喉が渇きデザートにアイスクリームが喰いたくなって少し並んでヴァニラのアイスを求め、それを舐め舐め市立図書館の前で自分と同年の札幌から2年前に移住してきたカップルに会うのにベンチに座って日向ぼっこをしながらアイスクリームを舐めながら通り過ぎる人を見て待った。 もうヴァカンスが始まっているのかいつもより以上に外国語が歩いている人から聞こえる。 こんな天気がいいならもう皆夏休み気分でもある。

そのカップルと近くのカフェーに入り2時間以上駄弁った。 我々の年齢の常で病気の話で盛り上がる。 だから年金と病気のことでほとんどの時間を費やしたのではないか。 5年前ではちょっと考えられなかったことだがそれが今の自分たちの現実だ。 この人たちとこの間駄弁ったのはもう5か月ほど前だった。 2,3日前その人たちのアパートの前を通りかかったのでベルを押したのだが出なかったので、また札幌に帰っているのだなと思ったのだが訊いてみるとその通りだった。 日本に家があったり親がいればそういう事になる。 自分でも親が亡くなる一昨年までは何年も一年間に2,3度は大阪に帰省していたのだから年老いた親をもつと、それにこの夫婦の場合、98歳の母親となると何が起こっても不思議でないのだ。

マーケットの店じまいをする混雑の中、大型トラックの合間をぬって停めてあった自転車のところまでもどり家に向かった。 もう5時すぎなのに濠端の公園の水際には沢山の若者が日向ぼっこをしていた。 男は上半身裸、女は水着のビキニが多かった。 さすがにまだ水に入っている者はいなかった。 オランダは伝統的に夕食時間は6時なのだがこの若者たちにして見ればまだ陽は高くイタリアやスペイン並みにドリンクタイムの酔いを醒ました9時、10時ごろにゆっくりと週末の晩飯にとりかかるということなのだろう。 それにしても満開の桜の下でビキニである。 だからこれをみて今は晩春なのか初夏なのか迷うところろなのだ。