暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

De Pont 美術館にて

2018年04月29日 09時47分32秒 | 見る

 

もう二週間ほど前のことになるけれどオランダ ティルブルグにある De Pont Museum という美術館に行った。 そこはもともと大きな繊維工場だったものを20年ほど前に現代美術館に転用したものだ。 もともとティルブルグは繊維産業が盛んであったものが60年代以降第三世界に産業が移動して衰退していった過程は日本のものと同じで、現代美術の愛好家でありコレクターであった工場の持ち主、De Pont 家の収蔵物を基にしてこの美術館が誕生している。 この日は常設展示物に加えオランダの女性写真家 Rineke Dijkstra の回顧展が開かれておりその過去から現在に至る作品展に接し深く感動した。 時期限定的にこの作品展の様子は次のサイトから窺い知ることができる。

https://www.google.nl/search?q=rineke+dijkstra+de+pont&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwij3JbMht_aAhVRJlAKHZIFCRMQsAQIYQ&biw=1665&bih=927

彼女の作品の圧倒的な魅力はその等身大ほどの人物ポートレートだ。 ほぼ正面を見据え観る我々に対峙する被写体は若者であったり子供であったりするけれどほぼ中年以上の男性は登場しない。 我々の眼はそのポートレートの隅々まで這いまわり中心の人物とは関係のない細部が人物の危い感情や存在の脆弱さを引き出すものとなっていることに気づくだろう。 写真家の意図してかせざるかによるそれぞれのポーズは彼らの存在を示す表情となる。 例えばポーランドやウクライナの海岸で撮られた若者・こどもたちの肖像は表情がなければそのポーズがそれを補ってそれ以上の効果を示しており、何人ものポートレートを並べてみることで彼らの住む環境までも浮かび上がってくるようだ。 雨の降りそうな薄暗い海岸に立つかれらの単身、群像のシリーズはそれまでに見てきたリチャード・アヴェドンやダイアン・アーバスと同様に感動を呼ぶものではあるけれどそこにはこの写真家の女性性が顕著に現れているようにも感じるのだ。 現に男性は現れても屈強な男の筋肉が現れたところで男性は消えていくようだ。 例えばフランスの外人部隊に入る若者とかれが訓練を経て入隊したポートレートの違いは明らかで、同様にイスラエルの若い女性が徴兵され制服の兵士となる肖像に対比され、それぞれその体験の前後でどのような変化があったか一目瞭然となる。 スペインの闘牛士たちがアリーナでの格闘の後血の付いた姿でカメラの前に登場するのだがどれも美少年の面影を残した姿であり生臭い男とというものは登場しない。 20年近く三姉妹を追ったシリーズがある。 少女から成熟した女性になるまでの三人のプロセスには彼女たちの経てきた経験がそこに残されていて我々にそれを読み取るよう誘うようでもある。 赤子を分娩したばかりの女性の裸像があってまだ出血がとまらずだから裸像とならない母子像のそばには帝王切開で子供を得た母親の傷跡を見せて立つ像もある。 一概にここでは老人、筋肉質の男性が排除されていることに気付くのだがそれがこの女性作家の選択なのだろう。 そしてそれが繊細で、存在の脆弱さ、危うさを絶対的な存在感として表現する素になっていることは否定できないだろうと思う。

Wikipedia; Rineke Dijkstra

https://en.wikipedia.org/wiki/Rineke_Dijkstra

 

その以前から新しいカメラに徐々に慣れてきて若い時には撮れなかった人物ポートレートを人生の秋から冬にかけての新しい挑戦と心がけていた自分には Rineke Dijkstra の作品に接して大きな嬉しい刺激を受けた。 特に大きさ、サイズと解像力の量が質となるということを実感した。 

もう一つ嬉しい経験をしたことがある。 1月の終わりに瀬戸内海の直島の美術館めぐりをしてそこでジェームズ・タレルの作品を幾つか観た。 そこでの体験は我々の視覚というものを考えさせられる新鮮な体験だった。 光と色彩を知覚する我々の目の不思議とそれを体験させてくれる装置に入る行動は一種刺激を求めてお化け屋敷に入ることに重なるようでもあるけれど結果は儚い幻を見るようで静かな感動・微細な刺激の連なりは経験するけれど一瞬の驚きはないお化け屋敷とは正反対の種類の体験である。 直島の南寺で経験したことの小規模なものが作品としてこの美術館にあって久しぶりに微細な光の中に変化する色彩の妙を再体験した。 この後息子からハーグの近くにあって自宅から自転車でも行ける距離にある美術館でタレルの作品が観られると知らされた。 そのうち機会があればそこを訪れるつもりである。

ウィキペディア; ジェームズ・タレルの項

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%AC%E3%83%AB


鴨?雁?

2018年04月28日 10時58分53秒 | 日常

 

晩飯の用意を始める時間が大分遅くなって普通でかけるスーパーまで行って戻ってくると面倒なので自転車で5分ぐらいで行ける運河の向うの古いフラットの一階部分にあるドイツ系スーパーまで走った。 このスーパーはイギリス、アイルランド、スウェーデン、ベルギー、オーストリア、フランスなどでも見た。 ヨーロッパのあちこちで古くから見かけるチェーン店なのだがここにはこんなときにしか来ない訳がある。 一応揃っているのだが品ぞろえが少ない、果物野菜が新鮮でないときがある、価格が他のスーパーより割高のものが多い、などマイナス要素が多いのだが利点もある。 近い、幾ら夕飯前だといっても店内が混んでいなくてレジで待たなくともいいという利点もある。 混んでいないというのはこの辺りの人たちも初めの理由から他の大スーパーに出かけて大抵のものは外で買ってくるということなのだろう。 だからいつ来ても空いているし沢山買っている人をあまり見ない。 そんなことはどうでもいいけれど自分も必要なレタス、メロンに少し萎れたブロッコリーだけを買って外に出た。 

置いた自転車の鍵を外していると近くにこの場所に来るといつも見かける体長50cm以上のアヒルのような雁のような鳥がノソノソ歩いている。 フラットの外だから幅10mぐらいの舗装された通りになっていてその向うに幅が6,7mの芝生の緑地がありそれに小さな池というか濠が続いている。 この20年ほどここに来ると必ず見る。 4,5羽が住み着いていてこの種は他の場所では見ない。 こういう場所は水辺の鳥もいて、殊にどこにでもいる野鴨もいることはいるけれど体格では格段に勝るこの鴨か雁かというような鳥が他を圧倒して大手を振って人を恐れることもなくノソノソ歩き回っているのだ。 厳寒に水辺が凍ると誰かが氷を割って水に入れるようにしているのは野鴨であればどこか近くには必ず凍っていない水辺があるからそこに飛んでいけばいいけれどこの大型の鳥にはそれができないからそうしているものと見える。 それにここでずっとこのようにして生きていられるのは誰かがかならず食い物をもってくるからだろうしスーパーのパンくずが彼らの食料源になっているのかもしれない。 

写真を撮ろうと屈んで構えるけれど動き回ってなかなかいい構図にはならず待っているとこちらの方にやってきて何だかつつかれそうになったので手早くシャッターを切りその場から引揚げた。 それを見ていた男が、これはなかなか獰猛で突っかかって来ることもあるから注意しないといけないよ、と警告してくれた。 少し下がったからか自分のテリトリーを確保したと安心したのか人相の悪いその鴨か雁かという奴はノソノソと向うの方に歩いて去った。 

 うちにもどって名前を調べようとネットで鴨の写真を何百も眺めてその中からオランダ名 muskueend, barbarieeend, ラテン名 Cairina moschata、英名 musukovy duck,  和名 ノバリケン を得た。 尚、和名のノバリケンは 野バリケンであり、 デジタル大辞泉には語源がオランダ語、bergeende からとあって、ええっ、と思った。 berg(山)eend(鴨)を敢えて日本語読みにすると ベルグ(フ)エエンド になるものが バリケン と元々の発音から想像もつかないような音となり、おまけに野がカタカナの ノ であってそれが頭にくっついているので ノバリケン、 何のことかさっぱりわからなくなっている。  また和名には、フランス鴨、タイワンアヒル、広東アヒル、麝香アヒル などとも呼ばれるとある。 ちゃんとした和名を知りたいのであちこちあたったのだがフランス、タイワン、広東はただの地名であって純粋な和名は麝香だけでそれに家鴨がついているということになる。 オランダ名の musuke と 英名の musukovy が気になった。 なんだか 香水の musk に関係があるのかと思ったものの オランダ名は musk に e  が、英名には musk に ovy がついていて 麝香の musuk の形容詞ではなさそうなので英版ウィキ゚ペディァを参照すると語源には原産地はぺルー、ブラジルの地方であり、その場所に musuk と発音されるような土地があった、だの、17世紀にヨーロッパ特にロシアのモスクワ近辺という名前をもつ貿易商社がこの鳥を主に輸入したから、だのという説を紹介している。 だから 麝香なら musuky となるところが musukovy となっているのだ。 そして麝香というのが紛らわしけれどこの musk も ラテン名の moschata も共に麝香には何の関係もないと書かれているので和名の一つの麝香アヒルというのは間違いであるということになる。 尚、説明には大量の捕獲と交配が頻繁に行われた結果、原産地は原野が開墾され原種が殆ど残っていないことが言われていて、それならばここに今いるノバリケンには帰るところも元々の種ももうおらず祖国を離れて数百年徐々にDNAも変わって異国で暮らしているという態である。

日本名でノバリケンのバリケンが bergeende だというのでこれをオランダ語の検索にかけたら e がとれて bergeend でしか存在せず、ラテン名 Tadorna tadorna 、英名 common shelduck  となった。 そしてその写真をみると一般の鴨が並び魁偉なノバリケンはどこにもいない。 bergeend はラテン名が ノバリケンの Cairina moschata ではなくなっていて Tadorna tadorna なのだ。 これをググってみると ツクシガモ(筑紫鴨)が出て眼の前のノバリケンとは外見では何の共通点もない普通の鴨の写真が添付されている。 つまりバリケンと命名されているこの鳥の元は bergeend ではなかったのだ。 だから日本名のノバリケンはムスク鴨とするかもう一つのオランダ名 barbarieend の barbari(仏語)の意味、野蛮、凶暴、をつけて野蛮鴨とでもすればいいのではないか。 現に自分が経験しているようにこの鳥は他のおとなしい鴨とは違い、こちらに向かってくるような粗野なところがあるので野蛮鴨などとすれば正にその魁偉な面立ちと性格にあった名前になるように思う。 

尚、ラテン名 cairina というのはカモ、ガン、白鳥種のことで初めこの鳥を見てそのサイズと格好に雁のように首は長くなく、けれど鴨のように小さくておとなしいかといえば攻撃的であるから雁のようにも見え、鴨と雁の中間種であるように見える。  急いで買い物に行った先にいた鳥からこんなややこしいことになるとは思わなかった。 そして、一応決着は musukueend は 野蛮鴨 としたもののその鴨に引っかかる。 では野蛮雁にすればいいのか。 それにも引っかかるけれどそれでも実物をみるとまだ一般の鴨からは雁のほうに近いような気がするのだが、、、、。 

 

 ウィキペデア; ノバリケンの項

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%90%E3%83%AA%E3%82%B1%E3%83%B3


18、 1月2月帰省日記(13);道後の湯

2018年04月27日 01時44分31秒 | 日常

 

2018年 1月 30日、31日

道後に二泊した。 子供たちは二度目、家人は初めての経験で皆日本の温泉が好きであること、自分にとっては学生時代の5年間をすごしたセンチメンタルジャーニーでもあることがここに来た理由だ。 子供たちがここに来る途中の車中で行き当たりばったりにスマホで探した一番安い宿が温泉本館に近いこととそのコンクリートに入った木賃宿の雰囲気を持つ「ヴィラ」を面白いと思い当初一泊の予定をもう一泊伸ばしたのだった。 初日の夕、一月末の観光客の少ない時期に当たるのか寂れも見せる商店街からすこし外に出て家族4人でぶらぶらと歩けば眩しいネオンや角々に男が立って勧誘しているあたりに来た。 自分にはこういう場所が大体どんなところか分かるものの他のものは日本語も読めず興味深そうにここはどういうところなのか自分に訊いてくる。 アムステルダムの飾り窓の歓楽街があるだろ、あれと大体同じようなもので入るとマッサージから始まるのじゃないか、と説明するとヨーロッパのものと大分雰囲気気が違うね、と言う。 日本にしてもヨーロッパにしても希望はあっても経験のない自分には聞き覚えだけの知識でしかないからそれで茶を濁すしかないものの女どもには疑いの眼でみられ心外だと抗議してもちゃんと受け取られないのは日頃の行いの致すところ、自分は怪しいオッサンなのだ。 

アムステルダムの飾り窓はジャズのライブセッションに行く前安い飯をそのあたりで喰い、賑やかな飾り窓をぶらぶらと眺めながらライブハウスに向かうというのをよくやっていた。 潔癖でも何でもないが眺めるだけでお世話になる気にはならなかった。 何年も眺めているうちにオランダ語で話せる御姉ちゃんたちが少なくなって殆どスラブ系訛りの英語の蝶々たちになっていた。 バルカン戦争以後だろうか、それにアジア系が混ざり少々の黒人、これが世界中からわんさと観光に来る男たちの嗜好なのだ。 混雑するアムステルダムの赤い灯がまばゆい地区を行きかう御上りさんたちは男ばかりでなく女子供もたくさん混ざっているからここがアムステルダムの飾り窓のある地区のようなところ、といったのは明らかに間違いだ。 2月の凍る夜でも不夜城のアムステルダムは活気があるけれどここのほとんど人通りのない寂れ方にはその電飾のあざとさが一層寒さを感じさせ我々は空腹を満たすべく少ない飲食店を探しに温泉本館がある商店街に戻ったのだった。

自分がここで学生だった頃屡々この辺りに来たのだが果たしてここはそんなところだったのだろうかと訝った。 当然若い男たちからそういうところがあるとは聞いていたがここらへんにあるとは聞いてはいなかったようだ。 45年ほど前である。 そのころ松山にはソープとかそういうところがあるとは聞いたことがない。 ただ、どこかに行くと厚い毛糸のカーデガンを着たオバサンが相手をしてくれるところがあるとは寮の先輩に聞いたことがあるが自分には縁のないものだった。 それは昭和初期の雰囲気を醸すようで小説世界の中でしかないものだった。 自分が1980年に日本を出てからの風俗の変わり方はただ耳学問の成果だけでしかないから家族に尋ねられてもちゃんと答えられるわけでもないし仮令経験があったとしても答えられるものでもないだろうから居心地の悪いままそこを離れるしかない。 オランダではそういうところでは中に入らなくともドアのところでお姉さんたちと暫く話すこともあるので様子は何となく分からなくもない。 けれど日本のことは分からない。

学生の頃自転車でよくこの辺りに来た。 観光客用の本館ではなく地元の銭湯である椿の湯だった。 昼前に起きて護国神社の前を通ってぶらぶらと行くと正面が何か小さな銀行のような雰囲気をもつ建物だったようなそんな中でのんびりと湯に浸かる人たちが御影石が微かに傾斜を持った床に、同じく御影石の丸い縁に首を乗せて寝そべっていた。 手の届くところに木の桶を置いて時折そのまま腕を伸ばしてその桶で湯を汲んで自分に掛ける。 それぞれがめいめいにそんなことをしていて湯の縁も大きな楕円形だから男たちは放射状に仰向けに寝転んでいるのだった。 別に急ぐこともない人たちのように見えた。 自分もそうして居眠りそうになっては湯を汲んで掛ける。 御影石の床もツルツルでもなくザラザラでもなくちょうど肌に付かず離れずのいい感触で安心して寝そべることのできる心地よさだった。 ウトウトして今何時ごろなのかも分からなくなるような気持ちよさだった。 何もしない学生にはそれが一日の始まりでもあった。 これが自分の風呂・温泉体験の原点になっているのかもしれない。 

だから今回本館を再度経験し、さて自分にとっての道後の湯に入ろうと探したがそこには威風堂々の新しい建物があって戸惑った。 まあ入れ物はどうでも昔のままの湯がそこにあればいいので大きな違和感はあるものの広いホールに入ってキョロキョロと眺めていた。 そこに年配の女性職員がいたのでここが本当に昔の椿の湯であるのか訊ねると新築になったところだという。 昔ここで体験した風呂の様子をいうと自分もそのようにして育ったと言う。 けれどもうそれはできない、何年か前にレジオネラ菌が発生してから衛生局の御達しで寝そべることは禁止になった、もうそれも出来ない、と残念そうにいうのでそれが出来ないならもう別にここで湯を浴びることもないと諦めて商店街に入り土産物屋を見て回った。 あの湯の心地よさはもう思い出の中だけでしか味わえないものになったのだ。

翌朝は道後駅前のカフェでゆっくりと朝食を摂り本館で湯に浸かった。 今まで何回か本館で湯に浸かったけれど朝湯は初めてだった。 明るい光の中で湯に入るのは気持ちが良かった。 息子とゆっくり浴槽に浸かっていたのだが一概にこの時間だからなのか皆一様に殆ど烏の行水程度で出て行ってしまう。 これはルーブル美術館やゴッホ美術館で日本人のグループが自分たちの目の前をどんどん通り過ぎていくのを眺めたのと同じような経験だ。 ゆっくり二つの湯にはいって前夜と同じく二階の大広間に戻ってくると我が家の女たちも女湯から戻ってきて茶と菓子をいただきさっぱりしてそこを出た。 天気がいいのでこのあと石手寺まで歩いた。


もうそのうちに鈴蘭が開く

2018年04月24日 16時26分56秒 | 日常

 

もうだいぶ前からチューリップの葉の小さいようなものが庭のあちこちににょきにょきと生えてきて、あ、また鈴蘭の季節だなと思っていた。 けれど頭の隅にはもう2か月ほど前にはこんなものが雪の間から見えていたのではないか、ええと、だからあれは雪割草か、釣鐘草だったかな、と考えた。 暖かい所で育っているからこういうものには子供の時から接していなかったのでただ雪国の植物のイメージだけのうろ覚えだから未だに釣鐘草と雪割草、鈴蘭が頭のなかで混濁している。 ただ白くて幾つもぶら下がっている植物というだけのものだからだ。 釣鐘草、雪割草といったけれどそれはただ言葉からくるだけのイメージで、実際に頭の中に浮かんでいるのは庭の同じようなところに鈴蘭の前に咲く英語でスノードロップというのだが、和名は、、、ええと、、マツユキソウ(待雪草)という何度聞いてもとても名前を覚えられそうもない花なのだ。 スノードロップの方は鈴蘭がいくつも規則正しく連なってぶら下がっている鈴のようなものなのだが名前の覚えられないマツユキソウはミニ水仙のようにそれぞれの茎の先に幾つかぶら下がっているという形なのだがいつまで経っても鈴蘭と混同している。 同じようなところに咲くから注意して見ないとそのままそこにあるようにみえるものなのだが時期が鈴蘭の方が大分遅れるから、あれ、まだあるのか、とも思ってしまうというようなものなのだ。 いずれにしてもこんなことをもう20年以上続けているのだから今更ながら覚えられるわけがない。

けれど鈴蘭は忘れない。 それはその如何にもカワユイ花の連なりに童話なりファンタジーのフワフワしたイメージが重なり、それは可愛いことは可愛いのだが少々辟易するところもあってそれが鈴蘭という名前を忘れさせなくしているようでもある。 もうすぐすると緑の葉や茎からぶら下がる小さな白い鈴のステレオタイプに過たない花に比べると今のこの段階のものは花が生まれる前の胎児のようなものだ。 まだ白にはならず周りに染まった薄緑色でもあり何かすこし捩じれた丸いかたちは未熟なさやえんどうを開いた時のまだ大きくならないマメのように見えなくもない。

ものが覚えられないことと記憶の混濁のことを庭の花にことよせてウダウダと書いている。 この鈴蘭の「胎児」にしてもこの写真だけからすると鈴蘭の特徴が見えていないから大分後になって写真だけ見てこれが果たして何なのか多分分からないだろうしネットで調べたことも覚えてもいないだろう。 だからこの小文が自分の記憶を思い出させる縁となるように記している。 実際には何年も前にこの場所でちゃんと咲いた鈴蘭を撮ってここに載せているはずだがそれが何時だったか調べるのが面倒で、そのうちまた彼方此方で開花したら性懲りもなく同じような写真をここにまた張り付けることになるのは目に見えている。 


ユダの銀貨の花だって

2018年04月23日 14時08分15秒 | 日常

 

庭の何か所かに薄紫の花が咲いていてこんな花があっただろうかと家人に尋ねてみた。 ああ、ユダのコインなのよと返事が来たので、へえ、これが夏の終わりから秋にかけて銀色にも光る薄い円盤状の実がたわわに沢山できるものなのかと見直した。 「ユダのコイン」なら薄茶色に枯れた長い枝にどっさり実って銀貨に見紛うそんなものをドライフラワーに見立てて部屋に飾るので承知しているけれど花には今まで注意がいかなかったからこれがそれだと承知もしなかったのだ。 「ユダのコイン」だと言われれば忘れることはない。 キリストを30枚の銀貨で裏切ったというユダのそのコインだからだ。 日本名はゴウダソウ(合田草)、ルナリア、ギンセンソウ(銀扇草)、ギンカソウ(銀貨草)と呼ばれているらしい。 ルナリアのルナは月であるからその形に由来しているようだ。 英名にはオネスティー(正直)というのもあってそれはこの円盤が半透明だから中身の種子が見え、隠しもせずそれが正直につながるというのだが分かったような分からない名前だ。 なんともいろいろ名前があるものだ。 アジアでは明け透けにコインの名で通っているらしい。 

日本には1901年にフランスから持ち帰った美術学校教授の名前が冠されているそうで、そうすると形状からつけられたものを別にして人名がついているのは合田先生とユダのふたりだけだ。 いや、法王(Pope)のコインというのもあるそうだから3人か。 ユダや法王は別にして果たしてユダの銀貨をヨーロッパからもってきた先生の絵、もしくは作品を見てみたい気がするが芸術に関してはどんなものを持ってきたのだろうか、それに興味が行く。 自分の出身地では、商売繁盛で笹もってこい、という福笹というものを十日戎の神社で買い、そこに大判小判をつけてそんな福を熊手や箕で一挙に掻き取ろうというようなものもあり、そうなるとそんな福笹にぶらさがった貨幣は晩夏から秋にかけてのゴウダソウのように見えなくもないか。 ユダのコインは戎も大福にも祝福されず2000年前の罪を想い悔い改めよ、金に目が眩んでどうする、と間貫一の台詞にもつながる様な雰囲気も漂うものとなる。

昨日から一挙に12℃ほど気温が下がった。 日差しはあるものの冷たく、流石に濠には昨日までバシャバシャと水遊びをしていた子供や若者たちの姿はなかった。


初めてのカメラは Start 35 だった

2018年04月21日 18時55分17秒 | 思い出すことども

 

 二年ほど前に自分のものとなった初めてのカメラについて、そのカメラで幼稚園児の自分が撮った母の写真を載せて下のように書いた。

https://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/65012678.html

そのときそのカメラがどんなカメラだったか思い出せないと書いたのだが今日偶々古書店でドイツのプライベート博物館のカタログを見ていてこれだと思うものがそこに載っていた。 時期的にみてもここに記されている Start 35 のようだ。 形といいシャッターノブの形状も懐かしくシャッターの押し具合まで蘇ってくる。 家に帰って更に資料がないかとネットを検索していると次のようなものが出てきてこれではっきりこの Start 35 が自分が1956年の夏に父にもらった一光社製トイカメラであることを確信した。 

 http://camera-wiki.org/wiki/Start_35

写真を見ていて組みひものような子供にはちょっと太く感じられる黒い紐、小さな四角いサイコロが乗ったような覗き穴のファインダー、フィルムを脱装着するのに開ける上蓋についた二つのネジをみるとどのように開け閉めしたかその感触や、その内部を示した写真では蓋を取ってからフィルムを装着するための薄いブリキ細工のようなフィルム押さえの感触、ちゃちなシャッターなどが目の前に在り、もうほぼ60年前の記憶が鮮やかによみがえる。 

6つの時に貰って10ぐらいまでは使っただろうか。 10歳になったころには壊して使い物になっていなかったからカメラに関しては自分が使えるものはなく、叔父のキャノネットを眺めていた。 このカメラで撮ったといっても父に貰っただけの2,3本のフィルム・ロールを使っただけでその後は買ってもらうこともなくだから現像にだすこともなかったのではないか。 父と別れてからの母にはそんな玩具にかまっていられる手間も金銭的余裕もなかったはずだ。 だからこどもの時の記憶は空のカメラをカチカチとシャッターを押したり蓋を開け閉めしていて遊んでいただけなのだろう。 だからこの写真を見ただけでそんな感触が蘇って来たのではないかと想像する。 だから自分でフィルムを装着するようになるのは高校の秋、写真部に入ったときに買ってもらったペンタックスSVの金属製のパトローネに入った35mmフィルムまで待たなくてはいけなかった。 このトイカメラには変則の紙が巻かれたフィルムが使われておりそのことは覚えているものの脱着の感触の記憶はほとんどない。

半年ほど前に買った新しいカメラにやっと慣れてきてほぼ45年前の写真をやっていたときの興味が戻ってきたような気がしている現在、自分が初めて手にしたカメラのことを具体的にその資料に接して60年ほど前の感触が蘇ることに感動しつつ不思議な気持ちになったことは記憶してよい。 何かの具合にその他の記憶がまざまざと新鮮に蘇る経験はこれからもまだあるのだろうか。