暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

自分の部屋だけ暖かくならない

2016年11月30日 14時30分18秒 | 日常

 

<以下の冗長な文は自分の記録の為だけに記すものであってここに来訪の読者の大半には何の得も面白みもないものであることを予め断っておく>

 

先週の木曜日の夜中だっただろうか、机に向かっていて膝と背中が寒くセントラルヒーティングが作動していないのかと思ってボイラーのところに行って表示を見たら何も動いていない。 

家の暖房システムは二系統あって自分の部屋だけを暖めるだけの系統とその他の部屋の温度を一括して暖める二系統だ。 制御は自分の屋根裏部屋を除く他の部屋の暖房は一階、居間のサーモスタットのついたプログラムのできる制御盤で行い、自分の部屋は自分の部屋だけを制御する手動サーモスタットメーターを左右に廻してセッティングする。 自分の部屋を除いて家中の暖房は、今は朝の6時になれば人がいる部屋は18℃になり10時ごろから4時ごろまで殆ど人がいないので15℃、それから12時まで19℃になるようセッティングされていて週末は日中も人がいるから19℃に設定してある。 厳寒の間何日も留守をしていてもシステムを稼働させるために温度を低めにするものの動かしていて止まることはない。 冬場は最低15℃になるよう設定してあるし仮令夏場と言えども常温でポンプを作動させ家中のパイプを水が循環するように仕向けられている。 ヨーロッパの冬は日本の大阪南部に育ったものからすれば厳しいもので、そのための住まいの仕組みが温暖な田舎の農家とは大きく違いこの地では暖房・防寒対策が優先する。 借家であればすべて家主任せであるから問題が起これば家主に電話でせっつけばなんとかなるものの、それでも借家でも条件によっては自分でボイラーを買って管理するのだから暖房事情は同じであり、だからいざという時に水回りの問題を解決してくれる業者を持っていることはある意味死活問題、冬場のライフラインともなる。 今回の「死活問題」は我が家では自分だけに起こった。

夜中の3時4時、これから底冷えがしてくる。 昔はどてらを着込んで膝に毛布を巻いてモニターに向かっていたものが5年前にこれから20年間は使うつもりのボイラーを新しく据えたときに自分だけが夜中に暖かく過ごせるような系統を加えていた。 それから5年でそのシステムに故障がきたのだった。  冷えて来て表示をみれば室内温度が16℃で、19℃に設定してあったからそうなるとボイラーに発火を促すべく炎の表示が点滅しているのにボイラーは眠ったままだ。 つまりここからの指令が向うに届いていないということだ。 居間の電子回路が入っていろいろなプログラムが出来るものには乾電池が入っていて何年に一度かちゃんと作動するように新しい電池と交換する。 ここにはそんなものはなくただのダイヤルにデジタル表示版がついたものだけなので電池ではない。 配線の接触不良かもしれないとパイプと配線を辿ってボイラーのところにいくと、定期的にぬるい水を巡回させているから自分の系統以外のパイプにはうっすらと熱が感じられたのだが自分のパイプは屋外のように冷たい。 ということはこの2系統は完全に分離された系統だということで他の部屋のシステムにはなんら問題もなく自分の系統だけの問題だということがわかる。 他の家族には何の支障もないから安心だけれど自分だけ寒空の下にホッぽり出された気分で少々複雑ではある。

自分のパイプがボイラーに接続されているところを見るとパイプの元に灰色のプラスチック製の箱が見えた。 そこには Actuator という文字が読み取れ、これは「作動器」なのだろう。 つまりボイラーを作動させたり止めたりするものということでサーモスタットの配線がここに繋がっていることでもこれがそうだということが察せられる。 燃やせ燃やせと指令が出ているのにここで妨げられているのだ。 接続不良ということは考えられないからこの箱の中がおかしいのだろう。 初めて見る箱をじっくり眺めて横に白いプラスチックのノブのようなものが付いているのがみえたのでそれを動かしてみた。それでこの箱がパイプから外れるのかとも思い動かしながら揺すぶってみたのだが反応がない。 そのうちボイラーが動き出し熱い湯が循環しているのがわかるけれどそれは何時間に一度か慣らし運転をするためだけのものでそれにしても自分のパイプにはこないことがわかり腹を立ててケージの中の猿のようにガタガタとこの箱を持って揺すぶっているとカチという音がして急に自分のパイプに熱い湯が循環するようになり半時間ほどすると室内温度は19℃になった。

そのまま夜明けまでデスクに坐っていて15℃までダイヤルを回し温度調節を下げて寝床に入った。 翌朝起きて15℃のものをまた19度まで温度を上げるべく設定したのだが燃えろ燃えろと指令がボイラーに行くのだがボイラーはうんともすんとも言わない。 結局作動器の故障だと結論付けて業者に電話した。 電話の向こうの男は事情を聴くと事情は分かった、緊急の様ではないから来週火曜の午後4時前に係りの者を寄越すといい、それまで手動でしのいでくれ、その箱でパイプの弁を制御することにもなっているので引っ張ればソケットのように抜けるからそうすると指令がそのまま伝わる、ということだった。 妙だな、それだったらこの箱は必要ないじゃないかと思いながらも疑わず電話を切ってから箱を外そうとするけれど横の白いノブをいくら動かしながら引っ張っても垂直の箱を回してみても外れない。 ガタガタ押したり引いたりしていると突然作動しだす。 なんとも心細いものだ。 そんなことを週末中毎回10分ほど訳も分からずガタガタやっていると思わぬときに動き出すのでそのようにして火曜まで凌いだ。

火曜の朝、それまで何回かやっていたようにガタガタやっていると箱の裏側に箱と同じ色の小さなノブがあるのに気付きそれを押しながら箱を左右に回していると箱がパイプから外れた。 するとパイプのつなぎ部分についているネジの直径の内側にコイルが見られ指で押すと抵抗は強いものの徐々に動きそれで内部の弁が開いたのか温水が還流してくるのがわかる。 電話の向こうで、箱を外せばいい、と言っていたのがこれなのだろうがそれでも指を元に戻すと弁がパイプを塞いで用を足せない。 仕方がないので箱を元にもどすのに裏側のノブを押しながら箱をねじ込みなんとか収めると動き始めてパイプに温水が還流していた。 そのとき横の白いノブが向う側まで回り込むほど移動していたことに気付いた。 このポジションは今までなかったことだ。 元にもどそうとしても動かない。 壊してしまったのかと思った。

午後遅くこの2年ほど毎年夏の暇な時にボイラーの点検に来ている男が来て今迄の事情を話し、電話口で暫定的に箱を取り外せたら凌げると言われたのだが、というと、電話口の男は分かっておらず中途半端なことしか言わないからそんなことをやっても駄目だと言った。 あんたが見たように中の弁はサーモスタットの指令で中のメカが箱から弁を押したり引いたりして開閉しているのだけどそのメカニズムが摩耗したのかチップの様子か何かで作動していない、横の白いノブで開いているか閉まっているか分かる、ちょっと部屋に行って温度を下げるようノブを回してくれないか、ああ、止まった、白いのがこっちに戻ってるだろ、もう一度温度を上げるようサーモスタットのノブを回してくれ、うん、ノブが向うに動いて弁は開いている、これで直って今は動いているけれどまた駄目になったら電話してくれ、今のところこの部品はうちに無いからあんたの電話があり次第取り寄せの注文になる、と言って10分ほどで済ませレポートを書いてこっちにそのコピーを寄越した。 玄関で送り出すとき忙しそうだなというと午後からだけで6軒回ってきた、寒くなったらこんなもんだ、これから春までうちの掻き入れ時だ、だからあんたのところにも来るのが1時間遅れたんだ、じゃ、また、と言って出て行った。

そして翌朝また作動しないので業者に電話するとやっぱりだめですかといい、部品を注文するからいつ届くか分からないけど1週間ぐらいはかかるかもしれないと言われ電話を切り、肩を落としてボイラーのところに行き白いノブを思い切り指で向うまで押して弁を開け熱湯を還流させた。 これを1日に2,3回これから何日やることになるのだろうか。 親指に力を込めてノブを押すのに左の親指の爪と肉が離れそうでヒリヒリする。 器具で押せば痛みは消えるのだろうが脆弱そうに見える白いプラスチックのノブをそんなもので力任せで押して折ってしまえば元も子もなく冷えた洞穴の中で自分は凍えることになり、それも計算して痛い指を押し押し騙し騙し何とか凌ぐ。


胃痛で夜中に目が覚めた

2016年11月29日 15時13分43秒 | 健康

 

朝の4時ごろ胃の痛みで目が覚めた。 空腹だからか、それとも11時ごろに喰ったものの中に怪しい生の小エビがあったからそれに当たったか、とも寝床の中で考えたのだが取敢えず処方されていた胃酸を抑える黄色いカプセルを飲んで半時間ほどしていたら治まったのかそのまま寝入っていた。 昼前に起きて木曜に医者に処方してもらっていた通常の2種類の薬を薬局に取りに行った。

外は青空で気温はまだマイナスなのかあちこちに霜が降りていて昼前なのにまだ真っ白だった。 

これを一生服用しなければいけないようだ。 尿酸降下剤とコレステロール値を下げるものだ。 それぞれ90日分処方される。 つまり3か月ごとに取りに行くわけで前回は夏の終わりに日本に帰省する前に薬局に行っている。 

今回薬局では見知った中年婦人たちはおらずまだ二十歳になったかならないかというようなスリナム・ヒンドスタン系の娘が二人並んでカウンターの向こうに立ちこちらに向かってコンピューターのキーボードを叩いていた。 普段は二三人待っている客がいるけれど今日はだれもおらず自分はカウンターのすぐまえに寄って二人を見ていた。 二人とも何も言わずコトコトとキーボードを叩く。 目の前に客が来ていて目と鼻に先から眺められているというのに何も反応しない。 こんな対応は初めてだった。 別に挨拶は要らないが、ちょっとお待ちください、やこれはすぐすみますから、なりそれくらいは言ってもしかるべきだろう。 それがどこでも「普通」の対応なのだ。 二人とも判でついたように客を無視したような、そこに誰もいないかのような対応なのだ。 ここでは日本での過剰な対応は期待しないけれどオランダの普通の事務所や店に入ると必ず何か声をかけるそんな対応を期待するのだがここにはない。 それに眼と鼻の先の対面なのだ。 3分経って一人が、何でしょうか、とぼそっと言う。 イラっときたので彼女らの対応のことを言おうかと思ったがやめた。 ただ名前と生年月日、家庭医の名前を言って、薬が来ているはずだ、とだけ必要最小限を伝え待った。  一人がビニールに入っている薬を何も言わずにこちらによこしたので、更にそのまま待っていた。 そしたらまた、何か、というので、いや、まだ何かあるのかもしれないと思って待っていたんだ、というと、それだけです、と言ってにっこりした。

今の子供というのはどこで変わらないものだなあと思った。 彼女らは別段機嫌が悪いわけでもなくこちらのことを何も思っているわけでもないのだがこの娘たちのように何も訓練されていなければ仮令人が目の前10cmのところにいても対応ができないのだ。 薬局の仕事は神経の要る仕事で間違いなど許されなくダブルチェックは当然事様々なタブレットがモニターに細かく重なっているのがこちらから見なくても分かる。 まだ慣れない仕事に一所懸命の余り他に注意が行かないものとこれを善意に解釈した。 人手不足と経験不足の安い労働力の結果がこういうところに出る。  そして年寄りには仮令こういうことでも胃痛の治りが遅くなるような気がするのである。


木靴を履いて落ち葉集めをした

2016年11月27日 17時04分43秒 | 日常

 

 

昼前に寝床から起き出しイチゴジャム、セロリのみじん切りをヨーグルトソースで和えたサラダをカリカリに焼いたトーストの上に乗せ500ccの濃いミルクティーで日曜のブランチを摂った。 さて、と残りのミルクティーを手に屋根裏部屋に上がりメールやネットのニュースを眺めていると家人が来て、やって欲しいことがあるんだけど、という。 別段何の予定もなく昨日、一昨日の様な上天気でもないから歩く気にもならず家にいようと決めていたから言われるままに作業をした。

庭仕事だ。 秋も過ぎ冬に入ると枯れたものを掃除して凍てつく厳寒に備える。 つまり落ち葉掻きだ。 もう何週間も緑地の端に毎年のケージが出来ていてそこに掻いた落ち葉を各家庭から持ち寄って集めて置く場所なのだ。 一杯になれば市当局が処理場に持って行き他の有機物と混ぜてコンポストにするのだろう。  家からは100mほど離れたそこに落ち葉を持って行かなければならない。 もう何十年も前なら庭に落ち葉を集めて焚火をすればそれで済んだのだが今ではそうはいかない。 そんなことをするとすぐに警察と消防車が飛んでくる。 農家ですら禁止されているのに各家庭がこんなことをしてはCO2排出環境汚染の監視が厳しい折謝罪一筆だけでは済まない。 先月大阪の田舎で遠くの田んぼから焚火の煙がいくつも上がっているのをみてまだ田んぼがあることと日本では環境監査がゆるいのだなと感じたのだがいざオランダの我が家でそんなことを思い出しながらもう60年ほど前の家や近くの畑で焚いた火の匂いと時々ひっくり返して焼き具合を確かめるサツマイモの味を思い出した。 殊に籾殻で焼いたものの美味さはひとしおだった。 それに小学唱歌でこういうのも習ったのだが今の日本の子供たちには現実的なものとして響くのだろうか。

焚火(たきび)

作詞; 巽 聖歌

作曲;  渡辺 茂 

垣根の 垣根の 曲がり角  焚火だ焚火だ 落ち葉焚き
あたろうか あたろうよ  北風ぴいぷう 吹いている

 山茶花 山茶花 咲いた道 焚火だ焚火だ 落ち葉焚き
あたろうか あたろうよ シモヤケ お手手が もうかゆい

木枯らし 木枯らし 寒い道  焚火だ焚火だ 落ち葉焚き
あたろうか あたろうよ  相談しながら 歩いてく 

 

もう歳なのか子供の時に歌った唱歌が思わず頭に上ってこのところ何かにつけてここに書いている。 青年、壮年、中年にはそんな悠長なことに関わっている暇もなく、唱歌などとても口や頭に上ることはないのかもしれない。 だからこれは日々何もしない隠居同然の年寄りが子供の頃の記憶の中で遊んでいるというパターンなのかもしれない。 いずれにせよそんな老人でも作業用の手袋をして金属製の熊手を使ってあちこちから掻きだして集めては容器に放り込み手で押さえつけていっぱいまで詰め込みえっちらおっちらケージまで運んでぶっちゃけることを4、5回やった。 落ち葉だから重くはないけれど軽くもない微妙なものだった。 それを4、5回もやれば今日の運動には充分と後はソファーに沈んでテレビを眺めた。 

庭を眺めるとバラがまだ5,6輪咲いているのがみえた。 それにまだ幾粒か蕾が咲きかけていたのでおや、と思っていた。 10日ほど前今年最後の薔薇と題して写真を載せて下のように記したがそうではなかったことになる。 このところ急に寒くなったのだがそれまでは暖かかったのだからその余熱がボディーブローとして効いていて普通ならとっくに済んでいる薔薇の季節にまだ咲いているのだ。 10年ほど前のまだ寒い冬が続いたときの今の時期だったら庭に何の緑もなく一面の枯れ枝だけだったものがまだあちこちに赤やピンクが残っているのだから今年もまだまだ暖冬なのだろう。 薄氷はもう張ったが何週間も氷の上で遊べるような冬にはならないだろうと予測するけれどどうだろうか。 あと10時間もすれば-3℃になると天気予報は言っている。

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余りに天気が良かったから久しぶりの散歩に出た

2016年11月26日 01時56分52秒 | 日常

 

2016年 11月 25日 (金)

 

11時に起きたらいい天気だったから出かけるついでにこの間買ったウォーキング・シューズと春秋冬(マイナス10℃以下を除いて)に野外で羽織るコートに慣れるのに7,8km歩こうか、それには、小麦製品入りの朝飯は駄目だからと卵かけごはんと海苔、日本から持ってきた沢庵を玄米茶で喰って腹支度をして出たのだが、それが11時20分だった。 

気温4℃で少し風があるのか近くの風車が勢いよく廻っていた。 元々は水路の水を運河に汲み上げるものだったのが今は殆どその必要もなくそこに住む住人が時折「慣らし運転」のために回しているだけだ。 運河沿いに2kmほどを30分ほどで歩いて20分で医療ラボについた。 ここに来たのは腹痛の原因を探るために採血をすることと検便のサンプルを持って行く為だ。 この前ここにきて採血をしたのが2月だった。 その時からすればラボの女性ばかりの職員が若返っているのに驚いた。 財政縮小で若いから安い労働力が導入されたということだ。 採血の娘に、しっかり手を握ってくれ、失神するかも分からないから、と冗談をいうとモロッコ系の彼女はそれをまともにとった。 彼女の意見ではこういう場面で失神するのは女より男のほうが多い、というので驚いて反論した。 それはない、ドラマ、映画の中で失神するのは大抵女で男のそういうのを見たことがない、というと,それはドラマ、映画だからで実際は自分の経験も含めて男の方が多いのだと言い張る。 そこはそのままにして置いたけれど彼女の言うことはまだ信じられない。

そこを出てからブラブラと大きなコンテナーを積んだトラックが行き交う小工業地区を抜けて久しぶりに大学の図書館で日本の文学雑誌を読み町の中心の方に行った。 大通りの入口で半年ほど前にできた日本人が針をするクリニックがあるので外からガラス越しに中を覗いていると本人が出てきてそのアクセントから関西人かと問うと神戸だと言った。 自分は泉佐野だというと自分は熊取の上にある大阪体育大学で針をやったといい彼の妻は今日本に帰っていて熊取にいると言った。  熊取はどこ?このあいだまで自分はそこにいた、と応えているとオランダ人の中年男が自転車で来て針をやってほしいと来たから客優先だからそれからの話はまた別の機会にとそこを離れた。 ここから9000kmほど離れたピンポイントの土地のことをもう顔も忘れた男と話したのはほんの2,3分の間だっただろうか。 互いに名前も言い合ってはいなかった。 

そこから100mほど行くと旧郵便局と知り合いの造形作家が最上階をアトリエにしていた二つのビルが壊され専門学校の校舎になっているのを知った。 大通りからみると大きなガラス張りのビルでそこからライン川に抜けられるようになっていてその通路は旧郵便局横の通り抜けできる通路の跡で周りの景観は全く変っているものの裏に抜ける傾斜でそれが感じられるからだ。 若者たちが大勢大きいビルの中で集うのが巨大な窓越しに見えて旧造形作家のアトリエのビルには浮浪者、不法占拠者、麻薬のジャンキーたちが半ば仕方なく認められた形で何年もいた場所とは思えないくらいのメタモルフォーゼだ。 

デイパックの中には古LP/CD/DVD屋のペーターから借りたDVDが入っていてそれを返すつもりだった。 それにマイルスが出ているDVDも持っていてそれを見せると喜んで是非貸してくれと言った。 狭く雑然とした店には客が何人もいたので駄弁らずすぐそこを出た。

そこから市役所の裏にある小さな持ち帰りだけの鮨屋に来て握りをいくつか造ってもらい立ったまま一合瓶の酒で遅い昼飯を喰った。 そこの主人、その夫人といろいろ話しているうちに女学生が二人入ってきて切り餅を眺めているから餅の撞き方、形の作り方、喰い方を説明していると彼女たちは自分が先ほどいた図書館の日本学科の一年生だというのが分かりその後いろいろと話していると暗くなってきた。

スーパーで買い物をしなぜか急に甘いものが無性に喰いたくなったので日頃は見向きもしないドーナッツと居間の果物皿に無くなっていたみかんを補充するのに一袋掴んでデイパックに放り込みそのまま暗い道を歩いて帰ったら6時前だった。 夜遅くネットで今日のルートを辿ったら8.6kmだった。


寒くなったら古い皿に入ったスープが恋しくなるのか

2016年11月25日 02時06分15秒 | 見る

 

日中最低気温はまだ0℃より下がっていないけれど最高気温が5℃ぐらいの鉛色の空の下、家の中にいてもその寒さが感じられる宵には家人もスープで温まろうという気持ちだったのだろうか、そういうものが食卓に上った。 昼過ぎに昨晩の残り物、ハシェーが入った鋳物の厚鍋の上に夕食用と書かれた紙が貼られていた。 家人と二人しかいない家の中でこういうメッセージがあるというのはこれは自分向けのものでしかない。 つまり、喰ってしまうな、晩飯用だ、ということだ。 

昨日は白米でハシェーだった。 小麦粉を絡めた牛のシチュー肉をバターとオリーブ油で炒め、なべ底にこげ茶色の物がこびりついてくると充分な玉ねぎのみじん切りを加え炒めた後、安物赤ワイン、肉のブイヨン、丁子、ナツメグ、庭から千切ってきたローズマリー、セージにタイムなどを放り込みコトコトと弱火で2時間ほど煮れば基本は出来上がり、そこにニンジンやジャガイモ、トマトペーストを適量加え20分ほど煮て塩・コショウ・醤油で味を整えれば出来上がりだった。

昨晩の残り物の入った厚鍋には柔らかく煮込まれた肉と、グレービーとまでは行かない汁がかなり残っていてこれを今日のスープの基にしたようだ。 スープ鍋に刻んだベーコンを放り込み炒めて牛肉のブイヨンを溶いた液を注ぎサフラン、粉パプリカを振りかけ、その中に小さな玉葱、それよりも小さな新鮮な大蒜、ニンジン、赤パプリカに昨日の残り物を加え15分ほど火を通してポートワインを垂らし塩胡椒で味を整えれば出来上がりということだった。

冷蔵庫にあった普通は魚料理に使うディルを刻んだものを振りかけるとその香りがアクセントになる。 オーブンでカリカリに焼いた熱い黒パンにバターを塗って添えると腹に応えて温かくなる冬のスープの夕食となる。 これならどんな安ワインでも合う。

 

このスープ皿は家人の母方の農家からどういう訳か我が家に廻ってきてもう25年以上にもなる。 パン用、前菜用、本菜用、スープ用のセットで各々5枚づつ、それにスープ皿以上に大きな同じデザインで、4つの花弁で四角になったサラダボウル様の器がある。 昔のオランダ酪農農家で娘12人息子1人に両親、祖父母、住み込みの農夫2人ほどの大家族だったから今我が家の5枚セットというのは大家族にあった数の3分の1か4分の1だろう。 高貴な青と周りが金だから食器洗い機には入れられない。 もうそろそろ100年になる食器はスープを貯めるために陥没した縁の上に引かれた線、外縁のあちこちが少しづつ剥げているけれど昔の「晴れ」の舞台、そんな晩餐に使われたものだ。 当然、日常はさまざま大小の皿、ナイフにフォーク、スプーンがてんでバラバラに各自の前に並ぶのだが1年に何回かしか使われないディナーのセットであるのだから同じデザインのコーヒーカップのセット、紅茶茶碗のセット、グレービー入れなどがあったに違いなく、そうなるとかなりな量になるのだからそこでの大家族の営為の凄さというものが感じられる。 今それぞれに家にいくつそんなセットがあるのか。 我が家には皿とサラダ皿しかないけれどコーヒー、紅茶にデザート皿、ひょっとして牛乳入れに1輪挿しまであったのだったらそれらはどこに散逸してしまったのだろうか。 何年も前に家人の母方だけで我々の年代の従姉妹会というのをやった。 5,60人ほど来たのではないか。 実際はそれよりも多いのだが何れにしてもそれらの親たちはこれを使い形見分けや何やかやでそれぞれの家族にセットの部分がまだあるかもしれない。 古いものだし、それに底に特別の銘もないから捨ててしまっているものもあるかもしれない。 何れにせよその会ではこんな皿の話など全く出ずそれぞれ飲み食いするのに忙しいし話にしても互いの消息、暮らしぶりにそれぞれのオジ、オバ、父母の話しでこんな皿どころではなかった。 けれど我々の親、それぞれの親たちがこのセットを使っていたというのは紛れもない事実であって一年に何回かの晩餐のこんな寒い夜にこんなスープが供されていたというのを想うのはあながち外れでもなかったように思う。

 


ローン・レンジャー  (2013);観た映画、Nov. '16

2016年11月24日 22時24分49秒 | 見る

邦題; ローン・レンジャー     (2013)

原題; THE LONE RANGER

 149分
監督: ゴア・ヴァービンスキー  
製作: ジェリー・ブラッカイマー  
  ゴア・ヴァービンスキー  
製作総指揮: マイク・ステンソン  
  チャド・オマン  
  テッド・エリオット  
  テリー・ロッシオ  
  ジョニー・デップ  
原案: テッド・エリオット  
  テリー・ロッシオ  
  ジャスティン・ヘイス  
脚本: ジャスティン・ヘイス  
  テッド・エリオット  
  テリー・ロッシオ  
撮影: ボジャン・バゼリ  
プロダクションデ
ザイン:
ジェス・ゴンコール  
  クラッシュ・マクリーリー  
衣装デザイン: ペニー・ローズ  
編集: クレイグ・ウッド  
  ジェームズ・ヘイグッド  
音楽: ハンス・ジマー  
出演: ジョニー・デップ トント
  アーミー・ハマー ローン・レンジャー(ジョン・リード)
  トム・ウィルキンソン レイサム・コール
  ウィリアム・フィクトナー ブッチ・キャヴェンディッシュ
  バリー・ペッパー キャプテン・フラー
  ヘレナ・ボナム=カーター レッド・ハリントン
  ジェームズ・バッジ・デール ダン・リード
  ルース・ウィルソン レベッカ・リード
  ブライアント・プリンス  
  メイソン・クック  
  JD・カラム  
  ハリー・トレッダウェイ  
  ジェームズ・フレイン  
  ホアキン・コシオ  
  デイモン・ヘリマン  
  マット・オリアリー  
  W・アール・ブラウン  
  ティモシー・V・マーフィ  
  ギル・バーミンガム  
  ケヴィン・ウィギンズ  
  ロバート・ベイカー  
  リュー・テンプル  
  レオン・リッピー  
  スティーヴン・ルート  
  ランディ・オグレスビー  
  ブラッド・グリーンクイスト  
  ランス・ハワード  
  レナード・アール・ハウズ  
  トラヴィス・ハマー  
  ジャック・アクセルロッド  
  フリーダ・フォー・シェン  
 
日本でも人気を博した往年のTVシリーズを、「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズ、「ランゴ」のゴア・ヴァービンスキー監督&ジョニー・デップ主演コンビで映画化した西部劇アクション大作。復讐に燃える悪霊ハンター“トント”と彼によって瀕死の状態から甦った正義のヒーロー“ローン・レンジャー”の凸凹コンビが、巨悪への鉄槌を下すべく珍道中を繰り広げるさまをユーモアと迫力のアクションを織り交ぜ描き出す。共演は「J・エドガー」のアーミー・ハマーと「英国王のスピーチ」のヘレナ・ボナム=カーター。

西部開拓時代のアメリカ。正義感あふれる郡検事のジョン・リードは、勇敢なテキサス・レンジャーの兄ダンを無法者一味に殺され、自らも凶弾に倒れて生死をさまよう。そんな彼の前に現われたのは、ネイティブ・アメリカンの男、トント。少年時代の忌まわしい事件のために復讐に燃える悪霊ハンターだった。トントは、その聖なる力でジョンを甦らせると、それぞれが求める復讐と正義のため手を組むことに。そしてジョンは敵を欺くべく兄の形見をマスクにして、素顔を隠したヒーロー“ローン・レンジャー”となる。こうして共通の敵=極悪非道な無法者ブッチ・キャヴェンディッシュを追って旅に出た2人だったが…。
 
以上が映画データベースの記述である。 夕食後何も予定もなく、アメリカの新大統領の組閣模様を眺めるのにもため息をつきつつ何か息抜きになれるものとテレビガイドを見ていたら「ローン・レンジャー」と懐かしい名前が出ていたのでオランダの青年男女に人気のある民放テレビのゴールデンタイムに放映された本作を観た。
 
自分は1950年に生まれ、白黒テレビで相撲実況、ラジオやテレビの「赤胴鈴之助」を聴き、観たのを憶えている。 小学校に入るか入らないかの子供の頭にはチャンバラ、戦争、西部劇の活劇が雪崩を打って入り込みそれが還暦を疾うに超えた今の頭にもまだ沁み込んで抜けていないのは確かだ。 今思い出してみると鞍馬天狗や旗本退屈男、白馬童子よりも一層蓄積されたのは当時のアメリカで生産されつつあった活劇群だったように思う。 それは同時に戦後アメリカ政府の対日本文化政策の一環だったことが70年代になってから例証されたように記憶する。 つまり東洋の「軍国主義」を支えた危険な思想をアメリカ化するのにはまず柔らかい子供の頭にアメリカの「優れた」、民主主義」を教える政策として役立つとの目論見であったのは疑いがない。 今、下に示す50年代アメリカのテレビ番組一覧を見ても自分は活劇分野ではアメリカと同時進行の物をかなり見ているのに驚く。
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E3%81%AE%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E%E4%B8%80%E8%A6%A7_(%E5%B9%B4%E4%BB%A3%E9%A0%86)
 
世間を斜めに見るのが常になった今では何かにつけて先ず眉に唾をつけて見聞きする性分の自分ではあるけれど60年ほど前は「月光仮面」にならんで「弱気を助け強気を挫く正義の味方」代表の一人が疑いなくローンレインジャーだった。 今ではその英雄よりも本作の冒頭、50年代と思われる博物館をローンレーンジャーの格好をして訪れた少年に陳列ケースの内側からこの物語を語り掛けるトントのほうに親和性をを感じるのはコメディー仕立てのレーンジャーが能天気に映るだけではないように思う。 それに半世紀以上に聞いたトントが時々言っていた「白人嘘つく、インディアン嘘つかない」がその後様々な資料を渉猟する中で西部「開拓」史がどのようにネイティブアメリカンを扱って来たかこの言葉の意味がはっきりしてくるのだ。 それはほぼ同時期に日本人がアイヌをどのように扱ったかの歴史とも符合する。 そtれと本作で「キモサベ」の意味が説明されるが子供の時は単に「友人」だったものがここではもう少しニュアンスを含んだものになっている。 
 
六つ児の魂百まで、という言葉があるけれど自分はこの27年間ローンレーンジャーとジャック・スパロウが持つ44口径の拳銃を地元の射場で撃っている。 青年の頃にイーストウッドのマカロニウエスタンでリー・ヴァンクリーフの悪役に惹かれた。 実際、日頃腹が出てひげもじゃが多い射撃クラブのメンバーと年に一回の西部劇仮装パーティーをすると誰もが悪役となって登場する。 長年付き合ってくると外見とは裏腹に皆シャイで善良な市民であることが分かるメンバーが日頃現実生活のなかでのヒーローにはどこかうさん臭さを感じているからそれが変じてこうなるのかもしれないけれど少なくとも自分には近年活劇のクリーンカットな主役より悪役に惹かれることを自覚している。 アメリカ大統領で嘗て俳優であったレーガンが悪役を演じユニオンを纏めて政治家になったというのは知られたことだ。 現実から離れた空想・娯楽の映画の世界であれば悪は悪ければ悪いほど見るものを魅了する。 それはマカロニウエスタンやプロレスの例にいくつでも見られるのだから娯楽映画のこのジャンルで今「ハイヨー、シルバー」と白馬で登場する主役よりそこに持って行く悪役たちの面を眺めてニタニタする。 
 
例えばこの20年ほどであちこちで嫌われ役、ピリッとした味を出すのを見ていて近年は若き日のイーストウッド張りの額の広さでFBI捜査官をも演じるブッチ・キャヴェンディッシュのウィリアム・フィクトナーや第七騎兵隊のカスター将軍ばりの実力派バリー・ペッパーの助けなくしては本作はなりたたないだろう。 それに一番の黒幕、ウイルキンソンは「イン・ザ・ベッドルーム(2001)、「フィクサー(2007)」で味のある演技が見られ厚みのある名脇役であることは銘記されてしかるべきだろう。 このように悪役、脇役がこれほど引き立つのは本作がコメディー仕立てであることとも関係がなくもない。 観始めて、あれ、これはジャック・スパロウのスピンオフではないかと感じた。 それにトーンがティム・バートンのものに似ていると感じたのはデップ、カーター絡みだからだろうか。 尚、デップがインディアンを演じたものではジム・ジャームッシュの「デッドマン(1995)」が秀逸で嘗て下のように記したことがある。
 
http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/47583568.html

それにしても半世紀以上経っての現代のローンレインジャーはCG・ディジタル技術を駆使して文字通り西部の荒野を駆け抜ける素早さでありそのテンポは我々年寄りにはついていくのが精々なのだが、それでも鉄道が出てくると当然セルジオ・レオーネの「ウエスタン(1968)」が思い起こされて先行作品に経緯を評してか同じようなカメラアングルになると聞いたことのあるようなメロディーが短く聞こえたのにも一瞬頬が緩んだ。 こういうところに新旧の西部劇を好むものはただ西部劇だというだけでついつい見入ってしまうのだ。


胃?腸?肝臓?それとも?、、、、

2016年11月23日 15時56分59秒 | 健康

 

この半年ほど胃腸の調子が悪く痛みがあるときのために胃液分泌を抑える黄色いカプセルを処方されていた。 自分ではそのカプセルは対症療法となっても根本的な治療とはならないと考え痛みが堪らない時だけに服用し少しぐらいの痛みでは耐えられるなら飲まなかった。 日頃机の前に長く座り運動らしい運動もせず普通の人とはほぼ反転した生活時間の中でこれである。

この間一ケ月間日本に帰省していた時も生活は規則的ではあったけれどその規則性は必ずしも健康的とは言えなく、そんな状況にいて精神的にも気楽ではないものでもあり殆ど毎日何らかの痛みを感じており、30日のうち5,6回は服用したのだし一度などは3時間ほどおいて2錠目を飲んだこともあった。 面倒なのはそれがいつも痛むのではないことだ。 痛みはどこかに潜んでいて何かの時に現れる、それがほぼ毎日ということだ。

生まれてから3つほどまではひ弱な児だったらしいがそれから後は農家で育ち怪我はいろいろあったものの胃腸は今まで頗る達者で胃腸の弱い友人たちの苦労、気持ちが分からなかった。 けれどそれが還暦を過ぎて今自分の身に起こっていることで多少は理解できるようになった。 或る友人などは痛みも生涯長く付き合ってくると一種の「友達」になり得る、といったことも分かるようでもあるこの半年ほどだった。 けれどこの数日カプセルは服用しないものの痛みが頭をもたげてきたので医者に相談することにした。

今朝、家庭医に電話して午後の約束をとり2時過ぎてから雨の中を10分ほど自転車を漕いでこの25年以上一年に何回か出かける診療所に行った。 問診で前回半年ほど前に血液検査をし特別に癌細胞も見つからずただカプセルの処方を受け、それ以後今までの経緯を話すと、ああ、前回は2月だったとモニターを見ながら言うのに驚いた。 自分では半年前のことだと思い込んでいたのだ。 老人にはこんなに月日の経つのが速いものかと再認識して別室のベッドに横たわり触診を受けた。 医者の見立ては以前と変わらないものの自分が疑う腸のことを考え検便で確認することにしてそのようなパックを手渡された。 オランダ全土で老人の腸にかかわる2年に一度のガン検診モニターが半年ほど前にありサンプルを郵送しておりその結果も家庭医のコンピュータに入っていたけれど念には念を、ということだろう。 肝臓の恐れはないかと尋ねても触診の感触ではそれはなく訴える症状にも該当することもないけれど前回と同じく血液検査の結果でそれがはっきりするとのことだ。 明日新しいサンプルをもって町の外れにあるラボに出かけそこで血液採取される。 結果は二、三日で分かるらしい。 それで原因が分かりちゃんとした治療のための処方がでるのだろうか。 

家に戻って日記を繰ってみると「胃の調子が良くないようだ」と題して今年の2月20日に次のように書いていた。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/65049609.html 

そのときのことからするとその2か月ほど前から痛みを自覚していたようだからこの痛みが始まってからそろそろ1年になるようだ。 まだ「友達」とはなっていないが付きまとってきてそんなになるのか、という知り合いぐらいの関係にはなっているのだろうか。 2月からだからほぼ300日の間で黄色い錠剤は20粒ほどしか服用していないのだがこんなうだうだいうのならずっと服用していればよかったのか、という気にもなる。 そうするとこれから他の薬と同じく一生飲み続けなければならなくなるのだろうし何とも残念な老人になるようで当分はこの痛みに慣れていようと思うのだ。

 


百舌鳥が枯れ木で、、、、

2016年11月22日 23時49分37秒 | 日常
 
3軒ほど向うの庭の木の天辺に一羽の鳥が止まっているのが見えた。 鬱陶しい鉛色の冬空に一羽かなり長くそこにいるので腰のカメラをとって一つシャッターを切ったら飛んで行ってしまった。 遠くから見ると何か分からなかったものが撮れたものをズームにして視ると何か分かった。
 
遠くの梢で一羽の鳥が止まっているのをみて初め頭に浮かんだのがもう半世紀ほど聴いていない60年代、日本のボブ・ディランとさえ言われた岡林信康が歌った「モズが枯れ木で」だった。 
 
 
モズが枯れ木で
 
作詞:サトウハチロー、作曲:徳富 繁
 
 
1 もずが枯木で 鳴いている

  おいらは藁を たたいてる
  綿ひき車は お婆さん
  コットン水車も まわってる

2 みんな去年と 同じだよ
  けれども足りねえ ものがある
  兄(あん)さの薪割る 音がねえ
  バッサリ薪割る 音がねえ

3 兄さは満州へ 行っただよ
  鉄砲が涙で 光っただ
  もずよ寒いと 鳴くがよい
  兄さはもっと 寒いだろ

 

岡林は大抵ギター一本で歌い、時々はギターなしで「もずが枯れ木で」を歌ったのだが彼のレパートリーの中ではすでに歌われて何年もなるものがプロテストソングとして光るものでかれの呟くようなアカペラで聴くと忘れるものではない。 半世紀も経って冬の庭の木の天辺に見えた鳥を見てこの歌が頭の中に広がり同時に岡林にも想いが言ったのだが、我々はディランがアコ―スティックからエレキ・ギターに持ち替えた時にそれをどう捉えるかということを友人たちの間で議論したのだが、それから暫くして岡林も「はっぴいえんど」をバックに歌い始めていた。 

自分が日本のフォークというものを面白いと思って聴いていたのは友人が会員だったURCレーベルのLPを通じてだった。 それは68年から70年までの比較的短かい時期でその後、日本のフォークというものが若者のメジャーとなるとそこでは目も当てられない惨めで中途半端な女々しい四畳半ものになり始めていた。 多分時代は経済がブーストされ今とは比べ物にならないほど増えた親の収入で「甘やかされ」た若者たちはURCのマイナー批判力をもつフォークを知ることもなくマスメディア主導のフォークと名付けられた「娯楽」に流れて行ったのだろうしそこには若者の政治の季節は終わっていたのだと今になっては思われる。 

そうは言っても「もずが枯れ木で」に通じる加川良の「教訓I」などの女々しさには共感を持ち口ぐさむこともあるけれどそれは今でも続く何でも戦争反対、戦争こわい、だからイヤ、というものではなかったように思う。 その違いは内だけに意識が向いているか内外を踏まえて歌うかの違いでもあるように思う。

ここに載せるのにズームし、暗い原画に明るさを加えると微かな緑色が出て、あれ、これは オランダ語で言う Parkieten (インコ)じゃないか、百舌鳥はどこに行ったのかと先ほどまでの重さがパッっとインコとともに消え去って薄緑のイメージだけが残ったのだった。 けれど普通パラキートがこの辺りを飛ぶとその薄緑色が随分群れてとぶのだから空の色で分かるのだけれど宮本武蔵描くところの「枯木鳴鵙図」とまでは行かないけれど一羽だけ止まっていると冬の鬱陶しい空の下、実際より光があると少しはウキウキするようなインコの色を「百舌鳥が枯れ木で鳴いている、、、」風にしてしまうのだ。

 

 


’16秋、一か月の帰省(4);鶏頭

2016年11月20日 23時14分26秒 | 日常

2016年 10月 26日 

老母を見舞う毎日で母の昼食後自分の腹に何か入れに1kmほど歩いていくつかある飲食店を毎日順繰りに食べ歩いて過ごしていた。 一人で静かな部屋に坐っている毎日では腹が減るわけでもなく喰い物は軽いものに向かいがちだった。 家人がオランダから来てから一緒に介護施設に通うようになってからこの辺りの田舎にそぐわないような美味い鮨屋で昼食にすることがあった。 その店では自分は適当に握ってもらい冷酒で昼食にするのだが日本料理を喰いたいという家人には毎回そこの和食を食わせる。 鮨屋であり材料もしっかりしていて特に日本料理の野菜の煮ものがしっかりしているので驚くほどの本格的な料理と味は毎回新鮮な驚きだった。 家人はどこの料理よりもここが美味いと言った。 そんな食事の後、道を隔てた向かい側にある地元の農産物を売るスーパーを覗いた後腹ごなしに丘の上に登ろうとスーパーの裏の路を辿ると畑の一面の赤に目が眩んだ。

鶏頭だろうと思ったけれどオランダに帰ってからグーグルで検索するまで自信がなかった。 自分が昔見慣れた鶏頭はもっと背丈があって頭が垂れることもなく色もワインレッドで頭が直線に並んでいた。ここに見られるように丸く垂れるようなものではなかったもののここでは鶏頭の特徴的な襞はあった。 スーパーの建物の後ろに隠れたような突然のこんな赤の広がりは驚きだった。

 鶏頭の十四五本もありぬべし (子規)

ここでは14,5本どころか千を遙かに超す鶏頭が咲いていた。 病床の子規が庭に観た鶏頭はどんなものだったのだろうか。 これを見て自分がオランダに住み着く様になったのも子規がらみだったことを思い出す。 子規の松山で5年過ごしオランダに来るようになったのは俳句絡みだった。 アメリカ人の教授に助手として誘われたのは、子規から太平洋戦争が始まるまでの「子規派」の一万句を英訳してコンピューターでデータ・ベースを作り、それに日英季語辞典・日英辞典を作りつつデータとして使い、そこにランダムに言葉を打ち込みモニターに現れたものを継続して観察すれば欧米人には日本文化が自ずと理解できるという目論みのプロジェクトに参加するために来たのだった。 1980年の春に3000句ほど既に済ませていたころに参加しその後3年ほどで完成させたのだが、その継続プロジェクトの補助金を求めたオランダ文部省にはそれを評価する、理解できる人材がいなかったためそこで打ち切りになり自分は路頭に迷う。 その後自分は別の職を得て29年奉職した後定年したのだった。 その30年以上前に作られた膨大なデーター・ベースは今もどこかで巨大な旧式ハードディスクに収まっているはずだが、それは今バーチャルな埃に埋もれたままになっているはずだ。 そしてそんなものは世の中にある膨大な研究屑の中の一つでしかない。 

鶏頭畑を見下ろしながらも徐々に木の間を縫って丘に登れば余り見晴らしの効かない、のんびりとした飛行機型のジャングルジムがある玉田山公園なのだが、頂上からは関西空港に離着陸する飛行機や大阪湾を隔てた淡路島の一部だけは見ることができるだけだ。 初めて人気のないここに登った時にはジョギングで走っている人と鉢合わせになり驚いたのだが、山を歩く様に木の間を縫う小路を辿って丘を回りこむと途中で鉄棒や自分で運動できるようなフィットネス用の器具が埋め込んであるところに出る。何日も母の部屋、若しくは病室に坐っているとこういう運動具が恋しいような気分になりながらもそこを通って元の鶏頭の畑に戻って歩いて来て多少の心慰みにはなった。 尚、一ケ月の滞在中ちょっとした坂を上って景色を楽しんだのがもう2回あった。


日本人の勲章   (1955);観た映画、Nov. '16

2016年11月19日 19時46分58秒 | 見る

 

邦題; 日本人の勲章    (1955)

原題; BAD DAY AT BLACK ROCK

81分

 
邦題から受ける感じでは、日本人が大活躍しそうだが、そもそも日本人は登場しない。左手の無いトレーシーが、カッコいいカラテの型を見せる異色のサスペンスである。舞台は40年代後半だが、ほとんど気分は西部劇である。モダンな特急列車が臨時停車する。降り立つのは、イタリア戦線で戦死した兵士(これが日系二世)への勲章を、その父親に渡すためにやってきたかつての上官。その兵士は彼を救けようとして、犠牲となったのである。が、目的の父親は、既に、日本人を憎悪する町のボスたちのリンチによって死んでいた……。収容所問題など、日系人差別の問題が近年またクローズ・アップされているが、本編はその最初の、映画による告発として貴重である。スタージェスの、少し物足りないくらいのタイトな演出も快い。
 
上記が映画データベースの解説だ。 もう二か月ほど借りたままでその間に日本にも帰省し、そろそろ返さなければと思っていたDVDを晩飯コールがかかるまで屋根裏のパソコン・モニターで観た。 屡土曜のマーケットの折に寄る古レコード/CD/DVD屋のペーターのところで何か面白い西部劇がないか尋ねた時にあんたのまだ観ていない西部劇などここにはないけれど1950年代の西部を舞台にした西部劇だといって渡されたのが本作だった。 それに添えてまた観たいから返してくれと念を押されてもいた。 手元の箱を見るとドルビーサウンドは英語だけ、モノラル音声はフランス語とイタリア語、字幕はオランダ語、英語、フランス語、アラビア語、ブルガリア語、イタリア語となっている。 けれどアマゾンから牽いた写真には韓国語でタイトルが書かれているから中国語の吹き替えなどのものもあるかもしれない。 いつだったか多分違法にコピーしたヨーロッパのクラシック映画が乱雑に捨てられていてその中から英語の物ばかり拾って今でもそのまままだ観ずに置いてあるけれどドイツ語、フランス語のものもあったけれど自分にはそれらの言葉は映画で訊くには不自由だから普通は英語かオランダ語の字幕で観るのだが字幕が中国語ではどうにもならないから結局英米の白黒クラシックが何枚か溜まった。 90年代に西部劇のクラシック映画がデジタル化によってきれいに「洗われ」はっきりと瑞々しくなりそれが徐々にイギリスBBCテレビで放映されたのを見ている。 それは当時アメリカで盛んになってきた専門チャンネルで西部劇が盛んにデジタルで創られて来た新作とは明らかに雰囲気の違うものでスクリーンの中には明らかに当時の西部劇が息づいていた。
 
ペーターがいう50年代の西部劇だ、スペンサー・トレイシーとロバート・ライアンのだ、というだけで悪くないに違いないという確信があった。 スペンサー・トレイシーを始めて観たのはヘミングウェーの「老人と海」を映画化(1958)したものだ。 高校生の夏休みに文庫本でヘミングウェーのものは殆ど読み、「誰が為に鐘は鳴る(1943)」でのゲイリー・クーパーとイングリッド・バーグマンを文庫本の男女と重ね合わせてみて今残るのはクーパーとバーグマンであり青年期に観た映画のインパクトを今更ながら感じるものだ。 自分にとってはトレーシーは既に昔の役者ではあるけれど漁師がボートに揺られるだけの映画で見せて青年を退屈させなかったのだから大俳優である。 本作で登場した時からその貫禄は十分ある。
 
出だしが秀逸だ。 まさに西部劇のお膳立てをそのまま、絵面も構図もそのままで50年半ばの西部の町からの導入部にはワクワク、ニヤニヤが止まらなかった。 それにライアンが出て来るまでの若きリー・マービンの悪に後年ヒーローになるまでの、ヒーローなっても残る悪が見られてうれしいし、ボーグナインのニタニタ笑う悪さにも嬉しい限りだった。 それにしても左手をポケットに入れたままの謎が最後まで持ち越され初めはそこにはボンドがワルサーPPKに替わるまでのイタリア製ベレッタを忍ばせているほどだと想像していたのだがそうではなかった。 西部劇でチリチリと悪に苛められそれが限度に来ると爆発し殴り合いとなる設定されたそのアクションを禁じる「足枷」なのかと思ったのだが想像以上の空手チョップにボーグナインの反応が白々しく映るほどのものだったので結局主人公が暴力を振るうというのはそのシーンだけだった。 西部劇の銃による発泡はライアンのウインチェスター・ライフルがスペンサーの片手で運転するジープのヘッドライトを壊す程度でしかない。 本作は嘗ての良質の映画がそうであったようにセリフを楽しんでそれがお祭り騒ぎのようにぶっ放す西部劇から隔たった、普通の閉じられたコミュニティーでの問題、犯罪解決プロセスを見せるまともな劇であることだ。 そのフォーマットがきっちりとした西部劇だったことで観た後も、ああ、西部劇だったと納得できる種類の作だった。
 
尚、ペーターから借りた時には原題から邦題は想像も出来ず、トレイシーがこの町にやって来た由来が日本人の Kamoko だというのを聞いてこれは誰だと思った。 それでこの小文を書くのに牽いた映画データベースで初めて邦題を知った。 この邦題は日本のマーケットで売るためのものでしかない。 50年代からアメリカに住む日本人というのは承知しているし、大学の教師は日系2世のアメリカ人、知人にロスの日系商工会議所の会頭の子どもがいたし、その家は戦前から3代続いた日系アメリカ人であり、高校の同級生がロスの近郊に今初代日系日本人として30年ほど住んでいる。 それに南北アメリカの日系移民についてはその歴史の概要は承知している。 けれどである。 けれど本作で発せられる Kamoko、Kaneko?, Kameno?, Kamiko?, Kameko? とあるような名前をどんな漢字だろうと想像してみたけれど何とも収まりがつかなく、初めはそれが苗字か名前かさえ分からなかった。 
 
今でも日本以外で発せられる中途半端な発音の日本人の名前が分からないことがあるのでここでもそうだったことにうんざりした。 けれど名前にはいろいろあるから Kamoko さんはいるかもしれないけれど 何故 Ito, なりSuzuki, Honda, Toyota, Subaru、Daihatu , Kawasaki, Nintendo にしなかったのかと問うても50年半ばにはまだ日本の工業製品はアメリカに雪崩をうって流入してはいない。 中国人は1860年代を舞台にした西部劇には大量にクーリーとして登場するけれど本作には見られなかった。 だからこのBlack Rock というところは今では世界の果てでもいるという中国人さえ住まない寂れた村だったのだろうか。 だからそこに住んでいた日本人の農家が、町の住民が50年代の普通の田舎の町で少々くたびれた服装の男たちだったのに比べてしっかりと背広をまとったトレイシーが訪れる場所だったのだ。 そんな50年代の服装でマービンが2,3度短いシャツの後ろをベルトの下に戻そうとする仕草が目に残るのだが流石にこの町でただ一人登場した女性アン・フランシスのピンアップ衣装には眼を奪われこそすれ流石にくたびれたものを見せない塩梅は時代を感じさせるものだ。 
 
もう一つ、ニタニタしたことがある。 DVDはステレオ・ドルビーサウンドだったのだ。 作中、ホテルのロビーで男たちが集まって会話が進む中でマーヴィンがちゃちなスロットルマシンを弄ぶ音が聞こえカメラ・アングルが変わるたびにその音がマービンの配置に伴って右に左に移動する。 50年代の映画でこんな音の分離のいいものを観た、聞いたのは初めてだ。 デジタル化したときに操作して作ったものに違いない。 自分がドルビー映画で初めてすごいと思ったのはやはり西部劇で、大阪難波の南街シネマ観た「カスター将軍(1967年)」だった。 子供のころそこでシネラマを観てから以来の、そのときはワイドスクリーン・視覚の驚きだったのだがこんどは音の驚きだった。 あるシーンでは観客の後ろからインディアンの赤ん坊の泣き声が聴こえ画面ではそれに向かって第七騎兵隊がこちらに突進してくるというものだった。 明らかに鳴き声は観客の後ろから聞こえて来たのに感動したことを憶えている。 もう半世紀前のことだ。 今ではそれが当たり前になっており大型家電量販店のディスプレーを見るたびにそのことを思い出す。 だから今日、本作で突然体験したドルビー・サウンドに奇妙なちぐはぐさを覚えニタニタしたのだった。