暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

ピーターの小道 ドイツ国境ライン川あたり(6)

2006年11月30日 09時08分16秒 | 日常
前日15kmを中途半端に歩いた。 というのは、歩き始めてから10kmほどは別段休憩をすることもなく歩き続けて1時間ほど昼食を途中のホテルのレストランで摂り、ちょっと歩いて又、堤の上のカフェーで時間待ちのため1時間ほどビールを飲んだり行き交う川舟を眺めたりして過し、それじゃあと又15分ほど歩いて周りになにもないライン川の吹きさらしの渡しで30分ほどぼんやり待った一日というのは歩いたような歩かなかったような中途半端な気がした。

オランダはドイツ国境のこのあたりや南のドイツ、ベルギーに近いリンブルグ州は丘陵地帯があるものの、一般的には平らな国だから30分ほど歩いていればほぼ自動運行装置が働くのか体が自然に作動して単調な道では中途半端には停まりたくなくなるものだ。 1時間半か2時間に一度ベンチに腰を下ろし、今の時期ならみかんを一つか二つ口に入れるだけでいいし、暑い時期なら水を補給したりして10分ほど休憩する。 だからこんなコースで渡しの都合で1時間半以上時間をつぶすのは体が歩きたいと欲求不満のシグナルを出しているようなのだ。 奇妙なことだなあとおかしくなる。

二日目はそういうこともなくホテルでコンチネンタルとイングリッシュ両方の朝食を充分目のミルクティーでほぼ満腹気味に採って、途中の昼食時、山野の中のカフェーが不如意のことを考慮してフランスパンに野菜とハム、トマト、胡瓜、ウインナーソーセージを挟みバゲットのサンドイッチにして、バナナ、林檎、みかんも食堂のヴァイキングのテーブルから持ってきて、もらったビニール袋に入れて弁当にした。 クッキーや紙パックに入ったジュースも呉れたのはこのホテルではピーターの小道を辿る人のためにはチェックインの時の飲み物、夕食のコースメニュー(スープ、メイン、デザート)、朝食、弁当つきで一人8000円程度のパッケージになっているからだった。

宿を出たのは日曜の朝、9時半、これから20kmほど歩くのだが寒くもなく前日と同じく朝からセーターのみで軽快に小さな町の中心にある教会の塔を横目でみて町外れに来ると新しいうちが並びその地区を抜けていくのだが、古い中心部はそれぞれの町や村にはなんとか特色らしい風情があるのだが新興住宅地区は全国どこに行っても同じで面白みがひとつもない。 だから広々とした田園風景の中に出るとほっとして農道に沿って歩くのだが日曜の朝には車も人もほとんど見えないし、この時間ならば日曜の教会での礼拝に出るきっちりした服を着た人たちが車で10時の鐘に間に合うように通るぐらいだ。

教会に代々通い続けている人たちは多分それから1時間程度、説教を聞き、賛美歌合唱を行い、そのあと教会の近くのカフェーでビールやジンを飲みながら村人と談笑し、家に帰り日曜の昼食(正餐)を家族と摂りゆっくりするという日曜を過す、というのが伝統的な日曜日だ。 厳格なプロテスタントでは労働やなにか日常にする作業はしてはならない、というところもあるから面倒である。 いまでも大都市を除いて日曜の休業原則をとるところが多いから日曜の村は昼頃からのカフェーを除いて店は閉まり静まり返っている。 これは日本から来る人たちには異常に映ることでもあるかもしれない。 そういう静寂というのは日本では田舎を除いて地方の都市でもないに違いない。

田園地帯の広々とした何もない風景では中世と同じような経験ができる。 昔、歩いて村から村を旅するものには簡単な地図はあっただろうが方向さえしっかりしていれば大きくは迷う事はない。 田園地帯の真ん中で周りを見遥かすと大抵3-5km先には教会の尖塔があちこちに見える。 それを目指して辿ればそこには宿があり、村があるという仕組みで集落と外の田園地帯というものが今でも昔の面影を残してかなりはっきりとしているのだが、しかし、小国の人口膨張から、どんな町でも郊外には徐々に何処も同じ画一の住宅地が増えている。

いくつかそんな村を通過していると11時前になり老人たちが夫婦で日曜の服装で教会に向かう姿が見られ軽い挨拶をしながら通り過ぎるということになる。 ここでは11時である。 多分、日曜の朝は昔に比べて一様に寝坊をするようになり、特に小さい子供をもつ家族のために時間をずらせる傾向にあると聞いていたからこの村でも教会離れが進む若い世代を引き止めるための施策なのだ。 そうしているうちにまた村をぬけドイツ領に入り小さい村のカフェーでコーヒーを飲むことにした。

ドイツとオランダのカフェーのコーヒーには違いがある。 ちょっとしたところではドイツでは2,3杯分の量を小さなポットに入れてくるから一杯だけならそういう風に初めから注文しなければ戸惑うことになる。 それと一般にドイツのカフェーのコーヒーはオランダのものに比べて酸味がありきりっとしたコクがあるように思う。 カプチーノやエスプレッソなどを注文するとこれはどこに行っても同じような味なのだから普通のコーヒーを頼んだときの味の感じだ。 日頃オランダの昔ながらのカフェーで飲むコーヒーは重みがありどっしりとした感じだ。 勿論、何千、何万とあるカフェーのことだから多分、個人的な印象なのだろうし、最近は機械で業者が卸す材料をボタン一つで作るのだからブランドが画一的な味を決めるということになりがちだから20年前とは大違いだ。

国境を越えるとこの教会のそばの小さなカフェーのバーの続きには奇麗に布のナプキンをかぶとのように折ってナイフやフォーク、ワイングラスなどをセットした小さいテーブルの上に飾ってあるのが沢山ある。 ここでは教会の後、家族で昼食を摂る組が多い、ということだろう。 オランダではこれはない。 倹約のオランダ、豊かなドイツということだろうか。数キロメートルの違いである。 そこの女主人は上手なオランダ語で、今日は暖かいから食事の後に散歩でもするのか予約が多い、と言っていた。


ピーターの小道 ドイツ国境ライン川あたり(5)ロダンのデッサン

2006年11月30日 06時06分50秒 | 見る
ホテルの食堂で余り刺激のない、今までの宿になかったほどの凡庸なディナーを、それでも1時間半ほどかけて済ませて自室に戻り家人と大きなベッドに横になって斜め上方に架かっているテレビのニュースを見てから、さて、と部屋の中を見回すと二人の足の向こうに複製の絵が架かっているのが見えた。

大きくオーギュスト・ロダンと書いてあるから中学生の頃から見知っているロダンだ。 初めて自分ひとりで美術館に行ったのが和歌山県立美術館まで1時間ほどかけて電車で出かけた松方コレクションの展覧会だった。 もう40年以上も昔のことだ。 そのなかで御多分に漏れずロダンの像に魅かれた。 大小のブロンズ、幾つかの大理石の彫刻を見たし、その後あちこちで見ることになった。

オランダにくることになったとき、ヨーロッパの地を初めて踏んだのがパリだった。 そこで一週間ほどぶらぶらしていて美術館を廻ったときにインヴァリッドの近くだったかにあるロダン美術館を訪れたし、家人とまだ仕事も家庭も子供もない20年以上前、ぶらぶらしていた頃にフランスをボロ車で当てのないヴァカンス旅行をしたときにもドーバー海峡のフランス側、カレーの町で市民の群像を見たのだし、その後、この作家のことを徐々に知るにつれ興味も他に移っていき各地の美術館で見るのだが取り立てて注意することもなくなっていた。

確かに作家はデッサンをするのだし、どこかでロダンのものも見ていたはずなのに記憶がない。 そこでこの五人のアフリカ女性群像とも思しきデッサンとも色彩スケッチともいえる作品が仰向けに寝転んだ4つの足首の上、正面にある。 群像仕立てにしたのか踊りと見える動きを捉えようとするいくつかパステルかコンテを動かして描いたものだろう。 旧フランス植民地の女性たちなのかみんなゆったりとした布をまとって細身の体を動かせているのだが、能や舞の所作のような形にも見えるものがある。 大抵このような踊りには音楽がつきものだからそれではどんな音なのか、太鼓はあるのだろうが、笛は弦楽器は、と興味が湧く。

真ん中と一番右のものは両の腕を下ろして腿のあたりに置き、広げ気味の足で強く大地を踏むスタンプをしているようなのだが真ん中とその左の姿では足の位置を消してやり直した形跡がはっきりとある。バリ島かタイの踊りの所作にも見えるし、特に左端のものに一番気持ちが行ったのだが、それはその格好のよさに加えて、どこか三年前に奈良を家族で歩いたときに久しぶりに新薬師寺を訪れて昔に比べると格段に明るくなった堂内の十二神将立像の一つの立ち姿に似ているなあとも想いながら眺めていたのだった。 中国の芝居で孫悟空もこのような所作をするのだはないか。

多分、この複製の元はロダン美術館の収蔵品だったのだろうか、番号の4517という数字まで見える。 

ピーターの小道 ドイツ国境ライン川あたり(4)

2006年11月29日 07時37分15秒 | 喰う
この何年か途切れ途切れにオランダを縦断するピーターの小道を歩く楽しみは、一泊なり二泊するときの宿の食事とか途中に休憩する村のカフェーで飲み食いすることにもある。

森や畑、なにもない田舎道をあるくのだから、そのような道中にあるところでは特別なものは期待しないが、それでもその土地の普通の食べ物であったり、そのカフェーで地元の人たちに混じってとる普通のレストランやカフェーの様子が興味深いのだ。ごく普通の素朴なものでも味わい深いものがある。 地元の人が昼に食べるものはどこかでひきつけるものがないと寄り付かないのだろうから、ときには質で寄り付けられないなら量で逃さない、という微笑ましいものまである。 農夫しか来ることのないような辺鄙なカフェーで注文したときには我々がその量に驚いている様子をまわりの客が笑いながらながめている、という場面も何年か前にはあった。

今回は一泊二日で初日の昼食は途中に通過したライン川沿いの町のホテルのレストランだったのだが、この町に着いたときには初めに目に付いたカフェーのオカミサンが表を掃除していてそこはその日は休業していたのでどこか近くの食事のできるところをと紹介してもらって入ったのが出張旅行や地元の人達も集う中年以上の人々が集まりそうなホテル・レストランだった。 

メニューは1時をもう廻っていたのでランチメニューだけだったし、とりたて他とはかわったものもなく、それこそスナックだけだったのでこちらとしてもこれからまだ歩く身、満腹にアルコールは禁物であるからオランダの冬の常套、青豆のスープにオムレツを注文した。 家人は同じスープを注文しただけだった。 スープといえどもスープを飲むとは言わず、食べると表現するとおりずっしりと重い。 大抵スーパーマーケットでも近所の肉屋でも様々な青豆のスープは売られているので多くは大工場で大量生産で造られた缶詰や冷凍食品を解凍したり暖めたりしたものに違いない。

良心的なところは自家製で冷凍しておいてそれを一日の予定数だけあらかじめ暖めておくということだ。 大抵そこには2,3切れの大麦から作られたパンともいえない軽い発酵酸臭に甘みのある煉瓦ほど重いブロック状の「黒パン」を薄切りにしたものに豚の脂肪分の多いよく燻製されたベーコンのスライスを載せたものを添えるのが定番だ。今の時期からはどこの食堂、カフェーでもこの青豆のスープは求められる。

この日はもう1時をかなり廻っていたので空腹だった事は確かだがはっきりこれが最近ここで時間をかけて作られたとわかるほどしっかりしていてスープの緑色のどろどろの中のさまざまな野菜がはっきりそれぞれ味覚に反応した。 かりっと焼いた細かいベーコンと細かく刻まれた葱の白と緑のトッピングがベーコンの上に塗られたフランスマスタードと合って、それこそ、そのへんの街にあるカフェーのマスターがいやいや缶を開けてチーンしただけのうんざりするようなものと同じような600円程度だったのだから雲泥の差である。

遅いランチを取るものは私たちだけでしかなく、多分、夫婦でホテルを始めてもう少しで40に手が届きそうなシェフの旦那がキッチンから私たちに持ってきてくれたものは普通だがきっちり行き届いた、近年にないまともな食事だった。 それに普通の百姓のオムレツと呼ばれる野菜が沢山入った卵料理の卵の具合が誠に適切で、そこを出るときには小雨が降っていたのだがそれでも幸せな気分だった。 

そこからライン川を歩きながらこの町にもし来るようなことがあって、あの夫婦がまだ宿のオーナーなら一泊して夕食を食べたいと二人で話したのだが、このときはこの晩の宿舎のホテルのディナーの凡庸さにうんざりして幾つも食べ残すことになるとは想像もしていなかった。

この徒歩旅行から帰ってきた晩のテレビのニュースでミシュランガイドの新しい版がこの日に出て、今まではベネルクス三国のガイドブックだったものがオランダだけで一冊になったと言っていた。 そしてオランダでは最高級の二つか三つの三ツ星レストランのうち老舗のロッテルダムのレストランが3つ星から1つ星に格下げされたものの、一つ星のレストランが各地に出来たこともオランダだけで一冊になり、しかも以前の三国分よりも厚くなっているということだから楽しみだ。 ひょっとしてこの日の昼食をとったレストランや以前、ホールンの町の港の入り口にある塔の中にある魚専門のレストランも入っているのかもしれないと、そのうち本屋で立ち読みをしてみようようと興味が湧いた。

ピーターの小道 ドイツ国境ライン川あたり(3)地図を見る

2006年11月28日 11時19分39秒 | 見る
もともと昔から地図を眺めるのは楽しみだった。

中学生の頃から5万分の一の地図で近くの山脈を歩いたものだが大学に入ってからはヒッチハイクやバイクで短い旅はしたものの道路地図ではただ点を辿ることだけで地図を読む、ということからは離れてしまった。

ヨーロッパのあちこちに出かけるのは都市を除いて田舎が多く、そこを歩くとなると自然と詳細な地図が必要になるのは当然で、読み誤ると極端な場合は生命の危険にさえ至る場合がある。 幸いにして迷ってもせいぜい1時間ぐらいで持ち直すような経験があったぐらいで事を得たのは、それも良質な地図に助けられてきたからだろう。 大抵町には専門の旅行書籍、地図専門店があり、この20年で必要から集めた地図がかなり溜まったけれど、時々そういうものを眺めていると地図を買った当時に歩いたそこの景色と思い出が蘇るのものだ。

この日の4枚目の地図は白いマルのピンポイント間は4kmのものである。 これは歩いて1時間弱程度で、これまで右下方から左上方に流れるライン川の堤を5kmほど下流に向かって歩いて来たのだが川岸にあるカフェーは赤いコーヒーカップで示されていて食事も出来るのだがこの部分では国境が川の中心線だとは地図を見るまで分からなかった。ここから渡しまで歩いても30分もかからないのだが時間を調整するためにビールやコーヒーを飲みながら川を忙しく行き交う船を眺めていたのだが、渡し場の100mほど上流からは川は全てオランダ領となっていてこの晩の宿泊ホテルのあるミリンゲンという町は右下の角となったところに川から続いた国境が走っていてトラクターが通るような農道が国境線になっている町外れでは、2,300m離れたお隣さんはドイツ人、多分日常に交わすのはここでは方言でオランダ語、ドイツ語が混じったものかもしれない。 いずれにせよそれぞれの農家で見るテレビ、聞くラジオはそれぞれドイツ語、オランダ語の放送に違いない。

いずれにせよコーヒーカップのカフェーまで順調に歩いてきて3時の渡しを逃し、次の5時5分の最終便までの時間調整他のため1時間ほど時間をつぶし、この町の中心にある白丸ピンポイントの100mほど上方、バス停の前にあるホテルに着くまでこの3km弱を2時間半かけたことになるけれどその前に2kmほど上流のレストランで遅い昼食を1時間ほどかけて済まし、ここまで30分ほど歩いてまた1時間ほど休憩だから殆ど腹ごなしにもならない散歩だった。 ようやく腰を上げ、カフェーの後ろに広がる湖に沿って歩いているときに今は誰もいない初冬の砂浜には夏場には人々で賑わうだろう事が予想され、数百メートル先にある小島まではゴムボートや泳いで渡るに違いなく、夏のその頃の楽しさが想像できるのだが、けれどその暑さの中を今日辿ってきたライン川の堤を5kmほど炎天下に歩く無謀さはもうこの歳になってはないなあ、と確認したのだった。 現に夏にはこの近くで何万人も参加し、なかには日本人のグループも毎年くるような国際徒歩イベントで今年は何人か倒れて死亡するものが出る騒ぎになったのだがこのさえぎるものが何もない高い堤の上を何十キロも歩くとそうもなるのも肯ける。

 


ピーターの小道 ドイツ国境ライン川あたり(2)

2006年11月28日 07時47分20秒 | 日常
実際にドイツ、オランダの国境線、特に田舎では別段何も景色は変わるわけではないし今回のようにドイツとオランダの領内を無意識のうちに何回も行ったり来たりしている分には取り立てて大業なことも何もないのだが、しかし、地図の上でははっきりと別れている。 それは小さな農業灌漑水路の線であったりするのだが地図を見ていなければ何もない。 車が走る道路でもすぐあちこちで道路標識が、橙色の混じった茶色のドイツ標識か紺に白のオランダ標識かということがあるのだが、幹線道路なら見分けがつくものの田舎道ではそれがすぐには見分けられないことが多いし、ないことが多い。 広がる田、畑の空間には柵、標識などは全くない。

けれど、不便なことの一つがこの日の朝のオランダ国鉄の混乱と不手際に加えてこの駅から10kmほど先の丘の上に見えるドイツ領の教会から三年前に途切れた徒歩を今日また始めようとしたのだが、そこまで行く公共の交通機関がない。 ないことはないのだが、そうするためにはぐるぐる国境線を廻るバス路線でドイツの近郊都市まで出てそこから向こうに見えている陸の上までバスで合計3時間も4時間もかけていくことになり、それは前回にそこからオランダに戻るのに苦労したことで懲りている。 もちろん両国は戦争の傷跡は表面上は見えないものの歴史が繰り返してきたものを深く内側にもちながら言葉も文化も混ざって共存していることは確かだが、しかし、それが政治的に引かれたこの国境線の内と外に向かう公共交通機関のシステムとなるとそういう問題はこの現代の車社会の事、利益、採算の取れないバス路線などとっくに廃止となり、このような事情もありこのあたりの田舎では大抵2台も3台も持ち、まどろっこしいバス路線などはなからあてにしていない。

結局、10kmほど行くのに駅で呼んでもらったタクシーで出かけることになる。 スーツにネクタイの制服に身を包んだ太った中年女性が運転する、ベンツのタクシーが来るまで20分ほど駅前のがらんとした広場で自転車置き場で拾った沢山のベルトゴムバンドで5mほど向こうにあるコーラの空き缶を狙って家人と二人遊ぶぐらいしかすることのない静かな駅前だったが、それでも通る車のナンバーを見ていると三分の一ほどがドイツナンバーだった。 それはこの日歩いたドイツ側でも同じこと日常に三分の一ほどが混ざり合っているように見えた。 そして、国境の田舎駅のこの路線にもドイツの新幹線、白く尖った鼻をもつ電車がけたたましくケルンからかアムステルダムに向けて走って疾走して去って行く様は辺境が置き去りにされる現実をはっきり見せているようだった。

この地方のアクセントが混じるタクシーの運転手の言葉でこのような事情、四方山話をしながら10分ほどで見知った丘の上の教会に到着して、ここからこの日の15kmの徒歩が始まったのはもう12時に近かったろうか。

朝はどんよりとした空模様でポンチョを着ることになると覚悟はしていたものの、持ち直し、南の風が温かく、まるで春の陽気だ。 この日の晩にシャワーを浴びてホテルのベッドに寝転び見たテレビの天気予報で18度近くまで昇り、この時期、今までにない暖かさだったと報じられたのを聞いて、半そでにセーターでずっと歩き通したことで納得のいくことだったのだが、ドイツ領の丘を降りてすぐオランダに戻りライン川沿いに6kmほど堤を川下に歩いたのだがその間中吹いていたかなり強い風が冷たく感じなかったことで納得ができたのだが、途中で二度ほど昼食のレストランとカフェーの休憩のあとは汗で冷えた体に当たる風が冷たく毎日外に出るときに着るジャケットを羽織るのだがまた歩き始めて10分ほどすると暑くなりセーターに戻るという状態だった。 

日も傾き、4時半頃から暗くなり始め2時間に一度のライン川の渡し舟に3時に乗り遅れライン川を広く見下ろすカフェーで1時間ほど上下する沢山の運搬船をながめていた。 このあたり川幅は少々狭めで500-600mほどなのだが結構水流が早いのか大抵は油、化学薬品、砂利、コンテナーなどを積んだ何十メートルもある喫水線の低い河川専用運搬船なのだが上りは非常に速度が遅いように見えた。中には徒歩の速度に毛の生えたようなものもあり、流れが複雑なのか港湾では普通なパイロットの引き舟がここでは押し舟となっていた。 それに交通規則で右側通行の規則もこのさきに他から流れ込む河川があり、そこからここを通過することで川幅の一杯を時には4艘、5艘の運搬船がこちら側から見ていると異方向に重なり追い越し、日頃我が家の窓から眺める運河の様子とはまるで違った緊張感のあるもので操船の難しさ、アマチュアの入る余地のないプロの現場を見たようだった。

このようにカフェーでビールを飲んでちょっと暖まり1kmちょっと歩いて薄暮の吹きさらしの渡し場に着いてもまだ5時5分の渡し舟の時間までは30分以上もあり、周りには雨を避ける木も何もない。 幸いなことに雲が美しい夕方でボードが1枚ポツンと立っていて、そこにはこの渡しの由来、この100年ほどの歴史と簡単な時刻表に、対岸から見えるように立っていないと客とはみなされず来ないこともあると注意書きもあり、これを逃すと数百メートル先の今夜のホテルまで、またとぼと月夜の中を近所のバス停まで歩き村を巡って橋を渡りここの州都のバスセンターまで1時間半、それからそこから対岸までのバス路線を使って1時間か1時間半、そういうことはこの際避けたいこともあり、家人は真剣にベンチの上に立って対岸の教会の塔を染める見事なまでの夕焼けの茜色を眺めていたが、そのうち定刻に向こうから小船が近づき降りるもののないフェリーの扉をこちら側に下ろし、我々二人だけを乗せて鬚面の何代にもわたる船長が我々から250円ほどを受け取りながら、まだ真っ暗にはならないからベンチの上に立たなくても見えたのにと笑いながら家人にウインクをし、5分もかからずこの日の宿まで渡してくれたのだった。 それに対岸から10分ほど歩いて宿に入ったときには日はとっぷりと完全に暮れていた。


ピーターの小道 ドイツ国境ライン川あたり(1)

2006年11月27日 09時05分08秒 | 日常
昨日と今日、この何年か続けているオランダ縦断のウォーキングを一泊で行った。

この縦断徒歩ルートは北の端グロニンゲン州、ピータービューレン村からベルギー国境に近いリンブルグ州、セント・ピーターブルグ山を結ぶピーターパッド(ピーターの小道)と呼ばれるルートの一部で、2分冊のガイドブックには一日で最高20km程度のコースが設定してあり、そのためのオランダ国土地理院製作の地図に詳細な順路の解説がついて一ページに3kmから6kmほどの詳細な地図がついているので地図を見て、解説を読めば間違いなく辿れるようになっている。

今回は三年ほど前の夏休みに終わったドイツ国境あたりの丘のある部分からで、昨日15km、今日20kmと、暖かい気候に恵まれて調子よく気持ちの良い二日間だった。

一昨日の金曜日に突然、子供をうちに残して一泊で歩かないかと家人が提案してきて、年末年始の時期に日本に帰国の折には熊野古道を四泊で歩くことを計画していることもあって歩くことにも慣れておかねばならないので、子供達は運動は充分すぎるほど訓練していることもあり、それでは我々だけで行くことにしようかと出かけたのだった。

それに数ヶ月前にオランダ国鉄の一日無制限の割引切符を四人分買っておいてあってもそれを使う機会がなかったこともあり、それも使ってしまおうと、今回は車で目的地まで行かずに国鉄を使うことにした。

朝、8時12分の電車に乗るには7時前に起きて準備しておかなくてはならず、これは日夜逆転している私にはなかなか難しいことで金曜日の晩は無理やりなんとか12時半に寝てしまった。

しかし、運が悪いことに、普通なら2時間ちょっとで目的の駅まで乗換えを2つで済ませられるところを路線工事とかで4回も乗り換えなければならず、そのこともあり乗り換えのユトレヒト、デンボス、アルネヘン、ナイメヘンの各駅でのインフォーメーションの混乱と車内の混雑振りはひどく、やっとドイツ国境の駅に降り立ったのは11時を廻ったころだった。


ちょっと生活時間をもどさなければなあ、、、、(追)

2006年11月23日 12時15分51秒 | 日常
何日か前にこの日記のタイトルのようなことを書いた。

生活時間が普通の人と逆転したものを少しは”カタギ”の人みたいに戻そうと試みているが今日は少々例外的なことがあってこの”矯正”の試みも敢え無く元の木阿弥となった。

昔、自分の住んだ村で政治に走りまわる人々のこと、市会議員選挙の面白い話を散々見聞きもし、小学生の頃には民主主義だ、多数をとればなんでもいいというその理不尽さも個人的に経験し、高校の頃には国の置かれている状況、世界との関連にも片目ぐらいは開かれたものの、大学に入れば政治の季節は済んでおり、ふらふらと彷徨いそのまま今に至っており高校のときの見知ったものが地方自治体の長として二期を務めていると地方政治のことを久しぶりに聞いたのが数年前だったりしたのだが、異国に住んで徐々にその国の様子を知るに従ってこの何ヶ月か久しぶりにまた選挙の面白さを味わった。

外国人である自分には地方選挙権はあるものの、国政には投票券がなく残念な想いをしたものだ。 けれど、もし、国政にも参加したければ帰化すればいいのだが自分のアイデンティティーというやっかいなもののしがらみで今のところ帰化する気はない。 

それで、この何ヶ月かの自国の政治状況とこちらの経緯を見て比べるに、こちらのほうが政治状況とその取り扱いにもっと面白味を感じるのだ。 というのは、出来レースのないこと、政治家がどの局面に対してもおおまかな丼勘定的な発言をせず具体的な対応を口にし、それにたいする反応、進展を追える事だ。 選挙を通じていろいろな世界が見えてくるし、メディアで伝えられる内容に幅があり、それこそ子供番組からMTVまでどこを見ても選挙一色、みんな好き勝手に思うことをいい、そこで選挙民、被選挙民、その周りとそれぞれの人柄、意見、考えていることがかなりはっきりしてきて、玉虫色や大勢につくようなことは聞かれないということになる。

しかし、まあ、結局は、大体、現代の統計、モニター技術をつくした世論調査の予想どうりのこととなるのだが、選挙を巡ってはアメリカの単純な二極対決の構図でも政治無関心層が多く大勢につけ的な日本のでもないものになるのだが、この何年かのヨーロッパを席巻しつつある保守的なムードから少しは戻したという結果はこの何ヶ月かの政治劇でのこの場の幕引きとしては納得のいくものだった。

大道芸人

2006年11月21日 14時04分39秒 | 日常


忙しいスーパーマーケットでは一般消費材をごそっと買い、青空マーケットはのんびりと生鮮食料品、一般の小物からガラクタまで楽しみをもって漁り、そこに集まる人とも近くのカフェーで一服したりしながら散策するといった言葉がふさわしいように歩く。

もっとも生鮮食料品、主に野菜や果物であるのだが、これが馬鹿にならないぐらい重くなるのが毎週だがそんな合間にも見るもの聞くもの、面白いものが沢山あるのでこれが人を惹き付ける理由になっているだろう。 ヨーロッパの様々な街でも同様の大道芸人という人たちを沢山見ている。

この日に見たのは定位置でパーフォーマンスを見せる、聞かせるのではなく、歩き廻りながら音楽を聞かせながら1m50ほどの下駄を履いた妖精とも見える女性を二人纏わり付かせた芸人だった。 ドラムとのデュオでバリトンサックスを演奏するところに興味が行ったし演奏に合わせて歌う男と妖精たちの掛け合いも面白く3m以上になる妖精が人々の間を跨ぎ人々に混じって立体的に4人で演じるというのが新鮮だ。

このバリトンサックスという楽器は低音部を主に担当するのだが響きが遠くまで届くし高音部を吹くと歌にもなるのでなかなかこういう場所での演奏には効果的だなあと感心したのだけれど技術的にも楽ではなくどちらかというと地味なものだがここでは女性方と陽気な移動ドラムの組み合わせでプロの芸を見、聞かせてもらったと両手に重い買い物バッグを置いて絶えず移動していたこの一団のスナップ写真を撮ったのだが4人一緒のいいものは撮れなかった。

なんでこんなものに

2006年11月20日 10時26分58秒 | バンバン


道楽で始めてもう何年だ、長男が生まれて仕事も一段落着き、これは何か道楽を始めないと身がもたないと考え始めた道楽が二つ、鍵盤がピアノタッチの電気ピアノを買って大昔にバイエルの50数番であきらめたレッスンを再会して結局、同じものを一から始めて同じところに戻って来たときに隣に住んでいた韓国婦人の先生が隣人と離婚して引っ越したことで残念ながらたち切れになった。 それ以来鍵盤に触れることもなく子供達も3,4年近所のバッハをこよなく愛する老人のレッスンを受けたものの止めた。子供達はイヤホーンでトランスだパンクだと喧しく、私はもっぱらモダンジャズを聴くことに専念している。

もう一つの道楽が射撃だった。 その前に知人の紹介で軍隊の射撃場で初めて100mと50mの的を射たのだが昔からの憧れで古式銃を実際に扱ってみたく当時住んでいたハーグの射撃クラブに入って徐々に習っていき一年後には西部劇で馴染みの深いコルトの六連発リボルバーを手にして以来ほぼ18年銃器とつきあっている。

古式銃の世界基準は1880年以前のオリジナル、レプリカを黒色火薬を用いて当時の方法で撃つこと、らしい。 スコープは当時の方式のものは使えるものの現代の技術の粋を使ったものは許可されていない。

この7,8年で年齢が進むに連れて視力が変化しているので的を狙うのが不安定になっているもののそれでも硝煙、機械油の臭いと日頃職場で見ることのない様々な職業の仲間と互いの持ち物、精進の成果、はたまた日常の四方山をクラブハウスで飲み喰いしながら語らう楽しみで未だに懲りずに通い続けている。

古式銃のグループはオランダでも会員数3万強の、ミニチュアの大砲まで扱う全ての銃器を含めたオランダ・ライフル協会のなかでは少数で400人いるかどうかというところだろう。 それにこのような銃器に興味のある連中は大概中年以上の年配であり、一般に銃器=犯罪ととられかねない、どちらかというと反社会的イメージをもたれているスポーツであるから徐々に若者の関心を失い先細りの一方である。

日頃、博物館でしか見られないものを手にして実際に自分で操作して的に当たっても外れても楽しいものだ。 子供のころに野外で石ころを投げて空き缶にあてること、藪から竹を切り出して弓矢を作って熟し柿を射たりテレビや映画の印象からこういう経緯になったのだろうがこういう遊びは男特有のものだろうか。 会員数にしても女性会員は一割にも満たないようなのだ。