暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

アフター・ウェディング; 観た映画、July  '10

2010年07月31日 08時38分16秒 | 見る
アフター・ウェディング   (2006)

原題;EFTER BRYLLUPPET
英題;AFTER THE WEDDING
119分
製作国 デンマーク/スウェーデン

監督: スザンネ・ビア

出演:
マッツ・ミケルセン        ヤコブ
ロルフ・ラッセゴード       ヨルゲン
シセ・バベット・クヌッセン     ヘレネ
スティーネ・フィッシャー・クリステンセン  アナ
クリスチャン・タフドルップ     クリスチャン
フレデリック・グリッツ・アーンスト  マーティン
クリスチャン・グリッツ・アーンスト  モートン
イーダ・ドゥインガー       アネッテ

 死期が迫った一人の資産家が愛する家族のために決断したある計画と、それに巻き込まれた男女の葛藤と運命の行方をミステリアスかつ感動的に描くヒューマン・ドラマ。監督は「しあわせな孤独」のスザンネ・ビア。
 インドで孤児たちの救援事業に従事するデンマーク人、ヤコブ。運営している学校の財政難に頭を悩ますヤコブのもとに、デンマークの実業家ヨルゲンから巨額の資金援助の申し出が舞い込む。そして面会したいというヨルゲンの求めに応じて、久々に故郷デンマークへと戻ったヤコブ。面談を無事終えたヤコブは、ヨルゲンから週末に行われる娘アナの結婚式に強引に招待され、断り切れずに出席することに。ところが、そこに待っていたのは思いがけない人との再会、そしてさらなる衝撃的な事実だった。あまりのことに激しく動揺するヤコブだったが…。

上記映画データベースの記述と下記ウィキぺディアの項が本作に関してある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0

週末の深夜映画としてオランダ国営テレビ放送で放映されたものをオランダ語の字幕で見た。 主演のミキルセンをボンド映画で観たときはこれはいい役者かもしれないと感じたのがここにきて実証された。 彼の他ははじめて見る俳優ばかりだったので先入観なく話に入りミキルセンについてまわる不思議な雰囲気と本作での役柄が一層この役者の資質を立ち上がらせて彼に対する興味が深まった。

人は誰でも死んでいくし、先日報道されたように自分でミイラになると家族を部屋から締め出してそのまま30年間、白骨化した一方、日本一の長寿として顕彰も年金も受給され続けてていた例もあるように、自決してそうなれば本人も本望であったものを本作の資産家のような普通の死もあり、それが我々に起こることの蓋然性は自分でミイラになるよりはるかに高いのであって、その間にある主人公の屈託が我々を打つのだ。 けれどそれもかなり勝手な部分もあり、他人の死に無理やりつきあわさせられるどこかプーチンを思わせるミキルセンの虚無が死んでいくもののに対照して我々をひきつけるだ。 本作中での様々な登場人物の眼のアップが口ほどにものを言っている。



自動車免許の更新に市役所に行ってきた

2010年07月31日 04時22分18秒 | 日常
オランダ在住30年で10年毎、4回目の更新をしてきた。

国際免許でオランダに渡り、地元の警察署でそれと日本の免許証、書類と共にオランダの免許証に変更してからは日本に戻るときはオランダ発行の国際免許証で運転していたのだが逆ハンドルの不慣れと日本の道路が怖くてもう10年以上日本では運転していない。 

ヨーロッパ内では現在の免許証で問題ないのであちこち行くのだけれど免許証は同時にIDカードともなり今回もオーストリアの診療所でIDとしてヨーロッパ共通の健康保険IDカードと共に使われ便利になったものだとおもったものの、免許証の方はヨーロッパ内ではもうこの30年は同じことであるから保険制度の共通化でそう感じたのだろう。

市役所に入るとまず市民課の入り口にあるターミナルで用向きの種類をタッチボタンで選べばC-208と書かれた紙切れがプリントアウトされて出てきた。 市役所の中庭の周りが18,9のカウンターになっており人は勝手にそこここに座ったりして自分の順番をまっている。 それこそいろいろな人種が待っているのはこの社会切り口であり、保険、福祉、イミグレーション、戸籍と市民課にかかわる事々だからあちこちにあるモニターに出るA,B,C,D,E,Fと番号の組み合わせはその種類なのだろうと想像する。 20分ほど待つあいだにそこにいる人たちを観察するのに退屈しなかった。 モニターに出る順序はまちまちだった。 自分の前のC-207が出てからCが出てくるまでほかのアルファベットの番号が出てきてだいぶ時間がかかった。カウンターが十幾つあっても何係りか番号だけしかででていないのが面白い。 向こうはこちらが振り割られた番号のカウンターに行けば分かるのだから用は足る、余計な札で美観を損ねないというようなことも考えてあるのだろうか。

自分の番号がモニターに出て2分ぐらいでことが済むのだが係りのプリンターの様子がおかしく時間がかかった。 そのあいだにすることもなく係りの男と話していてオオサカ生まれなんだね、ということからオランダと日本のこの半世紀ほどの変わりかたについて短くはなしたのだけど、ほとんど皆に問われるようにどれくらいの間隔で日本に帰るの、と聞かれて、あんたと同じ公務員の給料でどれほど頻繁に帰れると思うのというと、笑ってそうだね、楽じゃないな、とやっと出てきたプリントアウトに添えて料金の49.65ユーロ(6000円ぐらいだろうか)を払うと、これで日本まで運転していけばいい、というもののそちらのほうが高くつくな、ともいい、ともかく来週の金曜日に取りに来てくれ、ということで話をおわりにしてそこを後にした。

何年か前に市役所の改築をしたときに体裁はよくなったものの予算の倍ほどかかり評議員の首が飛んだ建物なのだ。 そういえばアジア・アフリカ系の人間が多かったなかで中国系とおぼしき男女は何人もみたけれど10万人ほどの町で100人弱登録されているらしい日本人は見かけなかった。 中国系は世界中どこにいっても見かける。 今月か中国で800人ほどが災害で死んだ、といっても世界に冠たる中国は別にどうということもない国なのだ。 先日ドイツの町のダンス・フェスティバルで20人ほどの死者が出たあと主催者と市の杜撰な管理に怒った市民の糾弾をおそれて市長はどこにも顔をださない、と今日のニュースでは言っていた。 

半年毎の通風の痛み、か? 急性アレルギー発作よりはいいか、、

2010年07月29日 08時49分13秒 | 健康
アルプスの山を歩いて一週間ほど前に足を挫いたかな、というところが又痛み始めた。 挫いたものにしてはその後普通に歩いているのだしここに来て又変で、腫れもなくそれは何だか懐かしいような部位と傷み方なのだ。 徐々に訪れて鈍く攻めてくるようなものでこれは持病の通風のものだろう。 さて、この前 MDS製 Arcoxia 120mg の青い錠剤を服用したのはいつだったのだろうか。 それまではほぼ半年間隔だったから今回もそんなものかとも思うがはっきりしない。

アルプスの山の中で足にマメを作り地元の医院で手当てされ、3日間登山靴をはくな、といわれてキャンプ場のベンチでビールを飲みながら静養していたときに大学病院から約束通りに3ヶ月前の急性アレルギー発作の検査結果を担当教授から電話で通知された。 いいニュースと悪いニュースがあるけれど悪いニュースは予測どおりオメガ5グリアディーンが陽性だった、つまりグルテンだけということだけでなく小麦一般に反応しているから小麦製品はだめだね、小麦依存性運動誘発アナフィラキシーだろう、いいニュースはね、山登りや野原を歩いたり継続的に身体に疲労を与えるような運動をしなければ麦製品を摂取するだけでなく他の食事、飲み物など普通の食生活ができること、問題は小麦製品と継続的過重肉体労働の組み合わせがショック状態をもたらすということだから、体に強い負担をかける継続的過重労働、運動をする場合はグルテン、麦製品をその4時間前以後は摂らない事、継続的過重労働、運動の直ぐ後にもよくないね、それさえ守っていれば大丈夫じゃないかな、後は細かいことは休暇から戻って栄養士と相談すればいい、とのこと、それで電話を切ってやれやれ、やっと原因が分かったのだから一安心だからこの組み合わせを避ける算段、とそれまで何年も山や野原歩きの昼休みにどこかの食堂でビールに適当なメニューから選んで1時間ほどの食事を楽しんでいたものがこれがなくなり御握りだけの昼飯に成り果てる寂しさに歩くのを止めようか、それでは水泳ならいいのか、、、と思ってもその後の食餌は同じパターンだったのだからだめで、結局はこの食餌の問題がつきまとうこととなる。

ま、それが分かってからは毎日少なくとも700-800mの高度差を上り下りする山歩きの朝食、昼食は前夜自分で用意して夕食は今までどおり、昼飯の自由が無くなっただけでそれにも慣れたもののアルコール摂取量はあまり変わっていない。 だからそれがここに来て通風の痛みの兆候として出たのだろう。 曳かれものの小唄で、この通風の軽い痛みは急性アレルギーでひっくり返るよりいいか、、、、と締めくくった。

けれど、急性アレルギーでひっくり返るときには痛みなどは皆目なく、ただ疲労感と眠気、薬物での快楽ハイ状態のようで気持ちよさでもあり本人は別段なんともないのだけれど周りの状況によってはまったく動けなく急激な血圧低下から失神に至ることでは危険なのだろうからやはり避けるに越したことはなく、だからリュックの中には抗ヒスタミンの錠剤とアドレナリンの緊急用注射を二回分入れていた。 

抗ヒスタミンを使って効果のない場合はアドレナリン注射をすることになるのだがそれは血圧を一時的に上昇させるだけで基本的には原因の除去ということにはならず一回で30分程度、二つあれば一時間だけの効果、だからアドレナリン注射と同時に救急病院に電話通知すること、3000mほどの山に救急車は行かないだろうからヘリコプターということになり、イタリアは別として周りの国にはそんなところでも電話通信は通じるだろうから15分から30分程度で救助ということになるのがここに来るまでのシナリオだったのだがそれは食餌療法で何とか避けられた。

家を出る前に町の健康食品店のグルテン・フリーの棚の大きさ、その種類に逆に殆ど口に入るものにグルテンが入っていることを知らされその量に圧倒され憂鬱な気分になったのだが継続的過重労働、運動に気をつけていればいい、ということなのだ。 ひょっとすると心臓病の患者にも似たことなのかもしれないが自分の場合は負荷が始まる4時間以内に小麦製品を摂っていなければ良いだけの話だ。 つまり、いつそんな負荷を体にかけるか事前に知っておけばいいということ、だけれども、そういう生活というのは不自由なものだ。 日常生活ではこのジレンマ、火急の場合があるに違いないけれどそれはそのときのことでしかし様がない。 しかし、そのことをたえず頭のどこかに留めておかねばならないというのは厄介だ。それでなくとも記憶がすぐに取り出せないことがこのごろ多くなっているのにそんなことはできるだろうか。

こんなことを思いながらネットのあちこちを探りながらここまで書いてきたらもう右内側くるぶしの痛みは消えていた。 やはり通風だった。 それにこの前に同じ薬を服用したのは4ヶ月前だった。 2ヶ月間隔が短くなっている。 

小麦依存性運動誘発アナフィラキシー、というのは大体一万人に一人という割合であるらしいけれどそんな一万人に一人というような宝くじのような倍率に当たったことがない人生を歩んできてここで要らないものに当たったのか、やれやれ、、、、 

ハアザミ(葉薊)が咲いていた

2010年07月28日 05時32分44秒 | 日常


日常生活に戻るのは仕事や義務といったものがあれば手短にできるものなのだろうけれどそういうものがなければ体が自然に戻るまで少々の時間がかかるようだ。 

3週間のテント生活中は初日から朝の7時に目覚め、すぐに用を足し腸の中を空にし、昼の間はリュックを背に歩き回り、夜の12時には睡眠に入るという規則的な生活だったのだが、それまでの日常生活では朝の6時に就寝して昼に起きる、ということをしていたのだから「普通の生活」とのズレが6時間ほどあり、帰宅して三日経ちそれが就寝のほうは午前3時ごろになっていたものが起床は今日は昼の2時だった。 7時に用を足しに起きたのだがそのあとまたベッドにもぐりこみ本を読む気もなくそのまままた寝入ってしまい眼が覚めたら結局11時間眠っていた、ということになっていた。 まるで学生時代にもどったようではないか。

体のほうがまだ眠りを必要としているのだろうか。 多分怠惰の虫がうごめきだしたのだろう。 伸びきった生垣を刈りそろえ、買い物をして夕食を作れば一日過ぎてしまった。 

庭のまだそのままにしてある植木のなかに薄紫と緑が混ざったような花が咲いていた。 家をでる頃には大きなのこぎり型の緑の美しい葉が出ていただけのものがその中心に茎が伸びて葉か花かわからないようなものであり薄紫の色が際立っているので多分それが花だろう、というようなものだ。 そばには Acanthus Hungaricus というプラスチックの欠片が地面に刺してある。 アカンサス・ハンガリー種?とも読める。 ネットで調べればハアザミと出た。 アザミ(薊)はどこでも野原にみられるものであるけれど花のつき方はこれとはまるで違うし葉にしても白く細かいとげのようなものがあるのではないか。 この葉には類似は見られず葉の形は何か野菜の水菜にような感じがする。

柔らかい日差しと曇り空の混ざった日中22℃ほどの過ごしやすい気候だ。

ハアザミ(葉薊)
ウィキペディア;アカンサスの項
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%82%B9

ムクゲが咲いていた

2010年07月27日 22時36分15秒 | 日常


日曜の朝三週間の休暇から戻って何やかや忙しくまだ落ち着かない。 

それは山のような洗濯物をより分けて洗濯機に放り込む家人の傍ら、自分は雨の降るオーストリアからそのまま慌しく車に詰め込んで戻りそのままにしていたものをゴソゴソ取り出し、曇り空の合間に覗いた太陽の様子を見ながらまだしっとり濡れている大小二張りのテントを前の緑地に設定して乾かし、拭いては埃を払い、次のいつ来るか知れない機会のために丁寧に折りたたむ作業とこれまた重く湿った登山シューズを乾かして手入れすること、雑に散らばった車内と留守にしていた家の整理にかなりの時間がかかったからだ。 なんだか引越しの片付けのようでもある。

それが済むとこの三週間で少々の様変わりした庭の手入れをしなければならなかった。 出かける前に刈っておいた芝生はこの間、湿り気と太陽が多かったのか穂先が出るほどの元気な長さにもなりこれでは芝生というより雑草で、この時期二週間に一度やる手押しの芝刈り機の作業では背丈が長すぎて何回も行ったり来たりを繰り返さなければならなかった。 それでも残った穂先のついた茎は鋏で刈り取った。

庭の隅にあるムクゲの植木にも花がいくつも咲いている。 ムクゲだったと思ったのはオランダを出る前に暑中見舞いの写真に近所に咲いていた立ち葵を貼り付けたことを思い出し、それがムクゲと似ていると思っい一瞬どちらがどっちか迷うほどだった。 タチアオイは一本の長い茎に葵の葉がついて上に線形に育ち時期が住むと茶色に立ち枯れしてそのまま茎から片手で簡単に抜かれて処分されるものだがムクゲのほうはそうはいかない。 植木でもあるし葉は落ちるものの植木はそのまま残り翌年にという違いがある。 似ているのは花だけなのだろうかとウィキペデアをくってみた。

ムクゲ、槿、木槿、無窮花; ラテン名;Hibiscus syriacus; 英語: rose of Sharon オランダ語;Tuinhibiscus

英語名のシャロンのバラは別としてラテン名にはハイビスカス・シリアカスとなっている。 中東シリアのものなのだろうか。 オランダ名でも庭のハイビスカスなのだ。 槿と書くともう20年ほど前に酔うようにして読んだ古井由吉の小説集「槿」とその装丁を一番に思い出すし、また、中国民謡に「あの娘はかわいいムクゲの花よ、、、」と歌われていたのではないかとも頭を掠めたのはいいけれどもムクゲは韓国の国花でもあるから朝鮮民謡だったのかもしれないと思う一方、ハイビスカスではハワイの娘の耳の上に見られるような大輪でもあり、それだったら「アロハオエ」だなと歌関連で思う一方、どれも女性の姿であり、なるほど人に好かれ美しい女人を思わせる花なのかなと曇り空の下、カメラのシャッターを押した。

そのそばを我が家のオバサンもしくはバアサンかと推定されるような猫が退屈したようにこの木の下を潜り抜けてのそのそ歩いてどこかに消えた。

さて、、、と、、帰宅したけれど、、

2010年07月26日 09時40分34秒 | 日常
2010年 7月 25日 (日)

3週間家を離れ家族とオーストリアのHubenという村で過ごして真夏から冬までを経験しオランダ国境に入ったのは惨めな雨が振る村のキャンプ場を正午に離れ丁度12時間経った5,6時間前だった。 そこから1時間半弱で自分の町に到着し息子と娘をそれぞれの下宿先に下ろして車を自宅の駐車場に戻して家人と家に入ったらまだ体の動きが3週間のテント生活のままだった。 オランダで言う、東西南北自宅が一番、という感覚が戻ったし、同時にこの3週間のことも300枚ほどの写真と共にもう既に懐かしいものとなっている奇妙な感覚だ。 

雨のそぼ降る山間のキャンプ場で周りの3000mを越す山々の首が前夜の降雪で白くなっているのを眺めながら、さすが高度1200mの土地までは真夏では雪とはならずその代わりに惨めな雨がしょぼ振る一晩中とそれに続く午前中、天気予報では翌日もその天気が続くとなっていたから帰る予定を一日早めて雨の中テントを畳んだのだった。

ここから自宅まで1000km弱だから途中で何回か休憩して息子と3,4時間交代でハンドルを握り、もし必要なら家人もそのときに運転するということにするとオーストリア内は飛ばせないもののドイツ国内に入るとアウトバーンで時速130-150kmで走り続けるとすると上手くいくと10時間で戻れるだろうと算段したが実際はそうは行かなかった。 1時間もかからずオーストリア国境を抜けられるとしていたものが同じようなことを考えたものが多かったのだろう。 もう交通渋滞が始まっていて結局3時間以上かかっていた。 オーストリアの Reutte と ドイツのFussen の間がひどかったようだ。 そのとき私は後部座席でi-Podのプラグを耳に雨のテントの中で読み始めた本が佳境にはいる部分を読んでいて気がつかず Memmigen 近くのドライブインで家の御婦人2人をトイレに送り出し、その後皆でコーヒーなどの飲み物で休憩した後7時半まで4時間 Ulm, Stuttgart を経由して Koln 辺りまで運転した。 30分ほどドライブインで食事休憩をして8時から11時間半ごろまでまた息子がハンドルを握り Dusseldorf 、 Oberhausen を抜け国境からアーネムを目指したのだが、この日通過した Duisburg のダンスフェスティバルの出入り口のトンネルでパニックが起こり十数人が人の下敷きになり死亡したと聞いたのは翌日のニュースでのことだった。

二人で交代しての運転とはいえ結局合計で14時間近くかかっていることになる。 バカンスの初めに家人と二人だけで来るときにはドイツ内、ハイデルベルグとシュツットガルト間の Bad Libenzal という保養地で2日ほど過ごしているから走り続けるということはしなかったが若い者たちはイタリアやスペインに行くときには4人で交代して絶えず走り続けて目的地に着くということをするし息子はそのようにしてイタリアを旅行してスイスでひとりその一行から離れそのあと鉄道を経由して我々に合流したのだった。


大抵の荷物を車の中に残して必要なものだけもって家に入り、そのまま自分のベッドに倒れこんで熟睡した。


夏季休暇で3週間ほどブログを離れます

2010年07月04日 08時41分19秒 | 日常


さて、今日から3週間、つまり25日ぐらいまで休暇をとりオーストリアのアルプスを家人と二人で歩いてきます。

去年は8日で110kmほどイギリスの湖水地方、一昨年は2週間ほどでフランス、スイス、オーストリアのアルプスを220kmほど歩いたのだけど、今年はゆっくりぶらぶらとオーストリア・アルプスの谷間の村でキャンプ生活に入ります。2500-3000mあたりを歩く予定で氷河をいくつか歩けたら上出来ということになるでしょう。

さすが還暦を過ぎてキャンプ生活というのはどんなものだろうか。 なんせ2週間以上もテント生活をしたのはもう15年ほど昔、のんびりとフランスの各地を回ったのだけど、今度は1200mほどの村で周りに3000mを越す峰に囲まれてそこから上がったり下がったりするのだから勝手が違うかも知れず、また、真夏から冬の装備までしなければならないから荷物がかさみます。 プジョー406Breakは結構大きいのだけれど大学生の子供2人がイタリアやスペインあたりから終わりの週に合流することになって車に彼らのスペースも確保しなければならず、そういうことではまだ何年も前のすし詰めカーになりそうです。

帰りにはヒットラーの別荘だったところやミュンヘンあたりを周って帰ってくるような目算もあります。 ま、それも予定で、どんなことからか早めに帰るかも知れず、なにかあってこのまま、この足掛け6年ほどやってきたブログも何の音沙汰もないままたち切れになるやも知れず、それはその時のお楽しみということです。


では、読者各位、 少し早いけれど? 暑中お見舞い、ということで
各位ご自愛のほどを。

Vogelpoepjp もしくは どうちぇ、 はたまた らあ  敬白




Ed van der Elsken が日本で撮った写真展に行った

2010年07月03日 20時00分45秒 | 見る


2010年 6月27日 (日)


昨夜、夕食を済ませてウインブルドンや南アフリカのサッカーの模様をテレビでザップしていたら義弟から電話があった。 BMWオートバイの代理店を経営している義弟が自分の隣町まで何か届け物をするのに最新型のバイクを試しているときにその町の通りに写真展のポスターが出ていて、それが Ed van der Elsken  が日本で撮ったものを城の地下に新しくできたギャラリーで杮落としとして見せているらし、という。 早速ネットで調べて翌日そこに出かけた。

Woerden  という町は一年に5,6回は出かけるのだがそれも決まったところだけで旧市街の、それも函館五稜郭と同様に堀に囲まれたあたりは行ったことがなく、また夏の暑さから遮蔽された城壁の地下のギャラリーであるから涼みがてらにもいいし日曜でもあるから混んでもいまい。 城とはいうけれど地元の貴族の住居だったのだろう、戦いのための物見の塔などもない普通の地味なもので、多分、国や地元の補助金で文化財改修、文化イベント振興の一環として立ちあがったところなのだ。 やたらとレストラン、カフェーが新しい。

入り口が見当たらないのでカフェーの女性に導かれて城壁の長い穴倉に導かれた。 入り口の石の階段は人一人だけしか通れなく教会の尖塔から降りるような感じだ。 城であるから外壁の下部のこの部分は必要ならば馬一頭、人一人が並んで進める幅だろうか。 

この写真家の日本での写真はほぼ見ているので義弟の知らせだけでは食指が動かなかったのだがネットの動画で観たオープニングに写っていた彼のポートレートと写真のサイズに興味が惹かれてここまで降りてきたという次第だ。 そのサイトの動画ではオープニングの模様が示され、もう15年以上前になろうか、世界に日本の政治について出版した書物で「日本たたき」にいくらか貢献したといわれるジャーナリストのカーレル・ヴァン ヴォルフレンがスピーチをしていた。 会場の本人の言では、自身1962年に来日して以来の知遇で自身が政治経済に関して興味を持っていたのに対してエドは日本の市井の人々、生活文化に旺盛な興味を示していたようだと書く。 ヴァン ヴォルフレン自身小さい頃から写真を撮り東京のうちには Deardoerf で8x10インチのポートレートを撮るための簡単な設備がしてあったのである日エドをそこに座らせて撮ったのだそうだ。 それがこの展覧会の正面に飾られそのエドの脇にはマスコットのぬいぐるみと当時の愛器ライカM6が置かれている。

動画では写真をバックに美術館の学芸員、若いカメラマンなどが談笑している姿があるのだが未亡人の姿はないのが妙だった。 ただこの展覧会に関してはオーガナイザー、友人のアドヴァイスを考慮してデザイン、作品の選択を行ったという趣旨のことが生前のエドの機材についてアメリカの批評家と行った交信とともに展示されていた。 彼はいつも最新の機材を欲しがったといい、晩年の主なものはNIKON FE2, F3、Leica M5, M6 でフィルムは Tri-X と Ektachrome のようだったという。 ただ、私が85年にエドとともに日本に滞在したときにはブラックキャノンの一眼レフ数台だけだったからそのことを聞いたら、機材一切を盗難にあって今はこれだけだ、別にライカじゃなくてもいい、と言っていたけれどあれも一時のやせ我慢だったのだろうか。 夫人の言ではその後上記の機材をそろえている。 ポートレートに見えるM6はかなり使われているように見えたしそれは多分盗まれたもので盗難直前のものと思われる。 84年末か85年早春だろう。

Leve ik! という短編映画を別の小部屋の小さなモニターで観た。 15分か20分ぐらいのものなのだろうが作家の略歴とそのおもな作品の紹介があったのだけどワンショットだけ忘れがたい画像があったことだ。 遺作となったドキュメント映画「Bye」では癌に侵され余命をしりつつも厳しいショットが多くみられるけれどそれらは全て自分が作品の中にある、記録する、という強い意志とコントロールのもとにあり感動を呼ぶものであるのだがその時期に他者からインタビューされたその画像がここにに現れる。 多分日本のNHKの取材なのだろう。 画像も少々白くはがれたようで家の前に杖をつききらびやかな衣装で登場する老写真家は英語で話しかける。 自分の読者を意識して話しかけ、多分これが最後になるのではないかという自分の発言に耐えられなくなりそこで嗚咽し、カメラを眺め、短くそのシーンを終える老写真家の眼と姿に今まで経験したことのない動揺を覚えた。 それはいつまでもざらつく思いを記憶に留めるものだった。



下記サイトでの展覧会オープニングの動画は20107月末までは見られる模様;
http://www.dzl.nu/2010/05/opening-fotografie-in-de-gewelven/

昼の外気35℃、夜中の屋根裏部屋1時で27.5℃

2010年07月03日 08時06分17秒 | 日常
オランダにしては暑い、35℃である。 日曜の朝早くにうちをでてほぼ1000km離れたオーストリアのキャンプ場に出かけそこで3週間、ぶらぶらしたり山を歩いて過ごすことになっているのでそろそろ支度をしなければならず、家人は一日中、寝袋、テント、マットレスに各種服装布物のパッキングに忙しく、時には自転車で町に買い物に出かけている。 自分は車の点検、一年に一回するかどうかという掃除に加え、素手でカーウォッシングである。  

午後の3時、4時ごろだっただろうか、表には人通りなく、気楽にi-Podの音楽を聴きながら水を使っていた。 金曜の午後にしては人通りがないのを訝しがっていたら隣の奥さんがパートから戻ってきて、サッカー見ないの?と私に聞く。 さて、別に興味もないので、どことどこ?と聞くとブラジル対オランダだという。 へえ、何時から?というともう始まっているらしい。 だからこの静けさなのだろうと納得した。 耳のプラグをはずしていたら近所からときどき聞こえるプラスチックのホーンの音がするのだろうがそれも聞こえないからどうということもないし、電気掃除機で車内をガーガーいわせていると一層周りの音は聞こえない道理だ。 そういえばこの前のオランダ戦の時に買い物にでかけるのに3つぐらい向こうの通りを自転車で走っていたら人通りが全くなかったので写真を撮った覚えがあるけれど今日はそれに輪をかけて人通りがないのだろう。

一渡り掃除を済ませて庭の植木に水をやり冷蔵庫から冷えたビールを掴んでテレビのスイッチをつけるとちょうどブラジルが自分のゴールにボールを入れて1対1になったところだった。 家人も買い物からもどりテレビの前に座る。 日頃はサッカーにはまるで興味も示さずルールさえ知らないのにこの騒ぎだ。

見ると審判はアジア人で固めているようにみえる。 これもヨーロッパ、アメリカの審判を除外してのことだろうか。時には家人も審判の判定に厳しすぎるだの批判をするがそれもブラジル側にフリーキックを与えた場合でその理由も判らずにそういうのだからこの熱気はスポーツに興味のないものまで熱くしているようだ。 私は日本人の主審がどのように判定を下しそれぞれの選手とどのようにコミュニケーションをとるのかの方により興味が向かう。 自分としてはどちらが勝っても別段どうということもないし、それは日本が試合をしているときも同じだった。 サッカーでは熱くならないのだ。 かといってウインブルドンのテニスでも熱くなるということもない。

スナイダーの頭にボールが回ってきてへッディングでゴールしたときは近所からいっせいに喧しいホーンが鳴り渡り私はこれで勝負ありかとテレビの前を離れ表に放ってあった掃除道具を片付けにでた。その後、裏庭ででるのに素足で石の上をあるいたらその熱さに飛び上がった。 これなら石版焼きができそうで、実際8時のニュースでは車のボンネットで玉子焼きを焼くのだというおばさんがいたし、この暑さで海岸にいった連中が車の中に愛玩動物を放ったまま遊びほうけていたら密閉された車内は軽く50度を越すのでホットドッグができるとボランティアが駐車場を見回っている姿もあった。 日本では赤子をそうやって脱水症状にさせる若い親たちがいることも毎年報道されるのだからさすがこの国ではそういうことはないけれどペットならあるという話だ。

9時前に射撃クラブに出かけてクラブのプラスチックピストル、グロックで9mm弾を数発撃ち、その後、心安いクラブ員とバーの止まり木でビールを飲んでいたのだけど暑いからと涼みがてらめいめい飲み物を手に裏庭のデッキチェアの所にで出るとそこからそのまま続く公園の木立の近くにテントが20ぐらい張られていた。 広い公園の中にあるスポーツクラブの一つに他の地方から遠征試合に来た連中が寝泊りしているのかもしれない。 うちの子供たちにしても一昨年まではこの時期にあちこちの地方にフィールドホッケーの試合に出かけていたからどのスポーツでも今はそういう時期かもしれない。 先々週クラブから緊急会報が届き、来週緊急会議が開かれ会員の了承を得て銀行から金を借りクラブハウスと射場の屋根の修理をしなければならないとのことだった。 25年に一度のことであり試算では2000万から2500万円ほどかかるらしい。 返済15年で利子が特別に4.1%とのことだ。 来週は会議に出ることができないので賛成として委任票にサインした。

うちに戻ると家人が11時前であるのに電気もつけず薄暗い中で出発の準備をしていた。 シャワーを浴び、さっぱりして今日何本目かのビールの小瓶を開けていると日本の老母から電話があった。 大阪は梅雨の雨、湿度の高い30度前後だろうと言っていた。 こちらは夜中の1時でもまだ室内は27.5℃だ。






フランボワーズ とか ラズベリー とか言われる木イチゴが実った

2010年07月02日 20時21分48秒 | 日常

この時期になりいろいろな植物の葉が茂るようになるとその間から赤いものが見えるようにもなる。 葎のなかを探ってそういうものを摘んだら片手に余るほどにもなって塩水で洗い桃と一緒にデザートに使った。 これもことしの初物だった。

これよりも少し大きく蔓も太くて元気、茨もきびしいもう一つの食用木苺、ブラックベリーの方は熟すまでまだ少し時間がかかるようだ。



ウィキペディア; ラズベリーの項;
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%BA%E3%83%99%E3%83%AA%E3%83%BC