暇つぶし日記

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メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬 ;観た映画、Nov 09

2009年11月29日 11時00分02秒 | 見る
メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬(2005)

LOS TRES ENTIERROS DE MELQUIADES ESTRADA
THE THREE BURIALS OF MELQUIADES ESTRADA
LES TROIS ENTERREMENTS DE MELCHIADES ESTRADA

122分
製作国 アメリカ/フランス

監督: トミー・リー・ジョーンズ
製作: マイケル・フィッツジェラルド
トミー・リー・ジョーンズ
製作総指揮: リュック・ベッソン
ピエール=アンジェ・ル・ポガン
脚本: ギジェルモ・アリアガ
撮影: クリス・メンゲス


出演:
トミー・リー・ジョーンズ     ピート・パーキンズ
バリー・ペッパー         マイク・ノートン
ドワイト・ヨーカム        ベルモント
ジャニュアリー・ジョーンズ  ルーアン
メリッサ・レオ           レイチェル
フリオ・セサール・セディージョ  メルキアデス・エストラーダ
バネッサ・バウチェ        マリアナ
レヴォン・ヘルム        盲目の老人
メル・ロドリゲス
セシリア・スアレス

「アモーレス・ペロス」「21グラム」を手掛けたギジェルモ・アリアガの脚本を、名優トミー・リー・ジョーンズが主演のみならず自ら初監督も務めて映画化した感動ドラマ。カンヌ映画祭ではトミー・リー・ジョーンズが男優賞を、そしてギジェルモ・アリアガが脚本賞をそれぞれ受賞した。アメリカとメキシコの国境地帯を舞台に、亡くなった親友のメキシコ人を彼の故郷に埋葬するためアメリカ側からメキシコへと旅に出る男の姿を描く。

アメリカ・テキサス州、メキシコとの国境沿い。ある日、メキシコ人カウボーイ、メルキアデス・エストラーダの死体が発見される。初老のカウボーイ、ピートは彼を不法入国者と知りながらも親しく付き合い、年齢を越えて深い友情を築いていた。悲しみに暮れるピートは、彼と交わした約束、「俺が死んだら故郷ヒメネスに埋めてくれ」という言葉を思い出す。そして偶然、犯人が新任の国境警備隊員マイクだと知ったピートは、彼を拉致誘拐すると、共同墓地に埋葬されていたメルキアデスの遺体を掘り返させるのだった。そして、そのままマイクを引き連れ、遺体と一緒に故郷ヒメネスへと旅立つのだった…。

以上が映画データベースの解説なのだが、ここでは70年代アメリカニューシネマの西部劇版が今風となって現れたような感じがした。 

忙しい中でこの映画をかつて観た様な気がして今考えてみると、初公開が06年、それから1,2年経ってからテレビに現れたのだろうから、そうすると観たのは1,2年前だったことになる。 テレビガイドの写真が西部劇そのままのものだったから純粋の西部劇だと思い込み、解説も読まずにその晩ヴィデオに録画してそれから4日ほどしてから観た。

トミー・リー・ジョーンズの西部劇ものか、さて、とスイッチを入れると、初めから、あれ、これ見たことあるぞ、ええっと、、、と筋を追いつつ、テキサスのメキシコ国境警備隊がネズミかゴキブリが餌を求めてアメリカに越境してくるようなメキシコ人たちを蹴散らす様子が現れ、それにかぶってカウボーイ、ジョーンズ側からの話が重なる仕組みになっている。 この町の設定、雰囲気が現代の西部劇としては申し分がない。

西部劇ではどこでも金、権力、抗争、復讐、暴力、女が絡む仕組で最後は銃で決着をつける、ということになるのだが、ヒーローが出ていろいろと紆余曲折がありながら艱難辛苦の後相手を射止めてお仕舞い、というような形を取りがちなのだがニューシネマの西部劇では必ずしもそうならず、大抵はアンチヒーローものであったりするし、例えヒーローが目的を果たしたとしても当初の目的から大分外れた結果になるようなものだ。

本作では金は絡まないものの、権力というのはここでは犯罪であるようなないようなものをカバーアップする地元のシェリフ、抗争は違法滞在者を誤って射殺した国境警備員の尻拭いをする地元のシェリフに対する主人公ジョーンズの行為、カウボーイ対公権力の追跡劇という形で現れる。 死者に対する復讐は形としては最後まで示されないものにしているものの、事件の中で或るときには弱い女が当初この警備員から受けた暴力の借りを返して自然と和解する、といったような浪花節的なものも微笑ましく挿入されていて、国境の両側がマイクロコスモスを形作っていながらもメキシコ人、アメリカ人グリンゴというような構図は西部劇そのものだ。 途中で、これとは種類が違うものの、ここでのジョーンズとサム・ペキンパーの「ガルシアの首(1974)」で好演したウォーレン・オーツの感じが似ていると思ったのだがまた同時に、ちょっと違うかなとも思ったけれど、それでも似ているなとも思い返した。

話の持って行き方、馬の背に乗って動くようなテンポに女たちとの交流が西部劇だし、とりわけ地元のダイナーの女が西部劇の女で大抵酒場のやり手女主人が主人公と一定の関係を保ちつつもあるモラルを保つというそんな具合だったようなのだが21世紀の西部では性に対しては奔放でありながら保守的なところも併せ持ち、その言動にしっかりしたものを感じることで西部劇の女にこじつけられることは確かだ。

ベトナム戦争あたりから使われだしてその劣性ゆえに何人ものアメリカ兵を事故死させた経歴をもつ23口径で人のよい違法滞在者のメキシコ人が誤って射殺されることから物語が始まり、その口封じに対抗して自分の筋を通そうとすることで国境の向こうに旅立つのだからある意味ではロードムービーであり、そこに現れる風景や路程の出来事が興味深い。 われわれが西部劇に惹かれる理由の一つに、そこに広がる空間に捉われてどうしようもない広呆然とした想いに駆られることがあるだろう。 ここではない或るところ、そこには人も町もなく自分ひとりが世界に対峙するというような広大な空間なのだが、けれど実際にそこに出かけてみてもその数時間後にはその何も無さを自覚して車、日常に戻る、といったようなことにもなるし、そこでの厳しい風土に、これでは堪らないなあ、と結局、無味無臭快適な温度のスクリーンの前でそこで演じられるドラマを眺めつつ、それでも未練がましくそういう荒涼とした風景に憧れる。 そういうドラマの背景の絵は美しいのだ。

西部劇であるから銃器はつきものだ。 ベトナム戦争や日本の劇画で長らく人気のあったゴルゴ13が使う銃、殺されたメキシコ人がコヨーテ撃退用に打つ、形は西部劇をそのまま残したライフルのカービン銃、主人公ジョーンズは馬の鞍につけた昔ながらのカービン銃は別として丸腰と見えていたものが今風にそれでもクラシックのコルト自動拳銃を今風に撃ち、中でも一番興味深かったのがシェリフが断崖絶壁が続く一行を追い、はるか1kmを超す崖を上る馬上の主人公を雄大な景色の中、こちらの崖の上からスコープ越しに狙うシーンだ。 われわれにはこのシェリフが仕留められなかった理由を詮索するようになるのだが、それは女を巡って主人公と関係のあるこの少々疲れ気味のシェリフが果たして一行が狙撃できる距離にあったのか、それぐらいの距離では絶対的に呼吸が静謐でなければ射止められないことがあるのに息使いが荒く、それはそこに上るまでの急坂を登った影響か、それとも今では犯罪容疑者と烙印がついた主人公の行為が、自分が多少の事件になることを厭った結果であり、また女を巡って感じる妙な屈折した近親感であるのか、たまたま標的が岩の間に消えていったからなのか判然としないあいだに息を切らせてライフルを放り投げてしまったシーンなのだ。 西部劇で手に汗を握らせるところなのだが、そのすぐ後の今風の携帯が鳴り、その能天気な電話の会話に大笑いする上手い仕組みにも感心する。

ここではユーモアが各所にあり、それはそれまでのジョーンズの映画にも見られる種類のものもあるのだが、ここではもっと広く状況のなかから醸し出す種類のものでもある。 それは緩急のつぼを心得たスクリプトがいいのかもしれない。 解説で知ったのだが、この脚本家は「21グラム(2003) 」も手がけたということなのだが何となく筋書きに似たようなものを感じた。 それは、瑕疵が起こした結果がどのように物語を転がしていくか、というようなもので、その瑕疵にどのように決着をつけ、どのように悔いるか、復讐は成り立つのか、というような点でもあるのかもしれない。

見続けて、ああそうだったなあ、これはいいシーンだと追いながら、それではこれから後は、、、、と結末を考える隙間を与えられなかったような気がしてまた結局最後まで観てしまった。 そして結末を思い出さなかった理由は、本作で好演したバリー・ペッパーが最後に主人公にかける一言だったからかもしれない、と思った。 


岳父再入院

2009年11月24日 11時38分42秒 | 日常

家内の父が昨日、小さな心臓発作を起こしたらしく、姑が家庭医に電話連絡し状態を伝えて救急車で10分ほどの病院に収容されたあと検査があり、今は安定しているとかで明日にも家人が行きなれたその病院に出かけることになっている。 その病院はこの30年間で何回も舅、姑の見舞いにでかけたところであり、半世紀以上前に家人もそこで生まれている地元の病院だ。 姪の一人もそこで看護婦として働いているから彼女が勤務の折には時々我々が面会時間に出向くとと顔をみせるから気楽ではあるけれど、逆に我々子供、孫たちの面会が重ならないように互いに連絡を取り合って面会時間に出かけるようにしなければ逆に多くの見舞い人で病人を疲れさせかねない。

その病院には何ヶ月か前に姑自身も2週間ほど持病の骨肉腫の悪化で入院しており、手術もできないことから今はもう薬物治療だけ受けているのだが、その効き目は良好で今は自宅で安楽に暮らしているが、さすが体を食い尽くす病気のためかこの1年ほどで30kgほど体重を減らしているからもともとぽってりとしていた人が今は痩せた老婆になってしまっている。 しかし、2年ほど前の危ない状態のときと比べると驚くほどの回復、小康状態で、それに加えて、老人性そこひの手術を2ヶ月ほど間隔をあけて行ったところでもあり、舅、姑とも80を超えて老人性の病気がいろいろと次から次へととどめなく襲ってくる。

この一年ほど誰に何が起こっても対応できるように兄弟の間で連絡を取り合っているのだが義兄弟たちの家族にしてもそれぞれ同じような年頃の舅、姑たちの健康問題のことも抱えており、どこともこういう事情は大差なさそうで、我々の年代の親たちには日常茶飯事のことなのだ。 自分たちの年代の周りではまだ欠けていくようなことはないものの、80を超えた年代にはそろそろどこでも人生のタイマーのアラームがなるような時期にきている年寄りが多い。

幸い昔ほど仕事で手が離せないということはなくなっているのですぐに対応は出来るし、心の準備といってもそれは、慣れという要素も加わって予行練習は徐々に終わりに近づいている。

隣家の猫に餌をやる

2009年11月22日 09時20分03秒 | 日常
隣のゲイのカップルがフォードの新しいキャンピングカーを買ってその乗り初めに先月私たちが歩いたドレンテ州を水曜日から土曜日か日曜日まであちこちと走って車を試すのに出かけた。

出発前の一週間ほどいろいろと内装を見たりいくつかあるビデオカメラを動かして試していたけれど二人とも昼に仕事に出ている間に突然何かのブザーか警報が鳴ったりしていた。 それは駐車中の車が何かの具合で警報が鳴り出すようなもので、特定の周波数にあわせてあったり何かのセンサーに何かがかかったりすると作動するようなものだけれど車が止まっているところから距離が少しあるから別段こちらのほうには迷惑になることはないもののそのたびに物取りに入られたのではないかと家人もそちらを覗いたりしていた。

本人たちもまだ新しい内部の機材をマニュアル片手にいろいろと触れているうちに鳴ったりすることもあって家人が覗きにいくと開いたドアから隣人がでてくることも度々だったらしく、出発前に車の調子を訊いてみるとバッテリーがおかしくてディーラーに問い合わせて他のものに変えたけれどそれはそれとして時には機械の過剰反応のようなものがあるのではないか、というようなことを言い、それも含めて2トン半ほどの車を動かして試し乗りに出かけたのだった。

我々が留守にしているときには彼らが我が家のおばさん猫の世話をしてくれるのだからこういうときにはその家の二匹の猫の世話はうちの番になるわけで、その二匹はいつも家の裏庭にやってきたりそのうちの一匹はいつも腹をすかせていて夏などはうちの台所の戸を開け放しにしていると我が家の猫の餌を食ってしまうのだけれど、いくら追っても本人(猫)は気にしない風なのだ。 それはそれとして、家の猫もそういうことも気にしなく、自分の家のテリトリーは守っているし両隣の隣家や近所の庭にも出かけているようだからお互い様ということなのだろう。

この家のルーティーんを聞かされてその通りにする。 預かってある鍵で朝、玄関から入って台所にある二匹の猫用の入れ物に肉や野菜の細かなブロックをマグカップに八部目ほどやって水が少なければ補充し、台所のドアの下にうがった猫用の通路であるプラスチックの穴のロックを出入りできるようにして夕方まで散歩に出し、というか勝手に出入りできるようにするだけなのだが、それが済んで居間を通って玄関のドアから出るともう二匹ともそこで待っているということもある。

夕方7時ごろにうろうろしている猫と一緒に玄関から入るときもあるし、入れば居間で二匹とも夕食をまっている、ということもある。 一匹しかいなければキッチンの裏戸をコツコツと叩けばじきにごそごそ穴から入ってきて二匹とも揃うと出入り口を翌日までロックするという順序だ。

毎日のルーティーンで袋入りの肉や魚のキャットフードをハロー・キティーか何かの二つくっついた陶器の小皿にほんの少し入れるのだが我が家の猫の喰う量はここで指定された、二匹が喰う量を数倍するほどで、だからこの一匹がよく家のを狙っているのだろうともおもうけど、しかし、逆に大きいほうの猫はこれで十分といった風でもあり、そういう違いも面白いものだ。 それぞれもった性格とか資質があるものだなあ、と思う。 自家の猫だけ見ているとそれが猫だ、と思いがちになるがそれは人間世界でもおなじことでもあるようで、こんなつまらぬところでも納得したりする。

今日はさすがに二匹とも人恋しくなったのか玄関から居間に入ると二匹とも擦り寄ってきて纏わりつき頭や首、体を擦り付けてきて食い気のほう暫しお預けでこの家の主人たちのかわいがり方が察せられるようでもあった。

暫くこの家の居間を眺めながら猫たちと遊んでから自宅にもどると我が家のおばさん猫はソファーの上で丸くなって眠っていた。 夜中に夜食をともにし、その後散歩に出してくれというのが日課でそれまでの休養なのだ。 羨ましい生活ではある。


ドレンテ州を歩く 12  ユダヤ人強制収容所

2009年11月21日 02時13分53秒 | 日常
2009年 10月 25日(日)

二日間で45kmほどを歩いて日曜には天気がよければ森の周りを歩くことにしたものの皆の賛同も得ず、それに朝から天気もよくなかったそうで、結局、皆で10時ごろからゆっくりと朝食にしたのだからしっかり歩くという風にはこの日の空気は流れなかった。 家人の提案で、それではあまり遠くないところにある Westerbork concentration camp に行こうということになった。

もう10年も前にポーランド旅行をしたときに訪れる町にアウシュビッツは入れなかった。 その記録や書き物で十分承知しているし、今まで十分な映画などの映像資料にはことかかなかったから訪れることに意味はなくはないものの、そこにいることが余りにも重過ぎる気がしたからだ。 広島の原爆記念館を訪れたときのショック以上かもしれない。 人間が他の人間に対して行う大量殺戮の現場でそれを歴史として検証する憂鬱に耐えうる確証がなかったからだ。

30年近くこの国に住んでいると様々な人に会うし、この日訪れた Westerbork concentration camp に収容されて生き残った人も、また、戦時中旧蘭領インドネシアで日本軍の強制収用所で暮らした人たちやその家族たちと接する機会もある。 毎年、この国ではそれぞれの戦争を忘れないように、記念日には政府の首脳、元首をふくめて各地で様々な式典が行われ、ここもその日には毎年ニュースで取り上げられるから、オランダでは Westerbork という名前だけでそれが意味するところが理解されている。

第二次大戦がどのようなものであり、日本がどこと戦ったか知らないような若者が多いのとは歴史に対する認識が大きく違う国民風土である。 とはいってもオランダは無垢では済まされないことも知っている。 この収容所の存在こそがオランダの歴史の中で痛みとなっていることも知らされる。 つまり、ドイツ以外でナチ協力者の数が一番多かったのがオランダであったこと、ドイツに占領されたとはいえその傀儡政府が協力して10万人以上のユダヤ人を狩り出し、ここを主要な場所としてここからドイツのアウシュビッツ等の「最終解決」のための収容所に輸送されたという歴史を証明する場所に他ならないからだ。

車であまり走らないうちに Westerbork の村に入るが何の変哲もない普通の村だ。 もちろん人家の近くに広大な収容所をつくるはずはない。 そこから何キロも走り、広大な森の中を走ると駐車場がありこの収容所の歴史、ユダヤ人の歴史を見せる記念館があり日曜の午後でもあるから多くの人が訪れている。 掲示をみるとここから森を更に歩いて強制収用所跡まで3km弱ある、足に自信のない人のためには地元のシャトルバスが運行していることが書かれており、この広大な森は一部を切り開いて1970年ごろにオランダの科学技術省が宇宙研究のため10基ほどの電波望遠鏡を2kmほどにわたって建設しており、それに並ぶ強制収用所跡とともに今ではモニュメントになっていて、宇宙の仕組み、太陽系のそれぞれの天体の情報などが強制収用所跡への遊歩道に沿って点々と展示されており、天体についての情報に接することで強制収用所に向かう鬱陶しさをすこしは軽減するようでもあるけれど、その取り合わせに何か奇妙なものを覚える。

老若男女、子供も含めて強制収容所跡に向かう家族、友人などのグループが多い人々と遊歩道を歩いていると宇宙の各天体のことを説明してある箇所では笑いや和やかな会話の様子は見られたりするものの、それも終わり、大きな望遠鏡のパラボラがいくつも並んでいるのがはるか向こうまで見わたせるあたりにきて、いよいよそこから縦横1km四方ほどの広大な跡地にはいるあたりに大きな棺のような記念碑が5つ、ここから他に移送されて生き残ったり、死亡したユダヤ人の数がそれぞれ記されているところに来ると人もみな黙りがちになる。

1942年から2年間、1944年までで 107.000人 が5箇所に移送されそのうちの一つがアウシュビッツだった。 ここから50000人ほどがアウシュビッツに送られ、そのうちの一人がアムステルダムで匿われている間のその生活と意見を日記にして戦後名前が知られることになるアンネ・フランクである。 広大な敷地跡に入る前に鉄条網の柵の前に屋敷のようなものが残っており、それが収容所所長の宿舎であると示されている。 戦後もそれは別の用途で使用されていたようだ。

今は建物の跡もなく、ただバラックがいくつも並んでいたその土台があちこちに規則正しく見えてそれぞれにどのような用途であったことかも書かれている。 入り口の建物は登録所であり、会議室、娯楽施設、50m以上の長いバラックには住居区域とあり、その一つの空間には数百人が寝起きしていたことと察せられる。 大きな作業所跡では電池の再生作業がなされていたと表示がされていたが実際には他にも作業があったのではないか。 ここに来るまでに被収容者はすべて財産を没収され身の回りのものだけで生活していたようだ。 収容所跡地を抜けて一番奥には一部鉄条網が取り除かれオランダ各地からここへ、またここからドイツ、ポーランドなどの強制収用所へ輸送されることに使われた鉄道の引込み線の終点がありそのそばに大きなバンカーのような食料保存庫があり内容物はジャガイモだったと記されている。

毎週火曜日の朝、1000人ほどがここに送り込まれてきたのだという。 我々の世代は戦後のアメリカ映画などでドイツの捕虜収容所の様子は見聞する機会があったけれどここはそのどれに比べても規模が大きく、当然映画ではセットであるから殆ど実物のミニチュアのようでもあるけれどこれだけ大きければここに来るまでの森の遊歩道には人が多く連なっていたものがこれだけの空間になるとみんなバラバラで自分のグループ以外は顔も判別できない遠くに散らばっているように見える。 

けれど、この敷地の中央に広場のようなものがあり、そこに高さ10cmほどの素焼きの小さなレンガのような石の記念碑がでこぼこと並んでおり、その数が 102.000 で死者の数に一致しているという。 つまり、2年間で 107.000人 が来て輸送され、102.000 が死亡し、生き残ったのは5000人だ、ということだ。 生存率約4.5%。 100人いて95人が死亡ということでもある。 入り口近くにあった記念碑にそれぞれ5箇所へ移送されてその数と生存者の数もその下に記されていたものの、中には5000人ほどがそこに送られて生存者が一人というのもあった。

我々が駐車場までの帰路に選んだ遊歩道のコースは落ち葉が積もった雑木林で駐車場にもどると今まで曇っていた空が夕焼けで赤くなって林を歩くのに明かりとなっていたものが今は闇につつまれそうになっていた。

この場所は、グーグル・マップスの衛星写真でも電波望遠鏡が何基も横に並んでいるのが見え、またそのすぐ上に四角に切り取られた跡地が見え、その中に死者の数だけ並べたレンガ色の記念石が点々とあったものが、それはオランダの国土の形であるのが今分かったのだけれど、それが見えても、地図にはここがどういう場所だったのかの表示はない。


英語版 Wikipedia;Westerbork concentration camp の項
http://en.wikipedia.org/wiki/Westerbork_concentration_camp

Molly Johnson ; CD Lucky を聴いて

2009年11月20日 12時47分28秒 | 日常


パソコンで何かファイルを作っていたり手仕事をしているときにはネットのジャズ局やバロック専門局からあれこれ聴くのだが、時にはジャズヴォーカル専門局を流しながら、これはだれ、あれはだれ、と言う風に新旧数々のヴォーカリストの歌声が流れていき、それは99%英語なのだから或る程度意味は分かるからニヤッとしたり歌の世界にしばし浸ってみたりするのだが、それぞれの声の質は似ているものもあるものの、個人には様々あって同じ曲でも解釈は個人様々であることは当然ながら個々のヴォーカリストの喉から出てくる音はそれぞれ違って、例えるとそれは同じ種類の楽器であってもブランドによって違い、また例え同じブランドでも製作年代によって色合いが違うという以上に人間の喉は違うのではないか。

50年代から80年代ごろに活躍したジャズヴォーカリストたちに親しんでいるけれど、それでも或る歌手の或る時期に慣れていれば同じ歌手がそれ以前、また以後のものを聴くと同じ人のものだとは分からないこともあって喉という楽器は他のものに比べて変わり方が激しいものだとも思う。

そんな時、ネット局から Molly Johnson 歌う Lush Life が流れてきてそれに聴き入った。 その前にテレビのコメディー・チャンネルでアニメ・コメディーの長者番組 「ザ・シンプソンズ」 を見ていたからか、主人公 ホーマーの嫁、マージ・シンプソン が歌っていると錯覚した。 まるでマージがこ「この世の忙しい、追い立てられるような生活、、、」とホーマーや子供たちから一息ついて台所で歌っているように聞こえるし、平べったくつぶれたようなマージが時には息をつくときにはまだ若いときのことを思い出してそれが声にも艶をもどらせている、とも聞こえ、勿論、本CDのヴォーカリストの声が、マージの声を吹き込んでいるジュリー・カブナーと違うことは確かだが、この両者が我々を惹きつける声の質を持っていることは確かだ。

Molly Johnson; LUCKY (Verve 1788557)

本CDに収められている曲はヴォーカルを聴くものには殆どが親しいものなのだがここでもくつろいで「マージ」が歌うスタンダードの数々を楽しめばよい。

往復1時間半ほどかかるところに車で出かけた折に本CDをカーステレオでかなり大きい音量で聴きながらハンドルを動かした。 時には渋滞する箇所が途中であったもののゆったりと味わいのある曲の数々を聴いているとイライラが消え歌の世界の中で感心したりニヤニヤしたりしたのだった。 ピアノやサックスも上手なサポーとを勤めている。

女性ヴォーカルが多いネットジャズ・ジャズヴォーカル局からどんどん流れてくる喉を聴いていて新しいところでは薄く淡白な声が多く、上手であるにしても際立った特徴が少ない中、このヴォーカリストははっきり自分だと認められる喉をもっているようだ。

ウィキペディア; ザ・シンプソンズ の項
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%97%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%82%BA#.E5.A3.B0.E5.84.AA

ドレンテ州を歩く 11 森のそばの村

2009年11月18日 13時46分06秒 | 日常


我々が10月23日から一週間借りていた公務員共済森の家は小さい村のはずれの森の中にあって、その村も小さいから店も郵便局も教会さえないところであり、もし何か入用になったら隣の村まで2kmほど歩くか自転車か、はたまたバス(通るのかどうかしらないが)で行くか、もしくは大抵がするように車を使って用を足すかするしか方法がないところだ。

初日にここに着いた時には村には街灯が所々点いていたから森の入り口は分かったものの、それからは全くの標識だけをたよりに暗闇の中を車を運転して探し当てたというようなことだから村のことは簡単な地図だけで実際にちゃんと見たのは当初の予定を終えた四日目で、それまではこの村の中を明るいうちに歩くことはなかった。

それと言うのも当初の目的は、朝早く、といってもバカンスのことだからゆっくり起きてゆっくり皆で朝食を摂り、それからオットリガタナで車で出発点まで急ぎ、暗くなってから疲れ果てて真っ暗な森に戻りスーパーで買った食材で食事を済ませシャワーを浴び、アルコールを入れテレビを見るなり読書するかしてそそくさと寝て、私のとってはまるで宵の口の午前1時前には夢の中、というようなことだったからそれまでは暗い中を通過していただけの村の様子は全く分からなかった。

結局、村の中、周りを歩いたのは子供たちがその当日朝、30km車で走った最寄の駅からそれぞれ帰宅した後、午後に同じ駅から自分ひとり家人を何日か残し子供たちの後を追った26日、月曜の午後、遅くにこの森の家を出るまでの午前中に散歩がてら少し見ただけだ。

ちゃんと舗装された道路があるから時々は車が走る、村から村へ通じる道路は別として、月曜の午前中としては人が殆ど見えない、というようりも全く見なかった。 ただ、どこでもあるようにこちらが見なくても向こうからはよそ者はちゃんと観察している、ということはある。 農家の大きな納屋のついた古い形の家はいくつもあるものの、それだけではないようで他所で働きここに夜は戻ってくる家庭もあるようだ。 これだけ古い農家があるのに教会が見えない、というのは奇妙でもあるけれど隣村まで2km弱、というところがミソかもしれない。 そこにはどこの田舎の村にも見られる3つの教会があるのだから多分古くからここの住民はそこに出かけていたのだろうし、いくらこの村が古いといっても多分100年ぐらい前に開かれた村だろうからその頃に新しく教会を設立するだけの人数も資力もなかったのだろうし同じ教会内でもわざわざ分家を作ることもなくここの住人はその村に出かけていき、村の名前にしてもこの30-40年ぐらい前に出来たのではないか、そのように想像しても差し支えはないようだ。

ただ、村の中に一つ、昔の農家風のカフェーが一つ、村はずれの道路沿いにピザを中心にしたイタリアンレストランが奇妙にもこの村にふさわしくないほど大きな駐車場を備えて流行っていたことだ。

村の中は舗装された小道でつながっているものの道から家まで何の境目もなく、鶏やウサギ、ヤギに羊、馬などが遠くへ行ってしまわないように囲いがしてあるだけで、もし気づかなければそのままどこかの家の納屋や中庭に入ってしまうようなことにもなりかねないようなつくりだ。 勿論、現代のことであるから表のドアは閉まっているものの裏は開いているように見える。 裏に誰かがくるようならその頃は犬が出てくるとか家からははっきり見える、というようなことなのかもしれない。 つまり、ここでは誰でもが誰でもを知っている、というような事なのだろう。

或る農家の小さな納屋は他にはあまり見られないようなノスタルジックなもので何を収めておくものか分からないものの、今ではこれだけでは経営できないような規模だ。 穀物ならもっと大きなものが要るだろうし、牛舎ではなく、大抵一年中外に放し飼いができる羊のものかも知れないが、それとしても小さいのではないか、というようなものだ。

放し飼いにされた羊がいる裏庭とも放牧地とも見えるようなところには何本も果樹があり、その木には梯子がかけられており、木が揺すぶられたからか、自然に落ちたのか、梨のようなものが地面に散らばっているものも見られる。 ここだけ見れば100年も200年も、もしかすると数百年も前にもそうであったというような景色だ。

中国の裂きイカ

2009年11月17日 10時54分32秒 | 喰う


中国食料品店でこの間、天津甘栗もどきのものを買ったとき、そのそばに裂きイカのようなものがほんの少し袋に入っていたのがあったので何かのときにつまみにもしようと買っておいた。 それを、草木も眠る丑三つ時も充分過ぎて、早番の仕事をする人だったらそろそろ起き出そうかという頃に自分は床に就くのに寝酒の一杯も引っ掛けてから、とオランダのジン、ジェネーヴァをガラスのぐい飲みで2つほど引っ掛けて、そこでこの袋を開けてつまみにした。


珍珍(Jane-Jane)ブランドの 魚犬 魚 糸糸 と三文字でか書かれていて Prepared Schredded Squid と英語が添えられている。 調整済みの裂きイカ という意味だろう。 味は日本のものと全く変わりがない。 

中国語でイカは 魚偏に犬 プラス魚だとは知らなかった。 日本語では烏賊と書くから鳥の烏(う)なのだから、まあイカは海の中の生物だから鳥というよりも魚のほうがふさわしいのだろうが、それでもこれには見慣れてはいないので少々戸惑う。

それにここに書かれている字体を見ると、一見、魚偏に犬の字が何か「獣」にみえて、それならいっそ獣魚のほうが獰猛なイカの雰囲気にも合うような気もしないではない。

そんなどうでもいいことをぼやっと考えながらもう一杯キュッとやって寝床に向かった。 外は4度室内は18度。 温度調節を15度に落としても余熱で朝まで、といっても昼まで16度は保っている。

松浦理英子著 「犬身」 を読む

2009年11月16日 00時54分34秒 | 読む
犬身

松浦理英子 著

朝日新聞社 刊

2007年 発行、 2008年 第三刷 505ページ


私は松浦理英子や笙野頼子のいい読者とはいえない。 読中いつもどこかで違和感を覚え、その違和感に惹かれて読み続けるものの、時にはもう堪らないな、と放り投げたりするような種類の読者だ。 ただ、この人たちは、余りにも凡庸な作家たちで満ち満ちた出版界の中で純文学を支える最良部分の作家であるから放り投げた作品もそのあとゴソゴソと拾い集め、改めて読み直し、またぞろ行を追うことになるのだ。

「親指Pの修行時代」上下を手にしたのは94年ごろだっただろうし、それを読了したのかどうかの記憶もない。 もともと想像力に乏しく、SF物には食指が動かず、理屈が見え始めればあくびが出る。 好色であるから官能物は好むし、性の世界には昔ほどではないけれど未だに興味を持ち続けている。 たとえば学生のときにかつては官能の禁書といわれたから興味をもったサドのジュスティーヌの話、悪徳の栄えを読み、その権力に対する嫌悪や官能よりも哲学的な言説に惹かれ、性の或る局面に目を啓かれた思いもある。 

性に関して、もし、足の親指がペニスになってしまったら、、、というような昔のほら話にあるような、けれどそれが女の親指にだと、、、という話には興味があったものの、今も残る乏しい印象では、Pの物語はさまざまな性を巡るオデッセーの旅、女性性から性の両方の形を俯瞰するような構造であり、その直裁な描写に少々辟易したことと性急に走るようなところで放り出したのではなかったか、というような気がする。 何か消化できないようなことろがあったのかも知れないがそれが何だったのかその顛末の記憶も一切ない。

性を巡っての真面目な書き物だ、とは思っていても、その辟易する、というところからP上下は本棚に安置されている。 今、本書を読了したのだからこれと比べる意味でもそのうち再び「親指P,,,]を手にとって読んでみようと思うが果たして読了できるかどうか。 高校生の読書会で「第二の性」に接して以来自分の男性性と同じく女性性の社会的局面は自覚しており、その後、学生生活の各局面でその社会性に加え生理、身体性にもいささか経験するところもあって後年、たとえば女性学なりジェンダースタディーなどに連なる書き物にも男性の眼から目を留めているのだが、その中に本書の著者の名前が時には見られることも承知している。

明らかに両書の間の15年には著者が30代後半から50代へと年齢を重ね、それに伴って生や性にかかわる想いにも変化はあったには違いなく、その態度の差が作品にも見られるようでもあり、しかし、性に関しては考え続けられていることははっきりと認められるがそのほかの生の要素が大きく加わっているようでもある。 この作家には性の問題は自分の存在にかかわる問題なのだろうと思う。 多分、「親指P、、、」での性の社会性、性の現れ方が本書では絞られ、家族の人間関係や人と動物の関係の中で性は様々な様相を示し、それぞれの相関関係の中でゆるい媒介変数のような形として扱われているからPでの一見ギトギトしたような描写から先鋭性が和らげられているのだろう。 けれど、性に関しては、夏の茂った森では見られなかったものが秋になり紅葉し落葉が積もる森では木の一本一本がはっきりと見え、森の地形までも見渡せるような、そのような性の景色の違いとなっていて、読者には性に関しては夏の熱気というより秋の静寂が印象付けられるのではないか。

もう一つの違和感がある。 世間では犬ブームが続いているそうだ。 犬を飼ったこともなくはないが、絶えず主人を窺う犬の目つきと根性が気に入らない。あと何年かすると小型犬のテリアでも飼おうかとも思ってみるのだが、今のところ、それにかかる世話と子犬から育てて初めにまとわりつかれる鬱陶しさから、例え、考えることだけにしてもそこで逡巡する。 行き付けの床屋の軽く40kgを越す老犬なら相性が合うかもしれないが幼犬からそこまで関係を紡ぐには自分はもう少々歳を取り過ぎているような気がする。

子供の頃から家にはいつも猫がいて、胃袋に物が入るとこちらには一切靡かない猫の性格を好ましく思う。 とは思うものの本書で性と動物の垣根を行き来する物語に犬を持ってくることで関係性が焦点であるこの物語の興味は著しく高揚する。 漱石の猫では男女の性、動物間の交歓は描けない。 「猫」は人物評はできても人間と細やかにコミットすることは出来なかったではないか。 「猫」の作者と「犬身」の作者の時代の差や性差、がその違いにかかわっているのだろう。

本書はほぼ一年以上積読の箱に入っていてそれまでに男性作家の長編を読んでいたその続きで読み始めたものだ。 その一つに、その作家が季刊の文学雑誌に登場したときから批判的に眺めていた男性作家の、なぜ人はそういう書物を買うのか理解できないがゆえに求めた、母親と東京にある高い塔が中心のベストセラーを読み、その主人公の「女々しさ」に70年代初めから出現し当初のフォークからは骨が抜け四畳半ものに成り果て、その時代に流行した若者男性たちによる日本のフォークソングになびいた層に阿る精神と同じようなものを感じ、読後、当初の予感を再確認した後だけに本書の厚いページの残りが少なくなるにしたがってもっと続けばよいのにと、この男女二人作家の小説世界の違いが対照され、最後の70-100ページあたりから結末は知らずとも物語の終わりを惜しんでいた。

ブログの日記を持ってくる結構が成功している。 著者が幾人もの性格を書き分ける中でネット世界の匿名性を盛り込んで話を進めるところは今の情報社会でネットがある程度不可欠になっている状況に寄り添う形にもなり、物語という虚構の入れ子構造にもなり、また、本書が紙に印刷される前にそのネットで発表されていることでも現代の物語でもある。

400ページ台の中ごろに入るようなあたりで、一体どのように話を終えるのかな、と思案がその事に行き、犬になったフサがそのままに見取られて昇天した挙句、トリックスター、狂言回しの朱尾の精神の一部となり梓と朱尾の付かず離れずの関係で御伽噺として話されることを期待していた自分の甘さが、たまたま見たネットで作者のインタビュー記事を読んでしまい結末の一部を知らされたことに悔みはしたものの、それでも現実的かつ御伽噺的結末に或る部分は納得し、或る部分は何だかあっけなすぎるとも思ったものだ。

作者には梓の父親、朱尾が何なのか十分納得が出来ているのだろうか。 沈黙とトリックとして示されているが、つまり作者にとって男とは何なのか、ということでもある。 それを総括しなければ性のないユートピアは存在しないのではないだろうか。 私の周りの親戚、知人、友人のなかにはティーンネージャーから老人まで多くの同性愛者がいる。 いや、違うぞ、本書は人間のジェンダーだけにまつわるのではなく、人、動物の種を超えた関係性、コミュニケーションに及ぶ寓話だったのだ、と興味なさそうな振りをして私の中の「猫」は言う。


アサヒコムやそのほかのサイトから著者、著書にたいする言説;

http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200710310092.html
http://book.asahi.com/review/TKY200711060213.html
http://www.tokyowrestling.com/articles/2008/08/matsuura_rieko6.html


ドレンテ州を歩く 10  グロニンゲン駅

2009年11月15日 13時23分40秒 | 日常

ドレンテ州を歩く 7 から続く

2009年 10月 24日 (土)

Zuidlaren から Haren を 通って Groningen 駅まで 徒歩 約24km

我々4人に娘のボーイフレンド J君 が Haren にある釣堀のレストランから加わってこの日の最終ポイント、グロニンゲン駅まで9kmほどを歩くのだが、我々はここまでに既に15kmほど歩いていて、私の右足の痛みも休憩の折には治まってはいたものの歩き始めるとまたぶり返した。

Haren から Groningen までは直線距離にして5-6kmで、もう20年以上前その町に住んでいたときは時々自転車で大きな道沿いに走っていたし、車でもこのあたりは走ったことがあるけれども遊歩道のような自転車かそこの住民ぐらいしか乗り入れないこのようなルートを歩くのは初めてで、出来るだけ車や自転車を避けるように作ってあるルートであるのに、さすがこの二つの町の間はかなり人口が密集しているようで、このあたりは木々はあっても2-30mの距離を置いて人家がかなりあるようなところを歩くというようになっている。 もう森や公園がある場所は市の北までなさそうだ。 それでも一番静かなルートを辿っているのだからあちこち曲がりくねって結局9kmと言うことになるのだ。

南からこの州の州都まで北上する高速道路も昔からの運河もこのあたりまで来ると平行していて、当然高速道路に沿って遊歩道などのルートは作られていないものの目的地まで無理な回り道をせず辿るということになると広い運河の堤を歩くことになるのだ。 この頃にはそれが長距離を歩いた疲れなのか、昨日から続く足の痛みなのか判別のつかないようなことにもなっており、他のメンバーには感づかれないようだが自分ではかなり足を引きずっているようだ。 それに小道とはいえアスファルトが敷いてあると足裏に負担がかかり自然と路肩の草の生えているところを歩くようになる。

若いものたちはさすがに元気があり、道々、ふざけ合ったりすると声を上げて互いに追いかけっこをするようなことまでする。 彼らはこの10年ほど毎週3時間はトレーニングをし、週末にはフィールド・ホッケーの試合をしているものたちなのだからスタミナは十分すぎるぐらいあって今回にしても、もうこの何年も親が言うから一緒に歩く遠足、というような意味合いになっているのだろう。 我々年寄りはもう声も出さないで黙々とあるく、という態なのだ。

町に入りコースのそばにスーパーがあったのでそこに寄って夕食の食材を買った。 私はかなり疲れていたのでどうでもよくそれぞれがいろいろな棚、コーナーをカートを押しながら回るのをぼんやり眺めていてレジが済んでから買ったものを各自のリュックに分担して持ち帰るときに、私のリュックが一番大きかったから自然と一番多く背中に担ぐことになったけれどリュックの重さは足の痛さに比べると何ほどでもない。  J君は試験が近々あるからと大判の辞書ほどもある重い医学書とパジャマに簡単な衣服をリュックに入れていたからそのスペースもなく、結局スーパーのビニールにメロンを入れたものを他の子供たちとおなじように手にぶらさげて歩いていた。

ちょうどこの頃、日もとっぷりと暮れて 駅に着いたときにはあちこちに明かりが点いていた。 この町に前回来たのは3年ほど前であるけれどこれまで何回も車だったから駅を見ることもなく、前回駅に来たのは20年ほど前になるかもしれない。 80年代の中ごろに駅が修復されることになり天井の板をはがしてみると下から明治時代から1930年代のスタイルの装飾が現れてびっくりした、と言うことがあった。 それまで味気のない天井、壁の建物が一度にレトロな美術館の内部、と言うようなことで驚いたのだが、前回にみたのはまだ今の美しい壁はまだ現れていなかったけれど天井だけでもその美しさに驚いたことを覚えている。 それに加えて全体が修復されているのをみるのは初めてだ。 土曜、午後6時のひっそりとした玄関ホールの装飾はすばらしいものだった。 よくアムステルダム中央駅を利用し、近年補修されている中央コンコースの天井の装飾をみる機会が多いけれど この駅の装飾のほうが数段上のような気がする。 東京駅にしてもアムステルダムやグロニンゲン駅をモデルにしているらしいから東京駅の装飾も当時はこのようなものだったのだろうか。 

5分ほど待つと電車がでて、普通なら10分とかからない距離に25分かかった。 車内アナウンスが流れ、どういうわけか速度が出ないのだそうだ。 駅から200mほど歩いて踏み切りをわたって駐車場まで歩くのだが、その踏切で今降りた電車を待たなければならず、駅で長く停車して故障の原因を探るとアナウンスで言っていたものの結局分からずじまい、直ってもいないようで、下に下りた踏切の横木の前で大分車が集まってきたころやっと相変わらずのろのろと電車が通り過ぎていき、まだのろのろ向こうへ消えていく電車が見えるのに踏切が上がると我々は最後の300mほどを暗いところを車に向かってとぼとぼと歩いた。

道端に何やらオブジェのようなものがあって、、、、、

2009年11月13日 23時32分59秒 | 日常
大根を買おうと思って帰り道、車を停めて八百屋のはしごをした。 狭い一方通行の通りに面して八百屋があるので駐車できる道を並んだ車の列の間を右に左に駐車スペースをだらだらと探してかなり遠くまで来てしまったところにようやく一つだけ歯抜けのように開いた場所が一つだけあったのでそこに車を押し込んで、そこからテクテクと歩いた。

初めの八百屋には大根は置いていなく、ほうれん草だけを買ってそのビニール袋をぶら下げ、そこから200mほど向こうの次の八百屋までぶらぶらと歩いた。 次のはモロッコ人の八百屋でそこには乾物、肉も商っていて大きな大根も何本か見え、その中の大きくて重そうなものを一つ、カウンターのひげを生やした40代半ばの男の所に持っていった。 男はぶっきらぼうにそれを量りにかけ、2ユーロ80だという。 普通なら1ユーロ50セントぐらいだし、モロッコやトルコ人の経営する店ではそれからまだ幾分か安いので、耳を疑い、ほんとかい、ちょっと信じられないなあ、たかすぎるよ、というとその男は向こうにいる小男にオランダ語ではない言葉で何か尋ね、量りの目盛りのボタンを何回か押して一瞬1.40と表示盤に見えたのをあわてて消して、2.00とこんどは自分で明らかに目盛りを操作した。 ぶっきらぼうに「2ユーロだ」という。 これでは計量計で量る意味もなく、どんぶり勘定、吹っかけ値段なのだ。

その見るからにいい加減な対応に腹を立てたものの、ここからまた何百メートルも歩いて次の八百屋に行く気もせず、その差といってもたかが100円にも満たないことであることで、これぐらいで腹を立てるのも大人気ない、とも思うけれど、一方また、いや、ここでこんなことを許していたらこの連中、付け上がるから、この大根を放り投げてこの店には二度と来ないぞ、と宣言して出てくるべきだ、と二つの相反する思いの中で一瞬葛藤し、結局はそこからまた何百メートルも歩く面倒さに負けて2ユーロコインをテーブルに置いた。 ビニール袋は?と聞かれるのに、いらんと返し、その大根をわしづかみにして店をでた。 こういうことはこの町の商工会議所に投書でもして、、、、とも思うけれどオランダ語で言う「蟻のおまんこ」ほどの細かいことでもあるし、、、、、、外は曇り空ながら柔らかく、また何やら温かみのある外気を感じているとそんなことはどうでもよくなった。 歳をとると気が短くなったり物事をどうでもいいと中途で放り投げる、というような例かもしれない。

車を停めたところから大分街の中に入っているから同じ通りを戻るのも能がないからと住宅地のほうに入っていくつか通りを迂回しながら車に戻ることにした。

この地区は始終自転車で通るところでもあるし迷うことはないものの日ごろは通ったことのない横道に入って散歩がてらに見知った通りに出ればいい、、、、とぶらぶら行くと小さな公園が中心にある人通りのない交差点にでた。 そこには第一次大戦から第二次大戦までの間に斃れたこの地区の人たちの名前を忠霊碑として大きな魚と人魚が絡み鯉の滝登りのように垂直に跳ねた魚の口から噴水が飛び出している70年ほど前のスタイルの彫刻もある。 しばらくそのあたりを見渡しても何十軒とある住宅に囲まれているのだが歩く人もなく、どんな人影も見えない静かな午後3時半というのは街の中としては悪くない。

歩道の端にある街路樹の根元が華やいでいるのが見えた。 何なんだろうか。 南に下がり、ブラーバンド州からリンブルグ州、ベルギー、フランス、それ以南に行けば街の中、村のはずれ、峠などにはカトリック系の信心から十字架や聖人、古くから言い伝えのある何かの証として花や蝋燭などを供えて通る人の目を惹くオブジェが見られるのだがオランダ中北部ではないことだ。 この街に20年ほど住んでいて他のところでも見た事がない、珍しいと思い、おっとりカメラを向けた。 鳥の糞を頭に載せて赤い舌を出した陶器の犬がメインのようだ。 木の枝に銀色のペンキを吹き付けて銀色のポットに植わったゼラニウムのような花を乗せてあるのが見えるけれどどう見ても素人仕事だ。 

多分、中年以上の婦人の長年連れ添った愛犬がここで何かの理由で死んだからそれを悼んでその婆さんが今でも花を欠かさず途切れると補充して、、、、、というような話が思い浮かぶがその根拠はない。 定期的に市の公園課の職員が手入れに来るのだから公園課でもこれをよしとし、地元の人々もそれに協力しているのかもしれない。 いずれにしても灰色と茶色の晩秋の景色の中でこういう色彩と愛すべき形に行き会うのは悪くない。 ここにベンチの一つでもあれば腰掛けてポケットから小瓶を取り出し暫くちびりちびりと茶色の液体を舐めていたいのだが生憎、車を運転しなければならないのだからそういうわけにはいかない。

その夜、街の集会場でジャズのコンサートがあったとき横に座った同じ町に住むプロのカメラマンにこの写真を見せたら、いいじゃないか、ベルギーかい、と言った。 おまいさん、どこの地区に住んでるんだと逆に訊くほどこの男、自分の街のことを知らない。