暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

溺れるものは何を掴むのか、それとも溺れてから遅かったと後悔するのか

2015年11月30日 06時12分47秒 | 想うこと


2015年11月30日(月)から COP21(温暖化対策を決める国際会議)が、 IS がこの間組織的破壊攻撃をかけ120人以上を殺傷した、戒厳令下といってもいいパリで開かれる。 地球温暖化は早くから議論され、徐々にそれが緊急なものと報道されるものの、なにせその議論のスパンが百年、千年、万年単位なものだから我々の(科学的)知識は精々見積もってこの150年ほどでしかない情報に基づいていることもあって懐疑派の反論もあり、それが政治的にはクリントン政権での副大統領だったアル・ゴアが「不都合な真実」で示した警鐘も加わって少なくとも100年単位、50年単位の問題にまで迫った緊急なものとして我々の頭にぼんやりと登るようにはなっていたのがいよいよサミットとして今回もまた「儀礼的」に行われるようだと冷淡な見方をするものもいる開催である。 この問題の核である石化燃料燃焼による二酸化炭素排出規制を巡っては経済の慢性不況からは完全には立ち直っていない先進国の現在、石化燃料を燃やすのを止めるということは一筋縄ではいかないのは京都議定書がなし崩しに無効化されようとしていることからでも想像できる。 そして特に南北問題に端を発する IS 跋扈の問題を含めて石化燃料資源をどうするかというような厄介な時期の開催ではある。 米・ソ・中の世界戦略を絡めその緊張感が漂うこの会議の動向は地球規模の厄介な問題をどうするのかと政治決断を迫るものであるけれどどうするのだろうか。 少なくともあと50年で2℃の壁を越えてはいけない、すでに0.5℃は上昇しておりまた今迄のように先送りすると、、、というのが一般の意見だろう。

今から50年、100年先にただでは済まないことになると言われても今65歳の自分はそのとき115歳から165歳、多分それまで自分が生きている確率は幾ら延命技術がそれまでに進んでいたとしても115歳から165歳だから確率が1%あれば御の字で多分その時は土となっているのか空中に撒かれていることになっているような者にはそういわれても現実味を欠く。 けれど自分の子孫は生きている。 ま、自分は勝手に子をこしらえてそれが続いて、、、、というのだからそれについては些かの責任があるとしても今の世界をもう定年しているのだから後々のことはそれに続く世代に任せればいいのかとも思うけれど、それは我々が70年代80年代にある程度の経済成長下でそれなりの利潤を謳歌し、今の30代40代の収入と我々のそれと比べると今の壮年の収入は相対的に低いのであってそれを任せきりにするのには些かの呵責を感じないでもない。 お前たちの世代が散々まき散らしてきたではないか、そのツケを俺たちが払うのかと言われても仕方がない。 だからどうすればいいのというのだろうか。

それは個人としてではなく西欧資本主議の発達過程での結果だった、と個人の責任を世界の動向に転嫁する。 そこで浮上してきた産業革命以後現在に至る経済的発展過程及び南北問題に端を発する地球温暖化問題なのだ。 その環境問題を綺麗事として論じ解決のそぶりを見せても実際には何も対処できていなかったそのツケがいよいよ科学的に裏打ちされた地球規模での現象解析によって温暖化の「真実」は資本主義の根幹産業の構造的再編でなければどうしようもないというところまで行っているということが徐々に明らかになってきている。 地球丸沈没の危機を少なくとも「先進国」のリーダーは感じとらざるを得ない状態のようだ。 その時点での COP21 である。 そしてそこでの悪の元凶、石化燃料燃焼が世界政治の舞台で取りざたされる中の米・中だ。 中国では今までに例のなかった大気汚染が冬に入って観測されている。 ロシアは供給元としての責任はあるとしてもそれは捕鯨の問題のように19世紀に捕り尽くしたことが問題でありそれを回復するべく研究目的で捕鯨するのだという議論とはかなり違うもので、自分は燃やしていないということでは問題は解決するかということではまったくなく、石油・ガスなどは太古からと同じく、そんなエネルギー源は国際政治の舞台での重要な戦略物資であることを絡めた議論なのだ。 

19世紀の産業革命以来、というよりも人類はいつもエネルギー問題と格闘してきたのだが特に産業革命以後の石炭・石油・ガス、それに続く原子力による効力化の結果、地球上で初めて人類が地球環境を人工的に破壊する様な二酸化炭素を排出し、このままでは人類の存亡の危機になることを示す指標の精度が音沙汰される時期に来ているのだと言う。 試算ではあと100年で平均気温が2℃上昇すれば控えめに見て水没する国がいくつか出る、それまでに気候の激変も起こり、その兆候がエルニーニョなりゲリラ豪雨の頻出に現れているという声もあるしもう既に0.5℃上がっているからあと50年で1.5℃でということらしい。 このままで手をこまねいていると50年後には2.7℃上昇するという試算もあるようだ。 自分はこの何年もスイス、オーストリアアルプスを歩いて来てそこでのこの150年ほどに起こった氷河の後退の度合いを実際に見てそれは単なる氷河期云々と言う程度でないことを見ているし、そのスケールの大きさには北極、南極での氷の大規模の後退とも通じるというのにも納得が行く。 

明日からこの会議が開かれる前日、オランダの 日刊左派系高級新聞の Volks Krant (大衆新聞) 日曜版 11月29日号に出た風刺漫画を載せる。 温暖化で影響が出るのが海の水位だ。 神は世界を創りオランダはオランダ人が創った、と言われる低地国であってそれぞれの国の最高地点一覧では世界245か国中で210位、321mであるものの、ある意味最下位のモルディブの2mとはあまり変わらない、若しくはそれより低いのではないか。 干拓で国土を創り上げてきた国であり、そんな国を蛙の国と呼んでいるオランダの空の玄関スキポール空港の前に出るとポールの上5mほどのところに帆船が浮かんでいるレリーフがあってその水位がこの国の標準海水位だ。 本来ならもともと湖水地域であったから我々は水面下からその帆船を見上げていることになるのだがそれでも何世紀にも亘って築かれてきた堤防で覆われているからそれに安住し、それをただ単に面白いと興味深く目に見つつ歩き去る、それだけのことである。 そこから20kmほど離れたところに家を持つ自分の土地は傍の運河の水位と同じかそれより1-2m低いかもしれない。 

何世紀にも亘る水と格闘してきて灌漑技術では世界最高位にあるオランダで舅は70年代から30年ほどポルダーの水利管理の公務員として天気予報を基に雨が降れば合羽を被って何時間もポンプ施設を稼働させ水位を15cm以内に保つことを仕事にしてきたのだが15cm以内に抑えるというのはなかなかのものだ。 それがその外枠である海水の水位が何メートルも上がるのだ。 海岸線の補修は絶えず行われており緊急には国際河川の影響による増水に対処すること、貯水湖の増設、1953年の洪水から学んだゼーランド州の保護、等々と莫大な費用がかかることが言われているけれどそれに対する費用は紡対なものとなりそれを保証する財源は心もとない。

だから地球規模での対策が取られなければ新聞の風刺画にあるようにオランダ・カエル国のカエルは燃料エネルギーの燃焼で茹でられてしがみつく地球も沈没するという状況は深刻だということだ。 これに対して賢い若者たちは資本の中枢に働きかける運動を始めていると報道されていた。 これには自分も直接・間接的に関係している。 もともとこの10年ほど、反社会的な企業に投資する、銀行、投資会社、財団などにそれを禁止する条項を付けさせるという運動がおこっているのだが、それに加えてもしそれに呼応するなりそんな態度をみせなければそういう企業から一般市民が預金、投資を引き上げるということを推奨する運動だ。 その例が自分も入っている年金財団だ。 我々の年金を運用するその財団に化石燃料に関する企業に資金運用・投資をさせない、もしそれを続けるなら年金をそこから引きあげるという威嚇をして条項を加えさせるというもので、それには財団側も長期傾向を鑑みて賛同するという態度を取っていたことが画面にでて、少なくとも自分の年金は「汚い」金ではないというでは微力ながら貢献をしているということになる。 

資本主義の元でもある株の売買、投資においても数は多くなくとも形もなく有効的でもない「モラル」を説くのでははなく功利的にみてそういう企業から資金を引きあげて行くという実利主義者が金融の上層部にいることも確かではある。 多分日本ではそこまでの議論はあるのかどうか確かではないものの例えば SEALDs という若者の政治運動の中で環境問題に関しては一顧もされていないというところにも歪なその例をみる。 つまりここでは(民主)政治の根幹を動かす金融をどのように(民主化)するかということに意識はとどいていないということでもある。 日本の環境を守れという若者、壮年の地に着いた具体的な提案・意見を聴きたいとも思う。


突撃  (1957);観た映画、Nov. '15

2015年11月29日 17時16分53秒 | 見る

邦題;突撃    (1957)

英題; Paths Of Glory

アメリカ映画; 86分



無謀な作戦によって激戦地で危険と恐怖にさらされた兵士の怒りを描く戦争ドラマ。第一次世界大戦、フランスの最大の課題はドイツ軍の撃退だった。そんな中、ダックス大佐はドイツ軍の要所を攻略する命令を受ける。だが、兵士たちの疲労を知るダックスは、現在攻撃を仕掛ければ兵士たちが壊滅的打撃を受けると抗議する。が、軍上層部は無視、作戦は実行される。フランス軍は大敗し、ダックスは責任を問われ軍法会議にかけられる。
 
上記は短い映画データベースの記述である。 パリでISのテロリストがフランス大統領臨席のフランス・ドイツのサッカー親善試合で爆弾攻撃をしかけ同時にパリの各所でカフェーやアメリカのロックコンサート会場に4人で押し入りカラシ二コフ・マシンガンを連射して80人ほどを殺害、結局全部で120人以上の命を奪いヨーロッパ各国がこれにより非常事態を宣言しているときにこれを記している。 かつてなかったような、国内が戦争状態はいったと非常事態宣言するほどの緊張した夜の翌日、ベルギー国営テレビの深夜映画としてかかった作品である。 尚、これに関わる首謀者たちはベルギーから移動してきたと言われていることからベルギーには様々な情報組織が捜索の網をひろげているようだ。 当然この突発事件テロと本作の放映に関しては何も関係はないけれどどちらにしてもカオス状態のなかで人はどのように行動するのか、それをどう人々は取り扱うのかという生き死ににかかわっていることではこれらを無理にこじつけることも許されるだろうと言ってみる。 

キューブリックのこのクラシックに属する本作品を観た後では戦争というものに対して様々な感慨が湧く。 この戦場には戦争相手の敵が見えないまま話が展開する。 フランス軍を舞台にとりかつてないほどの死傷者を出した第一次大戦、ヨーロッパの修羅場の最たる舞台であるドイツ、ベルギーに広がるあたりだと思われる。 今でもそのあたりの広い農地からまだ薬きょうや地雷が出るというあたりを見て来ているものには第二次大戦以上に兵士を無残に死なせてきた戦場で起きた出来事をモノクロでここに美しく描いた作品である。 けれど、その美しいと感じさせるのは薄いセピアにも見えるモノクロの画面というだけではない。 将軍たちのエゴや思惑に翻弄される下士官、ひいてはその中で一兵卒として普通に戦った挙句に難癖をつけられて軍法会議の結果処刑される理不尽をも描いている本作は2015年の現在に於いてはすでに本作以後にもアクション・戦争映画の氾濫する中で兵士の行動とそれを裁く軍法、それを取り扱う人々を巡って同種の映画が量産されていることを比べてみると本作はそれらの中でも群を抜いてクラシックとしての威厳を示す作品と言えるだろう。
 
本作はキューブリック31歳のときの作品である。 自分は「2001年宇宙の旅 (1968)」を封切り時に映画館のシネマスコープ大画面で観て以来魅了され続け「時計じかけのオレンジ (1971)」を名画座で観たもののファッションでは魅了されたもののその世界に困惑し、オランダに渡り住んでからは「シャイニング (1980)」を北のグロニンゲンの映画館でビールを片手にゾクゾクしながら観た後は後年テレビでモノクロ映画の「博士の異常な愛情 (1964)」、「フルメタル・ジャケット (1987)」、「バリー・リンドン (1975)」、「スパルタカス (1960)」などを観ている。 自分がキューブリックを辿ってきた中で特徴的だと思ったのは宇宙の旅の美しくも乾いた不気味さと不思議さは別として引っかかり続けていたのは登場人物たちの「狂気」だった。 だから「狂気」と「正気」の病院内の闘争であるミロス・フォアマンの「カッコーの巣の上で (1975)」でのジャック・ニコルソンをシャイニングに観、白黒映画の傑作、博士の異常な、、、の狂気、ベトナム戦争を舞台にしたフルメタル、、、での軍曹とその訓練に耐えずに銃で自死する兵卒の眼に現れる狂気がキューブリックのこだわりだと思っていた。 

バリー・リンドンにしてもローマ時代のスパルタカスにしてもどちらも生死をかけた戦争状態のなかでありスパルタカスのカーク・ダグラスが本作では若干洗練されて軍紀の「乱れ」を法で矯正しようと組織内闘争を試みるスパルタカスを演じることになる。 これらは世界の不条理さに対して人はどのように抗うのか、また抗えるのかというそのプロセスと結果を画像の上に提示した作品群なのだと思っていた。 それではキューブリックの初期に属する本作に狂気というものが現されているのだろうか。 そもそも戦争が狂気だというのは安易に過ぎる。 ダグラスや兵卒たちには狂気は見えず理不尽な将軍のエゴは面倒ではあるけれど凡庸な人間であり、スキャンダルを利してその将軍を落とす別の将軍も世間でありがちな男でもある。 もしここに狂気が見つけられないとしたら自分は無いものを探しているのだろうか。 キューブリックがここで現しているのがそんな世界に対しての諦観だとしたら若きキューブリックをその後上記の作品群を制作させ続けることになったその契機とは一体何だったのだろうか。

´15 秋の日本帰省(4)  歩道橋の下で

2015年11月29日 03時43分48秒 | 想うこと

 

アルツハイマーの老母は自宅というか自室では食事を作らずコールがかかるとその介護施設の6階にある食堂に出かける。 その1時間半ほどの間に自分も田舎の駅の近くに散歩がてらでかけビールで昼食を摂る。 同い年の婆さんがやっているお好み焼き屋でお好み焼きを肴にビールを飲んだり、定食を頼むか、この店が開いていなければ陸橋を渡ってもう少し行けばコンビ二、鮨屋、弁当や、餃子専門店にこの日入った和歌山中華そばの店など食事に困らない。 これは自分が住むオランダの町の様子と比べると同じような田舎では考えられないことだ。 それはそれとして、食事を済ませてぶらぶらと道を戻り誰もいない歩道橋の上から関西空港に発着する飛行機を見ていた。 そのうち近くの高校の生徒がぼちぼち駅に移動し始めたのか女子生徒何人かに男子生徒が一人のグループが歩いてくるのが見え、この陸橋にくるのかと思っていた。 つまり駅に行くには広い交差点を越さねば駅に行けないわけでゼブラもない路上を渡るには少々危険もある。 信号があるけれどそれは車両だけのもので大阪南部の大きな環状線の一番端であるからそのような広く車両優先の処置を取られているのだが腹がくちて動きが鈍い自分には路上を歩くリスクは採らない。 17,8の若者には今の時間、交通がまばらなところで陸橋などという面倒くさいものには斟酌せずまっすぐ行くつもりなのだろう。

そしてここまで来るまでにそれぞれコンビニで何か買って道々飲み喰いしながら歩いているのだが、あとからついている男子はどうもオドオドついて行っているように見えるし他の女子がパンか何かを喰っているのにこの男子はちゃんとした弁当を持っていてそれを自分で喰う気配はない。 電子レンジで温められたものであることは確かで、彼らは横切るために車が途切れるまで角で待っていてその間に一人のリーダーらしき女の子がこの男子を呼びその弁当を喰う。 男子は女子が箸を使う間弁当のウレタン箱を支えているわけだ。 女子たちはそれぞれ好きなように喰っているもののこの男子だけが彼女らに仕えるような形に見える。 彼女らにというより他の3人より少し成熟の見える大きめの女子に仕えているように見えるし他の女子もそれを当然のようにみているようにも見受けられる。 ボーイ・フレンド、ガール・フレンドの関係に他の者が少し距離を置いて見ているというのは普通に見受けられ、オランダでは時にこのような年頃の男女一組が路地や公園の端で2,3人の友達がそばにいるのを気にしないで普通に抱き合ってキスをしたりそれ以上のところに行きそうなところで制御して他の友達たちもその熱が少し下がるのを待ってそれが済んだらグループとして群れるというようなことは普通に見る光景だ。  ときには小さな小学生がそんな絡まっている二人をしげしげと眺め、こいつらは一体なにをしているのだという顔で見上げているという微笑ましい光景も見られる。 それに、周りの連中は、あいつとあいつはできているから、ま、仕方がないか、と済むのを待っているという具合だ。

だけとここで少々気になるのはこの男女の関係だ。 明らかに女子が優位に立ち男子を従えているように見えるし他の女子たちはそんな男子を横目にみて笑っているようなのだ。 そのうち車が途切れたのか急いで女子たちは道を渡り相変わらず男子は弁当を捧げて向うに行った。 それに奇妙だったのは女子たちはそれぞれデイパックやショルダーバックのようなものを持っていたけれどこの男子はそんな鞄の類は一切身に着けておらずただ弁当を捧げているだけだった。 いろいろな可能性を考えてみたけれど日本の若者に関してはオランダの若者以上に分からないからそんな思いを放って陸橋を渡り切り彼らが去った後をしばらく母の介護施設の方に歩いて次の交差点で駅に続く道を眺めてみても彼らの姿はとうにない。

小学校の高学年から中学校にかけては女子の成長著しく時には女子の方が小さな男子に様々な点で勝っている場合があるのだが高校生になってもまだそれが残っているのだろうか。

それとも、考えてみれば長い結婚生活について西欧では時には、男は提供して女はそれを消費する、と言われるしそれに思い当たるところも少なからずあるのだが、それがさっき目の前で見たことなのだろうか。 それなら少々哀しい気持ちもしないではない。 男が30を過ぎ40辺りに来るとこの構図を受け入れるようになるものの、高校生でもうこれでは哀しすぎるではないか。 それに、何か妙な嫌な感じがしたのは女々しいあの男子の姿を見たからではなく、それが自分をも含む男の、男は提供し、女はそれを消費する、を体現していたからなのだろう。


冬の本番はまだ、でも予行演習は始まっている

2015年11月27日 05時12分22秒 | 日常

 

この何日か寒い。 冬が来たような寒さだ。 そして天候もそんな風に変化し、来たるべき冬に備えて我々に予行演習を強いているようだ。 昼も夜も霙混じりの雨が降っては晴れると言う具合だ。 気温が下がって日中最高5℃だと言う。 それでもまだ厳寒には遠く最低気温が4℃、3℃だと言っていたものを一日中家の中に籠っていた者は午後遅く起き出してごそごそやっている間に夜が来て結局いくらどんよりとした灰色の空の間に青いものは覗かなくともときどきぼやっと明るい光が見えるような昼を見ず暗い中で蠢いている。 そしてまた8時のニュースが来て今晩はマイナスになりそうだと言っていた。

そして頭が冴えるままにゴソゴソしていて寝床に入る3時の裏庭に出た。 曇っているものの満月だ。 この瞬間だけきれいな見覚えのある丸いものが見え次の瞬間には雲に隠れると言う具合でその暫しの月明かりで見たら外気は0℃と出ている。 暖かい家の中から出ていたからその数字に驚いたけれどカメラを構えてうろうろしている間に体が本当に冷えきて慌てて台所に駆け込んで錠をおろし灯を消した。

今の時期、例年より気温は3℃は低いと言っていた。 この間まで暖かかったのだからこの何日かでドスンと寒いところに落とされたようなような気分だ。 例年はクリスマス前に一度は雪が5cmほど積もるけれど又持ち直しそれから上がったり下がったりと徐々に1月、2月の本格的な厳冬に突入するのだがそうするとこの2,3日の寒さは本番前の予行演習ということだ。 今撮った写真を見てみると写真には匂いが着かないと同じく温度が着かないのを実感する。 こんな深夜の空は年中見ているからこんな写真に四季はなくただカメラの凍るような冷たさだけが今このカメラが外でこの画像を定着させてきたことを示している。 写真だけでは見分けがつかずそれを知っているのは自分とカメラだけだ。 


クりスマス・ディナーの試作

2015年11月27日 03時45分56秒 | 喰う

 

12月も近づいて来ればそろそろ恒例のファミリー・ディナーのことがそれぞれの頭の中に浮かんでくるのだが、我が家でも家人がドイツ系の安売りスーパーにはぼちぼち安くていい肉が出だして来たので実際にいい肉を使う前にそれを試してみようと家鴨の胸肉を一羽分買って来た。 大人が4人十分喰えるようなヴォリュームがある。 料理本やネットでレシピーを探していて結局蜂蜜とオレンジが決め手になるものを作ったようだ。 それが西洋料理の鴨の伝統的な料理法であったようだ。 鴨も種類、土地、育ち方によってかなり味が変わるのは他の養殖された動物と同じなのだがそれでも独特の癖がありそれを様々な味覚を持った者に合うように考えられたのが甘さと酸味の組み合わせで癖を矯める方式のようだ。 それなら洋の東西を問わず料理方にみられる組み合わせだ。 だからここではそのありふれた材料で癖のある材料からどのように美味さを作り出すかというのが肝要となる。 

肉に大分厚みがあるので厚い皮に包丁で斜めに格子模様を入れ皮を下にしてオリーブオイル少々で両側をそれぞれ数分づつ焼いた。 皮から脂が出てそれで焼くので初めにひく油は少しでいいようだ。 要はここで出来上がりの時点で皮がカリカリに肉は柔らかくはあるけれど中心に生が残らないようにすることだ。 当然人には好き嫌いがあってその好みはステーキの焼き方に現れているようにここではミディアム・レア‐ではあるけれど心持ちレア‐の方に向いているのが無難なのではないか。

180度に準備しておいたオーブンに皮を上にしてそこに蜂蜜を満遍に振りかけ、その上に輪切りにしたオレンジを乗せた鴨肉を入れ20分焼いた。

そのあいだにジャガイモと冷蔵庫にあったセロリアックというセロリの香りのある根株の玉の残りを茹でたものを潰し、そこにクリームと粉チーズでマッシュポテトを作り、レタスにクランベリーを散らしたサラダで簡単にしたとのことだ。

出来たと食卓に就いた時、あ、グレービーを作り忘れたと言って慌ててオーブン皿に残っていた鴨の肉汁とオレンジ汁の混ざったものに安物の赤ワインを加えて煮立てたものを添えた。

試すのにはグレービーは邪道だとほぼ意図したとおりに焼きあがった鴨肉そのものだけで喰った。 オレンジが甘すぎたのかそれだけでは物足りなく、また鴨肉の癖が矯められていないと感じグレービーを足すと安定した。

もし機会があれば自分で獲った鴨をこのように料理してみたい思いが湧くが、そうなれば誰の皿に散弾銃の細かく丸い鋼の粒が出るかという味気ないことにもなるので当分は肉屋で買ったもので試すしかない。

家人が主菜の肉、子供たちが副菜とデザート、自分はサラダという役割が与えられている。 自分が主菜に携わらないというのは心に深いトラウマがあって当分やらなくてもよければやりたくないという気があるからだ。 もう10年以上前だろうか、よし、大きな七面鳥を料理してやると中途半端に5kほどのものを予約しておいて当時まだ旧式のガスオーブンであちこちの料理本を中途半端に齧ってぶっつけ本番でやっつけたら悲惨な結果になったからだ。 ちゃんと肉屋の言う通り解凍して尻の穴から肉屋が調整した詰め物を詰め縛りオーブンに詰め込むようにして言われた温度で言われた時間焼いてもできなかった。 3時間ほどで焼けると書かれていたものがそれでもできず、他の料理が出来ているのに大きな七面鳥はまだオーブンの中、堪らず取り出して妙な喰えない肉を別にして中の詰め物だけぼそぼそと喰った惨めな思い出があったからだ。

その理由としては解凍が十分でなかったこと、七面鳥が大きすぎたこと、オーブンの温度計が壊れていたことなどがあったのだろうがあんな大きなものを試す機会もないから我が家のクリスマスに於ける大惨事に結果したのだろうと思う。 

そういう意味ではこのように小さなもので試すのは賢明なことである。 これなら時間もかからず失敗しても変更は効くからリスクは殆どない。

この何年か毎年職場の組合からプロが主催する、ペアで試すクリスマス・ディナー料理教室があってこの3年ほどは家人とそれぞれ子供たちが出かけているのだが今年は子供たちに時間がなければそれが自分の方に廻ってきて久しぶりに7時前から始まって12時前に終わるという、前菜、主菜、デザートの3コースメニューでシェフが実際に作るところを見、それを真似、出来たものを飲んでは喰い、ということを3回繰り返すのだ。 それは自分のターキー・トラウマを和らげるためには役立つかもしれないけれどそれでも両手で抱えてずっしりと応える肉を焼くというような料理教室ではなく、そのようなものはこのような料理教室では扱わないので結局は自分で機会があれば試行錯誤するしかないのだろうか。 

12月1日にあるこの料理教室のメニューはまだ知らされていない。


臨死 <未>(2007);観た映画、Nov. ’15

2015年11月26日 21時34分05秒 | 見る

邦題; 臨死      (2007)

原題; THE INVISIBLE

アメリカ・カナダ映画;  111分

ジャンル;サスペンス、青春、ファンタジー

 
 
あらぬ疑いから暴行され人里離れた森で瀕死状態となったうえに幽体離脱してしまった少年が、自分の体の場所を伝えて死を食い止めようと奔走するファンタジー・サスペンス。監督は『ブレイド3』のデヴィッド・S・ゴイヤー。出演は『宇宙戦争』のジャスティン・チャットウィンと、これまでTVを中心に活躍してきた新星マルガリータ・レヴィエヴァ。
 
裕福で成績も優秀な高校生ニック。彼は、いじめられている友人を救ったことがきっかけで不良グループのリーダー、アニーに目をつけられる。そして、ある時警察へ告げ口したと勘違いされ、不良グループに暴行を受けた挙げ句、森に置き去りにされてしまう。やがて瀕死の重傷を負いながらも目覚めたニックだったが、誰も彼の存在に気付かないことから自分は幽体離脱して実の身体が臨死状態にあると知る。死が刻一刻と迫る中、助けを求められず空気のように彷徨うばかりのニック。しかし、主犯格のアニーだけは彼の気配を感じていた。こうしてニックは、良心に目覚めた彼女に全てを託すのだが…。
 
上記が映画データベースの記述である。
パリでテログループの襲撃があり120人以上が死亡した翌々日にイギリスBBCテレビの深夜映画にかかったものを観た。 殺伐としたニュースがどのチャンネルでも流れている中、暫し何か他の娯楽をと観始めた。  そのうちこれはよくある青春ものにSFとスリラーを絡ませたものだと気づいたものの、もともと青春物は嫌いではないからその組み合わせがどのように展開するのかに興味が移った。 主人公の部屋に架けられたチャールズ・ブコウスキーのポートレート、教室で語られるキーツやホイットマンの詩にこの主人公の内側を覗く示唆となるのだがそういうところに中年の視聴者の眼にも耐えられるようなセンスが加えられているのだろう。 多分観るものにサスペンスを起こさせるのは主人公は我々には見えるけれど登場人物たちには見えないことでそれがなぜ見えなかったり感じられないのか、おかしいじゃないか、というようなもどかしさを感じさせるところなのだろう。 青春物であるから邪悪なものは出てこず安心して筋を追えるわけで、そうなると年配の自分は些か映画のあら捜しをと、いう気にもなるのだがカナダ映画でもあるのでアメリカ映画の臭さもなく、ストーリーは別としてセンスの良さでは昔の文部省推薦作にしても悪くないような今風の作である。 多分今から何か月か経つとこれがどんな作だったか憶えてはいないだろうけれどテレビの深夜映画にかかると観るかどうか、多分映画のトーンに惹かれて観るのではないかと思う。
 

久しぶりに人に会った

2015年11月26日 02時51分08秒 | 日常

 

一昨日鬱陶しい空に虹がかかった写真を載せたのだが今日も鬱陶しい写真を載せることになった。 天気は相変わらず冷たい霙交じりの雨が降っては止む、止んでは降るという日が続く。 この何週間かメールや電話でやり取りをしていた友人と昼飯を喰うとの約束を実行することになり4時間ほど寝て朝の10時に目覚ましをかけておいたものが煩く鳴るので仕方なく起きて窓の外を見れば冷たいものが降っていた。 

友人と行っても職場の同僚で、29年前にこの町で働くことになったときハーグの外れにある彼の隣の家が空いていて、入口に続く間が前には店だったようでそこが家人のアトリエのスペースともなり願ったり叶ったりだったので結局そこに北の町グロニンゲンから越してきて5年住み、そこで子供2人が生まれ、それから今のうちに引っ越してきたのだった。 だからこの同僚とは毎朝駅まで5分ほど歩き、12分電車に乗って職場のある町の駅につき、そこから職場まで10分ほど歩く、帰りは同じようにして駅まで戻ってキオスクの缶ビールを飲みながら帰る、というようなことを5年繰り返していたものだから自然と家族づきあいとなり韓国人の彼の奥さんからはピアノも習っていた。 

学生時代自分で教育学部の電話ボックスのようなピアノ練習場に行って我流でバイエルの54番ほどまで進んでいたものがそれから12,3年経ってから同じ教本で初めからやり始めたのだがあるとき彼らが離婚しそれ以来彼女には時々会うけれどピアノのレッスンは止めたままそのままになっている。 その時ピアノの先生である彼女からちゃんとした指使いを習いゆっくり初めから始めて56か57番で終わったのだった。 そのために買った当時まだ出始めの数少ないピアノタッチのキーボード、ヤマハ・クラヴィノヴァを買ったのだが宝の持ち腐れで、子供たちがまだ小学校の低学年のころ近所のバッハをこよなく愛する老人のレッスンをそれぞれ2年づつほど受けさせていたのだけれど娘は多少は音楽に興味があるものの息子は聴くだけで結局彼らもピアノには触れることもなくなりこのピアノは今も居間の隅にそのままある。 

ユダヤ系のこの友人は朝鮮仏教の研究者で自分と同い年だけれど性格がかなり違う。 自分はがさつであり、ある程度体力もあって力も強いのだがこの男は物心ついてからは頭痛に悩まされ続けていて様々なことをやっていた。 耳たぶに極細の針を何本も射してピアスのようにしていたり薬物を使わずヨガや瞑想で何とかしようとしていたけれど結局今は2種類ほどの薬を服用して凌いでいるようだ。 けれども完全には消えないとのことで、頭痛など経験したことのない能天気な自分には今でもそのことがわからない。 兎に角自分と比べるとこの男は随分デリケートなのだ。 最近は体力も衰えてきたのか昼間でもベッドに横になることが多いとも聞いた。

ビチョビチョ霙交じりの雨の中ポンチョを被って家を出て元の職場に来たら彼はまだコンピューターに細かい活字を打ち込んでいた。  自分より半年ほど先に引退したけれどヴォランティアで人手の足りない職場を助けているのだ。 1週間に2回午前中だけ来て、1週間に2回彼が済む近所の移民の子弟に数学とオランダ語をヴォランティアとして教えて、1か月に2度ほど14か月ほどになる初孫の世話をするというのがルーティーンらしい。 1時間ほどそこでいろいろと駄弁ってから近くのカフェーでランチにした。 風邪気味の彼はスープにオープンサンド、自分はこのあいだリンブルグで飲んだブラント・ビールに百姓風ハムエッグだった。 これで2時間ほどそこにいた。 我々は別段何を話すということもないのだが話はあちこち飛んだりどうでもいいことが多い。 寂れたトルコの観光地のホテルで1月か2月に1週間何もしないでブラブラ・ゴロゴロと読書したり音楽を聴いたりして過ごすのに一緒に行く約束をしていたのが8月にトルコの政情、ISのテロが始まり急遽そういう場所は危ないとキャンセルしたのだが、そんな風に我々は二人でいてもそれぞれ勝手に同じ部屋で寝起きできる仲なのだ。 そのプランが駄目になって少々残念な気がしたけれど格安のチケットだったから季節的にも今日のような空模様が続くと思われる何もないところだからキャンセルになっても別段失望はしなかった。  自分は出来ればアウトドアで歩き回りたい質なのだけれどこの男はからっきしそういうことには興味がないし体力がない。

そんな男なのだけれど骨のあるところもある。 彼の父親は世界的にトップクラスのコンセルトヘボー・オーケストラの第一ヴァイオリン、コンサートマスターで有名人、日本やアジアの国でもコンクールがあるたびに審査員として世界中を飛び回っていてオランダでは70歳以上の人には知らない人がいないほどのヴァイオリニストだった。 その子供だから小さい時からヴァイオリンを習わされたものの親のプレシャーは尋常ではなく結局訳の分からぬ朝鮮仏教研究というところにいってしまったのだが、若い時には理想があり70年代初頭スペインのフランコ政権に反対してデモに加わり、それが荒れてスペイン官憲に逮捕され何日か拘留されたのだがそれが新聞沙汰になり、出た記事が「あのxxの息子がスペインで拘留」で、自分は結局xxの息子でしかないのだとがっくりきた、と面白おかしく話していたことと自分はヴァイオリンには縁がなかったけれど息子は地元オーケストラのヴァイオリン弾きだからまあそれでもいいかとその頭痛持ちのアムネスティー・インターナショナルのメンバーが話していたのを思い出した。

カフェーから出るとまた雨が降っていて職場前に停めてあったそれぞれの自転車のところに戻るまでの距離が短いので濡れるまま歩いた。 この頃の空は降ったり止んだり猫の眼のように変わる。 彼は帰宅して寝床に潜ると言い自分はポンチョを被りスーパーに廻って晩の食材を買った。 何も思いつかなかったからスパゲティにしようと思った。 そこで彼のことを思い出した。 まだ彼の息子が幼稚園児かそれぐらいの時、お母さん、死なないで、もし死ぬと僕、お父さんの不味いマカロニばかりたべないといけないからお母さん死なないで、と言ったということだ。 彼はどうしようもないほど料理ができないようだ。 

スーパーを出てポツポツと止み始めた午後2時の薄暗い中、公園を抜け濠端を通って帰ってきた。 裏の物置に自転車を入れるとき暫しの間雲間に隙間が出来た空を見上げていたら冬の入道雲が崩れて時雨か氷雨かが降りてくるような雲が見えた。 こういうのが出てくれば本格的な冬空になるけれど、これでもあたりが全て薄暗く雲の形さえ見えないようなどんよりした空よりはまだ気が晴れるような気がする。。


恋は邪魔者 (2003);観た映画、 Nov. '15

2015年11月24日 23時52分23秒 | 見る

邦題; 恋は邪魔者     (2003)

原題; DOWN WITH LOVE

110分

 

 
「シカゴ」のレニー・ゼルウィガーと「ムーラン・ルージュ」のユアン・マクレガー共演による本格ロマンティック・コメディ。女性解放を唱える作家の鼻をあかそうと彼女に近づくプレイボーイだったが…。ドリス・デイとロック・ハドソンの名コンビによる往年のお色気コメディのテイストを鮮やかに再現。監督は「チアーズ!」のペイトン・リード。

1962年のニューヨーク。新進の女流作家バーバラ・ノヴァクは女性解放を謳った自著『恋は邪魔者』を出版するためこの街へとやって来た。出版社の重役はあまり興味を示さなかったが、ひょんなことからこの本は爆発的にヒット、世の女性たちはすっかりバーバラの主張に感化されてしまう。そのあおりを受けたのが男性誌で原稿を書いている名うてのプレイボーイ、キャッチャー・ブロック。彼はいまや女性の敵として冷たい仕打ちにあってしまう。怒ったキャッチャーは、バーバラの主張が間違っていることを証明するため、身分を偽り彼女に近づくのだが…。
 
上記がデータベースの記述である。 オランダ民放のゴールデンアワーに放映されたものを観た。 見るつもりになったのはただ一つ、テレビガイドの写真にトニー・ランドールを見たからだ。 他に誰が出るかは関係なく彼がどのように演じるかに興味があったからだ。 自分は70年代後半に日本のテレビで放映されていたテレビシリーズの「おかしなカップル (1970~1975)THE ODD COUPLE」でジャック・クラグマンとランドールのコンビの喜劇を見てニール・サイモンの面白さを味わって以来この手のアメリカのコメディーに愛着をもっている。 それにこの「おかしなカップル」は元々68年に映画でジャック・レモンウォルター・マッソーのコンビで制作されたものであることを知りオリジナルを見て納得した。 今思うとアメリカの戦後の高度成長とWASPの価値観がまだ能天気に機能している時代でこの時代に大きくなったものにはプレスリーやビートルズが子供の文化であるような当時の大人のウイットで笑える諸作品のひとつであったからだ。 ニール・サイモンの諸作については喜劇に詳しい小林信彦の言及があったように思う。 

いずれにせよ以上の前提で観始めた。 ゼルウィガーを見ていて「ブリジット・ジョーンズの日記(2004)」と同じようなものだと思ったけれど考えてみれば本作が先行しているので不思議ではなかった。 シナリオではジョーンズより本作でのバーバラ・ノヴァクの方にフェミニズムの仕草がみえる。 そういう意味では本作の方が60年代70年代の思潮を笑い飛ばすウイットが効いているようでそれが当時のファッション、音楽、インテリア‐などの背景を我々還暦を過ぎた観客にそのセリフとともに各所で笑わせるものとなっていて明らかに本作は多分40代のイッピーたちをターゲットにしたものだったのだろうと思われる作に仕上がっている。 つまり60年代をコピーしていても2003年から見た「古き良き時代」であり監督の頭の中にある60年代をあたかもティム・バートンの諸作にみられるような背景の色彩のトーンを見せている。 現にマグレガ‐は本作と同年にバートンの「ビッグ・フィッシュ」でも主演している。 この作品は上に述べたアメリカの或る年齢層をターゲットにしたものであるから日本の今の若者やヨーロッパの層にはチンプンカンプンに違いない。 話のテンポ、筋書には興味を持ってもセリフやそれぞれの、特にインテリア、ガジェットなどのひねりにはその皮肉には気付かずただ能天気な作であるように見えるに違いない。  日本でも「シャボン玉ホリデー」で大きくなった世代はべつとして時に若い層が本作をどのように観たかその感想を聴いてみたい気がする。 ランドールの役は本作では大御所として配されてはいるものの特筆するものはない。 翌年に没しているのだからその辺の事情もあったのかもしれないと想像する。

上手なこじつけだと笑ったのは白黒の画面でエド・サリヴァンを真似た人物がジュディー・ガーランドを紹介して本物のガーランドが登場した当時の画像でその歌ったのが本作の題と同じだったからだ。  
 
 

冬日(ふゆび)

2015年11月23日 19時43分57秒 | 日常

 

生活を少しは昼型に変えないと、と昨夜は2時ごろ床に入った。 けれど日頃は朝の5時、6時なのだから眠れない。 だから寝床で何か読んだり、タブレットであれこれ見ていればやはりそれにも疲れて眠くなるのが5時、6時だった。 だからその計画も計画倒れで何にもならなかった。 12時を廻って起き出して、そうだ、溜まった紙と壜を車で棄てに行かねば、そうするとそのついでに空になったビールのケースもスーパーに持っていってそのついでに車でしなければならない重い、嵩の高い、たくさん一度に買うような物を今日から4日分の食材をも含めて買わねば、これが今日の仕事だ、とえっちらおっちら溜まったそんなものを車に積んでいつもの集積所に持って行った。 この数週間はこの辺りは道路工事をしていたのですんなりと車で行けなかったのが今はもうちゃんと元の通りになっていた。 

けれど、ちょっと待てよ、この前こうやって捨てに来たのは日本に帰省する前だから10月の初めだ。 帰ってきたのが22日だからこの前からもう1か月半ほどになる。 1か月半にしては棄てる量は少なくはないけれどそれにしても、、、と思った。 2週間分は自分の帰省中に家人が少しづつ自転車で運んではここに持ってきていたのだろう。 自分は基本的にはビールの小瓶24本入りのケースが空になるとここに来るということだからそれを補充するために2kmほど離れたスーパーに行くのでそのついでに溜まったものを車でここに、、、、というのがルーティーンだ。 自分の性格としてもう一杯一杯になってこれ以上はというまで動かないし、だからこんなふうにして車でスーパーに行く。 日頃の毎日の食材は自転車でブラブラ町のスーパーに行くのだからしれているし、それに子供たちが家を出て所帯が還暦を越えた夫婦二人だけのものとなるともう車で買い出しをすることも殆どなく、それにそうなるとガソリンを補充する回数もめっきり減っている。

月曜3時のスーパーは空いていると思ったけれど2か所ある駐車場は満杯だった。 近くの路上も一杯、だから100m近くあるような住宅のそばに停めて空のケースを下げてスーパーに入った。 カートに食材、みかん30個ほど入った袋、40玉ほどのトイレットペーパー、ビールのケースに安ワイン何本か、牛乳2本、などなどカート8分目ほど満たしてスーパーを出て50mほど行ったらカートが動かなくなった。 車輪に何かが挟まったのか、歩道の細かい枯れ枝か何かかと見てみると4つある車輪で一つがプラスチックの赤い何か重しのようなものが自由にクルクル回れるようになっているところに付いていてそれが廻らず引っかかっているのだ。 カート自体が重いから無理にそれを押したら他のが動くけれどこの一つが強力なブレーキの役を果たしていて車まであと2、30mまで来ているのだから無理やり力任せに押してなんとか荷物を車に収めた。 それまでに小雨が降り始めていたので惨めな天気でこれか、と腐っていたのだが、空のカートを戻しに赤いブロックのついた車輪を持ち上げて妙な格好だが楽に引っ張って行くとブロックされたと思われる辺りで急に軽くなってそのブロックが解けたようであとの50mほどは何の問題もなく押していけた。 妙だな、と思っていたら、そうだ、あれはスーパーから半径50mほど出ると信号でブロックされるシステムだったのだと気づいた。 今まで妙な赤いものが一つだけついているから何なのかと思っていたけれど何の問題もなかったからそのままにしていたのだけれどそういえば初めの頃、まだコインを入れてチェーンを外し使った後はもとに戻のにチェーンをかけるとコインがもどってくるのが普通になる前は人は勝手に家に押して帰る、あちこちに放ったらかしにするということがあって少しはそういうことも少なくなったもののまだそれでも戻さずスーパーにしては数が減るのは堪らず何かの方策をと採ったのがこの方式だったのだ。 

これはある距離まで来るとロックがかかるのだ。 けれど、まてよ、もし本気で持って帰ろうとしたりプロの仕業として盗むのならそんなことをしても持って帰るのが何の造作がないように思うのだがどうだろうか。 こんなもの、盗もうと思えば別段何ともないのだが、、、。  そんな無駄なことをするより半径50m以上の駐車場を作れば完備したらいいのにと腹を立て、それだとしたら50m以上の距離があるショッピング・モール駐車場のカートもこのようになっているのだろうか、何か納得のいかないと思いをしながら自分の50ユーロセントを取り出して踵を返した。

車に戻ろうとして歩道を歩いているとき見上げると雨は一時止んで暗いところに西日が射してそれがアパートに当たって辺りが妙なコントラストの色を出しているのに気が付いた。 その時昔、高校、大学と写真部の時に、特に大学時代にデイスカッション材料にしていた写真雑誌の、アサヒカメラ、カメラ毎日、日本カメラ、写真批評、雑誌太陽等々に出ていた写真の何枚かを思い出した。 通俗の写真でなく当時新しい写真の波が多く掲載されていたカメラ毎日などに一般投稿かプロかの作品でカラー、モノクロ写真では今見る風景のようなものがあったような気がする。 けれどそれらは自分には殆ど何の感興を催すものではなかったように思う。 これが何なのだ、個人のセンチメントか何かなのだろう、とそれらを見ても美しいとは思わなかった。 そのことを今思い出したのは雨が一時的に上がった周りで見るそこに触発されたのだろうと思う。 辺りが薄暗く鬱陶しい中で光が当たったアパートがそこだけ妙に光って、背景の、薄暗く、青か茶色かが薄く混ざった黒雲に対照されて妙な気持ちになったからだろうと思う。 美しいとか美しくないとかは別として光が突然見せる瞬間の不思議な色だった。 冷たい冬の霙が降るような一瞬の光でそんな色は印刷されたりデジタル化されても元のものにはかなわない、と思うもののカメラを腰から抜いて1枚撮る。 家に帰ってコンピューターで再生しようとするけれど相変わらずその時の感興からはほど遠いものとなりウンザリするけれどその時架かっていた150度ほどの虹の弧があったのが救いとそれを切り取って日記に張り付けた。

1か月半前の大阪ではオランダの夏を経験し11月初めでは20℃ほどになるリンブルグでオランダの盛夏ではない夏日の中を歩いて家に戻れば徐々に薄暗く鬱陶しくなり、特にこの2,3日は寒くなりこれから冬日(ふゆび)になると天気予報は言う。 この何年も日本とオランダの天気予報を毎日見ていて温度差はあれ気温の動きが何か符合しているような気がする。 もちろん地球上の北半球で反対側ではあるから気圧団の押し競まんじゅう的動きの結果がこうなるのかもしれないけれど今日の日本ではもう初雪はとうに済んではいたけれど北海道で急に零下10℃を越すようなものになっていると聞いた。 こちらでは日中の最高気温が12,3℃だったところが今日は6℃だったらしい。 けれど最低気温が5℃ならほとんど昼夜には差がない。  冷たかった筈だ。 この2日ほど自転車で走ると体感気温はそれから2,3℃は下がるから皮の手袋をしなければ耐えられなかった理由が分かる。 そしてこれが明日の最高気温が4℃だと言われると明日、もし晴れたら表に出ようとも思うけれどこのままだったら家の中で相変わらず蟄居してうろうろ1日過ごすことになるだろう。 2日分ぐらいの喰い物は重いカートを押して買って来てある。 

 

 

 


南リンブルグを5日間歩いた (7・完) Valkenburg から Maastricht まで 徒歩 20km

2015年11月22日 01時58分58秒 | 日常

 

2015年 11月 6日 (金)

7時起床、8時半リンゴも卵もパンケーキもないただ喰えないパンとオレンジジュースがあるだけの簡素な朝食の後9時半に歩き始める。 スーパーの横を抜けて南に下ると小川がありそれがこの谷間の一番底を西に流れマーストリヒト付近でマース川に注ぐのだが我々はそれに沿って暫く歩き木橋を向う側に渡る。 ここから3kmほどは平坦な林を抜けて小川に沿って西に移動し、そうすると左側にはすぐに50mほどの急ではあるけれど木々に覆われた崖が連なりリンブルグ特有の景色が広がる。 有史以来ここの未固結石灰岩(チョーク)は建築素材を提供しその後に掘られた跡は全長250kmにも及ぶ洞窟となり様々な形で人はそれを利用している。 第二次大戦中はナチの手から逃れるために国立博物館の絵画・彫刻がここに隠されたところでもある。 時には迷路のような洞窟は光がなければまさに暗黒の迷路であって場所を承知していなければ厄介なことにもなりかねない。 年中温度が一定であることからワインの貯蔵庫にしたり広大なシャンピニオン栽培工場であったり、何台もの車を引っ張ってぶらぶらと洞窟巡りをする観光名所でもある。

http://www.mergel.nu/grotten-van-valkenburg.html

崖に沿った家々は自宅裏の崖を掘り進み貯蔵庫やいくつもの部屋を作り住居・倉庫にしているから外からは家の広さは窺い知れない。 暫く行くと車も通る道は左に折れ曲がり小さい谷間を通って崖を上がることになるのだがそこにある古い宿屋のカフェーに入ってコーヒーを飲んだ。 このカフェーはしっとりと落ち着いた、様々なこの辺りの古い写真や古い農家から持ち寄って壁に吊してある農器具などの興味深いものが飾られ照明は太い蝋燭数本だけというなかなか雰囲気のあるものだ。 それに、そこにあるバーの真鍮が磨かれてビール色に光るタップからは7種類のビールが注がれこの辺りの地ビールが楽しめる。 けれど残念なことにウォーキング中は麦から造られた酒は飲めないので仕方なく苦めのコーヒーを飲み干して腰を上げ、表に出てリュックを担ぎなおす。 ここで道は左に折れるものの我々は更に1kmほど小径を直進しルートに沿って無人の枯葉で埋まった緩やかな崖を標高差で70mほど登る。 ちょっと汗をかき尾根伝いのダラダラ道に来て枯葉の音をさせながら歩くのは気持ちがいい。 とりわけ大きな枯葉を蹴散らして歩く時、子どもの頃和泉葛城山の頂上当たり800mほどにある本州最南端のブナ林を歩いた時のことを思い出す。 それまでの広葉樹の葉とは違い一際周りの葉に際立って大きかったのではないか。 今回何回か針葉樹の森を抜けた時まるで枯れて黄ばんでいるのかと思われるような針葉樹でありながら落葉樹であるカラマツの林を抜けるときに光に輝く木々と地面に敷き詰められたその黄色は印象深いものだった。

森を抜け耕作地の広い畑の間を縫う一本道をダラダラと行くと徐々に果樹園を通って新興住宅地の端に出てカフェーからここまでの6kmほどが今回自然を歩く最後のウォーキングだったことに気付く。 これから後のマーストリヒト駅の裏に出るまでの3.5kmは街を歩く格好になり何年も工事中の高速道路を跨ぐ歩道橋に線路を跨ぐ駅の陸橋などそれはそれで面白いのだけどここからは9月にも5日ほど居た見知った町になる。 駅前に着いたのが3時ごろだっただろうか。 100kmほど歩いた締めとして毎度楽しむ古いカフェーでリンブルグ名物をビールで喰おうとそこに行けば金曜午後で満員だった。 カウンターでビールを飲みながら待っているとすぐに2つ分席が空きそこに落ち着いた。 暖かいカリカリしたミニバゲットに ジュール・フレース(酸っぱい肉)、それを前日かにその工場を横目に見て歩いてきたブランド・ビールで喰うのは今回の締めとしては上出来だ。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/63603497.html

ビールと肉で腹が一杯になり見知った町をぶらぶらと歩き教会が今では大きな書店になっているところで日本の民話をアレンジして絵本にしたものの発表会を覗きこの町で最大の聖堂である St. Servaas 教会に行った。 ここに入ったことがあると思ったのは思い違いで裏の広場に沿って眺めていた印象がそう思わせていたものが今回初めて中に入った。 カトリックの教会らしく様々な装飾品、聖人の遺品など興味が尽きなかった。 アルメニア人の僧侶がエルサレムで修行してからギリシャを通過し北上してアルプスを越えベルギーのトングレスに赴き7年間枢機卿として勤めたのちローマに派遣されその後マーストリヒトに落ち着くべく到着したものの数日経って西暦384年5月13日に没したとされている。 その後ローマから聖人と認定されたものの何世紀にも渡りその墓も教会も廃れていたものが12世紀の終わりに現在の形を作るべく増築されながら聖人の墓をも探り当て地下のカタコンベに基の形として安置されているようだ。 オランダ語自体が書かれたものとして登場するのが11世紀であると言われていることからしてオランダ南端の地マーストリヒトの非オランダ的性格が分かるというものだ。 ローマ時代から交通の要所であり文物の交流とともにそれに伴う文化の一端を教会の宝物館の文物を見て理解することができるだろう。

http://www.sintservaas.nl/english/index.html

ぶらぶらと教会からもと来た橋を渡り切るとリンブルグ名物、vlaai (フラーイ)という各種果物パイの店がある。 もう何年もこの店の前を通ってはショーウインドーに並べられた、中世のブリューゲルの絵にあるような様々なパイを眺めては喰ってみたいと思っていたものだが今回初めてそこに入り一つコーヒーで試した。 満足して小雨が降り始めた表の道を駅に来ればファルケンブルグ行の6時15分の電車は通勤帰りの人で一杯だった。 20分余りで駅に着き小雨の中、駅の傍に停めてあった車に荷物を下ろし登山靴からサンダルに履物を替え3時間ほどで200km強を高速道路を通って帰宅した。 午後の肉とフラーイ・パイで夕食は必要なかった。 シャワーを浴びて冷たいビールを飲むともうあとはベッドに沈み込むだけだった。

Limburgse vlaai;

https://www.google.nl/search?q=limburgse+vlaai&espv=2&biw=1825&bih=957&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwikm_yHiKPJAhUBi3IKHagTBFsQiR4IqQE