暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

いいところまで観た映画?  Flightplan (2005);Sep. '14

2014年09月30日 21時49分30秒 | 見る
 

フライトプラン(2005)

FLIGHTPLAN

 

98分

 
監督: ロベルト・シュヴェンケ  
製作: ブライアン・グレイザー  
製作総指揮: ロバート・ディノッツィ  
  チャールズ・J・D・シュリッセル  
脚本: ピーター・A・ダウリング  
  ビリー・レイ  
撮影: フロリアン・バルハウス  
プロダクションデ
ザイン:
アレック・ハモンド  
衣装デザイン: スーザン・ライアル  
編集: トム・ノーブル  
音楽: ジェームズ・ホーナー  
出演: ジョディ・フォスター カイル・プラット
  ピーター・サースガード カーソン
  ショーン・ビーン リッチ機長
  マーリーン・ローストン ジュリア
  エリカ・クリステンセン フィオナ
  ケイト・ビーハン ステファニー
  グレタ・スカッキ セラピスト
  マイケル・アービー オベイド
  クリスチャン・ベルケル モーチュアリ・ディレクター
  カーク・B・R・ウォーラー グルニック
  ブレント・セクストン エリアス
  マシュー・ボーマー エリック
  アサフ・コーエン  
  ジュディス・スコット  
  ジョン・ベンジャミン・ヒッキー  
  クリストファー・ガーティン  
  ステファニー・ファラシー  
  アマンダ・ブルックス  
  シェーン・エデルマン  
  ベス・ウォール  
  ヤナ・ケレサロヴァ  
  クーパー・ソーントン  
 
 最新鋭のジャンボ旅客機内でジョディ・フォスター扮するヒロインが、最愛の娘を取り戻すため、全乗員乗客を相手にたった一人で戦いを挑むサスペンス・アクション。監督はドイツの新鋭ロベルト・シュヴェンケ。
 愛する夫を突然の事故で亡くし深い悲しみに暮れる航空機設計士のカイル。彼女は夫の遺体を引き取り、6歳の娘ジュリアと共に最新型のジャンボジェット機で帰国の途上にあった。ところが、飛行中の機内でジュリアが忽然と姿を消してしまう。しかし乗客はおろか乗務員の誰一人としてジュリアを見た者はいなかった。さらには搭乗記録すらも存在しなかったことが判明する。それでも必死にジュリアの行方を捜すカイルに対し、乗務員がFAXで送られてきた情報を伝える。それによると、ジュリアは夫と一緒に亡くなっていたのだった。すべては精神的ショックが原因の妄想だったのか? しかしカイルはジュリアがいたことを改めて確信、彼女を取り戻すため決然と立ち上がるのだった。
 
上記が映画データベースの記述である。 イギリスBBCテレビの深夜映画として見始めた。 ジョディー・フォスター、ピーター・サースガード、ショーン・ビーンは好みの俳優であるし子役のマーリーン・ローストーンが良かった。 何がよかったかというと将来この子は可愛こちゃん、美人女優にはならないだろうけれどひょっとしたらいい性格俳優になるのではないかと思ったからだ。 緊張を内に自然な演技、というのか7歳の役だから練りに練ってということもなく素直に言われるまま動いた、というのが実際なのだろうけれどそれが姿を消す前の残像から受けた印象だ。  
 
彼女は母親が設計にかかわった飛行機の中で失踪した。 本作を観ている自分にとっては現実にもそのまま失踪してしまいその後彼女をみることはなかった。 映画自体が失踪したのだ。  自分が住んでいる地区のケーブルテレビの配線が何かの具合で切れたのかテレビ局全て、ラジオの信号まで突然消えた。 その2日ほど前の晩も近所で光ケーブルにするための配管工事とかで深夜何時間か電話、テレビ、ラジオ、インターネットの接続が切れた。 それに関しては事前に通告があったので対処したのだがこれには面喰った。 で、場面は上記の映画データべースにある「乗務員がFAXで送られてきた情報を伝える。それによると、ジュリアは夫と一緒に亡くなっていたのだった。」でまさにそこで切れた。 ええ、それまで観ていた親子連れの映像は何だったのだろうか、そういえば初めに検視官が簡単にアメリカまで遺体を輸送できない、というようなところで妙だな、何かスパイ映画かなにかでフォスターはベルリンに駐在していてそういうサスペンスかと思っていたら娘の父親だったのが分かり、家を出るときに前の家の二階からこちらを見ていた二人組みが怪しいから何かあるのだろう、映画の題からして飛行機に関係するからテロか乗っ取り事件の話かとも考えた。 その時点からまだ映画は40分以上あるから最後の15分ぐらい見ることができたら途中の謎も分かるだろうと多可を括っていたらそれから何時間経ってもテレビとラジオの接続は戻らなかった。 だからいいところまで観た映画?と題にした。 終わりまで観ていないのに何故「いいところで、、、」というのかは後で述べる。
 
ネットになってから圧倒的に便利になったのは簡単に些細な情報が事細かく検索できることだ。 いいところで置いてけぼりを喰った恨みからネットで本作についてのブログなり感想を書いたものを検索するとかなり映画を見込んでいそうなブログに行き当たり、そのネタバレ、難癖、いちゃもんに接してへえ、この話はそう展開するのかなるほどなと思った。 犯人達が緻密に計画を練ったといってもつじつまが合わず行き当たりバッタリで作った映画と決め付けていてこちらもそういわれればそうかとまだ観ていないそのいくつもの部分を想ってはそのブログ子に賛同するのだから頼りない。 そのブログ子は前半が良く出来ていたのに事件のカラクリがお粗末で、、、、と書いていたのだから自分はいいところまで観て置き去りをくったのだ。 けれどもし本作を全て観ていたとしてもそのブログ子が指摘したいくつもの辻褄のあわなさ加減に気がついていたかというと自信はなかったのではないか。  自分の情緒に流されて理を忘れがちにもなる性格からして何でもそんなものだろう、と思ったりもするかもしれない。  けれど、 そういえば娘が空港で飛行機の窓から自分の父親の棺が機体に搬送されてくるところを観て窓に息を吹きかけてハートのマークを描き、それが徐々に消えていく如何にも、、、というシーンがあるのだが、それはない、と思った。 何度も飛行機に乗りそんなことはないのは経験している。 空調が効いて湿度が低く温度も高くはないものの普通の温度にしてあるところで幾ら息を吹きかけて窓ガラスが曇るようなことはない。 厚い二重ガラスなのだから内側の縁にすこし水滴がつくことはあってもハートのマークをかけるほどの曇りはガラスには付き得ない。 それがグログ子のいちゃもん、難癖に賛同する導入口ともなった。 へえ、あれが犯人だったのか、共犯がいてそれはだれなのか、どのように娘を取り戻したのかどこに娘を隠していたと様々に興味が向かったがまあ、それはいいとしてアメリカ映画で機内のエコノミークラスが何か自分が行き来するときのジャンボであったりエアバスであったりするものとは比べものにならないほどスペースがあるように感じる。 
 
年々自分の腹がせり出すにつれて座席の内側から廊下に出るのが面倒になるので予約時に通路側に席を取る。 アメリカ路線の席の幅はヨーロッパ・日本間のとは違うのだろうか、そんな疑問も湧いてくるのだがしかし、飛行機物のストーリーには大体のパターンがあるので後半分を見そびれたといっても慙愧の念はそんなに起こらない。 この手の話ではハリソン・フォードが大統領で専用機の「エアーフォース・ワン(1997)」を舞台にしたものが面白かった。 話はともかくジャンボの内側を縦横無尽に動き回るアクションで機体の仕組みが見えてくるからだ。 当然大統領専用機であるから普通の座席はなく会議室だったりするのだがコンピューター制御の機械類、荷物の倉庫、冷蔵庫に最後尾、天井裏、床下などと話が進むにつれカメラが移動するが見られて面白かった。 
 
この間年末に帰省するのにエアーフランス機を予約し、自分の坐る席まで決めてあるからこういう飛行機ものには興味が湧く。 日本とヨーロッパを何度も往復していてもこのような映画に出てくる部分は見たことも無く多分これからもそんな機会はないだろう。 それに仕組みを知ったからといって役に立つことも無い。  多分もし自分がそういう場面に遭遇することがあるとして比較的その蓋然性が高いのが墜落事故だろう。 現にこのあいだマレーシアに飛ぶKLM機がウクライナで撃墜された。 多分乗客は2,3分ほどの間にあっけなく絶命したものと報道されていて機体の内部がどうのこうのという時間はほとんどなく、それが普通に考えられうる状況だろう。 テロや乗っ取りではなく単なる事故の飛行機ものもたくさんあるけれど罪がなくてばかばかしいドタバタコメディーの「フライングハイ(1980)」が好きだ。 あまりにも馬鹿馬鹿しくて自分が客として乗っているとき周りのことが何も分からないままロシアのミサイルに撃ち落されて絶命するようなそんな可能性を幾分かでも忘れることができるからでもある。

シャワーラジオが死んだ

2014年09月30日 02時37分25秒 | 日常

 

もうこの1,2年買い換える時期だと思っていたけれどまあ、行けるところまで行こうといつものようにシャワーを浴びる間のラジオにスイッチを入れた。 バッテリーにはまだ充分蓄電されているはずがノイズが入り、電波の具合が良くないのかピラピラ垂れている細いアンテナコードを動かしてもはかばかしくなく結局自分の体がアンテナの代わりにもなるのか近づけるとちゃんと鳴る。 分かっていたものの普通なら防水が出来ていて何ともなく、それがシャワー・ラジオの目的なのだがなにせ20年も使っているとボロが来る。 長年使っているとスイッチを蔽っている合成樹脂が硬化するのか指の腹でなく爪を交えて小さなつぼみを押すからかスイッチの防水加工に穴が開き下のプラスチックがむき出しになっていた。 それは分かっていたけれどニュースに音楽が聴きたくて体のそばに置いてシャワーを浴びているうちになにかアワワと音がしてそれきり黙ってしまった。 ついに来たと自分の誤りに気付いたもののときすでに遅かった。 臨終だった。

ここに越してくる前に何年も丸いハンドバッグのようなソニーのシャワーラジオを使っていて、そのバッグで言うと腕に掛ける丸くなった紐状の部分がこの製品ではアンテナになっていてその細長い輪の部分をシャワーのノズルに引っ掛けて吊るす仕組みのものだったのだがいちいち引っ掛けるのが面倒でそのままバスタブの縁に置いて使っていたものがこのうちに越してきて20年ほど前にタイルの床に落としてしまい絶命した。 その後同じくソニー製にして買ったのがこの SONY Shawer Radio ICF-S79 だった。 いろいろな機能が付いていて便利なもので特に冬の寒い夜、1時間半ほど入って体を温める風呂の友には冷たいビールと並んで欠かせないものだった。 去年から今年にかけての冬は暖冬だったのであまり何回もそうすることはなかったけれどシャワーの度にニュースとジャズを楽しんでいた。 ただ難は電波の状態がいつもいいとは限らないこととその音質だ。 仕方がないと言っても音楽の質が貧しい。 ニュースなら支障がないのでこの手のラジオにはそれを求めるべくも無いようだ。 シャワーを出るときにその間放っておいたラジオを手にして逆さに振ったらかなりの水が穴から零れ落ち、ああこれではショートするはずだ、と思っているとシューっという音がして、あれ一旦死んで戻ってきたキリストの復活かと期待したらそのまま無言となり死が確定したので裏ブタをあけて三本のバッテリーを外した。

無ければ無いで済ませるものだけれど長年そういう習慣があると淋しいので次のものを買おうとネットで見て調べたのだがソニーのこれはもう生産されていなくて他にはいままで聴いたことが無い様なものが沢山載っていた。 製品自体のバリエーションが乏しくどこも真剣に取り組んでいないような気がする。 子供っぽいものもある。 今のところ考えあぐねている。 同じものがまだ生産されてたら買っていたかもしれないけれどそれも確かではない。 もう大分前に映画でアル・パチーノ演じる「スカーフェイス(1983)」が自分の邸宅の風呂に入っている場面では壁にはテレビにステレオが装備されていた。 自分だったらテレビは要らないかもしれないけれど埋め込みのスピーカーには惹かれる。 

 


ブラッド・シンプル (1984);観た映画、Sep. '14

2014年09月28日 23時20分29秒 | 見る
 

ブラッド・シンプル  (1984)

原題; Blood Simple

100分

 
ジョエル(監督・共同脚本)&イーサン(製作・共同脚本)のコーエン兄弟が手掛けた、ハードボイルド・タッチのスリラー。二人のコンビ・デビュー作でもある。テキサスの田舎町。ある酒屋の主人が一人の私立探偵に従業員レイと浮気中の妻アビーの殺害を依頼する。しかし探偵は裏切り、主人を殺し金を奪って逃走。一方、レイは現場に落ちていたアビーの銃より彼女が殺したと勘違いし……。「赤ちゃん泥棒」から「未来は今」まで、後のコーエン作品に共通するすべての萌芽はここにある。
 
上記が映画データベースの記述だ。 ベルギー国営テレビのゴールデンタイムにかかったのを観た。 今から30年前のコーエン兄弟のものだと思いそれだけで話の筋も何も見ずに見始めた。 ジョン・ゲッツは初めてだったけれどフランシス・マクドーマンドはこれまでに何度も観ているから若いなあ、と感激した。 ファーゴで観始めて以来ファンになった。 驚いたときの丸い眼で鳩が豆鉄砲を喰らったときのような表情がなんともいい。 それは恐怖の驚きであったり日常の何ともないときの驚きであったりするのだがその驚きの表情がこのときも、というか多分それがトレードマークになっているのだろう、なんとも特徴的だ。 役者の表情というのはそんなものが個々人の中にさまざまにあり観るものに印象つけられそれがトレードマークになるのだろう。 例えばこの間亡くなったフィリップ・シーモア・ホフマンの当惑の表情なのがそれに当たるだろう。 それと本作で市立探偵を演じるM・エメット・ウォルシュがいい。 これまで長年あちこちで間抜けたシェリフや酒場の主人、またはどこかでは嫌われ役のシェリフではあるが分からなくも無い同情心を起こさせるような人を演じた名脇役だ。 69年の「真夜中のカウボーイ」、以来大抵それぞれの時代で話題になった佳作に登場してきている。 ここでは下手なジョークを喋って曖昧・不気味な探偵を真面目に演じている。 それまでの軽い脇役であれば単なるデブなのだがここでは重みと陰影が入る。 癖、苦味、重みで言えばウオルシュが一番、バーのオーナー、ヘダヤが二番目、ゲッツには悪者の相はなく単なる普通の被害者でだからここでのマクドーマンドの鳩の豆鉄砲が効いて来るのだ。いずれにしても癖はあるけれど憎めないところが良く出来ていると思った。
 
脚本がよく出来ている。 だから大げさなアクションがなくとも我々を最後まで椅子やソファーに繋げとめて置けるのだ。 観客は何が起こったかを知っているけれど登場人物たち、とりわけゲッツとマクドーマンドは真犯人を知らずお互い相手が犯人だと思い込みそれで対話が進むあたりで我々はもう一言二言突っ込めば誤解が解けるのに、とおもうのだけどそこでは互いの思惑、状況からすれ違って、、、、というところなど上手に観客をひっぱっていく仕組みになっている。 カメラワークや小物、ここではジッポのライターであったり女性用のショート・リボルバーであったりするのだがそういう按配、取り扱いは脚本とならんでコーエン兄弟のトレードマークのように見える。 
 
データベースの記述で本作が兄弟のデビュー作だと知ってなるほどコンパクトに出来ていて音楽までも締りというかエッジが効いていてなかなかのものだ。 スピルバーグの「激突(1971)」、イーストウッドの「恐怖のメロディ(1971)」に相当するのがコーエン兄弟の本作なのだ。

薔薇が咲いていた

2014年09月27日 23時33分10秒 | 日常

 

毎日裏庭から表に出入りするのに前庭の傍を通るのだが今は特に注意してそのあたりを眺めるのは何もない。  ただこの何ヶ月も思っていることがある。 舗道のそばにどこからか転がってきたドングリから発芽してこの20年ほどで15mほどある屋根よりも高くなった木から張り出した枝を見て、剪定しないと大風が吹いたときには二階や三階、屋根裏部屋の窓を擦って傷つけかねないからなあ、と見上げても実際にはまだ何も具体的には動かず、多分来年の11月ぐらいに葉が全部落ちたときにえっちらおっちら上までよじ登り鋸で枝を2,3本剪定しないといけないだろうと算段している。 それからその木が木蓮と重なるあたりを木蓮のためドングリの枝を払うのも必要だと思っている。

そんなことを頭の隅に出かけようと自転車を押していると大輪の薔薇が一つ咲いているのに気がついた。 咲いているのは一つだけではなくもう枯れかけている小さなものもあちこちに見えるのだがはっきりと目に飛び込んでくるのはこのピンクの大輪だ。 薔薇のことはもう来年の一月ごろまで何もすることはない、と思っていた。 一年で最も寒い時期に枯れた花も茶色になった葉も落ちてひょろ長くなった茎と枝を短く切って初夏に咲かせる準備をするのが唯一の薔薇の世話だ。 これは世話ともいえないし貧しいものだがそれに加えて初夏から夏にかけて一度一斉に咲いてしまうと枯れたのをその枝から二つぐらい下から剪定して落とし夏の終わりから秋の初めの第二ラウンドのための準備とする。  これがうちの薔薇のルーティーンでこれをもう20年以上やっている。 

初夏に咲く第一回目は季節が新しい息吹で一杯になっているときだから新緑と光の中のこういう薔薇は印象的でなおかつ大輪が多い。  けれど今のものは数も少なくサイズもそれほど大きくもならず、それ以上に無視されがちになるのは今の気候のせいでもある。 今はもう萌える新緑はなくドングリの実が周りに落ちる時期の鬱陶しい秋がもう始まっている中ではなまじの花では人は振り向かない。 それがここに来て見事なのが一つここに咲いていた。 その理由は多分もう10年ほど前にして以来初めて今年の早春に施した堆肥の効果だろう。 けれど撒いたのはこのスポットだけではなく一通りこのあたり全体にしたはずなのに、との思いも頭を掠めるけれど何れにせよこの大輪は自転車をそばに立てかけさせておいてカメラを向けさせるチャームをもっている。

もうほぼ半世紀前にギターを弾き始めた頃歌った歌があった。

 

マイク真木 

バラが咲いた

作詞:浜口庫之助
作曲:浜口庫之助

バラが咲いた バラが咲いた まっかなバラが
淋しかった僕の庭に バラが咲いた
たったひとつ咲いたバラ 小さなバラで
淋しかった僕の庭が 明るくなった
バラよバラよ 小さなバラ
いつまでもそこに咲いてておくれ
バラが咲いた バラが咲いた 真っ赤なバラで
淋しかった僕の庭が 明るくなった

バラが散った バラが散った いつの間にか
ぼくの庭は前のように 淋しくなった
ぼくの庭のバラは散ってしまったけれど
淋しかった僕の心に バラが咲いた
バラよバラよ 心のバラ
いつまでも ここで咲いてておくれ
バラが咲いた バラが咲いた 僕の心に
いつまでも散らない まっかなバラが

 

なるほど高校生が歌うには分かるような内容だが今、これに眼を通すと恥ずかしさで一杯になる。 とてもそんな直截な感情はもう湧き上がらない。 自分の庭を淋しいとも思わないし咲いた薔薇をいつまでもそこに咲いていて欲しいとも思わず、第一うちのは真っ赤でもなく中途半端なピンクだ。 来年また時が来れば放っておいても薔薇は咲く。 現に毎年こういう花が咲くと飽きもせず懲りもせずまたぞろカメラを向けることになる。

 


工事中

2014年09月26日 18時51分20秒 | 日常

 

町に出るのに大通りに来るとまだやっている。 8月の終わりから何十年ぶりかの大工事らしい。 普通なら通勤・通学に買い物客たちの自転車、バスで賑わう大通りが工事中で通行止めになっている。 けれど自転車や歩行者には長い通りを横断できる鉄板をおいてフェンスでその部分だけ囲ったような通路ができていて横断できなくもないのだが大きな重機が忙しくも喧しく動き回りだから我々は自然とこういうルートをさけるのだがそれでもそこを通らなくてはいけないところもあり、そういうときには難渋する。 こんなときにそれまで何気なく行けたところが塞がれていて迂回せねばならなくなるとやたらと遠回りになり、徒歩とか自転車なら行けなくもないのだが物を運ぶのに車がいるならお手上げの事態にもなる。 それなら車のための迂回路がちゃんとあるかといえばそれももともと狭い一方通行でがんじがらめになっている旧市内だからこのしわ寄せが他の通りに波及してあちこちで交通渋滞が起こっている。 思わぬところに災難が及ぶ。

自分は大きなものを運ぶでもなく自転車でうろうろするぐらいだからこれだけの不便で済むけれど町の外から車で来た人間は市内に入れないのでパニックを起こしても不自然ではない。 それにこんなことがあるとカーナビもどうしようもなく車をどこかに停め土地を知った年寄りかだれかに聞くしかないだろう。 それとも誰かが古い市街地図をもっていたらそれを眺めて一方通行が入り組んだ細い道路をジグザグに行きたい場所まで最短距離のところまで車を持って行く算段をするしかない。 それには辛抱と時間が要る。 こんなことがどこの町でも行われていて、だから知らない町に車で行くのは嫌だ。 

そんなことを考えながらぼおっと通りを眺めていたらもう20年ほど前にこんな工事があったときにここで砂地の掘り返されたところを通りかかるとキラリと光るものが見えたので拾い上げてみると昔の透明で分厚めのなんということもないグラスだったのだがその無骨な形を面白いと思い拾って帰ったことを思い出した。 2,30年ごとにこんなことをしているのだったら少なく見積もって20年前から2,30年前に埋もれたものとして今から半世紀ほど前のものだったのだろう。 大量生産品に違いなく今からすると厚みがあったから戦前のものだったかもしれない。 好みのグラスとなりそれでよくビールを飲んだものだ。 小瓶がほぼ一本分はいったから300ccほどだった。 けれどそれもそのうち誰かが割ってしまい目の前から消えた。 その時とは違い今はもうほぼ上の舗装の下準備というところで何かの骨や昔の何かの欠片が覗くというような層はもう1mほど下になっているだろうからこの通りは面白くも何ともない。 10月3日のこの町の祭りにはこの通りは不可欠で様々なパレードが市役所前からずっと人で埋まったこの通りを行き来する。 だからそれに向けて最後の追い込みというところかもしれない。 そうなるとあと一週間も無い。 果たしてそれまでに間に合うのだろうか。

幕末に日本の侍が何人かこの町に来たことがありかなりの期間滞在していた者も何人かいると聞いた。 そのときは着物に袴、刀を腰に携え、頭にはピストルかというような髷をつけたサムライの一行を見ようと押し寄せた人々でこの通りが一杯になったことがあるものの舗装やその下の配管、配線はそれから何度も何度も掘り返されてはまた埋められ、今回もまた飽きずにそんな同じことが繰り返されている。


無為の一日

2014年09月26日 02時39分44秒 | 日常

 

どこにも行かず外にも出ず結局一日何をしたのか記憶にないような日になってしまった。 でも日は過ぎる。 夕方の空を見るとクロウタドリだろうか何羽も群れになって飛び回っていた。 これが嵩じれば鰯か何かの小魚が海で群れるように空中にあちこちに収縮しながら移動するような大きな球体のようなものが出来るのだがまだそこまでは行っていないようだ。


久しぶりにお湿りがあった

2014年09月25日 02時27分08秒 | 日常

 

もうこの10日ほどだろうか、遅い夏が戻り晴れ間が続き温度も上がって、だから雨らしい雨も降らず庭の草木にもそろそろ湿り気が欲しいところだったのは。 けれど今日やっと雨が降った。 しかしそういう風に降るとえてして「降ればどしゃぶり」というようなこともあって今日もそれだったのだけれどそれでも一時のことだった。 

四時前に仕事場から出て別の棟に移動するときにバケツをひっくり返したとよくいうそんなことが起こり皆表から蜘蛛の子を散らしたというように消えていた。 自分はいつも安物の傘を部屋の中においてありあんまり使う機会もないけれど今日は久しぶりにそんな土砂降りだからここぞとそれを使い、叩きつける雨の跳ね上がり、跳ね返りをうけてズボンの裾、肩口が少々濡れるようなこともあったけれど別棟の部屋に入ってその隅に傘を広げて置いておいたものを一時間ほどして自分の仕事場に戻るのに建物の外に出てみるともうそれも止んでいて乾いた傘を使う機会もなくそのまま自転車のサドルの湿り気をハンカチで拭ってから晴れ間はないけれど雨の上がった町を家路についた。 

裏庭の物置に自転車を納め芝生をみるとこの雨でこれからまだ少し背丈が伸びそうなのでこの分では冬に草木の成長が止まるまで芝生はまだ2回ぐらいは刈らなければならないと思った。 気温が年平均の18℃ほどに戻って通常の鬱陶しいオランダの秋に戻りそうなのだが、けれど今のところこの雨は歓迎だ。 埃で汚れていた車の外周りが今日の何回かのシャワーで洗われたほどだった。 通常オランダの秋は湿っていて降ったり止んだりの長い雨が続き、自分が育った大阪南部の秋から冬にかけての晴れ間の多い清清しく透明な気候とはまるで違うからここのこんな秋にはいつまで経っても慣れない。  

そうはいってもここに住んでいるのだから庭の草葉で湿気をはじくような水玉を見て少しは景気付けをしながら裏口から台所に入り冷えたビールを冷蔵庫から掴んで一気に半分ほど飲んでもまだ寒いとは思わないのは秋もまだそう深くは無い証拠だとこれからの長い秋から冬にかけての心準備をする。

秋の長雨、と書いた。 それにつけても長雨となると小野小町の「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」が何時も思い起こされ、これは春の長雨にかかっていると解説されているのは承知だが自分には秋の長雨に思えるのだ。 それは色香の衰えた小町のことを春に掛けるのではまだ彼女の色香が衰えるのに充分ではなく、春が何度も何度も過ぎ秋のこれからの時期に彼女が人生の秋から冬にかけてする回顧であるとすると一層の凄みがでて、それは平安時代の絵巻物に描かれた小野小町が骨まで朽ち果てるまでの姿が思い起こされ、還暦をとっくに越えた小町の若き日を想う哀れがいっそう骨身に沁みるように感じるからなのだ。 

それに比べ花の色も容もない自分となるとそんな雨を眺めていたらそれは「下手な考え休むに似たり」というような諺に収束するようでもあって、だから頭を振り振りビールの小瓶を指で摘んで重い体を屋根裏部屋に押し上げる。


冷酒を振舞われた

2014年09月23日 23時38分05秒 | 喰う

 

先日オランダ人の知人の家に行ったとき冷酒を振舞われた。 ちゃんと今風のガラスの入れ物の内側に氷を入れるポケットができていて酒と氷が触れないように冷やす仕組みのものだ。 スコッチならオンザロックでも飲めるけれど日本酒はどうも薄くなっていけない。 だからこのようなガラスの器ができているのだろう。 テーブルの上にはそこの娘が焼いたカップケーキと抹茶ポッキーが置いてあった。 なんとも妙な組み合わせだからそちらには手をつけず酒だけをちびりちびりと飲んだ。

40を越してからぐらいだろうか、日本酒を美味いと思って飲み始めたのは。 もともとアルコールは弱いほうで今でも強い方ではない。 けれど好きだから毎日口にする。 大抵ベルギー産のビールかあちこちのワインだ。 若いときは専らウイスキーを飲んでいた。 日本酒は得意ではなく燗の甘い匂いが駄目だった。 だから飲むときは冷やで飲んでいた。 学生のとき夜中に写真部の暗室に篭り、深夜大分経ってから帰宅途中、道端のおでん屋で一つ二つ熱いのをカラシをたっぷりつけて口にしガラスコップの冷酒を一杯飲んで下宿にもどりそのまま倒れるようにして眠ることがよくあった。 だから日本酒はいまでもどちらかというと冷や酒を好む。 オランダに長く住んでいて雑食のようにして毎日を過ごすけれど歳をとるにつれて今更ながら和食のときの日本酒の美味さを実感する。  オランダで自分の手に入るのは中国食材店においてある何の代わり映えもないカリフォルニア産の月桂冠や大関の一級酒ぐらいだ。 探せばもっとあるに違いないがわざわざ探して廻るほどこだわらない。 実際、どこの酒屋に行ってもいまでは月桂冠ぐらいはおいてあるから日本酒には困らない。

知人はこの酒を仙台に住む日本人からもらったのだという。 なるほどラベルには仙台澤正宗と旧字で書いてある。 それに仙台産山田錦で作られた大吟醸だとも添えられている。 そういえば日本に住んでいたときはうちでは菊正宗の一級酒を飲んでいた。 大吟醸というと晴れがましくて肩が凝るから一級酒を飲んでいたのだがこの日は振舞われ酒だから大吟醸が合っている。 

 


秋分の日、日が短くなってきたと思ったのだけれど、、

2014年09月22日 04時08分09秒 | 日常

北緯52度、東経4度の、日本で言えば樺太・カムチャッカ半島の高さにあるオランダの町に住んでいると日の長短の具合が日本の本土以上に早いようでこのところ「秋の日の釣瓶落ち」という風にも感じる。 夏の長いときは夜中の12時ごろでも西の空の水平線・地平線のあたりが広重の夕方、紺の空に朱を一筋入れたようにも見えるものがこのところ夕方の迫り方が早くなっている。 もう9月も半ばを過ぎていて、ほぼ日課になっているように屋根裏部屋の窓を開けて西の空を撮るとそれはほぼ初夏の11時近くのようだとも思い、時計を見るとまだ7時45分だ。 夏の習慣が残っているのか自分ではこれなら9時半ごろかと思っていた。 

秋分の日だそうだ。 昼の長さと夜の長さが拮抗してこの日以降夜の長さが増す。 ニュースの天気予報のところで、今日からは夜の長さが長くなって正式な秋になります、、、、とは報道されるけれどオランダには秋分の日というように祝うような習慣が無いし祝日でもないので人はあまり関心を示さない。 中国のなになに節とか仏教の彼岸というような習慣がある国との違いなのだろう。

この間までは9時から10時までのジムの運動を終え外に出るとまだほの明るくショートパンツに汗ばんだT-シャツで5分ほど自転車を漕いでも気持ちがよかったものが今では暗く何か羽織らないと寒くなってきている。 来週あたりはもうショートパンツでは寒いのでちゃんとズボンに着替えて自転車に当たる風の冷たさに対抗しなければいけなくなるのかもしれない。

ここのところ夏の終わりが戻ってきていたのだが明日あたりから日中気温が平年の15,6℃あたりに戻り、そうなると秋の長雨がこれから始まりそれに加えて夕闇の迫り方がいや増す。 気分的にはそろそろ冬篭りの気配がどこからかして来そうな思いがある。 やっと夜の長さが伸び始めたところなのにこんなことを感じさせるのが北国というところの所以だろう。


町の看板;写真展 Mensen van Kyoto 

2014年09月21日 21時42分51秒 | 見る

 

この10日ほど夏がぶり返していたものがようやく今9月中頃の気候に戻る中、日曜のなにも予定のない一日、晩飯の支度にと自転車に乗ってぶらぶらとスーパーに出かけこってりとしたものではなく焼き鳥風に鶏を焼いて、冷蔵庫に残っていたメロンをデザートにと算段してスーパーの駐輪場にくると看板にインドネシアの老人かと思えるような二人の老婆の写真が大きくかかっていた。 よくみるとこの町のシーボルト博物館で写真展がある、その宣伝だった。 タイトルは「京都の人々」 カイ・フサヨシという人の写真展のようだ。 

自分の仕事場の近くにこのシーボルト博物館があって日常その前を行ったり来たりする。 ここはもともと幕末の日本から戻ったシーボルトが家を構えていたところでその後何年か前までは簡易裁判所の建物としていたところに民族学博物館のコレクションを移動させてシーボルト博物館としたものだ。 この10年ぐらいだろうか。 その隣に小さな床屋があってそこをいきつけの床屋としていたのだがそこも親父が定年してから今は児童書籍の店になり親父の弟子だったエリックがここに何回か書いたことのある店を開いて以来そこに行っている。 だからエリックとはこの25年ぐらい一ヵ月半に一度ぐらいの付き合いだ。 店には古い店から持ってきたものがいくつもあってレトロな雰囲気が一杯だ。

オランダ人の中で生活していて日ごろ外見は様々な人種がまざったところでアジア人と大きく括ればこの20年ぐらいは日本人だとはっきり一目で見抜くのは難しくなっている。 年寄りであれば日本人の旅行者というのはまだ比較的分かりやすいのだが若者となるとなかなか分かりにくい。 だからそんなとき機会があると声を掛けて訊ねることにしている。 この10年ぐらいは中国人の若いのが溢れているのでかれらの服装、髪型などからは分からなくはないけれど若い韓国人と日本人は見分けるのが楽ではない。 当然聞き耳を立てて彼らが喋る言葉を聞けば一耳瞭然だけれどそうでなければ外見から想像するしかない。

ここで見る京都のおばあさんたちは一瞬インドネシアのおばあさんたちかと思わせるような雰囲気が漂っている。 けれど大きく京都とインドネシアを隔てているのは彼女達の足袋雪駄だろう。 だからそこを除けばインドネシアの人々とタイトルがつけられていても不思議ではない。 こういうところで日本人もアジアの一員だと感じるのだがこれを撮った写真家はそういうことを考えているのかどうか、もっともそれはオランダに住んでいる自分が感じることで日本の日本人にはこれがある種のノスタルジーを感じさせるものと見ているのかもしれない。

なるほどこの二人は自分の母親とほぼ同年輩の婦人たちだが自分の母親はこういう髪型、服装はしない。 多分この人たちは着物を着ることに慣れていた人たちだと想像する。 だから古風な町であれば例えば金沢の人々であっても不思議ではない。 この人々からすれば今の若者との世代間のギャップが凄まじいほど大きい中、4,50年前にはどこの町、村でも普通であった姿は今では京都の人々とレッテルを貼られたイメージとして機能するのに貢献するのだろう。 だから嘗て江戸時代の日本の文物を大量に持ち帰ってきたシーボルトの博物館の作品展のポスターとして使われるのにも適したもの看做されているのだろう。

例えば自分が知るオランダ人の写真家、エド・ヴァン デル エルスケンの写真と比べてみる。 彼は50年代後半から日本を撮っていて「ニッポン だった」という写真集もあるほどだからそこに撮られた日本人々を沢山見られるけれどここでの視点とは少々違う。 当然、文は人也、写真も人也だから違って当然なのだがエドならこのショットを撮ったとしても作品にはしないように感じるし、仮にこれを印画紙に焼くにしても背景を切り詰めてもっとおばあさんたちに迫るような気がする。 おばあさんたちの視線がカメラを向いていないのもエドの正面写真の特徴とは違っている。 エドは人の中にずけずけと入り、撮り込むようなところがあるけれどこの写真家の眼はおばあさんたちを周りと対照して周りの中に置いてみるような、どちらかといえば暖かい眼でみているような筋がある。 エドのエゴイズムの厳しさの片鱗はここにはない。

買い物を終わりまたここに来て重い買い物袋を自転車の後部振り分けバッグに押し込んで帰宅するときにふと、この宣伝板は夜には内側から蛍光灯が写真を暗い通りに浮かび上がらせる仕組みだからそうなるとどういうふうに見えるのかにも興味が湧いたのだが、そういえばここから100mほど行ったところにあるそんな展覧会の看板を5年ぐらい前にも撮っているのを思い出した。 それはリチャード・アヴェドン回顧展のものでそれを下のように書いている。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/57491659.html

そのときも機会があれば展覧会に、と思っていたけれど結局は行っていない。 今回はどうするか、まだ決めていない。