Bye (バイ)
1990年 オランダ
ドキュメンタリー映画 約2時間
監督;エド ヴァン デル エルスケン (生 10 March 1925 – 没 28 December 1990)
このドキュメンタリーには個人的な想いが交錯してなかなか見るのが難しかったり辛かったりする。 この完成後、それもこの写真・映像作家が没後、放送されたものをテレビで見たり、それをヴィデオに録画してあるのだが改めて観る機会はなかった。 今晩夕食後に家人が、又エドのお別れのドキュメンタリーが2時間ほどあるの知ってた、と訊くので、ああ、もうそろそろ亡くなって18年になるのかと感慨もひとしおだった。
今、世界最大のドキュメンタリー映画祭がアムステルダムで開かれていて、それに関係してオランダ国営テレビの文化芸術が専門の局が視聴者に今まででどのドキュメントが一番よかったか、というアンケートにしたがって10時ごろから2時間ほど幾つかリクエストに応じて放映しているその一つだったのだ。
癌に侵されてそれを記録する作家の姿は現に今、私の姑がそのような状況に置かれていることと家族では多く癌で亡くしている個人的な経験から改めてこれは重い事柄なのだが、この作家の作品として最後に自分の生き様、死に様をドキュメントにするというのは彼の理にかなっている。 生き死には万人の重大事であることからこの個人的な写真・映像作家の赤裸々な記録が深く我々の記憶の底に残る、このドキュメントが万人を打つというのはその芸術性を裏打ちしている証拠である。
白黒のコントラストが強く黒と灰色のトーンの美しい映像は彼の作品群になれている眼には親しみ深くその絵は彼のものである。 まるで世捨て人のような髪と髭の、初めの語りで、自分の作品群で10ほどの写真集を出版し、1964年以来10ほどのドキュメンタリーをものしてその締めくくりとして自分の病魔に侵されて身動きのとれない身辺闘病記を作品にするという動機をかたる顔は私が見知った写真家の顔ではない。 すでに腫瘍は体の各部分を犯し、医者は睾丸摘出をしなければ余命は2,3ヶ月だ、という88年夏あたりからこの話は始まる。
家の中に、主にベッドに釘付けになり一日で一時間ほどしか身動きのとれない状態で夫人に介護され撮影機材の操作も助けられ鏡に写った自分の姿に向けてカメラをまわすのだがそのフレームも彼の馴染みのもので、そんな制約の中で自然と語りが主要になり、それもテキストにまとめられたものを読むこととなるのだが痛みとの戦いで時には意識が霞みそうになったり話が散漫になったりするのは癌の患者には当然あることでそれでも時間との戦いと意識して未完の作品集に向けてその進み具合をかたる。 この作家はカメラで何事にも正面からたち向かうそのスタイルは当然彼の性格であり、世界観でもあるのだが、自分の病気を写真家の目で観察し、その88年10月から始めた数十枚のスキャン、やレントゲンの自分の病巣がそこにはっきりと示されている画像をすばらしい映像だと眼を輝かせ興味深く芸術家の眼で解析し、自分の病巣の部位を裸身で示す。 ここにそのKlootzak(糞ったれ)があって痛むんだ、と。 2時間のドキュメントでは何週間かの間隔を置いて作家は登場するのだがその病気の進行状態、それに対する医者の意見と希望、願望が交差して順次そのかいなく悪化していく状況にも次の手は、という生への執着は彼の強い自我が支えるものではあるけれど耐えられない痛みを語りなまじ過ぎた痛みの状態を本人が、夫人がカメラに語るのに接する我々には居た堪れなくなる。 このドキュメントはそんな殺伐なシーンばかりではない。
パリ時代にハンガリーからロバート・キャパたちとパリに来てヴァン デル エルスケンと結婚していた年上の女性写真家 Ata Kandó (1913年生まれ Budapest, Hungary)、と同僚の女性写真家も彼の家に呼ばれ当時を振り返ったり、キャパの死に引き寄せられたその心理をヴァン デル エルスケンが最愛の夫人を失ってそれで生にたいする執着がなくなった、と素人考えといいつつもその論を展開する場面もその白黒の映像が美しく動くポートレートになっている。
ここから私がこの作家とたまたま関わったことのこのドキュメントと重なる部分を書き出す。
1985年5月11日 スキポール空港にて日本旅行に同行するカメラマンとしてのヴァン デル エルスケンと初顔合わせ その後三週間ほど一緒に過ごし、同年5月31日に大阪で別れる
1986年6月29日 連絡あり。その後何週間かして家人とエド宅訪問
1987年に何回か私の職場を来訪し自分の撮った日本写真に写っているものの意味、背景などについて質問がありそれに答えるというセッションを何回か行う。
1988年6月24日 12:00-16:00 家人、オランダ訪問中の母、生後半年ほどの息子とともにエド宅を訪問一日を過ごす。
1989年 家人、息子とともにエド宅に一泊
1990年7月15日 10:30-14:30 アトリエでジャズ、アフリカ、Once Apon A Timeの話をしながらも階下では家人と夫人が子供たちと歓談。 このときの元気さはフィルムの中では苦痛が一時的に抑えられ驚くほどの一時的な回復を見せた時期にあたる。 フィルムで夫人が衰弱した作家が病院に収容されて夫人自身も衰弱した顔つきで病室の痛ましい状況を語ったあとであり、その後の面会であるからこのフィルムでの深刻な様子は微塵も見られなく映像にみられるように急に春の日差しが訪れたような穏やかなものだった。 われわれはその時このような苦痛と衰弱を越したあとだとは知る由もなかった。 それでも6時間ほど滞在していても実際本人が大きなベッドに横たわって睡眠をとることもあったのだから一日のうちで活動できるのが30分とカメラにむかって言う直前だったのだろう。 皆にはこれが顔をあわせるのが多分最後になるだろうという認識はあった。 この時期、共通の友人たちも作家のうちをこのようにしてそれぞれ訪れている。
1990年12月28日 永眠。 年末の時期、友人から亡くなった事をしらされ葬儀の知らせが届くも身重の家人を家に残し、友人と告別式に参加することを伝える。
1991年1月2日 葬儀。 窓から牧草地を隔てて塔が見える Edam の大聖堂で数百人参列のもと、葬儀が行われ、その後、教会に隣接した墓地に埋葬される。 雨や雪はなかったものの寒い日だった。 このドキュメントの中にも紹介されていた、この町の画家がかれのシトロエン2CVに写真家の活動やそれにちなんだモノクロの絵を施した車が教会の前に置かれていたのが印象的だった。
モノクロ画面の最後に青い目が印象的な美しいカラーの顔が大写しになり皆に別れを言ってこのドキュメントは終わり、初めのモノクロ、焦燥した顔とは奇妙に反転しているとさえ言える爽やかさでありその後、彼のパリ時代、アムステル時代、日本の数枚が示されてこのドキュメントは終わる。
その印象的な50年代に撮られた京都西本願寺の人気のない境内、石灯篭の付近で三脚を立てて頭から布を被い写真師が家族を撮る場面を彼は撮っている。 これは写真師を撮る写真家の眼でヴァン デル エルスケンの眼は布を被った写真師としてその家族を覗いている。 後年、Eye Love You という写真集を出している眼である。 奇しくも85年5月、京都滞在の折、ある早朝、宿を一人出て私はここに行ったのだが無人のこの同じ場所に写真家がいてこの写真のことをいうとあれからもう30年近くなると言った。 今からもう20年以上前の話だ。
エド ヴァン デル エルスケン
http://en.wikipedia.org/wiki/Ed_van_der_Elsken
あるブロガーのこの映画鑑賞後の覚書
http://firstepilogue.com/forget#comments
1990年 オランダ
ドキュメンタリー映画 約2時間
監督;エド ヴァン デル エルスケン (生 10 March 1925 – 没 28 December 1990)
このドキュメンタリーには個人的な想いが交錯してなかなか見るのが難しかったり辛かったりする。 この完成後、それもこの写真・映像作家が没後、放送されたものをテレビで見たり、それをヴィデオに録画してあるのだが改めて観る機会はなかった。 今晩夕食後に家人が、又エドのお別れのドキュメンタリーが2時間ほどあるの知ってた、と訊くので、ああ、もうそろそろ亡くなって18年になるのかと感慨もひとしおだった。
今、世界最大のドキュメンタリー映画祭がアムステルダムで開かれていて、それに関係してオランダ国営テレビの文化芸術が専門の局が視聴者に今まででどのドキュメントが一番よかったか、というアンケートにしたがって10時ごろから2時間ほど幾つかリクエストに応じて放映しているその一つだったのだ。
癌に侵されてそれを記録する作家の姿は現に今、私の姑がそのような状況に置かれていることと家族では多く癌で亡くしている個人的な経験から改めてこれは重い事柄なのだが、この作家の作品として最後に自分の生き様、死に様をドキュメントにするというのは彼の理にかなっている。 生き死には万人の重大事であることからこの個人的な写真・映像作家の赤裸々な記録が深く我々の記憶の底に残る、このドキュメントが万人を打つというのはその芸術性を裏打ちしている証拠である。
白黒のコントラストが強く黒と灰色のトーンの美しい映像は彼の作品群になれている眼には親しみ深くその絵は彼のものである。 まるで世捨て人のような髪と髭の、初めの語りで、自分の作品群で10ほどの写真集を出版し、1964年以来10ほどのドキュメンタリーをものしてその締めくくりとして自分の病魔に侵されて身動きのとれない身辺闘病記を作品にするという動機をかたる顔は私が見知った写真家の顔ではない。 すでに腫瘍は体の各部分を犯し、医者は睾丸摘出をしなければ余命は2,3ヶ月だ、という88年夏あたりからこの話は始まる。
家の中に、主にベッドに釘付けになり一日で一時間ほどしか身動きのとれない状態で夫人に介護され撮影機材の操作も助けられ鏡に写った自分の姿に向けてカメラをまわすのだがそのフレームも彼の馴染みのもので、そんな制約の中で自然と語りが主要になり、それもテキストにまとめられたものを読むこととなるのだが痛みとの戦いで時には意識が霞みそうになったり話が散漫になったりするのは癌の患者には当然あることでそれでも時間との戦いと意識して未完の作品集に向けてその進み具合をかたる。 この作家はカメラで何事にも正面からたち向かうそのスタイルは当然彼の性格であり、世界観でもあるのだが、自分の病気を写真家の目で観察し、その88年10月から始めた数十枚のスキャン、やレントゲンの自分の病巣がそこにはっきりと示されている画像をすばらしい映像だと眼を輝かせ興味深く芸術家の眼で解析し、自分の病巣の部位を裸身で示す。 ここにそのKlootzak(糞ったれ)があって痛むんだ、と。 2時間のドキュメントでは何週間かの間隔を置いて作家は登場するのだがその病気の進行状態、それに対する医者の意見と希望、願望が交差して順次そのかいなく悪化していく状況にも次の手は、という生への執着は彼の強い自我が支えるものではあるけれど耐えられない痛みを語りなまじ過ぎた痛みの状態を本人が、夫人がカメラに語るのに接する我々には居た堪れなくなる。 このドキュメントはそんな殺伐なシーンばかりではない。
パリ時代にハンガリーからロバート・キャパたちとパリに来てヴァン デル エルスケンと結婚していた年上の女性写真家 Ata Kandó (1913年生まれ Budapest, Hungary)、と同僚の女性写真家も彼の家に呼ばれ当時を振り返ったり、キャパの死に引き寄せられたその心理をヴァン デル エルスケンが最愛の夫人を失ってそれで生にたいする執着がなくなった、と素人考えといいつつもその論を展開する場面もその白黒の映像が美しく動くポートレートになっている。
ここから私がこの作家とたまたま関わったことのこのドキュメントと重なる部分を書き出す。
1985年5月11日 スキポール空港にて日本旅行に同行するカメラマンとしてのヴァン デル エルスケンと初顔合わせ その後三週間ほど一緒に過ごし、同年5月31日に大阪で別れる
1986年6月29日 連絡あり。その後何週間かして家人とエド宅訪問
1987年に何回か私の職場を来訪し自分の撮った日本写真に写っているものの意味、背景などについて質問がありそれに答えるというセッションを何回か行う。
1988年6月24日 12:00-16:00 家人、オランダ訪問中の母、生後半年ほどの息子とともにエド宅を訪問一日を過ごす。
1989年 家人、息子とともにエド宅に一泊
1990年7月15日 10:30-14:30 アトリエでジャズ、アフリカ、Once Apon A Timeの話をしながらも階下では家人と夫人が子供たちと歓談。 このときの元気さはフィルムの中では苦痛が一時的に抑えられ驚くほどの一時的な回復を見せた時期にあたる。 フィルムで夫人が衰弱した作家が病院に収容されて夫人自身も衰弱した顔つきで病室の痛ましい状況を語ったあとであり、その後の面会であるからこのフィルムでの深刻な様子は微塵も見られなく映像にみられるように急に春の日差しが訪れたような穏やかなものだった。 われわれはその時このような苦痛と衰弱を越したあとだとは知る由もなかった。 それでも6時間ほど滞在していても実際本人が大きなベッドに横たわって睡眠をとることもあったのだから一日のうちで活動できるのが30分とカメラにむかって言う直前だったのだろう。 皆にはこれが顔をあわせるのが多分最後になるだろうという認識はあった。 この時期、共通の友人たちも作家のうちをこのようにしてそれぞれ訪れている。
1990年12月28日 永眠。 年末の時期、友人から亡くなった事をしらされ葬儀の知らせが届くも身重の家人を家に残し、友人と告別式に参加することを伝える。
1991年1月2日 葬儀。 窓から牧草地を隔てて塔が見える Edam の大聖堂で数百人参列のもと、葬儀が行われ、その後、教会に隣接した墓地に埋葬される。 雨や雪はなかったものの寒い日だった。 このドキュメントの中にも紹介されていた、この町の画家がかれのシトロエン2CVに写真家の活動やそれにちなんだモノクロの絵を施した車が教会の前に置かれていたのが印象的だった。
モノクロ画面の最後に青い目が印象的な美しいカラーの顔が大写しになり皆に別れを言ってこのドキュメントは終わり、初めのモノクロ、焦燥した顔とは奇妙に反転しているとさえ言える爽やかさでありその後、彼のパリ時代、アムステル時代、日本の数枚が示されてこのドキュメントは終わる。
その印象的な50年代に撮られた京都西本願寺の人気のない境内、石灯篭の付近で三脚を立てて頭から布を被い写真師が家族を撮る場面を彼は撮っている。 これは写真師を撮る写真家の眼でヴァン デル エルスケンの眼は布を被った写真師としてその家族を覗いている。 後年、Eye Love You という写真集を出している眼である。 奇しくも85年5月、京都滞在の折、ある早朝、宿を一人出て私はここに行ったのだが無人のこの同じ場所に写真家がいてこの写真のことをいうとあれからもう30年近くなると言った。 今からもう20年以上前の話だ。
エド ヴァン デル エルスケン
http://en.wikipedia.org/wiki/Ed_van_der_Elsken
あるブロガーのこの映画鑑賞後の覚書
http://firstepilogue.com/forget#comments