朝、昼 焼き飯、ブルドッグ中濃ソース
炭酸水 300cc
夕 リーキのキーシュ
ミックスサラダ
炭酸水 250cc
カスタードプリン
コーヒー 250cc
クッキー 2個
晩 フルーツジュース 250cc
清水良典 「死の棘」日記と「死の棘」<聖ミホ>伝説のありか 文学界nr.5 2005
島尾敏夫の「死の棘」はもう20年以上も前に読んでいて、今では話の細部の記憶もさだかではないものの、その作家と妻の確執、というより関係の壮絶さに圧倒されたものだ。 当時は私自身まだ、家庭を持ってはおらず、まだ、このような愛憎関係の網にもからまれてはいなかったし、今に至るも目に見えた危機や破局への兆しも経験してはいないから、まあ幸福というより幸運なのだろうが、逆に言うと、おのが夫婦関係は、はなはだ非文学的な道のりだったということなのだろう。
「死の棘」で心を病んだ妻の言動に右往左往して夜中に家から別の場所へ行きつ戻りつする描写のやるせなさはしっかり記憶に残っているが、女の言動の鋭さは心を病んでいるものとして描かれているし、夫の目からそうと言う風に叙述されているのだから、実際そうなのだけど、女の論理的な錐でしっかり夫の弱点を突き刺すような部分は狂気と正気を揺れながらも狂女にスタンスを置いたものとして受け取るのが、そういった経験のなかった当時の私には納得がいきやすかった。 けれど、ある程度の夫婦生活をくぐってきた今からすれば、当時狂気ゆえとしていた女の言動はあながち振れた女の心から、の部分の重心がかなり、そのような状況に置かれた心の状態、の方へシフトしているように思える。
次に、実際の島尾ミホの経歴が示され、死の棘日記と比較される。 彼女の経歴はさておき、おどろきだったのは作家の妻の役割、清書人、の域を越えて編集の指示を同時進行で書かれる作品に対して作者に与えている事、それを作者が受け入れているという事実だ。 つまり、神経症、心の振れ、という事実、二人の夫婦関係の顛末を夫である作家が主観的に書いている、その自分の姿をそこにみて、もちろん葛藤はあったであろうことは当然のこととして、文学作品として客観的に評価を与え造作の過程にまで参画しうるという高度に知的な姿に感動したのだ。 今まで私小説の分野ではしばしば妻を描写する場面が現れるが、それはあくまで夫=作家からの一方的な目で、そこに妻の側からのなんらかの力、意志というものが現れているかというと、否というのが普通の答えであろう。 だから、ここでの妻の参画、描かれている自分を完全に相対化している職業性と知性に感動するのである。 作家の妻が自分がモデルとして登場する作品に関った例外的なケースといえるのではないか。 それに加えて自分がそこに主人公の苦悩を喚起するものとして描かれていて、ことに対して客観的、積極的にその状況を把握、作品に作り上げる態度にだ。
当時、島尾の「死の棘」を読んだのは同じくその頃その文体と心を病んだ状態の描写に浸り擬似体験に近い世界を垣間見る事の出来た古井由吉関連であったのだろう。 古井の文では、島尾の文のような論理の錐で切り刻む様子は一切無く、主人公=男がそのような世界に入る、そういった状態の描写が多く、しばしば日本酒の酔いに似た経験をしたものであるし、その世界に一度はいれば、方向感覚、時間感覚まで麻痺するように経験したものだ。 事実古井の試みは日本語の解体とその限度を探る試みの上になされていたのだけれど、島尾作品の場合、論理が重要な要素となっているのでまったりした酒の酔いは訪れず、ただ、振り回される男のやるせなさ、それもまたエゴなのか、自分の罪を自覚しての受け入れとやさしさが感じられたものだ。
今回のこの清水の小文では妻の役割と、ほぼ共同作業で自分も主人公として登場している作品を、それも知的作業を行なった女性と登場人物の性格を何割か有する女性の両方の姿を共にみる驚きが大きかった。 それに、清水が指摘する、<聖ミホ伝説>論を形づくる諸説の陳腐さは清水の論旨で一層鼻白むものとなるのだが、同時にそのように導く清水の論に導かれるわれわれにも逆にこれでいいのかと思わせるほどの‘通りのよさ’を感じさせるのである。 いずれにせよ、ここから立ち上がってくるのは、脱構築された旧<聖ミホ>伝説から浮かび上がる新ミホの姿であり、それは今の時代に合った姿であるだけに新<聖ミホ>伝説につながらなければいいのにと祈願するばかりである。