暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

Mon. 30-05-05 リーキのキーシュ

2005年05月31日 05時08分46秒 | 喰う
リーキのキーシュ

朝、昼    焼き飯、ブルドッグ中濃ソース
      炭酸水 300cc


夕     リーキのキーシュ
      ミックスサラダ
      炭酸水 250cc
     
      カスタードプリン

      コーヒー 250cc
      クッキー 2個

晩     フルーツジュース  250cc



これじゃあ、まるで月のものじゃないか

2005年05月30日 11時50分00秒 | 健康
これじゃあ、まるで月のものじゃないか

毎朝、目覚めていちばんにすることは、寝ぼけマナコをこすりながら、腹に溜まった濃い小水を放出すべく階段を下に下りていくことだが、一番大切なのは、はちきれそうな膀胱ではなくて、ああ、くるぶし、足の指の付け根、関節、今日も何とも無いな、痛みの芽、兆しもないな、とぼうっとした頭の中で確認する事だ。 無意識の中での毎日の儀式である。 しかし、頭の芯にはびくびくしながら観察する他人がいる

それが、なんてこった、朝はどうということも無かったのに、夕食後おかしいな、またかな、いや、今日は立ちっ放しだったから、それでくるぶしを挫いたんじゃないかな、という想いだったのだが、夜がふけるにつれて確実になり、いまいまいのだ。 痛む。

この前ここに書いたのは26,7日前で痛みがどうだこうだ、薬が効けばいい、なんのかんのと書いた。 それで、その時はま、なんとかやり過ごして落着。

そのあとだ。 いい子にしていたのだ。 何も悪いものは飲んでいないし、、、、、。 昨日、一昨日は熱帯日で暑かった。 水分を取らねばならぬのにたぶん、少なすぎたのだろう。 それと、歯の裏側にこびりつくような金属製のブリッジ、と朝晩の口内洗浄のために舌の味覚が少々いかれているのかもしれない。 先週の土曜日に料理用の塩が切れたので青空マーケットの健康食品を売るテントで地中海の塩、というのを買ったのだが、にがりが入っているし、結晶というか顆粒がこれまでのより大きいので加減がいつもより塩辛目になる。 それでも、それを毎回舌で確認できる確信がないのだ。 時には過剰に塩辛く感じるし、また、あるときは全然感じない。 難儀な事だ。

今日は射撃大会で一日中、立ちっぱなしだった。 私でも若手に入る地区大会の主催クラブですることは多い。 30分ごとに2つの射場で15人と10人づつがそれぞれ色々な種目の銃を規則にのっとって13発づつ発射する。 その、監視員と標的の回収、新しい標的の装着、参加者の本人と銃器の確認、規則を口頭で説明して、開始後は安全の確認、参加者のこまごました不都合にすぐさま対応して円滑に協議会を運営する事、 これを11時から5時半までやった。 ほとんど立ちっぱなしである。 間の昼食もほとんど流し込むようにしてとったし、午後からは温度が下がってきてTシャツ半ズボンで出かけた姿には寒いぐらいなので、水分はほとんど取らなかった事が一番の原因だろうと素人医者の判断を下す。

そうそう、その間にも50m競技で1回、25m競技で2回、撃っている。 多分、自分の足をいとう、という習慣をつける時期に来ているのだろう。 うすうす、こういうことも感づいてはいたのだ。 1日で20kmほど歩いた翌日にも痛みが出始めたことがあったからだ。 しかし、そのときは、そろそろ、出てくる時期だろうと、そちらのほうに原因をあづけていたようだ。

夜中に痛くなり始めたので、考えた。 ディクロフィナックを8時間に1錠とコルヒチンを2時間ごとに2錠4回繰り返す。 そうすると、なんとかやり過ごす事ができる。 けれど、夜中に始めれば途中でコルヒチン投与が途切れるではないか。 中途半端に止めれば痛みがねじまがる。 翌朝、また一からやり直さねばならぬ。 そこで、思案。 けれど、痛みがいや増しに押し寄せてきたので、ままよと3錠水で胃に流し込んだ。 ちょうど、BBCで古いコメディーを再放送していたので、これをビデオに録画しようとテレビの前に中途半端に腰掛けてスイッチを押した。 どうせ1時に始まって3時に終わるのだから寝なくてはいかず、そのためのビデオではないか。 

ブロードウエーのコメデイー作家で70年ごろからテレビのシリーズの脚本をかいてきたニール・サイモンという作家がいて面白いのでこのごろは古い映画があれば録画している。 もう、30年も前に日本でも「おかしな二人」という凸凹コンビのシットコムが放映されていてよくみた覚えがある。 同名の映画、ウオルター・マッソーとジャック・レモンのコンビのテレビ焼き直しシリーズだったのだけど、シットコムの定石どうりアパートの部屋でほとんど全てが起こる。 しかし、二ール・サイモンの深い人間観察に基づいたジョークや皮肉には当時は聞き過ごしていたり、意味を軽く捉えていたものが多かったけれど、近年は特に夫婦間の会話の脚本には脱帽することが多い。種類は違うがポール・オースターのものにも共通する良質のブロードウエーの脚本である。

それに、ウオルター・マッソーは私の気に入りである。 名前が出て入れば大抵見る。 A級映画は少ないのではないか。 大抵はB級であるし、演技もかなり臭いところがあるが、好きである。 今日のものはアーサー・ヒラーが1971年に監督した「プラザ スイート」という3話連結のオムニバス映画でそれぞれにマッソーが主人公となる。 まあ、役の年齢設定が私とほぼ同じか若いぐらいだから、夫婦の会話には思い当たるところがそこかしこに散らばっていて考えこまさせられる点が多くある。 苦笑いの連続だ。 それぞれの妻のタイプが当時としては定型で、今となっては決まりきったそんな主婦の像にはかなりの批判があろうがしかし、それにしても男女の関係の機微がうまく軽妙な台詞に出ていて最後まで見てしまった。

115分の映画だからもうよなかの3時で、2回目のコルヒチンの時間が来たのでそれをまたもや水道の水で流し込んで、食後に掃除してあった3丁の銃器と弾薬の入った古かばんを抱えて痛む足を屋根裏部屋にえっちらおっちら上がってきて、コンピューターのスイッチと入れた。 ぽつぽつ打っていると、もうそれでも1時間半が過ぎてしまった。 今日は添削せずにそのまま、ブログに放り込んで眠る事にする。 ようやく痛み止めは効いているのだが、こんど目覚めた時が楽しみだ。

Sun. 29-05-05 定番スパゲッティボロニェーゼ

2005年05月30日 02時16分27秒 | 喰う
定番スパゲッティボロニェーゼ


朝   チョコレートクロワッサン
    ミルクティー 300cc


昼   豚まん(電子レンジ調製)
    炭酸水 250cc


夕   定番スパゲッティボロニェーゼ
    ミックスサラダ
    炭酸水 250cc
    さくらんぼ 1つかみ

    コーヒー 250cc
    クッキー 2個

晩   フルーツジュース  300cc

夜中  玉露  250cc

清水良典 「死の棘」日記と「死の棘」<聖ミホ>伝説のありか 文学界nr.5 2005

2005年05月29日 09時14分28秒 | 読む

清水良典 「死の棘」日記と「死の棘」<聖ミホ>伝説のありか 文学界nr.5 2005

島尾敏夫の「死の棘」はもう20年以上も前に読んでいて、今では話の細部の記憶もさだかではないものの、その作家と妻の確執、というより関係の壮絶さに圧倒されたものだ。 当時は私自身まだ、家庭を持ってはおらず、まだ、このような愛憎関係の網にもからまれてはいなかったし、今に至るも目に見えた危機や破局への兆しも経験してはいないから、まあ幸福というより幸運なのだろうが、逆に言うと、おのが夫婦関係は、はなはだ非文学的な道のりだったということなのだろう。

「死の棘」で心を病んだ妻の言動に右往左往して夜中に家から別の場所へ行きつ戻りつする描写のやるせなさはしっかり記憶に残っているが、女の言動の鋭さは心を病んでいるものとして描かれているし、夫の目からそうと言う風に叙述されているのだから、実際そうなのだけど、女の論理的な錐でしっかり夫の弱点を突き刺すような部分は狂気と正気を揺れながらも狂女にスタンスを置いたものとして受け取るのが、そういった経験のなかった当時の私には納得がいきやすかった。 けれど、ある程度の夫婦生活をくぐってきた今からすれば、当時狂気ゆえとしていた女の言動はあながち振れた女の心から、の部分の重心がかなり、そのような状況に置かれた心の状態、の方へシフトしているように思える。 

次に、実際の島尾ミホの経歴が示され、死の棘日記と比較される。 彼女の経歴はさておき、おどろきだったのは作家の妻の役割、清書人、の域を越えて編集の指示を同時進行で書かれる作品に対して作者に与えている事、それを作者が受け入れているという事実だ。 つまり、神経症、心の振れ、という事実、二人の夫婦関係の顛末を夫である作家が主観的に書いている、その自分の姿をそこにみて、もちろん葛藤はあったであろうことは当然のこととして、文学作品として客観的に評価を与え造作の過程にまで参画しうるという高度に知的な姿に感動したのだ。 今まで私小説の分野ではしばしば妻を描写する場面が現れるが、それはあくまで夫=作家からの一方的な目で、そこに妻の側からのなんらかの力、意志というものが現れているかというと、否というのが普通の答えであろう。 だから、ここでの妻の参画、描かれている自分を完全に相対化している職業性と知性に感動するのである。 作家の妻が自分がモデルとして登場する作品に関った例外的なケースといえるのではないか。 それに加えて自分がそこに主人公の苦悩を喚起するものとして描かれていて、ことに対して客観的、積極的にその状況を把握、作品に作り上げる態度にだ。

当時、島尾の「死の棘」を読んだのは同じくその頃その文体と心を病んだ状態の描写に浸り擬似体験に近い世界を垣間見る事の出来た古井由吉関連であったのだろう。 古井の文では、島尾の文のような論理の錐で切り刻む様子は一切無く、主人公=男がそのような世界に入る、そういった状態の描写が多く、しばしば日本酒の酔いに似た経験をしたものであるし、その世界に一度はいれば、方向感覚、時間感覚まで麻痺するように経験したものだ。 事実古井の試みは日本語の解体とその限度を探る試みの上になされていたのだけれど、島尾作品の場合、論理が重要な要素となっているのでまったりした酒の酔いは訪れず、ただ、振り回される男のやるせなさ、それもまたエゴなのか、自分の罪を自覚しての受け入れとやさしさが感じられたものだ。 

今回のこの清水の小文では妻の役割と、ほぼ共同作業で自分も主人公として登場している作品を、それも知的作業を行なった女性と登場人物の性格を何割か有する女性の両方の姿を共にみる驚きが大きかった。 それに、清水が指摘する、<聖ミホ伝説>論を形づくる諸説の陳腐さは清水の論旨で一層鼻白むものとなるのだが、同時にそのように導く清水の論に導かれるわれわれにも逆にこれでいいのかと思わせるほどの‘通りのよさ’を感じさせるのである。 いずれにせよ、ここから立ち上がってくるのは、脱構築された旧<聖ミホ>伝説から浮かび上がる新ミホの姿であり、それは今の時代に合った姿であるだけに新<聖ミホ>伝説につながらなければいいのにと祈願するばかりである。


Sat. 28-05-05 ハンバーグステーキ超姉さん風

2005年05月29日 05時09分15秒 | 喰う
ハンバーグステーキ超姉さん風

朝   チョコレートドーナッツ 1個
    炭酸水  200cc
    オレンジジュース  200cc


昼   トルコ胡麻リングパン
    玉子サラダペースト
    レッドキャビア(スウェーデン到来物)
    ローストビーフ 薄片 4枚、塩、胡椒、フランスからし
    炭酸水 350cc


夕   ハンバーグステーキ超姉さん風
    大根おろし、きざみネギ添え
    温野菜(インゲン豆)
    ミックスサラダ(レタス、パプリカ、キュウリ、プチトマト
    黒オリーブ、アーティショク、山羊のチーズ、バルサミコ酢、エクストラヴァージンオイル、
    地中海塩、黒胡椒)
    白米
    炭酸水 300cc
    スイカ 小 2片

    コーヒー 250cc
    チョコレートウエファース 3片

晩   オレンジジュース  300cc

夜中  玉露  300cc
    豆菓子(すずめの玉子)
    
    

Fri. 27-05-05 オランダパンケーキ

2005年05月28日 07時43分42秒 | 喰う
オランダパンケーキ


朝    トースト、バター、蜂蜜
     トースト、バター、苺ジャム
     ミルクティー  400cc


昼    昨晩の残り、スペイン風オムレツ
     ブラウンブレッド
     炭酸水  400cc


午後   ブラウニークッキー
     ファンタアップル  300cc

     オレンジジュース  250cc


夕    オランダパンケーキ(ベーコン、チーズ)
     チキンスープ
     炭酸水  250cc

     グレープフルーツ 中1個


晩    炭酸水  350cc
     豆菓子(すずめの玉子、わさび風味)

Thu. 26-05-05 スペイン風オムレツ

2005年05月27日 10時19分26秒 | 喰う
スペイン風オムレツ

朝   炭酸水  150cc


昼   舌平目のムニエル 小3尾
    温野菜(さやえんどう、ブロッコリ、ミニ人参)
    サラダ菜、オリーブ、トマト
    じゃが芋の炒め物
    水  500cc

    コーヒー 150cc


夕   スペイン風オムレツ(プロヴァンス風味ベーコン、リーキ、人参、インゲン)
    じゃが芋の炒め物
    炭酸水 300cc
    ヨーグルト

    コーヒー 250cc
    ブラウニークッキー 1片

夜中  オレンジジュース 300cc

Wed. 25-05-05 鶏の燻製のサラダとトマトスープ

2005年05月26日 10時19分55秒 | 喰う
鶏の燻製のサラダとトマトスープ


朝、昼    ミンチボール 
       コロッケ
       炭酸水 250cc

午後     炭酸水 300cc

夕      鶏の燻製のサラダ
       トマトスープ
       トルコパン
       炭酸水 250cc

晩      緑茶  450cc      

Tue. 24-05-05 インドネシア風焼きそば

2005年05月25日 09時43分27秒 | 喰う
インドネシア風焼きそば


朝、昼    トルコ胡麻リングパン
       チーズパン
       ミルクティー  400cc

午後     揚げおかき
       炭酸水 200cc


夕      インドネシア風焼きそば
       インドネシアの酢の物(アジャー)
       炭酸水 300cc
      
       苺入りヨーグルト


晩      コーヒー 150cc
       トマトジュース 400cc
       炭酸水 250cc
      

       

マイルス と さくらんぼ (補遺) 24-05-05 

2005年05月24日 10時43分14秒 | 見る
マイルス と さくらんぼ (補遺) 


この間さくらんぼの事を書いて、そのときこれも書こうかな、と思ったのだけれど、眠かったし、少々面倒かな、と思ったのでやめたのだが、さっきたまたま、慶応大学の文学雑誌「三田文学」のホームページを覗いたら、今月号の表紙にさくらんぼ、が載っており、その、さくらんぼの絵がまさに書こうとしていたことなので、これはやはり、ひさしぶりのことだから、とここに記すことにした。 下記は上のホームページだが、来月になるともう体裁は変っているかも知れぬので念のため。

http://www.mitabungaku.keio.ac.jp/

高校時代からの友人に今はある県立美術館の学芸員をしている者がいる。 この表紙のさくらんぼの作者、浜口陽三の出身県の美術館で彼が学芸員をしていた時、時々遊びにいっては収蔵庫のものを見せてもらったことがあり、あるとき、まとめて氏の「さくらんぼ」を見た。 背景はどれも暗いが重みは感じられなく、華やかささえある紺と黒の混じる空間に簡素な意匠の鉢に盛られたさくらんぼである。 どれも多少の違いはあれ、つまり、背景の色彩、鉢の形状、さくらんぼの量、色の違いということだが、荒っぽくいえば同じ構図である。 そこではあくまでさくらんぼが主役であるのは誰が見ても明白だ。 プリントの技法でアクアチントの一種、氏独特のメゾチントという技法を用いていると友人が説明しながら次から次ぎへ見せられる、収蔵庫の柔らかい光の下のサクランボウは不思議な色彩と存在感を強く私に知らしめたのである。 この段階では近畿で育った70年代中頃の私にはサクランボウを食した経験はあるものの、明るい赤に黄色さえ混ざったものであったものの強い印象を残すほどの味と甘味は知らず、ここに見る深い葡萄色に光沢をやどした粒は未だ想像の産物でしかない。

貿易商社の営業マンであればたまには接待で大阪の北新地の高級スナックなどに足をむけることがあった。 ちょっと坐るだけで数万円もとられるような場所は私には自己資金で行けるようなところではなかったから、社長がバイヤーなどを接待する場合のみ相伴に与かった。 あるとき、いつもながらあでやかなママの着物姿にみとれながらその図柄の話をしていて、ふとほの暗く按配してある照明の中、壁に掛かっている絵をみると、その「さくらんぼ」である。 ガラス越しに見るサクランボは実際の光沢が全く見えず、ガラスの反射でほとんどスーパーのパッキングの態である。 直接見る色彩・光沢の美しさとガラスの味気なさをいうと、同意しながらも今までそのことを指摘したものが誰も無いといい、それなら私はガラスなしで見たことがあるに違いないから他のはどうだったのかと逆に問われたが無粋な事に、味の経験の無い私にはとりたててつけ加えることはなかったものの、その作者の出身地もママの出身地であり、この題材が好ましくこの絵を買ったことを告げられ、ここで私の収蔵庫での経験をとてもうらやましがられたものだ。

絵のことと音楽のことを話しているとこういう場所ではなんとか場が持てた。 だから、何かこういうところで艶話が生まれたかというと全くそういうことは無かった。 女主人とは楽しく色々会話が出来たけれど、彼女の子供の学校の成績の話をされたのではどうにもならないし、所詮当時のわたしはあわよくば息子の家庭教師にできるかもしれない学生上がりでしかなかったのである。 

その後、オランダで長く暮し、春が来るたびに市場で黒く光沢を持ったサクランボウを見るたびに店で味見をして1kgづつ家にもちかえり、大きな鉢に盛るのだが、大抵は熟れて次の日には薄カビが表面にでるほどの、醗酵し始めているのではないかと思わせるほどの贅沢な味は記憶に残るが、このメゾチントの色は今日まで忘れていた。 しかし、私が見たのは昨日カビが表面に出てやむなく捨てた幾つかを除いて、居間の五月の陽光の反射を表面に湛えた粒であり、娘の指に染まった濃い紫の「さくらんぼう」であり、上記雑誌、表紙のさくらんぼは印刷の都合、私のコンピューターのモニターの色調整の具合でもあるのか、明るく、かすんでいるようでもあり、30年前に見た薄闇で重く華やかに輝く「さくらんぼ」とはいささか異なるようだ。