暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

風呂

2007年01月31日 10時18分47秒 | 日常
考えてみればもう4週間ほど風呂に入っていなかった。 早いものだ。 だが、熱いシャワーが有難い、熱い風呂にはいりたいと思ったのは先週の何日かだけで、そのときには10年ほど前には普通だった気温、マイナス2,3度になって、ああこれで「まとも」な冬になったと喜んだものだけど、すぐまた暖かくなったから湯の熱さを楽しむこともなく普通のシャワー生活だったのだが、今夜、家人が風呂をたててそのあと久しぶりにゆっくりとニュースや軽い音楽を聴きながら1時間近くその中で漂っていた。 

帰省中はウイークリーマンションというのか、そういう狭いながらもユニットバスがついていてそこで湯に浸かっていたのだが、オランダの自宅ではもう今ではなかなか見られない、大きくて深く、また傾斜しているので仰向けに寝転んでいると沈み込みそうになる前世紀の遺物がある。 湯を満たすのにも時間がかかり日本の風呂のように湯をザーザー流せない欧米流のものであり、このようなバスタブはもう30年近く前に経験した北京のホテルの、ロシア人が持ち込んだバスタブのようだなあと湯煙のなかでそういえばその部屋にはカギもなくカギをかけることも思いもつかないそのホテルのことを久しぶりに思い出したものだ。

年末年始の時期に紀州の徒歩温泉小旅行というものを家族で楽しんでそのときは休暇なのだから勿論、入浴というのも一種娯楽で、これは日常の入浴の具合とは違う。 日常では様々な物理的、時間的制約もあり毎日、朝寝朝酒朝湯、というわけにはいかないし、川原に溢れる湯から2mほど離れた透明な川水に飛び込んではまた42度ほどの湯に戻る、ということもないし、岸壁の洞窟にしつらえられた風呂場から裸で3mほど下を覗けば海草の少ない透明な塩水が今昇った朝日に照らされ頭上には小鳥の囀りが洞窟に響くというようなこともない。 ただ洗って出る、というだけだ。

と、いうようなことを思い出しつつ娘に風呂場を占領するなと督促され芯まで温かくなった体を拭き拭きキーボードの前に引きずって冷水を含みながらボヤーっとしていると、そういえばその時、中国旅行の折、西安で見学した楊貴妃の浴室にはあまり気が惹かれなかったのはなぜだろうかとシーアンのことを思い出し思案した。 大理石の浴室は浴槽の湯が抜かれていてなんだかチーズに切り抜いた穴のようで味気なく見えたからかもしれないし湯気のないところにのこのこと観光客の猥雑さで行ったからかも知れない。

そんなことを考えながら土産物のオカリナを吹いて体の火照りを冷ましていたらクシャミが一つ出た。


落語; 六代目笑福亭松鶴  天王寺詣り

2007年01月29日 11時23分09秒 | 聴く

六代目 六代目笑福亭松鶴 全集  No.10   NHK CD ANOC 7010

天王寺詣り  1974年 3月9日 録音 27分14秒


6代目松鶴の全集を入手して聞き始めたのが特典版の「私の自叙伝」29分55秒、それに続く6分26秒の5代目松鶴の「天王寺詣り」だった。

5代目、6代目が酒の人、というのは5代目の思い出語り(NHK CD ANOC 7011)で納得した。 それに5代目のどちらかというと眼の大きい男前に見えるその風貌と小柄そうでピッチの高い声の「天王寺詣り」をくらべると私は6代目をとる。 いかつい風貌と割れ鐘を搗いたような6代目松鶴の喉は、商家の息子や粋筋の女性を演じて艶のある誠に対照的な春団治と対にして浪速の芸に不可欠な宝ですらある。

個人的には6代目に直接面会して話した事はないが間接的に何回かすれ違いはあった。 一つは70年の中頃か、私が午後、南海電車の難波駅に着いたときに多分、新今宮から乗ったのであろうと見られる師匠が洋服の中にただひとり誠に粋な羽織でハンチング帽に巾着袋というのか手にぶら下げた袋を持って雪駄姿でひときわ目立って人ごみの中をご出勤と見られる風に歩いていくのを何回か立ち止まってみた記憶だ。 中年男の、粋筋の着物姿に見とれたのはそれが初めてだった。 田舎で育っているので礼服の羽織、はかま、紋付は慣れていたがこの手の姿ははじめてだった。 それに、女性の着物姿は粋筋のものは見慣れてもいたのだから師匠の芸に誠に合った男の着物姿に感心したのだった。

それまで子供の頃から漫才、落語には家族そろって関心があったし、テレビのないころにはラジオで一家揃って宵のひと時を聞き耳を立ててこれらの演芸を楽しんでいた。 高校生になり学園紛争が始まる頃には専ら桂米朝の知的な芸に惹かれて、松鶴、春団治の語りを敬遠していたきらいがある。 それは今から考えてみると自分も幾分属している土着の浪速がなまなましかったからかもしれない。けれど小沢昭一の世界には惹かれていたのだから勝手なものだ。 

当時ラジオの若者向け深夜ラジオやテレビで人気を博していた仁鶴や三枝、それにつづく若手達では親、祖父母たちは満足できないと、その未熟な芸と媒体の中での短い時間のこまぎれ落語に見向きもせず、とうに消え果ていたゆっくりとした落語と浪花節をともに懐かしがり、相撲と同様、松鶴と春団治がでると老人たちはテレビの前に出てきていたものだ。

そのことがそれから40年近くたって同じことが私にも起こっている。 老人性のものなのか。 違う。それは大阪の市井の世界の話を今もっと聞きたいと思うからだ。 突拍子もないと思われるだろうが、今、徐々に洗練される黒人ブルースの世界に満足できないものの想いとも共通する感覚かもしれない。

もう一つの接近点は高校の同級生が卒業後落語家になり、師匠の門にはいったことである。 昔の角座でその知人のおひろめがあったときに友人達とそろって出かけた記憶がある。 その後、何年か経って終電車近くでたまたま乗り合わせたその知人から修行、仕事の様子を聞いたのだが、もともと実直なのだが地味で華がありそうもない人だったけれど落語が好きで高校では何かの折には一席みなの前で披露していたものがプロになってどうも水にあわないように見受けられ、その後、直接の原因は聞かなかったものの、じきにこの世界から離れたと誰かから聞いた。 年齢は鶴瓶の一つ上なのだが入門順序はどうかしらない。

この全集の第十巻に納められた天王寺まいりから4年後録音の「花色木綿」では少々テンポがゆるくなっているものの「天王寺、、」では軽快で歯切れのいい語りが聞けてうれしい。 天王寺の情景描写、説明も嬉しいものだし、浄土宗のお経も聞こえてくるのも一緒に唱えようともいう気持ちにもなり、うちの村人が亡くなれば必ず皆訪れる一心寺もすぐそこである。

そういえば昔、ラッパ、日佐丸の漫才で「天王寺の亀の池で亀、豆噛めまへんねん」と言うのを聞いて笑い転げたことをこの中で聞いて思い出した。 出典はここだったのだ。

松鶴を題材にした落語家の艶話を長門弘之か津川雅彦が映画にすると聞いたのはいつだったのだろうか。 見てみたい気がする。 大島渚の「日本春歌考」や伊丹十三の「お葬式」と比べられるのだろうか。

 








PERFUME パフューム(香水) ;見た映画 Jan. 07 (1)

2007年01月28日 11時06分13秒 | 見る
CAST:
JEAN-BAPTISTE GRENOUILLE - Ben Whishaw
GIUSEPPE BALDINI - Dustin Hoffman
RICHIS - Alan Rickman
LAURA - Rachel Hurd-Wood


Director: Tom Tykwer
Screenwriters: Tom Tykwer, Andrew Birkin and Bernd Eichinger
Based on the Novel By: Patrick Suskind
Producer: Bernd Eichinger
Director of Photography: Frank Griebe
Production Designer: Uli Hanisch
Editor: Alex Berner
Costume Designer: Pierre-Yves Gayraud
Composer: Tom Tykwer

MPAA RATING: R for aberrant behavior involving nudity, violence, sexuality, and disturbing images
RELEASE DATE: December 27, 2006


息子も娘も週末の夜にそれぞれ朝帰りになる遊びにそれぞれ友達達と出かけたあと家に妻と二人になったときに妻の口から今夜町の名画座にこの映画がかかっているから見に行かないかと誘いがあり長らく映画館に足を運んでいなかったことも、と、いっても去年の夏チェコの田舎の野外映画館で暗くなるのを待って蝙蝠がひとしきり飛び交った後の、20人余りがちりじりバラバラとそれぞれ遠くかたまってだだっ広い教会とその裏の墓場に続く野外映画館で家族一同粗末なプラスチック椅子に座ってチェコ語の字幕で上映された「メモリー オブ ゲイシャ」を見て以来だなあと気付いたのだ った。

もう10年以上も前この原作の事は既存の歴史・思想史を戦後フランスの学者が感覚、それも、その場で人の感覚を刺激しては消え去る性格の「匂い」を基に再構築しようという百科全書派の系統をもつものを歴史学の中に組み込もうとした考え方を、さすがフランス人だと面白いとも思い、その系譜の小説家が小説としてものしたと聞き及んでいたのだが、ベストセラーになったこともありそのうちに読もうとのびのびにしておいて何年か前のスカンジナビアの夏休みの折にペーパーバックで読んで面白いと思ったものの幾つかの物足りなさと匂いを言葉で表現してそれを想像力で膨らませられる試みをおもしろいと思ったものだ。 18世紀のパリから中央高地、それにグラッセが舞台になるのも想像を刺激して面白いとおもった。

で、もう読んだ記憶はかなり薄れていたのだが、何ヶ月か前に読むものを探していた家人に英訳のこの本を勧めたのが今回の彼女からの誘いとなっていたし、彼女には読後の印象もまだ新しいものの、私には大まかな記憶はあるけれどこの物語の匂いも干からびた花の香りほど微かになっており、匂いにかかわる物語をどのように映画に表現するのかというところに興味があり彼女の誘いに乗った。

それにミクシというインターネットサイトの映画ファンのあいだでアラン・リックマンがこの映画でなにか演じるらしいということを大分前に聞いたことでもあり、大分前にオーストラリアを舞台にした西部劇でトム・セリック主役で、まあ、シャープというライフル銃がしゅやくなのだけれど、その中で悪役を、またエマ・トンプソンが監督、出演したジェーン・オースチン原作のコスチューム映画でも短いなもがら好演したこの男優がこの物語をどのように演じるかも楽しみだったのだ。

原作を読んではこの何年もの間にバカンスで過したフランスの18世紀の風景がどのように画になるのかが興味の的だった。 パリの風景にはあまり期待はなかったし、別段それはあまり問題にはならないが、景色に関しては結果として相対的に日本で時代劇を撮ったようなところもあったがしかしいまだ古いものが残るところを縫って撮影し、足りないところはコンピューターグラフィックスを適当に処理して張り付けたものを見ることとなる。 「メモリーオブゲイシャ」でも京都のCGがあったが京都とは一言も発せられなかった。 そのなかではミヤコといわれていたけれど、それでも綾部、大阪は近郊の町としてはっきりと出ていたのだから妙な事をするものだとその腰の引けかたに怪訝な思いがしたものだ。 原作自体が腰の引けた作家のものだったのだろう。 「香水」のなかの背景、街の景色ではCGもやはりそれとはっきりわかるようにできているのだが、はたしてどれぐらい正確に再現されているのか眉といわれる恐れもなくはない。

ま、もともと超人の欠落物語であるのだからファンタジーだという言い訳も当を得ていないわけではない。 ここでもおいしい役を得たダスティン”真夜中のカウボーイ、卒業、マラソンマン”ホフマンの住まいする住居はイタリア、フィレンツェの橋上住宅のようにみえ、それに輪をかけた大きさだったが、その向こうにもいくつか同じような橋が描かれていたようだ。 18世紀にはイタリアの影響からかそういうものがあったのか、ま、ホフマンの役がイタリア名の香水商だからでもないのだろうけれどどこか腑に落ちない。 

今日のオランダメデイアについてテレビのトークショーで若手の映画監督が言っていたが、原作の方がたいていの場合はいいに決まっている、想像力に対する映像の力には限度がある、ということには私も賛成である。 けれどある場合には映像の力はあなどれない。 原作でもそうだが初めの主人公誕生のあたり、それからパリの日常の様子。 再現されれば目の保養になるのだがそれもゆったりと楽しめるものならばいいのだが何せ精々長くて2時間の制約に物語を納めなければならない商業上の定めのゆえにストリーを追う速度が性急に感じることが多いのだけれど、超人の鼻が追う獲物をカメラが早送りする効果は面白くこれは今風のコマーシャルやMTVなどのヴィデオクリップにも多用されるもので中年以上の観客からは苦笑が出ていた。 

抽象的な中央高地での主人公の隠遁部分は原作でも作者が形而上学的にすぎるという批判を受けても不思議ではないがそこは映像の部分ではほとんど表現されずさらりとナレーターの説明でおわったのだが、さいごの盛り上がりの処刑の場での原作では納得が出来たものの、じっさい1000人近い?オージーが繰り広がられ、それから醒めるところではあまりの画一的なマスゲームに鼻白んだものだ。 そこで急に、これは60年代のヒッピーのロックフェスティバルや大量の人を裸にして写真に収めるフォトグラファーが幾つも発表しているのを見たことに想いが及び笑い出してしまった。 予期せぬ効果だったのだが、フランス映画ならもう少し微妙な味付けがされたのではないか。

話の種類は違うがフェルメールの絵を題材にした「真珠の少女」と共通した映像の美しさで見せる部分が大きいがCGの瑕疵が軍配を真珠、、に向かわせるようだ。

助演のホフマンは言うに及ばず、特にアラン・リックマンはこれからもっと円熟した演技をみせるにちがいない。 主役の英国人の若者の英語の訛はこの役の生い立ち、フランス語には対応しないのではないか。 当時の下層階級の英語は彼のような整ったものではなかったはずだ。 キャスティングではアメリカ映画でもこれを指摘したものがいなかったのか、これではアメリカの大味、といわれても言い訳はたたないだろう。

行く年来る年

2007年01月28日 10時37分05秒 | 日常
時間の経つのが誠に速い、と感じるのか、様々なことが起こり、また、頭に色々な思いが去来し駆け抜けることの多いことがそう感じさせるのかは定かでないものの、ともかくも周りに色々なことが起こっている、ということだろうか。 それとも、その動きに頭の回転が鈍っていて今までのテンポについていけずそれが相対的に速いと感じさせるのか。 人間も限りある機械であるから磨耗、劣化する事はあるのが当然である。

しかし、それは今急にに始まったことではないのだけれど今の時期、暮れから新年にかけて日常が少し途切れて、今では異国となりそうな故郷に帰省し、長いとはいえないままも幾分かは山道を家族と歩き、温泉にも浸り家族、知人とも再会して、来たる4,5年の算段も少しは頭に入れておくということをしオランダに戻ってからも今更、日本とこちらの時間の動きの速度と静けさの違いを再確認したのにでもあるのだから如何。

この数日間で起こった驚きは従姉の息子からメールが入り、彼の叔父が心臓の発作で急死したことが知らされすぐに老母に電話すると時差のこともあるけれど日本海側の温泉町に蟹喰い旅行にでかけて帰宅したところで却ってこのニュースが何故こちらに早く伝わったのか疎ましがられたものだった。 私の叔父と亡くなった人とは村の小中学の同級生でもありそれがのち私の叔父の姉の結婚で義兄弟になったような典型的な昔の村の親戚関係であるのだが、それでも私の一回り以上の年上でもあり、この年代の人々はもう皆、大きな孫を何人も持つような歳になっている。 私の年代でさえ女は勿論のこと、おとこでももう孫を持つのは不思議ではなくなっている。 

実際、暮れには故人の本家の餅つきで一日中、みながあつまり大家族の分を交代で30臼足らずつききるのだが、それに三年ぶりに言葉が不自由なものを三人も加えて出かけ私の従姉妹たちが孫達を廻りに纏わりつかせて、三年前に大人数の中で子供は勿論、従姉の子供達とその連れ合いをもしっかり思い出すことさえ難しかったのだったが、そんな中で30代の中頃の者達がそろそろと家族の中心になっていて70代以上が少しづつ家族の景色から後ろに退いているようにも感じたものだ。 けれど80近くなったものも充分健在であり、故人も少々の顔色の悪さと肥満はあるもののそれは私の叔父叔母の年頃にはもう普通のものであり誰しも持病の一つや二つは抱えていて日頃の話の中心になる日常でもある。

故人に関してはうすうすと心臓の事は聞いていたもののそれほど差し迫ったことのようには見えていなかったし今回でも格別なこととは見えなかった。 この人とは特別に話し込むということは他の叔父叔母達と同様になかったものの小さいときから家族の風景の中には必ずあった。 最近の特別な印象というと、もう15年以上も前、まだ新空港が出来ていないときにやはりこのように暮から正月にかけて帰省したあと伊丹空港から帰路に着く我々夫婦とまだ三つ四つの息子を車で1時間以上かけて送ってくれ、別れのゲートで急にその近くの店からパディントンベアの熊のぬいぐるみを買って小さい息子のに突き出してプレゼントしてくれたことであり、まだ記憶に新しい。 その熊も家のどこかにまだ眠っているはずだ。 そのとき、その人の一面をみたようなきもするし保育所の園長という仕事柄でもあったのかもしれない。

その息子も今晩は友達何人かを家に呼び、何日か前の誕生日のパーティーを週末の今日に持ち越して母親と共同で料理した特製ハンバーガーとポテトチップスを皆に振る舞いビールで胃に納め、ひとしきり久しぶりに集まった友達達とわいわい歓談した後、その若者同士が若者の熱気で一緒に連れ立ってアムステルダムの街に出かけ朝帰りするようになるのだから熊のぬいぐるみを持ち、帰りの飛行機の中で家人の作ったスーパーマンの赤いパンツに青い肌着、赤いマントをひらひらさせて熊を抱えてトコトコとジャンボジェットの長い通路を走り回ってはその人目を引く衣装のおかげで旅の疲れで眠る乗客のなかを走り回る子供のうっとおしさを少しは和ませたたことがあったと今回そのような年頃の子供が走り回る後を付いて廻る青い眼の母親を見かけたときにふとその頃のことを思い出したものだった。 メールをよこした従姉の息子の生まれたての息子も後二、三年すればそのような子供になる。  

やっと正月気分になってきた

2007年01月25日 10時42分32秒 | 日常


待ちかねた寒さがやっとのことで訪れた。 仕事始めででかけた事務所から帰って角の税理士の電光掲示板に15:35、 1℃と出ていて、今日昼の出かけにいよいよ防寒コートに手袋をはめ、袖や首の周りを閉じるようにして霜の降りた道を自転車で走ったのだった。

この防寒コートにしてもかなりの重さがあり極地で使われる物でもあるらしいスカンジナビアからの到来物であるのだが、帰省の折、正月の熊野古道ウォーキングの為にわざわざ持って行ったのだが使うチャンスはほとんどなくバックパックの上に羽織ってほとんど持ち歩いたという格好だったのだが今日やっと出番が来て少々身が引き締まるようだ。

一月もほぼ終わりに近づいて言うのも何なのだが正月が来たという気分だ。 麗らかな元旦はともかくとして七草も過ぎればきりりと霜も降りて寒さもなければ何か褌の緩んだ相撲とりの待機風景のようだ。 大寒、節分ときりきりと温度が下がりそのうちマイナス10度程度の日が十日ほど続けば久しぶりに40cmほどの厚さに近所の公園の溝や運河が凍ってそこでスケートを楽しむことができるのだが。

私の育った農家では昔は旧の正月も祝ったものだから今日はこの寒さに惹かれて今まで取っておいた、松の内に日本の旅館で見た飾りを掲げて来る小正月にそなえることにしよう。

あと2週間あまりで節分となり私の地方では柊といわしの焼き物のまるごと喰いと巻き寿司を頬張って恵方を眺め馬鹿笑いをする習慣があるのだが、今年の恵方は北北西だと2週間ほど前にみた日本の寿司屋のポスターで知ったのだった。 恵方というのは分かるが、私の子供の頃はなにか皇居の方向を向いて、、、、、だったように記憶するが誤りだったのだろうか。 神聖なもの建前の神に向かって行儀悪く立ち食いのマルかじり、その上に馬鹿笑い、というのが気に入っていた。

新年会

2007年01月24日 12時52分28秒 | 日常
オランダに長く住んでいると時々在留邦人が集まる催物のお誘いが来る。 先週もオランダ日本商工会議所と在蘭日本大使館主宰の新年会がアムステルダムのオークラホテルの大広間に300人ほどの日本人、オランダ人を集めて2007年度の新年会が行われ、それに出かけた。

目的は二つ。 人を眺めにいくのと日本食、洋食を楽しむことである。 日頃まとめて日本人に会うことのない生活をしていると、いちどきに日本人の群れの中に入ることがないのでこういう場で着飾った日本人男女を眺めたいという興味本位と和洋の旨いものにありつきたいというこれも興味本位の二人三脚である。

定刻7時を廻って招待客が一同揃ったところで駐蘭日本全権大使の挨拶の後、商工会議所会頭の年頭の挨拶及び年次報告があり、皇太子妃の父君である国際司法裁判官がウイットの効いたスピーチとそれぞれ皆、達者な英語で話したあと、オランダ日本担当高官を交えて日本酒大樽の鏡開きをしたあとそれまで待ちかねた者も多い来客がそれぞれ山海の珍味が盛り付けられた沢山のテーブルを巡り、皿、椀、丼、グラスを手に新旧の知り合いと歓談、名刺や情報の交換の場となる。

人とはあまり接したくない、とそれまで招かれていたものを出かけなかったのが何かの折に、ふとこれでは出不足、日本人社会から取り残される、と腰を持ち上げて、日本食が食べられると無邪気に喜ぶ家人を連れて出るようになったのがほぼ10年前だったろうか。 そのころは時々ベビーシッターを頼んで子供たちとも離れ、夜には夫婦で出かけることをし始めた頃だったかもしれない。 友達のパーティー、映画、レストランと日頃の家事から一息をつきたい家人と連れ立ってでかけるようにしていた。
 
勿論二人だけで出かける事は楽しいことばかりではなく知人、親戚の弔いごとにも出かけることも増えだしていた。 この数年でも家人の縁故の叔父、叔母が何人も物故しているのでそれまで長く付き合ってきた家族、知人のお通夜、葬儀にも二人で出席することとなる。

まら、一般に午後6時を廻って多くの人と交わるという場合には夫婦、もしくはパートナー、それが出来なければ家族の代理の男女のペアということが普通でもある。 この日の日本人、オランダ人共の男女比は男75%女25%というところか。 多分仕事関係が多いということなのだろう。 10年来以上の知り合いは少数派でこれだけ日本人が集まるとなると顔見知りが少なくなるというのは一面、その分、珍味を漁る我々が邪魔されないということになるのでそれはそれで都合がいい。 でなければ話に夢中になっているとカチンや身欠き鰊の蕎麦がなくなるし、寿司のタネがきれる、神戸肉のステーキが失せ、デザートのめぼしいものが銀皿を残して溶け消えることとなり、30代の日本人ビジネスマンたちの機敏な口、胃にサラワレテしまう結果となりかねない。

こういう場で初めて日頃あまり接することのない和服の美しさも眼のご馳走とも成りブイヤベースの海の幸を口にするのを見とれて一瞬休めさせるほど日本女性が纏う着物の色彩、意匠に意識が向かうのだが時折みかける日本人男性の羽織の着物姿には魅かれないのはどういうわけなのだろうかとこの何年か考えるのだが、それは多分、自分が男性だからかという単純なことしかシャンペンと日本酒が半々に混ざった頭には他の答えが思い浮かばない。

果物のアイスクリーム各種にコーヒーと様々な手の込んだミニケーキをを腹に納めているとあらかたの客は潮の引いたように消えており我々も知人と一緒に接待の主催者に挨拶をして次には互いの道楽、ジャズライブのクラブで何ヶ月ぶりかでゆっくり会う事を約して正月の夜にしては生暖かい10時の首都から家路についたのだった。




ブログの書き込み初め ’07

2007年01月22日 10時18分15秒 | 日常
3週間弱の日本帰省旅行から戻って一週間程ぼやっと過していた。 それはジャットラグで日本で慣れた健康的な生活、7時に起きて12時前には就寝するというような習慣がジェットラグに重なってまだ続いていたからでもある。 それがこの2日ほどで悪しき旧習に戻ったからやっとこれを書く気になったのだ。

自分の習慣では草木も眠る丑三つ時にこのようなことをウダウダとキーボードに叩きつけている毎日だったのだけれどそれができなくていろいろ頭の中に浮かぶことがあったものの延び延びになっていた。 それに何かと忙しいバタバタ旅行で頭の鈍った頭脳では覚えきれないこともあるから毎回のヴァカンスには続けているメモ代わりの、その日あったことを書きとめている日記もあるからまあ何時でも書けるからいいわ、ということもあった。

それにしても日本の暮れから新年にかけては暖かかった。 それは戻る途中のルフトハンザのエアバスの地上1万メートルから見下ろすシベリアの景色からもいえることで、3,4年おきに帰る窓からは大抵、白一色の中に人口の線が見えるばかりだったのが今回には濃いねずみ色の大地やそれに重なるうねった河川がみえたのだから。

実際、帰省中に雨にだったのが二日歩いた熊野古道の一日半と小糠雨が一日ほど、神戸の友人の墓に拝って港に停泊する船を見ながらの精進落としのレストランの窓から眺めた淡雪はあったもののそれも積もるほどの事はなかったし、一月も半ばになって戻ったオランダに広がる牧場もこの時期には見られないほど草が青々していたこと飛ぶ鳥の多いことからも、また、ここも暖かかったのだなと確認できる。

庭に住み着いたクロウタ鳥が赤い実を啄みに来るのを眺めながらそろそろ休みボケも冷まさなければいけないのかなと、、は、、思ったもののまだ実行には移る気はない。