暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

春の嵐かな

2015年03月31日 22時47分20秒 | 日常

 

この何日か天候が優れない。 風が吹き雨が窓を叩きつけるかと思うと次には晴れている。 

朝起きると陽が射していた。 ゆっくり朝食を摂りながら本を読みまだ陽が射していたので歩いてプジョーのガレージに修理に出してあった車を取りに行くべく帰省中ずっと使っていたウォーキングシューズを履きデイパックにプールに行くときのもの一式を詰めてそれを背に負い歩き出した。 ガレージまで丁度1kmでプールはそこから500mほどのところにある。 家を出て300mほど舗道を歩いているとカラスが二羽舗道の何かを啄んでいる。 近づいても逃げずほんの1mほどのところに来るとちょんちょんと跳ねてわきに退きそれでも1mほどの距離を保っている。 物怖じない鳥だ。 近所の猫でも逃げる距離である。 よっぽど執着するものがあったのだろう。 左足の膝が治ってきている兆しはあるものの痛みがあるので昨晩のフィットネスは行かなかった。 1km歩いてそのあとクロールで500mを3本泳ぐ予定をしているけれど今日は大事をとってゆっくりゆっくり泳ぐつもりをしている。 

ガレージで修理代を払いこみ鍵を受け取って2週間ぶりに運転席に座りプールの駐車場まで来たらリムジンバスが着き、そこから15人ほどの精神薄弱者たちとほぼ同数の付き添いが降りてきた。 プールの一番静かな時を選んで水遊びに来ているのだ。 

年齢は30歳から60歳ほどまでの精神薄弱者たちのなかには身体障害を含むものもいて彼らが水に入るときは3,4人の付き添いを除いてはかなりの付き添いが一緒に水に入るのだが様々な介護器具・道具を使うから時には山の吊り橋で物を運ぶような景観になるときがある。 そのようにして水に入れたり出したりするのだ。 必ず毎回誰か興奮して奇声を挙げるものがいるのだが彼らは皆成人であるから子供たちの奇声に比べて張りがあって腹の底から出たような響もあり初めてそんな声を聞いたときには驚くかもしれないが殆ど毎週同じようなメンバーを見ていれば慣れもするものの、それでも突然近くで叫ばれればびっくりするのは確かだ。 まともに泳ぐものはほとんどおらず浮き輪につかまってプカプカ浮いているもの、水の中を歩き回るもの、金属の手すりにつかまってプールの縁を見つめながらただ水の中に佇むものなど様々だ。 湾曲して川のように流れる子供用のプールは人気があってそこで遊ぶものが多い。 自分はプールのコースを行ったり来たり泳ぐときは耳栓をしているのでそんな歓声も聞こえずそのうち1時間もしたら彼らの姿も消えている。 500m泳いでは上がってサウナで10分ほど座るというのを繰り返すのだがそんなとき時々薄弱度の低いものが来ることがある。 それでもサウナの入口まで介護人が来て一人サウナで静かに座っているのだがほどなくすると介護人が呼びに来て出ていくという具合だ。 

今日は彼らのほかには6,7人しかおらず静かなプールだった。 知り合いの監視員に日本に行ってきたと言ったら自分も死ぬまでに一度は日本に行きたいと言った。 

プールに2時間半ほどいる間に外が曇って吹きなぐりの雨がガラス窓を叩いていたのだが駐車場に来てみるともう晴れていた。 日差しは春なのだが気温が8℃ほどで寒い。

4時ごろ外に出て空を仰ぐと木々の間に月が出ていた。 ほぼ満月に近い。 写真に収め屋根裏部屋に戻りネットで遊んでいたらまた窓が強風に叩かれ雹の音がした。 春の嵐だろうか。 だから晩飯の食材を買いに吹き降りの中を外に出るのが億劫で冷蔵庫のなかにあるもので夕食にした。 食卓に座ったら空の半分が時雨れてあと半分にはあちこちに晴れ間が覗いていた。 こんな天気があと数日続くと天気予報は伝えている。


車が動かない

2015年03月30日 13時52分52秒 | 日常

 

土曜日に姑のところに出かけようと車をスタートさせようと思ったらかからない。 なぜか初めて聞くピンポンいう警告音が出つづけてそれを無視してイグニッション・キーを回していてもなんだか力がなく、バッテリーが上がっているようにも思えたから隣人に頼んでバッテリー同士をケーブルでつないでかけてみても駄目だった。 バッテリーでもないようだ。 2週間ほど前に車検を済ませたものの車検ではバッテリーは調べないかもしれない。 年末の24日にディナーの食材の魚を買いに行こうとして義弟の家の近くで止まってしまい往生したことがあり、その時はオランダ・ツーリング・クラブの巡回修理サービスに電話してきてもらいちょっと引っ張ってもらったらかかったのでそのままガレージまで自力で運転していったのだった。 そのときはスタート・モーターが壊れていたので新品に替えてなんとか事なきを得た。 そのときのことを下のように記している。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/64420902.html

そのときの経験があるし今回は土曜だからプジョーのガレージも開いていないのでそのままにしておき月曜に電話してレッカー車に来てもらって修理してもらおうということにした。 このガレージはもう10年以上使っており10月には重要部分の定期検診もしていた。 去年会社の名前は変わったものの全国規模のプジョー・ガレージであって働いているスタッフたちもそのままだから朝電話した時にこの前の領収書に書かれている番号に電話してこうこうだ、といえば、あなたの近くのガレージに繋ぎます、という。 この前の領収書の住所は近所のものなのに番号は中央センターのものでそこから再度近所のプジョー・ガレージに繋ぐようだ。 しばらく待っていると普通はBGMの音楽が流れてくるのがそれではなく、電話の奥で延々と特典、サービス、金融、新車試乗会などの情報が鳴り続けウンザリする。  これが手なのだ。 やっと近所のガレージにつながり事情を話すとそれではプジョーのレッカー車の手配をするサービスセンターにおかけくださいといって電話番号を言われた。 おかしいな、すぐそのセンターにそちらから繋げばいいものを、と訝りながらも再度電話すると、こちらには先ほどガレージから報告のあったお宅様の車のナンバーは登録されておりませんのでサービスはできません、と木で鼻を括ったような言い方をするので頭に来て、今まではガレージに電話すればすぐ来て引っ張って行ったじゃないかどうなってるのだ、というとそれは以前の会社ではそういうことはあったかもしれませんが今はこのようなサービスは特別会員になって頂いた方だけに、、、、というところまで聞いて電話を切った。  

そういえば2か月おきぐらいにいろいろなジャンクメールが来る中でこのガレージの特典だの季節の点検などいろいろ言って来ていたものを全部ゴミ箱に捨てていたのだがその中にそういう誘いがあったのだ。 それを読んでいても別段会員になるつもりもなかったのだがその祟りがこれだったのだ。 もう一度振出しに戻り中央センターから近所のガレージに繋げて先ほどの顛末をいうと、ああ、契約してなかったんですね、じゃあ、有料になりますがといって受付のおばさんが言いレッカー会社に連絡し、1時間以内に行きますから、ということになった。 

45分ほどして玄関のチャイムが鳴り、黄色い作業服を着た若い鈍重な男が来て、話は聞いたけどひょっとしてガレージまで持って行かなくとも直るかも知れないからもしここで直ったら規定の運賃の半分と35ユーロでいいよ、というので、じゃやってみてくれと言って任せた。 その男はターボチャージのついたバッテリーをとりだしてボンネットを開け隣人が土曜にしたのとおなじようにやってみるけれどかからない。 ただ隣人のバッテリーよりは強力だからこちらのエンジンも廻ろうとしている気配はあるけれどそれでもかからない。 吸気穴に揮発性のスプレーを吹き込んで湿ったエンジンをかけるときのようにやっても駄目だ。 それは思ったとおりだったのだがそれは言わずだまって見ていると、やっぱりだめですね、ガレージまでもっていかないとだめなようですね、と言って現金でお願いします、108ユーロですと言った。 電話で聞いた運賃が8ユーロだというのでえらく安いな、と思っていたら100がよく聴こえなかったのだ。 1kmほどのところへ壊れた車を持って行くタクシー運賃が12000円ほどなのだ。 やれやれ。

晩飯を何にしようかと考えつつ公園のそばをのったりと自転車を漕いでいた。 日本に帰省する前から痛んでいた左足の膝が日本でかなり歩いてからまた痛んでいたのがやっと昨日ぐらいから治りはじめる気配を見せているじけれど用心してゆっくり自転車を漕いでいる。 今日はオランダに戻ってから初めて陽が射して空のあちこちに青空が覗いているのだがうすら寒い。 8時のニュースでは今日は日中9℃だったと言っていた。 明日はまだ下がって8℃らしい。 これが夜間の最低気温なら分からなくもないのだが日中最高気温がこれである。 ここでもやれやれだ。

日差しは春ながら気温はまだ春に来ていないそんなところを巡っていたらポケットの携帯が鳴った。 調べた結果、バッテリーが壊れてますな、もうだめです、新車以来もう8年使っているようですから寿命ですね、どうします? 160ユーロになります、いいですか? 5時にはできていますから、、、、そうですか、明日の朝取りにいらっしゃる、はい、じゃお待ちしています、というような具合で電話を切った。 車のタクシー代とバッテリー交換代で32000円か、やれやれ。


また夏時間になった

2015年03月29日 15時46分35秒 | 日常

2015年 3月 29日 (日)

土曜の夜、テレビガイドで深夜映画の番組表を見ていたら映画が終わる時間のところに「夏時間に変更、終了時間に注意」と書かれていて、へえ、もうまた夏時間になるのかと思った。 世間が一番静かな時間、土曜の深夜2時に針を1時間進めて3時にする。 昔はこんな夏冬時間に変わるときには家中の時計の針を進めたり遅くしたりしたものだ。 今ではかなりの機器が賢くなって自動的に変更されるものの我が家ではまだかなりの機器がそのまま冬時間のままで変えるのが面倒だから放っておくと家人や子供たちが各自勝手に調整している。 夜中まで起きていて2時になったときキッチンでラジオの音楽を聴いていたら第一声が「午前3時になりました。 今日のニュースです、、、、、」というのが聞こえてきてこの日は2時が消えていた。 そうして自分の腕時計の長針を1時間進めたのだが翌日の睡眠時間がこれで1時間短縮されるわけだ。 けれど日曜の朝だから学校や仕事に出なくてもいい者が多いし別段大きな支障もでるわけではなく、日曜1日で何とか頭の整理をつけるということになる。 毎年世間では普通に、夏時間になると睡眠時間が1時間短くなる、なり、冬時間になるときには1時間余分に寝られる、などと言うのだが実際そんなものはその時だけのことでその日の夜にはもう皆そういうことを忘れて日常に戻っている。 それがルーティーンだ。 そうすると、今日から秋の10月の中ごろまでは日本との時差が8時間から7時間に短縮される。 今までオランダの午後4時に日本では日付が変わっていたものがこちらの午後5時にあちらでは0時になるというわけだ。 そんなことは今更言うこともないのだが時間の変更を肌で実感するのが日暮れの時間だ。

夕食時に晴れていれば今は6時半を回って7時ごろまでは電燈を点けずとも外光で支障なく、やがて4月から5月にもなると裏庭で夕食を採れるようになるのだからそれも太陽が戻っている証拠なのだ。 このあいだの彼岸の中日が昼夜のバランスが変わるときでこれ以後は目に見えて徐々に陽がながく、日暮れが遅くなっていくというのも当たり前のことだ。 

けれど、そうは言ってもそれも雲のない夕方であれば言えることで、風が吹き鉛色の雲に覆われた空から雨がガラス戸を叩きつけるような今日、冬が戻ったようなこの2日ほど日中11℃ほどの日が続いていれば夏時間と聞いてもなんだかまだ早いような気もして夏時間という言葉だけでは心は踊らない。  だからこの2日ほどは外にも出ないで屋根裏の窓からそんな春の嵐を眺めながらあれやこれやと思いをあちこちに巡らしているという次第だ。

 


この間歩いた15kmほどを自転車でのんびり走った

2015年03月28日 12時13分33秒 | 日常

 

2015年 3月 27日 (金)

慌ただしく日本から戻って一息ついた。 戻った日は疲れていたのか夕食後すぐに就寝し翌朝までぐっすり眠った。 5月の末に家族一同の誕生会と自分の定年の記念を兼ねてちょっと大きなパーティーをしようと計画していてその会場を近くの自然公園内にあるパヴィリオンを日曜午後に借り切ってやりたいと思っていたものを実際に実行するのにそこの接客係と話をしてどのようにするか詰める約束をしてあったので家人とそこに自転車で出かけた。 ことはスムーズに行き、細かいことはまたおいおい詰めるとして1時間半ほどで話を終えて外に出ると曇っていたものの雨は降っていなかったからそこから更に高速の近くで地元の農家で作ったチーズを販売する店に向かった。 毎日朝食に摂るトリュフ入りのチーズがもうなくなっていたから買うためだ。 顔見知りの店の女性からイースターの土曜日に近郷の酪農農家がここに集まってそれぞれのチーズの品評会をすることになったのでどうかと誘われた。 今年はそのうちの一軒がオランダチーズ品評会で金賞を取ったこともあって盛り上がっているのだそうだ。 

ここまでのルートとその後のルートは2月の中ごろに歩いたルートと全く同じもので、その時のことは下のように記している。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/64495611.html

牧草地を分けてまっすぐ吹きさらしの中を走る道がいくつかあるのだが風が少しあると思ったのが走っているとまったく風を感じず、おまけに踏んでいるペダルも軽いので7段変速の7段目まで上げて早くしても足には負担が殆どかからないのでまるで電動自転車に乗っているような感じだった。 電動自転車には乗ったことはないのだがこのところ長い距離を歩いていると時々老人がちょっと老人にしては信じがたスピードで自転車を走らせている光景に遭遇することがあって、自分が今走っている速度がそうだったからこれは電動のスピードだと思ったのだった。 その後ライン川に平行に走るとなると向かい風となり、7から3、2まで落とさなければならないことにもなったけれどその距離はしれていたので疲れはなかった。

平日の昼だからかこの間一杯だった大きなスポーツ用品店は客が殆どいなく4月の末から5月にかけて歩くフランス南部の徒歩旅行に向けて上着に脱着簡単な雨具のズボン、半登山靴を時間をかけて試すことができた。 完全には満足していないのでまだそこでは買わず次の参考にする。 家の近くまで戻り運河の向うの小さなスーパーで牛乳を1パック買って帰宅した。

夕食後8時のニュースで見たことを記す。

1)  スランス南部で落ちたドイツの飛行機はヴォイス・レコーダーの解析の結果、副操縦士が機長をコックピットから出したあと意図して山に衝突させたということが分かった。 外からドンドンドアを叩いて中に入れろというやりとりとともに衝突寸前には乗客の叫び声が記録されていた、というのが昨日までのニュースだ。 実際、このニュースを聞いたのは日本の旅館で見たニュースでだった。 そのとき現在頻発するISに関するテロの可能性はとても低い、と言っていたことに妙だと思っていたもののその根拠が示されておらずドイツ在住の日本人2名が含まれていることも発表されていた。  今日のニュースはその副操縦士の動機はともかく家宅捜査の結果、墜落した当日の日付の精神科医師の診断書が発見され、そのなかで仕事を継続することが不適格であると判定したこの診断書が破られて捨てられていたことだ。 前日までのルフトハンザの発表では健康診断、精神鑑定では何ら異常はなく健康であったと発表されているからこの新事実には関係者が動揺しているのが明らかに見て取れた。 個人でカウンセリングを受けていたようでこれは航空会社とは関係がなければ会社としても仕方がなく、医師としても本人の社会的責任を考慮しても個人情報の伝達に関してそのあたりの取り扱いには問題があるようで当分の間会社側が詳細で頻繁な精神鑑定を行うとしてもこのようなことは避けられるのかどうか疑問ではある。 たとえば日頃銃を扱う自分にしても去年から家族、知人、射撃クラブのメンバーが署名する同意書には本人の精神状態、および社会的適格性を問う項目があるのだがだれもこれが事故の予防の根本的なものとなるとは考えていないようだし司法当局にしても付け焼刃的な対策でしかないことは分かっているはずだ。 こういうことは起こるときには起こるし100%予防することなどはできない。 ただコックピットに一人になり犯行に及んだということからこれからは一人にさせない、常時2人以上いる、という規則を作ったようだ。 考えてみればオート・パイロットが導入されたとき人員、それにともなう費用削減が目的で当時削られたのは機関士と呼ばれていた計器統括のクルーではなかったか。 常時二人コックピットに居らせるということであれば必ずしももう一人必要なわけでもなく、それは誰も外に出なければそれでいいわけだ。 そういうことができるのかどうか。 映画であるように二人いるとしても悪意を持った一人がもう一人と争って犯行に及ぶというシナリオも考えられるわけで、それならやはり3人か、と言ってももし悪意のクルーが計画的に、、、、となればきりがない。 テロの脅威があるところに内部からこのようなことが起こるのだから、、、、。 そんな中、飛行機に乗って日本からオランダに戻ってきたのだがそういうことは自分の身には起こらないと思っているふしがある。 けれど起こりうるのだ。 この30年以上日本とヨーロッパを何度も行ったり来たりしたし他の場所にも飛行機を使って行き来している。 けれど何の問題もなくここまできて今回が初めて霧のためにパリまでの便がキャンセルになったという経験をしている。 

2)  オランダの歴史始まって以来の大停電が今日あったのだと報じられた。 スキポール空港、アムステルダム、ユトレヒトを含む北ホランダ州、フレボランド州が午前中数時間完全に停電し、空港、鉄道、企業、各家庭の機能が停止した。 原因は電力配備会社の基幹送電ステーションの保安点検修理の際にショートが起こり基幹ラインであったためダメージを分散させることができなく無残なことになったのだという。 なんとお粗末なことか。 ニュースでこの責任をどうとるのか会社の責任者がテレビで訊かれ、今回の出来事は人的過失ではないので定款にあるように会社は何ら責任を負う義務がないと言って顰蹙をかっていた。 何百万人に被害を負わせて蛙の面に小便である。 けれど保安責任は免れないだろう。 この出来事で露呈したのは、もし悪意を持ったテロリストが国土の何パーセントかを機能停止にできることの容易さであり、いわれているように飛行機で原子力発電所に突撃するようなドラマチックなことをしなくとも基幹電力供給ステーションなどに簡単に入り込めば赤子の手をひねるようなものなのだ。  

3)  国有ABN銀行の役員給与が1億円以上増額されることで財務大臣と銀行の筆頭役員が戦争状態だと報じられていた。 何年か前オランダ最大のABN銀行が外国銀行の資本に下りそうな危機、および金融危機のあおりで経営危機に陥りそうになったとき国営化された。 つまり筆頭株主は国民であるのであるけれど実質経営は経営者たちにゆだねられている。 経営者および首脳の経営により利益を挙げそれにより経営者・首脳たちがそれにたいする報酬を受け取るのはあたりまえの話である。 しかし事はこの何年もの間金融危機を潜り抜けそのなかで経営者たちのやり方・モラルが批判の的にさらされているなかであるから経営トップの給料に加えて年俸1億円以上嵩上げすることの是非が問われているのだ。 報道では他の銀行では普通のことであり国営化、株式上場のこともあるから役員報酬は他銀行より抑えていて今期の業績が上向いているので役員会議で決定したのだということだ。 企業の行動としては何ら法律に抵触することはない。 報酬を受けるのは筆頭役員でありこの人物は保守党で数年財務大臣を務め天下りしてABM銀行の筆頭役員に落ち着いたやり手である。 現在のオランダ財務大臣は労働党から財務大臣となり手腕を買われてヨーロッパ共同体の財務大臣ともいうべき地位にありギリシャ、スペイン、ポルトガル、イタリアなどの財務危機に対して厳しい政策を打ち出している人物であるから今回の自国の元財務大臣、いわば自分の先輩が受け取る報酬に対して快く思っていないことは確かで、国有銀行であるから財務大臣の影響下にあることは確かではあるけれど法律上は手が出せないというジレンマがある。 だからモラルを持ち出しこれを止めようとしているのだがこの銀行が近々株式上場を行う計画があることでこれに対して歯止めを打とうとしているようだ。 金融部門での役員報酬問題はあくまで国民感情をもとにしたモラルの問題にして論じられるものの資本主義体制の中では避けられないものだろう。 一国の首相の職務報酬が企業の役員報酬よりはるかに低いということをどう見るのか、ということが語られてからもう大分になる。 日本では家具屋の内紛が株主総会で決着をつける事態になったということが報じられているけれどこちらの新旧大臣経験者が争う出来事はもっと基本的な問題を含んでいるように思う。

 


日本帰省旅 '15春(1) 再出発・インチョン空港まで

2015年03月27日 01時00分06秒 | 日常

 

慌ただしく先週水曜日の夜スキポール空港を出発した。 もともとは昼前にスキポール空港を出発、昼過ぎにパリのシャルル・ドゴール空港で乗り換えてこれら二つのエアー・フランス機で関西空港に木曜の朝着くはずが霧のためスキポールでパリ行きの便を昼過ぎまで待たされ、挙句の果てがキャンセルとなり、結局夜9時半のソウル・インチョン空港経由で関空行きのKLM便ということに変更され、だから6時間も待ち時間が有れば一旦帰宅してスーパーで買い物をし、食事を作りそれを済ませた後またスキポール空港にもどることになったのだがそこまでは前回に書いた。

スーツケースは既に空港内の保管倉庫に行っているので今度またスキポールに行く、というか戻ってくるのは身軽だった。 けれど通関のオランダ出国パスポート検査はもう一度同じことをしなければならずその時またパスポートを出すとオランダの滞在許可証の提示を必ず求められ、そこではまた係官から必ず何年住んでいるのかどこに住んでいるのかなどオランダ語で簡単な分かっていることを訊かれるのだが、今日ここで二回目だというと表情も変えずにぶっきらぼうにそうか、と言ってパスポートと搭乗券をこちらに戻す。 日本でもここでも笑顔を見せる係官を見たことがない。 その後ろでもう一度ボディーチェックの際にまたそのことを言うと係りのおばさん検査員がへえそうだったの、でもこの時間だったら混んでないからよかったじゃないの、と言ってにっこり笑いヨーロッパ圏外行きのゲートを指さされた。 朝入ってきたウイングは免税店が並んで華やかだったのがこちらは工事中でごみごみしていて何か昔の大阪駅の土産物屋が並んでいる薄汚く薄暗い感じの仮住まい店舗のようだった。 朝、土産物用に買ってあったちょっとした赤ワイン二本は家に持ち帰ったから再度ここで同じものをまた二本買って今度は本当の土産物にした。 もう一度同じものを免税で買えたのは朝のチケットが変更になって新しいチケットになったからだろうと思ったけれどそうでもないようでそれは出国だからだそうだ。 一週間後オランダに帰国した際またオランダ出発のときに買った免税店の前を通ったのでスコッチを一本買おうとしたらこれは入国の搭乗券チケットだからだめだと言われた。

パリ行がキャンセルになりそれでパリから日本に行くはずだった人があまりいるとは思えなかったのは変更のカウンターにぞろぞろと多くの他の便の乗客たちとならんでいるときに日本人と思われるような人が見えなかったからだ。 インチョン行のKLM機に乗り込むとほぼ満席で元々この便で日本に行く日本人もいたもののやはり韓国人が多く自分の隣も30前と思しき韓国人女性二人組だった。 ネットで予約したときに自分で席を選ぶのに経験的に通路側の席を選んであった。 けれど変更後のチケットの席は窓側で発券のときにこんな場合だから好きな座席を選べない、と混雑し雰囲気も幾分か殺伐な変更カウンターのオバサン係り員にそう言われていたから仕方がなく来たのだけれど隣の女性に英語でどこに行ってきたのかどこまで帰るのか訊いてもイタリア、というぐらいではかばかしい返事が返って来ず、もしよければ窓側の席を譲りますよ、と言っても返事はなかった。 分からないのか変わるのが嫌なのかそれが分からなかった。 昼にパリから飛んで関空に向かうのならそのうち夜になって外は見えないのだけれどこの場合はすぐ夜が明けて見晴らしが利くのだけれどいずれにせよヨーロッパ時間では夜だからそのうち一斉に窓を閉めて暗くし睡眠の体制に入るということを考えているのだろうかとも思ったけれど多分そこまでは考えていないのだろうし変わるのが嫌なのだろう、それにヨーロッパ疲れが出て彼女らはほぼ沈没寸前なのだろうとも取った。

晩飯にスパゲッティを作って喰っておいたからそろそろ寝酒を飲んで寝てしまおうと多めのスコッチを頼んでそれをちびちびやりながら目の前の画面で映画を見ていたところそのうち居眠りをしてしまい映画が2時間弱として気が付いたらその映画が終わっていたから1時間かそれ以上居眠っていたのだろう。 2時間以上だったかもしれない。 冷たいジュースか何かをもらおうと後ろの乗務員のキッチンまでノコノコ歩いて行く途中に一つか二つ自分の前に食事のトレーを置いた席が見えたのでトイレの前に立って待っている日本人らしい人に尋ねると少し前に暖かい食事を済ませたというので自分はそれには起こされなかったのだということに気が付いた。 別段腹も空いていなかったので何ともなかったがどんなものが出たのかぐらいは知りたかったけれどエコノミー・クラスの食事では飛ばされても大して惜しくはないと思った。 腹が減ればそのうちカップ麺か握り飯を頼めばいいだけの話だ。 結局そのあとトイレに行ったり足腰を伸ばすために歩き回ったりするのに寝ている韓国女性たちを起こして窓際の席から通路に出たのは2度ほどだった。 起こされるのはいいけれど人を起こすのが嫌だから通路側を選ぶのだけれど通路側の席を取れなかったのだからこの場合は仕方がない。 

韓国に来るはずではなかったの来てしまった。 この前韓国に来たのはもう23,4年前だったろうか、それは息子と二人里帰りしたときだった。 息子は3つぐらいだっただろうか、スーパーマンの格好をさせて青い上下に赤いパンツ、赤いマントをひらひらさせて赤い長靴姿で通路をあちこち走りまわっていた。 年末の便だったのにも関わらず空いていた。 あちこちで3席の間の肘掛を上にあげて横になっている人たちもいて自分たちもそんな風だった。 3席に自分と幼児の息子と二人というような具合でゆったりとしてその時はたまたま知り合いの大使館員も息子と同い年の娘と一緒に博多に帰省するところだというのと一緒になり、子供たちを一緒にどこかで遊ばせておいて我々はグラスを交わしては駄弁るというようななかなかのんびりしたものだった。 息子はスーパーマンの格好をしているので人は面白がりあちこちで遊んでもらってもいた。 あんなゆったりとした空の旅はその後したことはない。 その大韓航空機は金浦空港に着き、我々はそれから1時間ほどで伊丹空港に向けて飛んだけれど博多には6時間ほど待たなければ飛ばないのだという二人と別れたときには6時間というのはきついなあと思った。 そのときおとなしく色鉛筆で塗り絵をしていた幼女は今は女医になりスーパーマンの息子は会計士になっている。 あれから23,4年経った今、あのときの金浦空港の様子は何一つ覚えていない。 子供がいるから今のようにのんびりときょろきょろしながら歩きもできずただ通路の指示に従って子供に注意しつつ移動しただけなのだろう。 ただそれまで何回か往復している印象では金浦空港が新しかったのを覚えている。 それに直行便ではなく冷戦中であったからロシア上空を飛べずアラスカのアンカレッジ経由だったのだ。 息子をスーパーマンにしたのは家人の知恵で、だだっ広いアンカレッジの待合室で迷子になった時にはスーパーマンだったら誰にでもすぐ見つけられるから、という理由だった。 そんなことをこれまた新しいインチョン空港の広い待合室でコリアン・エアーの飛行機が発着するのを見ながら思い出していた。

今回初めの予定通り短くパリまで飛んで余力があるところで関空までの10時間ほど乗り、朝着くのとスキポールから韓国のインチョンまで10時間ちょっと乗って午後4時前に着き7時まで待って関空に夜9時前に着くのとではどちらがいいか選べるとするならば自分は朝着く方を採る。 関空に朝着いて爽やかに昼前から一日の行動が始められるからだ。 こんな夕なずむところで目の前に日本が見えながら3時間も待たされるのはちょっとたまらないと思ったものの博多に行くのに金浦空港で6時間待った知り合いや今日スキポールでまだ6時間以上待たなければいけない人々のことに比べると大したことはないと思い返し、空いた腹に何か入れようと小さなキオスクでカレーライスにビールのセットを頼んだら金属の箸がついたうどんがついてきた。 代金を払うのに示された値段がどのくらいになるのか皆目見当がつかず取敢えず20ユーロ札を出したら釣りはウォンでしか駄目だと言われたけれどそんなものをもらっても空港外にでるでなし、また近々韓国に来る予定もなく、こんなコインばかりをユーロや円に換金することもできないのでどこかのキオスクでちゃちなキーホルダーか何かを買うしかないだろうと思った。 ハイネケンの水のようなビールで不味いカレー、貧しいうどんを腹に入れたあと暫く行きかうコリアン・エアーの飛行機を見ていた。


今頃パリを飛び立って1時間ほど経っているはずが、、、、、

2015年03月18日 14時19分09秒 | 日常

 

今頃パリを飛び立って1時間ほど経っているはずが自宅でコトコトパソコンのキーボードを叩いている。 

朝6時に起きて10時40分にスキポールを経ちパリ経由で関空に翌朝10時ごろの到着予定だった。 昨日自宅のパソコンでチェックインしてあったから後は空港に荷物を運び込むだけのものをそれでも出発の3時間前までに入らなければならず、仕事に行く家人に駅まで送ってもらいスキポール駅で電車を降り、そのまま上に上がって荷物を運び込む機械に自分で操作して手続きをすませた。 8時前には新式通関検査のボディーチェックを済ませた。 これは¥暮れに帰省した時に続いて二度目なのだが昔に比べて少しは楽になった。 靴を脱がなくてもいいしベルトもとる必要もなくこれを済ませて法的にはどこでもない無国籍地域に入ったわけだがポケットに入れてあったぼろぼろのビニール袋に入ったムスクの塊にボディーチャックの際クレームが来た。 麻薬のハッシじゃないかというのだ。 まさかそんなものを裸で持ち歩くバカでもあるまいしモロッコで買ったムスクであること、去年の5月に買ってそのままで、暮れに日本に行った時も同じようにして通関した、これは日本の香袋のようなものだと分かるように説明したけれどモロッコ系オランダ人の係官でもこれを知らず、分かるもっと本物のモロッコ系の係官を呼ぶまで待たされた。 当然問題があるわけでもないしその間の言葉のやり取りは和やかなもので若いのはその匂いを確かめるべく恐る恐る嗅いでいる。 若い正真正銘のモロッコ系係員が来てニコニコしながら袋を摘み上げ匂いを嗅いでなかなか旧式のものだ、自分はこれままだ嗅いだことはない、どこで買ったのかと訊いてくる。 エスワラで買った時のことを説明しこんど行ったときにどこそこの店で買えばいいとアドバイスしてそこを離れた。 そこからは賑やかな免税店が並ぶ通りである。

フランス・ボルドーのかなりいいワインを土産に二本買った。 叔父の孫と友人のためだ。 ぶらぶらと本屋や服屋、電気がガジェットなどの店をひやかした後飛行機が移動するのを見晴らす広い待合室に座ってアイパッドでネット検索をして宿を探そうとしたがなかなか思わしいものが探せずそのうちウトウトとして目が覚めると10時になっていた。 パリ行のC9ゲートに急いでまだ飛行機に入るまで10分ぐらいあるとゲート先を見たら着いているはずの飛行機が来ていない。 するとそのうち1時間遅れるとアナウンスがありその間に朝飯と久しぶりのビールにして1時間たつと1時30分まで飛ばないという。 関空向けパリ発のエアーフランス機は1時40分発となっているのでそれではとても間に合わずそろそろ心配な人々が問い合わせに並び始めた搭乗口に20分ほど並んで係員に聞いてみると1時30分発が2時30分発になったのでとても日本行には間に合わずここではどうにもならないから差し替えのカウンターT2に行けと指示された。 

パリ行にしてもこれだけ遅れたらはたして出るのかどうか、それにここにパリから来るのかどうかもわからない、という。 パリでも霧、ここでも霧だからこうなった、というけれどしかしここが始発の便は出ているようだからトランジットが問題なのだ。 言われたT2に来てみたら7,80人が並んでいた。 並んでいる間にあちこちでこうだった、ああだったと文句の競争が聞こえる。 前の黒人女性はガーナからドイツのデュッセルドルフまで行くのにここで混乱に巻き込まれガーナをでてから30時間たっている、後ろの白人女性はモントリオールからデュッセルドルフ迄行くのに足止めを食っているとのこと霧はここだけではなさそうだ。 ドイツ人の若い女の子はイギリスから帰ってきてフランクフルトに帰る友達は問題なくここから飛んだのに自分はもう朝から6時間ここにくぎ付けになっている等々、、、。 周りの人たちはどこかから来て、もうここで何時間も足止めを喰い、電車でドイツまで行けば4時間ほどで帰れるものを夜の9時発まで待つかパリ経由でドイツに帰るか迫られ、疲れとまたどこかに持って行かれるのに怒りを爆発させそうな勢いだ。 モントリオールからの老人女性はここの人たちでデモを立ち上げてプロテストしないとどうしようもない、と言うけれど、こんなことは1年に何回かあるのだからデモでもプロテストでも埒が明かない、と言っているとKLMの職員が霧のことでこれが飛行機の故障とか空港の通常機能の問題であれば保障、代金返還があるけれど天候のためであれば差し替えは保証するけれどもし電車のほうがいいと言うならばそれはこちらの関与するところではない、と契約約款に書かれているらしい条項を盾に汗まみれになりながら言い張ると電車で行くというものもおらず、あと4時間ほどで出るパリ経由の便に振り替え、夜中に家に着く算段をし各自それぞれドイツの家族・知人に電話をかけ始める。 

自分は何時に関空についても迎えに来るものもいるのでもなく約束があるわけでもないからその点では何の問題もないから今夜はパリまで行ってエアーフランスが支給するホテルで一晩泊まり、翌日の便になるのなら夜の街を散歩もできるだろうと楽しみにしていたものが、日本行はスキポールで手配することとなり夜の関空行の便は満杯、東京経由も満杯であるから結局9時半発のKLMソウル経由の関空行の手配となった。 21時25分発のKL855便でボーイング747だそうだ。 すでに持ち込んだスーツケースはそのまま別便に搬入され、搭乗券ももらうと1時をまわっていた。 

普通は日本から戻った時の通路の先、ベルトコンベヤーの横を通って出迎えの人々が集まる出口に出ると妙な気がした。 自分の旅は出発で中折れであり、けれどいつも戻ってくるプロセスなのだ。 なんだか戻ってきたような感じがする。 駅に降りると5分もしないで電車が来て15分ほどで自分の駅にもどり、駅前のバス乗り場に来ると2分でバスが来て2時前には自宅に着いていた。 

何もすることがないので今日は州選挙の日だったので自分には州の代議員を選ぶ権利はないけれど同時に行われる水利委員会の委員選挙権があるのでそれに出かけ投票を済ませた後スーパーに廻り買い物をした。 簡単なスパゲッティを喰ってまたスキポールに戻り本格的に空の旅に向かうのだ。 考えてみればパリへの短いフライトより一度にソウルに行った方が旅行に出かけたという感じがするかもしれない。 

こちらを夜21時25分に発ったらソウルが現地昼の15時40分、そこで3時間ほど待って2時間弱のフライトの後、20時50分に関空に就く予定だ。 そうは言うけれど実際にどうなるかどうかは言ってみなければわからない。

スパゲッテッティが茹で上がったようだ。 それからまた朝のやり直しになる。 9時半に出るとなるとゆっくり眠れるような気がする。


急な帰省

2015年03月17日 01時08分08秒 | 日常

 

一週間日本に帰省のためこの日記も暫く休むことになる。 昨夜遅くエアーフランス・KLM往復の便をネットで予約して日本でのホテルの予約もとれないままに明日の朝発つことになる。 日本は20℃にもなるというような予報もあり春に日本に戻るのはもう30年ぶりということになる。 短く忙しいことになるのだろうがオランダより一足早い春を味わえるのは悪くない。


1974年 7月 (1)キーホルダー

2015年03月14日 11時59分58秒 | 思い出すことども

 

どうしても見つけなければならないものがあってこのところその必要に駆られて乱雑に散らかった部屋を片付けている。 片付けるというのは正確ではない。 ある部分を掘り返し探し物をして見つからないから観終わった部分をどこかに持って行き隣の部分に取り掛かる、という作業を繰り返すだけの話で一貫性もなくこういうことをしていては片付けにはならない。 そしてその作業の中で掘り返したものを一つづつ見ていくとさまざまなものが手の中でそれにまつわる話を語り掛けてくるので作業の時間も遅れがちになるのだがそんなものの一つがこれだった。

それは透明なプラスチックのケースに入ったキーホルダーで、そこには JAZZMESSENGER  '74 という文字とJBLの最高級スピーカー、パラゴンのレリーフが表に、裏には10周年記念、と 1974年7月という文字がデザインされたものだ。 

学生時代一時期、2年弱だっただろうか、手伝っていたジャズ喫茶が開店10周年、それまでの古いスピーカーを最高機種のパラゴンに替えたのがこのキーホルダーを作った大きな理由になっている。 店に来た客に配ったのではないだろうか。 店に来た客といっても一日に10人ぐらいで時には2人、ということもあったから数はあまり作らなかったのだろう。 常連客もすくなかった。 70年代前半はまだジャズはよく聴かれていて四国の松山でもジャズ喫茶は4,5軒はあった。 そのなかでも自分が手伝っていた Jazz Messenger は一番流行っていなかったのではないか。 それは泥臭いメインストリーム中心でトレンドな心地よく小じゃれたピアノトリオなどはかかってもそれまでの泥臭いものがじゃまをして若い女性たちには入りにくい雰囲気があったからだろう。 普通の喫茶店だと思って入ってくる客などは店内の暗さと狭さ、その音の響きに違和感を覚えて椅子にも座らずそのまま出ていくものが多かったし例え中に入って座ったとしても正面から大音響で飛び出してくる音の洪水のなかではゆっくり話ができない。 もともとこの空間は談話をするようにはできていない。 不味くはないものの特別旨いともおもえない当時としては破格に高い一杯300円のコーヒーを前にして一度かかれば片面30分弱のハードバップジャズを聴くことを期待されている場所だ。 自分が聴きたいレコードがあれば7000枚ほどあるコレクションから3,4冊あるリスト・ブックから選んで頼めば次にかかるという仕組みである。

開店10年を機にオーディオシステムを最高のものにしようとオーナーのママは当時始まった並行輸入の代理店を通じてパラゴンを注文した。 けれどそれが詐欺であり金は戻らず仕方なく正規のルートでもう一度注文して来たのがこれだった。 だからスピーカーだけで2セット分、400万円以上使っている。 それに加えてそれを鳴らすためのマッキントッシュのパワー、メインアンプ、レコードプレーヤーで400万円ほど、74年当時としては大変な投資である。 けれど収入は先に述べた一日10人ほどから搾り取る3000円余りであるから採算などは初めから頭にない。 といってママには財産があるわけでもない。 あるのはこれらの借金と小さな借家、そこに住む2匹の猫と時々店に来てはまたどこか消えていくヒモ同様の自称芸術家の男だけで彼女の行動は神風特攻隊的営為であり自分が死ねば借金は残るけれど傷を負うのは銀行だけ、というものだ。 銀行がよくこれに金をかしたものだと不思議な気がする。 小さなテーブルが6つあってそれらは厚いガラスで覆われている。 そのガラスの下に大学のクラブで写真をしていた自分が撮った写真を挟んで個展をさせてもらったのが縁で晩飯を食わせてもらうのが唯一の条件で手伝いを始めた。 

75年の3月に卒業しているから74年の7月というのは手伝いを始めてからもう1年ぐらいは経っていたのではないか。 74年の初めには親と親戚の前で頭を下げて留年さしてくれるよう頼んでいる。 入学して3年ちょっとで卒業単位の殆どを取ってあとは何もしなかった。 4年も終わりに近づいて残していた2単位を理由に留年しもう1年いて英語をやろうと思った。 それはそれまでにジャズにのめりこんでいて音楽家の音楽に現れたものが自分の感じたものとどう符合するのか確かめたかったからでそれを直接知るための手段が英語だったからだ。 当然親にはそれは言わず将来の職のための英語という嘘を並べて留年理由とした。 親は親戚の前にそれを示して頭を下げて了解を得ろと言った。 「留年させられる」不名誉から「目的のために自分で選んで本来は卒業できるのにもかかわらずあえて留年する」という理屈にしたのだった。 田舎の理屈では、国立大学に行ったのに留年させられた、というのでは末代まで村の口に登るけれど、卒業できるのにもかかわらず敢えて、というところが肝要で、そんなわけのわからないことが留年を帳消しにするらしかった。

教育学部の高校英語教師養成クラスに法学部からただ一人入り好きな科目だけ選び受講した。 2単位分だから聞き取りと会話、英文学購読などに出るだけで時間は十分にあり、後は写真部の暗室とジャズ喫茶だけに通うだけだった。 ジャズ喫茶は12時に開けて夜中の12時に閉める。 


車検の日; 暖かくはないけれどいい天気だった

2015年03月13日 01時54分06秒 | 日常

 

目が覚めたら9時半近くだった。 慌てて服を着こみプジョーのガレージに車を持って行った。 車検の日が今日だったのだ。 9時までに持ち込んで特に何もなければ午後4時には出来上がっているのが普通だ。 2年前の今頃中古を隣町の車屋で買っていてそのとき初回として本来は毎年の車検ではあるけれど2年分車検の期限がつけられていた。 今日が新しい車検の日だったのでそれまでもう10年ほど毎年車検に使っていたガレージにまた持ち込んだのだった。 去年修理しなければならないことがあってこの車を持って行ったらそのときナンバープレートをみて、これは新車のときうちが売ったものだ、と言った。 丁寧に乗っているようで、傷はあるけれどメカはちゃんとしているから上手く乗ればまだ10年は行けるのじゃないかとも言っていた。 その傷は自分がゴミのコンテナーにひっかけて作ったものだった。 

電話でこの日の予約をしたときに替えの車を用意してもらっていた。 別段何に使うという用事もなかったのだが家まで1kmほどの往復のためだけだった。 去年修理のときには自転車を借りたのだがそれがひどく重いものだったので今回車にしてもらったというわけだったが鍵をもらうときに、このリースの車は、というので無料じゃないのか、と咎めると、もう無料はやってないので、、、、と口を濁す。 いくらかかるのかと訊くと1日35ユーロ(約4000円)というから、何だ無料じゃなかったのか、こっちは今日は何も車を使う予定がないから前みたいにひどいものでなければ自転車でいい、というともう用意してあるので今回は無料にするから、次からは、、、と鍵をこちらによこした。 借りた小型のプジョー208はハンドルも小さく座ると若者のレーシングカー仕様のようで、自分の307はエンジンがこれより大きいにもかかわらずこれは既にほとんど乗りつぶしに近いのかアクセルを踏むと若者が信号で吹かすような荒っぽく割れるような音がした。 日頃他人の車に乗ることがないのでこういう経験はおもしろい。 4時に自分の車をもらいに戻ってくると頼んであったクラッチペダルがスムースに調整されていてさっきまで乗っていた208とは感触がまるで違い自分のような老人が乗る車になっていた。

買い物にスーパーまで出かけた。 昨日と同じく上天気だけれど風が少しあるから暖かくない。 今朝も昨日の晩も夜間気温が氷点下になったと天気予報は言っていた。 サバの燻製と大根、ホウレンソウを買ってスーパーを出ると西日がまぶしく、日差しがもう冬のものではなくなっていたからそれに向けて一枚写真を撮った。 


日本の歌曲のコンサートに行った

2015年03月12日 10時37分37秒 | 日常

 

2015年 3月 6日 |(金)

Japanse Traditionele en Nieuwe Melodieen (日本の伝統と新しいメロディー)

Seika Kawaguchi  ソプラノ

Masakazu Yamamoto ピアノ

 

 

於; ハーグ芸術協会(Haagse KunstKring)

 

プログラム; 

1 桜          (作詞、作曲、 不詳 やまもと まさかず編曲)

2 ずいずいずっころばし  (伝統童謡、 やまもと まさかず編曲)

3 小さな秋見つけた    (佐藤ハチロー、中田喜直)

4 くちなし         (たかのきくお、 たかださぶろう)

5 この道         (北原白秋、 山田耕作、やまもと まさかず編曲)

6 星が降る        (やまもと まさかず ピアノソロ)

7 見る          (谷川俊太郎、 やまもと まさかず)

8 Piano from 2 song with text of Tanikawa Shuntaro (谷川俊太郎、 やまもと まさかず)

9 Ave Maria  5min    (やまもと まさかず)

10 Rain Tree Sketch II, In memory of  Olivier Messiaen Piano Solo  (武満徹)

11 さよなら        (あきやま くにはる、 武満徹、やまもと まさかず 編曲)

12   丸と三角のうた     (武満徹)

13 雪           (せき しんいち、 武満徹、やまもとまさかず編曲)

14 Apparition  (幻影)  (中原中也、 やまもと まさかず)

 

50人ほどのこじんまりした集まりで休憩なしの1時間ほどのコンサートだった。 会場はハーグの芸術協会(HKK)の二階ホールで普段は展示会のスペースになったりこのような小さなコンサートの会場になったりするところだ。 この25年以上ここには折に触れ来ることがありこの通りにはギャラリーやレストランがならんでいるのでただ眺めるだけでも時間の過ごせる場所でもある。 家人がこの協会のメンバーであり芸術家たちのボランティア活動で運営されている組織で人手が足りない時に手伝いで事務をすることがあり自然と自分もそれに付き添いをするようなことがあったからメンバーの何人かとは顔見知りでもある。 この日もコンサートの後久しぶりに会った人々とも歓談の機会を得た。 特にこの10年ほどはこの組織も老齢化が進み経済の停滞による政府の財政補助削減の影響が催し物や活動にも影に日向に現れていると聞く。 階下のスペースは会員のインスタレーション展示会場となっておりコンサートのあと歓談の場となった。

メールで今回の催しの案内が来て山田耕作、中田喜直などを中心にした日本の歌曲がプログラムに企画されているというので家人と食事の後電車に乗ってハーグの会場に出かけた。 渡されたプログラムには歌詞が英訳とともに書かれた紙片が挿入されており英語で簡単な説明が添えられていた。 当然のことながら英訳は単に訳であってそのままメロディーに乗せて歌うわけにはいかない。 ずいずいずっころばしが将軍献上の茶壺が街道を通過するときに参勤交代と同じように沿道の民は平伏しなければ罰をうけることから皆がそれをおそれて姿を消すさまだと説明されていたのが面白く初めてその歌詞を理解したのだった。 英訳の意味がわからない、と何人かから問われて歌詞の意味を改めて説明することもあり英訳は専門の翻訳家の手になるものかどうか訝った部分もいくつかあった。 13のフランス語原文は作詞家の手になることは明らかでそこには英訳が添えられていた。 日本語の歌詞は書かれているけれど読むことのできない聴衆には日本語の響きと歌詞の訳が頼りになるわけではあるけれど日本語の響きに親和力を感じると印象を語った人も一人だけではなかった。 それは日本語が子音と母音が合わさった、一種、スペイン語やイタリア語のラテン系言語の発音に近く響くようでけれどそれらよりトーンに柔らかさを感じるようだ。 当然この日のソプラノの瀟洒な着物を纏った小柄な体から発せられるヴォリュームを伴った声にも力を感じるようだった。 

武満徹や谷川俊太郎という名前が出てくれば60年代から見知った新しい日本の歌曲のレパートリーになるのだろうが、山田耕作、中田喜直のラインからすると急に70年代のいわゆるインテリ・知識層の音楽になったような気がして、その選曲にこの二人の意図がうかがえるようだ。 だから50年代生まれの自分が想像していた、今の日本の音楽家が海外で日本の歌曲として紹介するレパートリーで山田、中田を中心として日本紹介プログラムを組むとまるで60年代のようだと思っていたものがコンサートの中心を谷川、武満に置いているのに接して70年、80年代の日本紹介プログラムのような印象を持った。 海外に長く住み日本の現代音楽にはほとんど接する機会がないものには80年代以降の名前がなかったことに少々残念な思いがしたのだがそれはこの日のピアニスト・作曲家のやまもとの作、編曲の技法がそれなのだとのメッセージと受け取ればいいのかもしれない。 

この20年ほど折に触れクラシック、現代音楽を齧ることがあり、けれどそれもジャズピアノがらみであるから自然とモーリス・ラベル、ドビュッシー、サティー、プーランク、フェルディナンド・モンポーのようなものになり、日本の現代音楽としては武満徹、林光、一柳慧、高橋悠治などのピアノを聴いたことがあるけれどこれらは80年代ごろまでに聴かれた新しい音楽であり、2015年の現在、それから約30年経っているのだから今の新しいものを聴きたいと思ったものの二人の紹介する日本の歌曲はメシアン風味のものを含めた武満中心のように聴こえたし、実際ピアノの編曲にしてもプログラム7番以降に見られるように「現代音楽」風アクセントが見られるものの19世紀から20世紀前半のフランス・スタイルが中心のように受け取られる。

以上のようにみてくると12、13,14に力点が置かれているのがよくわかり、山田耕作、中田喜直が自分のような年寄りを呼ぶ釣りの餌であったことがはっきりする。 いわゆるアート・プロパーと思われる50人余りの聴衆にも日本の音楽として紹介するのに無難なプログラムであるのだろうけれど日本の音楽には親しみのない何人かのオランダ人たち、というよりも日本の音楽にはほとんどなじみがないのが明白で、ティーンエイジャーのアニメオタクやJ-Popオタクは別にして日本には親しみのない聴衆には1,2,3までは日本的と見做していた風はあるけれどそれ以降は19世紀、20世紀初頭のドイツ・フランス影響下のものと聴こえたようで13のフランス語がドイツ訛りが強いものとして聴こえたとの声もあった。 日本の映画に興味を持つ人たちからは黒沢映画の中で聴かれた武満を覚えている人が何人かいた。

先日ハーグ中央駅そばのオランダ国立公文書館での写真展にでかけたときのことを記した。 そのときの展示責任者のパートナーで家人と芸術家仲間である造形作家とこのコンサートで隣合わせになり同じ町に住むことからコンサートのあと一緒に何やかや話しながら帰った。 彼女の知り合いで同じ町に住むヨーロッパの比較文学を教える女教授とも共にこの間の写真展のこと、四方山の噂、今の学生気質などを楽しく語りながら電車を降り、まだ12時にもならない駅でそれぞれと別れ我々は自転車置き場に向かった。