暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

こんなところで秋が深まっている

2015年09月30日 12時00分04秒 | 日常

 

買い物に行くのに二つほど向うの通りを自転車を走らせていたら赤いものが目についたので引き返してカメラを構えた。 よく見るとそれは主に蔦と枝にとげのある赤い実のなるトキワサンザシでこの木の方は家にもあって毎日裏庭から表に出入りするたびに見るのだがこの時この光景を見るまで家の木にもこんなに赤い実がなっていたかどうか記憶が無いことに気が付いた。 今はそこを通るときには地面に散らばったドングリの実の方にばかり注意が行っているからだろうと思う。

蔦もこの木も普通にあるものなのだがここでは普通の深緑色だけのものではなくて紅葉するする蔦が混じっていてそれがアクセントをつけ燃えるような色合いをみせている。 壁を伝って広がる蔦は本来は壁を傷めることもあって両手を広げて歓迎されるというものではないのだがあちらこちらと壁に広がっているのが見られる。 我が家にも何株かあり地面から軒先の樋まで伸びているのだが樋にかかる辺りで先を切っている。 放っておくと樋の中の水が来るところに沿って領域を広げ樋を詰まらせる恐れがあるからだ。

ここから200mほど行った通りに面するアパートの大きな壁には紅葉する蔦が大きく広がっているのがこの時期に見られたのだが2年ほど前に補修した時にそれを取り除いてしまい今は味気のない白い壁が見えるだけになっているからこのここの一角は規模は小さいもののそれを補填するものとして秋の深まりを感じさせてくれるスポットともなっている。 


Colombiana ;観た映画、Sep. ’15

2015年09月29日 05時20分06秒 | 見る

邦題; コロンビアーナ  (2011)

原題; COLOMBIANA

108分

アメリカ・フランス映画

 
 
脚本と製作を務めるリュック・ベッソンが「アバター」のゾーイ・サルダナを主演に迎え、復讐に燃える女暗殺者の過酷な戦いを描いたハード・アクション・サスペンス。監督は「トランスポーター3 アンリミテッド」のオリヴィエ・メガトン。
 
1992年、南米コロンビア。9歳の少女カトレアは、マフィアの大物が送り込んだ刺客によって目の前で両親を惨殺される。カトレアは決死の逃走の末に追っ手を振り切り、叔父のエミリオを頼ってシカゴへと向かう。両親を殺した者たちへの復讐だけを胸に成長したカトレア。15年後、凄腕の暗殺者となった彼女は、復讐相手へのメッセージとして必ず殺しの現場に自身の名の由来でもあるカトレアの花を残していった。マフィアがカトレアの暗殺に動き出す一方、FBIからも追われる身となるカトレアだったが…。
 
上記が映画データベースの記述である。 オランダの民放の深夜映画にかかったものを観た。 女の子が主役でリュック・ベッソンの制作となるとどうしても「レオン(1994)」を思い出さないわけにはいかず、そうなると少女を鍛え守るレオンは本作ではだれに当たるのか、多分アメリカに住む叔父なのだろうけれど、レオンではレオンが主役ではあったものの実際我々の眼は少女であるマチルダ、ナタリーポートマンにくぎ付けになった記憶はまだ新しい。 それにそこでの衝撃的な悪徳刑事、ゲイリー・オールドマンにはシャッポを脱ぎ、その後の彼らの活躍については今更述べるまでもない。
 
粗筋の概ねはレオンに沿うとしてそのカメラワークにテンポ、あちこちのユーモアにブレッソンの香りが漂い、観る我々は安心してソファーに沈むことが出来るのだが、ここでの主役ゾーイ・サルダナはマチルダを成長させて嘗てレオンが封切りになったころ、当時中学生になったころの息子が淹れ込んでいたコンピューターゲームのトゥームレイダーでグラマーかつ万能スーパーウーマン、ララ・クラフトのポスターが部屋に貼られていたのを思い出し、そのララ・クラフトに重なるような既視感を得た。 勧善懲悪のストーリーを爽快に辿る小気味よい作であり南米ドラッグカルチャーの中で殺伐としたアクション映画をさんざん観てきた者たちには次代の若者たちに多少の夢を見させてくれる作に仕上がっているだろう。 レオンがこの20年で何回もあちこちの民放でかかるのだから同じような香りを持つ本作もこれから何年かごとにテレビの深夜映画にかかるに違いないだろうと思う。

学費、授業料、奨学金のこと

2015年09月29日 05時14分23秒 | 想うこと

 

2015年 9月 8日

昨晩久しぶりにライデン大学の夜の一般公開講義を受講するべく大学に出かけ、そこにあった大学新聞を久しぶりに読んでいるとその第一面に「学費借金世代」と題する記事があり、それを読んでいて思ったことがある。 ここではいよいよオランダの奨学金は特別なものを除いて一般には今まで様々な形で存在した奨学金を廃止し低額利子付きのローンだけということになる。 これで年間20万円ほどの授業料は自己負担ということだ。 オランダでは一つ二つの例外を除いて大学は国立である。 例外と言ってもその経営の殆どが国庫負担であるから殆どすべて国立と言っていい。 それがこの国の大学でありその他各種様々な教育機関があり入学までに過ごしてきた中高一貫校で将来の基礎はできているはずである。 それら学校間の移動はそれぞれの能力に応じて弾力的であり様々な経験を経て自分の目指すところに行けるようになっているから制度としては各自の能力を効果的に伸ばせるようにはなっている。 

けれど70年代、80年代の経済成長は多分これからまだ大分望めそうもない財政緊縮・再編の今、いずこも同じ政府内リヴィジョニストたちの掛け声で奨学金はなくなったということで、だからこれから学費は自己負担、生活費は自分で稼ぎ出す、というプロセスになり、多分殆どが家を出て下宿になるから20平米ほどの空間に月4万円ほど要り、それに若いものは喰わねばならず食費もバカにならない。 月どれくらいになるのだろうか。 いろいろ考えられるけれど月3万とみてそれに交通費、携帯などなど雑費で1万、ざっとみても月10万は超える。 オランダには入学金や寄付金、入学試験もないから試験料もなく、だから年間約120万が一人の学生には必要となる。  それでは日本の学生一人の負担というのはどれくらいになるのだろうか。 長く日本に住んでいないから分かりかねるけれど自分の周りのもう孫も何人もいるような日本の友人たちの子供にかけた学費負担はこれどころではなかったように記憶する。 

自分は日本育英資金の援助を受けて国立大学を1970年から5年かけて卒業し、学費に関しては70年前後を多くの学生と同じく政治的な意見を持ち安全保障問題で動揺すると同時に学費値上げ、大学立法反対の意見に組して些かはそれに参加していた。 そんな中で本来目指した勉強にも観る眼が変わり他に価値をも見出していることから自分を仕切りなおしての5年だったのだが親からの仕送り、些かのアルバイト、それにこの奨学金で時代を乗り越し育英会への借金は卒業後返済した。 私学では大学に行けないことを自覚していたから国公立が唯一の可能性でしかなく、だから自分や後に続く同様の学生を想い教育の社会平等性保障という点に関して当時自分に起こったことと現在自分の住むオランダの大学で起こっていることの相似性を想った。

自分の5年間は授業料が毎月千円だけであるところが1970年の教育新法(大学立法)が通過すると大学の自治が大きく後退するとともに学費が自分が入学した一年後に入学した学生からは3倍、その後徐々に5倍、、、十数倍となっていくものだった。  その法案が国会を通過した今の学費はどのくらいなのか知らないが国立の学費は実質貨幣価値の変化を換算してもかなりのものとなっていることは確かだ。 教育の平等を謳っていた法律も、無い袖は振れぬとばかりのなりふり構わずの経済リヴィジョニストのプロトタイプが出て来始めた頃の政策であって、もし自分がこの何年後かに入学していれば自分の学生時代のかなりの部分は生活資金を稼ぐのに追い回されて学業に割く時間を奪われていたことは疑いなく、だからスクールというのはギリシャ語の暇潰しに似たニュアンスの言葉に縁を発すると言うことにも思いが行き当たり、それでも貧しい若者が生活に追われ教育を受ける機会も失い、将来の自分とそのあるべき世界に想いを馳せる時間を保証できなければ社会的にも人的資源の有効的使用とはいえないと思うのだが、学生という身分は治外法権内にもなく現代の高度に発展した資本主義の中に置かれているのだからその金銭的状況と言うのも例外ではありえない。 そして多くは家庭的環境がそれに差異をつける要素となっている。 だから我々が学生の頃学費値上げに反対したのには自分のような貧しい家庭の子どもでも大学教育が受けられると保証した法の実行を求めるものでその議論の的が学費(授業料)の額だったのだ。 

当時の試算では10年後には例えば東京大学学生の両親の年収割合が大きく変わり、それまでは比較的均質なものであったものから裕福な家庭の子女が大半を占めると言われていたものが80年代の中頃かにその統計をみるとその通りになっていた。 スクールの語源のように金銭的に暇=余裕がある親の子女が機会を得ているというのがその数字をみて圧倒的かつ明確に意味が理解できた。 金のないのは縁の切れ目、という万古普遍の謂いの確認なのだが、それも何を今更、日本には貧しいものなど居らず皆子女を大学にやっているではないか、という声が聞こえてくるようだが果たしてそうか。 日本に住み子供たちを育ててきて子供たちにそこそこの教育を付けてきた自分の友人たちの話からすると日本での子供に対する幼年期からの教育投資額はこちらでは考えられない額になる。 大学に関しては入学金、学費に生活費とどの親たちも骨身を惜しんで投資するし骨身を削ってそのように準備している。 投資であるからそれが満期となり何年かが経って投資額以上のものが返って来なければその甲斐がない。 それをどのような形で享受できるのだろうか。 

顕著な例として日本で医学部に子供を入れるということを考える。 裕福でなく家系にも医者がいなくとも当然医者には成れる。 だからと言ってそれが多数であるかと言えば必ずしもそうではなく医者になるべく投資されてきた子女がかなりの割合を占めているものと観るし同級生の中には親から代々の医者もいる。 特に産婦人科医の家系であればどのようなメカニズムなのかは知らないものの蓄財ができるようだ。 そういう意味では投資効率がいいかもしれない。 国公立は別としても私学となると入ってからもかなりの学費が必要となると聞いている。 つまりそれだけ金銭的余裕のある家庭の子女が一定以上のチャンスを持っているということだ。 

このように書くのは自分の娘がオランダの教育システムの中で偶々本人の意思で医学部を選び5年過ごしその間に日本と南米に留学を2回、国内でインターンを3回済ませているけれど今まで親が負担したのは定年公務員の安月給の中から生活費を含めて年間75万円ほどづつだけだった。 経営学修士を済ませた息子はそれよりも年間10万円ほど安かった。 彼らに必要だったのは授業料と生活費だけで入学金も寄付も何も必要ではなかった。 

人間だれもが大学に行く必要はないと一般はみている。 小学校を出るときに全国共通試験の結果によって将来社会で自立できるスキルをつけるべくそれぞれの能力に応じた学校を選ぶ。 自分の子供たちには周りの子供たちと同じく宿題だけさせ他はできるだけ遊ばせた。 友達を沢山作りスポーツクラブに入りその環境は試験地獄というものからはほど遠い牧歌的なものであるけれどそれでも社会の問題は全て子供たちに影響し、日本でもあるような  ijime というものもオランダにはあり父兄会ではそれに対する対策が話されたがそこで語られるのは日本で報じられている陰湿なものとは些か性格の違ったものでありそこでも文化の違いが浮き彫りにされていた。 早くから大人と遇され自立のための訓練と社会に於ける責任を負うのが大人であることの資質であり各自の能力に応じて職業に就けば楽しく生活できるのであり誰もが全て大学にいく必要がないことを知っている。 だから自分の子供たちにしても別に大学にいかずともよいと思っていたし結果として自分たちが自分たちのやりたいことのために大学が必用と感じ中高一貫校でそこのカリキュラムを履修しただけのことだ。 特別なことは何もなく勉強に追い回されることもなく友人たちと楽しい青春時代を送っていたことを傍で見ている。 

小学校から中高一貫校に進むにあたってどこに行くかは学校の示唆はあっても本人・親の意向でどこに行くかを決めることもできる。 けれど全国共通試験の結果を分析した学校の示唆に反して自分たちが希望する学校に進んでも殆どの場合は学校が示唆した学校に戻ることになる。 例外はある。 子供たちの成長過程で能力が開発され上級学校に移籍できるしまたその逆もある。 つまり、子ども、若者の能力に合った職種に将来つけるように教育訓練するのが教育の目的だと言える。 学校を変えることは屡ある。 小さい時から遊べるだけ遊ばせ宿題だけを課題とし塾もなく過ごしてきた子供たちである。 オランダでは小さい時から行かせるような塾などはない。 様々な運動クラブや音楽のレッスンというようなことはあるかもしれないけれど日本の学校教育の中でのような運動・文化クラブ活動という学校内の活動のようなことはここにはない。 そうすると子供が地元のスポーツクラブ、音楽教室などに行くとするとそれには謝礼が絡むから日本の小学校から大学まであるクラブ活動に関わる費用よりは多いかもしれない。 

親は子供の将来を考え彼らの最善のためにどんな犠牲も惜しまないと考える。 けれどそこに費用が絡むとその犠牲の度合いが変わってくる。 社会の景気と政府の政策がこれに大きく関わっていることは確かでニュースでみる韓国、中国の教育事情も日本のものと似た傾向にあるようにも思い、これもアジア的社会傾向なのかと納得しそうになる。  けれど程度の差はあるとはいえオランダでも徐々に世界的傾向のそんなプロセスが進んできていることを目の前の大学新聞を読んで感じ、ヤレヤレとため息が出るのを止められない。


中秋の名月だったらしい

2015年09月29日 00時15分23秒 | 日常

 

夜型の人間なのだが甚だ怠惰であるから一晩に一二回は裏庭に出て空気を吸うのだがそれは湿っていない時に限られ昨今の風雨の混ざる日々では空を眺めることも少なかった。 けれど今晩は早めに夕食を摂り自転車で10分ほどの大学に一般公開大学講座を受講すべく出かけた空は久しぶりの快晴の紺色でその下をペダルを漕いだのだった。 

この四週に亘って週1時間半ほどの講義に続いて半時間ほどの質疑応答で締めるのが定型であるのだがこの講義を後ほどインターネットでも聴くことも出来るように同時に録音されているようなモダンな仕立てでもある。 ここに集う300人ほどの受講者のうち9割ほどが65歳以上であり自分の観察では平均年齢は70歳に近いようにも感じた。 最近のテレビが面白くなく他にすることのない年寄りたちが自分の生きてきた世界のことを想い今まで知りたいと思っていたことどもを講師である退役した哲学専門の教授・哲学者の「啓蒙、悟り」についてという連続講義で、ギリシャ哲学からの流れを考慮した中世以後の哲学者、科学者、宗教家たちに焦点を当て、何が人間の「啓蒙、悟り」に寄与し、その成果を如何に現代に反映させていくかという甚だ現代世界の課題に迫るテーマであるから毎週300人以上が集い会場は満席である。 先週終わった移民に関する人口動態の問題もここで討議され現代の諸問題に潜在化している問題の解決に向く実践的なものでもある。

周りの参加者と話してみると何れも多少とも題目に基礎知識をもった人たちでありそれぞれ専門分野で仕事をして来た人々のようだ。 大学で歴史や法律、経済など様々な分野を修めその後企業や公務員、教師として定年を迎えた人が多かったように思う。 自分の隣に座った高齢の女性は長年専門学校で経営・経済を講じてきてこのテーマに興味をもっていたから隣町から来ているけれど偶々京都・東京・奈良などを観光した経験がありそこで得た紙片の意味を翻訳を頼まれていた。 東京か京都でもらった紙片というけれど結局それは彼女が明治神宮で観た「代々木舞」と「倭舞」の解説だった、というオマケもついていた。 彼女はそれを京都御所で観たというけれどそれは記憶の誤りでこの紙片からはそれでありえないことを説明したのだがそこでは明治天皇の御製が神楽舞として舞われたことを示していた。

帰り道は目の前の中空に一際くっきりと満月が浮かび、月の表面は驚くほど細かく観測出来るけれどそれとは逆にウサギや蟹などの以前からある月の模様のイメージからは遠く、幾分かは味気ない感じもし、あれは何々の海、何々のクレーターとはっきり見えるほどだ。 帰宅してそんな月の写真を撮らなかったことにも思いが行ったけれどそんな月は明るすぎて望むような写真が出来そうもないことを経験上承知しているからここには何日か前に雲間に覗く月の写真を夜中に撮っていたものを載せて絵日記とする。 


目の前でカワカマスが釣れた

2015年09月27日 21時41分27秒 | 日常

 

長閑な秋の日差しを運河のほとりで浴びて景色を眺めていると小さなボートが移動していた。 40になるかならないかというような男と10になるかどうかというような男の子の二人が乗っていて男の子は父親から言われるままに船外モーターを操ってちょうど父親の竿にかかった魚を上げるべくボートを接岸させようとしていた。 小さな魚ならその必要もないのだろうがかなり強く激しく動く釣り糸から察すると鮒や鯉ではなさそうだ。 暫く様々に方向を変えていたボートがやっと接岸すると父親は手袋をつけた手で釣り糸を手繰り寄せボートに魚を引っ張り上げたら魚は暫くボートの中で飛び回っていた。 父親は息子に携帯を取り出して写真を撮るようにいい、そのように息子の目の前でポーズを決めた。 それが自分の目の前だったので自分も一枚カメラに収めた。 そしてこの男はこの魚をソロソロと水に浸けて手を離すと一つ二つ体をくねらせて魚は水底に向かって消えた。

以前に町中の運河でこの魚を求めて岸を移動しながら釣っている青年のことを写真を載せて書いたことがあるから男にそのことを言い、実際に釣ったのを見たのは初めてだというと、これは45cmほどだったけれど自分は今までにこことは反対側の運河で80cmのものを釣ったことがありこれがもっと大きくなった時に自分か他の誰かが釣れるように放したのだと言った。 反対側の運河というのは前に青年たちが釣っていたところだ。 だから彼らが言っていたようにそこには魚がいたのだった。 

 この魚のオランダ名はスヌーク(snoek)、英名はパイク、和名はキタカワカマス(北川魳)と謂い、蛙や時にはネズミをも喰うほどの獰猛でもあるようだ。 釣り人には堪らなく魅力的で皆これを釣るのが夢であり釣りの雑誌の表紙をよく飾っているのを見かける。 けれど表紙になるのは1m以上のものなのだからこの男にとってはこれは飛び上がるほど嬉しいというようなものでもないのだがそれでもホクホク顔にさせるだけのものではある。 男は必至でボートを操船していた息子によくやったと言って褒めそれまで緊張で顔をこわばらせていた子供の頬もそれで初めて緩みを見せた。 子供にとってこういう経験は一生忘れられないものになるのだろう。 自分の高校の時の友人は小さな孫に目がなく機会があれば乗り合いの釣り船に連れ出して大阪湾のチヌや鯛を釣っている。 そのことをこの魚を手にする男を見ていて思い出した。


軽くスープで食事

2015年09月27日 16時28分01秒 | 喰う

 

自分も家人も夕食時なのに腹が減っているとも感じずそれではスープだけで夕食にしようと摂ったものがこれだ。

長ネギやニンジン、玉ねぎを少々オリーブオイルで炒め、肉汁をブイヨンにして注ぎ足して別鍋に湯を沸かし幾分かの酢を落として卵を割り中で4分ほど湯灌をした。 そろそろと割れないように卵を上げて皿に入れ昼飯の残りバゲットを置いてその上からスープを注ぎパセリを振りかけた。

ここには小さいものとはいえバゲットがあるので少しは腹が落ち着いて年寄りの夕食にはちょうどよかった。

 

追記; 大切な野菜を書き忘れていた。 それは普通サラダで茎をそのまま齧るセロリだ。 ここではそれを切って他の野菜と炒めブイヨンの中にスープの身として加える。 生のままでは匂いがきついので避ける人も多々あると聞くがここではスープになるとその微かな香りがアクセントになって甚だ旨いものだ。 写真では長ネギとも見える少々筋のある野菜がそのセロリだ。

 


久しぶりに電車でハーグに行った

2015年09月26日 04時10分11秒 | 日常

 

正午を少し周って目覚め飛び起きて自転車に跨り小雨の中を市駅まで漕いだ。 駅の無料地下駐輪場がほぼキャパ一杯になっているところで空きを見つけ駐輪し構内にはいればミニ・スーパーに飛び込みそこで冷えた缶ビールを買いその隣のコイン・スナック販売機で暖かいだけで取り立て旨くもないハンバーガを2ユーロコインを入れて取り出しプラットホームに上がれば鼻の前を電車が出るところだった。 ヤレヤレとベンチに腰掛け10分待てば次のが来ると表示されているのでハンバーガーの包みを開けかけたら電車が来た。 妙だなとおもっているとそれは遅れていた電車が来ただけのことでこちらにしてはどれも終着のハーグ中央駅に行くことに変わりがないので乗り込み上階の見晴らしのいい2等車のガランとしたところに坐ってハンバーガをビールで流し込み朝昼兼用にした。 この12時35分に出た電車は15分ほどで中央駅に着いたのだが列車から降りるときに公共運輸パスを駅の入口でスキャンしなかったのに気が付いた。 無賃乗車だった。 今ここでスキャンするとそれは出たことにならず逆にここから乗ったことになる。 どうせ折り返しここから電車に乗って戻るのだけれどハーグにどれくらいいるのか分からずまた細かいチェックの仕組みも分からないから柱の陰に隠れたようで見えないチェックのポールを無視して中央駅構内を出た。 

この公共運輸パスを使い始めてからもう何年になるのだろうか、約5年前還暦を超えると60%割引になりそれよりも何年か前から使い始めていたように思う。 いちいち切符を並んで買う時間の節約にもなることからこのパスにしたのだった。 それに公共運輸機構も紙のキップを廃止する方向に進んでいてパスの手軽さと売り場の人員削減、自動化によるにもつながることと比べると殆どに人はこのパスに乗り換えることになっているのが趨勢だ。 イギリスでは大きなターミナルは日本と同じようにゲートのドアが開閉して中に入るシステムなのだがヨーロッパの殆どがもともと駅には地下鉄を除いてチェックのゲートなどないのだからこういうことが起こるのだ。 当然個人の責任で払うのが当然なのだが今回初めて無賃乗車をしてしまった。 けれどこの日は行き当たらなかったのだがもしこの日車内の検札が来ていたらどうなっていたのだろうか。 パスにはさえない髭面の顔写真に加えて必要な個人情報が入っているのだから自分の住んでいる市は分かりそこから乗ったと言えば車掌はその駅で乗ったことに訂正するのだろうか、それとも始発駅からの乗車とパスに打ち込むのだろうか。 それとも問答無用で無賃乗車の罰金が加算されるのだろうか。 取敢えずそのことを知らずに駅に降りた。

この何年も中央駅は工事を進めていて来るたびにすこしづつ景観が変わっている。 本来なら駅に来てとんぼ返りということはせずせっかく来たのだから町をぶらついて遊び夕方になれば子供たちに予定がなければそれぞれの下宿で食事をするなり一緒にどこかのレストランにいったりするのだし夜にはジャズのセッションに来たりするのだから暇な定年爺いとしては何も急ぐこともないけれど今の天気がどうも鬱陶しくて降っては止むそんな空の下を歩きたくもなく家に戻ってブラブラするのが最善だというサインが脳内に点滅している。

急に現金が要ることになり家のどこかに隠れている何人もの福沢諭吉先生をユーロに替える必要があるからこの駅にある外貨売り場に来たのだった。 外貨変換であれば自分の銀行なり同じ外貨売り場は自分の市駅の構内にもあるのだがハーグ中央駅は国際ターミナルでもあるので乗降客の数が多く、外国人が外貨交換する数も大きく自分も観光客としてパスポートなしで円・ユーロ交換することができる。 自分のパスポートはハーグの日本大使館発行でありそのことから自分はオランダに住んでいて普通の観光客でないことが分かる。  そうするとパスポートと金額がリンクしないから国民番号にもリンクせずだからガラス張りになるのを防ぐ手にもなると言うわけだ。 福沢諭吉をそのまま海外に持ち出せる限度額は100万円だったように記憶するけれどあるとき日本土産を開けたら菓子箱には諭吉先生が沢山詰め込まれていてそれを家に下宿させており、今回その諭吉先生に我が家のユーロ補てんのためどこかに旅に出させたということだ。 

それにしても3,4年前のレートからは50%ほど円の価値が下がっているから交換後のユーロは惨めなほど縮んでいた。 だから逆に今ユーロを円に換えて日本に行けば3,4年前の50%ほど多く使えるということになるのだが生憎自分のユーロは元公務員の年金では日本で使うほどの余裕もなく急の出費にこのようにして諭吉先生に役に立ってもらったと言うわけだ。 4,5年前の諭吉先生が強かった時には家のやりかえをするのに随分助けてもらった。  

オランダに来る前、もう40年ほど前には日本で輸出商社マンをしていた時には為替レートを見て商売をしていたからもし自分に山っ気とが辛抱があるのなら多少のリスクを背負って為替で金儲けをすることも出来るのだがそんな辛抱も山っ気もなくここまで来たのだからこの為替の変化を眺めてウダウダ言うだけでしかない。

5分もかからず換金しこんどはチェックインするのを忘れずパスをスキャンしたら自分の乗る電車は5分も待たずに出た。 駅から20分ほど自転車を漕いで自宅に戻ると出てから90分も経っていなかった。 これはハーグまでの往復では自己最短記録だったのではないか。


姑を病院に連れて行った

2015年09月25日 01時24分46秒 | 日常

 

先週姑を病院に連れて行って定期検査をした。 病名は多発性骨髄腫で8年前にそのように診断された。 でっぷり太っていた人が風船の空気が抜けるように縮み20kgほど体重が落ちたら着るものが無くなっていた。 姑は日本の老母と同じく今年87になった。 姑には娘たちがいるのだが偶々皆用事があり自分に病院に行く運転手の役が回ってきたと言うわけだ。 初めてではないのでどうということはない。 姑の住んでいる村の介護施設に迎えに行きその隣町の病院に付き添っていくだけだ。 癌専門の医者は50になるかならないかと言う穏やかな女医だった。 痛み止めのモルヒネ入りの貼り薬の効能が衰えてきたので処方を変えてもらい痛む部位を触診して今週CTスキャンをすることになった。 その時姑の、自分のこの病気は診断されたときに余命は大体6年ぐらいかと言われていたのがもうそれから8年経っているけれどどうなのか、というのに返事が、平均余命は診断されて8年ぐらいのようだ、だった。 それにはギクリとはしたけれど平均なのだからデコボコがあり、それにその間にどのように癌を遅らせるかということに進歩があったようでだからこれからは一日でも長く生きることが出来ればそれは贈り物に値するという風に受け取っていいものだということを高齢者のほとんどは理解している。 30代なら発病して2年ほどで没する例が多いのだから高齢になれば癌の進み方も遅いのだろうし若い時から体のあまり強いほうでなかった姑であるので養生の仕方も身についていたということも多少はあるのだろう。 骨髄腫だと診断されて皆覚悟していたところが3年前に予想を覆して舅のほうが先に逝った。 このところ彼女の身の回りで1年に5,6人が逝っているので我々にとっては死は身近なものになっている。 

村の300人ぐらいがそれぞれ個室に住む介護施設の前に車を付けたら霊柩車が2台停まっていた。 姑の腕をとって車に乗せ病院でCTスキャンをすべく雨の中を走った。 途中、運河の傍にある彼女が育った酪農農家の建物を遠くに見られるところを通っている時に、体が弱かったから救急車に乗ってこれから行く病院で61年前に家人を生んだと言ったけれどそれはもうとっくに承知していた。 30年ほど前に舅が心臓発作で担ぎ込まれその後暫くいた集中治療室を北の町に住んでいた我々が訪れたのがこの病院に来た最初だったのだがそれからここに何回来たのか数えきれないぐらいだ。 もう7,8年ほど前には姪の一人がここで看護婦として働いていたし、その時舅も姑も別々の部屋に入院していたこともあった。 2年前には医学生の娘がここでインターンをしていたしそんなことからここは身近に感じる。

CTスキャン室から女の技師に手を引かれて待合室に来た姑を引き継いで長い廊下を歩いて玄関まで行く途中に、あの技師はお前を私の夫と思っているようだった、と姑はぼそっと言った。 それには少々動揺したけれど、自分は小さい時から早く老人になりたいと思っていたからそう見えてもそれは悪い気もしないではない、と答えたけれどあまりいい気はしなかった。 それは自分がまだ12,3の時に母親がニヤニヤしながら、誰かがお前を私の弟だろうと言った、というのを聞いていい気がしなかったのと同じようなものだ。 

介護施設に姑を送り届け雨の中を自宅に戻ってくると庭の敷石の上にナメクジが這っているのが見えた。 もうそろそろ鬱陶しい湿った天気も一旦休憩し一度カラットした空が広がるようなところを見せてほしいものだと思う。 


橋本治 著   夜

2015年09月24日 04時04分23秒 | 読む

 

 

橋本治 著  2008年初版

集英社 刊 

ISBN978-4-08-7712-445 C0093

 

「小説すばる」に2006年から2008年にかけて発表したものを纏めたもののようだ。 80年代の終わり前から20年以上文芸雑誌には毎月一当たり眼を通していたが小説なんとか、というような雑誌にはあまり興味がなかった。 それは幾分か嵩をくくっていたという自分の若さからだったのかもしれない。 直木賞ものは読まなかったしそのころにはもう芥川賞の作家たちについてももういい、だの、読まなくともいい、という気分になりそれを自分の気まぐれと歳が行って辛抱が利かなくなったのだろうし、また、35年も日本に住んでいない者には社会の移り変わり、若い世代のことにも取っ掛かりがつかなくなっていたこともあるのだろうと受け取っていた。 小説すばる、というのが面白い。 文学なのだろうが純文学畑ではないと見做されているところで、橋本の主な活躍の場所は純文学から距離を置いたところでありそれを言えば村上春樹に通じるかもしれないが似て異なるものである。 彼らの著作が向かうベクトルが違うように思う。 両者とも文字を書くからには文学が頭にあることは当然なのだが彼らの軌跡をみると幾分かはっきりしてくるのではないか。 多分橋本には文学などと取り立てていうこともなくそれらは自身の経験・思索からの抽出物であり常に肩の力を抜いた等身大の創造物なのだ。 村上のいい読者でない自分の感じるところは自然体を演じようと肩に力の入った経験・思索の結果が村上の創作物なのかもしれないと直感している。 尤も、肩に力が入って何が悪いといって悪いことはないことは言うまでもないことなのだが肩に力が入ると視野狭窄の気味が現れる。

何年かおきに帰省して、さて、と入った書店で気分が高揚し時間を忘れて過ごし何冊も抱えて帰りの電車に乗るということもなくなっていた。 そんなことがこの何年か続いていて3月に帰省していた時にそれまで気に入っていた梅田にある本屋のビルが2年前に店を畳んだので仕方なくだだっ広い駅下の混雑する書店に行けば寒い国から帰ってきた者にはそこでの正月の暖房にはむせるようでとても本を選べるようなゆとりはそこにはなかった。 企業が生き残りになる必死の姿がそこにあるようで、考えもせずに体裁のいい惹句で気をもたせほら、早くこれを買って早く近くのカフェーにでも行って駄弁ればいいとも人に嗾けているようなのだとシニカルなことも頭をよぎる空間になっていた。 

本屋とはそういうものになっているのだ。 だから古書店に入って愕然とする。 こんないいものが可哀想な値段がついて並んでいる。 若者は本を読まなくなっていると聞くし自分もその嫌いがあるのだから何とも言えないけれどオーディオ・ヴィジュアルの時代といわれて久しくその結果がここに現れているのだろう。 文字なのだからヴィジュアルだろうという者がいるかもしれないけれど本は「見る」のではなく読むのだ。 「見る」のは漫画、アニメなのだ。 週間漫画雑誌の創世期に少年時代をすごし、そんなものを見るんじゃない、バカになるよ、と言われて育った刷り込みが頭のどこかにあるのだろう。 60年代の終わり、70年代の初めには漫画雑誌にも文学的なものがあってすべてがバカではないとも思っていた。 好きな漫画家を挙げろといわれると「山上たつひこ」と答える。 文学的な無茶苦茶さが学生時代から好きだ。 山上ほどはしっとりとしてはいないけれどからっとした町田康にどこか通じるところがあるかもしれない。 そして近年山上の作を纏めたものなどを何冊かスーツケースにいれて持ち帰っている。 

古本屋に入った今時の若者の多くはペラペラとページを繰って値段を見てその安さに、高くないから価値がないのだろうと思うかもしれない。 それは我々が書店の高い棚に並ぶ高価な書籍を価値のあるものと眺めていたことのミラー・イメージとも言えるけれど同じ本がそのようなものとなっていれば話は少々変わってくる。 読者がいない、需要がないというのがその理由だそうでその本に価値を見出すものには天国でもある。 

こんな事を書くつもりもなかったのだが書店での想いが湧いて出たのと自分が子どもの頃から利用するターミナルの近くに大きな書店ビルが出来ていてそこの書架に並ぶものを眺めていて自然と手に取ったものを見ると橋本のものばかりだった。 別段初めから橋本のものを集めようと思ってもいなかったしその日の興味がそこに行ったということだろう。 そしてそれを読み始めた時のことを前に次のように書いている。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/64660621.html

 

さて、本作である。 目次には

暮色、灯ともし頃、夜霧、蝋燭、暁闇 と50ページほどの短編5つが納められ、その3つ目の夜霧の中頃まで読み進め、ああ、女性の中身の話なのだなあと感慨を持った。 この間、島田雅彦の「悪貨」を読んで島田の対話の描き方からこの人の強みはストーリー性だと思い、本作での橋本には男の自分には「この人は女性の中身が上手く書けるのだなあ」と今までの作を思い起こしてもいた。 男が離れていく女たちのことを纏めたものなのか、女の感性ばかりなのかと思い帯を見たら「男の夜は霧の中」「男の心の中には何があったのだろうか?」「男の性と愛を描いた橋本文学の新境地」の惹句が見えたので、あれ、っと思った。 自分の読んだところまでは女性ばかりだったではないかと思い読み進めていくうちに3番目の話、夜霧で於初と源太郎との対比が続き俄然源太郎が前面に出てきて終わり、ああ、これだったのかと納得した。 実直な男ではなく女たらしと言われ自分でも訳の分かっていなそうな頭の飛び抜けて良くもない男の中に橋本は入っていく。 

考えてみれば桃尻娘のころから少女のことを書き、そこでの若い男は添え物だったような気がする。 去年初めて読んだ文庫本「桃尻娘の逆襲」でも定年老人の印象に残ったのは無花果少年より弾けたお嬢様だった。 そこでは高校・大学生という世代のこともあるのだろうが本書では登場人物の年代が30-40代であることが桃尻ではないことを明らかに示しており社会の中で焦燥を経験する人物たちの関係の紡ぎ方が展開される。 そして寂しさ、哀しさの色が話が続くにつれて女から男にシフトされていくように仕組まれているように思う。 どの話も男が女から離れて別れで終わるようなのだがそのシフトが女の描写から男の内面にすこしづつ移動しているように思えるのだ。 

けれど本書で一番印象に残ったのは5作目の暁闇だ。 ここに来て男と男の性的関係が描写される。 性描写ではない。 そこに一ひねりが効いているところなのだ。 ゲイ小説ならもう既にいくつもあるのだし今更なのだがここにきてそれまであいまいになっていた性的関係を巡って権力関係が細やかな感情描写で展開されることだ。 性事は政治であると言われるのは二人寄るとそこには政治が発生するというのと同義であり政治というのは権力をめぐるものであるのだから男女の関係における権力関係と同様といえば、それではゲイの男同士ではどうかというのとそこにゲイでない男とゲイの男の性的関係が絡んだ時の描写が示されるとそこには俄然我々の性とは何か、という問いが浮かび上がることになり退屈なストレートである自分にはない感性と関係の紡ぎかたに初めて見る世界を垣間見たような感覚にとらわれる。 自分の周りには何人かのゲイだのレスビアンだのがいるけれど彼らの内面をこのように捉えたことはなかったから自分の蒙を啓かれた思いがする。 

10代の終わりから20代の桃尻娘たちではあっけらかんな印象ではあるが本書では30代、40代、若しくは50代の初めの登場人物たちでそこでの印象は誰かしらが、哀しいなり寂しいというところで夜の彼方に消えていくというような体裁になっているのではないか。 帯に書かれた「男の{性}と{愛}を描いた」というのが初めからして入れ子構造になってはいるけれど作者の一番力の入っているのは夜明け前の一番暗い闇と言われる「暁闇」でありもっとも細やかな描写に魅入られる経験がそう思わせるのだとの印象をもった。


もうこんな秋なのだからこれからは難民には厳くなるのだなあ

2015年09月23日 00時00分26秒 | 想うこと

 

めっきり秋らしくなり日中気温が15℃ほど、夜間は10℃を切るような時雨の混じる湿った日々となり予定のないものには自然と家の中に居て何やかやと蠢いているのだけれどそれでも一日に一度ぐらいは外の空気を喫おうと庭に出るとゴミのコンテナーの傍にハイビスカスが咲いている。 5月の終わりころからこの仲間である芙蓉が町のあちこちで背丈ほどの塔を立て花を咲かせているけれどこれは塔は作らず葎は薄い石楠花のものに見えなくもない。 夏のイメージの花が寒くなり始めている今の時期に咲いているのは何か場違いでこんな花が亜熱帯から寒帯に突然迷い込んできたような印象さえ受ける。

この何週間かシリア、アフガニスタンからの難民がドイツを目指して民族の大移動の態をなして北上し、すでにこの数か月にはトルコに200万人が住みそれに加えてこれから何か月かで200万に追いつこうかと言う数がハンガリー、セルビア、クロアチア、オーストリア、ドイツと迫り、昨日などはその先陣がオランダにも届いている現在、今更言っても何の解決にもならないのだが大まかに見てその責をこの何十年もにも亘る大国の世界戦略の結果と観るのが後世の判断であるのだろうけれどそんなことは歴史家に任せておけばいい、それどころではないと EU はその対応に躍起になってはいる。 けれど基本二十数か国の同意を得ての対応でなければ動けない大所帯であるから周辺国、EU友好国は悲鳴を上げ混乱しそれに対するEU官僚組織の対応の遅れが課題となっている。  緊急の課題は迫りくる冬をどうするのかと言うことだ。 

彼らが移動する地域はこれまでアフリカ、アラビア、中東からの難民、移民が比較的暖かい地中海を渡ってきたのと反対に今は寒冷の地域でありそろそろ雪の心配もあるところとなっているのだが命を懸けて沈むような船に押し込まれて地中海の外れを渡り彼らがそこを目指してきたのはEUの防波堤がこの地域に弱点があったからだ。 そこにシリア、アフガニスタン、北アフリカなどの難民が雪崩れ込み、ドイツ首相の人道主義的受け入れ声明がそれに拍車をかけたのだった。 人道主義からとはいえそこには強かな計算があって、老齢化が進むヨーロッパ各国には歴史的に俯瞰しても絶えず移民が必要だと言う意図が底流にある。 ヨーロッパの歴史は太古から移民の歴史でありそれを塩梅して様々な国家からそれを纏める統合地域国家となっているのだからそれは例えば現代のローマ帝国とでも言えるものかもしれない。 当時は奴隷があったとはいえ市民社会で奴隷にも市民になる機会はあり2000年前のローマの市民には今難民たちが移動する国から来てローマで財を成したものたちの名前が多く碑に見られるのだから歴史は繰り返されているのだろう。 というより絶えず世界は流動しているといってもいい。 だから今EU内ではローマ時代にしたとのと同じく正確にその動態を把握するべく彼らの登録に躍起になっている。 けれど実際に紛争国から逃げて来るものはIDを敢えて旅で無くしたり身の危険を感じてパスポート、写真の類を持たずに移動する者たちも多くそれをどのように遇するのか、戦争、紛争が理由で身の危険がある難民なのかそれとも貧しい自国からよりよい生活を求めて移動する経済移民なのかの判断がネックでもあり、それに対応する法制度、移民管理に関わる人的資源が圧倒的に虚弱であるということが混乱の理由にもなっていてこれはEUの比較的安泰の国にとってはもはや対岸の火事ではなくなっている。

オランダは移民の国であり例えば17世紀には画聖レンブラントの育ったライデンの町は町の人口の55%がフランス・ベルギー北部のフランス語圏で栄えていた繊維産業のプロテスタント達が宗教により追われたことで難民になっていたものが逃げてきたことで主なものとなっており彼らの技術と人口が地元の産業に貢献し大航海時代の海外進出とともにその後の所謂オランダの黄金時代を築くことになるのだからメルケル首相の難民歓迎の言には繋がっている。 だからメルケルのブレインにはしっかりと歴史を見据えて国益及びEU益に繋がる算段が見える。

このようなことを考えるのは自分の周りには今ほどの量ではなくともこの20年以上にわたって様々な地域から避難してきた家族があちこちに住んでいるのを日常的に見てきているからだ。 子供たちの友達家族にはセルビアの戦争で命からがらボスニアから逃げてきてその家族は世界中に今でもバラバラとなっている。 この間まで新聞配達をしていた若者は小さい時にソマリアから逃げてきてもう20年以上になる。 さまざまなオランダ語のアクセントの中にはそんなものも聴こえ、まだ慣れないものは英語、現地語が行きかう言葉だけれどもそんな言葉を含めると日常どんな言葉が聞こえるかと言うことだ。 こんな国では合法に移入してきた者には人権が保障されそれぞれの能力に応じた経済活動を各自行う権利が限定的にせよ保証される。 紛争地域と認定されたところから逃げてきて戻れば身の危険があると認定されれば難民扱いとなり保護されるべきだと言うのが一般の扱いである。 だからその紛争地域を安定させることが難民をなくすことになるというのが解決策であるのだが世界政治が絡むと上手くいかず、紛争国の一方、及びイスラム国を名乗る軍を空爆し、というような案もあるけれどいまのところそれには近過去の歴史の教訓からは安易に手出しをできない状態だ。 そんな中で難民、流民が寒くなる今バルカン地域に押し寄せているのだ。

考えてみれば自分自身にしても結果として移民だ。 世界市民というような浮ついた意識で銀行口座に何年も住めるだけの額を持ち、大学の助手という形で1980年に招かれて来たのだから地元警察のビザ交付の際には他には列を作り何時間も待つ欧米以外の外国人の列を横目にそんなことを数分で済ませていた。 日本と言う国は先進国で、ヤクザか国際テロリストでない限りは何の問題もなく、今から考えると当時の牧歌的ともみえる移民政策の現場でも嘗てはオランダ語が語源の世界に悪名を響かせた「アパルトハイト」の国で名誉白人という「栄誉」を浴していた日本人なのだからそれ以外の難民・移民の状況を初めて横目に見た体験だった。 それが今はその何万倍にも届くというような状況なのだ。 一年に一度のそんな警察詣りは何年続いただろうか。 日本人が少ない所だったからそんな人間は珍しく、言葉の分からぬ日本人の運転免許証の翻訳をも頼まれ幾つかしたこともあり、また担当職員が日本を訪れた経験もあることから自分に対する待遇とその他の移民に対する態度の違いに驚いたりもした。 それが日本と言う国の位置を示していたのだった。 その後地元の国家公務員という職を持ち一定程度の税金を何年も支払い続け、それだけで永住権が得られるのに現地人と結婚もし、地方選挙参政権を与えられ地元の政治に意見を反映させる市民となっている自分は、元々何処へ行こうが何処で野垂れ死にをしようが構わぬ遊民のつもりの若気が家庭を持ってみるとそこに住み着いて移民というカテゴリーに納まっていたのだった。

今そんな離民・難民の報道をメディアで日常見てきて今回少々驚いたことがある。 テレビに出る今までの難民の殆どが現地語か旧宗主国の言葉でしか話せなかったものがここに来て俄然英語で流ちょうに話すものの多かったことだ。 そんな彼らが皆、ドイツ、ドイツと言いながらもドイツ語を話すのを殆ど聴いたこともなく、だからメルケル首相ができるだけ早く流入する国の言葉をと遠回しに英語でなくドイツ語を習得しろ、と言っていたことだ。 この20年ほどで増えてきているといってもドイツやフランスでまともな英語を話せるものは大人では中産階級に限られているように思う。 若者には若者特融のコミュニケーション能力をもっているのだから片言以上の英語で話せはするだろう。 自分にしてもオランダに来るまでは英語で仕事をし30歳でこちらに来てからは今更新しい言葉を習得するというのは頭にはなかった。 35年住んでこの7,8年だろうか、ジョークの一つも言え何とか支障なく話せるようになったのは。 それも子供が出来たからの結果でもし子供がいなければオランダ語を習得していなかっただろうし話せてもそれはカタコト外人でしかなかっただろう。 言葉とはそういう側面もあるのだしオランダはオランダ語が話せなくとも英語で物事は支障なく過ごせるけれどただそうなるといつまでも外人でしかないのは日本と同様だ。 それに比べて日本に行く欧米人からいつも聞かされるのは、意思の疎通に困る、オランダ語は通じないことは当然でそんな人がいれば奇跡に等しいのだけど英語が普通に話せる日本人が殆どいないのには驚くということだ。 

日本は英語が話せなくとも支障のない島国なのだから国外に出なければ問題はない。 国際化、国際化とこの30年言われてきたその結果がこれだ。 言葉は世界の窓を開く鍵だ、と言われる。 その鍵が日本では利かないということだろう。 日本の扉を開ける鍵を作るのは楽ではない。

難民たちの英語を聴く経験をし、情報を携帯で瞬時に交換し、金や物を持たずとも情報源となる携帯だけは話さない難民たちの姿を見て新しい形の流民なのだと実感した。 当然メディアのレポーターたちは一番通じる言葉で情報を収拾しようとそういう混乱の中でインタビューするのだからその結果英語の達者な30歳前後かそれ以下の男女がテレビカメラやマイクの前に現れるのだがその中には建築家、小企業主、公務員、研究者、医者であったり知識階級の人間が多く、ドイツまで身の危険を冒して運び屋に100万円近い金を積んで脱出するのだからその国では貧民ではなかっただろう。 そういう者たちが次代の人的資源になるのであるのは歴史にいつも現れているのでありその卑近な例は東西の壁が崩壊以後の旧東ヨーロッパの国からの移民でありそれは自分たちの周りに多くいて経済基盤を支えつつあるのは自明である。 うちの何軒か先にもそんなスラビック系の言葉を話す者たちがこの何年か住み着いているのだが果たして彼らはここに住み着くか稼いだ後はポーランドに戻るのかどうか皆興味津々に眺めているところでもある。 かれらの多くは自国に家を持ち賃金格差、生活格差による差益を自国に持ち帰るのが当初の目的だったのだから着の身着のままで避難してきた今の人々とは違う。 人口の動態にはこういう背景を含みすでにこの中に高齢化社会の不足労働力を補う策も長期的に見て組み込まれている。 

高齢化社会の労働不足が深刻になってきている日本にはそのような移民政策はマイクロスコープの下でしか見えない形でありここでもガラパゴスの態をなしているようだ。  先日覗いた中央公論では東京都が高齢者福祉では破たんしていると言うことが細かなデータによって示されていた。 ロボットですぐに解決できるというような能天気な幻想は既に霧散しているのにその策は明確には示されず首都がこれだということはこれがそのうち全国規模になるということだ。 

EUに流れ込む難民のことから日本の移民政策に話しが飛んだ。 遠隔地の火事の火の粉は徐々に流れているのであり、それとは別にここではすでに別の問題から足元から燻っているのをそれを感じない振りをしているのかどうか、その反応が些か遅すぎるようにも感じるけれど日本は今ヨーロッパのすることに眼を据えて学ぶ必要があるように思う。 今から50年後の自分がこの世からはいない日本がどうなっているのか興味があるのだがそれは今の二十歳になるかならないかというような若者の肩にかかっているように思う。