暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

知人の70歳の誕生日だった

2016年04月30日 23時17分07秒 | 日常

 

先日2日で38km歩いたことを記した。 そのときそのグループのメンバーが今日誕生日のパーティーをするから家人に来ないかと誘っていて同時に自分も誘われたということになっていた。 彼女は高校の体育の教師を定年してからこのウオーキング・サークルに入り持ち前の何でもきっちりやらないとすまない性格から来年は南ホランダ州のこの会の世話役に就任したのだという。 物腰、容貌から自分より若いと思っていたけれど5つも年上だとは驚いた。 家族、知り合い、この間一緒に歩いた何人かのメンバーが集まって午後の3時間ほど楽しく飲んで食い喋る集まりになった。 前の晩そこから遠くない射撃クラブで毎週のトレーニングをしたので今日は自転車だったけれど何か妙な気がした。 というのはウオーキングでは150kmほど離れたところで現地集合、現地解散だから同じ町の人々というけれど日ごろあまり顔を合わすことがない人と歩いていると同じ町から来たような気がせず、こんな近所のパーティーで出会うと急に親しみが湧くから不思議なものだ。 同じ町に住みローカルな話題を話すというのも悪くない。 親戚の年寄り、二人の子供に孫が5人と知人たちで40人ほどの集まりだったけれど普通のオランダのパーティーのような味気ない食い物ではなくよく吟味されたつまみが次から次へと出てきて酒と美味いつまみの数々で皆堪能した。 これも完ぺき主義者と言われるこの日の主人公の性格もあってか皆を退屈させないものだった。

暖かくはないものの空が晴れていたから気持ちのいい1日で土曜のマーケットに行けなかったのは残念だったけれど6時に帰宅するとワインとつまみで腹が一杯になっており夕食は要らなかった。

裏庭に出ると隣家のリンゴの木に花が咲いていた。 今年も硬くて酸っぱい煮炊きしたりパイに使うリンゴを垣根越しにいくつかもらうことになるのだがまだそれまで半年はかかるだろう。


玄関の灯り

2016年04月29日 13時57分46秒 | 日常

 

このうちを買ってからもう25年になる。  通りに面して40軒ほどほぼ同じ間取りで1958年に建てられたかまぼこ長屋だ。 ほぼこの60年の間にどこも改装を経て外見は同じでも内側はそれぞれ大まかな間取りに従って様々なヴァリエーションが施されており時々そんな隣家の自宅と同じ間取りのうちに入ると同じような違うような妙な感じになることがある。

元来ものぐさとあまり新奇なものを好まない自分の性格といつも新しいものに興味を示す造形作家である家人の嗜好の折衷はなかなか楽ではなかったもののそれでも25年もたてばそれもなんとか自分たちなりの家になっていて、それでも別段そのままでも問題がないところはそのまま、つまり我々の前の所有者が残したそのままにしてある。 冬場の熱効率を考えると出来るところは2重ガラスにして保温に心がけているからそれは時代の移り変わりで大きく変えられたものなのだが、例えばいくつかの灯りはそのまま多分50-60年経ったままのものもそのまま使っている。 その最たるものが玄関外側のランプと家に入った土間のものであるのだが、土間と言ってもこちらの家には上がり框や畳の部屋などないのだから玄関のドアを開けて入ったその頭上にアンティークの灯りが元々あったものをそれを今回新しいものにした。

したと、いっても自分がしたのではなく家人が自分で材料を集めてきて作り上げたものだ。 クリスマスツリーの灯りとして使っていたものの延長として何年も前にどこかで彼女が自分で漉いた紙を使ってそれを丸め中に豆電球を灯しただけのものなのだが集めてみれば今までの暗い橙色の玄関が急に明るくなったようだ。 見上げなければ以前とほぼ同じか心持ち明るいだけの光なのだが、それが見上げると色彩が広がって面白い。 和紙のように漉いた中に粗い繊維が見え、それに自然の染料を使った紙ではキッチュからは逃れたものになったのではないかと思う。 これまであちこちの照明専門店でああだこうだと言っては意見の合わなかったものが材料費もかからないものでこれまでの勘案の一つが解決したというのはこの25年の間の大きな一つの変化でもある。


2日で38kmほど歩いて来た

2016年04月29日 01時28分09秒 | 日常


2016年 4月 24日 (日)


この週末、自分の住む町のウォーキング・クラブの連中25人とオランダ中央、森や林、それに広大なヒ ースの原野を残す国立公園を2日で36kmほど歩いて来た。


このクラブの定例ウォーキングには去年の今頃参加して、「3日間で45km弱歩いた」として下のようにも記している。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/64589275.html


金曜の夜8時現地集合、プログラムの説明、親睦、就寝、土曜丸一日ウォーキング22km、翌日は午後2時に「自然友の会」の家に戻るまで16km歩き、4時現地解散と2泊3日のイヴェントだった。  オランダ には各地に自然に親しむ会の連盟の家が点在しており我々はこれまで各地のそんな家を家族単位、夫婦単位で利用してきたけれどこんなグループで歩くのは2回目の経験だった。

この週末の天気予報は好ましいものではなかった。 気温は低く、たぶん10度前後、天気が変わりやすく晴れ間はほとんど望めなく霰、雨が冷たい北風に運ばれて肌に感じる温度は2,3度低く、濡れればさらに下がるから防寒はともかく雨具の用意はちゃんとすることなどと世話役からは注意があった。 初日は森や林を歩くコースが多かったので風を感じることはなかったし、雲が早く流れる中で時には木漏れ日も出る雨の降らない一日で昼食のとき集まるか11時か3時の休憩がかかるまで皆勝手にコースの小径に前後500mほどに伸びた帯となって歩いたのだった。 昼食は皆朝食の際かってにサンドイッチを作ってそれを持参するのだが自分はそれができず前日自分の町の自然食の店で買っておいたグルテン抜きのハムを使うはずだったのだがそれを家の冷蔵庫の中に置いたままで出てきてしまったので仕方がなかったけれど茹でておいた卵とバナナやオレンジ、リンゴに米を膨らませたクラッカーで難なく昼食は済ませた。 

一人で歩くのではなくグループで歩くときはグループから外れないようテンポを考えなければならない。 これはアルプスなどの高山を歩く時にも家族やパートナーがいれば考慮しなければならないことではある。 ことにどこかに興味のあるもの、風景が見えてそれをカメラに収めようとするならちょっと歩を止めてそれに取り掛かると3分や5分など直に経つ。 この間にパートナーやグループは300mほど先を行っていることになるのは普通で時にはそれ以上になるかもしれない。 このグループのように先達が地図をもってそれに従って我々が後ろからゾロゾロ続くとなると森の中では折れ曲がったり交差する他のルートや小道がたくさんあり、自分の先を行く人間をいつも認めていないと迷うことになる。 高山など50m先でも上り下りの勾配のきついところ、山の襞がするどく重なっているところなどでは先達を見失うことになる。  だからゆっくり自分の思う通り時間をかけて写真を撮ることなど叶わない。 それをやりたかったらずんずん先頭よりまだ先まで歩いて行って余分の距離を稼いで置き、ほかの人々を自分の脇を通り過ぎさせ済んでから後ろのほうにつけば何とかなるもののそんなことを何度もやっていれば体力が保たない。 それにルートから外れて写真を撮りに脇に入ると迷うことにもなりかねない。 こういう危険なこともない森では死ぬことはないけれど迷うとそれをもとに戻すまで面倒だ。 それにそのうち前の連中のうちのだれかが後ろまで戻って捜しに来るかもしれない。 だからこういうことがないように最後尾にはこのグループでは最高齢で76歳、最も経験のある元刑事のレネーが二日間最後尾を守るそんな世話役だった。 

去年と同じくグループのマリアン婆さんが25人分の食事を用意した。 いくつものグループが同時に炊事できる広いキッチンでウォーキングに出ず一日鶏と格闘した甲斐があり夕食には野菜、ハーブとともに赤ワインでコトコト煮込んだ鶏(コッコーヴァン)が素晴らしい出来栄えだった。 前菜、本菜、デザートとフランスの本格的な田舎の家庭料理は年寄りたちの肥えた舌を満足させるものだったし婆さんのレパートリーの広さには驚かされる。 70歳にはなっているのに小柄な体は翌日の16kmでは杖を突くこともなくスタスタと小径を行くウオーキング40年以上のベテランだ。

この婆さんは身長160cmにも足らない小柄だが普通に歩いても自分の歩くペースト以上だ。 平らな道を平均時速4.5km以上で歩くのだからダラダラとは歩けない。 食事がすんでから参加者25人が生年月日順に並んだ。 上は1940年から一番若いのは1960年生まれである。 自分は1950年生まれで真ん中であり実際並んでも上から13番目下からでも13番目だった。 女性が21人男が4人、男はもてる。 あれをしてくれこれをしてくれ、という具合だ。 毎週月曜日の夜近くのジムにフィットネスにでかける。 その爺さんばかりのグループ15人ほどの年齢層とこのグループの年齢の広がりは重なっている。 つまり同じような老人の集まりなのだ。

老人といってもばかにならない。 自分は背丈は170cmであり若い者の中に入れば小さいのだがこのグループでは必ずしもそうではなく自分と同等、まだ低い女性が何人もいる。 けれど歩くテンポを同じにすればそのうち必ず遅れる。 それは歩幅が違うからだ。 自分の歩幅を測ったことはないけれど平均40cmとすると彼、彼女たちは自分より3cmから5cmほどは長いのではないか。 100歩すぎれば同じテンポなら3mから5mの差が出ることになる。 つまり足が長いということだ。 それは彼らの腰の位置が自分に比べて高いところにあるということでもあるのだ。 だから去年4人で南仏プロヴァンスを10日ほど歩いた時にこれを実感して自分は特別気を入れて歩かねばならない経験をしていて今回さらにそれを確認した。 つまり時にはゆったりダラダラ歩く楽しみがこういうグループではないということだ。

二日目は朝から天気が悪かった。 強い雨は降らなかったものの雹が降り、雪まで舞っていた。 歩き始めて1時間ほどすると向こうの林の上に時雨が雲から降り下りているのが見えそれが直にこちらにやってきた。 リュックのなかから雨具を取り出してズボンの上から履く雨具のズボンに格闘した。 何年もポンチョで過ごしていたのだが2年ほど前オーストリアアルプスで斜面を登っている途中にポンチョの裾を踏んでバランスを失いそうになり危ない目にあって以来こういう平地を歩くときでも念のためポンチョは止めることにしたのだった。 まだ去年のプロヴァンスの時には持って行っていたのだが使う機会がなくこれが初めてだったのだ。 ポンチョならリュックを下ろして10秒ほどで被れるものが風と狭い田んぼの畔のぬかるみが混ざる径で履くのに手間取った。 薄いゴム引きの裏地が引っ掛かりジッパーが絡み時間がかかり履き切るまでにちょっと濡れた。 そうしているとそばには最後尾のレネーが帽子の廂から流れる雨粒をぽたぽたさせながら立っておりほかの連中が自分の先300mほどを行くのが雨で霞んで見えた。 薄暗い景色の中では赤は沈んで際立たないが黄色やオレンジ色は目立ちそういう点がノロノロ動いていくのを捕まえようと歩を急いだ。

林の中を抜けてヒースが広がる荒地に出ると雨が止み雲が切れてこの二日間で一番明るい日差しが広がった。 そこで休憩にして皆それぞれ地面に座るための折りたたみの薄いクッションをリュックから出して10分ほど仄かに暖かい日向ぼっこをした。

そのうちグループは21kmの長いコースと16kmの短いコースに分かれた。 自分は帰りに100kmほど車を運転しなければならないので念のため短いコースを選んで10人ほどのグループに入った。 友の会の家に戻り荷物を車に積み込んでから後片付けをして食堂で暖かい紅茶を飲み解散した。 

 


April Doet Wat Zij Wil

2016年04月27日 03時34分27秒 | 日常

 

2016年 4月 27日 (水)

この何日か寒い。 突然雹が地面や屋根を叩き付け更にはときどき雪が舞うのも見えるこの頃、北の州などではそれが積もって事故の原因にもなっている。 冬の寒さである。 晴れ間とこういう荒れ模様が半時間ごとに起こるようで夜間は氷点のあたりでかろうじて留まり日中は10度前後だ。 こんな天気では外に出るのに絶えず空を見上げて降ってくるものがないか風向きを確かめそういうものが来る前に素早くどこかに出かける、という具合だ。

こんな四月の空のことをオランダではこう言うことがある。 April Doet Wat Zij Wil 英語にすると April does behave as she want to  とでもなるだろうか。 つまり四月というじゃじゃ馬は彼女のしたいように天気を変える、という意味だ。 それに振り回される我々は堪ったものではないけれどそんな女性だから仕方がないと諦めるしかない。 

そんな今日はオランダ国王ヴィレム・アレクザンダー陛下の誕生日で国民の祝日だ。 この国にもう36年住んでいるのにイースターや天孫降臨祭日やその他の休日のことを覚えず日々の買い物をするのに店が閉まっていることに戸惑いがちになる。 けれどニュースや何かで事前にそれが分かるから何とかやっているのだが今年の祝日には各地の行事がこの天気に煩わされて様変わりしそうである。 

自分が1980年にこの国に来て数か月後、今の国王の母親ベアトリクス女王が彼女の母親ユリアナ女王から譲位されて即位したのを覚えている。 それから2013年4月30日、今の国王の祖母であるユリアナ女王の誕生日、女王の日に母親から王位を継承し今年で3年目のまだ若い48歳の国王である。 つい先日90歳の誕生日を祝ったイギリスのエリザベス女王の皇太子チャールズの67歳と比べればその若さが対照されるだろう。 数日前イギリスではシェークスピアが没して丁度400年経つことからその有名なセリフを様々な人が自分の思いを込めて人の前で語るなかでチャールズ皇太子が思いを込めて語ったのが一種の笑い話として報じられていた。 To be or not to be, that is the question だったのだが日本でもこれは歴史的に様々に訳してこられたけれど、ここではいつまでも皇太子でいて(国王に)なるのかならないのかそれが問題だ、という風に解釈できることから切実なことでもあるのだ。 スキャンダルの多かったイギリス皇室からすると女王から孫に継承させるのが無難という声もあるようだがイギリスではそれでも王室の廃止ということは議題にも上らないだろう。 けれど世界の皇室の中では優等生のオランダ王室で国民の人気投票では1位は国王の妻、鳴り物入りでアルゼンチンから嫁入りし、また世界に影響する人物の中に今年アメリカの有力誌に選ばれている切れ者マキシマ(女)王、2位が母親ベアトリクス女王とその後塵を拝し、100年以上続いてきた女王の国の男として少々影が薄い感がある。 近年王制は要らないとする声が上がりつつあるものの国民の6割以上が今の制度を支持している。

自分は偶々日本の天皇、皇后、ベアトリクス女王には2000年にこの町で拝謁に与ったことがことがあるけれど今の国王にはない。 ただ、まだ皇太子が地元の大学の学生だった時、大学の狭い路地を自転車で帰宅途中3人の男が行く手を阻んでいるのでベルを鳴らして警告すると一人がこちらを一瞥して横に退き後の二人はそのままだった。 行き過ぎてから横柄な奴らだと振り向くとボディーガード二人に護衛された皇太子だった。 その近くには女王が皇女だったときに下宿していた家もあるし自分はほぼ毎日皇太子が住んでいた家の前を行き来して職場に通っていた。 彼には学生のころからガールフレンドとのうわさ話がいくつかあり、あるとき二人でドライブをしていて何かの具合で車ごと田舎の水路に落ちたということや縁談まで進もうかと言われていたものが女ともだちの親が武器の商人であることが災いしたことが破談の原因になっていたのではとも言われ、ニューヨークの金融界でビジネス・ウーマンだったマクシマ・ソルグエタと婚約・結婚の際には父親の過去、アルゼンチンの軍事政権の被害者であるオランダ国籍をもつグループから反対があったもののそれも元軍事政権の閣僚だった親を結婚式に呼ばないという条件で押し通し、以来オランダ国民の人気投票では1位になっているという不思議な現象もある。

いずれにせよ自分には王制は現代の民主主義社会にはそぐわないと思っている。 国民に選ばれた人間が国を代表すればいい。 しかし王制も共和制も国民が決めることだ。

寒空の下一日中家の中にいて鬱陶しい普通の日として過ごした。 この何年かは近所がするようにオランダ国旗を掲げていたのだが今日はそのことも忘れていてもう一日が暮れる。


ワールド・プレスフォト・受賞式前日の講演に行った

2016年04月26日 01時12分37秒 | 見る

 

この間オランダで美術史の研究をしている安永麻里絵さんからメールが次のように入った。

 

 この度、ライデン大学 Political Arts Initiative プログラムの協力を得て、フォトジャーナリスト小原一真さんの講演会を開催できる運びとなりましたので、ご案内させてください。

 小原さんは、3.11の事故直後、報道厳戒態勢下の福島第一原発に入り、最初に内部写真の撮影に成功したフォトジャーナリストです。それらの写真は日本国外のメディアで取り上げられたほか、のちに原発作業員の方々のポートレート写真とともに彼の最初の写真集 Reset Beyond Fukushima に収められました。その後、第二次大戦中の大阪大空襲の被害者に取材した Silent Histories は昨年のParis Photo写真展で最終選考にノミネートされ、また、今年の世界報道写真コンテストでは、現在のチェルノブイリに取材した最新作ExposureがPeople Story部門の最優秀賞を受賞するなど、目覚ましい活動を展開されています。

 今回のトークでは、上記三作品について、小原さんご自身から取材現場や作品コンセプトなどについてお話しいただけることになりました。貴重な機会ですので、ご関心がおありでしたら、ぜひお誘い合わせの上ご来場ください。また、本メールをご関心を共有されるお知り合いの方たちに転送していただけると大変ありがたいです。Het Nutshuisのウェブサイトでは、紹介文のオランダ語翻訳もございます。

 【フォト・ジャーナリスト 小原一真 講演会】

Invisible Voices from the Past in the Present

— Fukushima, Osaka, and Chernobyl in the Photography of Kazuma Obara— 

 日時:2016年4月20日(水)8:00 PM〜

場所:Het Nutshuis, The Hague

 

安永さんはオランダで活躍しているジャズ・サキソフォン奏者の岡部源蔵君のパートナーで、昨年だったかロッテルダムのJazz Dagのイヴェントで岡部君が彼自身のバンドで演奏したときに彼女はCDを売っていてそのときにはじめてお目にかかって以来だ。 彼女はヨーロッパの美術・博覧会の初期の展示について研究を論文に結晶させるべく精進しているのではなかっただろうか。 このメールは突然の嬉しい驚きだった。 というのは日本に長く住んでいないものにとっては60年代の後半・70年代の前半の8年間高校・大学を通じて写真部に所属してオランダに来てからも興味を持って内外の写真家の作品を見、日本からの展覧会もあれば出かけてみてきたものだが、この何年も日本人の写真家の名前が聞こえてこなく更には報道写真家で今回の世界報道写真コンテスト2016で1位を受賞、その受賞式の前日の講演の誘いであれば出かけない理由は何もなく期待して出かけた。  更に小原さんは1985年生まれの31歳というではないか。 日本の若い人を知らない自分にとっては彼の仕事を通じて日本を知る、特に自分の故郷である大阪の戦中の空襲にも材を採っているということに殊更興味を惹かれた。

彼の経歴については自身のホームページを牽く。

小原一真 HP;

http://kazumaobara.com/

大学の国際学部で産業社会学を専攻し後、金融機関の営業職として写真をやり始め自分の住んだことのある土地が津波で破壊されたのを眼前に視、友人に伴われ初めて福島原発の現場に入り取材したということ自体が彼の作品に結果し、それが無名の日本ではなくそのまま世界で認められることとなったということに本人の幸運と日本のジャーナリズム、写真界の停滞が対照されるような気がした。 それは、最近発表された国境なき記者団が公開した2015年版の「報道の自由度ランキング」では日本の順位は韓国(60位)を下回る61位で、主要先進国では最低水準にあるということと国連の「表現の自由に関する特別報告者」の訪日を日本政府がキャンセルしたという事実をパネラーの安永さんが補足して語る中で、小原さんの仕事の意味とそれに対する評価が世界報道写真の場で脚光を浴びることの皮肉とも響きかねないのだ。

会場はハーグの旧市街の国会議事堂に近い大教会沿いの古い建物でこのあたりは何度も通ったこともあり、また近年は近くに子供たちも住んでいて時々は買い物や散歩で行き来するコースにもなっているところだ。  レンブラントやフェルメールを収めたマウリッツハウス、オランダ首相の執務室、国会議事堂の人通りのないところを抜けて始まる30分前にここまで歩いてくると丁度入り口前で安永さんと小原さんが来たのに出会った。 がらんとした建物の中に入るとぼちぼちと人が集まり20人ほどのこじんまりした講演会はパネラーの紹介、講演者が自分の作品から福島、大阪、チェリノビルと本人の2011年以来の仕事を追いながら写真集のうちから抜粋された写真をスクリーンの上に観ながら1時間ほど進められた。 その後参加者からいくつかの質疑応答があり参加者が小原さんがその日日本から持ってきた作品集の周りに集まって更に写真についての話がつきないようで自分はそれを外から眺めその人々は文化・芸術プロパー達であるのを確信した。 その後階下のカンティーンでビールや飲み物で歓談、作品の頒布が続いたのだが話は尽きないものの建物を閉める時間が迫り再会を期してそれぞれ分かれた。 自分は大阪の空襲以後に材を採った写真集を買いそれをじっくり視るのを楽しみにまた来た国会議事堂の中庭を抜け駅に向かったのだった。

 自分のパソコンのWIFI機能がストップしたままでもう2週間にもなるのだが辛抱しかねて他人のものを借りて書いている。 もう10年以上続けてきてその数が3499でストップしているといえば岡部源蔵君が、それでは3500項目目はこの講演会のことを書けばいいじゃないですか、と時宜を得た助言を呉れたので記念にそれを記し添える。

上の写真はチェルノブイリに材を採る写真集の中の一枚で丁度これを記す今日がチェルノブイリ原発事故から30年目だということにも因縁があるようだ。 被ばくした写真フィルムを使ってそれでそこで育った人たちを撮った写真も展示されたし、自分も当時北の街グロニンゲンに住んでいて日ごろ広大な牧草地に点在する乳牛がすべて牛舎内に留められニュースで報じられる放射能を含んだ雨により作物が汚染される恐怖に戦々恐々としていたことを思い出すし日ごろとは違う奇妙な風景にも違和感を得た記憶がある。 そしてそんな昨今、30年経って例えば時には口にするイノシシ肉がチェコやポーランドからの輸入であると汚染されているものも含むということ、何年か前まではそれまでだったものがドイツ東部のイノシシにも常時口にしなければ問題のない「汚染」が認められることも報じられていて改めて事故の結末はなかなみえないことを知らしめられたのだ。

現に小原さんは授賞式の後ウクライナに飛び写真集にもみられたチェルノブイリで幼時に被曝し結婚、現在と撮ってきた上の写真の女性の健康状態に不安があるとかで会いに行くと聞いたことからもそれは福島のこれからの30年への警鐘になり、また同時に彼の写真家・芸術家としての態度にも繋がっているとみた。 

 


wifi ダウン

2016年04月20日 03時55分42秒 | 日常

 

この1週間ほどWIFI がダウンして難儀している。

あれやこれやと試みているけれどだめだ。 2,3日中に何とかしたいと思うけれどどうなることやら。 予想ではまだ1週間以上かかるかもしれないので取り敢えず今そのことだけを記す。

この間これを機会と何年も触れていなかった自分の屋根裏部屋のごみ、ガラクタの整理をしたり途中で放っぽりだしていた本を齧り読みしたりして過ごしていた。 ガラクタ整理、というよりただあちらのものをこちらに移すというだけのようなものだけれどあちこちから今まで見つからなかった物が色々出てきてそれをいじって時間を忘れることもありこれもネット中毒気味な生活に風を通すのに役立ったようだ。

他人のパソコンで日記を書くのは何だか居心地が悪く、それに写真を張り付けるのも面倒で自分の WIFI が戻るまであと一週間ほどは書き込みなしとする。

 

 

ここにご来訪の諸氏には、この10年以上でもうすぐ3500ほど猫の徘徊よろしくあちこちと乱雑に写真も張り付けて書き記したものをご笑覧いただきつつ次回までつないでくだされば幸いに存じます。


妙な夕焼けだった

2016年04月12日 22時14分17秒 | 日常

 

昨日の天気予報が言った通り夜半に前線が通って気温が平年の12℃に下がり薄曇りの一日となった。 6℃下がると気分がこんなにも変わるのかというような一日だった。 日は長くなってきたからそろそろ夕食を裏庭で摂れるようにと数日前ガーデン・テーブルも出したのだが日中18℃になっても夕食時は温度が3度ほど下がればまだ肌寒い。  例えば6時半に食事を始めるときにはなんとか暖かくとも40分もすれば温度が下がり始める。 当然これから日が長くなり始めるのだからそれにつれて温度が下がり始める時間も遅くなりあと半月ほどすれば裏庭で1時間ほどゆっくり食事ができてその後まだ西空には青空と夕焼け空が出ていることになる。 乾いていれば紺碧の深い青からそのうち透明度のある暗い空に変わる。 地球の傾きがそうさせ緯度が上がるほどその差が大きくなる。 北緯30度ほどのところで30年育って北緯50度ほどのところに35年住んで知ったのはこういう季節の変化だ。

晴れていればこの頃は8時のニュースを居間で明かりを点けずに見るのだが今日は薄雲ぐもりだから薄いカーテンを閉めて灯を微かに点けてシリアの難民をトルコがシリアに送り返している、ヨーロッパの難民政策が厳しい局面にいよいよ体裁を考えず人道主義を揺るがす送り返しに暗黙の了解を与えていると報じられるそんなニュースを見ていると天気予報になった。 さっきまでの上空の雲の動きをヨーロッパか北アフリカ上空の気象衛星から送ってきた画像で観ていると湿気を含んだ雲が北に流れていくのが見えた。 するとそのうち薄暗い室内がまるで外では火事かなにかが起こっているようにボヤーッと明るく赤くなった。 カーテンを開けてみると東に面した街路樹と運河の向う岸の人家が燃えているようだった。 道路に並んだ車が暗いのは西日が屋並みに邪魔されて当たっていないからだ。 西の空を眺めてみても特に燃えるような空でもなく普通の微かな夕空なのだが東のスぺクタクルは一年で何度も見るものではない。 尤も起こっていても気が付かないことが多々あるのだろう。

オランダには富士山の10分の一ほど、322m以上の山がないから西日に照らされて燃えるような山の景色をみることはない。 それにここに見るようなこういう色は秋にはあるかもしれないが春から初夏にかけて緑が茂る頃には木々に映えても緑が入るからこのようには燃えないだろう。 それに後ろに見える雲からしてかなりの湿気があってそれがレンズの働きをしてこのような分光作用でこの色を出すのだろう。 秋のからっとした目に染みるような紅葉の光とここでの湿り気のある光では少し趣が違うようだ。 これをコダックのエクタクローム・フィルムで撮ればどのように写るのだろうかともう40年ほども使っていないフィルムのことを想った。

ニュースが終わって8時半だと腕時計を見ると5分遅れていた。  昨日、ロブの店で12月までに止まることがあればもう寿命だと言われたその翌日にこれだ。  落語に天王寺詣りで鶴は千年亀は万年と言われている銭亀を買って来ると翌日死んだ、文句を言いに亀商いのところに行ったら、ああ万年目だった、寿命でしたな、というのがあるけれど、何だかそんな気分だ。 ものにはいつか終わりが来る、けれど時にはそのことを受け入れるのは楽ではない、と凡庸で陳腐なことを燃えるような夕焼けの中で思ってもみる。


今日だけは初夏のテストケースだったのか

2016年04月11日 19時46分19秒 | 日常

 

日中気温が18度まで上がった。 初夏だ。 けれど前線が通過して明日からはまた12℃ほどの平年並みに戻ると言っていたからこれは今日一日だけの初夏のテストケースなのだろう。

買い物に出かけるのに相も変わらずいつものルートを辿っていると家の近くの中高一貫校から帰る生徒たちがあちこちに屯している。 この学校はうちの子供たちも毎日通っていた所で目の前でボートを繋ぐ桟橋に坐っている男2人に女3人をみると高校の1年生ぐらいのように見える。  うちの子供たちのほぼ10年前と比べられるだろうか。 こんな突然の初夏では誰もが外に出て日向ぼっこをし子供たちは集まってブラブラガヤガヤ言ったりしたりするのが普通だ。  寒かったり雨が降っていたりして学校が2時間ほど休講したり時間の隙間があったりすると学校から5分ほど歩いてうちの台所で7,8人のこんな若者たちが屯していることがよくあった。 今日は気持ちのいい初夏の陽射しだからここだけでなく濠の向う側の公園でもカップル、グループ、年寄りたちに路上生活者たち沢山の人々が芝生に寝転んだりボールを蹴り合ったりベンチの周りでおしゃべりをして寛いでいる。

自分が外に出る気になったのは天気が良かったからなのだが1週間ほど前に急に止まった腕時計を見てもらいに又ロブの店に行くことと明日の晩飯の買い出しをすることだった。 ブラブラと濠に沿って自転車を漕いでいるとこれもこの時期あちこちからジョギングの老若男女 が自分を追い抜いて行ったりこっちに向かってきたりする。 

ロブの店で自分の古い時計が10日ほど前に止まって1時間半ほど気が付かなくてその後竜頭を引っ張り出して時間を修正するとそのまま今まで正確に動いていること、こういうことを警告されていたから危ないとは感じていたけれどそれでも修正してからは遅れもせず動いているのだからその原因を探れるかどうか尋ねてみるのが目的でもし引導を渡されたならロブの店にあるこの時計に酷似したコレクションの中から選ぼうかとも思案していた。 ま、診てみようかと一緒に階上の日当たりのいい作業場にくるとそこは引っ越し前、斜め前にあった前の店の作業場とは比べ物にならないほどの広さに高さだ。 流石19世紀の建物だ。 亡くなったヘンク爺さんの銀細工・金工のテーブルはそのまま使われているようすでプロのアトリエの様子に暫く見とれていた。 下に誰もいなくともこのときはロブ自身と見習いの20代に入ったばかりだと思われる女細工師の卵が開けっぱなしのドアに客が入ってくるとセンサーにかかったブザーに対応し数台あるカメラのモニターを見て対応する。 下の広い店はガランとしているけれど皆の動きはモニターに出て同時に記録されている。 

粗方これまでの経緯を思い出させるべく2か月ほど前かここに来て埃を掃いいい加減な路上の時計売りに入れられた間違ったバッテリーから時計が求める正しいバッテリーを入れてもらって以来のこれだと説明した。 蓋を開けて、いや、1月の中頃だった、ここに書いておいたからと豆粒ほどのバッテリーを示して言い、すぐにテスターで電圧・電流を測る。 このバッテリーでは5年ほどは保つから今の残留量ではちょっと少な目だけれどメカに負荷がどこかでかかっているからこうなのかもしれないと電池を抜いてテスターの電流計で赤と黒の電極をあちこちに当てている。 電流のレベルを換えて細かく測るのにテスターのスイッチを動かすのを手伝わされた。 もう大方40年前に大阪の輸出会社で働いていたときアメリカに輸出していた商品のアマチュア用のテスターを今でも持っていて時々使うから要領は分かっているのでプロの精密機械を扱うのに使うこのテスターは興味深かった。 どっかに負荷がかかっているということもあまりありそうにないけれどどっかのシャフトに何かが何かの具合で引っかかるときがあるのかそういうことも起こる、けど時間を直した後は次までちゃんと動くんだからま、寿命ということも言えるのは前にも言った通りだ、30年使っていたらこういうもある、と言って新しいバッテリーに今日の日にちを入れて蓋をした。 もうだいぶ前、まだ全く故障がなかったとき2年で4秒ほど進んだか遅れたかしていた、というとこの時計なら1年で2秒ぐらいの誤差では御の字だといった。 日本の地元の古い時計屋で買ってから何週間か経って進んだか遅れたかしてその誤差をいうと蓋を開けて修正して以来時間の進み具合でそれからは調整していない。 ロブは、12月までこのまま一度も止まることがなければいいけど止まったら面倒だぞ、何年か前に120ユーロほどかけて修理したらしいけどまたそれぐらいかそれ以上かかるぞ、それならそれくらいであそこの棚に並んでいる同じような形のものがあるのだから12月までが勝負だ、と言う。 やれやれ、古い機械の寿命と言われてもそれでもこれをそのまま先送りしたいというのは老母の事情と重なるようだとも思った。 

店を出てからスーパーに行って買い物かごをぶらぶらさせて夜食のつまみにチーズとサラダのペースト、小さく切ったパーティー用のパンを買った後無料のコーヒーのところで屯している顔見知りの老人たちと献立のヒントを話していて明日はポークチョップにしようと決め、幾つかの食材を買い物袋に放り込み支払いをしてスーパーを出た。  公園を横切り濠端に出て戻ってくるとあれから1時間半は経っているのに同じ子供たちが水辺でまだ屯していた。 


Fritillaria uva-vulpi という花は、、、、

2016年04月10日 23時15分05秒 | 日常

 

Fritillaria uva-vulpi という名前が植木鉢の中に見える。 この平たい植木鉢の中には先月の中頃には小さく短い水仙が咲いていてそれは今あちこちで咲いている普通の水仙の3分の1ぐらいの高さだったけれどそれが済んでからまだ尖って残っている葉の間から同じような形の葉が生えてきてそのうち茎が長くなり今、薄紫の袋のような豆チューリップに見えなくもない小さな花が下がっている。  頭が垂れているから紫の雪割草みたいに見えるから、それにチューリップのようでもなく袋のようだからそんな植物の交配で造ったものなのかと元の名前をウィキペディアに入れて牽いたらオランダのサイトにはかなりの説明が出ていて左の言語に日本語がないから和名がないのかとも思い英語のウィキペディアのみると英名でもなくそのままラテン名が出ている。 ラテン語でキツネのブドウを意味する「Fox's Grape」と直訳されるのだそうだ。 で、この英訳を日本語のグーグルに入れてもこの植物はでてこなくイソップ寓話のキツネとブドウの話しかでてこない。 

キツネとブドウか、あれはキツネが手が届かないブドウをみて、あれはきっと酸っぱいんだとやせ我慢や負け惜しみをして諦めるということなのだが日本人には良くわかることわざだ。 中国人ならそんなものでも腹に入るならと無理してもよじ登って取るだろうしアメリカ人なら甘いか酸っぱいか口に入れて見なければわからないだろうとそのうち味のことは忘れて取ることにやっきになるだろう。 それでは自分が住んでいるオランダではどのように思うだろうか。 先ず誰かが取るまで待っていてその様子を見る、それで美味そうだったらそれでどれくらい得があるのか考えてそこでやっと動き出す、ということになるだろう。 酸っぱくてもそれを誰かに売るという手もあるのだ。 売ればその金で甘いブドウを買えばいい、売ればこっちのもの、誰かがその使い道を考えるだろう、というような具合だ。 

ラテン語でキツネのブドウというのは面白い。 普通の水仙ほど高くなくキツネが歩いていて鼻の辺りにぶら下がる高さだ。 マスカットでもなく普通の色のついたブドウの形をしている。 これなら高いところにあるブドウをみて、あれは酸っぱいのだからと諦めることはない。 実際に口に含んで試すことが出来るし試してタヌキに騙されたと怒るかもしれない。

初めの Fritillaria というのを入れて検索してみると バイモ属と言うのが出てきてユリ科の属だと書いてある。 それにそれはラテン語でサイコロを入れる筒だとも書いてある。 各国語を比べてみて分かったような分からないような説明だ。 オランダ語や英語では東トルコ原産のチューリップの仲間だと書いてあった。 沢山の種類が書いてあるけれどこの種類のことは出ていなかった。 編集する人間の眼に未だ入っていないのだろう。 

それにしてもバイモというのは何だか今風に聴こえるのは「モーバイル」をひっくり返したような、またバイクのモーターの略称、バイモーゲッジ、ローンをもう一つ加えたもののようなまるであるかないか分からない響きになるけれど何だか普通にありそうな響きだ。 これには漢字があって「貝母」らしい。 バイ貝というのがある。 それではあれは貝貝かと呆れて牽いてみればそのとおりだとあった。  それでは母というのはなんだろうか。 そこまで牽く気にはならない。 そういう態度が何でも中途半端にしてしまう悪い癖だとは分かっているけれどそうなるとその「母」は酸っぱい母だと諦める日本人根性なのだろうか。 アメリカ人だと、、、、、それに中国人だと、、、、、、あ、これは元々中国語だったのだ。 元々母の点々は二つの乳首だったそうだが自分が小学校の時に点々は古い書き方、今は上から下に一本でなだらかな斜線にすると教えられた。 乳首が消えて何になったのだろうか。

いずれにしても自分には Fritillaria uva-vulpi は長すぎて覚えられない。 貝母属というのも何だか母のために貝を探して海岸を彷徨う野蛮人みたいでこの花のイメージとはかけ離れてしまう。 だから結局元々のローマの田舎でキツネが彷徨っているときに、あ、ブドウだ、といって口にして、あのタヌキの野郎騙しやがったな、大明神に告げ口して懲らしめてやるからなというキツネノブドウとして覚えておこう。 けれどキツネのブドウとしてどこで検索しても殆どがイソップ寓話が先に出るし、結局は 元の Fritillaria uva-vulpi でしかない。 そうなるとそれを指さしてあんな長いとっつきの悪いものは喰ってもすぐ忘れてしまう毒が入っているのだと負け惜しみを言って一つ写真をとってカメラに覚えさその場を離れる。

 

ウィキ゚ペディア; バイモ属の項、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%A2%E5%B1%9E


やっつけのハンバーグ

2016年04月09日 02時43分14秒 | 喰う

 

献立が思いつかずやっつけで晩飯をつくることがある。 家人と二人だけの食事と子供たちが喰いに来るときでは違うものを作る。 子供たちが一緒の時、気分がのらない場合やっつけでつくるバリエーションの中にハンバーグセットがある。 

オランダからヨーロッパのあちこちにバカンスなどで長距離出かけるとき途中の高速にあるサービスエリアで喰うものの一つがこれだ。 日本のサービスエリアと違いどこも美味くない。 だからどこのが一番酷くないかというマイナス思考が基準で、これはオランダのあちこちの高速にある「家庭的」なチェーン店のものだ。 プレートに乗せた皿の上にバイキング方式で勝手にいろいろ並んでいるものを人の後ろにゾロゾロついて行き取って選んだらこうなる、という風な献立だ。 子供たちは「パパのサービスエリア食」という。

スーパーでサラダの袋、挽肉、ハンバーグ・ミックスの粉、玉葱、トマト、ニンジン、缶入りコーン、冷凍豌豆、袋入りマッシュポテトの粉を次々に放り込んで支払いスーパーを出る。 買い忘れたものがあっても戻らない。 

家に戻るや否や小鍋に水を入れ沸かす。 もう一つの鍋にマッシュポテトの箱に書かれた量の牛乳を入れ弱火を点ける。 サラダの袋を破り中の者をサラダ椀に放り込み冷蔵庫にあったパプリカとトマトを適当に切り甘い玉葱の超薄切りを振りかける。 もう一個の玉ねぎをみじん切りにしてボールに入れ挽肉を加えその上にハンバーグミックスの粉を振りかけ、パン粉を少々加えオリーブオイルを数滴たらしてかき混ぜ捏ね、子供たちには150gほど我々は100gほどの塊にする。

7-8mmほどの角切りにしたニンジンを沸騰した湯に入れて2-3分してから水で晒しておいたコーンと冷凍のマメを放り込んで5分ほど茹でる。 その間に熱くなっていたミルクにマッシュポテトの粉を徐々に掻き回しながら溶かし2分ほどでマッシュになったら塩、胡椒、ナツメグを擦って振りかけバターと熟成チーズの粉を混ぜて出来上がり。 茹で上がった野菜には塩を振りかけバターで絡める。

茹でている間にフライパンでバターを溶かしオリーブオイルを加えてハンバーグを焼く。 デミグラソースはフライパンの脂で細かくみじん切りにした玉ねぎを炒め安赤ワインを加え塩コショウ、醤油、トマトケチャップを適量加えとろみを出す。 サラダにオリーブのヴァージンオイルを垂らしバルサミコ酢を吹きかけ出来上がり。

デザートはプラスチックに入ったオランダ伝統おばあちゃんのプリン、1個50円なり。

これがパパのサービスエリア食である。 美味いとも言われないけれども文句も出ない。 皆の期待通りなのだ。 この25年ほどで月に一度だったらもう300回以上作っていることになる。 やっつけというのはそういうものである。 けれどキッチンに入ってから喰い始めるまで30分はかかるからこれをもう少し短縮する手はないものかと考えてみるけれど材料、手順はこんなものだろう。  ラジオのニュース、ジャズを聴かなければ手が早くなるのかもしれないし途中の安ワインの「味見」も速度を落とす原因になっているのかもしれない。