暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

これで今年のブログの書き納め

2014年12月28日 01時16分56秒 | 日常

 

オランダは27日には初雪がパラつき鉄道のネットワークに乱れが出たようだ。 28日は晴れ間が出て交通網には問題がなさそうだ。 28日の朝10時半にスキポール空港を発ちパリ経由で大阪に向けて飛ぶ。 雪が降らないようだから空の便にも乱れもなく恙無く機中の人となれるだろう。 昼の1時を廻ってパリを飛び立ったら11時間ほどは飲んでは喰い、映画を観ては少し眠り、また飲んで、、、足腰を伸ばすのに機内を歩き回る、といういようなことをしながら日付が変わって29日の朝関西空港に着く。 施設の老母と過ごすのが目的だ。 墓参りをして友人達に会い、頼まれごとの買い物もし、世話になっている叔父、叔母の家族と食事をし、、と約2週間のホテル住まいになる。 日本にもう帰る家はないからこのホテルにこの4年ぐらい毎年今の時期に逗留しているだろうか。 毎日早朝から小さなジムでちょっとしたトレーニングをしてから風呂とサウナに入り9時前には一日のスタートをする。 自宅の日常とは時間帯がまるで代わってこの時期だけはまともな生活時間に戻る。 

このブログもホテルの部屋では持参のアイパッドで見られて書き込みも出来るのだが写真が貼り付けられないから1月中旬にオランダに戻るまで2週間ほど休みにする。

 

各自、よいお年をお迎えになられることをお祈り申し上げます。

 

Vogelpoep (鳥の糞) 拝


車が動かなくなり焦った

2014年12月26日 19時11分31秒 | 日常

 

2014年 12月 24日 (水)

オランダのクリスマスは日本とはかなり違う。 アメリカ流の派手なものは若い人々を通じて徐々には入ってきているけれどまだ成熟した社会には伝統的な落ち着きがあって、オランダのキリスト教の文化の中ではサンタクロースはまだ馴染みがすくない。 12月の初めにはオランダの子供たちが待ちに待ったシンタクラースからプレゼントを沢山もらったばかりなのだ。 サンタクロースはメディアの世界ではコカコーラが掻きたてるアメリカのプロパガンダでしかないと大人は観ている。 それに浮かれるほど能天気ではない、ハローウィンほど酷くないにしてもアメリカ人のしそうなことだと醒めた目でみる。

毎年この時期に思うのは、24日からかけての雰囲気は日本では大晦日から元旦、正月の三が日にかけての雰囲気に似ていると思うことだ。 24日はイヴであるけれど夜は静かに近くの教会のミサに行くぐらいで昼までに25日のクリスマス第一日の家族ディナーの準備に追われる姿は大晦日に似ている。 25日になれば午後3時ごろから家族が集まってそれから9時、10時ごろまでディナーで過ごす。 それこそ家族だけ、そこに新しいメンバーが加わって本当の身内だけのものなのだ。 このような習慣はイースターがあるとはいえクリスマスの25日の午後から夜にかけてのものが一番大事なもののようだ。 26日の第二クリスマス日は何もせず天気がよければ近所の公園を散歩したり子供たちは友人と一緒にまたどこかで自分達のパーティーをしたりとそこから家族の絆が緩む。 だから自分には25日が日本の元旦に相当するものとみている。 逆にオランダの元旦は休みではあるものの大晦日のパーティー疲れと頭痛から昼ごろまで寝て2日から仕事となり日常が始まる。 松の内などはない。 だからこのように24日から26日にかけては日本での正月気分ということになる。 それに仕事にしてももうバカンスにもなり、休暇をとれば1月の4,5日まで10日ほどの休みにもなり、この24日が如何にこれからの時期に突入する準備の忙しさのピークになるかが想像できるだろう。

姑が先週施設で夜中に転び、その音の大きさに驚いた階上の看護人がどこで何が起こったのかを探し当てて応急処置を施され、翌日病院で骨折の有無を調べ、何とか折れてはいないことを確認して皆一安心したものの、全治6週間と言い渡された姑は不自由な体で施設の外に出ることも叶わず今年のディナーは彼女を抜きにして最近ではまれに家族4人だけで過ごすことになった。 一昨年は舅と姑、息子のガールフレンド、娘のボーイフレンドがいて8人賑やかだったが去年は姑、息子のガールフレンドと6人、今年は近年になく家族4人だけで過ごすことになる。 28日に日本に向けて飛ぶ予定だったから高齢の姑が骨折していたり持病が悪化したりしていればオランダで足止めをくう羽目になった可能性もあり、何とか酷いことにならずに済んだ事に少しは安堵した。

昼前にディナーの前菜を新鮮な魚の盛り合わせにしようと車で10kmほど離れた港町の魚屋に出掛けたらその店とその一帯が消えていた。 以前から再開発の気配があったものの嵩を括っていたのだ。 出る前にネットで調べていれば新しい店の住所が分かっただろうから慌てることもなかったのだが仕方なく海岸の大通りを車で流したけれど見つかるわけもなく、そうなら近所の義弟の家に行って聞けばいいわけだと気付き車をそこに向けた。 車を駐車させて呼び鈴を押したがだれもいない。 どこか近所に行っているのだったら2匹いる犬が喧しくドアのところに来るはずがおとなしいからここも今は夫婦だけになった二人は今晩の準備に犬を連れて走り回っているのだろう。 仕方が無いからもう一度港の近くに行ってそこに住んでいるような歩いている老人に聞けばよいと車に戻ってキーを差込み発車させようとしたのだがウンともスンとも言わず、そのままだ。 今の時期バッテリーが上がっているのならそれなりのゆっくり回転する音も聞こえるはずだからバッテリーではない。  こんなときのために毎年金を払っているオランダ・ツーリング・クラブの巡回修理サービスを頼まねばと携帯で連絡すれば今から1時間でそちらに行くと返事があった。 こういうことはこの30年で3,4回しただろうか。 一昨年は夏のバカンスの折、オーストリアで地元のヘルプを呼んだ。 30分で陽気な若者が黄色いバンでやって来てテスターやらなんやらで一渡り調べたが埒が開かない。 エンジンスタートのモーターには異常も無いし、もちろんバッテリーにも支障は無い。 だからキーからスターターに電気信号が伝わっていないことが原因なのだという。 それにはこんな路上でやっていると3時間も4時間もかかるからここはひとまず自分の車でこれを引張ってスタートさせるからあなたの希望のガレージまで運転して行って修理するしか方策がない、という。 それに加えて、もしキーについているドアのロックを開け閉めする発信機に故障があれば2,3日はかかるのではないか、今の時期、クリスマスから歳末にかけて徐々に社会の機能が低下しているから、、、、、と言ってバンに繋いだ10mほどのベルトで引張るとエンジンがかかった。 修理にはなっていないので実費もかからず若者は、まあ御成功を、といって次にどこかで待っている車のトラブルに向けて去っていった。

家に着くと時を同じくして息子の車が目の前に停まり2台の車で1kmほど離れたガレージに行きエンジンを止めずそのままカウンターのところに行って話すともしかして予備のキーなら動くかもしれないからというので息子をそこに待たせてまた家に戻り予備のキーを持ってガレージにもどりちゃんと駐車スペースに駐車してここで初めてエンジンを切った。 予備のキーをおもむろに差込みひねってもウンともスンともいわない。 カウンターの男は、もし発信機とその回路がいかれているのだったら部品を取り寄せなければならなく、今の時期、24日の午後1時半ではどことも4時までしか仕事をしないし26日から後も整備工たちも半日ほどづつしか働かないし、バカンスに入るものたちもあるから悪くいくと最悪来年に、、、、と最悪のシナリオをつきつける。 取敢えず今日のところはこれからどんな具合か調べさせてそれを後ほど連絡しますというので自分の携帯の番号を知らせてそこを出るときに、もしここで車の年越しをさせないといけないのなら代替の車はないのかと訊くと生憎今の時期全部出払っているという。 リースの手配もできるけれど、、、というのを後ろに聞いて息子の車に乗り込んで帰宅した。 自分は28日早朝に日本に飛べばあとは1月の半ばまで帰ってこないのだから車は使わないのだが、家人は施設の母親のところに行くのに車が要る。 困ったことだ。 息子の車をあてにすることは出来ないからどうしようか、と思案をめぐらせたけれど妙案もなく、そのままディナーの買い物を急がないとあと3時間ほどで店は全て閉まって一貫の終わりだ。 自転車に乗って大慌てで最後の買い物で賑わう魚屋に飛び込んであるものを掴み、スーパーで人々の間を縫って必要なものだけ買い込んでいるとガレージの整備工から電話があった。 電気回路には問題が無いけれどスタートモーターが焼ききれてますな。 幸い同じ品番の予備が棚にあったのであと1時間ほどで出来上がります。 3万5000円です、との事だ。 安くは無いけれどどこか安心した。 つまり、来年までそのまま車がつかえない、もし姑に何かあると、、、、姑でなくともまだ危ない叔母さんが何人かしるし、、、等々。 

買い物を済ませ家に自転車で戻りウオーキングシューズに履き替えて1km歩いた。 息子は自分の買い物があるのか彼の車は消えていた。 明日の午後このあいだプロに習ってきた本菜の鹿肉の料理を娘と一緒にするのに来るまでもどってこない。 そんな風に今の時間大人はディナーの準備でなければプレゼントを買いに大抵は飛び回っている。 修理の金を払いキーを受け取って家にもどれば5時15分だった。 

今日の昼前からの狂騒は何だったのかと思い返した。 単に車が動かなくなっただけの話なのだが、それが普通の時期なら何とも無いのだが日本の大晦日にあたる12月24日でオランダでこれが起こるとパニックになる例でもある。 今日の6時間は久しぶりに焦った。


家族4人で Nijmegen の町を散策してきた

2014年12月24日 01時52分20秒 | 日常

2014年 12月 23日 (火)

家族4人でナイメーヘンの町を散策してきた。 なぜナイメーヘンかというとそれぞれ通り過ぎたことはあっても今まで誰も町をじっくりあるいたことがなかったことと、家族でこの何年も恒例になっているこの時期にどこかの町を歩いてそこで食事をして帰ってくるという行事としての散策だ。 今までアムスステルダムは何回も歩いているし、ハーグ、グロニンゲン、ハーレム、ドードレヒト、去年はロッテルダムと続いている。 インターネットで市内散策ルートをプリントアウトしたものをもって出かけた。 駐輪場に家人と二つ自転車を置いてプラットホームについたら9時だった。 10分ほど待ったら駅の近くに下宿している娘が駆け込んできていつもの通り彼女の後ろで電車のドアが閉まった。 1時間弱でユトレヒトに着くとそこでハーグから乗ってきた息子の電車に合流して1時間ほどでナイメーヘンの駅に着いた。 ここは何度か通過しているから駅の様子は分かるけれど駅前からの風景は見知らぬものだ。 けれどオランダの町の風景はどこもあまり変わるものでもなく、駅舎の建築様式が60-70年代のものに改修した跡がみられるまだ普通のものだ。 他の大きな駅はこの10年ほどで新しく建て替えられてモダンなものになっていて今一番新しいそんな駅はロッテルダム中央駅だろう。 アムステルダムも改修が済んだとはいえ東京駅にみられる19世紀の様式を補修したものであってモダニズムは表面にはみられないものの、ここナイメーヘンは70年代と第二次大戦後の時計台を残した当時のモダニズムの片鱗がまだ見られるようだ。

駅前から古い中世の城壁を残した公園を抜けてヴァールというライン川の支流に向けて歩く途中で古いカフェに入って朝のコーヒーにした。 そこではもうすでに年取った常連達が強い酒とビールを交互に啜っていた。 ヴァ-ルに近づくにつれて片側にこの時間から赤い灯火を点して夜の姫君たちがこちらに笑みを向けるのだが、それは多分自分と息子に向けているのであって家人と娘には女の品定めをするような視線を投げているに違いない。 なるほどヴァールの護岸に近いここは古くから交通の要所でもあり港町でもあるのだからこういう商売がもう何百年と続いているのだ。 興味深いのはここではアムステルダムでもあまりないような二階から姫君たちがこちらを見下ろし笑みを投げかける様式だ。 ざっと数えても30人ぐらいいるだろうか、この町にこのような飾り窓があるというのが驚きだった。 34年前に住み始めた北の街グロニンゲンにもこのような地区があるけれどもっと大きく、当初興味深かったのは昼間から老人達が夜の姫君たちと親しくコーヒーを飲みながら話している姿だった。 もう枯れてその手の気配も薄くなり無聊をかこう老人達の暇をつぶすのに日向ぼっこをしながら姫君たちと冗談を言いながら過ごすのだ。 これは我々の親の世代の永井荷風の世界に通じるものだ。 後で聞けばこの老人達はこの茶飲み話のために何がしかの料金を払っているとの事でこれなら姫君たちにも悪くない老齢社会福祉に貢献する話でもある。

ヴァールの流れはかなりあって近くのドイツ国境から降りてくる貨物船の速度はかなりなものだ。 ライン川の支流はいくつもあって自分はナイメーヘンとアーネムの区別が今でもつかない。 それはじっくり歩いたことがないこともあるけれど両方ともに河に沿って交通の要所でもありその橋の形が似ていること、どちらも第二次大戦でドイツ軍に町が平らにされ連合軍の救出作戦が失敗に終わった歴史を分かつところにも依るのだろう。 オランダ西部から出てくればこのあたりの地形・情報には疎くなる。 けれどこの水は自分の家の近くを流れ自分の町の中心地を通って10kmほど下って北海に注ぐ。

川の畔に装飾品のギャラリー Marzee があってそこに入った。 

http://www.modernartjewelry.org/

自分には初めてだったが工芸をする家人には以前から名は知られており、昔の4階建ての倉庫を改装した機能的でモダンな素晴らしい店、というより個人・企業の装飾美術館様式だった。 現在のように公共の美術館が資金難に喘ぐ中、個人若しくは企業で他から縛られることなくこういうギャラリーを維持することは楽ではなく多分世界中の美術館に情報を提供しそれによって契約の作家たちの作品を売ることで価値を維持するという戦略であるに違いない。 契約、若しくは所属の作家たちの多様な作品を観ることでそれが理解できるようだ。 日本の作家も何人かみられ金細工とデザイン、意匠から観ても美術館クラスのようだ。 広いスペースに機能的に配置され展覧会様式のスペースではドイツの作家が装飾とデザインの狭間を試みる作品も観られ素材と貴金属との組み合わせには眼の保養になるものを認められる。 1時間以上ここにいたのだがその間客というかここに入っていたのは我々家族4人だけだった。

そこから少し河にそって歩けばオランダで最初のチャペルと言われるローマ時代から連綿と続いている城砦の今はこのチャペルだけしか残っていないところに出て、右にドイツの景色、中央から左までオランダの遠景が楽しめる高台になっている。 公園を抜けるとモダンな市の博物館の広場に出てそこからは繁華街が続く。 平日ではあるけれどクリスマス前だからショッピングの人通りが多く、何も差し迫って要るものの無い我々は御のぼりさん然としてどこの大きな街にあるようなショッピングセンターをブラブラと観て歩く。 どこの町にもある安いデパート、HEMA の食堂でそれぞれ勝手に好きなものを取ってきて自分はグルテン抜きを心がけなければならない身だから持参の海苔で巻いた握り飯2個と紅茶とミントの束を組み合わせた茶で昼食にした。

どこの町でも高いところには昔から教会があリ、それはこの町でも例外ではなかった。 その大伽藍はステーヴェンス教会で、様式は自分の町のハイランド教会に似ている。 中に入るとクリスマス・ムードでパイプオルガンがバッハのG線上のアリアを奏でていた。 そこからブラブラと市内散策の順路に沿って終点近くのほぼ駅近くまで来て古いコンサートホールのカフェーでビールを飲んだ。 出る前にカフェーの後ろに広がるコンサートホールを見学した。 1920年代の建築様式と見られ、アムステルダムのコンセルトへボーと同様の様式で2000人以上収容できる入れ物だ。 コンセルトへボーと違うのはコンセルトへボーのようにオーケストラの後ろ横に階段状に広がる観客席が無い代わりに古い劇場のように二階、三階の席があることだ。 

そこ出たときは4時半ごろで空腹でもなく、夕食のあてもなく、それならユトレヒトに戻って夕食にすればそこに行き着くまでにレストランのあてが見つかるだろう、それを探すあいだに空腹になるに違いない、というのだが、自分はせっかく知らない町に来たのだから今晩はここで何かを喰おうと言い張った。 しかしこれから3時間ほどどう時間を過ごすかを考えてそういえばここまで来るのに通り過ぎた映画館を思い出し、久しぶりに、家族四人揃って映画館で映画を観ようということになった。 一緒に観るのはかれこれ20年ぶりになるのではないかと想像されるから、記念になるものである。 映画を一つ観て出れくればそれでそこそこいい時間になるに違いないと踏んでいくつかの映画館のプログラムの中からデンマーク製の西部劇をみることにした。 その映画については別に記すことにする。

映画館に着くとあと10分で始まるといわれ6つある映写スペースの一つに来ると我々4人を含めて観客は7人だけだった。 久しぶりの映画館の映画は面白いものだった。 1871年のアメリカ西部、10年前に移住してきた旧デンマーク兵士が国から初めて父親に会う10歳になる息子を連れた妻と駅馬車で自分の町、牧場に向けて旅たつところから始まる「救い」とでも訳せばいような作品だった。 英語がまだ話せない妻と子供はデンマーク語で会話が進む。 カメラワークとその色が素晴らしい作品だった。

映画館を出てぶらぶらしているとベルギーのレストランというかビストロというような客席100ほどの場所にきて丁度一つだけ空いた4人テーブルに落ち着いてそれから2時間半、なかなか旨いスリー・コース・ディナーを楽しんだ。 満腹とほろ酔い加減で駅まで歩いて戻ったけれど列車が来るまで時間があったので駅舎にあるアップライトピアノで「清しこの夜」や「樅の木」を弾き歌って時間を過ごしている間に時間通り電車が来てユトレヒトに向けて発った。 1時間ほどのあいだにうとうとしたけれど到着まえに車掌に検札のため起こされて老人用割引カードを見せて用を済ませた。 ユトレヒトで来るときに自転車を置いてあった地元の駅に向かう電車に乗り換え12時半に自分の駅にたどり着き15分ほど自転車を漕いで自宅に戻ったら1時前だった。

 

ウィキペディア; ナイメーヘンの項、

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%98%E3%83%B3


天使の分け前  (2012);観た映画、Dec. '14

2014年12月23日 06時20分58秒 | 日常

邦題; 天使の分け前   (2012) 

原題; The Angel's Share

   
上映時間 101分
製作国 イギリス/フランス/ベルギー/イタリア
   
 
 
「ケス」「麦の穂をゆらす風」の名匠ケン・ローチ監督が、荒んだ環境に生まれ育ったスコットランドの若者を主人公に描く感動のハートフル・コメディ。暴力に明け暮れた先の見えない生活を送る青年が、ウイスキーが取り持つかけがえのない出会いをきっかけに初めての希望を見出すさまと、仲間たちと挑む人生の一発逆転を賭けた一世一代の大勝負の行方を、スコッチウイスキーの奥深い世界とともにユーモラスかつ痛快に描き出す。主演は本作のリサーチ中に見出されたという新人、ポール・ブラニガン。

長引く不況で若者たちの多くが仕事にあぶれるスコットランドの中心都市グラスゴー。教育もままならない環境に育ち、親の代から続く敵対勢力との凄惨な抗争が日常と化した日々を送る青年ロビー。恋人の妊娠が判明し、心を入れ替えようとした矢先に再び暴力事件を起こしてしまい、裁判所から300時間の社会奉仕活動を命じられる。そこで彼が出会ったのは、同じく社会奉仕を命じられた男女3人の若者と、彼らの指導にあたるウイスキー愛好家の中年男ハリーだった。ロビーはやがて、親身に接してくれるハリーからウイスキーの奥深さを学び、興味を持つようになる。そして、ひょんなことから“テイスティング”の才能に目覚めるロビーだったが…。
 
上記が映画データベースの記述である。 オランダ国営テレビの深夜映画で放映されたもので観た。 ケン・ローチの映画だとテレビガイドに出ていたから筋も読まずに観始めたのだが題名で少しは見当がついたし観続けていくと田舎にあるスコッチ・ウィスキーの醸造所などを絡めた話に入っていき俄然興味が湧いてくる。  なるほど主人公が荒れて救いの少ない環境から一点突破的な才能を元にして回生していく話としては面白いのだろうがそのコメディー仕立てにローチの作、「エリックを探して(2009)」を観て次のように書いたことと比べられるかもしれない。 
 
 
エリック、、、の方ではエリック・カントナーが出てきて虚実まざったそのコメディーにファンタジーが混ざっている分、暴力から逃れるのにどのような方策があるのかの本題が割合に納得が行くのだが本作のほうでは直線的なハッピー・エンド仕立てにはコメディーの質が立ちすぎてローチが自分の映画を造り続けていくのに観衆と資金を増やすトリックが必要なのは周知の事実なのだが、そうなるとそちらに引張られた末のようでどこか腑に落ちにくい点もあり、それを考えていた。 
 
また、5年ほどまえに「麦の穂をゆらす風 (2006)」を観て次のようにも書いている。
 
 
上の二作をここに牽いたのには理由がある。 二つのコメディーと歴史・社会・政治の絡んだシリアスな作の違いでもあるのだが、どれにも或る種の社会正義を見据える眼があってそこに暴力が絡むことが共通している。 社会的不条理とそこから抜け出すための方策を探る道とでもいうのだろうか、それがケン・ローチの作品に強くみられることで魅力でもあるのだが本作がコメディー性に大きく振れるなかでかろうじて「ローチ性」を確認するシーンがある。 主人公がコカインのために錯乱して暴力を振るった結果一生直らない傷を負わせることになる被害者とその家族と直接面談する場面が挿入されているのだがこのシーンがなければ本作は単なる調子のいい若者映画でしかない。 だから本作はこの場面でもっているといっても過言ではないだろう。

週末は天候不順だった

2014年12月21日 18時12分06秒 | 日常

2014年 12月 20日 (土)

土曜の夕食の買出しに行くのに午後ずっと風雨が止むのを待っていて、ひとまず収まったと思ったときに自転車で飛び出したのだけれど5分もしない間にまた風雨がなぐりかけてきたので慌てて自転車を停めてポンチョを被った。 ことし経験したことがなかったような強い雨風だった。 雨はどうということがないけれど風が酷かった。 表を通る歩行者や自転車に乗る者がみえず時たま車が行き交うぐらいだ。 西の風だからスーパーの方に行くには向かい風で変速器を一番遅いところにクリックしても一生懸命漕がなければ進まない。 濠端をえっちらおっちら体を屈めて漕いでいたらたまに反対側からくる自転車はほぼ漕がずとも疾走して自分の前を後ろに通り過ぎていく。 そこから5分ほどしてスーパーに着いたときには雨も風も止んでいた。 20分ほど買い物をして外に出るとまた雨風が戻っていてポンチョを被って元着た道を引き返したのだが今度は行きと反対に軽く漕いだだけでスピードがでて追い風だから少しも風を感じず軽快に帰宅した。 喉が渇いたのでビールを飲んでキッチンのラジオでニュースを聴いていると外が明るくなった。 結局自分が外に出ていたときだけ酷い雨風が吹いていたのだった。 何か弄ばれているような気がした。 気温が10℃以上あったから風や雨が顔に当たっても冷たくはなかったけれど鉛色で鬱陶しく暗い空だったのだ。 それが今は薄い青空が広がり夕焼け雲まで一筋二筋出ていた。  そこで空にカメラを向けてワンショット、あまりにも1時間ほど前の空とその違いに呆れたからだ。 そんまま暗くなって夕食後コーヒーの準備をしているとまた雨風が始まりこの2日ほど天候不順だと天気予報が言っていた通りになったのを確認した。


2014年の撃ち納め

2014年12月20日 00時02分32秒 | バンバン

 

2014年もいよいよ年末に向けて速度を上げつつある今日、仕事場で今年の最後の仕事を済ました。 これで1月の中頃まで仕事のしがらみもなく、また1月の中頃に日本から戻って2,3日仕事場に出かけた後はそのままずっと毎日が日曜日となる。 だから自分には普通の年末に加えてこれまで30年近く続いていた年末の忙しさの意味合いが大きくかわることになり、この時期に感じる思いも今までと違うことを自覚する。  

そんな金曜の夜、今年の撃ち納めと警察に来年の銃砲所持許可申請に必要な書類にサインをもらうために所属する射撃クラブに出かけた。 着くと役員の部屋には来年向けの射撃スタンプの手帳が出来ており、それを受け取り去年から始まった申請書に加えて自己の社会的、精神的状態が安定していることを申告する書類に同意する旨の家族と役員のサインがいるその署名を役員からもらった。 署名する者には家族を別としていくらクラブの役員としても実際に事が起これば連帯保証人であるからその責任を問われることは確かであることから彼らにしても簡単にはめくら判の署名をしたがらず、けれど自分はもう25年近くこのメンバーであることから署名するほうも何の躊躇もなく冗談をいいながらもこれを済ませ、そういう彼らの態度に接して25年ほどいればここは自分の居場所でもあることに安堵もする。 帰省直後所管の警察署に出向いて必要書類に加えて今年の射撃スタンプ手帳をもみせることになっている。 年間17回(日)以上射撃を行っていなければ翌年の許可がおりないのが規則なのだが幸いなことに今年はもう32のスタンプが押されていて、それは32回(日)射場に出て銃器を撃ったことの証明なのだ。 25mピストル6回、50メートルライフル6回の地区・全国競技会を除くと20回自分のクラブで撃ったことになる。 年間50週として夏、冬のバケーション期間5週間を除くと2週間に一度以上の頻度でここに来ている勘定になる。 

先週の日曜日に地区の古式銃の部の納会に出て日頃別々に顔を合わす他のクラブのメンバー達と楽しく時をすごした。 その中で期待していなかったことなのだが、自分が競技に出ている部門、25mフリントロック・ピストル、と50mのライフル部門でそれぞれ地区2位と3位になっていることを知らされ賞品をもらった。 この4,5年はフリントロック・ピストルの部門でずっとチャンピオンだったのだが、それも自分ひとりしかこの方式のピストルを持つものがいなかったということだけのためで今年から一人の若者が自分のピストルに憧れて同じものを手に入れこの部門に参加してきたから簡単に王座を明け渡しており、2,3人しか参加者のない部門には2位以下賞品を出さないのが通常だったものがどういう風の吹き回しかたとえワインの一本だとしてもそんな賞品が出たことに驚いたのだった。 他の部門では30人ほどの参加者のあるところもあってそういうところから、最下位で賞品がもらえるのならこちらに来ると冗談を言うものも沢山いてそういう者たちにそんな賞品を見せびらかしながら年々参加者が減ってきていることを実感するのだった。 古式銃のメンバーの高齢化が激しい中、一人でも若者が加わったことで活気がでる。

今晩、年末の撃ち納めとして自分のブローニング自動拳銃をクラブの射場に持っていった。 12m離れた紙の的を2回に分けて5発づつ撃った。 初めの二発は普通の眼鏡を使ったのだが的、照準、照星の三点が霞んで焦点があわないので老眼鏡をかけて照準、照星の二点に焦点を合わせて発射した。 このとき的の黒い丸は霞んでいたけれど下方の9点の数字を狙って両手で撃った。 8発全て黒丸の中に入ったものの弾痕が集まっていないから指、腕に振れがある。  32口径で比較的反動が少ないので腕を伸ばした安定ポジションではなくよく狙えるように両腕を曲げて顔の方に近づけて発射したら結果はいいようだった。 10年前ほどから視力が落ちて成績が下がってきている。 全国大会で入賞したことも何回かあるのだから勘は悪くはないはずだがとっくにこのスポーツのピークは過ぎている。 15年前であれば通常片手を伸ばしたままで10発全てが9点の円の中に納まっていたはずだ。 当時大口径の45口径で93点を最高として記録していた。 けれど人気のあるコルトリボルバー部門では93点でも地区競技では入賞できなかった。 今回の2位と3位の成績はそれぞれ42点と67点だった。 


尿酸値は通常だけれど、、、

2014年12月17日 14時21分28秒 | 健康

 

月曜に家庭医のところに行った後、雨の中そのまま血液検査のために医療ラボに出かけ尿酸値検査のサンプルを採った。 医者からの書類と運転免許証を出して本人確認の後、かわいいインド系の女の子が左腕関節のところを押えつつ、なんか血管が出たがっていないみたいですね、というので可愛い娘に腕をとられたら恥ずかしがりもするわな、そこが難しかったら右手をみたらどうかな、と右腕を出したら何のこともなく血管が浮き出てプラスチックの管に3cc、4ccと二つかなり濃そうな血が次々に流れ込むのを眺めながら、どれくらいで出来るの? 化学薬品を入れて遠心分離機か何かにかけるのじゃないの、2,3時間あればいいと聴いたけど、というと、でもね、今混んでるからあなたのお医者さんのところに報告が行くのは明日の午後ぐらいじゃないかな、というのを聞いてそこを出た。 そのあと薬局に寄ってこれから3ヶ月分の薬をもらった。 毎日服用する2種類に加えて日本で症状が出た場合の事を想定して痛風の痛み止めをかなりもらったので今までもらったことがないほど薬の山を持ち帰ることになった。

水曜の朝、家庭医に電話して検査結果を訊こうとしたら長年の医者ではなくこの3年ほど共同のクリニックになった新しい相棒の女医が出て彼女から報告を受けた。 尿酸値は通常ですが、検査の2,3日前まで痛風の症状が出て薬で痛みをとめてもまだ完全に消えていないということでしたね、痛風の痛みがあったりすれば尿酸結晶なのだから血液に尿酸が沢山あってそれが値に出てもいいのだけれどどうもそうではないみたいですね、そうですか、年末年始に日本にいらっしゃるならまたこちらに戻ってからもう一度検査してみましょう、痛風の痛みでなくとも痛みは今までの薬で効きますから、尿酸値ではないのでそれを下げる薬の量を増やすことはないです、と意外な答えが返ってきて首を傾げつつ生半可な分かり方で電話を切った。

てっきり尿酸値だと思っていたからその前に降下剤についている説明書を読んでいて、それによると本薬を使用している人の大部分は毎回300mgを服用していて必要の場合は医者の指示により600mg、900mg服用も可、とあり、それでは自分が今まで服用してきた100mgというのは普通より低度の尿酸値だからいよいよ服用量を増やすことになるだろうと踏んでいたからこの医者の説明には戸惑った。 そうすると昨晩から出た左足首の痛みは痛風でなければ何なのだろう。 一つ考えられるのは月曜晩のフィットネスでスキー・スラロームの器械に乗ってスキー・ストックをもち、右に左に体を傾けてレールの上を左右に振る運動で足首に付加をかけすぎた結果なのかもしれない、ということだ。 ほかには思い当たる節はない。 それならこのまま3,4日放っておいたら自然に治るようだけれどそれでも前から居残る左足甲の痛みは何なのだろうか。 とりあえず医者の言うとおりにすることにして痛みの新たな謎を懐にこれから一ヶ月ほど過ごすことになる。


何もすることがないから取敢えずクリスマスツリーでも、、、

2014年12月16日 14時19分45秒 | 日常

 

年末に帰省するのにそろそろ準備をと屋根裏によじ登ってスーツケースを下ろしたのだがそのついでに一年ぶりにクリスマスツリーのセットも引っ張り出して階下に持ってきた。 子供たちが小さいときは本物の樅の木を街角で買ってきて備えたりしたのだが当時は何かとすることがあって忙しく、大抵はそんな街角の臨時ツリー屋のコーナーにも木があまりなくなる頃だったから12月も20日ごろだったのだろう。 自分ではツリーを準備しようというような気もなく急かせられてするだけのことで本物の木を使っていたのは20年ほど前のだっただろうか。  それが子供たちが学校に行くようになるともう何回かツリーを買っては燃やすような毎年だったものが、それも環境のため、ということもあって隣町の城の中にある庭園の樅の木をこの期間だけ貸し出していてクリスマスが済めばもとに戻す、というような面倒でもあるけれど「地球にいい」という理由から子供たちとスコップを車に乗せて木を選び掘り返し重い根と土のついた木を運んだものだ。 手間がかかるし値段にしても燃やす木に比べてそんなに安くもなく街角で買ったほうが簡単だったのだがそれでもそんなことを3年ほどやっただろうか。 こどもたちも中学に上がる頃になるとクリスマスツリーにはもう興味を惹かれることもなくなりツリー作りも完全にルーティーンになっていたから、そのころ、もうこんな面倒なことを止めて一番手短なプラスチックの組み立てツリーにしてもいいだろうと今のものになった経緯がある。 だれもこれには反対しなかった。

今、こどもたちも家を出て家の中が静かになり、自分も定年に入り急にしなければならないことが減って少々手持ち無沙汰を感じ、それでは何もすることがないのなら取敢えずクリスマスツリーでもこしらえてみるか、という気になったのだ。 昨日ツリーの箱を降ろして居間においてあったものが目に入り、古くなった箱がみすぼらしく写ったからそれならツリーを取り出して、、、、、というような消極的な行動でもあるのだ。 子供の頃、ツリーを作るときに感じた浮き浮きするような気分などどこにもない。 なんともはや、これが定年老人の感慨かと気分も外の鉛色の空に同化しそうにもなる。


痛風の薬が効かない

2014年12月15日 09時37分59秒 | 健康

 

もうほぼ1年ほどコレステロールと尿酸の値を下げるのに毎日錠剤を一錠づつ服用している。 けれど痛風の発作が出ると痛みの原因になる尿酸の結晶を溶かすのに Arcoxia 120mg というオムスビ形の青いバイアグラに似たかたちの錠剤を飲む。 すると数年前までは1錠飲んで4時間ほどで痛みが消えていたものがこの1年ほど2ヶ月に1度ほど痛みが来て、1錠では効かず翌日にもう1錠追加してなんとか消えていたものが2ヶ月前には3日間毎日服用してやっと収まった。 それが先週発作が来たとき、左足の甲に痛みが来て4日間毎日服用しなければ収まらなかった。 痛みは引くのだが完全にはなくならず翌日には痛みがまた戻っている、というような状態だ。 1日置いて5回目の服用でなんとか収まったのだが、それでもまだ完全に痛みは消えておらず痛みの芯が甲の下に残っている。 けれど日常生活に差しさわりがないのでそのままにしているのだが、ただ、雨の中裏庭に出て生ゴミをコンテナーに持っていくときに木靴を履くのだがそのとき左足の甲と木靴の木が接触して痛むぐらいだ。 

今朝家庭医のところの出かけて診断を仰いだ。 尿酸値を下げるのに毎日一錠服用している錠剤は人によっては2錠、3錠と処方することがあり血液検査の結果で量を決めよう、Arcoxia 以外には対症薬として適当なものがないので日常の尿酸値を下げることが大事なのだと説明され、その足で雨の中、町の外れにある医療ラボに血液採取に出かけた。 念のために Arcoxia の処方を頼み午後薬局にとりにいく。 今これをしておかないと日本で発作が出た場合、そのとき薬がないとなると問題だ。 


在蘭文学者たち; ロシアの現在を巡って

2014年12月14日 12時21分07秒 | 聴く

 2014年 12月 14日

日曜午前中、オランダの国営テレビで週間文学テレビ番組を観た。 その番組の前はジャズやクラシックなどの新情報を話題の音楽家3人ほどがライブでそれぞれの作品を自己紹介する番組でもあり、これには2年ほど前までよく行っていたアムステルダムのジャズ・スポット、ビムハウスの舞台が使われており何度もその舞台でコンサートが終わってから第一線で活躍する新旧のジャズメンたちと親しく語ったことも思い出し、この2年ほどで大きく変ったジャズシーンのことも聴きつつこれらのこの30年ほど続いている日曜午前の定番音楽・文学タイムだったのだが、今日は久しぶりに見聞きした新刊の著者二人のそれぞれ30分づつインタビューで構成されたオランダ文学番組について興味が惹かれたのでそれについて記す。 

企画は現在ヨーロッパの周縁で起こっていることに関して世界的見地を含めた状況に間接的、もしくは思想的には直接関係している作家たちの発言だった。 それぞれ自分の文学を辿ってきて現在偶々世界政治の動きに連動した著作者たちであり一人はロシア語・ロシアの影響下で物心ついた女性であり、もう一人はロシアなどには関係なく戦後のインドネシアに生まれ5つのときにオランダに越して以来個人の興味を辿ってたまたまプーシキンを専門にした翻訳家、ロシア文学者であるとともにヨーロッパの古典教育の精化ともいうべくラテン語、ギリシャ語をはじめ9ヶ国語以上を辿り今自分の過去、系譜を辿ろうとしているインドネシア系オランダ人の二人なのだが両者に共通しているのはロシア文学に対する信頼とそれを辿ってきたがゆえに今の政治状況を批判しないではいられない一種危機的状況に対する警鐘を鳴らす二人であり、国籍はオランダであると無いとにかかわらず自己のアイデンティーはオランダの外にありオランダ語で活動しているということだろうか。

 この日は特にインドネシア系オランダ人作家、 Hans Boland について興味が惹かれた。

 

1)

著書名; Kinderen van Brezjnev (ブレジネフの子供たち)

著者; Sana Valiulina

ISBN: 9789044626407 

出版社;Prometheus、アムステルダム
 オランダ語; 504ページ
 
女性である著者は1964年にバルト三国のうちエストニアの首都タリンの生まれで1989年にオランダに越してきて以来翻訳家、ロシア語教師などを経て自分の経験を踏まえたロシア関係の著作を数冊上梓しており今回のインタビューではロシア訛りのオランダ語を話しながら自分が幼少の折、ブレジネフの葬儀が非常に印象に残ったことを基に自分の世代のことを彼女が今住む「西側」世界との比較で述べたと説明する。 1950年生まれの自分が1980年にオランダに住み始めたのに比べ、それから9年後に25歳でオランダに住み始めた女性と比べてその違いを考えると幾つかの興味深い点が浮かぶ。 自分が日本文学に興味をもちはじめ近代文学史を辿る上でロシア文学が果たした役割はその発展に不可欠であると認めるもののそれが忘れられつつある現在、トルストイ、ドストエフスキー、チェーホフ、プーシキン等の主だった文学者たちに親しんでくれば自ずと彼女の現在のロシアに対するスタンスが見えてくるのであり、それを一層加速するのがスターリンを初めとするコミュニズムの思想的に正当な継承者というより歪なあだ花的存在の象徴が彼女にとってはブレジネフの葬儀だったようだ。 バルト海に面した小国で西側からの放送を聴いて育てば如何に物質的に東側が貧弱であり自由という空気の欠如を自覚するかというのは明白になるのだが彼女の廻りは全て目隠しされ自由な空気が欠如していることが見えていないという事実とその自覚だったらしい。 実際自分は家人と83,4年ごろの夏、東西ベルリンを旅行してその経験から著者の感慨の幾ばくかが理解できるようだった。 彼女は結局壁の崩壊の前兆としてオランダに来ているのだから自分が住んでいた世界を今回顧する意味は自己確認という機能がかなり大きいと見て取れる。 彼女の言で気になったのは資本主義に対する言及のなさだった。 それは「東側」との比較の性急さゆえの欠落かそれとも文学と自分の体験から推して彼女が経験した共産主義にたいする嫌悪の強さからすれば資本主義の弊害は無視できると踏んでいるのかその辺りに想像が向く。 
 
2)
著書名; De Zacht Held (穏やかな英雄)
著者 ; Hans Boland
ISBN;  9789025303624
出版社; Athenaeum-Polak & Van Gennep
 
オランダ語;
 
1951年にインドネシアで生まれた Hans Boland は5歳でオランダに越してきて以来語学に興味を示しジムナジウムを卒業しその年ケンブリッジ大に入って英語を修め、その後アムステルダム大学でスラブ語文化研究を始めモスクワに留学し博士号を取得する。 ジムナジウムでは必須科目のギリシャ語、ラテン語、英語、ドイツ語、フランス語を収めているがスラブ語関係ではロシア語は当然としてグルジア語、チェコ語、デンマーク語、スウェーデン語、それにイタリア語、トルコ語を堪能とする。 ロシア文学を専門にし、プーシキンの翻訳、類書など著作は20冊を越え、新聞、雑誌などへの寄稿は数知れず。 今回の著作は自分の出身であるインドネシアを掘り下げる試みであり半生を西洋文化の中で過ごして活動してきた著者にはある種アイデンティー再考の試みでもあるらしい。
 
この日、インタビューは元々は新刊について語るはずのものであったけれど著者はプーシキン全集、書簡集の翻訳ならびに研究書出版などの功績によりロシアで一番権威のあるプーシキン賞を授与されることになり、その授与式に招かれそこで直接プーティン大統領から賞が手渡されることに反対し受賞を断り、その旨を公表したことで話題になったばかりであり、このことがインタビューの大部分を占めたのだった。 オランダ人乗客が大半のマレーシア機がウクライナ上空で撃墜されその影にあるのが紛れもなくロシア政府であり、とりわけプーティン大統領が関与していることが暗黙のうちに知られているがゆえに早くからこの事件は政治でも解決できず迷宮入りと看做されている折のプロテストであることは明白なのだが、それは彼の論の一部でしかなく、半生をプーシキンの文学、思想に関与してきたものにとってその自由精神を迫害するロシア政府、ことにその指導者から賞を受け取ることでこの賞の性格に受賞することで加担することはできない、それは自分の今までの営為を裏切るものである、との意思に依った行動なのだ。
 
これに対するロシア側の反応には興味深いものがある。 ロシアのメディアは直ちに著者をホモであると決め付け、著作の非モラル性を言い立て誹謗する攻撃を仕掛けているとその記事を示してインタビューワーが著者に訊ねるのだが、著者は、女性を愛しゲイに親和性を示しそれらの与太記事に対して根も葉もない事実だとそれらの部分を逐一示して反論する。 興味深いことに大国ロシアでは人格否定の最たるものとして同性愛が用いられる。 ロシアの投稿者はオランダ語、英語その他の彼の著作を正しく読めていないこと、第一に非モラルであると挙げるその部分はプーシキンの著作の翻訳でありそれを更に誤訳して攻撃するなど二重、三重の誤謬、無知、無根拠だと著者は断定し、これから更なる論戦を挑まれればそれに逐一理由、根拠を挙げて反論する用意があると骨のある文学者の態度を示している。 まさに政治と文学の血の滲むような接点が温和な文学者に降って湧いたような事件となった形ではあるが彼には突然の出来事であるとはみていない節がある。 それは文学にかかわるものには日常の営為の中で常に問われ続けていることではあるのだろうし、それは文学者としてのモラルであるとするならば彼には自己の文学者としての誇りの問題であり、このかたちの文学賞は決して受け入れられない種類のものであるだろう。 殊に現在の大統領から手渡されるそのことに屈辱を感じるその感性は理性をもとにした文学者として鍛えられたものである。