2014年 12月 23日 (火)
家族4人でナイメーヘンの町を散策してきた。 なぜナイメーヘンかというとそれぞれ通り過ぎたことはあっても今まで誰も町をじっくりあるいたことがなかったことと、家族でこの何年も恒例になっているこの時期にどこかの町を歩いてそこで食事をして帰ってくるという行事としての散策だ。 今までアムスステルダムは何回も歩いているし、ハーグ、グロニンゲン、ハーレム、ドードレヒト、去年はロッテルダムと続いている。 インターネットで市内散策ルートをプリントアウトしたものをもって出かけた。 駐輪場に家人と二つ自転車を置いてプラットホームについたら9時だった。 10分ほど待ったら駅の近くに下宿している娘が駆け込んできていつもの通り彼女の後ろで電車のドアが閉まった。 1時間弱でユトレヒトに着くとそこでハーグから乗ってきた息子の電車に合流して1時間ほどでナイメーヘンの駅に着いた。 ここは何度か通過しているから駅の様子は分かるけれど駅前からの風景は見知らぬものだ。 けれどオランダの町の風景はどこもあまり変わるものでもなく、駅舎の建築様式が60-70年代のものに改修した跡がみられるまだ普通のものだ。 他の大きな駅はこの10年ほどで新しく建て替えられてモダンなものになっていて今一番新しいそんな駅はロッテルダム中央駅だろう。 アムステルダムも改修が済んだとはいえ東京駅にみられる19世紀の様式を補修したものであってモダニズムは表面にはみられないものの、ここナイメーヘンは70年代と第二次大戦後の時計台を残した当時のモダニズムの片鱗がまだ見られるようだ。
駅前から古い中世の城壁を残した公園を抜けてヴァールというライン川の支流に向けて歩く途中で古いカフェに入って朝のコーヒーにした。 そこではもうすでに年取った常連達が強い酒とビールを交互に啜っていた。 ヴァ-ルに近づくにつれて片側にこの時間から赤い灯火を点して夜の姫君たちがこちらに笑みを向けるのだが、それは多分自分と息子に向けているのであって家人と娘には女の品定めをするような視線を投げているに違いない。 なるほどヴァールの護岸に近いここは古くから交通の要所でもあり港町でもあるのだからこういう商売がもう何百年と続いているのだ。 興味深いのはここではアムステルダムでもあまりないような二階から姫君たちがこちらを見下ろし笑みを投げかける様式だ。 ざっと数えても30人ぐらいいるだろうか、この町にこのような飾り窓があるというのが驚きだった。 34年前に住み始めた北の街グロニンゲンにもこのような地区があるけれどもっと大きく、当初興味深かったのは昼間から老人達が夜の姫君たちと親しくコーヒーを飲みながら話している姿だった。 もう枯れてその手の気配も薄くなり無聊をかこう老人達の暇をつぶすのに日向ぼっこをしながら姫君たちと冗談を言いながら過ごすのだ。 これは我々の親の世代の永井荷風の世界に通じるものだ。 後で聞けばこの老人達はこの茶飲み話のために何がしかの料金を払っているとの事でこれなら姫君たちにも悪くない老齢社会福祉に貢献する話でもある。
ヴァールの流れはかなりあって近くのドイツ国境から降りてくる貨物船の速度はかなりなものだ。 ライン川の支流はいくつもあって自分はナイメーヘンとアーネムの区別が今でもつかない。 それはじっくり歩いたことがないこともあるけれど両方ともに河に沿って交通の要所でもありその橋の形が似ていること、どちらも第二次大戦でドイツ軍に町が平らにされ連合軍の救出作戦が失敗に終わった歴史を分かつところにも依るのだろう。 オランダ西部から出てくればこのあたりの地形・情報には疎くなる。 けれどこの水は自分の家の近くを流れ自分の町の中心地を通って10kmほど下って北海に注ぐ。
川の畔に装飾品のギャラリー Marzee があってそこに入った。
http://www.modernartjewelry.org/
自分には初めてだったが工芸をする家人には以前から名は知られており、昔の4階建ての倉庫を改装した機能的でモダンな素晴らしい店、というより個人・企業の装飾美術館様式だった。 現在のように公共の美術館が資金難に喘ぐ中、個人若しくは企業で他から縛られることなくこういうギャラリーを維持することは楽ではなく多分世界中の美術館に情報を提供しそれによって契約の作家たちの作品を売ることで価値を維持するという戦略であるに違いない。 契約、若しくは所属の作家たちの多様な作品を観ることでそれが理解できるようだ。 日本の作家も何人かみられ金細工とデザイン、意匠から観ても美術館クラスのようだ。 広いスペースに機能的に配置され展覧会様式のスペースではドイツの作家が装飾とデザインの狭間を試みる作品も観られ素材と貴金属との組み合わせには眼の保養になるものを認められる。 1時間以上ここにいたのだがその間客というかここに入っていたのは我々家族4人だけだった。
そこから少し河にそって歩けばオランダで最初のチャペルと言われるローマ時代から連綿と続いている城砦の今はこのチャペルだけしか残っていないところに出て、右にドイツの景色、中央から左までオランダの遠景が楽しめる高台になっている。 公園を抜けるとモダンな市の博物館の広場に出てそこからは繁華街が続く。 平日ではあるけれどクリスマス前だからショッピングの人通りが多く、何も差し迫って要るものの無い我々は御のぼりさん然としてどこの大きな街にあるようなショッピングセンターをブラブラと観て歩く。 どこの町にもある安いデパート、HEMA の食堂でそれぞれ勝手に好きなものを取ってきて自分はグルテン抜きを心がけなければならない身だから持参の海苔で巻いた握り飯2個と紅茶とミントの束を組み合わせた茶で昼食にした。
どこの町でも高いところには昔から教会があリ、それはこの町でも例外ではなかった。 その大伽藍はステーヴェンス教会で、様式は自分の町のハイランド教会に似ている。 中に入るとクリスマス・ムードでパイプオルガンがバッハのG線上のアリアを奏でていた。 そこからブラブラと市内散策の順路に沿って終点近くのほぼ駅近くまで来て古いコンサートホールのカフェーでビールを飲んだ。 出る前にカフェーの後ろに広がるコンサートホールを見学した。 1920年代の建築様式と見られ、アムステルダムのコンセルトへボーと同様の様式で2000人以上収容できる入れ物だ。 コンセルトへボーと違うのはコンセルトへボーのようにオーケストラの後ろ横に階段状に広がる観客席が無い代わりに古い劇場のように二階、三階の席があることだ。
そこ出たときは4時半ごろで空腹でもなく、夕食のあてもなく、それならユトレヒトに戻って夕食にすればそこに行き着くまでにレストランのあてが見つかるだろう、それを探すあいだに空腹になるに違いない、というのだが、自分はせっかく知らない町に来たのだから今晩はここで何かを喰おうと言い張った。 しかしこれから3時間ほどどう時間を過ごすかを考えてそういえばここまで来るのに通り過ぎた映画館を思い出し、久しぶりに、家族四人揃って映画館で映画を観ようということになった。 一緒に観るのはかれこれ20年ぶりになるのではないかと想像されるから、記念になるものである。 映画を一つ観て出れくればそれでそこそこいい時間になるに違いないと踏んでいくつかの映画館のプログラムの中からデンマーク製の西部劇をみることにした。 その映画については別に記すことにする。
映画館に着くとあと10分で始まるといわれ6つある映写スペースの一つに来ると我々4人を含めて観客は7人だけだった。 久しぶりの映画館の映画は面白いものだった。 1871年のアメリカ西部、10年前に移住してきた旧デンマーク兵士が国から初めて父親に会う10歳になる息子を連れた妻と駅馬車で自分の町、牧場に向けて旅たつところから始まる「救い」とでも訳せばいような作品だった。 英語がまだ話せない妻と子供はデンマーク語で会話が進む。 カメラワークとその色が素晴らしい作品だった。
映画館を出てぶらぶらしているとベルギーのレストランというかビストロというような客席100ほどの場所にきて丁度一つだけ空いた4人テーブルに落ち着いてそれから2時間半、なかなか旨いスリー・コース・ディナーを楽しんだ。 満腹とほろ酔い加減で駅まで歩いて戻ったけれど列車が来るまで時間があったので駅舎にあるアップライトピアノで「清しこの夜」や「樅の木」を弾き歌って時間を過ごしている間に時間通り電車が来てユトレヒトに向けて発った。 1時間ほどのあいだにうとうとしたけれど到着まえに車掌に検札のため起こされて老人用割引カードを見せて用を済ませた。 ユトレヒトで来るときに自転車を置いてあった地元の駅に向かう電車に乗り換え12時半に自分の駅にたどり着き15分ほど自転車を漕いで自宅に戻ったら1時前だった。
ウィキペディア; ナイメーヘンの項、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%98%E3%83%B3