暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

残り物のキッシュとタジン

2010年06月29日 10時01分08秒 | 喰う


残り物の夕餉だ。 家人もヴァカンスに出かける準備であちこちをかき回し、車に詰める荷物を算段しキャンプ場で3週間煮炊きできるように物置からこの時期にしかみられないアルミやプラスチックの道具をこれも強化プラスチックの、椅子にも食卓にも時には脚立にもなるボックスに詰めていて心ここにあらずだったのだろう。 夕食の支度をする暇がなかったらしい。 それで出てきたのが一ヶ月ほど前に余分に作っておいてその後私が夜中にビールで腹に入れるのを阻止しするためにフリーザーに格納しておいたものらしい。 それに昨日親の家で飯を食うためだけに来た娘と息子を加え、家族四人で大鍋からスープ皿によそってモロッコパン屋で求めたものをオーブンでカリカリに焼き香ばしくしたものを添え、スープに浸しつつ食べたものの残りだった。 煮物、スープは二日目が旨く、これも子羊の肉とスープを含んでぶよぶよになった茄子が昨日より味わい深いように感じる。

それに、皆、といっても二人だけだが、半裸で家の中を歩き回っている夏日には時間をかけて火を使うということも厭うだろうし家人にとっては子供たちのいない夫婦二人だけではやっつけでいい、とでも思っているのだろう。 

まあ、こんな暑い日だからやっつけられてもいいとしよう。 食前酒のジンが効いていたせいかオリーブとレタスの塩かげんとドレッシングの酢が暑気払いにもなると思った。




あれ、どこかで燃えてるぞ

2010年06月28日 08時32分54秒 | 日常



昨日の夕方義弟から電話があり、お前の知人の写真展のポスターみたけど知ってる?というのでその写真展のタイトルが「日本発見」だったので昼過ぎに起きてそのまま30分ほど車を飛ばして見知った町に出かけた。

そこはこの15年ほど一年に5,6回は出かけている町ではあるけれどまだ旧市街には行ったこともなくそんな城の地下のギャラリーで久々に今は亡き知人が1950年代の終わりから1980年代の中ごろまで日本で撮った写真の回顧展をみて感慨もひとしおだった。

車でそこまで高速を走るのに今年初めてエアコンをつけた。 木陰に駐車させていたのにドアをあけるとそのままとても中に座れないほどのサウナ状態でエアコンをつけっぱなしにしておいてしばらくアイドリングさせその後、車を走らせた。 それに加えて元気のいいトランペットのジャズを響かせ眠い眼を覚まし覚まし向かったのだった。

人のだれもいない会場でひとしきり作品をみてからその町で簡単な食事をしてまた高速に戻るとそこは交通渋滞だった。 どういう訳か三車線ある道路が中の車線は特に道路工事をしているようにも見えないのに使えずのろのろと二つに分かれて進んだ。 その頃には焼けるような太陽もエアコンのおかげでいらいらすることも汗でベトベトするようなこともなく快適にゆっくり進めたのがせめての慰みだった。

地方道に入ればそういうこともなくそのまま家の近くまで来たのだが交差点の信号で停まっていると目の前に黒雲がみえてモクモクと空に上がっている。 火事にちがいない。 家から余り遠くないところなのだが信号が青に変わり車を前進させると黒雲の湧き上がるところが少しは想像できるのだがもう少し行って橋の上からみると家からは2km以上あるようにも見え、昔、子供のときに自転車でそのような煙を目当てに出かけたら村を2つも3つも越したようなところだったので驚いたことを思い出した。 現場に向かって追いかけるのは一生懸命だから苦労はないのだが一旦そこについてからうちに戻る距離の長かったことは骨身に沁みた。

これもそのようなものだろうとは思うし、わざわざ帰宅してから火事場見物に出かけるような悠長な気分でもない。 もし義弟の息子が今日勤務日だったら今頃は消防車で現場にいるはずだ。

日没時にちょっとだけど歩く練習をした

2010年06月27日 07時46分51秒 | 日常



あと2週間弱でオーストリア・アルプスのふもとの村で3週間キャンプ生活をすることになっている。 

去年はイギリスのなだらかな1000m前後の山を一週間ほど歩き、今年は一昨年の続きを予定して3000m弱の山を歩くつもりをしているのだが2ヶ月ほど前にオランダ山岳連盟の講習の際に推奨された足慣らしの準備もしないままにずるずると日を過ごしている。

今夜サッカーも面白くないしウインブルドンではアンディー・マレーが勝ち、テレビでは2002年製の、ボルチモアが原爆で吹っ飛ばされるようなスパイ映画というか東西冷戦の間にナチ、人種差別主義者に跳ね返りのロシアの将軍が絡んでチェチェン侵攻のドサクサに米ロを戦わせ世界制覇を企てるという荒唐無稽な、もう20年以上前に流行ったトム・クランショーのライアン博士シリーズの焼き直しを見終えたら10時半を周っていた。

それでもまだあと1時間はぼおっと明るいから夫婦で足慣らしに歩こうかということになり10時45分に家を出た。 すると丁度そのときイタリアかギリシャの方に2週間ほどキャンパーでバカンスに出かけていた隣のゲイのカップルがよく焼けた肌で帰ってきたところだった。 イケ面のほうの妹のところに預けてあった2匹の猫も途中で拾ってきたと言い、ボックスからそろそろと出てきた二匹はあちこちを嗅ぎまわっていたけれど我が家の裏庭のほうにノソノソ入って行ってうちのオバサン猫とにらめっこをする様子だ。

運河にかかる橋を渡ってこの5年ぐらいで牧草地だったところに何千戸とたった住宅地を抜けてこんもりした丘のある公園に向かうとさすが11時になると林の中は足元がおぼつかない。 あちこちにあるそれからビールがつくれる細かな白い花が浮かび上がって妙な感じだ。 だが林を抜けると見晴らしは充分利く。 15年ほど前は子供たちがまだ小さく、よくここに遊びに来たものだ。 当時は丘の上に見晴らしの塔があり木も今のように高くもなく遠くまで見渡せたけれど木製の塔も今はなく、また当時、斜面には何十メートルという滑り台もあり来るときにダンボールを用意しておいて子供たちと一緒に滑ったものだがそれも既にない。 そんな斜面では4,5人の若いのがアルコールとマリファナで談笑していた。 もう少し人数が多ければ音楽でもかけてワイワイとやるのだろうが涼しい空気に爽やかなマリファナの匂いがよく通り、遅い日暮れでのんびりとしたものだ。 まだお互いに顔は見える暗さだから明かりの必要もなくあと30分ぐらいしたら蝋燭を何本かたてて夜中まで涼しいところでぼそぼそと色々話しているのだろう。

そこを抜けて人家のほうに下がるとバーベキューのあとそのまま裏庭でだべっているのだろうか音楽とがやがや喋る声の聞こえるところに出る。 爽やかな快晴の土曜だからもうどこともバカンス気分なのだろう。 小学校が夏休みに入ると辺りから人が減る。 不況のあおりではあるけれど外国でなければ国内でいくらでもバカンスはできるのだからみんな2,3週間家をでることには変わりはない。 今晩のニュースでいくつかある郵便事業の会社の最大手が14000人解雇したと出ていたがどことも合理化に忙しい。 そういえば解雇もこの時期だ。 今解雇すれば夏の有給休暇分が浮くという算段かもしれないけれどそれでは労働組合も契約違反ということを盾に黙っていないはずで今のタイミングというのはどうなのだろうか。

歩くコースは大体ジョギングのルートなのだが登山靴では自転車道は硬すぎるので自転車道と平行に蛇行する林の中の草地を歩くのだがさすが木に囲まれるともう夜の闇だ。 そのまま線路を越えて自然公園に入ると入り口の闇の中に二つの点滅する明かりが見えた。 大分向こうのほうではロックミュージックが聞こえるからここでも小さなパーティーを草地か木立の間でやっているのだろう。 草のようななじみのある緑の匂いが流れてくる。 20前後の若者たちなのだろう。

見知った公園の闇を歩くのも悪くない。 ここは鷺やコウノトリが高木の頂上付近に巣をかけて若鳥を育てるところだけれど今はその時期も過ぎたのだろうか通行止めにはなっていないのでそのまま闇の中を歩くのだけどその巣のかかっているのを見上げると上空はまだ透明な深い青空だ。 森を抜け運河に出るのに開けた歩道を歩いていると背丈160cmほどのやせたアジア人と思しき女性が我々を追い越して行った。 薄暮の中を白いマスクをした長い黒髪の女性は少々突然で異様でもある。 知る限りこの公園で犯罪行為があったということは聞かないから安全なのかもしれないがいずれにせよあまり気味のいいものではない。

私がジョギングをするのは今の時期と冬の寒いときではあるけれど夜中にジョギングをするのなら冬では木々の葉が全部落ちてしまっているので完全な闇夜でない限りは見通しはいい。 今日のような満月の月夜なら林を通っても光はあるし見通しはいいから足元の心配はなく、そういう意味では真夏のほうが夜の闇は深いのかもしれない。

車の通る道に出て無人駅の前までくるともう完全な夜だ。 それに市内に入ると急に温度が上がるのが体感できる。 公園では温度が下がり草には露が降りはじめていたのだが町中にはそういうものがない。 家具屋のショーウインドウでは在庫処分の40%引きが見られるのだがそれでもよく店を維持できるものだ。 リサイクルの店に行けばそこに並んでいるものから少し劣ったものが五分の一か十分の一ほどで買えるのだから、いわゆる「新オランダ人」と言われる移民組だけではなく皆が立ち寄り中古とかリサイクルの店が繁盛するのも分かる。 通りをあるいていてそういえばここにチーズやワインを売る小さな店があったはずなのにというと家人がもう4,5年前にとっくに店じまいをしたよ、といわれたのには驚いた。 何かの折に自転車で来てここで何か買ったのがつい去年あたりだと思ったのだがなんとも早いものだ・

そうこうしていると目の前にバンのパトカーが停まり、中から酔っ払ったような中年男が警官と一緒に降りてきて角のATMまでほんの10数歩よろよろと進んだ。 多分何かの罰金を支払わされているのだろう。 男には手錠はかけられていなかった。

そのまま300mほど歩くと10年ほど前に日本で新聞をにぎわせた政治のスキャンダルで失脚した当時のオランダ大使が住んでいた家の前に出た。  そのときは日本のメディアの恣意性と政治の流れで意図的な操作が、、、ということを感じたのだがそれも日が経つにつれ忘却のかなたに去っていく。 その人も今は自由となり何ヶ月か前には戦後日米取り決め機密文書の保管に関して新外務大臣の情報公開に関連して国会の証言台に立っているのをニュースでみた。 ほぼ10年だ。

教会の角、子供たちが通っていた小学校、フィールドホッケーのクラブハウスに続く公園に入るとこれも10年以上前に作られた池の周りには立ち木も大きくなって今は蛙の声がやかましかった。 裏庭から北の空を見ると隣家の屋根のあたりがまだぼんやりと明るいような透明な紺色に染まっているような、、、、、、。


丁度90分歩いたから距離は7kmぐらいだろうか。
 




芥子

2010年06月25日 21時50分41秒 | 日常



外気の温度が25度まで上がると世間は夏だ。 ショートパンツやビキニまがいの格好が町に溢れ始めて目には保養になるのだが家でそういうことをされると戸惑いがちになる。

昨日おとといと湿気があったのでオランダには珍しくちょっと動いても汗ばんだが今日は初夏の爽やかな空気だ。 この変わり目は大西洋上とヨーロッパからロシア方面の気圧が押し合って今は大陸の空気がかっているのだろう。

10日ほど前、まだ涼しいときに咲いていたケシを撮っていたところが今は枝も枯れて茶色の頭だけがゆれている。 ケシというのは開花期が短くてその後花が枯れ落ちれば全体がみすぼらくなるのだが、これもこの暑さに焼けた結果なのだろうか。

半日電車に乗った (中)

2010年06月24日 22時28分52秒 | 日常
(上)から続く

Deventer に来るのは久しぶりだ。 一年に何回かこの町を高速で通過する度にアイセル河にかかる橋から見える教会の塔と渡し舟をみて、時間があればあの川向こうのホテルのテラスで飲み物を手に景色を眺めたいものだ、、、という思いがあった。 それはもう20年ほど前にこの町に住んでいた古い友人の思い出とも重なる。

その友人というのは私が1980年にこの国に来てじきに請われるままにグロニンゲン市の市民大学で何人かの生徒に日本語を教えたときからの付き合いだ。 敬虔なクリスチャンで市内の古い教会の互助院に住んでいてその養老院の年寄りたちを助け自室の簡素な部屋で信仰を深めていた当時、50歳に届こうかという陽気な女性だった。 オレンジ色のフォルクスワーゲンのうるさくも安定したエンジンを鳴らせながらあちこち走り回り180cm以上の体躯を典型的なオランダ人らしく合理的にてきぱきと動かしていた。

彼女が日本語を習いたいというのはそれまでに何回か日本人の友人を通じて訪日しており、その時英語では埒があかず、かといっていつも友人を煩わせるのにも気が引けたから、それでは自分が日本語を話せたら、と言うのが理由だったらしい。 60年代の初めごろかにオーストラリアの新都市キャンベラに住んでいて当時そこに赴任してきた新任の日本人外交官夫妻と親交を結びそれからの縁だともいっていた。  後年、90年代の中ごろだったろうかその外交官が総領事としてオランダに何年か赴任したときにうちの子供たちが呼んでいたこのキーク叔母さんの紹介で総領事のT氏夫妻とも知遇を得、ブラジルの首都ブラジリアほどではないものの新興実験首都キャンベラでの生活の様々を両方が懐かしそうに話すのを聴いたものだ。 

その後、じきに彼女は持病の糖尿病を悪くしてグロニンゲンの互助院を引き払い故郷の Deventer に居を移したのだが我々は何度か家族で彼女の元を訪れたのだったが病気が進むにつれ徐々に自分だけの世界に居続けるようにもなっていた。 亡くなると我々のもとに彼女の部屋にあったワインレッドの古い安楽椅子が形見分けとして送られてきた。 もう大方その20年以上も前に古い互助院の部屋で数人の生徒に何回か日本語のレッスンをしたときにそのすわりごこちのよさを褒めたことを覚えていたのだろう。

この町は夏に一週間ほどある古書市でオランダ国内のみならず隣接の国からも人を呼び、毎年ニュースにこういう掘り出し物があったというような話題を提供するようなところでもある。 渡し場のあたりからそういう露店が何百と続く様子が見られるらしい。 

川と渡しがみえる橋を渡るとすぐ古い駅に着いた。 どこでも町の中心にも教会があるのだから地図がなくとも大体の見当がつくから車中から見ていて進行方向の右に行くか左に行くかぐらいの区別はついていた。 駅をでて市街地図をみると都合のいいことに10分もあるかないでも市の中心を越して川の渡しに出ることができるようだと分かった。 車中もちこみのハンバーガーとフレンチフライに缶ビールで遅い昼食にしていたので空腹感はまったくなく、またのども渇かず初めての町を歩いていて、古い町のどこにでもあるような落ち着いた町並みをながめながらいいカフェーがたくさんあるのにそういうところに入る気持ちもなかったのはこの後どこにいこうかと時間を逆算して、一度入ったら30分だし、そんなこともできずゆっくりしていられないぞ、というような計算もはたらいていたからだろうか。 かといって次はどこの町に行きたい、という思いもない。

もうこの30年も車で行き来するたびに見ている教会の塔のあるところには行ってみようと思っていたので今回初めてLebuinus教会に入った。 イギリス人でカトリックの牧師、リブイヌスがドイツ地方へ宣教のため日本で言えば奈良時代の中ごろにUtrechtに司教として着任し、その後ドイツのウェストファリア地方と接する国境のこの町に自分の教会をもったのがこれだそうだ。 768年当初は木造の粗末なものだったのがサクソンとの政治・宗教上の抗争から776年にサクソン人が侵攻し教会は焼き払われ、その後、瓦礫を三日間捜索したけれどリブイヌスの遺骸は見つからなかったようだ。 けれど生前の宗教・政治上の手腕から地元の貴族などに慕われており彼らの喜捨により現在のもととなる伽藍を建設することとなったのだそうだ。 


ウィキペディア英語版; リブイヌスの項
http://en.wikipedia.org/wiki/Lebuinus 

教会の構造;
http://www.pkn-deventer.nl/index.php?option=com_content&task=view&id=26&Itemid=58

中に入ると受付に老婦人が一人座っているだけで他にはだれもいなかった。 17,18世紀の構造なのかさすがプロテスタントほどの簡素さはないもののカトリック教会だとしてもオランダ新教風にはなっている。 天井の模様が美しく正面パイプオルガンと反対の半円形で丸くなった後尾とでもいうかドームの天井には1620年に描かれたと思しき三つの骸骨の上に砂時計が時を刻む MEMENTO MORI(自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな)という言葉が見受けられる。 あちこちに置いてある双眼鏡で天井の装飾を眺めたり聖人が描かれたフレスコ画を見ようとしたのだが今はパイプオルガンの陰になっていてよく見えなかった。 老婦人に一礼して外に出て快晴の下、そこから100mほどの川岸にでた。 

のんびりと地元の人が使う渡し舟を待っていると向こう岸から上流に船先を向けすぐにUターンして流れに乗って降りてきてすぐ目の前でまたUターンして川上に船先を向けてこちらに着いた。 老人の船長はてきぱきと綱を結び改札し片手でサンドイッチをぱくつき忙しいことだ。 のろのろと入った自転車や徒歩の客10人ほどが落ち着きもう桟橋を降りてくる人がないと見るとオジサン船長は綱をはずして向こう岸に向かった。 乗船時間5分以下だ。 聞くと1時間に6回行ったり来たりするとのこと、だから誰も急ぐ様子は見えない。 ホテルのテラスでジンとエスップレッソコーヒーを交互に舐めながら、、、と考えていると電車のことが頭に浮かび、一度座ると30分だから、というのが尻を焦がし二三枚写真を撮って降りたばかりの渡しに向かうともう10分経っていたのか向こうに行っていた船が船着場に舫うところだった。 往復で150円ほどだったろうか。

駅に戻りさて、どうしようかと路線図を眺めていてこれからドイツ方面に行っても仕方がないし、それなら南に下がるのが道理なのだがどこまで下がるかが問題だ。 6時ごろにどこかの町についてそこでぶらぶらしながら食事をする、その後2,3時間で帰宅、というのが順当なプランなのだが、さて、第二次大戦中の激戦地でもありまだ少女のオードリーへップバーンも実際にそこで看護婦として手助けしたこともあるという、映画「遠すぎる橋」のアーネムともアーネムとも言われる町を通過するのは当然なのだがそこからマーストリヒト州方面かブラバンド州のデンボスにするかとなると教会がらみならデンボスの教会なのだしマーストリヒトはいろいろと歩いたり出かけることもあるし、また、そこまで行くと戻りは同じ路線を帰るという事になるのでデンボスでゆっくりする時間があるかどうかも分からないままにそちらにするかとアーネム方面行きのインターシティーに乗った。


16:44 Deventer 発
17:20 Arhnem 着

この項 (下)に続く

プリティ・ヘレン (2004); 観た映画、June 10

2010年06月23日 18時55分36秒 | 見る
プリティ・ヘレン(2004)

原題;RAISING HELEN

119分

監督: ゲイリー・マーシャル
衣装デザイン: ゲイリー・ジョーンズ

出演:
ケイト・ハドソン     ヘレン
ジョン・コーベット    ダン・ジェンキンス牧師
ジョーン・キューザック  ジェニー
ヘイデン・パネッティーア  オードリー
スペンサー・ブレスリン  ヘンリー
アビゲイル・ブレスリン   サラ
ヘレン・ミレン
ケヴィン・キルナー
フェリシティ・ハフマン
ジェーン・モリス
マシュー・ウォーカー
パリス・ヒルトン
アンバー・ヴァレッタ
サキナ・ジャフリー

 ある日突然3人の子どもの面倒をみるハメになったヒロインの子育て奮闘記をユーモラスに綴るケイト・ハドソン主演のハートウォーミング・コメディ。監督は「プリティ・ウーマン」「プリティ・プリンセス」のゲイリー・マーシャル。共演は「マイ・ビッグ・ファット・ウェディング」のジョン・コーベットと「スクール・オブ・ロック」のジョーン・キューザック。
 ヘレンは、ニューヨークのモデルエージェンシーで働く25歳の敏腕エージェント。仕事は忙しいものの、自由気ままなシングルライフを満喫していた。ところがそんなある日、姉夫婦が交通事故で死んでしまい、残された3人の子どもたちをヘレンが世話することに。最初は困惑するヘレンだったが、子育てと仕事の両立に意欲を見せ始める。しかし、3人の子どもたちとの新生活はスタート早々大きくつまずいてしまう…。

上記が映画データーベースの記載事項だ。  サッカー世界選手権があり皆が浮かれているときにBBCテレビで深夜映画に放映したものだ。 テレビガイドの評価は2つ星の低いものだったのだが配役の中にヘレン・ミレンの名前があったのでそれだけに興味を惹かれソファーに沈みこみ観たのだった。 ミレンは初めの部分で主役が勤めるモデルエージェンシーのボス役であり、あれ、ちょっとメリル・ストリープが演じた『プラダを着た悪魔』 The Devil Wears Prada (2006)に匹敵しそうな虐め役かなと楽しみに期待したのだが出番が少ないし主演にも絡まないので失望した。 ニ、三日ほど前にBBCテレビのトークショーにでていてアメリカのネヴァダ州リノにある合法売春宿の女主人を演じる映画を撮ったところだと聞いたところだったのだが、イギリス女優の嘗てボンド・ガールだったジョアンナ・ラムレーにしてもこのミレンにしてもインタビュー番組での「素顔」は銀幕での演技に対照してすばらしいものだ。

このような女優たちはアメリカCBSテレビのトークショー、デイヴィッド・レターマンショーにもしばしばゲストとして新作の宣伝に出るからそこでも見ることができるのだが、このショーに出た本作主演のケイト・ハドソンのことをひところは大リーグの選手と浮名を流していてその熱々ぶりをレターマンに面白おかしくネタにされていたので名前を知ったのだが、本人が出演するとそこで彼女も二世タレントだと知ったのだった。 能天気なコメディーが得意で70年代80年代に活躍したゴールディ・ホーンが母親らしいのだが華は母親のほうに軍配が上がりそうだ。

ホーム・コメディーの本作では子役たちが愛らしいが何作かで子役として成長し、本作と同年の「ヒーローズ」のチアガールで花咲いたヘイデン・パネッティーアも見られてうれしかったのだけれど、ここでは何と言っても2006年の『リトル・ミス・サンシャイン』で好演したアビゲイル・ブレスリンの2年前が観られたのが収穫だった。 

タイムってのは

2010年06月22日 22時59分48秒 | 日常


この間まで柔らかい新芽と緑色もまだ浅いものを煮込みに使っていたのだが今は細かい花が咲いている。 面倒だから花ごと鍋のなかに放り込もうかとも思うのだが何だか気が引けて他の枝の太くて緑色の深いものを選んで料理に使っている。

この花が済んでいよいよ葉のほうが育つようになると本格的に使えるようになるし時々はちぎっては指で磨り潰しその都度匂いを嗅ぐのを好んでいる。

我が家の香草としてはオレガノ、セージより使う頻度が高いのではないかと思う。

快晴になり温度も20度まで上がってきたのでやっと初夏という感じだ。  週末に向かって24,25度までには昇りそうだと天気予報は伝えている。

オランダ全国一斉高校卒業試験の結果が出て、中級一般、各種職業高校を卒業し、いよいよ社会に出るという子供を持つ家庭では今の時期、表に国旗を掲揚してその先にその子供が使っていたカバンをつるすのが行事になっているのだが、我が家でもそうだったけれど、今は皆デイパック、というのか昔のナップザックが青空を背に揺れているのがあちこちで見える。 近所でもこの間まで表の草地でボールを蹴っていた小さな子供が今はそんなバッグをつるしているのが何軒かあって時間のたつのが早いのにも驚くことだ。

大学入試をかねた上級高校試験の結果はまだ時間がかかりそうだ。 我が家では去年の事だったのだがその発表までにはまだ日にちがかかりそうで、それももう大分前の話のような気がする。

2007年に息子が上級高校を卒業したときにオランダ国旗にバッグをぶら下げた写真とともに日記に何か書いてここに載せたと思ったのだけれどそれが見つからない。 


自分の娘の卒業試験に関して去年メモにしたもの
http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/59014320.html

ウィキぺディア; タイムの項
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A0_(%E6%A4%8D%E7%89%A9)

息子の皿洗い

2010年06月21日 06時51分17秒 | 日常


あと2日ほどは家の中には猫と自分だけしかいない静かな日々だけれど今晩は息子が下宿から歩いて晩飯を喰いにきた。

昨日から中型の厚鍋に肉の煮込みを作ってあったのでそれで夕食にしたのだが息子と二人で向かい合ってテーブルごしに食事するというのも妙なものでテレビを見ながら喰うことにした。 

我が家では毎日家族そろってテーブルで喰う、ということをしていた。 今は子供たちはそれぞれ下宿に住んでいて一緒に食事をすることはあまりないけれど、子供たちがフィールドホッケーのクラブに入っていて夜の練習で遅れたときなど皿に自分のものを各自取り分けて電子レンジで温めテレビの前で一人食事をするというようなことも近年にはあったけれど、基本的には食卓はラジオ、テレビなしの食事である。

子供たちが中学校に入るようになってからだろうか、我が家では子供たちに家事の食事当番を課すようにした。 一週間に一度は晩飯を作ること、一週間に一度は皿洗いをすること、この二つだ。 食材は自分で買い物にでかけることともした。 食事、皿洗いの当番は私たち夫婦にもあり私は週2回、家人は3回である。 息子はそのころから2年ほど朝の新聞配達をさせた。 

今は夫婦二人だけの生活だから洗い物もすくないけれど子供たちがまだうちに居たときには四人分の皿やカップ、料理に使った台所道具が溢れていた。 そのつど洗う、ということがないから夕食後の一日分の仕事はかなりある。 だから当時は皿洗い機を買おうという声がでたけれど私は断固反対し、子供たちが皿洗いを普通に、自然にできるようになるまでは買わないと言い張った。 それは子供たちの運動クラブの練習のあと遅れた夕食を温めるのにつかう電子レンジでも同じことを言い張った。 温めるのではなく、帰ってきてから食べる分はその日の当番がまたその一人分を作る、というもので、さすがにこの4年ほどはそれも崩れて今は台所の冷蔵庫の上に今ではもっとも使用率が高い電気製品としてシャープの電子レンジが鎮座している。

電子レンジについては反対していた理由が別にある。 非常に利己的なことではある。 この20年以上毎回日本に帰省するたびに夜中に一人だけで何か冷蔵庫からとりだしてチーンして喰うのだが、それは帰省中だけのことで日常になるとするとその便利さに恐れを抱いていた。 これが我が家にあると夜中につい使いがちになって、オランダでいわれる、脂肪の「浮き輪」が確実に腹の周りにできてしまうからだ。 そしてそのとおりになった。

テレビではサッカー世界選手権の ブラジル - コートジボワール の実況があったのだけれど私がそれまでBBCテレビで見ていた10年ほどまえの映画、第二次大戦後すぐのフランスの田舎に母娘が来てチョコレート屋を開く話「チョコレート」を、息子はサッカー中継にしてくれとは言わずそのまま一緒にみながら食事をし、途中で映画の話をしたりヴァカンスで過ごしたフランスの田舎の町や村のことをぼそぼそといいながら過ごした。

食事も映画も済んで私がコーヒーを淹れているときに息子は何も言われなくとも自分から洗いものをした。 別段量があるものでもなく私もぶらぶらしているのだから洗い物などどうということはないのだが、息子にしてみれば久しぶりに家に戻って今までの習慣が戻ったのだろうが、これまで10年ほどは彼らには決められた曜日があったのだが今はそんなものはない。 自然に手が動くようになっている。 私は、ああ、これで言い張った当初の目的が達成できたと思った。 それなら皿洗い機を買ってもいいのではと言われるが皆ができるようになったのだから皿洗い機は必要ない。 これも私が当初目論んでいたことだ。

コーヒーを飲みながら昨日のオランダー日本戦のことを話していて、私はオランダは嘗てのチームより弱くなったというと息子は日本が前より向上したんだ、と言う。 しばらくブラジルーコートジボアール戦の後半を一緒にみていたけれどそのうち息子は私に晩飯の礼をいってまた歩いて下宿に帰った。

オオバギボウシ(大葉擬宝珠)の花が咲き始めた

2010年06月20日 20時31分55秒 | 日常



昼前に目を覚まして寝床から出ると寒く感じた。 夏にである。 この感じは一昨年真夏にスイスのキャンプ場でテントを張って寝泊りした数日、夜中には氷点まで下がり翌日テントから這い出したときに感じたような寒さだった。 実際にはそれには比べられないのだがただ、そう感じた、というだけのことで、それほど寒く感じたということだ。 曇っていることもあるけれど外気は13,14度ほどではなかろうか。

下に降りてキッチンでミルクティーをつくりトーストを焼いて口にしてやっと暖かくなった。 このような暖め方は夏にするようなことではない。 明日は夏至ではなかったか。 普通の夏では今の時期、晴天が続き、暖かい、から熱い、とも感じるような陽気になるので食後もそのまま裏庭で過ごすこともあり日の長くなったのを実感するようになるのだが、今年は涼しいのと夕方に晴れるということが少ないのか夕食を庭で摂るということが少ない。 いずれにしても日の長さを充分感じる夏にはなっていない。 それに今年は食後に家人と自転車で2,3時間田舎の牧草地を走る、ということもまだしていない。

冷夏なのだろう。  二ヶ月ほど前に植木鉢から芽が出ていたオオバギボウシが花をつけていた。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/60545147.html

半日電車に乗った (上)

2010年06月18日 18時28分16秒 | 日常


2010年 6月 17日 (木)

昼をまわって目が覚め、さて、今日は何をしようかと思ったところでもらっていたオランダ一日自由鉄道切符があったのを思い出し、そろそろ期限が切れそうだとそれを手にとって見て、これからの予定を考えてみると何やかやで今日しか日がないのに気がついて、あわててそれを掴み家を飛び出した。

この何年かアムステルダムや他の街のジャズハウスへライブを聴きに出かけるのでオランダ国鉄の割引カードを使っている。 それは年間一定額を払えばIDカードが届き、そのカードとの組み合わせで全国いつでも40%引きとなり、計算すると家からアムステルダム往復だと1年で10回ほど出かければ元もとれるし同乗するものたちにもその特典がある、というぐあいだ。 もっとも、家人も子供たちもそれぞれ自分の交通カードをもっているので別にそれ以上に安くなるというわけではないから家族には私のカードの影響力はない。

そんなわけで、このカードがあるからなのだろうか、還暦を迎えたときにオランダ国鉄のプレゼントとして一日全国自由切符が送られていた。 一等車両なのだ。

家を出て近くの自転車屋まで歩いた。 ブレーキケーブルが切れたのを修理してもらっていたので代金の9ユーロ50セントを支払いそこから乗り出し、駅まで漕いでいる間にどこへ行こうかと考えたのだがもう昼の12時を大分周っているので北のグロニンゲンや南のマーストリヒト、西のゼーランドには着くことができてもそこでゆっくりもできず、そのまま折り返しても戻るのは真夜中になる。

鉄道マニアではないのでただ電車に乗っているというのも能がないし、あと何日間かは寝たいときに寝、起きたいときに起き、食べたいとき飲みたいときに好き勝手にしている自分だけの生活だから真夜中だろうがいやなら戻ってこなくでもいいのだが、この切符に限っては当日のみという制限と家には猫がいるのであまり遅くならないうちに戻ろうという一応の「しばり」があるから切符の制限にしたがう。

特別に行きたいというような街は思いつかない。 行きたくないということではないのだがそこに行って何をするかというとなるとそこで今なにがあるか、何か展示会なり何かのイベントがあるかというような事前の情報がない。 ないというより生来のものぐさだから今のところどうでもいいのだ。 アムステルダムやロッテルダム、ハーグにでかけて半日過ごすのも距離が短すぎるからこのタダ券を使うメリットがない。 しかし、オランダの端まで出かけるには時間がない。 結局怠惰が制限をもっときつくして自分の首を絞めている、というわけだ。

駅に来て朝飯というか昼飯を食っていなかったのを思い出し、構内の小さなスーパーに入り缶ビールと水を買い隣のバーガーキングで何とかセットを掴んでから掲示板を見て、さて、北に行くか南にするか、まず初めに来たインターシティーに乗ろうと決めると2分後にアムステルダム行きがでる、と出ていた。 慌てて階段を駆け上がり飛び込むと一等車両には誰も居ない。 普通車は2人がけで間に通路、そしてまた2人がけ、というものだがここでは一方に二人がけ、通路があって一人がけだからゆったりしている。 スキポールが近いのにそこに向かう観光客もいないとは寂しいものだと思いながら頭上を着陸しそうなジャンボジェットを見ながらハンガーがーをぼそぼそとビールで喉に送り込んでいると、はて、電車の進行方向と同じく中空に止まっている飛行機の車輪と腹は映画で見るようだと取り留めのないことも浮かんでくる。 13:40、アムステルダムに着いた。 この間30分ほどだが車掌は検札にはこなかった。

駅に着いたのはいいが、どこに行こうという予定もないからぼんやりとコンコースの掲示板を見ていた。 今日は北のグロニンゲンまでは行けないのならせめてその途中の Zwolle ぐらいまでは行けるだろうと思い、そこに行ったのはもう10年以上前であの街をぶらぶらしてもいいし、旧城郭近くには古い建物を改造したミシュラン2つ星のレストランもあり、当然予約は1年前ぐらいからとっておかなければ座れないようなところではあるもののいつかのために見ておいてもいい、とそんな漠然とした想いも今は行き先を決める動機にはなるのだ。 それで北に向かう電車に乗った。 ここでも一等車両には他に誰も乗っていない。 社用、公用、旅行、高齢の他にだれが2倍以上の料金を払うのだろうか。 今日のような麗らかな平日の午後は普通車両でも充分空いていて座席の質も大してここと違うわけでもないからそんな条件ではただの料金を除いては差がないのだ。 だから、この30年実際に自分で一等車に乗ろうと思ったことがなかったし、これだけ混むなら一等車に、、、、、ということもなかった。

13:57 アムステルダム発 
14:30 アムスフォート 着

Zwolle もいいけれどそこで時間をつぶして岐路に着くとまた同じところを戻るということになり面白みがないと考え直し東に折れて内陸部に入ろうと考えて Anserfort で下りた。 プラットホームのオランダ鉄道路線図を眺めていてふと、 じゃあ Devdenter に行ってみようかという気になった。 この街には思い出がある。

14:37 Amersfort 発 
15:15 Deventer 着


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