暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

気温が20℃を越えたから外に出たくなった

2017年03月30日 16時45分55秒 | 日常

 

2017年 3月 30日 (木)

天気予報の通り気温が20℃を越えた。 この間のように張りつめた青空の快晴ではないものの春の花曇りというような日差しの麗らかな日になった。 ガーデンチェアーとテーブルを庭に出してきて雑巾できれいに拭きこれから夏の終わりまで使う準備をした。 午前10時のお茶は今年初めて日当たりのいい庭で摂った。 午後になってこんな日には家の中にいるのが勿体ないと思い、近くの公園を幾つか辿りライデンからユトレヒトに向かう単線の鉄橋が運河にかかっているところを渡って丘のある公園に登り、そこを下って住宅地を抜けローマ時代の遺跡公園を横切って少し大回りし、また運河をこちら側に渡って戻ってこよう、そうすると町の南東部の縁をリング状に大体4-5kmになるだろうか、この間遺跡公園まで行って戻ってきたのが2kmだったからそれを大回りするのだからそれくらいにはなるだろうとプランを立てて歩き出した。 こんな暖かい日だし風もないのだからジャンパーも要らないだろうと部屋着のカーデガンだけで済ます。

丘のある公園まで来ると陽射しに汗をかきカーデガンも脱いで背中のデイパックに入れて歩いた。 丘の頂上といっても海抜は10mに満たないのではないか。 この辺りは昔からの土地だがかろうじて海抜がプラスのところで牧草地のポルダーは殆どマイナスであるのだから丘に登ると見晴らしはある。 もともと運河に沿った湿地帯でここには丘はなくこれは人工的なものだ。 ここは70年代まで市のゴミの投棄場所で80年代に産業廃棄物や毒物がないことを確認したあと盛り土をして公園にしたという経緯がある。 大体がどこの町でもゴミの投棄場所というのは町の周縁部でそれが町の膨張に伴いその辺りに新興住宅地が造成されれば人口膨張に伴うレクリエーション「緑地」施設の必要からこのように「廃物利用」されるようになった。 だからどこの町でも同じような経緯で町はずれにこんな「丘」がある。 最近はもうそんなこともないけれど10年ほど前までは偶に違法投棄された毒を含む産業廃棄物がそんなところから出てきてニュースになる、ということもあった。 この場所も少なくとも1mか2mの厚さで土を被され、その上に植林されてからもう30年は経っているので何の不都合もない、ようには見える。 当然スコップで掘り起こしたぐらいでは何も出てこないしあちこちに野兎の掘り起こした穴が見え、キツネもいると誰かに聞いたことがある。 丘の上では娘たちが日当たりのいい草の上でピクニックをしていた。

丘を降り新興住宅地に入ると幼稚園か学校があるのだろうか下校の子どもを門の外で待つ親たちで通りがごった返していた。 普通の保育所や幼稚園だけではこれほどの人出がないから学校もあるのだろう。 母親やお婆さんだけではなく30代から40代の父親たちの姿がかなりみられた。 自分が子供たちを学校まで送り迎えしていた20年前に比べると格段に父親の数が増えているのに驚く。 当時にしても父親がそういう風にするのは稀ではなかったけれど今外で待つ親の3分の1までは行かなくとも4分の1ぐらいは父親ではないか。 労働の形態がそれだけ多様化していて社会・家庭での男女共同参画が実行されているという証なのだろう。 3時半だった。

そこを通り抜けこのあいだ来たローマ時代の砦遺跡を横切ってライン川沿いに歩き、ライン川と交差する運河にかかる始めに渡った線路がある橋からは1.5km離れた橋をこちら側に渡って帰宅した。 歩き始めてから1時間半で丁度5km歩いていた。 8時のニュースでは3月30日に20℃を越したのはオランダ記録だと言っていた。 それまでの記録は1911年の19℃だったそうだ。

 

 


床屋のエリックの店に行ったら

2017年03月29日 16時41分31秒 | 日常

 

 

2017年 3月 29日 (水) 

 抗癌剤療法をしていると髪の毛が抜けるということがよく言われていて大学病院で配られた癌治療の手引きにもそのように書かれていたから抜けるものと覚悟していたのに抜けないし髪の毛には何の変化もない。 自分の抗癌剤は抜けない種類のものだと後ほど説明され、何だそんなものかと毛が抜けずに気が抜けたのだが、この前エリックの店で刈ってもらってからもう大分になり、たとえ薄い髪でもかなり長くなってきたので副作用の体のだるさも点滴投与による右腕の強張りや痛みも消えた第二期7日目の今日、自転車に乗って町中のエリックの店に出かけた。 前回エリックの店に行ったときに次のように記していた。 それは1月の6日で自分の眼で癌を見た4日前のことだった。

https://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/65476060.html 

店の前までくると丁度そこで通りが封鎖されていた。 映画撮影中に付き通行禁止、と柵に張り紙がしてあり警備員が二人立っていた。 それを横目に店に入ると自分の前に2人客が椅子に坐って雑誌を眺めながら順番を待っていた。

あんた、エマ・ワトソンって知ってるかい、とエリックが訊くので名前だけは訊いていたから、ハリー・ポッターの女の子だろ、というと、へえ、あんただけだよこの中で知ってたのは、俺らは知らなかった、あんたファンなのかい、じゃ、あそこに行ってサインもらってくればいい、と言った。 うまくいくとキスの一つもしてくれるかもしれないぜ、と軽口をたたくので、別にファンじゃないし興味ないよ、うちの子供たちはうちのとハリー・ポッターの新しい映画や新刊本が出るたびに揃って見にいったり読んだりしていたけど、自分は別に観たくもないし本に何の興味もない、それに何か小娘だろ、あんなのつまらない、というとそれならどんなスターだったらいいんだい、というからモーリン・オハラだな、とはったりをかましてやった。 だれもポカーンとして知らないから、5年ほど前に90歳ほどで亡くなった往年のスターでジョン・ウェインとよく共演していた。 というと、あんた、ほんとに爺さんだな、今のスター知らないのかい、とバカにされた。 すると散髪台に坐っていた30代のが、俺はボー・デレクかラクウェル・ウェルチだな、というのでエリックがお前もまだ若いのに年寄り趣味か、もうあれらも50は越してるだろといいながらも他には誰も名前が出てこない。

エリックがよこした回覧板には4日ほどこのあたりが映画撮影で大学前の運河沿いやこの通りが朝7時から夜9時まで終日規制されると出ていた。 だれが出演するかも書いてはいなかったけれどイギリス映画の「The Minituarist]とだけ出ていた。 ぶらぶらと警備しているものや手持無沙汰に遠目に眺めている人たちからエマ・ワトソンが来ていると聞いていたのだろう。 オランダの芸能界のスターたちの顔も名前も知らないゴシップ記事を載せた雑誌のパズルにも飽き、店の前に出て遠くに見える人の群れをカメラに収めた。 この通りは画家のレンブラントが小さい時に歩き回り初めての絵の師匠でもある画材商の店がマントを着た女が立っているあたりだ。 角を曲がるとレンブラントが通ったラテン学校がある。 どんな映画か知らないけれどそのころの格好をした男女が見える。 回覧板には17世紀の風景を撮るのに運河沿いに設けられた金属製の車止めの低い柵やその時代に添わないものは一時的に撤去して後日もとに戻すと書かれていた。 公共事業だとそんなことに時間がかかるけれど映画制作の金ではす早いものだ、数百万では済まないだろうにとエリックがいう。 だれかがアメリカのアクション映画でニューヨーク市などは大分儲けているそうだともいう。 このライデン市は貧乏だからこんな文化財で誘致して財政の足しにするのだろう。 この辺りでレンブラントの伝記映画を撮影しているのを見たのは5年ほど前だっただろうか。 当然背景はつぎはぎだったけれど映画はうまく17世紀の雰囲気を出していたのを覚えている。

自分の番が来て20分ほどで刈ってもらってさっぱりした。 エリックは毛が抜けない抗癌剤でよかった、客が一人減るところだったというので40-50日経った頃にまだ出てこられるなら来るよ、そのときにはあんたがこないだヴァカンスで行ってきたモロッコのことを聞かせてもらうよ、と言い、店を出るとまだそこにいる暇な連中が柵越しにただ蠢いているだけの映画の連中を遠目に眺めているのを横目に自転車に乗ってのんびりうちの方に向かった。 


ぶらぶらしているオッサンたち

2017年03月29日 16時38分44秒 | 思い出すことども

 

 

日常生活が朝晩2回服用する抗癌剤に規定されていて今は6時半に起き夜は12時には就寝するという甚だ「健康的な」生活である。 かなり酷い癌だから定年生活3年目に入っていてブラブラにはかなり慣れては来ていたけれどこうなると今は療養専一に励まなければならない。 「なければならない」ということがつけくわえられればブラブラの空気に曇りがでる。 無理なことはするな、病院から与えられた厚い病人マニュアルの記述に従って自分の病状の変化に気を付けて何かあればすぐ緊急ダイアルで大学病院の医師に連絡するようにとそのブラブラさも犬の首輪のような枷をつけられているブラブラ生活である 

ブラブラと何もしないで一生暮らすのが自分の夢だった。 ある意味ではそれが叶っている。 けれどそれはただ一面的で、実際は胃の中で居座っている癌が表面的にぶらぶらさせるような体裁を作っているだけだ。 それではこのブラブラが本当に好きなようにしていられるブラブラかということになると、では突然スキポール空港まで行ってチケットを求めチリの南の荒涼とした砂漠に立ちたいだのニューヨークのMOA美術館で何日か過ごしたいだのと思い立ったらすぐにでかけられるかというと日程と金には問題がないものの体調が許さないことは明白であるから自分の中ではそのブラブラにはやはり癌という主人が犬の首輪の紐をひっぱるようなことになっている。 このご主人様の言いつけを守り周りの自分の置かれた状況を考えブラブラしていろということだ。 犬と違うのは首輪をといて紐から離れられないこともないけれどそれをするかしないかということになると今はまだ首を垂れて「限られたブラブラ」の中で生活することを選ぶという諦観のような、湿った見えない布の下で過ごすことを選ぶ。

子供のころ、5つの頃だっただろうか、だから1955年ごろだ。 伯父が結核で隔離病棟やサナトリウムに収容されるほどでもなく比較的裕福だった農家の末っ子の祖父はこの長男の結核治療のために当時まだ新しかったアメリカ製の高価な薬を手に入れるのに闇のルートも使わないと手に入らないこともあり家産のかなりの部分を費やしており伯父を個室に入れるほどの金はもうなかったから何人かと共同の病室に入れ付き添いの母と自分も一緒に病室で寝泊まりしていた。 伯父は鉄製の頑丈なベッドに横になり我々はその下に押し込まれた畳1畳程のベッドを夜には引き出してそこで寝泊まりしていた。 付き添いの家政婦を雇う病人もいたのだろうが殆どがそれぞれの女の家族が付き添いで寝泊まりをしたり通いであったりした。 子供の自分は4階建てほどの病院のビルが生活の場というより遊び場であり出入りできるところは自分の領域だった。 同い年の子どもはいなく、遊び友達もないからあてがわれた絵本をどこかで眺めたり当時は大阪市内の百貨店ぐらいでしか見ることのなかったエレベーターを使って屋上に上がり洗濯物がはためく向うにまだ田舎が続く田畑やため池のある景色を眺めて過ごした。

田舎の村から5歳のこどもが病院に住んで遊ぶというのは日頃走り回っている野原や山、藪から離れて大人の世界に混ざるという事で階下のボイラー室や共同の炊事場を覗きそこで動き回る大人たちを眺めるのも悪くなかった。 日頃は田畑で働く人々や納屋で縄を編んだり農具を手入れする祖父を見る程度だったのでその違いには見ていて飽きなかった。 そこに一人の大学生が療養していて子供に興味を持ったのだろう。 絵本だけを眺めている自分に暇にあかせてひらがな、カタカナに漢字を教え、簡単な算数まで手ほどきをしてくれたのだという。 1955年6月という日付が写真の裏にみえるが名前は書かれていない。 この学生の手ほどきで字のついた絵本は読めるようになり翌年近くのカトリック系幼稚園に入り毎日「きらきらぼし」を英語で訳も分からず歌わされた。 それから25年経ってグロニンゲンのグロートマルクとで夜星空を眺めていて突然キラキラボシの意味が頭の中に広がり感動したことを覚えている。 小学校に入った時は初めての通知簿に、授業が面白くないからと言って隠れて漫画を読むのはいただけない旨のことが書かれている。 まだ他の子どもたちには漢字の混ざった漫画は読めなかった時期のことだ。 親はそれ以後は漫画を買ってくれなかった。 「見る」漫画は買ってくれなかったが「読む」本は必要以上に与えられた。 だから今でもこの名も知らない大学生にこのことを感謝している。

広いモダンな市民病院の中でも一階は人通りが多いからそんな子供には一番面白いところで、受付、待合ホール、薬局カウンター、売店、それにつづく医科の診療室等々人々が忙しく行き交ったり病人はノロノロと介護器具に頼って移動し待合ホールのいくつもあるベンチでは老いも若きも静かに順番を待つ。 今はやたらとこういう場所は老人で溢れているけれど当時はそれほどでもなかったのではないか。 そんな中で眼についたのはノロノロでもなく普通に慣れた風にパジャマや寝間着、夏にはステテコで歩き回るオッサンたちだ。 どんな病気か知らないけれどベッドに始終横になっていなければならないわけでもなさそうで元気に見える。 病室ではそんなオッサンたちがさすが麻雀はないけれど将棋や碁をするのを見ている。 またブラブラとのんびり何をするでもなく自分の庭を見て回る風に歩き回り、待合室ホールのベンチにこしかけ暫く彼方此方を眺めてはやおら腹巻から何かを取り出して今では考えられないけれどベンチの前に置いてある灰皿に向かって新生、いこい、光や高いものではピースなどの煙をのんびりと吹かしていた。 今日のニュースでは肺がん患者の90%は喫煙者で、フィルターに空気が入るように定められた細かい穴を指が触れるあたりに作って空気が入らないように意図的にしたとして禁煙推進団体がタバコ会社を訴える裁判を始めたと報道されていたが当時、60年前は病院の待合室に灰皿がいくつも備えられているのが普通だった。 このオッサンたちのことを思い出したのは自分がそのオッサンになっているからだった。

もし自分が今の病状で日本で癌治療を受けるなら多分入院ということになるだろう。 そして軽い副作用があるとしてもそれ以外は日常生活には支障がなく一日中ブラブラする毎日となり今は喫煙も飲酒もとめられているから出来ないもののこれらのオッサンたちに混ざって無駄口を叩き、行き交う看護婦の胸や尻に遠慮のない視線を注いでは年金が減ったことに文句を言う者たちの仲間になるだろう。 合理的かつ経済的、そして普段の生活の中で闘病できるようなシステムの環境では病院でブラブラするのではなく家庭でブラブラする毎日を送り、我が家が病院となったような環境で見えない犬の首輪をつけられてそこを猫の散歩のように毎日ブラブラと過ごすことになる。


ほんの少しだけど散歩した

2017年03月28日 17時11分18秒 | 日常

 

 

体がなんだかだるいような眠いような日々なのだがそれでもこんな気持ちのいい日差しの午後には家の中にいるのがもったいないような気がして歩けるだけ歩いてみようと外に出た。 運河の向う側に出てこの間歩いた丘のある公園には行かず昔ローマ人が駐屯していた砦跡が公園になっているところがありその端のグループ農園に近所の男たちがブドウの木を何本も植えて道楽でワインを作っているからその芽をみてから帰ってこようと頭の中で道順を考えデイパックを背中に家を出た。 

分厚い部屋着のカーデガンにマフラーをして喉元を締め真冬でもウォーキングに耐えられるコートを着る。 暖かいからジッパーをせず羽織るだけにして歩き始めると外気に触れ暖かそうなのでそのうちコートを脱いでカーデガンだけで歩くようになる予感があった。 運河にかかる橋を渡っていると運搬船がやってきてその後ろの方にはこの間追突されたベンツと同色の同じステーションワゴンが乗っていた。 

自分の車は先週保険会社から連絡があり全壊と決定があり70万ほどの保険金がでるとの連絡があった。 2週間ほどでどこかでまた中古を探し乗れるようにしなければならない。 車はなければないで過ごせるのだがそれでも姑の様子が振れているのでそのためにも車は必要だ。 当分の間自分は車には乗れないので息子に家人向けの車を物色してくれるよう頼んでおいた。 

1mほどのワインの木が20本ほど3列に並んでいるところに来てみるとまだ芽も出ておらず4,5人の男たちが作業を終えたところのようだ。 見知った顔はなかった。 土地の端の方に新しくもう一筋土を掘り起こし畝を作っているところだった。 ここには1年に一回か二回くるのだが前回は小さく固い青いブドウの粒が沢山できていた時で6月か7月ごろだっただろうか。 世話人のハンスから仲間にならないかと誘われたのはここを始める5年ぐらい前だっただろうか。 人夫がたりないから誰にでも声をかけていたのを知っている。 今でこそ地球温暖化の影響かこんな寒冷のオランダでもワインができるようになったといえ白はドイツでも盛んだけれど赤の美味いのを作るんだというハンスには肯首しかねて返事はしなかった。 一人の男にどんな木の種類なのか訊いても知らなかったからその男は別の男に尋ねて赤いブドウだと答えがあったけれど彼らは本当に真剣なのかどうか疑わしかった。 家から10軒ほど離れたところに住むハンスは自分の家の庭にもブドウの木を植えてあって近所のそれぞれの庭にブドウを植えてある男たちと同好会を作って秋には収穫祭をやって共同で50本ほどの壜にしている。 自分たちで凝ったラベルも作っていてコストの方が高くつくから会員とその家族でない限りは飲ませてもらえない。 だから会員になって飲もうという勧誘をするのだがそんなワインは酸っぱいに決まっていると言って無理にでも飲まない。 それはハンスの仲間の家庭ワインだけれどこの菜園のワインは別のクラブになっているから夏に砦で考古学フェスティバルなどがあった時にはここの砦の名前をつけたラベルで売っており試飲をしたことがある。 ローマ時代の赤ワインだというがその頃にはこんなところではワインなどできず南からローマ人が運んできたもので、砦の端っこで2000年後に穫れた赤の味は覚えていないから美味いとも渋いともいえないものだったのだろう。

菜園にはハーブが色々植わっていて細かなタイムを摘まんで指で擦ると甘い香りがした。 一昨年南仏プロヴァンスを歩いた時に辺り一面が野生のタイムのこんな甘い香りで一杯だったことを思い出した。 南の豊かさと北の寒冷地オランダの厳しい風土の差が歴然としている。 それでもローマ帝国の北端を北に北に推し進める前進基地の一つがここで、豊かな南のローマから来た兵士たちが何もないこんな寒冷の地で過ごした日々を想うと同情しないでもない。 3mほど土盛りをした縁に上がると息が切れた。 ほんの10歩ほどなのだが眩暈がしそうだ。 250mx150mほどの駐屯地の跡を眺めてここで2000年ほど前に500人ほどのローマ人が蛮族オランダ人を遠目に眺めながら過ごしていたのだ。 何年も前にイングランドとスコットランドの境目、湖水地方を歩いたことがあった。 その時ローマ帝国が一番膨張したときに北端だったというあたりを歩いた。 1000mほどの山脈の尾根筋を牛車が通れる石畳を作って資材運搬の補給路としていたのだそうだ。 1979年に万里の長城に立って延々と続くその規模に呆然となったことを覚えているけれどこの時もローマ帝国のほぼ北端がスコットランドの端だったことに想いが行って同様の感慨を抱いたものだ。 だからここはローマ人がイギリスに渡る前に近くを流れるライン川を帝国の北端としていた時代に築かれた砦だったのだ。 長さ6-7mほどのあまり大きくもない平底船で徐々に整備されていた運河や10kmほど離れた北海まで出て海岸沿いに物資を運搬していたというそういう原寸模型もあったがその小ささに気抜けがした。 狭い内陸部の水路を縦横に素早く移動するには最も効率がいい船でこれで数百、千に及ぶ船団を組んでの物量作戦だったと説明にあった。 これでは外海には出られないから主に内陸部の運河沿いに使われたものだろう。 ドイツ、ベルギー、フランスあたりにはもうそういう交通網が出来ていてそれはその後細かいヨーロッパ中のネットワークとなって今でも使われている。

その復元された船のそばに、ここからブロンズ製の騎馬兵の仮面が出たとのボードがあった。 何のこともない小さな溝のそばだったのだがこの仮面が出た時にはオランダ中が湧いた。 それは当時若手のオランダ流行歌の人気者、ゴードンに似ていたからでいまでもゴードンの首とも言われている。 説明によると水の神に航行の安全を祈願して投じられたものだとのことだがほぼ2000年経っても当時の輝きはそのまま残っていて印象深いものである。 我々がここに越してきた1991年にはここには3軒の農家が温室栽培の土地としてその縁を子供を自転車に載せて丘のある公園まで行くのに通過していたぐらいの田舎だったのだがそれから5年ほどしてそこに数千戸の住宅を建てる計画が出て土地を造成するときに掘り返したら地面からこれが出てきて急遽町の文化財保護委員会が大学の考古学研究室と図って地質調査をし、その結果砦の部分を公園として残すことにしたのだった。 我が家から運河越しに遺跡に続く部分には今では数千戸の住宅が完成していて景観が変わったし思ってもいなかったローマ時代の遺跡公園までできている。 古いものと新しいものが混ざる奇妙な場所ではある。

下に古地図に「マティロ」とでているこのローマ軍駐屯地のサイトを牽く。 そこにはゴードンの首も見られる

 https://nl.wikipedia.org/wiki/Matilo

公園を出て近くのスーパーに入り朝食用のジャムとローストビーフを買い、運河越しに我が家から見える老人介護施設の建物の前のベンチに来て座りジュースを飲んでいると近所の80になるヤンが何も持たず歩いて来たので話しかけた。 この5年ほど認知症が進んでいて記憶があやふやになるのだというから外に出るときは奥さんと一緒の時が多い。 去年の夏に一人でここから1kmほど離れたところを歩いているのを見て心配になり奥さんに言いに行ったことがあるのだが、ヤンはあんなだけれど慣れたルートがいくつかあってそれを辿るのには心配ないと言われていた。 だから今回もその散歩のコースを歩いているのだろう。 アジア人の顔をしているから自分が誰だか名前もどこに住んでいるのかもう憶えていないものの「知っている人」のリストに入っているようだ。 ちゃんと返事は普通にして、天気がいいから散歩しているんだと言った。 ヤンと別れて橋を渡り自宅に戻ると2kmほど歩いたことになっていた。


隣町の肉屋

2017年03月27日 17時01分24秒 | 喰う

 

うちの地区で100年以上続いていた肉屋のエドが店を畳んでからもう1年ほどになる。 この辺りで一番の肉屋ですき焼き肉など普通なら塊を冷凍してから薄切りにするというのが普通オランダで行われていることなのだがエドは冷凍せずにそのままハムを薄切りにするスライサーで1.5mm以下の厚さで削ぐことができたので重宝していた。 肉質もしっかりしていて近郊の農家と契約して肉牛を仕入れていたものがどんな風向きか急に店を畳んでしまったので皆あっけにとられたものだ。 町の繁華街に昔からの肉屋が一軒、町の反対側に良質の同じく古い肉屋が一軒とあるけれどそこにはしょっちゅう行くわけではない。 だから大抵はスーパーでパックされた塊を見ながらあれこれ買うことになる。 自分が行くスーパーの肉は悪くはないがエドの店の肉に比べたらそれでもその違いがはっきり分かるし値段にもそれが表れていた。

家人が知人から隣町の肉屋のことを聞いていていつも待つ人が出来る程のいい肉屋だというので一度天気のいい日にサイクリングがてらに出かけてみようと思い行ったのが今日だった。 息子がアムステルダム辺りの顧客のところで仕事をしてから家で食事をしてハーグまで帰るかもしれないとステーキ肉を3切れ買ったようだ。 どれも小さくコンパクトなのだが厚みが3cm以上あって自分のものは80gぐらいであと二つは100g以上だった。 抗癌剤の副作用か食事の量が進まない。 けれど匂い、味が敏感になるのか食材の匂い、味が鮮明にたってくるから美味い。 思ってもなかったうれしい副作用ではある。

ステーキほど簡単なものはない。 だから美味い不味いは肉質で決まる。 厚い鋳物のフライパンでバター、オリーブオイルを熱くし両側を2分づつ焼くだけだ。 火を止めて肉を別の皿に取りアルミホイルを被せて180℃に温めて置いたオーブンに5分入れておくだけでライトミディアムになる。 塊の中心を切ると肉汁が赤身から出るか出ないかというところで停まっているのが標準だ。 レア‐寄りがいいというのならオーブンに入れないでそのまま食卓に上げる。 スーパーのステーキ肉は眼で選んで買うのだが当たり外れがある。 肉汁の多少、肉が細かいか粗いか、スムーズか繊維質かなどでもあるし肉のコクというか味にも濃淡がある。 今回のものは匂い、味、スムーズさといい素晴らしいものだった。 これが毎回行くと必ず買えるというのなら並ぶ客が沢山いる筈だ。

添え物はブロッコリーとカリフラワーを茹でてそれにチーズをかけたもの、ニンジンを茹でてシロップをからめたもの、昨日の残りの茹でたジャガイモを油で炒めたもの、冷凍してあった白米をチンして山葵の振りかけを一振り。 ボルドーの赤ワインが欲しいところだがそれは禁じられているのでぬるい白湯で喉を潤す。 デザートはスぺインの大粒苺だった。 


また夏時間がやってきた

2017年03月26日 08時22分09秒 | 日常

 

 

2017年 3月 26日 (日)

日曜の午前2時に時計の針が1時間進み3時になった。 今日から夏時間がまた始まる。 これで日本との時差が8時間から7時間になる。 ヨーロッパから見れば日本は7時間先を行っていることになる。 抗癌剤を12時間ごとに服用しなければならいから夏時間になった1時間のずれをどうしようか考える。 取敢えず朝は30分ずらし、夜30分ずらせばいいことになる。 今日は抗癌剤服用二期目の第四日目で、今体が一番薬に慣れようとしている時期にあたり本来なら副作用が出るらしいのだがそれはない。 その代り今日はどういう訳か体が特にだるいわけではないのだが一日中ベッドの中にいたいと欲していて食事するときを除いて横になっていた。 そうすると自然と微睡んできてよく居眠った。

ここに載せる写真にしてもどういうものか花が多くなる。 こんな状態では眼が華やかなものに行き自然と花に導かれるのだろう。 だからこのところこういうものばかりになる。 精神が弱っているのかもしれない。 この間銀行に行った時にチューリップの花束をもらった。 何故かと訊くと春になったからだと言う。 春分の日だったからだろうか。 その日、家で朝食を摂っている時にクラシックFM局からはバッハばかり流れていて、今日はバッハの誕生日だから特にバッハ関連ばかり流すと言っていた。 今それから5日ほど経って貰った時には薄青くまだ子供の拳ほどに包まれていた蕾が今では大きく開いて娘たちが好むような色合いを見せている。 春なのだ。 


友人が遊びに来た

2017年03月25日 15時22分31秒 | 日常

 

 

2017年 3月 21日 (火) 

 

近所に住む長年の友人が遊びに来た。 この間買い物に行くときに公園のそばを通っていて水辺の水仙を撮っていたらほんの久しぶりにその男と出会ってそのとき今日家に遊びに来る約束をしていたのだった。  近所と言っても同じ地区だけれど1kmほど離れている。 

1980年にオランダのグロニンゲン大学に研究助手としてきた時に大学の外国人研究者の受け入れ委員会(Foreign Guest Club)の世話役に紹介されその家族と何回か会っているうちに気があった何人かとグループになって一緒に遊ぶようになった。 理学部技師のイゴ―とその嫁さん、事務局のエヴァートとそのパートナー、学生上がりで求職中のリクストとその彼女のヤンティ―ンのグループだ。 持ち回りでそれぞれの家でパーティーを開き飲み食いをする。 当然知り合いを連れて来るからいつもパーティーは20人ぐらいにはなる。 男ばかりで町に出たり休みの蚤の市や書画骨董のオークションに行く。 他の町で蚤の市やオークションがあればただ一人ボロボロのヴォルヴォのステーションワゴンを持っていたイゴ―の運転でその町に行って半日みんなで遊ぶ。 1年に一回ぐらいパーティーが自分の番になれば自分の学生アパートの部屋では狭いのでだれかの家で寿司や照り焼きを作って飲み食いした。 

1984年だっただろうか30になってもブラブラしていたリクストは手堅い運輸省公務員となったヤンティ―ンとフリースランド州の州都レウヴァルデンの市役所で結婚し自分と一緒に住み始めていた家人とともにその式に参列している。 自分は1986年にライデン大学で職を得てハーグに越した。 5年そこに住んで91年にライデンの今の家に越してきた。 暫くしてリクストとヤンティ―ンがハーグに越してきて子供が出来たので彼らに会いに行ったのが94年だっただろうか。 それもヤンティーンが転勤になったからついて来ていたのでそれからすぐにリクストは何かの業界新聞に入って記者となった。 大学で哲学をやってその後卒業しても哲学科の図書館で司書をしていたがヤンティーンの収入で喰っていた。 彼らの娘が4つぐらいになった時家から1kmほど離れた同じ地区に家を買ってライデンに越してきた。 引っ越し祝いに新築のその家に行きその後1年ほどして家族でうちに遊びに来た。 そしてその後は互いに忙しく会うのはほんの偶に土曜のマーケットか町中で立ち話をするぐらいだった。 二人娘がいて上は23、下は19になっているのだという。 これほど長く知り合っているのに、そしてほんの近所に住んでいるのに会うのは5年か10年に一度ぐらいだ。 この前会ったのは2年前、自分の65の誕生日のパーティーの折だったけれどゆっくり話す時間もなかった。 だから今自分が死ぬかもしれない病気になったことで会おうという事になったのだった。

我々はどうでもいいことを長々ダラダラと喋るのを好みいつも時間が足りなかった。 今でもそうだ。 例えば美味い玄米茶があってそれに感動してどうしたらこういのが手に入るのかから始まってリクストは自分が育ったオランダの北の島の子ども時代の飲み物に話が行き1960年代でも前世紀のような生活だったとまで回顧する。 小学校の全校生徒数が30だから朴訥なもので真面目に勉強して20kmほど船に乗って陸に上がりレウヴァルデンのギムナジウムに通うとすぐ下宿生活、隣の州の大学で哲学に頭を突っ込むと世界は本と北の田舎、二つの州都が世界であるからお前のように大阪から来た男が珍しかったのだという。 何を話しても互いにスポンジが水を吸い込むように次から次へと話題は尽きなかった。 他の韓国仏教専門の友人と同じくいつまでも話していられるような性格というのは二人ともものを珍しがり興味をもちそれを弄び嬉しがるような性格で物事を急ぐということを知らないことだ。 だからいつも何か次の約束に追われるということになりダラダラ話し続けている時に唐突に終わるという結果になるというのは共通している。

今日彼が来たのはこの間の立ち話の時に自分がもう30年近くやっている古式銃射撃のことに話が及び興味をもったから一度見に来ればいいといったこともあった。 屋根裏部屋に上がり保管庫から5丁の銃器を取り出すと眼を輝かせた。 話は次から次へと銃器を巡る歴史、文化史に及び彼には今までの本からの知識が突然目の前に広がったような気分のようで目が覚めると言った。 自分はもう飲めないからデスクの下に並べてあった強い酒の壜からサントリーの白州を注いで飲ませたら旨いと言った。 摘まみにナツメヤシの実を干したデーツに80%カカオのチョコレートを出した。 自分の好物だけれど自分は駄目だからせめて目の前で美味そうにそれを飲み食いするのを見るのが今の慰みになる。 それに飲ませたのはそろそろ夕食をつくりに帰る友人を引き留めるためでもあったのだ。 それに成功して半時間ほど話しニヤニヤしていると急に時間に気付き、ヤンティーンに叱られるといいながら慌てて階段を下りて行った。 我々男というのはこんなもんなのだ。 この間訊き忘れた電話番号はその辺の紙切れに書いておいて行ったがそれを忘れないように手帳に書き留めておかねばならない。

イゴ―はアル中になり肝臓を壊し何年も前に亡くなっていた。 5年ほど前に家人の作品展の折ハーグのギャラリーのオープニングにわざわざグロニンゲンからエヴァートとマーティナが揃ってきてくれた。 グロニンゲン時代に彼らに子供が出来ていても結婚はしていなかった。 そのパーティーに二人そろって顔を見せたけれどそのときは別れていて仲のいい友達になっていた。 ファッションとアートに敏感で少し冷たい印象を放っていたマーティナは70になって明るく穏やかに笑う当時からは想像できないような美しい老婦人になっていた。 けれど2年前のパーティーに招待状を出したけれど返事もなく来ることもなかったから訝しく思っていた。 3年ほど前にエヴァートは交通事故に遭い今はベッドの上で植物人間になっているのだとリクストから聞いた。

 


小さな処女の掌?

2017年03月24日 16時45分43秒 | 日常

 

 

 

2017年 3月 24日 (金) 晴れ

外は麗らかな日差しがあるもののこの4,5日は外出しないで家の中で暮らす。 それでも外の空気に触れようと出るのだが昨日は何ともなかったものが今日は抗癌剤の副作用か肌に触れるものが冷たく特に金属に触れると指が冷たさに反応してピリッと電気が通じたようなショックを感じる。 3週間前と同じだ。 外に出たのはほんの5分ぐらいだったろうか。 居間の硝子窓から真下に覗いていた植木に細かい花が沢山咲いていたのでそれを観に出て一つ二つカメラに収めた。 

冬でも地上10cmほど一面に青々とした葉をつけるので植えてあるのだが今の時期一杯に薄紫の花をつけている。 オランダ語で Kleine maagdenpalm (ラテン名 Vinca minor)、これを自分で訳すと「小さな処女の掌(たなごころ)」となる。 ところがこのオランダ名、ラテン名をネットでさがしても和名は出てこない。 一方、ツルニチニチソウ(蔓日々草、学名:Vinca major)というのがあり、これはオランダ語の Grote maagdpalm (Vince major)である。 違いは Grote(major 大) か Kleine(minor 小) だけで大の方は直径5,6cmで5ー7月に開花とあり、だからそれは目の前のものではなく、この小さな処女の掌は直径3cm、3-6月に開花とある。 

平均のオランダ人の娘たちは16、17歳ぐらいから初体験をもち始め男子はそれよりも半年から1年遅れて始めるというような統計があるけれど、そうすると大きな処女というのは16歳ぐらいからの娘を意味するのだろう。 目の前の小さな処女の掌というのは何歳ぐらいのものだろうか。 解剖学的にいって生後すぐの女児は性経験がないのだから処女ではあるけれど幼児を性的対象にする性嗜好障害を持つ小児性愛者以外は少女を処女かそうでないかという眼で見るのは16歳あたりからではないのか。 尤も今の時代、多文化国家のオランダにあってそんなことは分からない。 巷にはいろいろな性情報が流れていることも確かではあるが社会の中で処女であることの意味を重く見るのはモロッコ系やトルコ系にはまだあっても相対的にはそれを重視すること自体が少なくなっている。 もちろん若い男女にとってこの関門をどういうふうにくぐるかというのは一生の重大事であることは何時の時代でもどこでも同じである。 今はとっくに成人した息子、娘も人並みだったとそのころ家人から聞いていてそんなものかと思ったおぼえがある。 

こんなことを書くつもりはなかったのだが花の名前から余計なことを書いてしまった。 目の前の花の和名がなかったのでツルニチニチソウの小さいものであるからショウツルニチニチソウ(小蔓日々草)とでもしておこうか。 第一、蔓の日々の草というのが色香を消したもので老人が散歩の途中で目をとめて愛でるもののように響いて言葉からは華がない。 目の前の可憐な花を植物学者たちはどう観たのだろうか。 仮令老人だとしても小さな処女というのはどういう娘かぐらいは頭をかしげて想像するだけの色香はある。 麗らかな日差しの下でも寒気を感じたからシミの多くなった指で目の前の小さな薄紫の掌にそっと触れてから厚いジャケットの襟を立てて病人は家の中にスゴスゴと戻る。


三日前には一輪だけだったものが、、、

2017年03月23日 23時40分51秒 | 日常

 

 

三日前に庭の椿の開花が今年は遅いようだと書いた。 その時に載せたのが今年初めて開花した一輪だったのが今では開いたのがもう10以上にもなり自分の背丈にも満たない小さな植木に蕾が数百もついているのだからこれから徐々に大挙して咲き始めるものと思われる。 本当に今年の開花が遅かったのか過去の日記を辿ると何年か前に2月の初めに雪の中で開花しているのが見えたから自分の記憶が誤っていなかったことを確認し、このところの老化を危ぶんでいたことに対してこれで少しは安心したのだった。 いずれにせよ3月後半の開花第一号を昨日手折って一輪挿しにした。 3日前はフレッシュに見えたものがもう衰え始めているのが窺える。 室内が暖かすぎて驚いた結果なのだろうか。


抗癌剤投与第二期一日目

2017年03月23日 21時01分08秒 | 健康

 丁度3週間前に抗癌剤投与を始めた時に下のように記している。

 http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/65541570.html

今日は第二期の初日に当たり前回と全く同じパターンで始まった。 前回は10時前からだったのが今回は午後2時から始め前回より半時間ほど長くかかり終わったのが5時半だった。 今回は日当たりのいい1人部屋で、持って行ったアイポッドの音楽を聴きながらのんびりしてその気持ちよさに眠り込みそうだった。 

前回と同じく左腕に点滴の針を打ったのだがその場所は今回は親指の根元のグリグリから5cmほどのところで腕時計のバンドにかかる辺りだ。 前回はまだそこから3cmほど肘の方に上がった腕の「甲」のほうに穿たれていたから点滴の終わる頃から始まる痛みと痺れが針の位置から前後に5cmづつが酷く腕の肘までその痺れ・痛みが続いていたものが今回はそれがずれて左手の親指の根元を中心に手の半分以上にその痺れ・痛みがでている。 前回だとそれが5,6日で消えた。 これが今回の一番きつい副作用だった。 途中尿意を催し点滴がぶら下がったポールとそれに付いた機械をゴロゴロ引っ張って2回トイレに行った。 点滴でなんやかやで2リットル近く体に入れ紅茶を2杯飲んでいるのだからそういう事が起こるのは当然ではある。 一回目は始まってから2時間後、二回目はその1時間後だったのだが二回目の時済んで手を洗うのに水道水に触れた時に急に手が痛みに似た痺れで飛び上がりそうになった。 冷たさに過敏になる副作用なのだ。 だから前回病院を出るときはマフラーで目と鼻だけ残してグルグル巻きにし、厚いコートと手袋に身を包んで迎えに来た車に走って飛び込んだのだった。 3週間たって大分暖かくはなっているのでその寒さは感じなかった。 

今回は息子が我々を迎えに来ることが出来なかったのでちょうどこの日65の誕生日で休みを取った義弟に迎えに来てもらった。 義弟はこの大学病院の4階の胃腸検査の技師をしており後1年半ほどで定年する。 彼の娘の婿がここで倉庫の管理をしており前にも書いた姪が看護婦としてどこかの階で働いておりその弟が今救急車の看護人になるべくどこかの階で訓練を受けている。 このことは承知していたのだが驚いたのは今日点滴を受けたこの抗癌剤治療の主要な毒であるオキサリプラチン(oxaliplatin)の点滴袋は義弟の妹が調整したものかもしれない、と彼が運転する帰宅途中の車の中で言われたことだ。 義弟には兄、姉がひとりづつ、それに妹が二人いる。 兄はアメリカに流れジャンキーになり生活破綻者、姉と妹は普通に結婚して家庭を持ち、大分年の離れた一番下の妹は専門学校で薬剤を勉強して製薬会社に勤めていると思っていた。 義弟は2mあり家族は姉の一人が175cmぐらいで「小さく」、あとは皆190辺りで義弟は2mだ。 だからこの一番下の妹が小学校から中学校に上がる辺りでホルモン投与の療法で大きくならないようにしていたのだがそれでも180cmを越している。 その妹がこの大学病院で患者個別に指示された薬品を点滴袋に纏めて調整する仕事をしている、お前の袋は今朝7時に調整されて冷蔵庫で保管されクールボックスで運ばれ反副作用点滴が始まって取り出され室温にして20分後に注入が始まるようになってたはずだ、と言った。 もし妹が調整していたらどこかに妹のイニシャルかなにかがついているはずだ、とも言っていたけれど点滴が済んで袋の写真を撮りそこに書かれたいろいろのことを見ているけれどそういうものは見つけられなかった。

基本はブドウ糖の一種、グルコース5%の液体にオキサリプラチンが主要なものとして溶かされておりラクトース(乳糖)も含まれていると書いてある。 グルコースは別として乳糖アレルギーの人もいるから自分には他のアレルギーはあっても乳糖には反応しないから問題なしとして入れられているのだ。 ペットスキャンの折、放射性物質を使って癌細胞を造影するのに糖と混ぜて追跡するのだと説明を受けた。 それは、癌細胞は増殖するのにエネルギーが必要で糖があればそれをエネルギー源として貪欲に細胞の中に取り込むからそこに放射性物質が溜まって造影できるのが仕組みらしい。 だからここでも仕組みは同じく糖と一緒にオキサリプラチンを細胞内に放り込みこの毒がDNAに働きかけ細胞をコピーすることを阻害し増殖にストップをかけ癌細胞を減退させ、上手くいけば癌細胞を殺してしまうのが目的だと説明されている。

袋にはまた、患者名、生年月日、有効期限は翌日の午前11時と記されていた。 薬品が透明で透明でない不純物が混じっていたり袋が破損されている場合は使用不可との注意書きも見えるけれど赤く点滴用と記されその下の方にバーコードがあるシールが張られているからその下の詳しい内容物は見る術もなかった。 点滴を始めるにあたって二人の看護婦がそれぞれ患者の名前と生年月日を読み上げそれに自分が同意するのを確かめるダブルチェックをした。 点滴が始まるとその後は穏やかなものだった。

自宅に落ち着き食卓に就き夕食のナイフとフォークを持った時にはその冷たさに痺れを感じ前回と同じく手袋をつけ直した。 冷水にも喉が反応し急に喉に木切れがつっかえたように感じてぬるま湯を飲んだ。 初日がつつがなく終わり第二回目が始まってみれば慣れたせいもあるのかもしれないけれど痺れ・痛みだけが酷いもののそれでも十分耐えられるので吐き気や頭や体の重さなども今のところないから滑り出しとしてはまあまあというところだろう。 明日から2週間朝晩8時前に錠剤の毒を飲む日々が始まり、そのためだけに目覚ましで6時半に起こされる規則正しい生活になる。