暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

日曜の散歩

2017年04月30日 21時48分14秒 | 日常

 

2017年 4月 30日 (日)

週末に娘がナイメヘンからやってきて泊まっていた。 医者のひよこでもあるので家人の求めで出来るだけ週末には父親を観察して意見を知りたいということと家人は今日は気温が17度まで上がって春らしい天気になるので町のウオーキングクラブの連中と近郊を15kmほど歩く予定をしていたので自分の御守りを娘に頼んでいたのだった。 抗癌剤服用期が過ぎ体調がほぼ普通に戻っているとはいえ何が起こるか分からないという心配からこういうお守が必要だと思っている節がある。 娘は精神医療が専門ではあるけれど家庭医の資格もあるので癌患者が身内にいて気分が引き締まっている様子もうかがえる。 これに加えて彼女には今二人の祖母がほぼ同時に終末期を迎えているのを経験していることにもなる。

あと10日で大阪に発ち12日ほどいて戻る、戻ってから検査があって5月の末に手術があるというのが大まかな予定で、大阪の介護老人住宅に住む老母の様子も悪いから娘と息子がこれが多分最後になるからと自分に同行する。 航空チケットも宿泊も予約はもう取れている。 家人は自分の母親の様子が怪しいのでオランダに残る。 我々が大阪にいる間にオランダの姑にもしものことがあっても帰らない、我々が大阪にいる間に自分の老母にもしものことがあってもオランダの家人は大阪には来ない、我々がオランダに戻ってから自分の老母にもしものことがあっても自分には手術があり、術後は半年はちゃんと動けないような様子なので大阪に戻れるようになるのは来年の正月辺りになるだろうと見越しそのように大まかな予定はできている。 

火曜日にはオランダの義兄弟たちを呼んでうちで一緒に昼飯を喰う予定で、そこで日本側のことは別としてオランダ側でこれから予想されることを話し、決められることは決めることになっている。 つまり姑は宗教的な縛りがあるから安楽死はできないがそれに準じる「生きることを終わりにする」ことを姑は医師に求めているのでそれについての子どもたちの具体的な対処、態度を決めるということだ。 自分の老母はもうほぼ自分が誰だか分からないようだけれどオランダの姑は意識は透明ガラスの切り口のように鋭い。 明日姑に日本に発つ前のあいさつにいく。 これが最期になるかもしれない。

マフラーをしていると暑く、コートもジッパーをせずデイパックで町なかを目指して歩いた。 三日前とほど同じコースだが日本に行く土産をスーパーで買うために娘も自分もデイパックを背負って出かけた。 日本にはほぼ何でもあるのでオランダのものを持っていっても有難味がない。 だからこの30年いつも同じでコーヒーの粉のパックにオランダの飴、球根ぐらいだ。 でもそれぞれ10個以上買うとなると嵩が高く少々重いから大きめのデイパックもいるというわけだ。 それにスーパーに行くのだから牛乳やジュースのパックを幾つか買うとかなり背中がどっしりとなる。 市役所裏のライン川沿いに日曜の青空マーケットが出ていて地元のチーズや地鶏を沢山ローストしている屋台が出ていてちょっと驚いた。 日曜だからのんびりしたもので土曜なら賑やかだからこれほど鶏を焼いても売れるだろうに今日中に売れるだろうかと要らぬ心配をした。 健康なら小さいものを幾つか立ち食いもするのだが今はそれも出来ず匂いだけで我慢する。 

古い公式計量所を改造したカフェーで昼食にした。 それが済んで近くの美術ギャラリーを覗いてまた来た道をのんびり引き返したら2時半になっていた。 娘とのんびり歩きながら色々なことを話しているともう子供ではないとはっきり思った。 娘が25の今、やっと自分は娘離れができたと思った。 汗ばんで荷物を肩から降ろし距離を測ると6.5km歩いたことになっていた。


アムステルダムの町なかで野兎が?

2017年04月28日 21時32分53秒 | 日常

 

 

2017年 4月 28日 (金)

昨日はオランダの国王の誕生日でみな酔っぱらい翌朝も休暇をとって長い週末にする人間が多いのかアムステルダムの住宅地区にあるオランダ癌研AVLに向かうべく電車の駅から歩いていても10時前だというのに人影は見えない。 約束の時間まで大分まだ余裕があることと空に陽がみえて出来るだけこういう日には歩くようにしていることから駅から1.5kmぐらいなら散歩がてらに辺りを眺めながらのんびりと歩く。

広場があって幼稚園もあるようなところに熊が枕をもって立っている大きな像があるのでそれを撮ろうと緑地に入ったら何やら蠢くものが見えた。 ぴょぴょこ跳んで移動するウサギだ。 茶色と黒の二羽だ。 こんなアパートが連なる様な町の中でウサギだとは驚きだ。 町はずれの産業地区などでは時々見ることはあっても町なかでは他に行くところもなく繁殖もできずそのうち餓死するのではないかとも思うけれど生き物の力というものがあるのだろうか。 それとも近所の人々が屑野菜をもってきて食べさせるのかもしれない。 別段ウサギ小屋も見えないからこの小さな遊び場の緑地にいるのかと周りを見回しているとこんもり盛り上がった丘の斜面に穴が掘られていてその奥が住処になっているのだろう。 それにしても子供たちが群れて遊ぶところなのだからこんな穴も周知のことで近所の犬たちも鼻を利かせて見つけないわけもなく甚だ頼りない住処ではある。 

見ているともう一羽茶色のがいてそれぞれ付かず離れず動き回っている。 後ろ脚が長ければ野兎なのだがこれは普通のものだから野兎ではなくイエウサギだからこれは誰かがここに放したものなのだろうか。 


アムステルダムの癌研で胃カメラを飲んだ

2017年04月28日 17時10分26秒 | 健康

 

2017年 4月 28日 (金)

オランダの癌研AVLに出かけて手術前の胃カメラ検査をした。 検査の30分ほど前に準備室に呼ばれベッドに落ち着き心臓計測機から出たいろいろな電極をからだに張り付けられ、同時に何かの注射を二つぐらいされ40分ほどベッドで待たされた。 6つほどベッドのあるその部屋には他に4人ほどがいて2人は見るからに悪そうだった。 人の話を聴くのも嫌だし微かな呻き声も気になるのでアイパッドの音楽を聴きながら読みかけの小説のページを捲った。 そのうち呼ばれてベッドのまま胃カメラ室に運び込まれた。 そこではいつものようにいくつもの質問に答え、最後に麻酔が要るか聞かれたので要らないと言った。 前回1月10日の時も何の問題もなく胃カメラの画像を楽しんだので今回も見られるのかと尋ねると残念ながら女医の後ろにモニターがあって邪魔になり、女医たちには各自モニターが自分が横向きに寝た後ろ側にあるのでそれは当然自分には見えない。 患者がモニターを見ることなど期待されてはいないのだ。 スプレーで喉の局部麻酔をされプラスチックの穴の開いたマウスピースを嵌められその中に長い管の先についたカメラが押し込まれて検査が始まる。 前回で慣れているので何の問題もないので女医、看護婦たちも拒否反応がないのに驚いていた。 なるほど吐き気のようなものはあるけれど昨夜の10時から飲まず食わずであるから胃の中に何もなく、吐き気はあっても何も出てこないのだし出来るだけ力を抜くようにしているので体の反応も薄い。 結局カメラで胃の中を眺めまわしただけで細い管を差し入れて胃のサンプルをちぎり取ることもしないまますんなりと検査は10分ほどで済んだ。

カメラの像が見えなかったので何か見せてくれと頼むとスナップショットがデスクのモニターに出ていたのでそれを見せてもらいながら簡単な説明を受けた。 腰につけたカメラで一枚その像を撮った。 指示では胃の上部に癌の転移やその兆候がありそうだったらその部分とその周囲のサンプルを摘まみ切るという事だったのだが胃の上部はきれいなもので癌の兆候も転移も見られないので切り取ることもなかったこと、下部の癌はそのままで多く広がることもなくそこに予想通りにあるのは抗癌剤が効いているという事、穴があってそこから外に出た細胞が転移し腹膜に組織があるのは前の他の検査で明らかでありそれ以上は胃カメラの検査ではわからないこと、それ以上は担当癌専門医の領域であるので自分はそこまでしか述べられないこと、これらのデーターは動画も含めて担当医に送られ5月3日に説明があるはずであること、などが画像を眺めながら手短に説明された。 普通は検査だけでこういう説明はしないことになっているのだけれどあなたが模範患者で好奇心が強く普通なら疲れて回復室に向かうのに元気で誰もこんな風に訊かないのにと笑いながら説明してくれた。 それにしても若い癌研の女医たちの美形なことには密かに驚く。  そういう意味では若い男の医者もイケメンが多いことは確かだ。 

細かいことは担当医から説明があるけれど胃の上部30%ぐらいは残るのではないかとその女医から聞いて喜んだ。 病気でなければシャンペンを開けたい気分だ。

 


四月二十七日はオランダの国王の誕生日

2017年04月27日 19時14分58秒 | 日常

 

2017年 4月 27日 (木)

今日はオランダ国王ヴィレム・アレクザンダーの50歳の誕生日だった。 だった、というのは自分にはベアトリクス女王の時代が長くその「女王の日(4月30日)」の印象が強く27日というのがまだはっきりと頭に入っていないからだ。 自分がオランダに来たのは1980年の4月でその月にベアトリクスが彼女の母親ユリアナから王位を受け継いでアムステルダムでは王政に反対するデモの争乱があったことも覚えている。 そして彼女が息子のヴィレム・アレクザンダーに王位を譲ったのが2013年の女王の日で4年前になる。 皇太子のヴィレム・アレクザンダーには娘が3人いて娘たちも大きくなって手もかからなくなり皇太子46歳、女王も75歳となり、その時が丁度継承の潮時とみたのだろうというのが大方の観測だった。 

昨晩テレビで1時間半ほど国王のインタビューがありそれを観た。 母親のベアトリクス女王のときのインタビューに比べると国民の王として親しみが持てるようにリラックスしたものだったがインタビュアーがせっかちな男であるからその受け答えに何か受け身の印象を与えもし、同じ男がインタビュアーなら、多分ベアトリクスはこの男を選ばず、もしこの男であったとしても威厳をもって男の態度を少し慎しませるようなこともしたのではないかとも思え、母と息子のその違いがまだ息子には貫禄が出ていないような印象をもった。 けれど今のヨーロッパでEUが綻びかけ自国中心、移民排除の風潮の中で王政支持率が去年が65%だったものが今年は70%まで上がっているのは1980年の争乱時の模様が嘘のようで、この高支持率は必ずしも全てがオランダ王室に向いたものとも言えないものだ。 

それに国王結婚当時からヴィレム・アレクザンダーより妻のマキシマの方が圧倒的に人気の高いことは周知の事実で今もそれが続いているのはこのインタビューでも話の種とされ、やり手の妻に差配される国王というような戯画も屡々見られるようである。 それで今日の「王の日」だ。

「女王の日」と同様のプログラムで王家の人々はティルブルグの町を訪問したらしい。 どこの町でもそれぞれ町の中心、それぞれの地区、通りで子供中心のガラクタ市やコンサートが開かれ一日のんびりと皆見物し、寛ぎ、大人たちはビールで気持ちよくなり子供たちは駆け回り誰かが要らなくなったおもちゃや衣類、道具、ゲーム類を数百円単位で売買、交換するマーケット中心が一般だ。 外気10℃、朝には雨が降りその後陽がでるものの弱弱しく肌寒かった。

午後になり陽射しがあったので散歩もかねて近所のそんな市を覗き町の中心に出かけ戻って来るつもりで家人と二人雨具を入れたデイパックを背に家を出た。 桜は殆ど散ったものの他の草花や立ち木に様々な花が咲きしっかりと緑の若葉も生えそろい繁り始めているのが明らかだ。 いつもは静かな屋敷町の大きな交差点がいつもこんなイベントの広場となり舞台も設えられており近所の中学生がDJをしているのが聞こえる。 もう20年ほど前の学生で付き合っていた彼女と結婚して3人の娘をもうけその娘たちがもう小学校に上がる年頃で地面におもちゃや本を並べて売っているのに出くわした。 ちょっと立ち話をしていると二人とも昔の性格、印象が蘇ってきてそれが変わらないのに苦笑気味になる。 

濠端を通り町の中心に近づくと俄然人が溢れ大して見るものがないのに皆ブラブラと子供は手にアイスクリーム大人は手にプラスチックのコップに入ったビールかアルコール度30%のオレンジ色のリキュールを持っている。 市役所の広場を始めあちこちに地元のカフェーが設置した舞台が設えてありオランダの演歌やロックなどのライブの音が競合している。 我々は人ごみに少々疲れ、カフェーに入りコーヒーとケーキで休憩し、また別のルートで大体同じところに戻ってきた。 近所の交差点の広場の舞台では7人編成のブルースバンドがR&Bを演っていてアルトとバリトンサックスを吹いているのはフィットネスのグループ・メンバーの一人だった。 7人の平均年齢は60歳ぐらいだろう。 暫くそこにいて家に戻った。 5.5km歩いたことになる。

 


久しぶりに町に出た

2017年04月27日 08時30分54秒 | 日常

 

2017年 4月 26日 (水)

体の調子も戻って来たし今のうちならまだ1時間は天気が保つだろうと防寒を確かにして自転車で町に出た。 天気が悪く気温が低いのと体の調子がまだ戻っていなかったことから1週間近く家にこもっていたのだけれどやっとブラブラと町に出る気になった。 何もあてもなく途中で彼方此方を眺めながらゆっくりと自転車を漕ぐのは楽しいものでこれが外気が18℃ぐらいになればいうことが無いのだけれど今の時期にしてはかなり低い10℃では肌寒い。 自分が家で籠っている間に桜の中でも最後に咲く八重桜も4分ほどを残して散っていた。 あちこちで地面に散らばった花弁が風に吹かれて地表辺りを微かに移動する。 今年は八重桜の満開を見逃した。 来年はあるのだろうか。

町に出ると水曜の青空マーケットが出ていた。 水曜は土曜の規模の3分の1ほどだがそれでもスーパーを覗くよりは数等楽しい。 人が集まっているところを覗くと野雁の若いのがノソノソと人を恐れず歩き回り疲れたのか地面にうずくまってはまたノソノソとどこかに移動する。 青物を売る若者がトマトや何かの果物を口に持って行けばそれを喰い噛みつくようなこともしないので道行く人々が物珍しさに眺めている。 羽毛がまだ柔らかくまさに布団やジャンパーなどに入れるドンスでこれではとてもまだ飛べるわけはない。 どうしてこんなところにくることになったのか分からないがそのうち動物保護団体に電話して保護されることになるのだろう。 モロッコ青物屋でミントの束一つを買って市立図書館に行った。

新聞閲覧室で年寄りたちに混じって新聞を二つ三つ読んでからカンティーンでミント茶を買いそれを持って階上の開架図書部で読みかけの本を1時間ほど読んで家に戻った。


この時期に痛風か

2017年04月25日 13時19分33秒 | 健康

 

前回痛風の症状が出たのが去年の9月11日でその時は期限が過ぎた薬を飲んで効かなくて新たに処方してもらったものを飲んだらすぐに治ったというようなとぼけたことを書いていた。 前回から7か月半ほどでいつもの症状が出てこの持病のことを思いだしたのだが胃癌に比べると痛風などと、という気がして病気の中でもランクがあるようで妙な気がする。 まあそれも命に係わる緊張性などのことからもそんなランクが自然と出てくるのだろう。 それに今日手紙が届いたこの地方に散らばるいくつもの射撃クラブのメンバーが20人ほど見舞いの寄せ書きで病気見舞いを呉れて目元が緩んだのだがそれも癌だからで、これが痛風ならこっちのほうが酷いぞとそれぞれ皆が酷さ比べで酒を飲むアテにするぐらいにしかならないものなのだ。

今回の症状は両足指で親指の根元あたりが痛み始め歩くのには差しさわりがないのだが放っておくと酷くなりそうで昼に青い錠剤を一つ飲んだ。 今抗癌剤の毒を始めいくつもの錠剤を並行して飲み、またこの5日ほどは鼻孔のスプレーをも使っていてここに来て毎度の痛風だ。 幸いなことに癌研に出したこの4年ほど服用した薬のリストを診て痛風の薬は副作用を併発したり療法を阻害するような恐れはないと言われていたので安心して服用できるけれど薬というものは様々な化学反応を起こすのでなかなかすぐに服用ということにはならないから来月日本に行ってもし何かの場合にはよっぽど薬品には注意しなければならなく当然今服用している薬は持って行くけれど担当医にもしかの場合大阪で信頼できる病院なりクリニックなりを紹介してもらえるよう手配している。

抗癌剤服用期も終わりに近づき体調も気分の整ってきたので明日ぐらいからまた近所を歩いてみようと思うけれど外は9℃、霙もパラパラと窓を叩くような不順な天気で後ろに引っ込んだ春はどこに行ったのか早く戻ってきて欲しいものだと窓の外を眺めながら嘆息する。


大学病院の美術ギャラリー

2017年04月24日 22時22分22秒 | 日常

 

金曜に鼻血が出て処置をしてもらいにライデン大学病院の耳鼻咽喉科に来た。 そして右の鼻孔の奥の毛細血管をレーザーで焼きタンポンを詰めて帰宅しそのまま週末を過ごし月曜の今日自転車で家から3.5km離れたこの病院に戻ってきてタンポンを取ってもらうべく11時半の予約時間の10分前に来たら年寄りが一人だだっ広い待合スペースにいるだけだった。 すぐにその人の呼び出しがあったものの処置が15分ほどかかりさて、自分の番かとモニターの番号を見たら自分の次の番号が出てどこからかやってきた二人組が入って行った。 やれやれ、これではまだ15分かと手持無沙汰に周りを歩いてみるとすぐ下が美術ギャラリーなのに気が付いた。 一月半ほど前にここでみた織物について書いたことを思い出したのだがまだその絵がかかっている。

https://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/65540252.html

今ではこのギャラリーが入口からどう行けばあるかは癌科や薬局に行く途中にあるので分かるけれど病院に来るのは美術鑑賞に来るわけでもないのでギャラリーの位置など心に留めることもない。 そして我々は広いビル群の廊下のあちこちにぶら下がっている番号に従って最短距離のAからBに行くだけだからその他の科がどこにあってそこにはどう行けばいいのかは受付で訊くか予約の手紙や診察券のリストを見るしか分からず、またそれを頼りに最短距離を歩く。 病院内でブラブラしている人を見ることは少ない。 それはブラブラできるという事は在宅で済むということで、ここに通えるという意味でもあり入院コストを少なくできるということでもある。

自分がギャラリーを見下げているところから反対側には数百人がゆったりと飲み食い出来るスペースがあり花屋や本屋、雑貨屋もあるのだからそういうところで憩う人たちがゆったりと美術鑑賞をということにもなることをも期待して存在理由があるのだろう。 下に見えるスペースと同じようなギャラリーがこの病院にはあと2つはあって廊下の壁、診察室、受付などにも必ず何か絵や写真がかかっているので眼が退屈することはない。 けれど或る意図というかテーマ、グループなどを集めて観られるのはこういうギャラリースペースとなるからその意義は単なる壁とは違うものだとは理解できる。

そんな事を考えていてそれならあと二つのギャラリースペースはどこでどう行けばいいのかというとそれは分からない。 ただ記憶は歩いている右や左に見えたというだけでそれも採血センターに行った時だの胃腸科に行った時だったとかそういうときのついでとして記憶の端に残っていて分からず、はっきり知りたければ受付で病院の地図を貰うしかない。 

待合スペースの椅子に坐り辺りを見渡していると白雪姫の格好をした5つぐらいの女の子が父親に手を引かれて向うを行く。 頭には毛糸の帽子をすっぽり被っていてそれは抗癌剤の副作用で毛が落ちているからだと分かる。 歩くのに踊るように軽く跳ねているのが見ていてのせめての救いだ。 癌は我々年寄りだけのものではない。  

自分の名前が呼ばれて処置室に行くと金曜の若い医者が詰まったタンポンをピンセットで引き抜いてスポイトで薬液をチュッと注いでそれで終わりだった。 同じ薬液のスプレーを貰いそれをこれから5日間毎日一日3回両方の鼻孔に噴射するよう言われた。 両方の鼻孔がすっきりと通り頭がすっきりして大分気持ちが良くなり気分が晴れた。 

 

 


また鼻血だ

2017年04月22日 22時27分42秒 | 健康

 

ここに書くのは出血のあまり気持ちのいい記述ではない上に大して何の役に立つものでもないのでよっぽど暇でない方以外は何か他のことをすることをお勧めする。

 

2017年 4月 23日 (日) 

もう何日家から外にでていないだろうか。 外気9℃だという。 一昨日は鼻血で大学病院に行ったけれど行きも帰りもすぐ車だから外に出たことにはならない。 3日パジャマのままで暮らしている。 鼻のことがあるから24時間は安静に、熱いもの、辛い物を飲み喰いするな、シャワー、風呂には入るなと注意書きを守り生暖かいもので過ごしていたのだが昨日、朝食のミルク・ティーをいつもの通り熱いままで二口ほど飲んだらじゅるっと鼻血が滲み始めたのでこれはいけないと冷ましてから飲んだ。 それで収まり一日を過ごし夕食は娘が土曜のマーケットで買って来た白アスパラガスを茹でたものを喰った。 もう一か月ほどまえからマーケットに出ているのを見ていたのだがその機会を失っていたのでこれが今年の初物となった。 ゆで卵を潰してマヨネーズ、ライムを絞り砂糖と辛子を少し加えてソースにしたもので大きな太いものを5本づつ喰っただろうか。 このソースには燻製の鮭が合い、ハム、茹でたジャガイモも添えられていた。 美味かったのだがこれが早朝の鼻血の原因かと素人判断をする。

日曜早朝5時、急に鼻の奥が盛り上がる様な気がして目が覚めそばに置いてあるゴミ箱の上に頭を持ってくると金曜に病院で処置されたままのタンポンの詰まった右の鼻孔はどうという事はないのだが左の孔から金曜と同じように血が溢れ漏れた。 勝手知ったることであるからできるだけ頭はゴミ箱の上のままにして血で汚さないようにトイレットペーパーのミシン目に沿って一つだけ破りそれを折って丸めタンポン状にして詰めた。 金曜には3分ごとに溢れたのだから同様に長期戦になると覚悟した。 金曜には1時間経っても止まらなかったのだから大学病院に電話をかけたのだけれど今回もそうなるのかと腹をくくったのだが今回は両方の鼻の孔が詰まっているので息がしにくく具合が悪い。 眼の周りが何か火照ったような気分だし朝5時にしては寒く感じないから悪寒を起こすほど熱は出ていないものの普通以上の熱はあるのだろうと浴室の棚から小さなタオルを取り出して水に浸し鼻から眼の辺りを冷やしたら気持ちが良かった。 けれどそれで血が止まる気配はなくそのままじっとベッドにあおむけ気味にしていた。 右の鼻孔から濃い血が沁み出してくる気配はなく薄い滲んだものだけがじっとりとしみだしていて右には出血はないものとみた。 けれど紙で詰めた左の鼻孔で詰まってそこから溢れたものが喉の奥から口に廻り溢れるので本来は鼻孔から出る分を口から垂らしだす始末だった。 そういうことを暫くしていて1時間ほどたち徐々に血の色が薄くなり止まった。 結局完全に止まったのが出初めから2時間後で詰まった鼻をかみ出たものをみると驚くほどの量だった。 それはやわらかく溶けたレバーのようでまるで脳の部分が溶け出たのかと思うくらいだったのは堪っていたこの血が抜けたので頭と鼻孔が通り抜けてすっきりしたからだった。

このことがあり日頃は7時に採る朝食が遅れ朝の抗癌剤服用時間も少し遅れたが何とか日常に戻りその後11時半に娘に起こされるまで眠った。

鼻をかんだ時に大量の塊が出たので写真に撮ったのだがここに載せるにはグロテスクで気持ちのいいものではないので何日か前の屋根裏からの夕景を載せる。


ブラブラについて

2017年04月22日 18時36分56秒 | 想うこと

 

 

先日ぶらぶらすること、について書いた。 そしてある方から「ぶらぶらできないのはぼくに「敵」が見えないからか、それとも見たくないからか。」という感想をいただいた。 そこで自分の置かれている位置と高校生のころから自分は一生ぶらぶらしていたい、という将来の希望を持ちながらのらりくらりと生きてきたその軌跡を想い、そのブラブラというものが何だったのか考えてみることにする。 ただ感想をいただいた方の「敵」というものが今私が死ぬか生きるか関わっている癌というようなものについて書いた文脈からのものであり、今私がここに書く「敵」というのが死をもたらすものをも含む何かでもあり、自分の「ブラブラ」と自分の「敵」というものがどのように関わっているか自分でもこれを探る縁になるかもしれないと筆を始める。

農夫の祖父の下、母子家庭で幸せに育ち子供のころの夢というものがあったのかなかったのか今思い起こしても思いつかない。 当然漠然とパイロットや運転手というようなことはあっただろうがそれは間違っても医者や、博士、企業の社長というようなものでもなく、増してや我々の一世代前の「末は将軍、大臣」かという物々しい掛け声も既にない新生民主主義国日本の子どもの他愛ないものだったのだろう。 けれど英雄というものはあってそれは月光仮面であったりスーパーマンであったりしたが幾ら子供でも将来なれるものではないとは理解はしていただろう。 小学校から高校まで将来のための競争の中にいて将来は大学を卒業して、、、というようなものが周りからの強いプレッシャーとともに頭の前に常にぶら下がっていた。  けれど学校ではその都度尊敬できる素晴らしい教師たちにも恵まれたけれど教師になりたいとは思わなかった。 陰りがでたのは67年ごろからだろうか。 社会の空気がまともに将来の自分とこの国のかたちというものを考えずにはいられない、避けて通れないものとなって我々には迫っていた。 学友の中には大学に行くことが社会に呑み込まれることであって拒否するものまでいる始末だった。 世間は「猛烈」があたりまえで若者には「ダルイ」気分が蔓延していた。 大学に入った時には「騒乱」は終焉していて何事もなかったように日常は過ぎていく。 

そんな中で自分が選んだのはブラブラと生きることだった。 それができる下地はできていた。 2年浪人して、1年留年、社会に出ても将来有望な職などない。 先日亡くなった加川良というフォークの歌手の「教訓I]というのがあたまから離れなかった。 命はひとつ人生は一回だから命をすてないようにネ、、、、、青くなってしりごみなさい、にげなさい、かくれなさい、、、、そうよあたしゃ女で結構、女のくさったのでかまいませんヨ、、、、、基は戦争にとられるときのことを歌ったものだが我々若者は経済成長期の経済戦争に追い込まれる兵隊さんだったのだから。 そんな中で偶々知り合いのアメリカ人教授からオランダに来て手伝わないかという誘いがあったのでそれに乗った。 それが1980年だった・

オランダで結婚し、子供をもち、息子が中学にあがるころお父さんの公務員の給料が低いから自分は金儲けができるように勉強したいと言われたときには驚いて自分のときとはずいぶん違うものだと思った覚えがある。 自分は大学を卒業してブラブラしているときに新聞広告で応募した中小貿易商社で営業マンをして数千万円の小切手を換金するのを忘れ無効になりそうなときに自分には金儲けは向いていないと思った。 仕事はこなせても仕事に対する意欲がなかったのだ。

たまたまなったライデン大学の語学教師・オランダ国家公務員の給料で生活する親の生活を自分の息子が貧しいと思ったことに時代と国の違いを感じていた。 戦後の貧しい日本の田舎の農家で育ちモノには恵まれていなかったのだろうがそれは感じなかったのだから貧富の比較をする対象がなかったのだろう。 つまり周りも貧しかったということだ。 オランダ人の家人も裕福な家庭では育っていないから夫婦は互いに何の不自由もないとは感じていたのだろうが子供にとってはクラスの親の20人以上が博士号をもち自営業や高収入の親たちが多いところでそんなクラスメートのなりふりをみていて感じることがあったのだろうがそれも分からないことではない。 だからそんな少年の想いをもちつつ息子は大学では経済・経営・税法・ガバナンス解析などを修め一流会計会社に就職し公共団体・公益法人などの分析を専門とし公認会計士になるべく修士号をとってからでも大学にも通っている。 当人は社会の仕組みを知るのが面白いと仕事に励んでいるのだがそれが高収入につながるかどうかには特に興味がなさそうで嘗ての子供の夢から変化してきていることには好感をもっている。 

自分がぶらぶらして生きてきたことからして誰もそうして欲しいとは望んでいないが自分の子供たちには忙しくともいつも何かに追われるような生活、自分の意に添わない生活はしてほしくない。 理想があればそれに越したことはないけれどなくとも何の差支えもない。 自分には理想の職業というものはなかったのではないか、自分の理想は一生ブラブラして適当に生きることだった。 そして定年を迎えた時にこのままブラブラしたまま老いてのらりくらりと逃げ切れるのではと思っていた矢先に胃の中に爆弾を抱えていることを知った。 健康でブラブラしているときに癌が見つかり見た目は変わらぬが強制的にブラブラ生活を余儀なくされることになったのだった。 自分にも他人にも何かに追われるような生活、自分の意に添わない生活はして欲しくない、と書いたが今の自分のブラブラした生活は表面的にはそうみえるが病魔に追われて自分の意に添わない生活なのだ。 だからこれは自分の意図するブラブラではない。

上に述べたある方の「ぶらぶらできないのはぼくに「敵」が見えないからか、それとも見たくないからか。」という意見に戻る。 「敵」というものが何か、敵がみえればぶらぶらできる、というように読めるところが気になる。 この方がいう「敵」というのは上に書いた死にいたる病気のようなものでないと仮定すると、それは巷では「男は外には(社会に出ると)10人の敵がある、という敵とは違うような気がする。 もっと人間存在の基にある自分の意志を阻むものだと想像してみる。 こうなりたい、こうする、というときに目の前に、若しくは遠くから明らかに自分を疎外するかもしれない存在だろう。 それが見えた時にブラブラできるとすると多分そのブラブラは「敵」に果敢に立ち向かうなり正面から対処するなりという行動を意味するのではなく、迂回したり敵から距離をとりながら過ごす、ということを意味するのではないだろうか。 あるときから気づきはっきりとは見えないながらもどこかに厳然と在るとりつくところも見えないようなもの、敵とさえ呼べない肌に纏わりつくような忌むべきもの、それを感じた時に自己防衛の手段が「ブラブラ」なのだろう。

自分にとって自分を疎外する存在というものを感じたのは大学入試時期から大学卒業期の頃だったのかもしれない。 理想もなく定見もなく小市民として生きていく道が漠然と前にあり積極的に企業なり公務員として生きていく自分を描けず漫然と卒業し中小貿易会社に入ったのが一つの契機だったのかもしれない。 会社のメカニズム、扱う商品、輸出業務はやっていて面白くはあるがこのまま一生続けているとどこかでプイと嫌気がさして止めてしまう気がした。 そのとき自分に家族もこどももあったら自分の父親の二の舞ともなるだろうからオランダに来たのは僥倖だった。 それ以後はぶらぶらと生きている。 人には指図されず急がずのんびりとやってきた。 何もしない時間は十分すぎるぐらいある。 公務員で大学教師ほど時間が自由になるものはない。 大学の人間は面白くないからできるだけ大学以外の人間と接するようにしてきた。 趣味にしても読書は続けるけれど猫の散歩よろしくあちらに出かけては頭を突っ込み面白くなければ別のところに行く。 仕事は人に後ろ指をさされない程度にきっちり勤め学会にも顔を出す。 けれど自分は大学にいる人間だとは思っていない。 大学にいる人ほど世間を知らないものはいないのは世界共通である。 けれど彼らの知識というものは社会に貢献するのだから彼らの話を聴くのは面白いけれどそれだけだ。 大学人で面白い人たちはそのうち辞めていくのを何人もみている。 29年も同じ職場にいたのだから真面目に働いていたではないかと言われるかもしれないが時間が自由になり暇が多く制約されないというのはブラブラできたという事だ。 

話は突然べつのところに飛ぶ。 11歳のあるときまで全く泳げずある日急に50m泳げるようになり2,3日のうちに平泳ぎで1km泳いだ。 プールもない時で泳ぐのは海だから急に泳げても水には慣れておらず底が見えないところでは怖かった。 12歳の時伯父と二人田舎の海岸に魚釣りに出かけ誰もいない浜で海水パンツの用意もしていなかったので丸裸で波のない海に入り底の見えないところでゆっくりゆっくり浮かびながら平泳ぎで浜沿いに行ったり来たりした。 その時弛緩して伸びきった金玉が水中で揺れるその寄る辺なさが忘れられなくそれがある種ブラブラの感覚だ。 平衡感覚が乱れ重心が定まらず確かなものを求めるけれど掴めるものはない。 女性には理解できるだろうか。 しかし一旦クロールや平泳ぎで大きく水を搔きスピードをもって泳ぎ始めるとそれも忘れるけれどのんびりと水に浮かび金玉の動きに任せるとそのブラブラはなかなかのものだ。

ここまで書いて来て自分のブラブラは何だったかはっきりと掴めたかどうかは自信がないがそれは多分自分を急かすものもなく、ある程度の好き勝手を制約するものがない状態かもしれない。 大人(たいじん)でなくとも結構、小市民なのだからそれを受け入れ、時間が経つと別に何の功績もなく場を去ることになる。 人に迷惑もかけずある程度ぶらぶらできたというのが人生の褒美だと思っている。


鼻血が止まらない

2017年04月21日 22時43分27秒 | 健康

 

2017年 4月 21日 (金) 外気10℃

鼻血が止まらなくて往生した。 何時もの通り7時に朝食、7時半に抗癌剤の服毒、その後ベッドに横になってウトウトしていて10時半に熱いシャワーを浴びた。 その後ジュースを飲み、コーヒーでチョコレートケーキを食べた。 11時20分に鼻血が出始め、いつものことだ、10分ほどで止まると嵩を括っていた。 ところが止まらない。 トイレットペーパーの小片を鼻に詰めても3分経てば沁みだしてきてポタポタ落ちる。 そこまではいいけれど取敢えず待つことにする。 10日ほど前に普通だと5分か10分で止まるところが30分かかり、もし何か異常があればすぐ大学病院の癌科に連絡することとなっていたのだが連絡しようかとかんがえていると止まったのでそのままにしていた。

抗癌剤の副作用に血液が薄くなる、ということが書かれていて出血するとなかなか止まらないということもたくさんあるそんな副作用の中の一つだ。 結局1時間経っても改善の気配もなくすでにトイレットペーパーのロールはひとつ使い切っていた。癌科に電話を入れるとすぐに来いという。 偶々家人が町のウオーキング・クラブの連中と週末にドイツ国境あたりを20人ほどで歩くことになっていたので世話人でもある家人のところにはもっていかなければならない色々な荷物があるのでメンバーが車で来ることになっていた。 同年配のルード、とアドが車で来たのでルードに家に残ってもらってアドに家人と二人大学病院まで送って行ってもらうことにした。アドのカミさんは10年ほど前に腸がんの手術をしている。 ルードのカミさんは2年ほど前に左の乳房を切り取っていて今癌が戻ってきていないか観察中だ。我々の年齢のものが集まるとこういう話題に事欠かない。 この間自分はビニール袋の口を開けて鼻の前に持って行き3分に一度ペーパーを詰め直す。 間からポタポタ血が落ちるからちゃんと顔をビニール袋で覆っておかねば汚いことになる。 

勝手知ったる大学病院の入口を入ると皆がこちらを見るのが分かり家人は癌科に自分は言われた通り血液採取のカウンターに出向く。 先日の看護婦が自分を観て先ず顔と手を洗うことだと言いこれじゃこれまでにこれから採る量より出てるねと冗談をいうけれどこちらとしてはそこで今迄ビニール袋に入れていた汚いものを棄てて手を洗うので血液採取どころではなかった。 そうこうしているうちに癌科の看護婦が来て癌科で採取するからとまた新しいビニール袋を渡され顔を覆いつつ癌科まで出かけてそこで採血した。 鼻の上部を押さえていろと指示があり20分ほどそうしていても状況はかわらない。 担当医が来て血液検査の結果は血小板も赤血球、白血球の数も減っていない、抗癌剤の副作用はない、と聞かされ、鼻孔の奥の毛細血管の防御幕に副作用が出ていて過敏になり出血しているのだろう、毛細血管をレーザーで焼き切って止める作業をしようと耳鼻咽喉科に電話をしてそこに廻された。 血液に異常がないというのには喜んだ。 5月30日に手術が決まっており血液の状態が悪ければキャンセルになる可能性もなくはないからだ。 看護婦から熱いシャワーを浴びそのあとコーヒーでチョコレートケーキは理想的な鼻血のお膳立てだと言われた。

小学校6年のときにサッカーをしていて近い距離から誰かが蹴ったボールが右の鼻に当たり酷く出血した。 それ以後何かあると出血しやすくなっていたけれど大抵は10分もすれば止まった。 けれどもう50年以上前に鼻の奥の毛細血管を焼き切る手術をした。 高校1年の夏柔道部の合宿で柔道着と鼻が擦れてひどく出血した。 運動の性質上鼻孔に紙を詰め込んでもまた擦れるから柔道着が真っ赤になり誰もがそれをみてひいた。 それまで黒帯をつけているものを何人も投げたりしていたが結局黒帯を取れずに柔道を辞めてそれ以後はスポーツは辞めて写真部に入った。 水泳でも同じだった。 誰もが水に飛び込みたがる。 だけれども自分が飛び込んで上がってくると鼻から下が真っ赤になって見栄えが悪いだけでなく水が汚れる。 だから2,3回そういうことがあって以来水には頭から飛び込んでいない。 こういう経緯だから医者にレーザーで焼き切ろうと聞いて喜んだ。 柔道は無理だが将来水に頭から飛び込めるかもしれないからだ。

若い耳鼻咽喉科の医者は鼻孔の奥を診察して複数個所から出血している、全部焼き切れるかどうかわからないけれどいまよりはましになるだろうといい、鼻孔に麻酔薬をしみ込ませたガーゼを詰め込んで10分ほど待った。 レーザーの細い管を鼻孔に入れるときに電極を持たされた。 アースらしい。 焼き切る間痛みは何も感じなかったが済んでから細いタンポンを頭蓋骨の中まで押し込むような痛みがひどく思わず声を上げた。 それが一番の痛みだったがすぐに消えた。 月曜に結果を診るので来るように言われそこを出た。 血が出始めてから4時間が起っていた。 注意書きには熱いもの、辛い物は口にしない、運動や重いものを上げ下げする様な仕事はしない、これを3日は続けること、と書かれていた。 夕食には生暖かい冷えたものを喰った。 出血はあったが濃いものではなく量も圧倒的に少なくなっていた。 午後10時半に就寝するときには鼻のタンポンがまだジクジクしていた。 朝起きると乾いていた。