暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

いとこ会

2013年10月22日 22時43分26秒 | 日常


2013年 10月 19日

義妹が声をかけていとこ会をしようと春に言っていて、それを秋に予定していたものがいよいよ開催された。 このいとこ達というのは家人の母親のきょうだい姉妹のこどもたちのことで、そもそも家人の母親は田舎の村の酪農農家の子供12人の、女が11人、一番下が男という大家族の丁度中頃にあって今年85になる。 30年前初めて義母方の生家の新年会に招かれて彼らに会った。 当時はまだオランダ語もできず英語が達者ではない人たちの中では必ずしも居心地がいいとはいえなかったけれど人の集まり方をみていれば自分も大阪南部の農家の出であるので男達、女達が固まってそれぞれの話に夢中になり、その間を小さなこどもたちが走り回るというような光景は自分が育ったこどものころの法事や冠婚葬祭の景色として記憶にあるものと重なって農家の集まりには洋の東西では大きな変わりがなくそこにはただ違う言葉が使われているだけのものだった。 

40頭ほどの乳牛を飼う納屋に住居が繋がった伝統的な屋根の高い大きなオランダの農家の住居部にやんちゃな子供たちも含めて60人は集まっていたのではないか。 その農家は一番歳下の長男夫婦が家を継いで外に嫁いだ女達の生家を守っていてここでの恒例の新年会が唯一家族が全員集まるときだった。 それから何回この新年会に参加しただろうか。 そのうち叔父さんが定年で農家を辞めるというのでその歳の新年会が家族が全員集まる最後となった。 15年ほど前だったろうか。 叔父さんには娘二人、息子二人がいたが息子たちは農家を継がなかった。 乳牛40頭では規模が小さすぎて将来にむけて採算がたたず、それに土地は借地だというのが理由だった。 皆で記念写真を撮った。 そのときにはその農家の子供たち12人は全て揃っていてその子供たち、その連れ合い、孫たちが農家の前に並んだ。 戦後すぐにオーストラリアに夫婦で移民した一人もこのためにメルボルン近郊から来ていた。

ここでは自分にとっては叔父さんは一人だけだしはっきりと誰か分かるもののあとのおばさんたちは殆んど区別が付かない。 兎に角顔かたちが似ているのだ。 どっしりとした幕内体型は特徴的なものだ。 そしてそのオバサンたちは殆んどそういう機会にしか会わない人たちでその連れ合い、子供たちが傍にいると大体どの家族か分かるものの賑やかなこういう会では皆バラバラで、時々会う2,3人を除いてはほとんど分からない。 名前もごちゃごちゃだからだたおばんさんというだけでお茶を濁して名前は言わない。 それが今まで続いているのだからもう今となっては仕方がない。 パン屋の、、、なり、消防の、、、とか、自分で教会をたちあげた、、、だの、造園の、、、と言った具合だ。 前回家族の新年会をしなくなってそのこどもたち、つまり我々いとこたちが企画して村のスポーツクラブのクラブハウスで初めていとこ会をしたのが6年前だ。 70人ほど集まっただろうか。 オーストラリアから叔母とその娘、孫娘も参加した。 叔母の娘で小学校の教員をしているいとこはオランダ語を話したが孫娘は英語だけだった。

この6年の間に初め12人いた農家の子供たちは80から90になり、数は半分になっていた。 家人の父方の方では父を含め兄弟二人は既に亡くなっておりその連れ合いたちも他界している。 母方の方でも3人は3年ほど前までに他界し、今年3日ほどの間に二人が亡くなっている。 オーストラリアの叔母は健康がすぐれずもうオランダに来ることはないだろうとこの機会に親を置いて二週間ほどオランダに来ている叔母の娘が言っていた。 自分も還暦を越したこの歳になると、だからたとえ家族会、いとこ会がなくとも自然とだれかの葬式のときには顔を合わしているのだが、それでもそんな機会はこのような家族会とは全く雰囲気が違い、このようないとこ会では顔合わせも華やかなものになる。 造園で知られた町のそんないとこの一人が経営する造園の温室を改造したパーティー会場で午後一日楽しく飲み食いした。 前回、6年前は12人全部揃って記念写真に納まったのだが今回はそれもせず、皆これが一堂に集まる最後の機会になるのではないかと感じているようだ。 だから皆が持ち寄った料理やケーキなどが用意され食事に入る前にシャンデリアの12本の蝋燭をそれぞれ一つづつ灯したときにそれをしみじみ噛み締めている風だった。 今年亡くなった母親の代わりに点灯し、オーストラリアから来られなくなった母の代わりに点灯した子供たちは思いがつのって目に涙を溜めていた。

30年前に新年会でうろちょろしていた子供たちは叔父、叔母たちの孫たちだったものが今回そんな小さなこどもたちは彼らの曾孫になる。 初めて農家で見た4つ5つの子供たちの子供たちがいまちょうどそんな歳ごろなのだ。

とっぷり日が暮れて降っていた雨が暫し止んでいる間に姑を車に乗せその村にある老人ホームにつれて戻った。 昼の4時から8時半まで飲んで食べてよく喋っていた。 自分の部屋に入るとさすがに疲れたと洩らしたけれどそれにも増して嬉しかったと言った。 不治の病であと3年だと言われたのが6年前だった。 次のいとこ会はいつになるのか想像もつかないが、そのときには果たして叔父、叔母たちはまだ何人存命でいられるのだろうか、それには想像も付かない。

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