暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

FN Browning M1922;ちょっとは慣れてきたのだが、、、、

2013年11月30日 02時54分43秒 | バンバン

金曜の夜、先週は日本の古い映画を観ていたから行けなかったもののそれ以外はほぼ毎週出かけている自分が属する射撃クラブに行った。 射場に入り的を15mのところにセットして普通の眼鏡で狙った。 この前の日曜日にはフリントロック式ピストルで25mを撃っていたからこの眼鏡で問題なかったはずが今晩は霞んで狙えない。 だから急遽老眼鏡を取り出してかけたら何とか見えた。 5発づつ2回に分けて撃った。 結果は一辺25cmの正方形の紙の的に全て入った。 直径10cm内に3つ、15cmのリング内に2つ、20cm内に1つ、25cm内に4つだった。 この紙を四つに折るとその分布は左上が3つ、右上が一つ、あとの6つは右下のブロックに入った。 左下には入らなかった。  フリントロック式のピストルに比べると何と簡単でコンパクト、信頼できる性能だと思う。 直径20CMのところに6つ入っているからいいとしよう。

嵐を呼ぶ十八人   (1963);観た映画、 Nov. ’13

2013年11月29日 02時58分12秒 | 日常


嵐を呼ぶ十八人. (1963)

英題; 18 Roughs

108分

監督:  吉田喜重
製作:  荒木正也
原案:  皆川敏夫
脚本:  吉田喜重
撮影:  成島東一郎
音楽:  林光

出演:
早川保
香山美子
松井英二
岩本武司
木戸昇
殿山泰司
浪花千栄子
平尾昌晃

上が映画データベースの記述であるがそれに加えて次の二つの感想が述べられていた。

「松竹時代の吉田監督作品。 松竹時代の代表作「秋津温泉」の翌年の作品。 流れものの日雇い労働者の若者の群像劇。 下請けでの労働条件、搾取される肉体労働などの、労働問題を描く左翼映画ではなく、世間から白い目で見られてしまう非行少年ものとして視点での映画である。 相変わらずに成東のカメラがクールでリアルに不良少年を写し取っているシャープさがある。 18人の不良少年の役者たちの演技が稚拙であるのであるが、吉田監督はそれを逆に利用して、安易な結末を用意しないでドキュメンタリー映画みたいなリアルな描写をする事に成功している。 喧嘩、反抗、反発などでぶつかりあうのであるが、安直な更生したり仲直りもしないままで、シーンを切り、通俗的な不良少年の変化もさせないけど無言でありながらの変化をニュアンスとして捉える事に成功しています。 特に、香川美子(飲み屋の娘の元気な娘役を好演)が犯されるシーンの暗闇と切り替えなどのシーンが秀逸であり、その後の展開は1シーン1シーンでの緻密さが素晴らしい。 特に省略された編集方法が抜群。(犯人さがし、プロポーズ、犯人の自白、よたものへの復讐、結婚式への参加・・・・)  インテリ(教師)で理解者の女教師の根岸明美の、気丈ぶりも印章に残る。(ホットパンツでの元気さ・・・)」

「社会から疎外された労働者達を描いた作品。大島渚なら階級闘争に発展していきそうな問題(例えばブルジョアとプロレタリアートとか)を吉田喜重はその事実だけを捉えた。それがこの作品の良い所ですね。」

本作は在オランダ日本大使館主宰の吉田喜重・岡田茉莉子特集としてライデン大学の大講義室で吉田監督のデビュー作「ろくでなし(1960)」に続いて観たものである。 「ろくでなし」では自分の裕福さに退屈した社長の息子と彼につるむ学生の生態を厳しく描いた作ではあるけれど本作では周旋業の芦屋雁之助によって中学卒業後問題のある少年達がまとめてつれてこられた呉にある中小の造船所の粗末な寄宿舎に住み込み働かせられるその少年達と彼らと寝食を共にする主人公の早川保が上で述べられたように暮らす展開となる。 初め舞台がどこだか分からなかった。 景色などから尾道あたりかと思ったけれどそのうち背景に海上自衛隊の訓練生などが横切るような場面もあり戦前・戦中・戦後を通じて軍港の町である呉の1960年を初めて眼にした。 本作の63年から15年ほど経っての75年あたりの呉には思い出がある。 大学時代の女友達の一人の実家が呉であり、その町の佇まいを彼女から聴きもし、音戸の橋のこと、実家の米屋がどのように客に米を配送するかなど坂が多いの町の様子を想像していたものが本作でそれから10年以上甦るかたちで見られたのは予期せぬ驚き、嬉しい収穫だった。 

それに加えて短いながら浪花千栄子を見られたのも近年にない大きな収穫だった。 名前の通り浪花の言葉を美しく話す人だった。 大阪の言葉も時代の変遷とともに大きく変りメディアにでる大阪弁からはゆとりと美しさが消えた。 いや浪花言葉が消えたという方が適切かもしれない。 衒いも誇張もないごく普通のうつくしい言葉を話す人だった。 それに加えて今の大阪の言葉と言われるものがメディアで聴こえてくるものと比べてあこぎなピンはねをする周旋屋の芦屋雁之助の言葉さえ本作ではまだまったりしているように感じるのはその変化を物語っているのかもしれない。 後年テレビの大阪コメディー「番頭はんと丁稚どん(1959-61)」で嫌われ役の番頭で人気を博し、のちにどすの利いた彼の大阪弁を聞き慣れていたこととも関係しているのだろうけれど言葉の変遷ということを思わざるをえない。 

呉の駅から少年達が九州に発つシーンで蒸気機関車が現れたのを懐かしく思った。 1950年代に祖父につれられ山の畑で時間を過ごしたことがあって時折山の間を通る電車の間に天王寺から和歌山、熊野へ向けて走るC57のスマートな姿を見たのだが我々のところには人気のあったD51は走ってこなかったような気がするのだが、1969年の夏に一度和歌山から白浜までC57に乗ったことがある。 それが多分蒸気機関車を経験した最後だったのだがそのときのしっかりとした木の窓枠、トンネルにかかるたびに窓を閉めなければ煙が入ってきて咳き込むようなこともあったのを思い出す。 半世紀前の映像がそのような思い出を甦らせるものとしての価値はこういうところにもあるのだと思う。

少年達は本雇いではなく臨時工で労働組合のストライキなども枠外の扱いを受けている状況が本作で示される。 けれど、それが1963年の状況だとすれば現在はこれよりも状況がよくなっているのかという問いに対する答えとしては必ずしも肯定的なものを提示することは容易ではないのではないか。 高度成長期の後、労働組合は霧散しバブル崩壊後の現在は非正規雇用の割合が全体の3割を超えるという状況では当時のこの少年達の姿が今では巷にあふれたものとなっているといっても過言ではない。 本作の少年に対する現在の少年達の姿を撮るとしたらどのようなものになるのだろうか。 本作では18人が団結とまではいかないものの群れというようにとらえられているけれど現在では群れにさえならず顔もみえないそれぞれの点としかとらえられないのではないだろうか。 それに題名の「嵐を呼ぶ」という陳腐なものはどこから来たのだろうかと想像してみる。 大島渚であれば「嵐を呼ぶ」というようなはったりが出ても不思議ではないだろうが、インテリの吉田が信じてもいそうもないような言葉として響くのだが、もしかしてこれは映画会社の呼び込みキャッチフレーズでしかないだろう。 第一、これらの少年達には石原裕次郎ではいざしらず、青春を謳歌し、反逆をするにしても太陽族は暇も金もあればこそ、ここでの少年達はいくら悪だといえどもそのうち20を越えると牙を抜かれ市井の人々になることは汽車が呉駅を離れるシーンで明らかだろう。 そういう意味では英題の方が的を得ているような気がする。

本作で忘れられないシーンは少年達が雨の中、結婚した主役のカップルを乗せた車を眺めるところだ。 二人を乗せた車が下に下りて行きカメラは広場に立った18人をばらばらな群れとして写し、車は彼らに近づくこともせず止まりもせずそのままそこから離れていくのだがこれがあれば最後の呉駅のシーンがなくともよかったのではないかとも思ったけれど、いやいや、駅のシーンがなければ浪花千栄子が見られていなかったではないかと言う声もどこからか聴こえてきて気持ちに収まりがつかなくなる。

バカンス ’13  (8);小さな教会

2013年11月27日 23時31分32秒 | 日常

秋も深まり冷たい霧のような雨が空気中を漂う中、ポンチョを被り帽子の庇を深く被っていても細かい粒子が眼鏡に纏わりつく鬱陶しい日に日記を書こうと思って机の前に坐っても筆は進まない。 こんなときにこそ夏のバカンスに毎日書いておいた記録を辿ってその思い出を綴れば夏の光と空の青さを思い出し何とか今を凌げるというものだ。 そうなると話の前後は関係なくそのときの光と緑だけの記憶で取りとめもなくそのときの記憶を辿って話もあっちこっちと迂回しながら続くこととなる。


2013年 8月 2日 (金) バカンス5日目

7時半起床。 快晴。 チロル地方の Huben 村にあるキャンプ地にテントを張りここに落ち着いてから初めてこの日はちゃんとした靴を履いて何日か後にこれから2500m以上の高地を歩くのに慣れるため5kmほど離れた Längenfeld 村まで歩いて行くことにしていたから家人が三人分のパンを村のパン屋に買いに行っている間に自分は飯を炊いて握り飯を作った。 グルテンとかなりの肉体疲労が結合すると急性小麦アレルギーの発作が起こるからこれから一日歩いたり山に登ったりする日の朝と昼間はパン製品は口に出来ない。 だから自分で昼飯を用意するしかないのだ。 果物や野菜とグルテンの含まれていない肉製品を村のスーパーに買いにいくこともこの日の目的に入っている。 3年前、Längenfeld 村のスポーツ用品店で煮炊きするためのガスボンベを買っているときにオランダの大学病院から担当教授の電話が入り、それまでの長い検査結果を知らされ、急性アレルギー発作の原因は疲労と小麦製品の結合だからこの二つを切り離すこと、そうしていれば何事もないと言い渡されて以来、こういうときの朝飯、昼飯のパンはもちろん昼間にビールを飲むことも禁じているのだった。 だから牧草地を縫いだらだらと小川に沿って5kmほど歩くにしても途中で摂る昼食には小麦製品のパンは食えないから自分で用意した握り飯というわけだ。 ヨーロッパでは小麦製品を避けるというのはかなり難しい。パンにクッキー、パスタに各種練り物等々避けては通れない。 ただ最近は多くのさまざまなアレルギーを持つ人がいることから普通のスーパーでも商売になると踏んでそういう食物を揃えているところが多いので前ほど苦労はないのだがそれでも自分の身がこうなってからはつくづくパンの簡便さを思い知ることにもなったのだ。 

息子と娘はこの標高1100mのキャンプ地の上に見えるピークを目指し急勾配を800m登って頂上の写真を撮ってくる予定だと地図を見ながら言っている。 我々と一緒にのんびりと平地を歩く気はないらしい。 そんな子供たちを残して我々は9時半にテントを離れた。

3年前にこのルートを2回ほど歩いているから何の変りもないのだけれど今の時期に田舎道を歩くのは楽しさこそあれ若い者達とは違い退屈するものは何もない。 牧場に放牧されている牛達を周りに見て時にはその間を通り抜けなければならないこともあるけれど雌牛ばかりだから用心していれば問題はない。 ただ一頭か二頭いるだけの雄牛の柵の中には入らないことだ。 子供の時自宅に3頭の乳牛を飼っていた経験がこんなときに役に立つ。 伯父が自宅や村の農家のホルスタイン種・乳牛の種付けをするのを何回か牛の尻尾を括って持ち上げ助手をしたこともあるし出産にも立ち会ったことがある。 オランダに来て街の中に漂う匂いは空気中を通って牧草地から来るものだと気づいたり、姑の実家の酪農農家の30頭ほど並んだ納屋に入ったときなどにはそこに漂う匂いを嗅いで20年ぶりに昔に戻ったと感じたものだ。 けれどこのあたりの牛はゆったりと張りのあるオランダのフリース種やホルスタイン種の体格に見慣れている者には少々痩せているとも見えるのだけれどそれもここの風土に合ったものなのかもしれない。 それに、夏の間は柔らかい草地が2000m以上の高山にあって、そういうところに放し飼いにしているのなら牛たちも険しい山道を上り下りすることになり、そんな牛でなければいけないからこういう体格でいいのだろう。 後日、標高2200mほどの山道を歩いているときその細い道は人間だけでなく牛の通り道だと分かった。 普通なら草地に散らばっているはずの牛糞が連綿と幅50cmほどのこの道に続いていて、ついにはこの細道にはそこでのんびり草を食んでいる牛達に正面から遭遇することになったのだった。 どうすることも出来なく我々がそれを避けるために斜面を登って迂回し向こう側に抜けなければならなかったことも経験している。 ゆるい斜面の牧草地なら牛達も動くのだろうけど道の上も下もかなりな斜面になっているところでは動けるのは人間だけだからそうならこちらから迂回するしかない。 そんなことは分かっているだろうというような牛の落ち着き方なのだ。 我々はもった杖を頼りに斜面を登った。 けれど今歩いているこんな平坦な牧草地ならそういうこともない。 ただ新しい牛糞を踏まないように気をつけて歩くだけだ。 

そうこうしている間に教会の白い塔が向こうに見え、こちらも一休みするためにその教会に行ってみた。 そこには Zur heiligen Dreifaltigkeit つまり、聖なる三位一体教会とでもいうのだろうか、そのように書かれていた。 けれど中に入って説明を読むと地元ではペスト教会といわれているらしい。 ここは谷間の長い平地にある Längenfeld 村から800mほど西に行って上流の氷河から流れてきた大量のミルク色の濁った水を運ぶ川を越したところから斜面を標高50mほど登ったところにあるのだった。 入り口のドアの簡素な木目と金属の鍵の取り合わせが美しかった。 

ヨーロッパを席捲した厄病のペスト、黒死病がこの村を襲ったのが西暦1600年だったらしい。 多くの死者を村から1kmほど離れたここに隔離してこの場所で焼いたらしい。 それもそのうち収まり、30年ほど経ってから村の教会の分家とでもいうのだろうか、そういう風にしてここに教会が建てられ、以来この村が管理しているらしい。 50人も入れば一杯になるような簡素な内部だが綺麗に整っており日常ここでミサも行われているような形跡もある。 1600年といえば関が原の合戦があり、それから30年ほど経つと鎖国となりオランダ商館だけが西洋との窓口になったころの事だ。 この教会の由来を辿っているうちに日本のそのころのことを想った。 しばらくそこにいて外に出ると入れ替わりに目の見えない娘を連れた50代の夫婦がこの教会に入っていった。 




何かが足りないタジンもどき

2013年11月27日 02時43分51秒 | 喰う


先週も試みて中途半端だった羊肉のコトコト煮を今度はちょっと趣向を変えてやってみた。 先週はまず羊肉のぶつ切りをバージンオリーブオイルで炒め、そのあと肉の入ったその鋳物の厚鍋に水をひたひたまで入れ、イスラムの食材店で求めたタジンパウダーを放り込み、固形のコンソメスープの元を加えて2時間ほど煮た後、ニンジン、ジャガイモ、玉葱、インゲン、茄子、干した果物も加えて火を通してニンジン、ジャガイモとインゲンの中に芯がまだすこしあるというまで煮たあと、塩コショウに少々の醤油で味付けをして食卓に運んだ。 羊肉のあじ、こくが強く出るだろうという予想が外れてとても素直なというより、素直すぎるようなものになったので気が抜けて今回は材料は同じながらやり方を少し変えてみた。

羊肉を炒めるところまでは同じだったのだがそれに安赤ワインを1本の7割ほどどぼどぼと注ぎ、ベイリ-ブ、タイムにローズマリー、丁子の粉をふりかけ、今度はニッキとクーミンも入れてそこに前回と同じように固形コンソメの素とタジンパウダーを加えまた2時間ほど煮た。 匂いはちゃんとしたものだったしその後、前と同じように野菜を加え、同じように煮たのだが前に比べると北アフリカ風の香りもしてそこそこいけそうだったのでクスクスで喰ってみるとまた何かが足りない。 先週よりは匂いはいいのだが味が物足りない。 これはハーブの量だけの問題ではないように思う。 なんだろうか。 夕食はそそんな風に頭をかしげながら喰ったのだが次の日にはそれに市販のカレーのルーを入れて羊のカレーにしたらもともと色々なハーブで煮込まれているものだからとても旨かった。 けれど本来はカレーを作るつもりはなく北アフリカ風のものを作りたかったのだから解決にはなっていない。 家人はタジンのスープ風で具が沢山入ったものをよく作るのだがそれとは違って味が強いものを目指しているのだがあれだけハーブを入れたのに何か気が抜けたようなものになるのは何だろうか。 

ソウルメン    <未> (2008);観た映画、Nov. '13

2013年11月25日 02時23分39秒 | 見る

ソウルメン   <未>(2008)

原題; SOUL MEN
100分

監督:  マルコム・D・リー
脚本:  ロバート・ラムゼイ、 マシュー・ストーン
撮影:  マシュー・F・レオネッティ
音楽:  スタンリー・クラーク
ナレーター: ランディー・ジャクソン

出演:
サミュエル・L・ジャクソン  ルイス
バーニー・マック      フロイド
シャロン・リール      ルイスの娘クリオ
アダム・ハーシュマン
ショーン・ヘイズ
ファッツォ=ファサーノ
ジャッキー・ロング
マイク・エップス
ジョン・レジェンド     マーカス・フックス
アイザック・ヘイズ    アイザック・ヘイズ  
ヴァネッサ・デル・リオ
P・J・バーン
ケン・ダヴィティアン
ジェニファー・クーリッジ
サラ・エリクソン

往年の人気3人組バンドのひとりが亡くなったため、その追悼コンサートへ大陸横断の旅に出ることとなった元メンバー中年2人のドタバタ珍道中を描いた音楽コメディ。

1960年代から70年代にかけて人気を博したコーラス・グループ、マーカス・フックス&ザ・リアル・ディール。のちにマーカスは脱退してソロで成功したが、対照的にコーラス・デュオとして再出発したルイスとフロイドはケンカばかりで大成することなく音楽界を去り、離ればなれに。それから約20年後、彼らにマーカス訃報の報せが届き、ニューヨークのアポロシアターで行われるマーカスの追悼コンサートのため、ザ・リアル・ディールの再結成を依頼される。しかし、久々に再会したルイスとフロイドは相変わらずの険悪ムード。5日後のコンサートに向け西海岸から車で移動中もケンカが絶えず、行く先々でトラブルを引き起こす始末。さらには、彼らの過去に深く関わる若い娘クレオもメンバーに加わり、一行はニューヨークへと急ぐのだが…。

上記が映画データベースの記述である。 日曜深夜のイギリスBBCテレビにかかったものを観た。 こどもの時からテレビでアメリカのポップ、音楽ショーに触れ、中学から高校にあがるころになるとそれがソウル・トレインなどになり、そこでオーティス・レディングやビル・ウィザースに圧倒、魅了されてきた今は還暦を過ぎた自分は時にはCDやネットラジオでR&Bやソウルを聞くことがある。 60年代にそういう洗礼を受けているからそういう音楽は今では若者にはキッチュで長閑なものと相手にされずその振り付けやコスチュームを馬鹿にされそうなフォーマットではあるけれど愛着をもつのであるから本作のようなロード・ムービー仕立てのドタバタコメディーで様々な挿入曲が入るとなると暴力や陰謀に明け暮れる今の映画の合間にアメリカの浪花節的心地いい温風が吹き込むようで、主人公の二人の喉が60年代、70年代に黄金期を謳歌したことになっているけれど実際にはその痕跡がみられない主演の二人ではあるけれどそこは掛け合いのおもしろさでカバーしているものと看做せるだろう。 喉で言えばこのグループのリーダー、マーカス・フックスに歌わせたらよかったのだが如何せんストーリでは死んでいる。 けれどここでのジョークは、画面にフックスを見たときに、まてよどこかで見たことがあるぞと思ったもののなかなか思い出せなかった。 そしてその後写真が大写しになってはたと思い出したのがこの何年かジャズ、フュージョン局などでかかっているジョン・レジェンドだった。 その筋のミュージシャンが参加協力しているようだ。 今も時々音楽番組で観る、当時映画「シャフト」で一世を風靡したアイザック・ヘイズもその一人だ。

歌は世につれ、世は歌につれ、と言われる。 そういうことが本作の中でも如何なく示され、彼らが体現してきた演劇性を振りに入れたショー・ビジネスとしてのソウルは消え、LPを回し単純な声で単純なリズムに乗せてメッセージとやらをがなるものが席捲し、音楽性が後退しているものが流行る現在、力のある女性シンガー達が活躍するということはあっても今はこのような男たちのグループが踊り歌うという時代ではないようだ。 踊り歌うといっても子供向けのグループが薄い声で忙しく動き回るのが席捲するなかでは大人の出る幕はないようにも思える昨今、若者達がこれから40年も50年も経ってそのときのナツメロが今の何とかポップでは情けない、と還暦を過ぎた年寄りが嘆くのだがそれも曳かれ者の小唄なのだろう。 精々本作ではこのグループに入れ込みマネージャーになるデブで白人、ソウル・ナードのアダム・ハーシュマンのような者が増えれば何とかなるのにと一抹の夢を爪に灯した明かりで見たいと思う。 それにしてもジャクソンとマックの掛け合いがなんとも面白く、また上手く出来ている。 B級映画の上級にランクされることは確かだ。

昨日羊の肉を煮込んでいる間に惜しいことをした

2013年11月24日 14時58分10秒 | 日常

昨日、まとまりのない何となく過ごした土曜日だと記したのだがその日起きてすぐメールボックスを開けていたら画期的なニュースに立ち会えたのだがそれを逃した。 知り合いからメールが入っていてシーボルト博物館でオランダ語で初めて源氏物語の翻訳が出ることになり、その出版記念とアムステルダム国立博物館が江戸初期にオランダの東インド会社を通じてオランダに持ち帰った源氏物語をモチーフにした蒔絵の筺を7億5000万円ほどで購入したことに重ねて源氏物語関連のレセプションがあったのだ。 アムステルダム国立博物館はこの間、もう何年も補修をしていて閉館だったものがオープンするときに山陰地方の古い寺から購入した鎌倉時代の運慶・快慶のながれを汲む金剛力士像を17億ほどで購入し、それをオープンのときに全面に出していたのだから今回の蒔絵も見事なものに違いなく、その事情を直接古くから知るその学芸員から聞けたのにとまことに残念な思いをした。  

今から思うと自宅でコトコトと羊の肉を煮込んでいたときにそのイベントが行われていたことになる。 その羊肉を買うのに仕事場から自転車でレンブラントの生家の前を通り、その父親の所有していたと思しき風車を通り過ぎていくのだがそのときふと生家と風車をつなぐ跳ね橋の上から古い港にカメラを向けて曇り空の下、シャッターを切ったのだけれどその場所はまさに17世紀以降インドネシア、中国、日本から文物が運ばれてきた所でもあるのだ。 源氏物語をモチーフにしたその筺がここに着いたという保証がないのは東インド会社の港はここひとつだけではなくあちこちにあるからだ。 ただ江戸時代後期、シーボルトが日本から持ち帰った文物はここに運ばれ港の奥の家屋やここから1kmほど離れた場所、さらには200mほど離れたシーボルトの住居に保管されていたことは確かだ。 博物館的な価値に加えて美術的価値の高いものはアムステルダムの国立博物館に行くようだ。 例えば将軍の花押のついた第一級文書の類はハーグの国立公文書館といったぐあいである。 

世界各国から見物客が来るアムステルダム国立博物館は再開館してからまだ半年も経っていなく夏に入り口の建物をみたけれどかなり混雑していた。 金剛力士像を観たいとおもうけれど一番寒く客が少ない時期に訪れようと思う。 正月に帰省してオランダに戻って落ち着いたころになるだろう。 その頃にはこの源氏の蒔絵の筺は展示されているだろうか。

まとまりのない土曜だった

2013年11月24日 04時21分10秒 | 日常

昨夜、1960年代の岡田茉莉子主演の映画を二本観てその後、ミニ映画祭の主催者、知り合いたちとカフェーで12時まで色々と話していて帰宅してから身損ねたニュースを見るべくテレビの前に坐って観ていたらそのうち居眠ってしまい目覚めたら2時間経っていた。 頭がすっきりしたからそれから3時間は眠れず結局いつもの通り5時を過ぎてから寝床にもぐりこんだので眼覚めたら昼を廻っていた。 今日することは土日の食材をマーケットに買いに行きその後、ラジオやCDを聴きながら料理することだけだ。 

この2ヶ月ほど土曜の食事のルールを変えている。 子供たちが家を出てそれぞれ下宿しているので家で食事をする場合は予め来ることを連絡しておくこととした。 家にいた頃、自分が食事当番の土曜には子供たちが何かの具合で外食する場合には予め連絡をすることがルールだったのだがそれを逆にした。 マーケットから戻って日曜の晩飯の羊肉の煮込みを作っているときに息子から晩飯に来ると連絡があったがそれは食材をすでに買った後だから遅すぎるのだけれど肉は昨日4人分買ってあったから慌てることはない。 どうせこどもたちは連絡もしてこないのだからと大抵4人分作って余ったらそれを自分の夜食にする算段でやっている。 今夜はひき肉を500g買ってあってそれでハンバーグをつくるつもりをしていたからもし今晩3人なら150gほどのものを3つ作り小さいものを一つ作っておけば丁度いいと算段した。 ジャガイモはちょっと多めに茹でて余ったらそれはどうにでも使える。 

6時前になりほぼ肉を焼けば終わりというところで娘がやってきて何度も電話したけれど繋がらなかったと言い訳をした。 大きな肉からそれぞれ少しずつ千切って小さい肉に足して4つ同じような大きさに揃えた。 小さなメロンを買ってあったのでそれをデザートした。 10時ごろ娘は自分の下宿に帰ったけれど息子は明日の朝フィールド・ホッケーの試合があるとかで家に泊った。 10月の初めハーグに越して以来土曜日はガールフレンドのところに泊って日曜の試合はそこから行くようなことをしているのだが今日はガールフレンドは彼女の下宿にいないようでだから家に泊ることになったのだ。 

夜中に日本の母親に電話をした。 何日か風邪で寝込んでいたのだがやっと起きることができるようになり住んでいる介護施設の食堂まで歩いて行けるようになったと言っていた。 声に力があまり感じられないもののそれほど酷くないようだ。 日曜昼に射撃競技会があるので火薬の準備をして目覚ましを10時半にセットした後寝床に入った。

ろくでなし    (1960);観た映画、 Nov., '13

2013年11月23日 13時40分51秒 | 日常




ろくでなし  (1960)

88分

監督:  吉田喜重
脚本:  吉田喜重
撮影:  成島東一郎
音楽:  木下忠司

出演:
津川雅彦
高千穂ひづる
川津祐介
山下洵一郎
安井昌二
渡辺文雄


以上が映画データベースの記述である。 ネットのMovie Walkerには下のような粗筋と解説があった。

http://movie.walkerplus.com/mv22941/

本作は在オランダ日本大使館主宰の吉田喜重・岡田茉莉子特集としてライデン大学の大講義室で日本学科スミッツ教授の解説の後放映されたものだ。 尚、観客は8人ほどだった。

吉田喜重のデビュー作品だそうだ。  自分が今まで吉田作品を観たのはこの10年ほどで観た「秋津温泉(1962)」と「戒厳令(1973年」の二作だけだが両作からは60年代の終わりに観たATG作品やその当時の新進監督、大島渚、篠田正浩、羽仁進などの作品を観たときのような感銘を受けた。 日本映画史において黄金時代を築いたこれら新進監督たちがその時代を代表する女優たちをそれぞれ伴侶としたことは興味深い。 

しかし本作ではヒロインは高千穂ひづるであり岡田茉莉子は登場しない。 高千穂の後年の作を観て自分がもっていた印象は、美人ではあるけれどつんつんしてちょっとケンのある「お高くとまった」女だったのだがいうまでもなくそれは当然作られたもので、本作もその流れを引くのではあるから、ああ、あの女優だったのだなと納得したけれど作中では自ら他人から見える自分の印象を語る場面があってそれが彼女の役に順当に当てはまるものであり、理想なり自分の基準をもちながらも現実的であるゆえに物事に批判的であらずにはいられないヒロインの性格として描かれていて定まらない性格の主人公津川に惹かれるという役である。 本作の主人公はタイトルにあるように高千穂から「ろくでなし」と言われた津川ではあるものの自分には川津祐介と高千穂ひづるに焦点が向かうようだった。 それは60年当時、自分たちが置かれている社会を冷徹に意識した性格が与えられておりその有効性は現在までも充分届くものであるからだ。 特に川津の父親である三島雅夫の言動が戦後民主主義を標榜する日本の良識を代表するものであるからそれに対する批判としての三島の存在と川津の諦観が地に足の着いたものとして説得性をもち現在まで有効なものとして変更不要の普遍性をもったものとしてある。

大学キャンパスに寝転んで川津がランボーの詩を朗読するシーンの後ろに一瞬60年安保の学生運動のシーンが挿入されそれが本作で唯一当時の世相を示すものであるのだが形式的には前東京都知事のデビュー作、太陽族の生態とも重なるようにも見えるものでもあり、その作品でも登場した津川及びその兄である長門裕之らが本作の学生達に対照されるだろうけれど映画の持つ批評力は吉田の作にそれが偏在していることは明らかである。 少しだけ顔をだす拳銃売りの男、佐藤慶ならびに歌手、ささきいさおが登場すると顔の頬がゆるむのを感じる。

音楽に関してはモダンジャズが初めから流れ、チャーリー・パーカー調のアルト・サックスで始まり後ほどテンションが高くなるとソニー・ロリンズ調のテナー・サックスに変り、日本のモダンジャズ史を辿っても1960年当時日本のジャズが世界に開いていたことを示す演奏である。 大江健三郎の「個人的な体験」のなかで主人公の名前がチャーリー・パーカーに倣ってかバードとあったように当時からモダンジャズはこのように若い芸術家たちに影響力をもち浸透していた例としてみることができるだろう。

もう少し早く起きていたら、、、、、

2013年11月21日 15時27分04秒 | 日常

今日は仕事がなかったから昼過ぎに起きブラブラしていているあいだに晩飯の食材を買いに行く時間になったから外に出ると陽が射していた。 天気の変りやすい今の時期、晴天など期待していなかったこの青空と太陽にはちょっと戸惑った。 これなら一寸は早く起きてあちこちに溜まった落ち葉を掻き集めて、、、ともいう風にも頭が行ったけれど、いやいや、朝早く起きていてもどうせグダグダと何もしないのだからそんな戯言を、、、と、取敢えず昨夜ビチョビチョ冷たい雨が降る中を角の置き場までがらがらと引張っていった緑色のゴミのコンテナーを引き取りに家の前に出たら同じく昨夜雨の中をえっちらおっちら引っ張って出しておいた1m四方ほどの強化プラスチックの大きな袋が消えていた。 溜めておいた倒木、剪定した枝や枯葉などを市の車でとりにきてもらえるように昨日市の係りに電話をして手配しておいたのだ。

空を見上げたら飛行機雲が消えるところだった。 直線が歪んで切れ、紡ぎ綿のようにもなり、やがて周りの青に熔けて失せるのだ。  

知り合いの知り合いが亡くなったと聞いた。 年齢も性別も名前も原因も知らぬ人ではあるが知り合いの縁であり何らかの人としては知覚できるけれど他人であるのだから取り立てて感慨ということにはならないもののどこか心の隅に引っかかる。 何故なのだろうかと自問してみるが年寄りの感傷なのだろう。

公園を抜けるとき大木の間の陽の具合がよかったので写真を、と思ったのだが自分の中途半端なカメラじゃこの光と色は無理だと思いなおしそのまま像を眼の中に納め自転車を漕いだ。 何も考えずスーパーをぶらぶらしているともう大分すき焼きをしていことに気付き食材を集めてそそくさと家路についた。 まだ家の中の掃除がのこっているので日暮れまで頑張って家事をしなければならない。 鬱陶しい雨の日には日の長さなど何のこともないのだがこんな晩秋の陽の中では日が短く感じられて惜しくもう少し早く起きていればと少々悔やむポーズをしてみるのだった。

バカンス ’13  (7);三ヶ月後に、、爪が剥がれ、、、

2013年11月20日 03時25分24秒 | 日常

2013年 11月 19日 (火)


昨夜日本の古い映画を見に行ったため月曜のフィットネスクラブにいけなかったから今晩冷たい雨の中を自転車に乗って男6人女4人の爺さん婆さんのグループに加わるべく出かけたのだが帰る頃には雨もからっと上がって月が出ていた。 この何日も一日の中で晴れたり降ったり忙しいことだ。 しかし温度は着実に下がってきている。 テレビで昨日、フィリピンに義捐金を送るためのキャンペーンをして18億5000万円ほど集めたと報道があった後、サルジニア島で集中豪雨がありその結果、洪水が起こり多くの被害者を出したという画像も示されていた。

シャワーを浴びて靴下を履こうとしたら右足の親指の爪が引っかかった。 左足の爪が伸びていたのでそれを摘もうとしていたところだったのでちょうどいいとペロンと右側に剥けていた爪を剥がし繋がっている一部を鋏で切り取った。 これでバカンスのツケは済んだことになる。 もうこの30年ほど溜めてある同様の爪を机の引き出しから取り出し今日のものに並べて写真を撮った。 分かりやすいようにペンの下側に今年の分を置いた。

どういう具合かバカンスで山を何日も歩いているとこうなる。 多分下りの際につま先に負担がかかり爪の付け根が押されて剥がれ、その後それがある程度まで伸びてくるとその部分がそれ以下の新しい爪から剥がれることになるのが今の季節ということではないだろうか。 山を歩いている日々には下山してキャンプ地で靴を脱いで足を乾かしたりシャワーをあびたりしていても日常的な活動には何の支障もなく痛みも全くないのだがそれでも爪の下で軽い内出血をしているのだろう爪が黒ずんでくる。 そうすると何ヶ月か経ってその部分から剥がれるということが分かってくるようになる。 それがこの何年もの経験である。 そういった具合に剥がれたこの30年ほどの爪をこれも抜いた様々な歯と一緒に小さなプラスチックの小箱に集めてある。 理由はないけれど何となくそうなった。 家人からは気持ちが悪いから捨てるように言われているのだがそうする気持ちにはならず机の引き出しの隅にそっと置いてある。