暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

八重桜が今年もいい具合に咲いている

2010年04月28日 19時57分17秒 | 日常




町への行きかえりにちょっと寄り道をして近所の住宅街で桜の並木があるところを通った。 3日ほど前に見たときにはまだ三分咲きほどで気温もそれほどではなかったからそこに立ち止まるということもしなかったのだが、さすが気温も20度ほどに上がって少々気分も高揚気味でもあり、青空と日差しの気持ちよさに自転車から降りて眺めていた。

住宅地にはそれぞれその地区が計画、建造されたときに住宅局が歩道に適当に植木をしていて、ここはなに、あそこにはなに、という風に並木を作っているのだが大抵は地味な花の立ち木であり街路樹として普通に機能するだけのことで日常には夏の日陰を提供するぐらいのことだけど、この通りのように八重桜を植えてあるところがあると今の時期には眼の潤いになる。

他の桜はもう去ったようなのだが八重桜は他の薄い桜に比べて造りが頑丈なのか少々開花期が遅いような気がする。 この日は歩道にまだ一片の花びらも見えなかったけれどあと4、5日するとびっしり広がったピンクの落花で敷石の印象がいっぺんに変わるようになるだろう。  

旧ユダヤ人孤児院

2010年04月27日 00時13分51秒 | 日常



家庭医のところに出かけ診察をしてもらい、大学病院での検査と専門医の診察の予約を依頼して処方箋を手に帰り道、いままで行きつけの近所の薬局が引っ越していたのでそこに初めて寄った。

隣の地区はこのまちでも古くから比較的裕福な層が住んでいるところでもあり、ゆったりした町並みがある中に学校のような、また何かのセンターのような古い建物がある。 市の文化財建築にもなっている1929年に建てられた元ユダヤ人孤児院のたてものらしい。 今19になる下の娘が生まれて半年ぐらいしてこの町に越してきたころ子供の健康診断や予防注射の折には2,3度家人がここに連れてきたことがあってそのときにはこのあたりの地区を取り仕切る市保険所の支部だったように思う。 それから10年ほど前に麻薬常用者救済のセンターとして衣替えしてジャンキーが徘徊するので風紀、安全、子供たちに悪影響を与えると近所から苦情も出、地区の委員会が市に引越しを求めるというような運動をしていたことも記憶にある。 確かに閑静な住宅地でありその後どういう経緯かこの救済センターは移転か廃止になった。 今でも近所の公園の一部に日がなジャンキーたちが5,6人集まって時間をつぶしているのが見える。

ここは何度も前を通ったことはあるが中には行ったことはない。 去年だったか行きつけの薬局がここに引っ越したということは聞いていた。 いろいろな専門の開業医が入ってその中にこの薬局が引っ越してきたのが経緯らしい。 市の記念建築物になっているので外観はいじれないけれど中は現代的なものになっている。 入り口には建築当時からの、ユダヤのダヴィデの星が大きくデザインされたドアが相変わらず目立つ。

薬を受け取って外に出るとこの建物の歴史を簡単に記したパネルが地面に埋め込まれ、コンクリートのスーツケースが無造作に置かれているのが目に付いた。

2歳から18歳までのユダヤ人孤児を100人ほど収容して育てる目的で1900年に計画がなされたものの資金不足から完成が1929年になったこということがひとつ。

1940年から1945年5月の第二次世界大戦中、トイツ軍に占領されたオランダで1943年3月にこの孤児院から付き添いを含む60名がオランダの収容所経由でドイツ、ポーランド方面におくられガス室で殺されたということ。

そのときの荷物を詰めたスーツケースを元にして記念碑にしたコンクリートのスーツケースが入り口前の歩道に無造作におかれている。 輸送前日に護送の計画を手にした近所の地下抵抗委員や2名のオランダ人警察官がここからすぐに逃げるよう警告をしたけれどそれまで近所になじまなかったユダヤ人たちはそれに対処せず結局オランダからアウシュビッツなどに移送され虐殺されたユダヤ人1万人のうちの60人となったわけだ。

5月5日は日本では子供の日ではあるがオランダでは対日戦争を含む第二次世界大戦での開放記念日であり、前日5月4日は二度とここに帰らぬこととなった子供たちへの戦没者鎮魂記念日でもある。

また急性アレルギー発作が起こった

2010年04月26日 17時10分37秒 | 健康
2006年の9月に北海に面した海辺を歩いていて初めて急性アレルギー発作が起こり一時失神もし、救急車で病院に運ばれたことがあった。 そしてそのことを下のように記した。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/41637068.html

そのときの原因が

1)適度な運動の後、
2)満腹の食事を採り、
3)アルコールを幾分か入れ、
4)涼しい浜風を露出した体に受け、アレルギーがでたところで 
5)砂丘を登る心臓に負担をかけたことから血管の膨張で心臓のポンプの効率化極度に落ち、脳に血液が廻らなかったからの視覚現象、極度の低血圧のため脳の機能の低下、失神ということになったとのこと。

これら4条件が同時に起こしたことだというのでどの一つの要素がかけていれば起こらなかった事らしい。 今後このような散策の休憩ではアルコールは入れても満腹は避けなければならないと心した。

と記されていたのだが、それを改めなければならない。 上の2)と3)だ。 このときは4cm四方ぐらいの一欠けらのチーズサンドイッチと250mlのフルーツジューズのみで、満腹でもアルコールを体に入れることもなかった。 

だから、原因は
1)8kmほど歩いた後、休憩し、
2)体温が下がった後歩き始め、日差しの中、微風であっても風の中を30分ほどあるくと最初の蕁麻疹が出始めた、ということで

そのあとの症状は同じだった。 ただ、今回は蕁麻疹の腫れが激しく上唇まで浮腫んだ状態になったこと、あまりのかゆみにセーターを脱いで半そでのポロシャツで歩き続けたのが症状をよりひどくしたようだ。
結局、蕁麻疹がではじめてから2kmほど歩いたところで道端で横になり前回よりは軽い症状ながら救急車がくるまで10分ほどのあいだに2度ほど失神したらしい。

救急車のなかではいつものように健康保険証カードとIDカードの提示を求められ

90mg Dexamethadon
3mg  Tevegil
及び ブドウ糖、生理食塩水の点滴をうけて  念のために鼻から酸素を吸入して サイレンもなく舅、姑がこの間まで入院していた病院に運ばれた。

病院の救急医療室ではショック状態がひどくなり、悪寒のような痙攣が続きむくみが激しくなり腕、手にも注射針を刺す血管が見つからなく結局、足指の根元に救急車と同じ様に点滴を補給したのだが、この間、入れ替わり立ち代り3人の医師と4人の看護婦が来て同じようなことを聴かれたのだがなんとも効率が悪く、患者からするととても面倒なことだった。 その間に前回と同じように胸に4箇所、指先にも電極をつけられ心臓、血圧などのモニターをされることとなった。 病院に入ったのが午後2時を廻ったころ、観察病棟に入ったのが3時半ごろだったろうか。

4時ごろにはもう薬が充分効いていたのだろう。 腫れも引いて眠いような、疲れたような誠にここちよい気分で、これは昔やったハッシュやマリファナの効き目のような感じでもある。 物憂さのフィルターがかかってはいるものの外からの刺激にはすぐ反応できるような子持ち様さだ。 ベッドの背中を持ち上げヘッドフォーンから音をとり午後の退屈なテレビをザップするのだがそのうち腹が減って病院の食事が食べられるというので家人に適当なものを取ってきてもらったら貧相なミックスサラダにポテトサラダがついているものとミルクが腹を跨いで置かれたテーブルの上に乗り、それをぼそぼそと口にした。 

医者の診察ではあと2時間ほど様子を見てそれで問題が無ければ8時半には退院できるとのことで、その後そのようになった。 週末明けに家庭医にここでのレポートを持っていき4年前の資料とともに町の大学病院でアレルギー検査、血液検査とともに専門医の診察をうけることのアドバイスを受け、それに合意した。

徐々に薄まっていったものの「ハイ」の状態は夜の12時ごろまで続いた。



12kmほど田舎を歩こうとプランを立てて歩いたのだが、、、

2010年04月25日 14時46分41秒 | 日常
2010年 4月 24日(土)


土曜日に何もすることがないのでそれではどこかに歩きに行こうかと家人と二人朝10時ごろデイパックに飲み物とチーズサンドイッチを放り込んで車で出かけた。 出かける前に、この州で、駅を4つか5つぐらい離れたところで人の少ないあたりの散策道をネットで検索してプリントアウトをしてあったものを家人が助手席であれ、これ私が育った村のはずれじゃないの、車をとめるのはおじいさんがもっていたタバコ屋の近くで、コースの入り口あたりは十何人かいるおばさんの一人が住んでいた農家で、その人の葬式はもう何年になののかねえ、今日は土曜日だからそれじゃあ帰りに村の青空市場で明日の夕食の買い物をすればいい、と胸算用をしている。 もちろん買い物のいくつかはそのうち携帯で彼女の母親と打ち合わせをして私が市場から眼と鼻の先の彼女の両親のうちに私が運ぶことになるのは言わずもがなのことである。

こんなように近郊でこのように日帰りコースを探して適当なところにいくのはもう既に何回も試みており、そうすると自然と見知った町や村のヴァリエーションを含めたものになり、今回も何十回、百回もその村に出かけているのだからそこに出かける順路はきまっており、今回のコースの90%以上は私には初めてのところで、周りの村々に続く農道をぐるっと辿るコースだった。 家人にしてもその部分は村に生活していたときにはもし出かけるとしたら自転車道か自動車道を使い、農道というようなところは通ることもないし村人でも何を好き好んでいまさらそんなところを通ることもないと、殆ど人を見ることもないような所で、けれどもそれはそれで興味の惹くものだった。 結局古、い郵便局の駐車場に車を置いてスタートするとそこに戻るのには12、3kmを歩いてこなめればならないことになり、途中にはカフェーも店も何もない。 勿論、何かあれば携帯で連絡をすればいいし緊急の場合には向こうに見える農家に駆け込めばいいのだがそういうことはこの25年ほどのあいだに1回か2回ぐらいしかないけれどそれは車に関することだったので今回のようなことではまだ経験はない。 外気18度、快晴であるから雨具も厚い服も必要ないので本当に気楽だ。

麗らかな春の陽気のなか農場の縁を入って牧草地のあいだの小道を歩く。 農場の周りの堀に鯉をいくつも飼っているのも見えた。 なるほど住宅地の裏庭にプラスチックの風呂桶の大きなような「池」を埋めてそこに高価な日本産の鯉を育てるのがヨーロッパのこの10年ほどのホビーのトレンディーにもなっているのだが鷺がこれを狙って堪らないというようなこともテレビで観たからそのような裏庭にわか「養鯉場」のパニックもわからなくもないけれどそれに比べると大きな農家の周りにもう何世紀もある堀とまではいかないものの縁に40cmも50cmもあるような大きな様々な鯉が無造作に泳いでいるのをみるのは不思議でもあるが自然でもある。 ネットもなにもほどこされてはいないけれど何か対策は立ててあるのだろう。 去年の夏にそういえばうちの前の草地に鷺がそのような白い大きな鯉を加えて苦労しながら喉に滑らせているのを見た事がある。

農場と農場の間に水路がある牧草地帯は誰も人影がなくただ遠くの農場、この村の特産である植木の苗を育てるが広く広がっていて牛や羊は比較的少ないようだ。 アヒル、野鴨の類は多く、雁は牧草地の中側にれ、白鳥は水路のなかを雄雌の対で水面をすべるものの、水路はどこも護岸のコンクリートもなく土、草の自然なものであるから牧草地への上り下りは自由であるので簡単に小枝の木切れを集めて大きな巣をつくり雛をかえすのに卵を抱いているのもある。 そこを通過するときには双方にすこしの緊張感も漂うので互いに通り過ぎるのに厳しい視線を交わしながら過ぎるのだ。 今回は鵜の一種が鷺と同じく水路の縁で静かに何十分も立ちすくして魚を狙っている姿も見られた。

12時を少し廻って農道の縁に腰を下ろしてサンドィッチをほおばりそれをフルーツジュースで流していると頭の周りを鳴き声で喧しくも忙しく飛び交うタゲリが何羽もいた。 卵を孵すメスから外敵を追い払う、もしくは注意を他に逸らす意図からこういうことをするのだと説明されているが、なるほどオスは長くて黒い羽に白の大きな斑が羽だけにありそれをひらひらさせながら鳴きながら上空を旋回するのだが、それをみていると眼がそそのオスから逸れることは無く地上の茶色で保護色の地味なメスはなかなか眼にはとまらない。 せかされるように昼食を済ませて次の順路に従った。

二時前に通過の古い村に着きその静かで古くゆったりした村に新興住宅街が迫っているのをみて驚いた。 このあたりは静かなはずだったのが近郊の都市、 Trecht, Den Haag, Zoetermeer に通うサラリーマンの住居としてそういう通勤者のためのようになったように見える。

ここを過ぎたころから体調に異変が起こり写真のように、このまえ見舞った舅、姑の病室の真下に7時間も釘付けになることとなった。 その経過はまた後ほど書くことにする。




ああ、ここだったんだなあ

2010年04月24日 00時20分43秒 | 日常



2010年 4月 17日 (土)

歯医者である近所に住む知人が還暦の誕生日を内輪で祝うというのでそれに招かれた。 まちのレストランで食事会をするからというので始まる6時前に自転車で言われた住所に着いてみればなんだか前に来たことがあるような気がしたのだが兎に角17世紀の古い構えの重い門をくぐってて階上に上がってみるとそれに気がついた。

もう20年以上前にまだパイプタバコを喫っていたとき、この町にパイプ博物館があると聞いていたので一度寄ったことがあったのだ。 そのときに買ったのがこんもり丸く手になじむ黒ガラスのような光沢のある陶器製の頭で柄が擬似鼈甲のパイプなのだがそれは今も埃をかぶって机の上、手の届くところにある。 パイプ煙草はその前後を含めて10年ほどやっていたのだがどうも喉によくなかったようでそれを葉巻に換えて10年、けれどそれも5年以上前に医者に止められてからきっぱりやめた。 その小さなパイプ博物館がここだったのだ。 それが今は引っ越してしまって結婚式やなにかしらの会ができるようなレストランになっていた。

夫婦同伴で20組、皆50を越しているようにみえる。 一人だけ歯医者の助手の女性がいるが若いと見えてももう40にたどり着こうかという歳だ。 まるで同窓会のようにみえなくもないがそれはこの夫婦には子供がなく趣味とボランティア活動ですごすライフスタイルで出来上がった知人友人の集まりがこうなった、ということなのだろう。 仕事の歯科医院もあと数年で定年にするつもりのようだ。 一年に二度ほどネパールの寒村を廻って歯科医療をボランティアとして行っている。 敬虔なキリスト教信者であるから生活は質素である。 だから典型的な合理主義、けちではないがどこが一番安いか知っており質と値段を勘案して一番安いものを探して生活するというのがスポーツなのだといい、だからそういう情報はよく教えてもらって重宝している。

前菜、スープに本采、デザートにお茶かコーヒーにクッキー、ボンボン、強い酒の順序で進行したのだが4つの丸テーブルには初めカップルが隣同士に座るよう名前のついたカードが据えられていて、それぞれが会場に到着するとシャンペンが渡されそれを手にホスト夫婦にあいさつをして周りに掛けられた年代ものの肖像画を眺めながらちらちらと周りを見渡していると着席のコールがかかる。 すると男女が交互に座るようしつらえられていて眺めただけで誰と誰がカップルだということが分かり、それぞれと挨拶をしつつも前菜の鴨の胸肉のサラダをつつき食事会が始まった。 右隣では家人がその向こうの誰かの旦那と話し、私は左隣の陽気な奥さんと彼女が10年前日本に行った時の話をする。 そしてサラダを済ませ互いに打ち解けたところでサプライズがあった。

モーニング姿の給仕長の女性が鈴をならし、女性はコースが終わるたびに鈴の音に従って自分の飲み物のグラスと名前のカードをもって他のテーブルの空いたところ、好きなところにすわるよう「命令」したのだった。 前菜のときは大体隣のカップルの女性のほうと話し、次は急に現れた両隣の二人と話しながらの海老蟹のスープでそれが済むと次の二人ということだ。 結局その会場を11時に離れるまでにテーブルの両隣には8人の女性が入れ替わり立ち代り現れては消えるということになったのだがまことに面白い経験だった。 これが30代のときだったらかなりの緊張もあるのだろうけれど今はみんなほぼ同じような人生経験をしていてホスト夫婦と何らかのつながりもあり四方山話に花が咲くわけでそれぞれの相方は初めから終わりまで同じ席で同じ事をやっているわけだから相方のことを話の中で指差してあれが私の主人とかパートナーとか言われると終わるまでにこの集まりの粗方のことが分かったような気にもなる。

席とりゲームとスピード・デイティングをあわせたようで面白かった。 帰り道に「久々に遭った」家人と私が「出遭った」ご婦人たちと彼女が「出遭った」紳士方のことをそれぞれつき合わせて妙なジグソーパズルみたいなことをしてつじつまを合わせようとしたのだが、もちろんそれぞれその中の一人や二人は知人がいたけれど、それでもシャンペンやワインの高揚感からか、急に押し寄せた情報量の波が去ると残っているものも少なく、結局そのうちどこかで彼らと再会したときにはお互いに、ああ、あのときの、、、、、という立ち話になるのだろうか。 そういえばそのうちの一組は我が家の運河を斜めに越したところに住んでいることが分かり、そのときは目の前の道路整備の話とこの間の市会議員の選挙のことに花が咲いたのだった。

また飛行機が飛び始めた

2010年04月23日 10時23分19秒 | 日常

寒いから家に篭っていて裏庭の物置の中にケースのまま置いてあるビールをとりに行ったら7℃と温度計に出ていてなるほどまだ冷蔵庫は要らないと思いながら外に出ると爆音が聞こえ、ああ、また飛行機が飛び始めたと軒先を掠める物体にカメラを向けた。 

高度はどのくらいなのだろうか。 はっきりと水色の機体に同色のKLMと読めるのだから200mあたりかと思うけれど車輪はまだ出していないもののスキポール空港に降りる体勢に入り高度と速度を下げているので写真にも撮りやすいようだ。 空のあちこちを眺めてもスキポールには降りないけれど点のようにして飛ぶ高度7000mあたりの航跡はほとんど見えないからまだ通常スケジュールには程遠いようだ。

イギリスではスペインあたりにたくさん残った観光客を軍艦やクルーズシップで運んでいるとニュースで出ていたけれどそれでも残っている乗客の10分の一も運べないにちがいない。 終末にはロッテルダムマラソンやロンドンマラソンが予定されているのではないか。 遠来の選手たちも体調管理に狂いがでるのではないかと余計なことを思ってもみる。

このあいだ見も知らぬ日本人からブログにアムステルダムに釘付けされているけれどどうすればいいか訊ねられニュースで見たり聴いたりしたことぐらいしか伝えられなかったけれど、そのとき倍以上のホテル料金をボッタクられるようなことがあるから注意するように添えたらすでにボッタクラレテイル、と返事があった。 そのときは日本向けはでていなかったもののKLMの上海向けならでている、とのことだったのだけどそれに乗ったのだろうか。 けれど、上海に行ったら行ったであの国ではここ以上のボッタクリに遭うのではないかと心配もあってこの機会だからゆっくりすればいい、と思うのだけどそうもいかないのも分かってなんとも言いようがない。

見知らぬところで言葉にも不自由しがちでおまけに見通しがたたず、カードの残額が大きく減っていくのを先が見えない不安のなかで過ごすのでは何の楽しみがあるだろうか。 

カメラに飛行機を収めてから、温度は低いけれど日差しは暖かそうなので前庭の芝を刈るのにゴロゴロと芝刈り機を引っ張り出して10分もかからず今年初めての前庭の芝刈りをしたら小さいタンポポも首を出していて次回からは根を引き抜かねばと心した。 寒いくらいなのに花粉が飛び交っているのかくしゃみに鼻水がしきりに出るようでオランダの常套句が思い出される。

April doet wat hij wil というようなものなのだが、これは日本で「一月はいく、二月は逃げる、三月は去る」というようなもので語呂合わせのようなのだが、オランダ版は「四月(の天気)は何があっても不思議ではない、好き勝手にふるまう」というようなものだ。  買い物にでたら外気が9℃とでていた。 週末には20℃ほどまで上がると予報が出ていた。 天気だけではなく本格的にアイスランドにアル隣の火山が爆発するようなことがあればまたこの空が静かになる。 今のところ飛行機を使うようなことはないのだが自分の生活に不都合なことが起こるのだろうか。 物価が上がるというようなことは報道されていなかったようなのだけれどどうなのだろうか。




テーブルに椿一輪

2010年04月22日 20時20分28秒 | 日常



四月に入りこの間の2,3日は庭で日向ぼっこができるような麗らかな日が続いたのだが、アイスランドで火山が爆発し、その灰がヨーロッパ上空に飛来して飛行機のネットワークが大混乱の結果、空からは飛行機雲も騒音も消えていたのだが、北のアイスランドからこちらに火山灰が流れてくるということは北西の冷たい風が吹いてくることでもある。 もちろん大陸の東風が吹いてきても冷たいことは冷たいのだが、どちらにしても昼間気温が10度、夜間気温が0度あたりとまた冬にもどったような気候になっている。

開いていた木蓮の花が中途半端に散り始め今は庭に出て日向ぼっこをする気分にもなれず台所のテーブルで新聞を読んでいると目の前に赤いものが見えた。 庭の椿が咲いているようだ。 2年ほど前に家人がガーデンセンターでほんの小さい株を二つ買ってきて植えたもので、一番寒いときに咲けば眼を楽しませてくれるからそれだといいのだがそのときには光沢と厚みのある元気な緑の葉だけしか見えず、それが今になって咲き始めたのだ。 1mあるかないかの本当に小さな株なのに花だけはちゃんとふつうのおおきさだ。

それを見るたびにため息がでる。 こどものころ村はずれの林やあちこちの木に登って遊んだのだが小山のとちゅうにある椿の大木と神社の椿は気に入りのものだった。 今頃の時期だったのだろうか。 寒椿のころには木に登るということはあまりせず、花が咲くなり暖かくなってから村の連中と高い木に登りそこでとりとめもないことを話したり飽きれば他に場所を移すというようなことをしていたのだろう。 木の上で自分の周りにある赤い花を摘んでは花弁の基、花が咲き始めるあたり、つぼまって少し白く見えるようなところに口を当てて吸えば椿の蜜が甘い、と教えられそういうことをしたような記憶もある。 そして上から木の周りをみれば落ちた椿の花が木の周りに点々と赤い模様を作っていて、下に降りて木を離れるときに落花の上を歩くのには気が引けたような思いもある。

ため息が出る、というのはそんな村の木のことを思い出し、裏庭の1mほどのものがそんな村の木になるまで成長するまでには100年はかかるのではないかと思ったからで100年たったとしてもこの木がここにずっとあるかどうかはとても保証のほどではない。 とおりに面したところにはこのうちを買ってから何にもしないのに地面から芽が出て木になり今は屋根の高さを越す、13-15mほどになるどんぐりの木があるのだが椿の伸び方はどんぐりよりははるかに遅いようにもみえるし椿の木はどんぐりに比べて太くあってほしいから好ましい木になるのには200-300年は必要ではないかとも思う。 テーブルの上にある一輪の椿の花を見ていてそんなことを想像しているとため息が出る、というわけだ。

ザ・パイロット (1992);観た映画、 Apr ’10

2010年04月21日 01時26分07秒 | 見る


ザ・パイロット <未> (1995)  ー>(1992)

FOR THE MOMENT

120分

製作国 カナダ

ジャンル ロマンス/戦争

監督: アーロン・キム・ジョンストン
製作: アーロン・キム・ジョンストン
脚本: アーロン・キム・ジョンストン
撮影: イアン・エルキン
音楽: ヴィクター・デイヴィス

出演:
ラッセル・クロウ
クリスチャンヌ・ハート
ワンダ・キャノン
スコット・クラフト
ピーター・アウターブリッジ
サラ・マクミラン
ブルース・ボア

以上が映画データベースの記述なのだがいささかテレビガイドの記載と違いがあるので調べてみたらテレビガイドのとおり製作年は1992年だった。 それにデータベースには何の解説もついていない。

カナダの映画にはアメリカのものと違った味があるものが多い。 舞台は1942年、第二次世界大戦の勃発とともにコモンウエルズ、英連邦の国に加えてフランス、オランダの兵士がカナダの田舎でパイロットの飛行訓練をするその短い期間に起こったことをロマンとして映画にした秀作である。

スコットランド人、フランス人にシカゴから来たヤンキーたち、それにオーストラリア人であるクロウと現地カナダのクリスチャンヌ・ハートがそれぞれの想いを交差させ、教官が言うように、こういう戦時には高揚して男も女も平時以上の存在になるものだ、ということを証明していくのだ。 ロマンチックであり非情ではあるもののそれぞれの登場人物たちは納得のできる性格が与えられており、とりわけハートの父親、農夫の物言わぬ存在、隣家で出征した夫との二人のこどもを抱えながら若いパイロット候補生たちに「愛をおしえ」パイロット候補生たちに「死ぬこと、殺すことをおしえる」教官と関係をもつ女がうまく描かれている。 シナリオのダイアローグの言葉にも一定の重みをもつのだ。 とりわけ原題の「この束の間の間に」とか「この刹那に」とでも訳される言葉は主人公二人の過去,現在、未来にかかわるキーワードとなり、とても邦題のままでは少々陳腐なものと響くようだ。

生と死が誰にも影を落とし「束の間」の現在に生きていることを前提としている物語なのだ。 戦争は遠くでおこっているのだが誰もがそのことを身近なものとしている。

音楽に関してはカノンやアルビニオーニのアダージョをその変奏が時にはスローモーションと相俟って効果的ではあるけれど少々甘く流れすぎるようなところもなくはないがそれは面の皮が厚くなりすぎたものの耳を通過したものの受け止め方になるのかもしれないが、それでも複葉機とプロペラの飛行機が飛び交う嬉しい映像の多い本作には瑕疵にはならないだろう。

オランダ海軍の若い兵士が二人、昨日、アフガニスタンで道端の地雷の爆発によってまた命をおとしたと8時のニュースで伝えられて、まだ若さが充分うかがえる、制服を着た二人のポートレートが示されていた。 世界に戦争がなくなることはなく日本にも嘗てはこういう経験があったけれどそういう記憶は風化してしまっている現在、このような話を自分のものとしてどう受け止めるのかを考える事には一定の意味があるように思う。

2010年 4月16日 午後 9時43分 の月と星

2010年04月20日 00時51分14秒 | 日常



草刈鎌のような月の下に明るい星が一つ出ていて無理だろうと思いながらも屋根裏部屋の斜めに開いた小窓の縁にカメラを置いて息を止めてシャッターを押した。 6秒ほどのあいだに揺れていて星が短い線になっていて三脚を使わないものぐさの結果ではあるけれどそれでもよしとした。

それから1時間ほどしてから下の居間に降り、ヘッドフォーンだけでテレビのデイヴィッド・レターマンのショーを見ていたら若い女性の短い叫び声のようなものが聞こえたけれど隣の娘が友達を呼んで小さなパーティーでもしているのだろうと思い、家人も上のベッドでその声を聞いたようで後でそのことを話したら同じように思っていたらしい。 隣の娘たちは親のいない夜に友達を呼んでパーティーをしていたのは一度や二度でなくその折にはそのような物音が聞こえていたので今回もそれだと思っても当然な部分もある。

翌朝玄関のポストに警察から、昨夜隣家の庭に不審者が侵入したとしてその時間に不審な人物を見たかどうかもしそれに該当するようなことがあれば連絡を、というようなチラシが入っていた。 午後、反対側の隣人宅に日本からの小包が届いていたので受け取りにでかけて話したら、隣の娘が前夜その時間に外出から戻って裏木戸の鍵を開けて物置小屋に自転車を置こうとしたらそこに不審な男がいて羽交い絞めにされそうになったので慌てて大声で叫んだのだそうだ。 その声に驚いた侵入者はそのまま逃げたというわけだ。 彼女の父親が朝、我が家にも何かこころあたりが、と訪れていたにちがいないがそのベルに気づかなかったということだ。 そして反対側の隣人にその話をして廻りまわって私の耳に入ったのだが、そのとき家人が警察に我々の経験したことを電話で連絡していたけれどがそれが大した参考になっていない事は確かだった。

気丈な隣の娘はかなりはっきりとした犯人像を記憶しているので捜査の参考にはなるらしいけれど何とも物騒な話だ。 思い起こしてみるとその時間には我が家の裏庭に通じる扉には鍵をかけてあるし家の裏庭から隣家に忍び込んだ可能性はない。 ただもし仮に我が家の裏庭に侵入者があっても助けにはならない。 裏庭には動きに反応すると点灯するランプがありそれが点灯すると居間の中から反射的にそちらのほうを見るのだが大抵は猫か鳥、小さな動物がよく通るのでしょっちゅう点灯しそれに慣れてしまっていてまともに注意する、ということはない。 結局、犯人は小さい灯が燈っている裏の小路から塀をよじ登って隣家に侵入したようだ。 

この地区は比較的安全なのだが一年半ほど前に角の家に泥棒が入り二階のバルコニーをよじ登っている犯人はそこを見られたので逃げた、という事件もあった。 夏の10時ごろ、まだ明るい時だったと記憶している。 そのときは犯人と発見者の間には距離があったからそれで済んだし何も盗られていなかったのだが今回の場合は何も盗られていなかったとはいえかなり危ないところだった、という印象がある。

父親に似て大柄でいつもやかましいぐらいのヴォリュームで喋る隣家の娘の性格が少しは幸いしたのかもしれない。 男が凶器を持っていて娘が恐ろしさに声も上げられなかった場合のことを思うとぞっとする。 自分の娘だったらどうしただろうと考えると気持ちが悪くなる。 いくら合気道を少しは心得ており日頃フィールドホッケーで鍛えているといってもそれとこれとは違う。

男である自分のことならどうなっても、と思うものの人の親になってみてこの恐怖心には格別で堪らぬものがある。 

木蓮がかなり咲いた

2010年04月19日 06時27分35秒 | 日常


長閑な日曜日だった。  ほぼ毎日が日曜日なのだから「日曜日」と言わなくてもいいのだけど隣近所の雰囲気でもそれが週日でないことがわかるし、おまけにアイスランドから飛来した火山灰のために航空機の運行が全面ストップしたために午後に裏庭で日向ぼっこをしていてもスキポール空港に行き来する普段の爆音も聞こえないし青空には飛行雲が一筋も見えないまことに珍しい光景とあいまって今年はじめての日向ぼっこ日和だ。

安物の赤ワインとオールドチーズが日差しの気持ちよさに輪をかけて裏庭で本を読んでいるとホッケーの試合から戻ってきて家に寄った子供たちもこの日差しに誘われて日向ぼっこに参加したというわけだ。

木蓮がかなり咲いてもう2,3日もすると散り始めるかもしれない。