2018年 3月 29日 (木)
またイースターが巡ってきた。 まだひょっとして白いものが空から降って来るかというような冷たい今日この頃であるのにイースターだ。 ラジオを聴きながら朝食を摂っていてももうイースター気分が充満してマタイ受難曲やそれに関した話題が話される。
世間で宗教色が徐々に薄まり、それに挑戦するかのように世界では嘗ての南北問題がいまでは宗教戦争の仮面をかぶって先鋭化され、中東問題を複雑化させていたものが流石にもうイスラム聖戦と叫ばれても数々のテロの殺伐さがその化けの皮を剥がし、まともな人々はそれには踊らされない。 それに抗うかのように西欧文化の根本であるキリスト教の復活祭行事がいまたけなわだ。
明日はグッドフライデー(聖金曜日)で各地の教会ではバッハのマタイ受難曲が演じられる。 これを日本の行事に例えると年末に日本各地でベートーベンの第九が演じられるのに似ているだろうか。 日本ではキリスト教信者の数が国民の1%あたりであるのにベートーベンとは奇妙なのだがロマン期のシンフォニーはキリスト教に関係ないといってもそれには少々納得しかねるところはあるものの、同様にオランダではそれほどこの時期になるとあちこちでマタイ受難曲が演じられるのだ。 日本では「歓喜のうた」で宗教色はないのだろうがここオランダのマタイ受難曲となるとキリスト教の根幹に触れる行事ではある。 宗教心がないものが国民の過半数を占めるこの国であっても歴史・文化・伝統・習慣であるといわれれば納得するものの、伝統・習慣といわれればこのマタイ受難曲ブームはせいぜいこの20,30年ぐらいのもので伝統といわれてもまだ新品の成金文化にみえる。 大衆文化でいえばオランダのクリスマスのようでもあり宗教心のある人々には伝統的に生活に根差した地味なクリスマスはあるもののマス・大衆のうかれクリスマスの「伝統」はまだ出来上がっていないように思える。 そういう意味では日本の方がもうだいぶ前からうかれクリスマスは存在するのだから日本の方によりクリスマスの伝統は根付いているといっていいだろう。 伝統や習慣には信仰心や宗教が関係ないのは日本のクリスマスやバレンタインがそれを示していることで理解できるだろう。
家人が、今晩コンサートがあるから行かない、と訊いて来たので、受難曲だったらいかない、と応えると、さすがにもう食傷気味の人たちもいてバッハは申し訳程度に演じるけどその他のものもあってコンサーバトリアム(音楽院)の学生たちの温習会みたいなものらしいから、というので別段夕食後には何も予定もなかったので出かけることにした。
アルト・サックスとピアノのデユオで バッハのマタイ受難曲の中から、スペインの作曲家モレノ・トロッバのギター組曲、14世紀のマドリガルをパイプオルガンで、モーツアルトのフィガロの結婚からアリア、フルートとパイプオルガンによるバッハのソナタ、フルートとピアノで20世紀のクラーク作精霊との接触など学生たちが習ったもので構成されており1時間ちょっとのプログラムは楽しめるものだった。 会場の小さな教会は何回か訪れたことがあり、それはまだ小さかった子供たちを連れて子供のためのクリスマス・ミサとか新教授就任の初講義のセレモニーなどだったように記憶している。 隣の大教会とは違いせいぜい300人ぐらいしか収容できないからこういうこじんまりしたイベントに適している。
ステンドグラスも特別な飾りもない窓だけれど中世のガラスが嵌められており厚さが不均等だから外の景色が歪んで映るので面白くそれにカメラを構えていると、日光が強すぎて演奏者の譜面が見にくくなると言うので急にカーテンが降ろされて残念ながら狙った写真が撮れなかった。 この春を感じさせる光がコンサートに華を添えていたことは確かだ。