暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

あっちもこっちもマタイ受難曲が流れる中で

2018年03月31日 03時39分11秒 | 日常

 

2018年 3月 29日 (木)

またイースターが巡ってきた。 まだひょっとして白いものが空から降って来るかというような冷たい今日この頃であるのにイースターだ。 ラジオを聴きながら朝食を摂っていてももうイースター気分が充満してマタイ受難曲やそれに関した話題が話される。 

世間で宗教色が徐々に薄まり、それに挑戦するかのように世界では嘗ての南北問題がいまでは宗教戦争の仮面をかぶって先鋭化され、中東問題を複雑化させていたものが流石にもうイスラム聖戦と叫ばれても数々のテロの殺伐さがその化けの皮を剥がし、まともな人々はそれには踊らされない。 それに抗うかのように西欧文化の根本であるキリスト教の復活祭行事がいまたけなわだ。 

明日はグッドフライデー(聖金曜日)で各地の教会ではバッハのマタイ受難曲が演じられる。 これを日本の行事に例えると年末に日本各地でベートーベンの第九が演じられるのに似ているだろうか。 日本ではキリスト教信者の数が国民の1%あたりであるのにベートーベンとは奇妙なのだがロマン期のシンフォニーはキリスト教に関係ないといってもそれには少々納得しかねるところはあるものの、同様にオランダではそれほどこの時期になるとあちこちでマタイ受難曲が演じられるのだ。 日本では「歓喜のうた」で宗教色はないのだろうがここオランダのマタイ受難曲となるとキリスト教の根幹に触れる行事ではある。 宗教心がないものが国民の過半数を占めるこの国であっても歴史・文化・伝統・習慣であるといわれれば納得するものの、伝統・習慣といわれればこのマタイ受難曲ブームはせいぜいこの20,30年ぐらいのもので伝統といわれてもまだ新品の成金文化にみえる。 大衆文化でいえばオランダのクリスマスのようでもあり宗教心のある人々には伝統的に生活に根差した地味なクリスマスはあるもののマス・大衆のうかれクリスマスの「伝統」はまだ出来上がっていないように思える。 そういう意味では日本の方がもうだいぶ前からうかれクリスマスは存在するのだから日本の方によりクリスマスの伝統は根付いているといっていいだろう。 伝統や習慣には信仰心や宗教が関係ないのは日本のクリスマスやバレンタインがそれを示していることで理解できるだろう。

家人が、今晩コンサートがあるから行かない、と訊いて来たので、受難曲だったらいかない、と応えると、さすがにもう食傷気味の人たちもいてバッハは申し訳程度に演じるけどその他のものもあってコンサーバトリアム(音楽院)の学生たちの温習会みたいなものらしいから、というので別段夕食後には何も予定もなかったので出かけることにした。 

アルト・サックスとピアノのデユオで バッハのマタイ受難曲の中から、スペインの作曲家モレノ・トロッバのギター組曲、14世紀のマドリガルをパイプオルガンで、モーツアルトのフィガロの結婚からアリア、フルートとパイプオルガンによるバッハのソナタ、フルートとピアノで20世紀のクラーク作精霊との接触など学生たちが習ったもので構成されており1時間ちょっとのプログラムは楽しめるものだった。 会場の小さな教会は何回か訪れたことがあり、それはまだ小さかった子供たちを連れて子供のためのクリスマス・ミサとか新教授就任の初講義のセレモニーなどだったように記憶している。 隣の大教会とは違いせいぜい300人ぐらいしか収容できないからこういうこじんまりしたイベントに適している。

ステンドグラスも特別な飾りもない窓だけれど中世のガラスが嵌められており厚さが不均等だから外の景色が歪んで映るので面白くそれにカメラを構えていると、日光が強すぎて演奏者の譜面が見にくくなると言うので急にカーテンが降ろされて残念ながら狙った写真が撮れなかった。 この春を感じさせる光がコンサートに華を添えていたことは確かだ。


'18、 1月2月帰省日記(10)遍路を逆に歩くと

2018年03月27日 17時23分46秒 | 日常

 

2018年 1月 29日 (月)

午前中に友人の饂飩屋で饂飩造りの一部を経験し試食もしていると店を開ける時間になり、のれんをもって奥さんが戸を開けると外で待っていた常連客がぞろぞろ入って来るので店の邪魔になってはいけないと家族四人がリュックを背に外に出た。 この日は4時までにここに戻ってきてそのあと友人の家族4人と車で琴平花壇という旅館まで出かけ一緒に泊まり翌日は琴平神宮に参詣して遊ぶという予定になっている。 だから店にはあちこちに明日臨時休業の紙が貼ってあった。 我々はそれまでに歩いてこのあたりにある八十八か所の寺を幾つか巡りたいと思ったのだけれど自分の体力では一日20kmが限度であるからこの日選んだのが近くの67番大興寺と70番本山寺を廻ってくることだった。

饂飩屋 から 67番 大興寺   約5km

大興寺 から 70番 本山寺   約6.5km

本山寺 から 饂飩屋      約3km

の約14kmの周遊コースになる。 これだったら5時間ほどあるのでいくらゆっくり歩いても迷ってたとしても4時までにはここに帰って来られるだろうと踏んでいた。 今までに何万人、いや何百万人もが通った路であって、あちこちに道しるべがあるのだから迷うことはない、とも安心はしていた。 けれど実際は安心からは遠かった。

88箇所をどう回るのかその順序もしらず気構えさえはっきりせず、また予備知識もなにもなかった。 手元には何年か前に買った簡単な地図がついたガイドブックだけが家人と自分の手元にあってそれだけ見るとすっきりしたものだった。 車の通る道は避けて出来るだけ田舎道を行こうといいあわせて歩き始めたのだがこれがなかなかうまくいかない。 というのはどこが巡礼道かよく分からないからだ。 一つには歩き始めたところが順路から外れていること、本の地図にはルートが線で示されておらず大まかな目印になるものがあっても地図が雑で田んぼ道ほどのものは書かれておらず中央に斜線のある車の通る大きな道路の舗道を通れと示唆しているようだった。 そんな道路のそばに順路があったとしてもそれは我々が来た方向を指していて我々が向かう67番へはどう行けばいいかの順路が分からない。 つまり我々は順番に逆らって歩いているという事だ。 ヨーロッパの森や田舎を歩いている方がよっぽど分かりやすいと思った。 磁石をもってこなかったことが悔やまれたが大まかに地図に載っていると思しき方向を目指してあるくとあちこちにまちまちな標識があるのだがどれも自分たちがやってきた方向を指していてこれで正しく歩いているとだいたいのことが分かるのだったが逆だ、逆だと言われているようで気分が良くない。 何とか大きな道は避けて67番の大興寺にやってきた。 門を抜け石段を登って本堂に来た。 寒いけれどベンチに腰を下ろして休憩している間に娘が朱印帳をもって印と寺の名前を書いてもらい戻ってきた。 堂の上に鷺がとまっていた。

石段を下りると田んぼが広がっていて大きな地蔵が寺の前で門を向いて立っているのでこれは如何にも昔をしのばせる風情だとその写真を一枚撮った。 現代の88箇所では牧歌的なショットを撮るのは楽ではなさそうだ。 広々とした風景の中の巡礼路というのは頭の中で描くのが一番なのではないかと思うわせるほど様々なものが周りからカメラの中に押し寄せる。 今、ウィキ゚ペディアでみるとこの地蔵は中司茂兵衛という者によって建てられたものだそうで、この男は慶応2年(1866年)から大正11年(1922年)まで88箇所を280回巡拝し、しるべ石を240基余りを建立し、大正10年(1921年)76歳で遍路中に没した、とある。 つまりこれは彼が奉納した240基のうちの一つで大雑把に言うとそれぞれの寺と寺の間には平均して3つはあるということになる。 当然のことながら全てがこのような立派な地蔵でもなく普通の道しるべもあるに違いなくその入れ込み具合は大先達と呼ばれるに充分だろう。 そしてその55年間に毎年4回88箇所を巡るとこの280回という数字になる。  この遍路を一巡するのに少なく見積もっても1000kmだとして毎年4000km以上歩き、それを55年続けている。 280回も巡っていればこの1000km以上の行程のどこに何がどのようにあるのか眼を瞑っていても分かるようになるのではないか。  そんな男のことを今オランダでこの写真を見ながら想った。 それほど奉納できたのだから恒産はあるもののその動機、どのようにして毎回この順路を巡ったのだろうかと江戸、明治、大正と巡礼道の変遷を経験してきて願叶い遍路道で息絶えた人々の一人として逝った男のことに興味が行く。 一人で巡ったのだろうか、それとも講を組んで何人かで周ったのだろうか、何を見、何を考えたのだろうか。 地蔵のしたには「左へんろみち」と書かれていて我々は左からここに来たのだった。

この67番から70番に行くのだから番号だけで言うと順路を経ればいいのでだがそうすると今日来た方向に戻り68番、69番と辿る出発点の饂飩屋方向に戻り更に68番、69番、70番饂飩屋と辿らねばならず、そのルートだと軽く30kmを越していたのだから一日では無理であり、だからこのような変則の日程になったのであって、この67番から70番に行くには飛び越しということになり、そうなるとあたりにはどんな順路も道標もない。 地図を見ながら大体の方向を目指し村の狭い道、田んぼ道をジグザグに歩く。 そのうちしかたがなく舗装された道路を歩かなければ目的方向に向かえないことにことになり、そんな道には脇の舗道もなく、車が走る一本道が続くところを身を端に寄せて窮屈に歩かねばならず、これほど退屈で厭わしいものもない。 これが遍路道のかなりの部分を占めるということを承知しているので遍路路をずっと歩くということに積極的ではなかった。 熊野古道とは違うのだ。 オランダの保守党の国会議員で嘗てはオリンピックの水泳でメダルを獲りオランダのオリンピック委員を務めていた女性が何年か前に88箇所を歩いたテレビ番組を見たことがある。 そこでは山道や探せば自然が一杯の順路があるはずなのに舗装された車の通るこんな道を歩いて、嘗ては同行二人として歩けたものが今はそんな静けさも味わえないほど日本は忙しい国になっている、というようなコメントを寄せていたことを覚えている。 彼女たちオランダ人にはよっぽどエキゾチックで自然につつまれた巡礼の道のイメージがあってそれが現実とのギャップに目を覚まされた結果の映像だったのだろう。 それは嘗て広重によって描かれた東海道五十三次が今どのようになっているかを辿って見せられたドキュメントで感じた現実に対面するショックのようなものだろう。 自分が勤めていた大学でオランダ人なのだが専門が仏教学で密教を専攻し得度して僧籍を持っている教師がいる。  それがこの20年ほどで学生を何人か連れて夏休みに88箇所を周っていた。 もう7回周ったらしいけれどその感想は訊いてはいない。 何回か日本の地方新聞の記事にもなったこともあるらしい。 自分は誘われても参加していなかっただろうと思う。 それは自然道を歩くのを趣味にしていて信仰心のない自分には部分的には興味があってもほとんどが舗装道路ばかりのルートには魅力を感じないからだ。

70番本山寺に着いて軒先で寒風を避けて昼食にした。 友人の息子の嫁が店に出す御結びをいくつか我々の昼飯にともたせてくれていてそれを冷たい水で喰った。 ここの境内でも参詣する人の姿を見なかった。 娘が朱印帖に記入してもらっている時にそこの年配の女性に英語でどこから来たのか聞かれていた。 オランダからと返事をすると英語でハローというのはオランダ語でどういうのか聞かれていた。 娘が紙の隅に Dag と書いて発音していた。 その女性はヨーロッパ人ではオランダ人が比較的多いと言った。

この寺の前にはかなりの幅の川があってそこには橋がかかっている。 200mぐらいはあるだろうか。 けれど幅は狭く車が行き違えないほど狭い。 そこを人が通るのだから危なくて仕様がない。 我々が通っている時に乗用車が前から来て我々にスレスレのところを通って行った。 怖い橋だった。 こういうふうに絶えず車に前後を脅かされるような巡礼の路というのは不幸なものである。 出発点に戻ったら4時までにまだ30分ほどあった。 暖かい緑茶を振る舞われそれで生き返った心地がした。 我々のウォーキング中は雲のカーペットの上から薄い光を感じてはいたものの時々は白いものが降っていた。 遠くの四国山脈は頭の先が白い筋となって続いていた。

 


椿が盛んだ

2018年03月27日 02時25分34秒 | 日常

 

中途半端な天気が続いている。 急に日中気温が氷点のちょっと上あたりまで下がったと思うと日差しだけは春の陽気で、陽だまりにいると暖かいのに陰になると急に冷たくなる。 昨日からまた夏時間が始まっているのにこれだ。 天気予報ではオランダのどこかでは雪が降ることもあるかもしれない、とまで言う、来週月曜はイースターだというのに。

陽が射すからかここにきて椿の開花が盛んだ。 写真を撮ってこれで何分咲きだろう、と書いたのが2週間前だった。 それからするともうかなりのものになっているけれど蕾はまだたくさんあって開花のピークはまだ来ていない。 とは言っても開花のピークとは一体どんな具合のことを言うのだろうか。 開花数が一番多い時なのだろうがそれをどうやって数えるのか、つまりその前後にも数えていなければピークは分からないのではないか。 まだまだ蕾は沢山あって早いものは花の縁に黄色いものが出来ていてそれが枯れてきている、ということなのだろうからそのうちそういうものが枯れ落ちて、、、、次から次へとこのプロセスが進み一番盛りの時がピークなのだろう、けれどそれはどのように観察できるかこちらは分からないしそれほどしょっちゅう見ているわけではないからそんなことが分からないうちに過ぎて行ってそのうち椿は終わるのだろう。 この分では5月には終わっているような気がするが分からない。 毎年毎年同じことを繰り返しているのに気付かないという事はそんなことなのだろう。

うらうらとした陽気なのだが空気が冷たい中、手袋をしてジムに出かけた。 公園の大きな芝生で20人余りの子どもたちが二人の先生が見守っているところで鬼ごっこをしていてその周りを3匹の犬が走り回っていた。 この風景を見ると春なのだと思う。

ジムではいつもと同じ運動のルーティーンをこなしたのだが今日は少し疲れたように思う。 この頃は心拍数、テンポ、負荷、時間に気を付けていていてほぼ自分のスピードの変化で疲れ方が変わるのが分かるし、それによって回復の時間も分かるのだが今日は途中で立ち眩みがしそうになり少しベンチに腰かけて余分に休み心拍数を平常にもどしたがそれにかなり時間がかかった。 それがあとまで残り疲れとなったのだろう。 けれどジムで1時間過ごしたあと帰宅してから宿題の運動を3つ、25分ほどやっているうちに普通にもどった。 来週の月曜はイースターだからジムはない。


川上未映子 著 「乳と卵」 を読む

2018年03月25日 21時00分30秒 | 読む

 

川上未映子 著  「乳と卵」

 

文春文庫 か 51-1 2017年1月 第11刷

 

目次

乳と卵   P7-P108     初出 2007年 「文學界」 12月号

あなたたちの恋愛は瀕死  P109-P133   初出 2008年 「文學界」 3月号

 

「乳と卵」は第138回芥川賞受賞作品だそうで本作は受賞後の文藝春秋発表号で齧っている。 そして齧ってから初めの数ページでその大阪弁に違和感を抱き読むのを止めたのが10年前だった。 けれどその後川上の近作に興味を持ちこの間帰省した折に何作か買ってオランダに戻り自分に癌が戻って来たか来なかったのか検査するためオランダ癌研のCTスキャンを待つ間の2時間ほどで読めるものをと思いデイパックに放り込んだのが薄い文庫本に入った本作だった。 

文庫本の惹句に  「娘の緑子を連れて大阪から上京してきた姉でホステスの巻子。巻子は豊胸手術を受けることに憑りつかれている。 緑子は言葉を発することを拒否し、ノートに言葉を書き連ねる。夏の三日間に展開される哀切なドラマは、身体と言葉の狂おしい交錯としての表現を極める。 日本文学の風景を一夜にして変えてしまった、芥川賞受賞作。」 とある。 日本文学の風景を一夜にして変えてしまったのであればそれでは純文学の現状は何なのだと茶々をいれるとともに売れない日本純文学を売ろうとする出版社の祈りとも聞こえる絶叫が著者の耳にはそれが少々ウザいものと響いたに違いないとしても、その後著者が日本文学プロパー以外の多数の川上ファンを作ったであろうということには当たらずとも遠からずであり、その後早稲田文学増刊号で女性特集を編集するまでにも活躍する著者の実力がすでにそのとき知覚されていたのだろうとも思い直したのだった。

この20年ほどで興味ある女性作家のものを幾つか読んできた。 金井美恵子、富岡多恵子、津島祐子、松浦理恵子、山田詠美、荻野アンナ、笙野頼子、川上弘美、赤坂真理、黒田夏子などであるが川上が誰と親和性があるのか考えてみる。 それにはいくつかの補助線を入れると考える助けになるかもしれないとの仮定からその項を設定する。 女の生理、性、ジェンダー、社会性の項目をとひとまず設定する。 そしてそこにこの30年ほどこれらの作家のものを読んできた上野千鶴子、小倉千加子、斎藤美奈子などのコメンテーターを加えて俯瞰すると川上は彼らが述べてきた日本女流作家、日本社会で育った新しいものを携えて登場したものを本作で提示しているのだろうというのが朧気ながら分かる。 女の生理、性、ジェンダーというと様々な作家がそれぞれに社会的、歴史的制約の中から書いてきたものがあるのだろうがそれに加えて大衆社会性、ことに若い女性に視点を添えた著者のような作家が登場し風通しがよくなったような気がする。 これまでに若い女性のものを描いた女性作家は多かったもののその世界はどこか文学プロパー若しくはその周辺に響くだけのものであったのではないか。 例えば30年ほど前の山田詠美のポンちゃんシリーズに今につながる様な香りを朧気ながら嗅いだような気がする。 あれは男だったのだろうか、女だったのだろうか、女性の性が露わには出ていないのだが溌剌さを被った若い女性だったのではないか。 だから山田には女性ファンが多かったのではないかと記憶する、何か少女・女性漫画雑誌に描かれるようなヒロインの匂い。

自分はガチな能天気な男として幼少時から西部劇、戦争映画やその類のスポーツものも含むマンガ雑誌の勃興期に育っている。 今でもその傾向は大いにありその種の映画を好む。 子供の時少女漫画は生理的に受け付けず見たこともないままに還暦を遙かに越して今この頃インターネットで漫画を見るようになり(漫画は見るもので読むものとはいわない、との教育をうけている)多少はこの半世紀の移り変わりをその中に見る。 現代は圧倒的に漫画というかコミック、いまではアニメにその種のジャンルがメジャーとなって映画産業に貢献する時代であるのだからそこを文化領域として生息する若者たちに川上がアピールしないわけはないと感じたのはその生理・性・ジェンダー・社会性を自然体として表現しているからで漫画・アニメに飽き足らないと感じる若い女性たちを引っ張る力があると感じたからだ。

自分には本書の細部は語れない。 それは自分がCTスキャンを受けてからもう大方4週間は経っておりそ、そして今のところ癌は戻ってきていないという診断結果を受けて緊張感が薄れたのと同時に本作の記憶が薄れたことによる。 その後読んだ本作に添えられた̪詩とも小説とも自分には判断のつかない散文、および川上の同じく刺激的・挑戦的でもあるタイトルを冠する詩集を読み、川上の感覚がそれらの作品でより一層光っていることを確認したことで川上の詩と小説作品の関係をおぼろげながら理解したような気になっている。

初めに述べた自分の本作との初体験で初めの数ページで違和感を抱き二度目はそれを感じなかった理由は多分作中の主人公と思しき娘が大阪から出てきて東京で多分創造的な仕事をしているように想像されるその設定での大阪弁である。 多分違和感なり言葉の振れを感じたのは主人公の言語環境の変化のなかでのその影響と主人公の揺れでもあるのかもしれず、もともとくせのある大阪弁を文章の中に押し込めるのは、話し言葉を書き言葉の中にねじ込むことで起こる振れ、揺れであったのかもしれず、それは既に漱石や一葉が経験したことでもあるかもしれず、だから本作でも主人公の名前は一度しか夏子として現れなかった一葉の名前でもあったはずで、著者はそれにも充分自覚的であったはずだ。


'18、 1月2月帰省日記(9);讃岐うどんを踏む

2018年03月25日 00時33分09秒 | 日常

 

2018年 1月 29日 (月)

友人は日曜を除く毎日朝7時から饂飩玉をつくるのに粉を捏ねて2時間以上踏むのだと言う。 9時を大分周って400玉分を踏み終わればその頃から用意し始めた大釜の饂飩つゆに手延べで切って揃えて客を待つ準備ができて10時を周って店を開けると大抵何人かは店が開くのを待っているのだそうだ。

踏むのをやってみたいというこどもたちに7時にこなくてもいい、と言われていたけれど初めから見たい踏みたい、と言っていたものがモーテルでは支度がもたもたして、おまけに焼き立てのパンがあるというのでコーヒーとクロワッサンで軽い朝食にしたから店に着いたのが8時を大分廻っていた。 友人は既に200玉分は踏んでいたので後の半分をやり始めたところに我々が到着し、息子が言われるままに友人と並んで玉を踏み始めた。 2kgづつの玉が10個、これが200玉になるのだという。 それぞれをまんべんなく丁寧に踏み、平らになるとそれらを重ねてまた踏む。 友人は175cmで60kg、息子は185cmで80kg、友人によるとこの20kgの体重差が捗り方の差を作ると言う。 途中で娘も自分もやってみるがまんべんなく踏むのにこつが要りそうだ。 結局二人以上で踏んだことになるので捗がいき9時前には「我々の仕事」が終わっていた。 

玉にしたものを機械で長く伸ばしそれを切り、その場で茹でて、出来立てのだし汁で頂いた。 かけ、つけ、ひやし、と少量づつといってもかなりの量を試し、一同その味にいたく感動し満腹した。 こんな簡単なものだから饂飩のこしと出汁が秘訣なのだろう。 こどもたちは大量にいりこ、鰹節、昆布を土産にもらっていた。 けれどもオランダではそんな饂飩はないから彼らがそれをどうするのか様子をみてみよう。

その店は観音寺の 大喜多うどん という。