暇つぶし日記

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Boz salkyn  盗まれた花嫁 (2007);観た映画、Oct. '13

2013年10月19日 03時44分33秒 | 見る


邦題;  盗まれた花嫁   (2007)
原題;  Boz salkyn
英題;  Pure Coolness 

95分

制作国; キルギス・カザフスタン


監督; Ernest Abdyjaparov
脚本; Ernest Abdyjaparov

出演;
Asem Toktobekova Asema
Tynchtyk Abylkasymov Sagyn
Siezdbek Iskenaliev Murat
Elnura Osmonalieva Burma
Osnura Asanalieva Anara



土曜の深夜映画としてオランダ国営テレビで観た。 久しぶりのアジアの映画である。 この前このジャンルで観たものには4年前に観たモンゴル映画、「天空の草原のナンサ(2008年)」があって下のように書いた。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/58851245.html

本作については You Tube にロッテルダム映画祭の折の予告編が次のように載っていた。 

http://www.youtube.com/watch?v=SjlZyssDqhc

尚本稿の参考に映画データベースを牽いても皆目情報はなく、下のように本作の根幹をなすキルギスの誘拐婚について述べたものがあった。

http://matome.naver.jp/odai/2136542141247064301

本作には男女の繋がり、結婚をめぐる話が根にあり、そこでは誘拐婚が大きな役割を占めている。 誘拐婚というのは耳に新しく、邦題の「盗まれた、、、」から連想して略奪婚の一種かとおもったけれどその性格がかなり違うようだ。 2008年に本作品が福岡国際映画祭に出品されたときに詳しく述べられた下のようなブログの記事もある。

http://blog.goo.ne.jp/pa-da/e/3e270138142ff19afd02fed939c246fe

世界がグローバル化しているという言説がある。 その内容は世界が徐々に同一の価値観、習慣、ライフスタイルを共有しつつある、ということになるのだろうが、それではそれはどんな価値観、ライフスタイルなのかとなると西欧の価値観、ライフスタイルが徐々に世界に浸透してきているということだろう。 価値観の相違、相克となると文明の衝突といわれたり、ひいてはそれが大きくなって戦争となるような宗教観、価値観の違いが問題になり、現在のところイスラム急進派と西欧民主主義大国の紛争ということに体現されている。 

本作に少しは沿った最近のそんな例としは女性の教育権を主張したパキスタンの少女がそれを認めないイスラム急進派に狙撃され九死に一生を得て回復後、その勇気がたたえられてノーベル平和賞の候補にもなった、ということがある。 イスラム急進派にとっては認めがたいことであろうし、そうなると彼女の命は自国では保障できないと彼女はイギリスに滞在して世界各国のメディアに登場していると聞くが、ここでもその世界各国というのは主に西欧各国もしくは西欧化された発展途上国ということになるだろう。

つまりグローバル化しているという言説があるが、そこには厳然として価値観の違いによる紛争が存在する。そんな状況で非西欧社会がどのように「グローバル化」するか、という命題をもって西欧化のプロセスがみえるものとして本作をみることもできると思う。 その例が本作で主題となっている「誘拐婚」だ。 本作がコメディー仕立てになっているように見えるがそれはその主題を深刻に掘り下げ、問題の所在を明らかにするというシリアスな作品であればここで想定される本国の女性視聴者には現実とこのように仕立てられた幻想に直面するには荷が重すぎるという結果を生むのではないかとして俗情との結託という熟慮によって軽いものに仕立て上げられたのが実際ではないかと愚考する。

都会に住む娘が親にも男を会わせるか会わせないかと言うような慌しさで「茶も飲まずに」許婚として紹介した都会風の男とバタバタと休暇で田舎の男の家に出向くのが発端なのだが、ここでは既に都会=近代化=善、田舎=後進性=悪というような公式が前提としてあるようで、田舎に住む男の親は娘に、ここはまだ田舎で遅れているけれど我々は都会風の生活をしている、と娘に自分達を紹介する。 つまりここは遅れているけれど我々は後れていない、と言い訳をするわけで、この構図、言い訳は世界各地でみられるものだろう。 日本でも全く同じ言葉を実際聞いているし、これがグローバリゼーション過程の中にある状態を示しているけれど、ミラニアムを越した現在の日本ではもうこの言葉が必要でないくらいグローバル化が行き渡っているのかもしれない。 

男女の関係、恋愛事情は太古から同じであるけれどそのプロセスの中で各地の慣習が男女の家をめぐって婚礼のかたちを規定する。 その制約がすくなく自由に近いというのが都会ということになるのだろうが事はどこでも必ずしも同じというわけでもない。 都会の恋愛・結婚事情となるとその条件は必ずしも自由ではないことは明らかだろう。 男の職種、年収が大きな要素となり、その条件に合わない、つまり年収が低く恋愛の機会さえあたえられないような男達が溢れ生涯独身を通さざるを得ない男達の割合が増えていると聞く。 そんな中で自由な恋愛・結婚を志向する若者達が様々なネットのサイトでマッチメーキングを試みる様はそれを営利目的とした会社を通じて自分自身で見合いを組織することなのだ。 年収、職種の大きなハザードはあるが「家」からの強制はない。  

日本でも戦前までは殆んどの場合、家、親戚、有力者を通してのマッチメーキング、つまり見合い結婚だったものだ。 実際、自分の祖父・祖母は結婚式の当日まで会ったことがなかった。 しかしその子供たち、孫たちのみるところでは彼らは名実ともに生涯幸せな夫婦だった。 その子供たちも戦中、戦後に殆んど見合いで結婚している。 田舎の農家では家の存続が第一義となり仲人が保証する他家の娘、息子を見合わせるのであり、よっぽどの理由がなければ断れないスタートであるから若い男女達もなにかしらの理由がなければ断る理由もなくそこで仲人を通じての婚約・婚姻が成立するのが日本で何世紀にもわたっておこなわれてきたことである。 今更ながら繰り返す必要はないほどなのだが、けれどそれがこの半世紀ほどでその様子が大きく変っていることも見逃せない。 家の存続、守るべき家というような制度がほとんど崩壊してしまっているのだ。 多分これも「グローバリゼーション化」の結果と言えるだろう。 見合い=封建的=前近代的、というような考え方が60年代70年代の高度成長期の若者達にはあったのではないか。 「家」が「会社」となり職場の上司などが仲人を務めるケースが増えてそれに重ねて徐々に前近代的な家の制度は崩壊している。 けれど2000年が過ぎてから縁故や仲人というような「家」に関係した機能が個人から消え、年功序列、会社が個人の生涯を保証できなくなったときには恋愛・結婚のリスクを小さくする、若しくはある程度保証されたパートナーを見つけるために個人が営利目的の見合い会社を利用する、という現象が起こってきている。

本作の誘拐婚というのは見合いの段階さえも踏まない当人、特に誘拐される娘の自由を奪った有無を言わさぬ、男の「家」を含んだ、近代的に言えば「犯罪行為」である。 それが習慣として残っている現実にどのように対処するか、というのが本作の結末となる「救い」であって、その中で娘がそれを受け入れそれが自然の中で太古から行われてきた「前近代的な」遊牧民の生活に入ることとなり、ひいては自分を天秤にかけて昔の女から離れられない、自分が選んだ都会のクールな許婚を棄てて純朴な大自然の中の「前近代的」な男と暮らすことが本来の自分である、と帰結させる契機となるのが本作での「誘拐婚」の機能である。 ここでは前に述べたコメディー仕立ての「終わりよければ全てよし」というような制度承認の態度が見られるのではないか。 それならこれは現実の悲惨な例をここでは捨象するような機能でもある。 

自分の家族の例をもう一つ言うと、生涯幸せな夫婦であった明治の祖父は農家の末っ子であった故に若くして養子縁組で他家に入り婿として結婚させられていたけれど婚家と結婚生活に耐えられずに逃げて実家に戻ったという経緯がある。 その後の祖母との見合い結婚だったのだ。 自分は見合い結婚がすべていいと言う気はさらさらない。 だから本作を「結果よければ全てよし」として女性の自由を奪う誘拐婚を認める立場を作者がとっているとなると誘拐された女性をめぐる問題解決、若しくは誘拐婚制度を吟味する方向に向かうのではなく却って笑いもしくはロマンチズムの煙幕で問題を糊塗する結果となるのは明らかだ。 本作で一番恐怖するのは誘拐された娘が新郎方の伯母、近所の女たちを含む女たちから洗脳されるシーンである。 誘拐婚の根幹は男の暴行ではなく女達による娘への洗脳プロセスなのだ。 だからその制度的な怖さを知っていた娘は許婚の不実を理由に洗脳を受け入れるのだ。 もし別のプロットが可能なら許婚が不実でもなく相思相愛の関係の中でなおかつこのような誘拐が行われた場合の作品を見たい気がする。 そうすればそれがコメディーもロマンチズムをも排した現実的な映画とならざるを得なく、そこでは痛々しい見るに耐えないものが出来上がるに違いなく、そうなると誰がそんなものに金を払ってまで見るというのだろうか。 そのような現実を直視するに耐えられないということだろう。 どこかボタンを掛け違えているような気がする。

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