暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

認知症の老母を見舞って(2)おむつ、おしめ

2016年09月29日 09時30分45秒 | 健康

 

 2016年8月下旬

オムツもオシメも大抵は皆赤子の時から2,3歳を超えてまだどれくらいまでするものか、自分のことも、自分の息子、娘のときのことも覚えていないが、それでもはっきり覚えているのは日本から昔からの浴衣を布オシメにして送ってきたものを使い、また同時にオランダの伝統的な布オシメも経験し、それも便利なパンパースに移行した頃だっただろうか、そして当時は政府からの児童手当がパンパース代で消えてしまう頃でもあった。 それまで徐々に粗相が減ってきていた息子があるとき、ボク、今からもうパンパースしない、と言ってその日以来外使わなくなったことだ。  その後子供用オマルに跨ったものの直に普通のトイレに段差をつけ落ちないように子供用リングを乗せたものを使い大きくなるにつれてそれも取れ今に至る。 オムツ・オシメは障害、病気の人々、緊急事態には使うことがあるからそんな時には必要に駆られて我々の知らないところで息子も娘も使ったことがあるのかもしれないけれど、自分の排泄物が肌身に付く感覚を自覚したことがオムツ・オシメを嫌う大きな理由なのではないかと思うのだが、どうだろうか。 人生のコースを辿ってきてゴールに入る頃にはまた幼児にもどると言われ、それならまたオムツ、オシメの時期に戻るようになるのかと覚悟しておかねばならない。 多分何やかや言って人生で「自立」というのはオムツ、オシメからの自立という意味であったのだと思えるが、まさに人生の秋、冬を迎えてここに戻るというのは辛いものだ。

もう10年ほど前になるだろうか、痛風になった。 それでも辛い痛みとも折り合うことが出来たのだがそれが出来たのは薬のおかげで、それを服用すると痛みがぴたりと止んだものだ。 それはそれで嬉しいのだがその裏には副作用というものがあって、それが急に腹を緩くする、というものだった。 自分は幼児の頃はひ弱だったと聞いているけれど物心ついてからは胃腸が頗る健康で腹を下すことなど1年に一度あるかないかであったとしても前兆はあるのだからなんとかしていた。 幼稚園から今まで下着やズボンを汚して気まずい思いをしたのは2,3回ぐらいだっただろうか。 こういうことは誰にもあってそれは人生においてほんの偶に起こるものとして考えているのだろうと想像するけれどそう思うのはそれはまだ若いからだ。 そしてそういう折にはこれが普通でないと思ってやり過ごしている。 

これが常態になったときのことを考えるきっかけになったのは仕事にでかけるのにオムツをしてでかけたときだった。 副作用がきつかったから漏れるのは仕方がないけれどそれを堪えビクビクしながら仕事をこなし漏れればそれをトイレで処理し新しいものを充てて1日を終わる。 50代でまだ壮年だった自分にとってこれはきつかった。 薬の所為、そういうことは自分の人格には関係ないと思っていてもめげるのだ。 それに自分の子供たちのころに比べて大人の物は嵩が高く持ち歩きにもそのヴォリュームに呆れる。 そういうことがあったことを忘れていなかったことを認知症の老母がオシメをつけ始めていると介護人から聞きもし彼女の自室のトイレにそれがうず高く積まれているのを見た時に思い出した。 それはまだ理解できるしそれを自分で処理できるのだからいいと安易に考えていたのを思い知らされたのは昔の女友達二人と老母で食事に出かけ久しぶりに美味いものを喰いそのあと地元の観光地に行った時だ。 

大体女性はどこでもトイレが近いのか何かそこで秘密のことをするためなのかどこに行くにしてもトイレが行動の基準になっているとこの歳の男なら考えているのではないか。 そんな具合で二人とも孫がいる女友達は観光地のレストラン・カフェーに老母を連れてそこのトイレに行き老母を手助けして出てきたのだがその後いざ観光地の入口に来てこれから、と思っていると老母が苦しがり慌てた。 後で訊くと替えのオムツが溢れて非常事態になったのだ。 こういう経験のない息子はなんとかしなければと焦るけれど何もできない。 そういう経験がなくもない女友達がすぐさままた今来たレストランに老母を連れ戻し車椅子も入れるような大きなトイレに籠り一人は車でオムツとパンタロンを買うために走ってくれた。 その間自分は何もできずカフェーの隅で佇むだけだった。 自分が何もできないという無力感は忘れられない。 つまりそれは老母の無力感でもあるのだがそれにもまして男の自分の能天気さに苛まれ女友達のテキパキした動きを有り難いと感謝した。  

肉体的に衰え、日頃できていたこと、殊に排泄にかかわることで不如意になることが人格を揺るがすのではないか。 そんなところを過ぎて老母は、それを看護人に頼るようになり始めて大分経つようだ。 先月10日ほど今までになかったほどほぼ密着するようにそばにいてその場面に何回も出くわし、外から部屋に戻ってみれば歩けないはずなのに一人でトイレに行き、済ませたものの立ち上がれないから起こしてくれと言われどこにそんな力があったのか驚きながらソロソロとベッドに連れ戻り寝かせた後それを看護人に伝えると驚いていた。 トイレまで5mほどの距離を歩かなくてもいいようにそばには椅子の部分をずらせばポットが仕組まれているものを置いてあるのにそれは無言のまま無視してトイレまで行く。 その簡易トイレ椅子を拒否してトイレまで行き来、というより来るためには立ち上がれないのにそこまで行くというところに意地というか人格というものを感じるのだ。 だからそこで認知症が進みそんな意識もパスするようになれば赤子に戻るのだからその無力さも感じないのだろうが今その境目にいるような老母をみていると複雑な気持ちになる。 何回かの手術の後老人性鬱に沈殿しつつ食事を断つような毎日に接し自分も思わずそんな鬱に引き込まれそうにもなる。 自分ももう老人なのだ。 あと20年もしないうちに同じようになるのかもしれない。 その時にはどう感じどう対処するのだろうかと他人事のように考える。 

昼食に1kmほど離れた飯屋に真夏のカンカン照りの田舎道を歩いてでかけボソボソと済ました後また同じ道を戻るときふとみれば壁一面にオムツ・オシメが貼られているのが眼について圧倒された。 そこは介護をサポートするそういう店だったのだ。 様々な助具、電動・手動の車椅子などの周りにこのオムツ・オシメ・様々な取り換えパッドの展示が見られた。 ある意味これからまだまだ成長する産業のようだ。 我々もこれにお世話になる時期がかならず来る。 それを見ていて老母と同い年であと何年かと数えるオランダの姑のことが頭をよぎる。 もう無理して生きたくないという脳に曇りのない姑は終末医療、いざとなった時の蘇生作業をどうするかというようなことを担当医と話合い、それをカルテに記すような作業を始めている。 それは老母と対照的で多分老母の場合にはオランダの柔らかい安楽死、若しくは積極的ではない安楽死というようなところが話されることはないだろう。 法律的に言えば本人、複数の医師、証人のもとで合意された、或る状況下での取り決めがまだ本人がそのときの合意を確認できる場合にのみその処置が合法と認められ執行されるからで認知症の場合には殆どの場合これは適応されないだろう。 けれど人類はこのような書類がなくとも犯罪とならないような処置をして過ごしてきたのだから違法でない道はあるはずでそれを認識して準備を勧める書物も数多く見られるのではないか。 これもこれからの分野だ。  

壁に並んだオムツ・オシメに圧倒されてそのサイズの中で小柄な老母、かつては小山のようだったけれど今は風船が萎んでしまったような痩躯となった姑の現実を思い起こしながらそれぞれどのあたりのものか想像しながらも、嘗て小児用パンパースをスーパーでの買い物の折に言われたサイズをかなり大きなコーナーで探す時にあったバリエーションに比べると目の前のヴァリエーションの豊かさに圧倒されそこで思わずため息が出るのを禁じ得ないのだった。


柔らかい光の中で

2016年09月28日 16時24分12秒 | 日常

 

まだ五日か一週間前まで暑く裏庭でパラソルを広げて本を読んだりしたものだが昨日今日は平年並みの18℃まではまだ行かないものの日中最高気温20℃を越したぐらいだからここに来て一気に秋めいたように見える。 それにつれて庭の植木にも鮮やかな色のものが退いてベージュ、茶色がくすんだ深緑に混ざるようにも変化が見える。 

来週早々また日本に飛ぶことになっている。 8月の終わりに10日ほど帰省した時は温度がここと同じでも大阪の湿度の圧倒的な力には参ったけれど今回は温度が大分下がっているのだろうからあんなショックを受けるようなことにはならないだろうと思う。

こちらに戻ってから一か月も経たずにまた見知ったところに行く。 「行く」と書いている。 自分にはもう年齢の半分以上オランダに住んでいてここが住処になっている事とこれから例えば5年後に日本に出かけるとなるとそのときにははっきりとした「来た」という感覚のもとに航空機から出るだろうし、もう「戻った」という感じは遙か彼方に後退しているだろう。 それにその時には降り立つのはもう関西空港でもどこの空港でもよくなっているのではないだろうか。

秋らしくなった柔らかい光の庭で鮮やかな色の花々が消えた中、薄紫を見せて目を惹く背の高い植物があった。 なんという名の植物だっただろうか。 夏の間にはやたらと骨っぽい茎が伸びただけのものだったのがここに来て先にこんな花を咲かせている。 オランダ名は「棒の草」だったのではないか。


オランダ陶芸センターの開所式に行ってきた

2016年09月26日 23時18分47秒 | 日常

 

 

昨晩家人が突然、明日オランダ陶芸センターが引っ越して新しくなったところが開所するのでそのイヴェントに招待されているの、文部大臣も来るから美味いもの飲み食いできるんじゃないかな、行く? というので別段予定もないし只飲み只食い出来るならいいかなと考え、その場所を聞いて行くことにした。 その理由は二つ。

1)もうかれこれ35年ほどになるだろうか、北の州都グロニンゲンに住んでいた頃当時美大の陶芸科の学生だった家人と知り合い一緒に住み始めていた。 優秀な学生に3か月ほど奨学助成金が出て住み込みでオランダ陶芸センターで研究・実作、その成果を展覧会にし、そこでまた内外の若い芸術家たちと交流させるというようなプログラムだっただろうか。 デン・ボスという町から北西に5kmほど行ったところにあるマース川に面した港のある古い要塞の町、Heusden の閉鎖されたレンガ工場を利用したのがセンターで大きな窯を使った作業場、住居の併設されたものだった。 家人がそこで3か月作業している間に何回も週末北の町から250kmほど車で走ってここに来て他の陶芸家たちと交流したり小さいながらも味のある港、要塞を歩いて北の風景とは違う古いオランダを経験しそれが深く印象に残っていたこと。

2)今年の4月の終わりにオランダのウオーキング協会の合宿二泊三日のイヴェントがありそのうち土日と二日で38kmほど歩いてそれを下のように記している。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/65144028.html

このとき宿泊したのがデンボスから10kmほど南西の Oisterwijk という町の大きな森の中でそのときは電車で行くには駅から森の中の宿泊施設まで遠かったので車で出かけている。 けれど何回かその駅とその近くの古い町並みを歩き気に入って、また出来たら出かけたいと思っていたところに新しく移転したオランダ陶芸センターがその駅のすぐ近くだというのだし酒を飲むなら運転も出来ないから駅の近くだったら電車で2時間、老人用一日オランダ中乗り放題券があるのでそれを使えばいい、ということ。

これが行った理由だ。 自分の日本の友人にプロの陶芸家がいて自分も元々陶芸・骨董には興味があり若い時に窯焼きを手伝ったこともあり、グロニンゲンではオランダの陶芸協会の招聘で今は人間国宝にもなっている備前の陶芸家がオランダに滞在した時に世話をしたこともある。 だからそんなこともあり35年ほど前のセンターから今はどんなセンターになっているのかにも興味があったことがブラブラ出かけてみようと思った強い動機になっていることは確かだ。 ヨーロッパ中から集まってきて各自ここで模索しながら作業する若い陶芸家やその作品を覗くのにも興味があった。 35年前旧センターで見た茶碗が忘れられない。 アメリカ人の陶芸家の作品で色、釉薬の乗りといい形が素晴らしかった。 けれど当時20万円ほどの値段に踏ん切りがつかなかった。 今なら迷わないが当時はまだ貧乏な学生上がりだから買えず残念な思いをした。 だから今回そんなものがあれば、、、と期待したけれど大抵は作業にかかったばかりでそれぞれの作業場にはテストピースやデッサンやコンセプトをプロジェクターで映すコンピューターグラフィックなどが示されていて、なるほど35年前にはコンピューターで陶芸作家がこういうことをするようになるとは夢にも思っていなかった。 自分が大学の研究室で作業していたのは教室二つ分ぐらいのコンピューターにIBMの緑のモニターにアルファベットと数字を打ち込むぐらいでWWWもメールもない時代だった。 今のノートパソコンは自分がコトコト打ち込んでいた当時の研究室のコンピューターの能力にと比べると数倍になっているのだから今となっては話にならない昔話だ。

昔皮革工場だったレンガ造りの大きな一角が新センターになっていてその規模に驚いた。 昔のレンガ工場の敷地とは比べ物にならない。 だからそれぞれ作家たちのスペースも大きく大きなガス、電気窯がいくつも大きなスペースの中に配分されている。 昔のレンガ工場では決まった場所にある窯をレール上の長いトロッコに乗った作品が焼かれて移動するという平面式が今では6000リットルほどの容量の窯自体が上下して作品を覆い焼くといったシステムで、開所のテープカットのセレモニーでは焼きあがった作品の窯を上に移動させ現れた白磁の日常雑貨が急な温度の降下によりよって収縮することによって起こる金属的なチンチンという音を200人ほどの招待客が聴くという趣向だった。 作品を積み上げたその上には高温によるカゲロウのようなものが揺らいでいるほどでそんなスペースでの式典では暑く扇を取り出して扇ぐものも何人かいた。 だからそのあとすぐに皆冷たいもの、ビールに手をのばし口を潤すようだった。

写真はセンター長とオランダ文科省大臣の対話の様子、このオランダ労働党の女性文科相は在任4年で次官当時から文化・教育に実績を上げていて芸術。陶芸センターの移転、拡大のプロジェクトについてそのヴィジョンと将来の見通しを所長から問われて財政縮小下での文化・教育の観点に加えて地域振興、産学共同を力説した。 もともと大多数の陶芸作家が満足のいくサポートを受けられないからこのような国の資金によるセンターが必要になるのであって国からの意図はそれを産業に結び付けることで予算を計上できる、実際、このセンターの最終予算案は11月の議会で承認されなければちょっと苦労するかもしてない、と大臣がいうとすかさず、そのころ選挙はあるけれどあなたはまた現職を維持できるのかというような生臭い質問も飛んで笑いが出る場面もあった。 偶々招待客のなかに佐賀県窯業センターの研究員がいてそういうことを説明するとお国柄かはっきりとしたことをいうものだと感心していた。 いずれにせよ市長、大臣、国会議員、州議員等々と地域の力の入れようが感じられたのだが陶芸家たちには自分たちの活動環境が整えばいいだけのはなしでその具体的な話が国、州からどれだけ予算を引き出せるかということになるから地方、国の文化行政、政策に関心をもたざるをえず、ただの美辞麗句だけでは納得できないからこのようなものになるのかと部外者の自分はそんなやりとりを面白くきいていた。

尚、センター長から大臣に開所するにあたって彼女の「尽力」に対する礼として数キロの陶土がドカンと机の上に置かれ、それに加えて館内の窯で焼いたパンが土産として手渡されそれに対して一同から苦笑が漏れた。

オランダ陶芸センター、 Sunday Morning     ekwc (Europees Keramisch WerkCentrum)

 https://sundaymorning.ekwc.nl/en/


展覧会の午後

2016年09月26日 10時30分36秒 | 日常

 

昼前に起きて、ああビッグバンドの演奏が1時からあるのだと思い出し家人がいる公民館に出かけた。 日曜だから来場者が昨日より増えていた。 知人から花を貰ったといって家人は窓辺を指さすと強い光が花束に射して逆光気味の花束がまぶしかった。

隣のホールで定刻にビッグバンドが演奏を始めたのだが思っていたバンドではなくこの45年続けているアマチュアバンドで20人ほどの観客とともに平均年齢が70歳ほどの懐メロ専門のバンドで自分には心地よかった。 子どもの頃からのスタンダード曲が次から次へと飛び出してそれをビールを手に聴いていた。

夕方展示品を車でうちに持って帰ってから別の場所でこのイヴェントのパーティーがありそこに家人、娘とともに出かけた。 去年は小さな中庭で肩を触れあうような狭さの中で和気藹々とDJに乗せて会話が弾んだのだが今年は雨を心配したからなのか内部のだだっ広いカフェーで飲み食いしたのだがただ喰い飲むだけで見知った人たちがあちこちにいるのだがあいさつ程度で話し込むということも起こらなかった。 生のバンドにしても下手ではないけれど少々喧しく響き8時前には一同そこを離れてどこかに消えるというような去年とは違った雰囲気だった。


久しぶりの公民館

2016年09月25日 11時48分46秒 | 日常

 

オランダには中規模の町以上には殆どのところに Volkshuis と呼ばれる公民館がある。 Volks (大衆)の Huis (家)というのが直訳なのだがその起こりはベルギー、オランダでは明治、大正時代に産業革命により都市部に生まれた大量の労働者たちの労働運動の中から生まれた福利厚生、教育、余暇、娯楽を目的とした施設がありその代表的なものがこの公民館だ。 普通の町や村でも「村の家」、「近所の家」、「クラブの家」というような呼び名の施設がありそれも一般的に公民館とよばれて差支えないものだ。 ただ、VOLKSHUIS というのは労働運動から派生したものであるから他の「家」に比べるとその社会意識、組織性に歴史と一貫した継続性がみられ各地方自治体との行政面においては関係が密であるというような特長がみられる。 現在では文化行政の一部となり教育・文化をサポートする様々な活動の場となっている。 例えば移民にはオランダの永住権を得るうえでオランダ語は必須でありその資格試験のための語学教室がある。 それだけではなく一般市民のための様々な語学教室、様々な料理教室を含めた文化教室などが長年組織されている。 もう35年ほどまえ当時住んでいたグロニンゲンの市民大学で乞われ日本語を教えたことがある。 80年代当時テレビで放映された「おしん」や「ショーグン」に代表されるようなの日本ブームの到来により日本人がいない北の州都で俄か日本語教師をやるはめになったのだがその場所がやはり労働党の拠点の一つである都市の公民館だったのだ。

今の町に越してきて北の町と比べると北とは違いここは今の中央政治と同じく保守・労働党の連立政治の相を示し公民館の組織力はかなり協調的で緩い。 この10年ほどの財政緊縮のあおりを受けて組織の合併、コースの授業料アップ、講師の報酬削減、等々、その中で働くもの、受講する者両方に不都合を生じさせている。 けれどそれは官民ほとんどすべての組織で見られる現象であるからここだけ特別ということもなくそれでも日々様々な活動が続けられている。

家人はこの10年以上毎年この時期に開かれるこの町の美術協会主催の展覧会に出品しており去年までは美術好きの散髪屋の店を借りて展示していた。 それが事情によりその散髪屋は店を畳んでしまっため今回この公民館が会場になったということだ。 この公民館には少々の思い出がある。

造形作家である家人は全国組織で移民の子弟、特に少女たちに家庭で役立つ技術を遊びながら身に付ける教室の講師を何年かやっておりその教室がこの公民館だった。 学校の科学で教えられる原理を実際にどのように家庭でノミやペンチ、トンカチやはんだごてを使って役に立てるか、ひいては女性が他に頼らず自立の道を歩めさせようとするものでそれは文科省の意図にも沿うものだった。 その関係から自分にもまた日本語教師の口が廻ってきてそれを5,6年やっただろうか。 その後求められるままに寿司教室を3年ほど、その間に大学生の息子が夜間のコンシェルジェのバイトをしたり、とよくここに出入りをしていたものだが自分の定年に沿ってそれらも止めてしまってからここにくることはなくなっている。 初めはまだ学校をでたての青年がコンシェルジェとして入り、誠実で良く働く好青年だとおもっていたものが今ではここの事務長となっていたり町のジャズ同好会の世話人がここの理事長であったりとこういうほぼボランティア組織では町のあちこちで見知るひとたちが交差する場所でもある。 

ここで今回展示されるのは家人と20年ほどオランダに住んでいるイラク人の女性画家、ポートレートを撮る女性写真家の3人で土曜の青空マーケットに行ったついでにぶらぶらと歩いてここに来れば少々建物の内部が改造されているとはいえ見知ったところにそれぞれの作品が並んでいた。

その部屋の隣に、詰めれば200人以上入れる古風な舞台のあるホールがあって日曜の昼にはこの美術フェスティバルの景気づけにビッグバンドの演奏があるのだそうだ。 近くのジャズ・カフェーで時々演奏するドードレヒトの開業医が自分のビッグバンドで日頃のレパートリーを派手にやるのだから楽しみだ。 ホールの美しい木のフロアでは日頃様々なダンス教室が行われているのだからここで生のビッグバンドでダンスというのも悪くない。

 


オランダが平年並みになると、、、、

2016年09月24日 02時50分01秒 | 日常

 

日中34℃まで上がり余り暑いので夕食後 Katwijk の浜に出かけ泳いだのは10日前だ。 それが今、日中最高気温20℃、夜間の気温10℃ほどまで下がりこれが平年並みなのだという。 10日ほど前まで夜間窓を開け放って真っ裸で寝たのが今厚い毛糸の靴下を履いて夜になると厚手のセーターを身に纏う。 新鮮な空気を入れるのに窓を指一本ほどの厚さに開けておいてもどういう訳か18℃ほどまでしか下がらず眠るのには都合がいい。

8月の終わりから9月の中頃まで異常な暑さだった。 だからそれが今平年に戻るとその揺り戻しというか慣れた季節の変わり目が急で少々戸惑う。 ここにきてやっと夏が終わったと感じるのだし学校などはとっくに始まっているのだからそれも当然のことだ。 毎日が日曜日の日々を過ごしているとそんな気候の変化に敏感になるのかそれともそういうことにしか煩わされないということか。

日本のように春分、秋分の日の祭日があるわけでもなくただ単に天気予報のついでに短くそのことをいうだけのところだから日本の言い習わしに倣うと、暑さ寒さも彼岸までというのが甚く感じるのが今年の彼岸だった。

春の彼岸まで何とか保つのかと、それでは今度の秋の彼岸は、と心準備をしながらそれが裏切られるのを望みながら介護施設の人々と時差7時間の会話をする。 半年前まではそれを老母としていたのだが今はそれも頼りないからこういうことになっている。 あと10日経てばそういうことをしなくても面と向かって話せばよく、去年老母を車椅子に乗せて自分の村の祭りに連れて行ったのも10月の中旬だったのだが今年はそれも叶わなくなるような気がする。 今迄出来ていたことが出来なくなると寂しいものだ。

裏庭で空を見上げると筋雲が出来ていてそれが風の方向が変わったのだろう、それぞれの筋がL字形に変わっていて秋のすがすがしい筋雲が少々乱れたものになっていた。 30分後に庭に出るとそんな空が消え鉛色の冬空の前兆のような灰色の薄い雲が全天を覆っていた。

 


垣根を刈った

2016年09月21日 19時36分41秒 | 日常

 

3か月前に同じ題でここに書いている。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/65212062.html

オランダ名が Liguster、英名が Privet, 和名がイボタだというのは3か月前の日記を見て思い出した。 生垣だの垣根だというだけで名前など右から左に忘れてしまうものだがそんな風にして1年に2、3度刈って終わりだから手入れといってもそれだけの簡単なものだ。 本来ならそのままあと2か月放っておいてから小枝だけの丸坊主にするのだが日頃何もすることのない年金生活者になってから細かなことにも目が行っていよいよ定年老人だと自分で思いながらも物置からアルミの脚立と電動ヘッジトリマーを持ち出してきて垣根の散髪をした。

放っておいても垣根は成長する。 この前刈ったのが夏至で今秋分だからこれから日照時間が短くなる。 それにつれてもう植物は成長しないからこの垣根も夏至からこちら3か月で大体20cmほど伸び、中には50cmほど伸びた部分もあるけれど今日刈れば2,3か月後に丸坊主にするときにはよく行って10-20cmだろうと思う。

この生垣の中にブラックベリーの棘のついた蔓が繁殖していて毎回生垣の高さを同じにするのに切るのだがこの繁殖ぶりがすごい。 ヨーロッパのどこにいっても見られるもので道端でもあちこちに繁っていて黒い実を生らせている。 今回のアイルランド・ウオーキング旅行でもあちこちで見られたのだし摘まんで味わってもみたのだがアイルランドではその風土からかどこでも細かい実だったことを思い出す。 イギリスの湖水地方を歩いた時にも同じような気候のはずだから同じような小さい実だったかというとそんなことはなくアイルランドの土地が瘦せているということからなのだろうと思う。 我が家の蔓はこの3か月で2mほども伸びている。 ただ毎回このように切るのでというかこの種類がそうなのか知らないけれど家のものには実が生らない。 一方同種類のフランボアーズ、ラズベリーも庭の一方にあり目覚ましい繁殖ぶりを示し夏の初めから1か月半ぐらいに渡ってほぼ3,4日に一度は夫婦二人のデザートにするぐらいのワインレッドの実が取れる。 だからこのブラックベリーに実が生らなくとも別に惜しいことはない。

玄関の脇に高さ2.5m、長さ3mほどのオランダ名 Zuurbes(酸っぱい実)、 英名 Common Barberry の垣根があるのだがそれは硬いとげが一杯ついているものでこれも成長が著しい。 伸びたままにして置くと玄関までの数メートルのところを通る来客や郵便配達に微かに触れる程度になってこれも刈る必要がある。 家人が折に触れ鋏で切ってその部分は整えているので問題はないのだが上方向には伸び放題になっているので無法図に30cmほど伸びてしまいこれは電動ヘッジトリマーで刈るわけにはいかずここまで脚立を担いできて上に登り鋏で一枝ごと刈らねばならない。 同じ生垣であってもこちらの方はちゃんとした作業用の手袋をして注意しながら一々30-40cmほどの長い棘のついた枝を取り生垣の頭を整えた。 出た園芸廃棄物はコンテナーに放り込みことに棘のついたものが地面に残っていないかよく見ておかないと時間がたち乾くと棘の鋭さが増して何かの具合に誰かを痛める結果にならなくもない。 うちにはまだ孫はいないけれどそのうち孫ができ、夏に裸足でこの辺りを歩き回るとこれが一番の危険なものとなるのは確かでもある。


ディンゴ (1991);観た映画、Sep. '16

2016年09月19日 04時42分48秒 | 見る

邦題; ディンゴ    (1991)

原題; DINGO


110分

オーストラリア・フランス映画

 
 
ジャズ界のみならず、全ての音楽シーンに多大な影響を与え続け、91年9月に急死した“ジャズ界の帝王”M・デイヴィス出演の音楽人生ドラマ。少年の頃“伝説のミュージシャン”ビリー・クロス(デイヴィス)と運命的に出会い、『音楽を志せ』と忠告を受けたジョン(フリールズ)。その言葉通りミュージシャンを夢みて行く彼だったが、今や妻も子もいるしがない中年になり、楽ではない生活を送っていた。それでもあの時の感動を忘れること無くいつかレコードを出す事を信じ、密かに貯金もしていた。そんな時、ビリー宛に出した手紙の返事が届き、いても立ってもいられず家族を残して彼の住むパリに旅立つのだった……。余りにも夢と現実が掛け離れた生活を送るジョンの、それでも夢を追い続ける男の情熱があっさりした中にもしっかりと描かれた、なかなか味のある作品。
 
舞台となるオーストラリアの風景もなかなか美しい。またマイルスとルグランの共同作業による音楽も二人の個性を生かした渋いスコアに仕上がっている。尚、マイルスは様々なコンサート・フィルム以外にも、TVシリーズ「マイアミ・バイス」の1エピソードに出演していたり、「3人のゴースト」にとんでもないメンバーでワン・カット出演していたりしている。芝居をしなくてもマイルスの存在感はもうそこにいるだけで名演物! 渋いゼ、マイルス!
 
上記が映画データベースの記述である。 本作のことは当時うすうすと聞いていたけれどマイルスが関係したのは音楽だけだと勘違いしていたしこの頃のマイルスはもう過去の人、創造性は擦り切れそれまでは果敢に音楽世界を切り開いていたものがその力も衰え果てたと見做しもうLPは買うまいと決めていていたからジャンゴに似た響きのディンゴには耳を通していない。 聴くのは50年、60年、70年代から 「We Want Miles (1981)」までぐらいだ。 けれどマイルスは自分をジャズに引きずりこんだ人だ。 いつか会って話を聴いてみたいと思っていたのに麻薬とエイズで本作が封切られた年に亡くなっている。 その後マイルスのバンドに70年代にいた人何人かとコンサートが済んでから楽屋で話す機会を得てだいぶマイルスに近づいたと思いつつも60年代から80年代初頭までのものを折に触れてあれやこれやと聴いている。 

先月帰省した折大阪岸和田のジャズ喫茶 Pit Inn で、そこは自分の高校の時の柔道部の顧問で数学のT先生のご子息が20代からずっと今ではもう滅び去ったジャズ喫茶を続けていてこの30年ほど日本に戻るとそこに行ってジャズを聴く。 今岸和田だんじり祭りが終わったところだが何万人と人が集まる駅前から50mほどの横丁にあるボロボロに朽ちかけたジャズ喫茶には法被に鉢巻の連中は入ってこない。 そこで10日ほど前にマイルスの話をしていて彼の若い時からの知人でマイルス研究の第一人者、マイルスの追っかけをしていた中山康樹が去年亡くなっていたことを知ってがっくりきた。 彼とは同じ時に同じところでマイルスのコンサートに陪席していてそのことを彼の著書で知りいつかは追っかけぶりとマイルスの人となりを直接聴いてみたいと思っていたからだ。 もうだいぶ前に You Tube でタモリがマイルスにインタビューした時の動画をみたけれどタモリの怯えぶりと焼酎のコマーシャルをやったマイルスが渋々そこにでていてその頃自分のLPジャケットに描いていたようなイラストをスケッチしつつ時間を潰していたたという風だったのを憶えている。 凄みのある気難しそうな態度に加えてあのしわがれ声でボソボソ話すのがタモリの萎縮ぶりに対照されて笑った。 そんなことを話していると出てきたのが本作の名前でずっと西部劇にスケッチオブスペイン風の音楽をやっつけでやったのかと思っていたものが音楽関連で自身もでていると聞いてオランダに戻ってから早速アマゾンで注文したDVDが数日後届きその日に封を解き観たというのが本作だ。

68年、乾ききったオーストラリアの集落の飛行場にジェット機が降り立ち村人たちが集まっているうちにジェットの腹が開きマイルス、いやビリー・クロスが立っていてやおら彼のバンドとともに奏でだす。 新しいもの、ファンクを交えたミシェル・ルグランの編曲だとすぐにわかるのだがそれがこの町の少年を虜にして集められる限りのLPを基に自己流でトランペットをやり出すという件は正当なものだ。 自分が今読み始めているマイルス自伝で彼がチャーリー・パーカーに虜になり追っかけをし自由奔放なパーカーとも一時期暮らし第一級の音楽を貪る若きマイルスの件にも似る。 それがその後乾いた台地で羊を襲う狼と犬の混ざった野犬(ディンゴ)ハンターとなりそのコミュニティーでロックンロールからカントリー、周りには理解されない自分の音楽をジャズ風にも吹いていつかは、と想いながら妻と二人の子どもを養い荒野でディンゴを追う。 そしてパリのマイルスに手紙を書き続けるがまだ機は熟さない。

アメリカのジャズメンとパリというのは縁が深い。 ドラムスのケニー・クラークやテナーのジョニー・グリフィンなどヨーロッパに住み着いたのを端緒として、例えばその当時の事情をバド・パウエルの話を基にデクスター・ゴードンを主人公に現役バリバリのジャズメンたちを起用して描いた「ラウンド・ミッドナイト(1986)」がある。 アメリカでの黒人に対する扱いがパリではその音楽で評価される環境ではアメリカに満足しないジャズメンたちが集まらないはずがない。 現にマイルスにもパリ時代があり芸術に接し実存主義のアイドルとも言われたジュリエット・グレコとの恋愛を経ての経験はパリが文化・芸術の都であることを認識しないわけはなく、それが本作での設定、パリに居を構えそのインテリアや当時のヒップな衣装に体現されているようだ。 マイルスを聴く人々からは多分本作の音楽とラウンド・ミッドナイトの音楽にはいうまでもない質の差があることはいうまでもない。 実際ラウンド・ミッドナイトのメンバーには現在ジャズの重鎮たちでありマイルス・スクールを卒業したサイドメンが並んでいることで明らかだしそれなら彼らが本作でバックを務めればよかったのにということもあるだろうけれどマイルスは91年にはもう自分の過去には居らずそのときの現在を生きていたのだ。 そういう意味ではミシェル・ルグランは世界に対して嘗て果敢に戦っていたマイルスの、今はもう擦り切れて過去の響きだけが残るサウンドを上手くスコアにしている。 ルグランのような達者だからマイルスはそのペンに乗って吹く気になったのかもしれない。 殆どの従来のマイルス好きは当時帝王ももう終わったと見ていて過去の栄光だけに踊らされる若者が港に引揚げる漁船の後ろに残った雑魚を求めて飛び回る鴎のようにマイルスに付いているように見える。 マイルスにはその時もうハンターである自分から港に帰る錆びた漁船になっている自分をどこかで意識していたのではないかと一瞬そんな想いがよぎる。 

本作のストーリーに戻る。 ここではドラッグも暴力もセックスやそれを巡る駆け引きも起こらず多少のスリルはあるもののフィーリング・グッド映画に仕上がっている。 それにある種のロード・ムービー、ドリーム・カムトゥルー映画であることの高揚感はあるのだがそれがジャズを聴くものには「いいこちゃん」映画に写り体を斜めに構えて、まあこれでもいいかという気分にもなる。 ある種のカタストロフィーの心地よさ、破壊願望まで迫る意識を矯めるところに不満を抱くのではないか。 主人公のハンター設定は魅力があり、そうして生きるところに自己完結性をも見いだせ、パリに飛ぶ前に追っていたディンゴに対して銃を構えるときに、ああこれは「ディア・ハンター(1978)」でデ・ニーロが鹿を狙うのと同じ設定だと思ったらそのとおりになったことでも主人公の前途を示唆しているように作られているだろう。 

マイルス(クロス)のセリフはどのようなプロセスを経てスクリプトとなったのか、またアドリブだったのか知らぬものの大人が才能ある若者を導くパリでの場面があちこちに配分されていて興味深かった。 そういう意味では伝説のマイルスを自身が演じていて気分は悪くなかったに違いない。 パリのクラブで吹く場面は本作の嚆矢だろう。 そしてディンゴはそういうバンドのトランペットとして娘の誕生日のために帰国する。 ディンゴの将来は開けているのだ。 嘗てのマイルス・スクールで鍛えられそれぞれ今も活躍するジャズメンのようになるのか、ディンゴ狩りのハンターとして暮らしながら吹くのか、テープを送って楽曲を提供するのか、それが70年代の可能性だが今では音響機器、IT関連技術に支えられどんな田舎にいてもコミュニケーションには困らない。 けれどジャズに限らずパーフォーマンスは生身から発せられるライブが命である。 何万キロも離れたところを素早く移動する手段はまだ考えられていないからその制限の中で我々は苦労する。 華やかなジャズメンの生活はさまざまな局面の中で楽ではないのだ。 そういう意味でジャズ史に燦然と輝く老いたとはいえカッコイイマイルスが見られる本作はマイルス好きには求められてしかるべきものだろう。

ディンゴを演じたコリン・フリールズは今まで何度かテレビで観ている。 BBCテレビは時にはオーストラリア映画を流すことがありそんな折に観たのだろう。 「マルコム・爆笑科学少年(1986)」で印象付けられて以来好感を持っている。 オーストラリア訛りの英語とその風貌に直ちに彼であることを思い出し彼の妻役のヘレン・バディに並んでいい配役だと思った。 

 






 

’16夏 アイルランドを歩く(5)徒歩第3日目、 Beare 島を西端から中ほどまでを周遊、15km

2016年09月19日 00時38分47秒 | 日常

 

2016年 8月 16日 (火)

7時半起床、宿の朝食はスクランブルドエッグに焼きトマトとスモークサーモン、紅茶。 歩くのでグルテン入りは厳禁だから美味いトーストは喰えず後は果物で済ます。 島にはいかず半島を北に向かって歩くドイツ人の青年と宿の玄関で別れ、歩いて1kmのところの港まで戻り目の前のBeara島に小さなフェリーで渡る。 定刻9時の5分前に波止場に着くと普通車が2台、そこに電話局のバンが来ると一杯になる。 客は10人ほどか。 島の港に着くと漁師が小さな漁船から朝荷揚げをしていた。 見渡すとカフェーが一軒だけで昼からしか開かない。 全長10kmほどの島には1830年には2000人以上が住んでいたものが今は400人ほどだそうだ。 幼稚園と小学校が合わさった建物が一つ、教会はない。 だから日曜のミサにはフェリーで20分ほどの先ほど来た町の丘に立派なものがあるからそこに行く。 ここには店が一軒もなく海が荒れれば教会にも買い物にも行けない。 この日は天気はそこそこだったので西端にある無人の灯台まで柵を幾つも乗り越え乗り越え羊に囲まれながら糞の続く道を歩き徐々に標高を上げ7,80mのところにある無人の灯台に来た。 柵はないけれど立ち入り禁止となっているけれど羊にも我々にも読めないことにして辺りを歩き回る。 立ち入り危険は灯台の縁まで来ると断崖絶壁で軽装、女子供に老人には危ないだろうからだ。 そこに来るまでに奇妙なことに今まで細い道だったものが急に大きいトラックが通れる石造りの道がここまで続いていた。 その道が始まるまでは幅50cmほどの径が数キロメートル続いていたものがこれだから不思議なのだがそれも謎が解けた。 ヘリで重機をそこまで運びこの広い道を辿ってこの灯台を作るために作られたのだ。 かなり坂になる500mほどの道路だけれど港の方からはヘリでは遠くもなくそこまで何もないところをこの高さの丘までの資材を運ぶのにはそれがベストだったのだろう。 だから灯台の資材は全て短い空輸で運ばれて来たものだ。 

この辺りから外海になり向かいはアメリカでここでは鯨やイルカが群れて見えるとガイドブックにあったけれど20分ほど眺めていても白い波頭をそれかと何回も確かめたがそれらしいものは見えなかった。 波が出始めていた。 漁船が港に戻ってくるのが見えその後には例によって鴎の群れが雑魚の残りを求めて飛び回っている。 ここからは明後日の夕に着く筈になっている半島の突端が見え、それに重なって今回二つ目に渡る島が見える。

そこから登り始め200mから250mほどの峰を歩くことになり丘から山登りで頂上の昔狼煙を焚いた塔の残骸があるところに来るとすでに海からの雲がかかっていて視界が利かなかった。 雨が降らないだけましなのだが麓の港や対岸の港も雲の間に小さく覗くほどでさきほどの景色とはまったく違ったものになっている。 霧の中を降りるとまた視界が戻った。 150mほど降りていた。 道も確かなものになり鞍部に標識があって大回りで東端までいくのと十字架が頂上にある峰に続く道が分かれており十字架の峰を選んだ。 この頃には娘はすでに我々の視界から遥かに消えて十字架のある山に向かっている。 目の前に聳える崖を登るのかと心配したがその壁を迂回して坂を上ると十字架の先が見えたけれど風が強いから我々は吹きさらしの頂上には向かわずそのまま東に進み山を降りた。 すると昨日の朝対岸から見えていた軍の基地が頂上にある山が見え間の鞍部がこの島の中心だと分かった。 島の中央だと示すのに3000年以上前に建てられた石のところに来るまで12,3km歩いた3時間ほどには誰にも会わなかったけれどそこで初めて人がベンチで休憩しているのが見えた。 近づいてみるとそれは3日前グレンガリフの宿屋で同宿したオランダ人女性だった。 訊いてみると我々とルートは違うけれど同じようなところに泊まりながら一人で歩いているらしい。 そのうち娘が別の峰の方から降りてきて我々に加わって情報を交換した。 彼女の宿は港近くで我々のように1kmも歩かなくともいいようだ。 彼女はこの島に渡るのが我々より大分後だったからもうすこし平らな島の東側を歩いて6時前のフェリーで戻るのだと言った。 

我々はここで昼食にして人家や廃屋が下に見えるあたりまで降り昨日歩いて来たルートを対岸に見ながら港まで何キロか歩いた。 半島である本土とこの島の間の水道に斜めに傾いたマストが二本海から突き上げていた。 難破船がそのままになっているようだ。 ここには何もないと聞いていたけれど途中に一軒B&Bのサインがあり頼めば飲食ができるようなカフェーも斜面の上の方に見えたけれど我々は2時間に一本の14:30のフェリーに間に合うよう最後の1.5kmほどを早足で20分ほどで歩いた。 波止場に着くと来るときよりも客が多く待っていたけれど車の容量は3台で来るときに一緒だった電話局のバンがあった。 10分遅れでフェリーは出て3時に港に着くと入れ替わりに島の住人が買い物をしたのかバッグを沢山持ち小さい子供たちがそれに続いて我々と入れ替わった。 一本しかない港のメインストリートにアイスクリームパーラーがあってそこには若い娘たちが屯していた。 我が家の女たちはケーキにコーヒー、自分はバニラアイスを掴み店の前のベンチに座って出ていくフェリーを眺めながら甘くて冷たいものを舐めた。 小さな店でこの辺りでは人気の店のようだ。 還暦をすぎた男女の4人組も隣のベンチでアイスクリームを舐めながら子供のようだと笑い合っていた。 そのあとパブやレストランのメニューを見ながら1km歩いて宿に戻りシャワーを浴び一休みしてから6時前にさてまた来た道をもどり夕食をと外に出ると小雨が降っていた。 

マッカーシーという名のパブがいいとB&Bの主人から聴いていたのでそこに入ると幸いなことに一つだけテーブルが空いていてそこに落ち着いた。 飲み物を聞かれたからマーフィー・スタウトビールを頼んだら向かいのパブからパイントグラスで持ってきた。 互いに自分のパブにないものを出前というか持ち帰りにしているようだ。 大体が夏だけの客が多いのだから冬になるとメニューにも穴が大きくあき、ビールの種類にしても経費削減でこうなるのだそうだ。 勧められるままにこの日のメニューの魚ハドック(コダラ)のグリルを喰った。 マッシュポテトにグリーンピースとニンジンの茹でたもの、に20年ほど前まではなかったサラダがついた郷土料理だ。 それにデザートにした苺を上に乗せた大きなメレンゲが甘くなく美味かった。 パブと言っても地元の人々、家族が来るレストランのようでここが済んで周りにあるパブでゆったり飲んだり音楽を楽しんだりするところのようだ。年寄りが多く来るこんな地元で流行っているレストランは経験上信頼がおける。 

食事を済ませて外に出るときオーナーが出てきて明日の朝10時にはこの雨は止むと言ったので明朝は予定を1時間遅らせて宿を出ることにして雨の中をまた1km歩いて宿に戻った。 12時前には夢の中だった。

 


青空マーケットから戻れば赤い実に蜘蛛

2016年09月17日 21時32分00秒 | 日常

 

昼前に起きると土曜日だった。 何もしなくてはいけないことも予定もなく膀胱を軽くするのに下に降りると息子がサンドイッチを作ってそれを牛乳で流し込んでいた。 涼しくなったからハーグからサイクリングユニフォームにヘルメット、安くない靴で始めた道楽のレース車で20kmほど走って我が家まで来てついでに喰い物を浚ってまだここから海岸線を廻って戻ると言う。 来週仕事場の連中数人でアムステルダムからザーンダムまでの18kmマラソンに出るという。 会社の宣伝のユニフォームを来て走り、出場すると会社の受けが良くなりそのうち点数があがっていいこともある、何回かマラソンをやっているけれど走り込みなしに走るのは初めてだというので30を超すと若い時と違うぞというとフィールドホッケーの試合はしょっちゅうやっているから心配はない、月曜に年寄りの手踊りを1時間ほどしかしないパパとは違うと要らぬ口をきく。

毎週土曜の昼飯代わりに青空マーケットで揚げた魚を喰うことにしているので腹に肉が付き始めている息子を放って自転車で外に出た。 自分が29の時170cm、83kgだったけれど30になってオランダに来てサイクリング車で片道10kmほどを毎日町と住まいを往復して1年経たないうちに63kgまでなったけれどあれが自分の生涯で最も体調が良かった時だった。 その後車に乗るようになってリバウンドし始め今は日本を出たときプラス1だ。 そんなことを思いながらいつもの濠端を走り家人から渡されたリストを見るとトマト、レタス、玉ねぎにライムを買えばそれで終わりだからそういうことを後回しにして久しぶりにムール貝の揚げたものを大蒜入りのタルタルソースで喰おうと思った。 昔はムール貝は R のつく月に出ると言われていたけれど今では世界中から輸入ということもあるから1年中困らない。 昔の言い方に従えば3,4,5,6,7、8月と途切れていたものが9月に出るのだが今では1年中喰っている。 痛風には甚だよくない喰い物だしそのあとのビールもよくはない。 いつものカフェーにいくと中は空で外のベンチに常連が2,3人坐っていてハイネケンの壜をもってもう一つのベンチに座るとカフェーの客以外はお断りと紙片が貼られていた。 このベンチは前を絶えず流れていく人を観ながらチビチビ飲むのに最適であり買い物をしたあとや揚げ魚を喰った後その脂をビールで流すことにしている。 常連の一人が電動移動椅子に空のビールケースを二つハンドルと椅子の間に置いて座っていた。 長くは歩けないので一週間に2回こんなふうに使っているのだと言った。 このあいだまであちこちでせわしなく歩いているのを見たのにこれだ。 ゆっくり1本啜っている間に数百人がいろいろな格好眼差しで目の前を通過していくのだが今日は誰も見知った者は通り過ぎなかったようだ。

買い物かごをぶら下げ幾つもある八百屋を見て回ったがライムは見当たらないから仕方がないので一番高い八百屋で買ったら3個1ユーロ、115円相当だった。 旨そうなマスカットがあったのでそれも買い5,600円ほど払っただろうか、いやマスカットを買ったのだからそんなはずはない、1000円あたりだろう。 ナッツを売る店で好きなイタリアのヌガーがあるかいつも見ているのだがどうも無さそうで年寄りの気のよさそうな主人に尋ねるとあると言い、二つ重ねの下から出してきた。 このところの暑さで柔らかくなっているからちょっと安くすると言って5%引きの400円だった。 これだけで食後のコーヒーが美味くなる。 賑やかなマーケットでは八百屋から離れるとき犬を踏みそうになるしナッツ屋では2つ3つの女の子があれが欲しいを駄々をこね地面に横になり汚れた縫い包みを振り回していた。 自分の身に起こると面倒だが見ている分には飽きない。

4時前だしまだジャズカフェのライブが始まるまで30分ほどあるけれどどんなグループが出るかポスターを見て面白くなければ帰ればいい、とカフェーに来るとピアノの音が流れていてラジオや有線でもないので中に入って日曜と同じ舞台の前に坐った。 カウンターに2,3人、店の前のテラスに6,7人でガラガラ、先週のように演者の犬もいない。 知っているホットハウスというバップ創世記の曲をアレンジしながらやっているので聴こうと思いジンとコーヒーを注文して1時間ほど聴いた。 休憩中に話すとベースはギリシャ、ピアノはコルシカからハーグに勉強に来てやっと卒業したところのようだ。 姪の連れ合いの喰えないジャズピアニストの名前を言うと僕らが入学した時に優等生で卒業したという。 けど喰えないから第二次大戦オランダ解放の英雄たちと題する国威発揚ミュージカルの音楽監督をしているのだが義姉の話ではまだ1年はこのミュージカルは続くらしいからなんとか行けるのだろうけどその先どうするのかね、というのを聞いている。 共通の知り合いの話をさっき買ったマスカットを摘まみながら話していると次のセットだからというので店を出るときに、前の日曜にはまともに聴いているのは二人だったんだぜ、今日は一人だな、というと、まあ金貰ってやって好きなことやっているからとブツブツ言いながら舞台にもどる時遅れてやってきたドラムスがのこのこビールを片手に彼らに続いた。 もう夕方なのにそれほど涼しくはなかった。

この3日全く同じ半ズボンにペラペラのチャラいアロハシャツでいて温度が8度ほど下がっているのにそれほど涼しく感じないのは空中の湿度だと雲が出た空を見ながら裏庭へ続く引き戸をあけると赤い実が色付き始めた前に蜘蛛が巣を張っていた。 赤い実は蘭名 Vuurdoorn (直訳;火の棘)、和名 トキワサンザシで、前にこの火の棘木のことを調べてここに載せているはずなのに出てこない。 だからネットの検索、グーグルというのはこんなとき助けになるものだと今更ながら思った。 蜘蛛の名前は知らないし検索する気にもならないからそのまま裏返ったままにしておく。