暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

クリスマス料理講習会 (2)スープ   オニオンスープのパイ

2017年12月31日 09時57分16秒 | 喰う

 

(2) スープ

玉葱スープのパイ焼き

 

輪切りにした玉ねぎを十分なバターで炒める。 そのときスターアニス(八角)を加えるのを忘れない。 しなっとなったらそのまま弱火で30分ほど炒める。 水を加え焦げ付いた底を木べらでこそげてバターを充分加えて145度のオーブンで2時間暖める。 この作業中にデザートに使うマフィンを作る作業を同時進行する。 白ワインとブイヨンをスープに加え半時間弱火で温める。 火を止め暫く冷ます。 冷めたところで小さめのパイ焼きカップにスープを入れ、縁に溶いた卵黄を刷毛で塗る。 パイ地をカップに被せ縁を押さえて丸く切り取り上部に卵黄を塗り刻んだグリュエールチーズを振り掛け、200度のオーブンで18分焼く。

パイの形に焼くのには時間はかからないがスープを作るのに時間がかかるのであらかじめ事前に充分時間を取っておいてスープを用意する。 尚、料理教室では予め講師が用意しておいたスープを使ったので楽だったが、のちほどのデザートに使う小さなパイ、というかナッツの入ったマフィンを生地から捏ねてオーブンで焼く作業を同時に行った。

家族のクリスマスのディナーではこのスープは登場せず、娘が家で作って持ってきたカボチャのスープを暖めそれに生クリーム、バジリコを添えたものをイタリアの小さなパン、イタリアの白ワインで摂った。


クリスマス料理講習会 ’17 (1)前菜 鳩の胸肉とホタテ貝

2017年12月29日 18時21分48秒 | 喰う

 

 

大学職員共済組合主催のクリスマス・ディナー料理講習会に今年も雪の中3km歩いて参加した。 6組ほどの参加者にはこの何年かで顔を合わせた人たちも子供のクラスメートの両親もいてシェフ・コックのルシアンの威勢のいい指導の下、午後7時から11時半までルシアンの模範実技を観てはそれを真似て造り、出来たものを長いテーブルに持ってもどりワインとともに喰い、喋り、次のコースを造るためにキッチンにもどり云々とそれを繰り返した。 今回は前菜、スープ、本菜、デザートという4つをコース・メニューにしたものだった。 クリスマスは今はとっくに済んでいるけれどそれを今後の記録として残すためにこれから4回にわたり思い出しながらぼちぼちと記そうと思う。

先ず前菜である。 

鳩の胸肉、ホタテ貝、キャベツのソテーに燻製の赤蕪、 周りにバルサミコ酢のゼリー、上に千切りセロリ玉の揚げ物

主人公の鳩の胸肉は一羽から左右二枚削ぎ取り、サラダオイルで片面それぞれ2分ほど焼いてキツネ色に色づけば別皿に5分ほど寝かせる。 そして80℃ほどに温めたオーブンに寝かして肉の中心が50度までいかないように注意して温める。 その間に、塩コショウ、バターで炒めたキャベツをベッドにして傍に赤かぶのペーストを添える。 赤かぶは皮付きのまま塩を敷いたプレートに乗せ200℃にしたオーブンで1時間ほど暖める。 そのあと皮を剥き5分から10分ほど燻製器で燻す。 その後ブレンダーに入れ、少量の塩コショウ、植物油、バター、バルサミコ酢を加え滑らかに潰す。 その潰したものをキャベツの周りに配する。

コキーユ(ホタテ貝)は塩コショウ、少量のカレー粉を振り掛け植物油で両側それぞれ2分ほど焼く。 一人一個で焼きあがったら水平に半分に切る。

キャベツのソテーをベッドにしてその周りに燻製の赤カブを配し、胸肉を斜めに削いでソテーの横に寝かせる。 ホタテ貝をキャベツのベッドの上に置きその上に予め揚げておいた千切りのセロリ玉を盛り上げてバルサミコ酢と生姜シロップを混ぜたドレッシングを振りかけ周りにバルサミコの小さなゼリー玉を散らして出来上がり。

ホタテ貝はデリケートな味なのだが鳩の肉にはソースが要るかと思案したが柔らかく、ソテーや燻製の赤カブ、バルサミコのジェリー玉などと合ってソースは不要だった。 我が家の本番ではコースメニューに鳩に肉は少々量が多くなり、また他とのバランスで重く感じるのでここから省いてホタテ貝だけを主役にして前菜とした。


クリスマスツリーを仕舞わねばならないのだが、、、

2017年12月28日 19時47分36秒 | 日常

 

今年のクリスマスも恙なく済ませ、歳末に向けて準備を始める時期になっているのだがクリスマスツリーはそのままに放ってある。 急に華やかな明かりが消えると夜更けの居間が侘しく肌寒く感じられるからで何ならそのまま年を越してもそのままにしておきたいぐらいなのだがあと何日かしたら畳んで屋根裏まで持って上がりまた来年までそこに放っておくことになる。

クリスマスの期間に週2のジムの内1回休んで今日また再開した。 すると1回だけなのにその影響が明らかだった。 ボート漕ぎで息が切れる、ベルトコンベヤーの上を時速6km、傾斜4度で6分、600mほど歩くのだが遅れそうになる。 低い台を左右に跳び越していると足が縺れそうになる、等々。 バレリーナや音楽家は1日練習を休むと自分で分かる、3日休むと観客が分かる、と言われるが、烏滸がましくも自分をそんな人たちと同等に並べてみる。 こんな体験は今までしたことがなかったからなるほどと思った。

大晦日にオランダにいれば義弟の家で夜から元旦にかけてパーティーをやるのでそこにでかける。 そこに来る家族はそれぞれなにやかやとつくって持ち寄り、それで一晩飲んでは喰い、わいわいと過ごす。 もうこの20年ほどちらし寿司と稲荷寿司を人数分つくってもっていく。 20年前には寿司にはまだ慣れなかったものが近頃は待たれるようになっていて日本に帰省した年には後で寿司が恋しいとも言われたりする。 さっき連絡が入り参加の人数が20人ほどになるとのこと、子供たちの巣離れが進むと嘗ての半分ぐらいになってしまった。 とはいってもその準備をぼちぼち始めなければならない。


クリスマスのミサに行った

2017年12月27日 23時30分19秒 | 日常

 

クリスマス・イヴに夕食後10時からのミサに出かけた。 夫婦とも信心はないのだがクリスマスとイースターの時期に教会で一般に開放しているミサがあると出かけている。 この30年ほど教会離れが顕著にみられるオランダではあるけれど西欧文化の根幹をなすキリスト教の祭りである。 子供たちが小さい頃これらの時期に教会に連れて行き子供用のクリスマスのミサなどを経験させている。 信教の自由が保障されているオランダにあって南部ブラーバンド州やリンブルグ州はカトリック、残りの部分はプロテスタントと地形でいうとそんな旧教、新教文化の色分けができるのだがけれどどの町、どの村にも大抵少なくともカトリック、プロテスタント2派の3つの教会があると言われている。 カトリックの教会にはマリアやキリスト、聖者の像や絵画があり、一方プロテスタントの教会は像も絵画もほとんどなくカトリックの教会と比べるとどちらかというと簡素な印象を与える。 プロテスタントの大伽藍でステンドグラスなど殆どない内部に入るとその抜けるような明るさが陰影の多いカトリックの教会とそれぞれの宗教観の違いを示しているようでいい対称になる。

ライデンには二つの大教会があるのだが元々はプロテスタント教会だったものが何時頃からか市の管理となり宗教色は残しながらも今では多目的文化ホールとしても貸し出されており、代表的なピーターズ教会では大学の試験会場や企業、団体のディナー会場として使われることもあり、毎年のクリスマスのミサには多く人を集め事前に予約しておかなければ無料切符は手に入らないくらいだ。一晩で5000人以上集めるだろうか。 子供対象のミサもあり、夕方7時から1時間ほど催され我が家の子供たちも小さい時は何回か行ったことがある。 うちの近所には2か所ほどプロテスタントの「専従」教会があってそこにも行ったことがあるけれどそんな場合は内輪のものたちの集まりに外部のものが少数訪れるというような趣があった。

今回は内部には色々な催しで何度も訪れたことのある Hoogelandsekerk、 英語で言うとハイランド・チャーチのミサにでかけた。 ピーターズ教会程大量に集まらず年寄りの多い宗教心の厚い人たちが集まるミサのように見受けられた。 プリントされた讃美歌が沢山集められたものに従って合計1時間以上教会のパイプオルガン、ピアノ、ヴァイオリン、オーボエと聖歌隊のコーラスに合わせて歌っていただろうか。 讃美歌はキリスト誕生前後の話を辿り、地上から消えない争いが収まり魂の平和を希求するストーリーをなぞったつくりに組まれ、牧師の説教を交えたものだった。 最後にはパンとワインの施しがあるのだが我々は無宗教なので前にはでなかった。 広い教会を正面4分の1ほどだけ仕切って300ほどの椅子を置いた地味なミサだった。 


土曜の青空市場で

2017年12月23日 11時35分53秒 | 日常

 

毎週の如く土曜の青空市場にでかける。 まだ子供たちが小さい頃は大きな買い物袋を両手に背中のリュックサックにも一杯ものを買いこんで重い自転車を漕いだのだが、子供たちも家を出て夫婦二人だけになると日常の買い物の量も驚くほど縮んでしまい、それに加えてそれまでは土、日に加え週日の一日が食事当番だったものがこの2年ほどは土日から月、火、水、木と週4に変わったのでここに来るのは食材の買い物をする必要もなく、単にブラブラするだけで、そのついでに魚屋で揚げてもらった白身の魚を立ち食いしながら昼食にするだけのことだ。 その後、市立図書館で何かを飲みながら新聞や雑誌を読み、近くの古レコード屋で駄弁ったり本屋やギャラリーを覗いたりするぐらいだ。 

そしてこの25年以上ほぼ毎週買い物をしていた青物市場のテントにも前は通るけれどほんの少しの目ぼしいものぐらいだけしか買わなくなっている。 自分の当番の時は食材はほとんど行きつけのスーパーで済ませ、ここでは新鮮な生シイタケや大根ぐらいを偶に買うぐらいだ。 今では手ぶらがほとんどだ。 20年以上もここに毎週来ているとそこで働いている人たちの顔も覚え、その人たちとは物、金のやりとりぐらいでしか会話がないけれどまるで知り合いのような気持になっているし、この年月で彼らの顔貌にも変化があるのを知覚する。 どこの売り場にも必ず中学校をでたてぐらいの若い男女がいてそれが6,7年のうちに青年になり、そのうち離れていくのがルーティとなっているのだが、青年だったものが中年になり壮年になるのをみるとその者が店の持ち主かボスであることもわかる。 或る時そんな壮年の男が別のテントに立っていることがあって仲間同士の融通を利かして手助けしているのか、と思えばそのままそこに居ついていたりすると、ああ、この男は前いたところの持ち主ではなくて単なる責任者で何かの理由でここに変わったのだな、何かまずいことがあったのか、給料がこちらの方がいいのか、とそんな勘繰りも湧いてきそうになる。

もう20年も前にこの一角にジャガイモと玉葱、大蒜だけを売るテントがあった。 何種類ものジャガイモとネギの売り場ではよれよれになった背広を着た老人とその孫と見える小学生ぐらいの少年が他のテントとは少し様子が違って土だらけになって売っていたのだがあるとき、その店が消えてそのときにはもうそろそろ高校生ぐらいになっていた若者は別の青物市場のテントで働いており、この市場のある種の近代化、効率化が済んだような気がした。 老人は定年したか亡くなり、少年は他の仕事に就くこともなく今も青物を売る仕事に就いている。 

こんな青物市場の変遷も継続的に眺めていると色々なことが浮かびあげって来るように見える。 或る時、町のジャズカフェーのセッションに行くと見たことのある若者がドラムをたたいていた。 休憩の合間に声をかけると向うもこちらを認めて、話を聴くと韓国からハーグの音大にジャズを勉強しに来てアルバイトで土曜の青物市場に立っているのだと言った。 そのテントは自分が買うテントではなかったのでそこを通ると声をかけるぐらいだったのがそのうち市場に立たなくなった。 別の場所で会った時にそのことを訊くとちょっと売れてきたのでアルバイトをしなくてもよくなったと言った。 ジャスメンは儲からないのだが青物を売るアルバイトはそんなに安いのかとちょっと驚いたのだがどちらにしてもちょっとなら自分の好きな方に向かうのが当然なのだろう。


2%, 一口50ml ほどで酔ってしまった

2017年12月22日 09時52分06秒 | 喰う

 

義弟の誕生日の集まりに出かけた。 この何年かで段々こじんまりとしてきてもうパーティーという雰囲気はなくなってきている。 それは我々が老齢化するなかで段々家族の主な者だけが集まるようになり若い者は義弟の子供たち、孫たちだけであとは義弟の兄弟、友人にしても全て還暦を越えた者たちばかりだからでもある。 もうこんなことを30年以上も繰り返しているのだから義弟の友人たちにしても髪が薄くなり腹がとびだしているのをみると彼らの若い時のことも思い出し、それはある意味自分を鏡でみるようでもある。

髪はそうだとしても腹は5月末の胃の手術で8割がた切り取ってから体重が減り今の毎週2回のジム通いで体が締まり自分は彼らから一線を引いている。 自負しているというわけではないのだが自然にそうなったのだから仕方がない。 幸いなことによく聞くように食餌の量が少なく一日に5回も6回も小分けにして食事を摂らなければならないということもなく、一日3回、若しくは4回で済ませている。 元々の大食いは資質として残っているけれど流石2割の胃では元のようにはいかず下から持ってきて繋いだ腸を無くなった胃の代償として訓練している。 それによってこの2か月で徐々に量がこなせるようになってきたと自覚している。

義弟が、何を飲む、ノンアルコールのビール擬きがあるけど、というのでそれを頼んだ。 喉が渇いていたので大きな一口で30mlほど飲んだ。 手術後は水にしても何にしても液体をまえのようにゴクゴクと一気に飲み干すということができず、たとえジムのあとの汗まみれの体でも少量でしか飲めず、体もそれでいいと言っていた。 それも小さな胃の許容量がそうさせていたのだろう。 それがこの1か月ほどで食事中にグラスに入った水を飲むのにゴクゴクと飲み込んでいるので自分でもこの変化に驚いていた。 そしてこのノンアルコールのビールだ。

何週間も前に娘が持ってきてくれたノンアルコールのビールをジムの後に飲んでいたことがあった。 アルコール分0.5%未満とあって、正確に言うとアルコールはないことはないのだがノンアルコールと見做されていて飲んだあとにはアルコールの影響は全く感じられなかった。 それがこのノンアルコール・ビールである。 たった一口、50mlほどであるのに話しているうちに酔いが回ってきてまるでウイスキーを飲んでいるかのような酔い心地だった。 妙だと思って義弟に壜を寄越すように言い、持ってきたものをみると2%の低アルコールビールとあった。 レモン味の人工果汁を加えたラドラー・ビールというものだ。 5%ほどが中心だけれど10%あたりまであるビールを色々な人工果汁を混ぜて低アルコールにして若者や車を運転する者向けに発売しているものだ。 昔ビールにコーラのようなものを混ぜて3%ほどにしてシャンディーとしていたイギリスの飲み物の変種だろう。 今スーパーの棚にはこのような変種が数多く見られビールとノンアルコールの間に居場所を広げているのだろう。 若者、娘たちにも広がっているに違いなく、娘たちはその後白ワイン、カクテルに行くだろうし、兄ちゃんたちは甘い物なんか飲んでられないとビールに向かう。 今日もここに出たのは年寄りたちでまだ車に乗るのだから、それにビールではアルコール分が高すぎる、という者たちにじゃレモネードにアルコールの香りがはいっていればいいのだろうというそんな「配慮」からテーブルに並べられたのだ。 勿論こんな爺さんたちはうちでは皆「本物」のビールでありスコッチであったりする。 近所の自転車で来ているものはスコッチを啜っているし自分では運転しない女、婆さんたちはワインを飲んでいる。

1月に胃癌の末期であると分かってからアルコールは口にしていないからほぼ1年、手術後半年の現在、今日初めてアルコールを意図せず口にしてその効き目に驚いた。 それはただ単に慣れていなかったから効いたということでもなく、胃が殆どない上にすぐ腸に廻って今まで以上に効果的であったということなのだろうと思う。何とも経済的なものか。 大学時代の友人にアルコールはいくら飲んでも酔わないから飲まないという者がいた。 それは遺伝で彼の父親もそうだったようで酔わないということはないのだろうが期待するような酔い心地はいくら飲んでも訪れないから飲んでも無駄だと言っていたような気がする。 今の自分はそれの全く逆方向に向いている。 2%、50mlでこれなのだ。 結局1時間ほどで一本分330mlを飲んで1時間半かけて冷まし歩いて駅まで戻り1時間ほどかけて夜中のバスに乗って帰宅した。


Viburnum davidii と言われても、、、サンゴのようなものならなんとか、、、

2017年12月19日 17時27分51秒 | 日常

 

散歩に出た近所の庭に陽射しの中で一際その赤と青の色が際立って見える茂みがあったのでそれにカメラを向けた。 実は青く綺麗だったのだがその実を支える枝とは言わず柄 というのだろうか、その赤が際立っていてそれが何か赤いサンゴのように見えた。 

家に戻ってから名前を探すににグーグルにオランダ語で winterbessen(冬の実), Blauw(青) と並べて入れて検索し、出てきた沢山の画像の中から同じものをとりだしてみると Viburnum davidii とあった。 尚、何百と言う画像の中に検索には青と入れたのに赤の実が殆どだったのだがそれも多分「冬の実」に曳かれて出てきたのだろうがここでは青といういう制限が効いていないようにもみえた。 viburnum というのは「ガマズミ属」で「レンプクソウ科」「スイカズラ科」の属の一つとあった。 聞いたことのない名前の多い中でうちの庭にも頼りないけれど一株だけあるスイカズラが出てきて何とかとっかかりができたような気がしたのだがウィキペディア日本版で代表的な種のなかに vibunum davidii はなかった。 英版の説明では中国西部の原産、19世紀のフランス人宣教師、植物学者の Armand David に因んだ命名であると記されており、また中国版では四川省などの海抜1800mから2400mのところに自生する、ともある。 それはともあれ、こういう知識は老齢の自分には今の瞬間だけのものでありラテン名は勿論、ガマズミ、レンプクソウなども頭には残らない。 何百とある画像の中でつい最近ここに記した「ムラサキシキブ」は忘れないものの、数週間前に記して今ではもう赤い実も落ちてしまった庭の「イチイ」の名前さえ忘れてしまって自分の日記を繰りなおさなければ出てこない始末だった。 今日のこれも像の印象は残るだろうけれど名前はもう数時間後には自分の記憶から消えてしまっているだろう。 あの、あれ、それ、あの青くて柄が赤い、、、、というような、どうにもならないことになるのは分かっている。 

けれど、この「ガマズミ属」の中に「サンゴジュ(Viburnum odoratissimum または Viburnum odoratissimum var. awabuki)」というのがあってここにきて何とか取っ掛かりがついたような気がした。 最初の印象である「サンゴ」が名前となって出ているのだ。 それになんとか日本名のようなアワブキまでついている。 このサンゴでなんとかこれからも正確ではなくとも似たような仲間として名前が定着するような気がする。

とはいうものの、サンゴジュで検索すると「樹」がでてきて Viburnum davidii の低木・茂みではなく、実の形も柄の様子も Viburnum davidii とは同じだけれど実の色が赤で、実も柄も両方とも赤ではなんだか絵に締まりがなく初めの印象のサンゴの枝ぶりが実の赤に押されて弱くなりごく普通のものとなる。 けれど自分が記憶になんとかこれを留められる縁になるのはこの「サンゴ」だけであるからこれにしがみつくに越したことはないだろう。 近い将来この名前を思い出すには「サンゴ」がキーワードになるのだろうがそこで行き止まりになり Viburnum davidii には届かない。 だからここに忘備録として記すのだ。

尚、viburnum「ガマズミ属」は オランダ名で sneeuwbal (雪の玉)である。 その種の一つに Viburnum plicatum (Japanse sneeuwbal)の画像があり、名前に「日本の雪の玉」とまで書かれていてその和名は「ヤブデマリ(藪手毬)」とある。 こうなるともう形は雪の玉ではあり、ほとんど紫陽花であり、それなら和蘭折衷の「日本雪手毬」とでもすればいいような気もする。 もしそうすると、雪だから白で、手毬なら色々なバリエーションがあるから白以外にも色のバリエーションがあるからこの組み合わせはどうかという者がでるのだろうか。 今時は雪にも妙な色がついたのもあるぞと誰かがいうともう訳が分からなくなる。 サンゴのような赤い柄と青い実の興味深い Viburnum davidii からほぼ紫陽花まで来てしまった。

https://nl.wikipedia.org/wiki/Sneeuwbal_(geslacht)#/media/File:023-Viburnum_plicatum.tif

散歩していて眼につくものをカメラに収めて後ほどそれが何なのか名前を探ることを道楽にしている自分の記憶の弱さは別として、ラテン名、英名、和名、オランダ名と関係を繰って辿っていくとまるでジャングルに迷い込んだようなことにもなりかねない。 互いに絡まり合った手がかりの無いような名前の中、それがちゃんと理路整然と関係を明らかにして行くのがこの場合植物学的分類作業なのだろうが、十全でないネットを手繰って素人が便利だからといって入り込むとすぐジャングルに迷い込んだようなことになり、そのうち何が何だか訳がわからないようなことになって耄碌爺さんは路頭に迷う。 若い時のように記憶がちゃんとしているのならばその記憶を頼りに後戻り、どんな脇道にもちゃんと出たり入ったり出来るのだろうが今はすぐにつかえてしまう。 若い時は今のようにこんなことに興味も時間も、また辛抱もなく、別のことに頭がいっぱいでこんな年寄りの散歩には鼻もひっかけなかったのだから皮肉なものだ。

Viburnum davidii、 Viburnum davidii、 Viburnum davidii と繰り返しても覚えるわけではなく、子供のころ英語を習い始めた時にはいちいち当時はまだボールペンもなかったときだから鉛筆で何回も何回も手書きをして覚えたものだ。 今それをやっても覚えられるとも思わないのでそれもやらず、キーボードの上でただ無駄にコピペを繰り返し中国に行ったフランス人宣教師のデーヴィッドがこの青と赤の鮮やかな低木を眺めている像を微かに定着させようと虚しく努力しているのだが、、、、。 



牧草地を通って14km歩いた

2017年12月18日 02時34分56秒 | 日常

 

朝食をほぼ食べ終えた時に家人が、天気がいいから歩かない、とこちらに水を向けてきた。 いいね、それじゃ天気の変わらないうちに行こうか、と立ち上がりかけたけれどパンを既に喰っている。 だめだ、すぐには行けない。 運動や力仕事をする前に小麦製品を摂ったらそれがアナフィラキーショックの原因になるのでそれを避けている。 だから3,4時間後の午後に出発すればいい、と間に休憩を充分とって午後1時に家を出た。 西の空が少し曇り始めてはいるけれどまだ3,4時間は保つだろうとふんだ。 背中のデイパックには水と常備薬の他にポンチョを入れてある。

外に出たはいいけれどどこに行くかは決めていなかったので取敢えず近くの自然公園に行ってから考えることにして運河沿いに歩きはじめ、公園に入って林の辺りを歩いているとそのまま向う側に抜けて地方の産物を売っている店でトリュフ入りのチーズを買おうと思った。 そこまでは自宅から4kmある。 この前もそのルートを通り左に折れたのだが今度は産物直売場の裏から牧草地の端を堤に沿ってあるく「農夫の道」ルートの表示があるのに気付きそれを辿ることにした。 道も何もなくただ牧草地の端を土手に沿って何キロか先にある自転車が通れる道まで今はこの間からの雪が解けてビチョビチョ・ジュルジュルになっている堤に沿って歩き続けるルートなのだ。 人が殆ど通っていないので何もないがただ見通しがいいのでまっすぐ行けばいいだけだ。 農家の牧草地は短冊形の長方形で、隣の牧草地とは2mほどの幅がある水路で隔てられていて大抵は200mから400m程の長さ、幅が20mから50mほどなのだが我々が歩く側には牛や羊が他の土地に行く通路がない。 ただ堤が続いているだけで短冊形の隣り合った土地を束ねるのが運河の堤なのだがその短冊形の土地の境には隣との境に柵を施してある。 そんな柵がほぼ50m毎に先にいくつも見えるわけだ。 それを次次に乗り越えて向うまで歩く。 

人が通ったような小路も見えないけれど柵が見えてその柵には散策する者のために乗り越える足場が必ずついている。 もしついていなければ、そして扉がなければそこは通ってはいけないわけで遠くからその足場を見ながら歩く。 人は歩いていないけれど牛や羊はこの堤が好みなのか堤に沿って歩いた跡が見える。 雨や雪の後人や動物がこういうところを歩けば泥濘になる。 堤だからいいけれど農地、牧草地になると水浸し、泥だらけになって靴が踝あたりまでめり込む恐れもある。 だから草の生えている堤は比較的歩きやすいというべきだろうが羊が歩いた程度なら小さな蹄なのでどうということはないけれど牛ならば大きく体重もあるので泥濘が酷く柔らかくないところを選ぶのがなかなか難しく結局踝までめり込むことはなくともかなりのところまで靴をめり込ませて泥だらけにしてしまった。 この何日かの寒さでここでは羊も牛もそれぞれ厩舎に入れていたので動物がうろうろしていなくて助かった。 気候のいいころに歩くと寄って来る牛や羊を避けて歩くのは厄介ではあるし、増してやこんな泥濘に集まる動物を追い払って柵までたどり着くのは冒険でさえある。 何年も前にイギリスとスコットランドの境目を何日か歩いていて一日の終わりごろにそんな牧草地で柵の前に種付け牛がいて危ないので通れず2キロほど迂回し疲れている上にこんなことで余計に歩かなければならないことにうんざりしたのを覚えている。  

雨は降らなかったけれどぬかるんだ牧草地を3,4km歩いただろうか。 あとは自転車道とか舗装されていない歩道を辿って4時ごろに帰宅した時には空も大分怪しくなっていた。 ネットのソフトで今日歩いた距離を測ったら14kmになっていた。 手術後徐々に歩いて来て今までの最長が13kmだったので今回が新記録だ。 そのときと比べてもこの日の疲れ方はそれほどでもなかった。 この分では手術前の20kmにはまだ届かないかもしれないけれど普通に15kmぐらいは行けるのではないか。 トレーニングの成果がこんなところにも出ていると思った。

 


樋口一葉 著 「たけくらべ」を読む

2017年12月16日 20時34分50秒 | 読む

 

 

樋口一葉 著

たけくらべ  

初出 1895年1月 - 1896年1月 「文學界」

現代日本文学全集 4  P256-P272 

筑摩書房 1956年刊

 

幾つもの本を並行して読んでいる中で、何故今樋口一葉なのか、という問いには、何故今夏目漱石なのか、という問いにもひっかかるものでもあり、若い時には一応一葉にも漱石にも目を通していてそれぞれ書庫の奥に文庫本として埃をかぶったまま眠っているのをうろ覚えに記憶しているものの、何故、といわれるとそれに対する明らかな答えは見つからない。 ただ言えるのは自分がこの半年ほど病床にあって落ち着いて読める長い物の手始めに橋本治の「窯変源氏物語」14巻を読んだことが呼び水になっているのは確かだ。 けれど、それではそれが漱石、一葉にどうつながるのかというと何とも繋がりが薄いようだし脈絡も見えない。 ただ、漱石、一葉は明治の代表的な文学者であり双方のキャリアが際立って対照されること、漱石の兄と一葉がもしかして婚姻関係になっていたかもしれないけれど一葉の父の金の無心が激しかったのでその話も立切れになったことを後付けすれば取って付けた詰まらないトリビアルな関係にもならないことはない。 漱石は幾つか読んでいたけれどそれが心の奥に残らず、なぜ文豪と呼ばれるひとの神髄が自分のこころに残らないのかを自分の感受性、世界、人間に対する理解不足として半ば諦め気味にしていたけれど自分が人生の秋から冬に分け入っている現在今度こそ何か掴めるかと試みるものとして再読しているのだ。 そして中途半端に放っておいた「こころ」をなんとか読了してもまだすっきりしないものがのこるまま「虞美人草」や「草枕」を読んだ。 そこでは男の考えることはなんとか分かるものの登場する女たちの方に曳かれた。 「こころ」の女については保留、「虞美人草」の女については憐憫、「草枕」の女にたいしては自由闊達の感をもった。 

自分は男より女の方が好きで女という存在により興味がある。 江戸時代の色の道に、男がその道を究めるにあたり行きつくのが「衆道」であるとあった。 けれどそれは女を経験してこその色の道の一つ、ゲイでなくてはならないというものでもなくそれはバイ・セクシャルの態度なのではないのか、それに人生の早い時期もしくは青年期以後ゲイやバイであるという自覚は自分にはない。 怠惰な自分は「衆道」を経験することもなく多分このまま生涯をおわるかもしれない。 興味としては男が好きになれるのかどうかは例えば「ベニスに死す」の原作も読みもし、映画も観もしたが文章や映像に描かれている男には魅力は感じなかった。 それはヴィスコンティがゲイでありトーマス・マンがゲイでなく、自分も多分ゲイでないということに関係があるのかどうか。 偶々自分は身も心も持って行かれるような男に出会わないだけだったかもしれない。 けれど自分がゲイでないとしたら、そしてもし自分がゲイであったとしても自分とは違うジェンダーの「女」というものを女が好きな自分はどう捉えればいいのかいつも思っていた。 それは高校生のときに齧り読みしたボーボワールの「第二の性」以来であり、それが更にウーマンリブ、フェミニズムと続くその関連の中でここにきて川上未映子の作に行き当たったということがある。 川上の作で初めて読んだのが「ウィステリアと三人の女たち(2017年)」でその後「「苺ジャムから苺をひけば(2015年)」を読み、川上が明らかに現代のフェミニスト作家の一人であることを喜んだ。 実際川上の創作に接するまえに川上の対談集に接しそのなかで樋口一葉の文が読めない、といっているところに引っかかったのが本作を読む切っ掛けになっている。 

書庫のどこかに埃をかぶって眠っているはずの「たけくらべ」だから若い時に読んでいたのは確かで、源氏の原文は読めないものの明治の文なら当時から現代語訳もなくそのまま読んできたはずだし、それなら自分はどのように不明なところを飛ばし読み、垂れ流し笊読みをしていたのかとそれを確かめるために今回再読したのがきっかけである。 実際、川上が読めないといった陰には川上が「たけくらべ」を新訳するプロセスにあたって明治の世界から我々が如何に離れているかというところを指しているものと解釈した。 彼女は今時の18ぐらいの小娘、ギャルではないのだ。 苺ジャム、、、の主人公は12歳の女の子であり同級生の男の子とのからみがうまくできていて、そういうことから13,14歳の主人公美登利と年下の正太、年上の信如の話である本作に導かれたというのには脈絡があるのではないか。

自分は少女漫画というものを読んだことはない。 大昔に見たことはあるが自分には分からなかったし面白いとは思わなかった。 本書を読んで優れた漫画家ならこれを漫画に出来るのではないかと思った。 アニメより漫画の方に細やかなニュアンスが表現できるのではないかとも思った。 多分もう誰かが漫画化しているのかもしれない。 「草枕」や「こころ」の漫画化がすでに行われているかどうか承知していないがそれには大して興味が湧かないものの「たけくらべ」の漫画化には興味が湧く。 それは一葉の描写の瑞々しさに依るからなのかもしれない。 明治の文体の上で漱石も一葉も文語体から口語体への変換は頭にあったといわれているものの特に漱石の「虞美人草」の文体と「たけくらべ」の文体は両方とも文語文ではあるけれどその描写に於いてはぎこちなく肩に力が入った漱石より一葉の文語体の方が遥かに美しい。 その美しさと瑞々しさに魅了されほとんど一葉に恋心を抱くほどだった。 だから鴎外が一葉の文章力に魅了されわざわざ一葉の元を尋ねたという逸話には充分説得力があるものだと納得した。

「たけくらべ」本文を読む前にどこかで、最終章あたりで主人公美登利の態度が変化する、その原因が職業としての「性的初体験」があったからだ、なり「初潮」がそうさせたのだという論争があったということを承知していた。 だからその点に留意して読み進み水揚げがあったからだとは思わなかった。 将来色街で人気者となり「出世」することが有望視されている美登利には自他ともにその自覚はあるものの髪型が少女から少しは大人びたものに変わったもののまだ本格的に色街の世界にでることもなく、それにはまだ投資も支度も必要であることは確かで母親の、そのうちまた普通に戻る、と言う言葉には晴れやかに職業的にデビューしたというニュアンスはとてもみられず、多分「初潮」というごく普通のことも関係があるにせよ周りから暫くするとどのように自分が処していかねばならないのか具体的な説明をされる時期にもなり、それにより色街で育ってきて姉のように、いや姉以上に出世したいとおもっていたものが具体的に近い将来のものとして具体的な性行為を説明されてたじろいだのだろうと推測した。 それに「性」と「恋愛」が一つになって起らねばならないという考えにも至っていないだろうし第一「恋愛」感情の芽生えも自覚していないようにも見える。 幼馴染の正太は美登利に幼い恋心をもっていることは確かではあるが勝ち気で年上の美登利にはその気があるようには見えない。 かといって下駄の鼻緒が切れた信如に布切れをおずおおずと渡すにしても恥ずかしさはあってもそこにはまだ恋心には至っていない。 こういう状況での美登利であるからこれに関しては川上未映子のブログで女性の眼からみた「たけロス」と呼ぶ美登利の態度の変化に対する観察には充分納得した。

 

http://www.mieko.jp/blog/2015/02/27/858.html


これがムラサキシキブだとは驚いた

2017年12月15日 10時54分34秒 | 日常

 

このあいだもう30年来の長年の友人の家に行った。 その友人は家人が育った村の幼馴染で村のヒッピーだったのだが親の園芸農園を継いでのんびりと人生を過ごしている。 オランダは花の輸出では有名なのだが特にその村・町はオランダの中でも花卉園芸(かきえんげい)で有名な土地で世界中に 植物の苗を輸出しているので時には畑の中を日本人業者が歩いているということもある土地だ。 花卉園芸というのは蔬菜園芸・果樹園芸に対して、草花、サボテン、多肉植物、山野草、花木、盆栽などの観賞用の植物、花卉を栽培する産業なのだが彼の農園では多少の果樹と花木が専門で600種以上が植わっているということだった。 冬枯れの時期なので緑はすでに去って裸の枝と常緑木の枝だけが並ぶ景色の中を散歩しながらこの間の互いのことを話した。 今年は家人も自分も母親を亡くしているけれどヘンクにはまだ90になる母親が健在で今年また自動車免許を更新したうえ新車を買って走り回っていると言う嬉しいことも聞いた。 ヘンクはオランダ人にしては小柄なのだがその母親は彼に輪をかけて小さな可愛いお婆さんなのだ。

ヘンクの農園の敷地前に日本の庭によく見る石灯籠を幾つも集めてある石屋があってその敷地に高さ5mほどのそれに似あう日本庭園の松が何本も植わっていた。 オランダでも日本の庭を好むものもいてこの何年かでそういうビジネスも成り立っているようだといっていた。 石灯籠や松の形式は日本様式だがはたして日本から輸入されたものか確かではなく多分今何でも値段にけん引されて中国製品が輸入される時代だから中国製のよくできたコピーではないのかと自分は思い、そのように言った。 もう20年以上前、舅の兄がこの町で盆栽クラブの会長をしていて日本から数百万もする盆栽を幾つも借りてきて展示したことがあった。 専門家たちだからその主催者たちには価値は分かったものの普通の見物人たちは美しさは分かったもののその値段が信じられなく、だからそれまでに仕上げる時間と根気の総和が値段になることにも想いがいかなかったのだ。 だから当時オランダで見様見真似で作って展示された「ボンサイ」の惨めな出来には眼を覆うようなものだった。 けれど今高さ数メートルのちゃんと剪定されて並んでいる松の格好は中国か日本から輸入されたものだった。 盆栽の松がなんとか巨大化された形になってはいる。

ヘンクはのんびり家業を継いでいるので長年育てて来た花卉を数十本づつ時期に応じて競りに出して生活している。 それらの枝は3年や5年ではできるものではなく大量に消費されるものでもない上に普通のルートではなく専門の花屋に買い取られていくようで、そうなると他業者との競争も、そのときの流行もなく、まさしくヒッピー的な営業形態、ライフスタイルを保っている。 だから花卉園芸業界専門誌のインタビュー記事では大きく写真入りでユニークな農家だと紹介されていた。

村の端にある家の前から2年ほど前に道が拡張されて伸びていたのでそれに沿って二組の夫婦が鉛色の空の下しばらく散歩した。  

 色のない農園を歩いている時眼についた鮮やかな紫色の実にカメラを向けた。 家に戻って調べてみると、ラテン名 Callicarpa bodinieri、オランダ名 Schoonvrucht 直訳すると「美しい果実」で、これが和名となると ムラサキシキブ(紫式部)、Callicarpa japonica となるのを偶々ネットで見つけて驚いた。 今年の読書のハイライトだったのが橋本治著「窯変源氏物語」だったことから鉛色の枯れた世界の中で立ち上がるムラサキシキブの印象が鮮やかだったことからこれからはラテン名は覚えられないもののオランダ名、和名は忘れないことは確かだ。 それに今度ヘンクに会った時にこの和名の由来を話そうと思い、そのことも次の楽しみとしよう。