暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

枯葉の色、その後

2011年10月31日 18時48分51秒 | 日常

この2日ほど暖かい日が続きマフラーを巻かずとも外を自転車で走れる今、そんな陽気につられて町を余分に自転車でぶらぶらしていると冬時間に戻った午後3時の光に炙られてか木々の色づいた塊が頭上に見えたのでこれは今日の一枚とカメラに収めた。

このような光は肉眼が一番いいのは経験済みであるけれどなんとかこの色を残したい、再現したいという欲望にはなかなか勝てなくて粗末な簡便デジタル・カメラに収め、家でコンピューターで処理してもその光芒はまたも再現できず、それも写真技術のことを言うと40年前に比べると格段であるのは確かながら網膜に束の間残った像を求めてないものねだりをしていることを自覚する。

それにしても昨日は雨は降らなかったものの曇り空、そんな中で観る木々の色と今、晩秋に入った光のなかで映える木々の色を比べると印象の違いはただ一点、光のありがたさを今更ながら感じる次第だ。

Smart People ;観た映画、 Oct, '11

2011年10月31日 02時23分40秒 | 見る
邦題; 賢く生きる恋のレシピ <未> (2008)
原題; SMART PEOPLE

95分

ジャンル ロマンス/コメディ

監督:  ノーム・ムーロ
脚本:  マーク・ポワリエ
衣装デザイン: エイミー・ウェストコット

出演:
デニス・クエイド       ローレンス
サラ・ジェシカ・パーカー    ジャネット
トーマス・ヘイデン・チャーチ  チャック
エレン・ペイジ        ヴァネッサ
アシュトン・ホームズ     ジェームズ
クリスティーン・ラーチ
カミール・マーナ
デヴィッド・デンマン

インテリ家族のままならない日常と新たな恋の行方を優しいタッチで綴るコメディ・ドラマ。主演はデニス・クエイド、共演にサラ・ジェシカ・パーカー、エレン・ペイジ、トーマス・ヘイデン・チャーチ。監督は人気CFディレクターで、これが映画監督デビューとなるノーム・ムーロ。

中年の大学教授ローレンスは、インテリ特有の狭量さで他人を思いやる感情に乏しくコミュニケーション能力に問題を抱えていた。妻に先立たれて以来、2人の子どもとの関係もギクシャクしたまま。そんなある日、交通事故で病院に運ばれたローレンスは、そこで元教え子の医師ジャネットと出会い、次第に惹かれ合う。一方、帰宅した彼を待っていたのは、突然転がり込んできた放埒な義理の兄弟チャック。困惑するローレンスだったが、ローレンスと同じような問題を抱える優等生の娘ヴァネッサは、父とも自分とも対照的なチャックに、思いがけず惹かれていき…。

上記が映画データベースの記述である。

日曜夜中のテレビを観ていてイギリスBBCテレビの第2局で今時期の「ハローウィン6」が、第1局では本作を放映していたものをどちらにするか決めかねて本作にしたのは始まるのが5分早かったのと初めの5分の間に面白くなければマイク・マイヤーズ・シリーズ6を観るつもりだったものが本作に釣られて観続けた。 

それはどちらかというと気に入りの俳優デニス・クエイドの乗る古いサーブと衣装デザインによるその風貌のステレオタイプさからだったからかもしれないということもある。 ここでこのような教師のタイプは話によって当然それぞれ幾分かずつ違っているとしても他には、例えば、マイケル・ケインの「リタと大学教授<未> 原題;EDUCATING RITA (1983)」や同じマイケルで言えばマイケル・ダグラスの「ワンダー・ボーイズ、原題;WONDER BOYS  (2000)」また、ロビン・ウイリアムスの「いまを生きる、原題;DEAD POETS SOCIETY (1989)」に通じるようなものがあるかもしれなく、ケイン、ダグラス、ウイリアムスに並んでここにクエイドの教師が加わる面白さがある。 それらは中年の男教師の屈託と言ってもいいかもしれないし、ある種の駄目教師の物語というようなクリシェが働いている部分もあるだろう。 このようなジャンルで女教師のものがあるのだろうか。 昔観た「ミスター・グッドバーを探して (1977)」は教師としても話が凄惨すぎるけれど女教師で他のものは大抵安手のコメディー仕立てでそこには多かれ少なかれ性的なものが含まれるとしても女教師ものを観た後、背筋が伸びるような話は英語圏のものにはあるのだろうか。 フランス映画で「まぼろし (原題  Sous le Sable (砂の下))(2001)」ではシャーロット・ランプリングがフランスの大学でヴァージニア・ウルフを講じる姿が写されていたがそれはその話には直接つながらないからカテゴリー外だろう。 

クエイドが演じた「オーロラの彼方へ 原題;FREQUENCY  (2000)」を何週間か前に観ていたから今ではもう若くないクエイドの姿に興味があったことも本作を見続けた理由であったかもしれない。

17歳とされている娘役のエレン・ペイジが秀逸であると見えたのは自分の娘のそのころの部分に重なる部分が多いということもあったかもしれない。 自分の息子には男親であるから幾分か自分を省みて分かるものの異性の妻、娘にはいつも驚かされかき回されもし、特に娘には自分の鏡とみえる性格が散見されるからその年頃にはかなりのホルモン分泌とマグネットの同極相弾け合うようなところの喜怒哀楽がありそういうものを今ここで観るからここで苦笑いがこぼれるのだ。

話の挙句が娘が様々な出版社から没にされた父親の原稿に題として「You Can't Read This か You Can’t Read It」と殴り書きしたものがペンギン系の出版社から出ることでハッピーエンドの契機になるというのはいささかロマンチックすぎるような気もしないでもないけれど、あまり得意でない女優サラ・ジェシカ・パーカーのここでの演技に免じてC+を本作に与えることにしようかとも思う。 それにしても邦題の稚拙なことには本作でも示される駄目な大学人、やる気のない学生の浮ついた様をみるようで、原題に「賢い人たち」とされたその揶揄、皮肉を読めない邦題の能天気さにはまだ観たこともない「セックスアンドシティー」につける「不可」を与えるしか他につける薬はないようにも思えるのだがそれも狭量だろうか。





夏時間の最終日、久しぶりに夫婦揃って出かけた

2011年10月30日 12時35分49秒 | 日常
2011年 10月 29日 (土)

昼過ぎにゆっくり起き出して下に降りると家人がハーグに行かない、と訊ねるのでうんそれもいいなあとうなずきすぐさま出かける用意をした。 土曜であるし普通は子供たちも家に顔をみせて夕食を共にする日なのであるけれど二人とも何かの用事で来られないから食事の支度をしなくてもよく、それでは久しぶりに二人だけで外食にしようということになった。 家人がメンバーのハーグの芸術家協会の展覧会のオープニングが5時からあり6時半ごろには終わるらしいからそのあとどこかで食事にするのだがどこで喰うかは決めないで行き当たりばったりということにしてとにかく家を出た。

駅の無料自転車置き場はほぼ一杯でかろうじて二つ分の空きを見つけて自転車をそこに押し上げてプラットホームに上がるとすぐに電車が来てその二階部分に席をみつけ、空いた車内にすわったけれど列車はすぐに出ずにそのまま5分ほど待っていた。 そのあいだに向こう側に停車する同じような車両の写真を一枚撮った。 それはアムステルダムからハーグを抜けて南のゼーランドに向かう長距離列車だった。

15分ほどでハーグ中央駅についてそこから財務省、アメリカ大使館のそばをとおり Denneweg 通りにあるハーグ芸術協会のギャラリーまで1kmほど歩いたのだが革靴を履いたのは2週間ぶりだったし足首の痛みは少し残っているけれどなんとか歩けた。 念のために痛み止めの錠剤をポケットに忍ばせていたけれどこの日は使うことがなかった。 我々がそれまで6年ほど住んでいたグロニンゲンから引っ越してきてハーグのはずれというか隣町の Voorburg に住み始めたのは1986年で、それ以来彼女はこの協会のメンバーで経理の役をしたり展覧会に出品したり活動して、何回も作品を運び込んだりするのを手伝ったり、オープニングと今までたびたびここに来ており、最近では6月、日本に帰省する直前に近所に住む車をもたない作家がここで共同展をするのにその作品搬入のためにうちの車でここまで運んだということもある。 

オープニングには200人ほどが集まり余り広くないギャラリーは一杯となり造形、絵画、音楽、文筆、演劇の会員達が趣向を凝らして今回のテーマ「パラダイス」にちなんだ短い音楽、ダンス、詩の朗読、短編映画などを披露して展覧会のオープニングとした。 この間1時間以上立ち続けだったから足が痛んだものの耐えられないほどということはなかったものの、オープニングが終わり飲み物の赤ワインを口にしたときにはほっとした。 アルコールを口にするのは2週間ぶりだった。

ギャラリーをでてこの通りをぶらぶらと歩いていてちょっと行ったところの日本料理屋に入り2時間ほどそこで食事をし、また歩いて中央駅までもどり電車に乗って自分の町にもどったのだが、そのまま家には帰らず町の同好会主催のジャズコンサートに夫婦で出かけた。 贔屓のジャズギタリストと若手の有望なピアニスト、バシストが演奏するはずで、開演から10分ほど遅れて会場に入ったら7、80人ほどの中高年の会員達で一杯だった。 開いた席の前には夏に北の島であった芸術フェスティバル Oeral でこの何年か家人とその妹達と一緒にキャンプをしたり行動をした女性がいて二人で盛り上がったのだが彼女は私と家人が夫婦であることを始めてここで知って驚いたようだった。 この同好会のコンサートにはもう10年以上もづっと来ていて互いに名前は知らないものの顔見知りという連中ばかりだからこういうことも起こるのだ。 自分はジャズは一人で聴くものだとおもうから夫婦ではコンサートに来ることはあまりないのでこういうふうになるのだろう。

この日は今までになく暖かい日で夜中近くなっても温度は下がらず、この一週間ほど出るときには首に巻いているマフラーも要らないほどだった。 家に戻ってテレビをつけると夜中を廻って3時に時計の針を一時間戻して夏時間から冬時間に戻すようニュースでは報じられていた。 これから半年、来年の3月25日(日)の早朝2時まで冬時間が続き、これで日本との時差が7時間から8時間になる。 丁度この日はハローウィンらしくそれにちなんだような深夜映画が多かったけれど疲れていたのでそれも見ず早々と時計の針を1時間巻き戻してベッドに潜り込んだ。

OREOを齧って思い出すこと

2011年10月28日 23時25分56秒 | 思い出すことども


紅茶とお菓子の香りが思い出を引き出してそのことが文学になるのは甚だフランス的ではあるけれどこちらのほうは単に1950年代の日本製ビスケットに想いが行くだけの話しだ。 そこには紅茶が絡むけれど今のように何でもありのチョイスもなく、田舎の町で買えるリプトン紅茶であって、それでも50年代半ば、まだ幼稚園に行くか行かないかの子供にとってはこのころの嗅覚の記憶は一生ものであることをこの歳になって自覚する。

当時贈答用のビスケット詰め合わせが家には時々到来し、四角い缶に何種類か波状に皺を寄せた紙で仕切って詰め合わせられたビスケットの匂いが缶を開けると甘く立ち上ってきて缶の蓋を開けるときに透明なテープを剥がすその動きとともに子供には堪らぬものだった。 けれど当時からクリームやバターの甘さには過剰なところがあってそのうち耐えられなくなるだろうというような予感も持っていたけれど、しかし、その中でとりわけ魅力的なのは真ん中に白いバニラクリームを挟んだ細かいタイヤ上の模様をもつ二枚の黒く平らな円盤の不思議な匂いだった。 多分チョコレート成分と砂糖と小麦パウダーかバニラの混ざったものだったのだろうが単なるチョコレートクッキーなら後年いくらでも様々なバリエーションを経験しているしブラウニー系の匂いとも違う。 後年までその記憶が残るのはここで刷り込まれた香りが今でも特別なものとして記憶の棚の奥深く居座っている、ということだろう。 それがここに来て思い出されたのだ。

ここ何年かときどきコーヒーのお茶請けとしてスーパーで OREO というビスケットを買ってきて口にする。 そのときその味と匂いに忘れていた半世紀以上の情景と四角い缶の底の写真のとりわけ褐色の丸いビスケットを思い出すのだ。 つまり OREO の味と匂いが記憶の中のビスケットとシンクロしたということだ。 そのシンクロの度合いがどのようなものなのかは今では調べようもないし記憶というものは補強されることがあるのだから比べようもないのだけれどそれでも同じ系統の香り、匂いとして対照されているということは確かなことだ。 それともう一つ、記憶の香りに近づける操作を発見した。

先日テレビでアメリカ映画 「ラウンダーズ (1998)」を見ていてその中でジョン・マルコヴィッチが OREO と思しきビスケットを食べるやりかたを見てこれだと思い、それを真似た。 主演のマット・デイモンや多くの映画で殴られて顔をボコボコにされるのが魅力的なエドワード・ノートンとともに魁偉なマルコヴィッチがポーカーのテーブルで OREO を食べるときにビスケットを両手で縦に挟み、ゆっくり捻じるようにして二枚に分けて一方についたクリームを舐め褐色の円盤を一枚づつ口に入れ噛み砕くのだ。 クリームの味は甘いバニラのごく普通でなんという特色もないものだが、一方、微かに苦味のある褐色のビスケットの香りが半世紀前の農家の茶の間にあったビスケットを思い出させるのだ。

それと同時に紅茶の缶の丸い蓋をスプーンの柄の先で開けたとき立ち上がってくる紅茶の匂いも思い出す。 茶漉しにほぼ擦り切れ一杯まで紅茶の葉を入れカップの上に置いて熱湯を注ぎ手早く4,5杯のカップを満たしてから更に茶漉しの尻を既に淹れたカップにもどし順に浸し、結果が殆んどワインの色になった紅茶の不思議なその香りと砂糖がかなり入っているけれど紅茶の強さと拮抗して甘くはないその味とともに子供の脳に一生残るものだった。 考えてみるとその量は今のティーバッグのものとは比べ物にならないほど多いのだから香りもそれに倍するものであるのは確かで、それだからかその「紅茶」というものの特徴、烙印がはっきりと脳に押され、それが自分の中の紅茶の基本になっているのは確かなことだ。 当時、農家の茶の間を照らしていたのはまだ蛍光灯ではなく笠のついた電球だったのではないか、そういうことも褐色のビスケット、ワイン色の紅茶とともに思い出される。

歯医者に行った

2011年10月27日 15時08分34秒 | 健康
朝早く起きて歯医者に行ってきた。 半年毎の家族そろっての検診なのだが今日は家人は用事で行けず、結局自分ひとりだけ自転車を漕いで5分ほどのところにある歯医者に出かけた。 そこでこの何年も同じパターン、8時半の最初の検診となる。 同じ町の中でばらばらに下宿している子供たちもここで落ち合う手はずになっている。

この歯医者は我が家がもう20年ぐらいかかりつけになっている禿の小男で、子供たちが小さいときからクラスは違うものの同じ小学校、中高一貫校、同じスポーツクラブとこどもつながりで顔見知りとなり、クリニックを離れても彼方此方で顔をあわせ互いの家族の動向なども朧げながら知っているという関係だ。 脂ぎってせかせかと動き下手な冗談をいいながら手際がいい、ように見えるし、これまでこの20年ほど我々の歯に何かの支障をきたしたということもないから良しとしている。 ベルを押して階上に上がると事務の女性は来ているのに歯医者はまだ下で飯を喰っているのか出てこず息子としばらくぼんやりテレビを見ていると慌てて歯医者が飛び込んできた。

まだ来ていない娘に用事があったので自分とほぼ同時にここに来た息子を先に検診に行かせ自分は娘を待ちつつ待合室のテレビを見ていたら深夜から早朝に及ぶ首脳会議の末、EUがギリシャの負債の50%を棒引きにすると決定したしたことが報じられ、その結果、株式市場が開いたらすぐヨーロッパ各地で2・5%ほどポイントが上昇したということだった。

10分もしないうちに自分が呼ばれ帰りざま息子は晩飯は家に来て喰うといい、何が喰いたいのか希望を訊くとクスクスが喰いたいというのでそれで今晩のメニューが決まった。

このところ不摂生をしていたし相変わらず一週間に2,3回しか歯を磨かないような生活をしているのでさすがに出掛けに少しは丁寧に磨いてきたものの、いよいよ歯になにか不都合があるやもしれないと内心びくびくしながら口を開け、とんがり曲がった金具が順番に歯の間を点検しつつ動いていくのを感じていたのだが、その苛付く動きも特に停まる様子もなくそのまま上下とも水の噴出す細かなスプレーで洗浄されて点検が終わり、歯医者がこっちを向いて、あんた、まだ前に言ってたみたいにほとんど歯を磨かないような生活をまだしてるのかい、と訊いてくる。 ぎくっとしていると、どうも妙だな、ほんとなら歯医者を儲けさせる上客みたいになるのだけど不思議なことになんともないから私にとっては不幸、あんたにとってはラッキーだ、という。 これでああ、また垣根を一つ越したと安心して、還暦を越した今、これからこういう生活を10年、20年と続けて不都合がでるのかね、と訊くと、まあそんなに変わらないだろう、このままいくのではないかな、という答えだったので少しは安心した。 

我が家では20年ほど前に歯の保険に入ろうかどうかこの男に尋ねたのだがそのときには半年毎の検診で見ている限りでは我が家の誰にも当分金のかかるような発掘作業が必要なことはないだろうから、保険は必要ないだろう、もし10年に一度そういうことがあって少々金がかかっても結局はならしてみるとそのほうが安く上がると聞いていたからそうしていて、結局20年経ってみると歯医者の言った通りになっているのだけれど、けれど我々も歳がいき、老人になると口の中の事情も変わってくるのではないかという懸念からこのことを訊ねたのだった。

不摂生でも虫歯になったり歯槽膿漏にならないのには思い当たる節がある。 何年か前にそういうことをやっていたのでその効果が今も働いているのだろうと思う。 日記を繰って見てみるともう6年前に次のようなことを書いている。 

2005年4月26日(火)、今日は口腔内衛生師のところに行った
http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/1958195.html

早いものだもう6年になるのか。 当時から不摂生でそれは今も変わらない。 そのときドイツ製の電動歯ブラシのセットも買ってから3ヶ月も続かなかったのではないか。 円形の取替えブラシも取替えられることもなくそのままどこかで埃をかぶっている。 けれど生活態度が変わっていないのに歯槽膿漏もないというのはそのとき植えつけた抗歯槽膿漏バクテリアが今でも生きているということだろうし虫歯になっていないのはまだエナメル質が充分歯を保護しているということのようだ、との歯医者の解説を聞いて安堵した。 この次は来年の春だなと言いあっていると娘が慌てて階段を駆け上がってきて診察室に消えた。

そのあと近所のスーパーに出かけ日頃は喰わない甘いドーナッツを二つ買って家で濃いミルクティーとともに朝食にした。

枯葉の色

2011年10月25日 13時35分56秒 | 日常


温度が下がってくるとともに空気の透明度も増して木の葉の色も大きく変化していた。 何日か外に出ることもなく、やっと自転車にちゃんと乗れるようになって町に出たときにそう感じた。 近所の堀のそばで青空を仰ぎ眺める木々の色にヴィンセント・ヴァンゴッホの枯葉の色を思い出すのは毎年のことだ。 というのももう何年も前に趣味の会の人たちと町の史跡を歩いたときにそこから余り離れていない墓地の碑銘にゴッホの叔母だという墓石を示され、その縁なのか短いながらもこの町に住んでいたというゴッホのことを聞いていたの思い出し枯葉の話に色を添える。

そこで、自転車を停めて足を気遣ってそろそろ降りて一枚写真を撮ってみたものの、なんだか今年はその黄色さと数が毎年見るものより劣っているように感じ、去年の日記に写真とともに書いたとも思いだし、それをうちに帰ってから調べてみるとそれは去年のことではなく一昨年のことだった。

それに、撮った時期にしても今日より10日ほど早く2年前の写真には同じ木に黄色い葉っぱがもっと沢山あった。 それにカメラ位置が2年前は5mほど右だったようだ。 つまり、季節も家の中にいた10日ほどの間にかなり動いた、ということだろう。 ということは2年前の紅葉、落葉の時期は今年とはほぼ併行して推移しているということで、日中の外気7,8度、夜間気温2,3度というのは平均なのだろうか。

2011年10月25日 12時23分53秒 | 健康

マーケットで足を挫いてから10日、やっと杖なしで日常生活が出来るようになってそろそろ近所の健康センターに返しに行かなければいけないと思うのだけれど、一方、実際に使ったのは10日の半分ぐらいだったとも指折り数えて思い返す。

そのうち本当に二つの杖を同時に使ったのは3,4日だけだった。 右足を地面につけていると痛いから、それに、歩かなければ仕事にも何にもならないからしぶしぶ歩を進めるのだけれど、杖を片一方ずつ前に出して歩くのか両方一度に前に出してそれに寄りかかるように前に進むのかというようなことも試みて確かに片一方づつ前に出して歩く方が速いような気もするものの、どちらにしても足の痛みが気になって急げない。 

それにしても両方の手を使えないのが致命的だ。 小さいもの、薄いものは指に挟んでぶらさげて歩くけど厚い書類のコピーなどは持てないからそういうものは予め肩にかける袋のようなものに入れてなんとか凌ぐのだが日頃なんとも思わず開け閉めして通るドアには困る。 鍵を外したりかけたりするには片一方の杖を外してポケットを探りバランスを保ちながら鍵穴に差込み開け閉めすることになり、それはその場所を動かずできるけれど、そのあとドアを開けて入るときにはその動きは簡単なようで楽ではない。 一旦ノブの前に立ち開けながら脇によけてあけたドアの隙間から中に入るようなマヌーバーを行うのには斜め横に開けながら移動するというようなことをしなければならず、これには杖が邪魔になる。 こんなときに日頃意識していない自分の動きを知ることになる。

片方だけで移動するようになると何とか左手が使えるようになるから不自由さがだいぶ減るのだがそうなるとその頃には左右の使う筋肉の部位に、左右不均衡と日頃使っていない筋肉を使うようになっていることによる筋肉痛が加わってややこしいことにもなってくる。 今回様々な痛みを様々な部位に感じそのバリエーションを感じていると足の解剖図の筋肉のページをうっすら頭の中に思い描くようでもあった。

ほんの一週間やそのくらいでこんなにぶつぶつ文句をいうのは障害のアマチュアではあると自覚している。 そしてこういう助具がないときの不自由さにも想いがいくと、もう返す今になってその形状に目が行くようにもなり、杖にしても昔の木の松葉杖からずいぶん変わったものだとの思いも湧いてくる。

これでイライラが少しは解けた

2011年10月21日 23時46分29秒 | 日常
この数週間ネットの接続が極端に悪く往生した。 

三階の屋根裏部屋に自分のパソコンを置いてあり、居間にあるテレビ、電話、インターネットの信号を送信するボックスから距離が離れているので信号が弱く速度が遅くなり、それに加えて途切れることまであって、だからこれを何とかしなければ、とは思っていた。 

もう10年以上も前にそれぞれの階にパソコンを置きはじめた時には自分でケーブルを引いてそれぞれ子供たち、家人と自分達の独立したパソコンを各階で操作していたものが何時のころからかこの接続をワイヤレスにしていた。 ケーブルで接続していたときには何年か経ってから偶に接続箇所が接触不良を起こすのか途切れることがありそのときにはその箇所を見つけるのが楽ではなかったからそれに比べるとワイヤレスにするとそんなこともなく楽になったのだが、階下はともかくとして3階の屋根裏部屋では信号が弱くて不安定なときもあり、その様子が画面に数字となってモニターでき、それでもなんとか田舎の田んぼ道を細々と辿るといった具合だったのだけれど、こんどはインターネットのプロヴァイダーを変えた2,3年前から不安定の兆しはひどくなっていていよいよどうにかしなければならないと思うようになっていた。 速度も遅いときには80Mbpsというようなものでこうなるとまともには動かない。 そして一ヶ月ほど前にハーグの大型家電販売店のデパートに出かけて買ったものは2階で下からの信号を受け取りそこから上に向けて配給するというような Extender というものだったのだが、それを昨日息子にインストレーションしてもらったおかげで速度は今は300Mbpsと格段に増し、信号も途切れることもなくなった。 

不安定なときにはカメラから送ったはずの画像が途中で途切れ、ハードディスクに届かず、再度カメラから送信しようとすると今度はコンピューターのほうからパラメーターが違うといってデータ
をうけとらない、といったような事態にもなり、まだカメラの中にある何十枚もある画像と動画が宙にういたようになってどうしようもなく腹をたてる、というようなことも今はこれで避けることも出来るようにもなり一応の安心も戻った。 それが現在のマイナスの多い状況の中でかろうじてプラスと言えるというところだろうか。

しかし、これも長い目で見て他の何かの支障がいろいろな形ででるに違いなく、そのうち別のものにしなければならなくなるのは明白で、いずれにせよ機械に頼るものの弱さを感じるのだった。

秋の冷たくて湿った季節がまたやってきたけれど、、、

2011年10月19日 01時03分19秒 | 日常
2011年 10月 21日 (金)

挫いた踝の痛みとそれ輪をかけた通風の痛みのダブルパンチにさいなまれながら、所用があって月曜日に車の助手席に座って痛みに耐えていると、そんなときでも日頃ハンドルを握るばかりで前方だけしかみていないのに比べてこんな時、たまに助手席に座ると日頃ちゃんと見ないものがゆっくり見える。

寒く湿った郊外の牧草地には霧が出て自分の投影のように中途半端に鬱陶しさが拡散している。 もっと寒くなり、湿気が少ない青空の下、地上1メートルぐらいまで霧が立ち込め彼方此方に点在する乳牛たちの足が隠れたままの胴体だけが見えたり背中だけ出て黒い石が浮いているようなものがみえたり、それが羊の群れのバリエーションだったりというのも面白いけれど、鬱陶しいそのときは普通の霧だった。

そういえば今年はそこに見える古い風車の脇を通ってサイクリングをしなかったことを思い至った。 大抵一年に二、三度は夫婦で夏の夕食後のんびりと11時ごろまで明るい長い夕方に彼方此方と20kmぐらいサイクリングをするコースの一つに入っているのだが今年は二ヶ月帰省していたのでそれがなかったということだ。 

それから四日ほど経つ今、日中気温は10℃ほど、夜間最低気温は1℃まで下がり、この週末を含む4日ほどはこのまま快晴が続くと天気予報で言っていた。 ウォーキングには最適なので普通ならベルギーの山間部あたりまで遠出して週末を過ぎても2泊ぐらい歩いてその後まだそのあたりを見物する、興が乗れば姪とそのボーイフレンドが住むブリュッセルにまで足を伸ばして彼女のイタリア人ボーイフレンドが弾くジャズクラブに行ってもいい、となるはずが今のこんなざまで歩けないのでは仕方がない。

痛みがありながらも家の中にいるのに耐えかねて、それでもなんとか一週間経ち、杖を離れて今日やっと自分ひとりでうちを出た。 一週間ぶりだ。 自転車に乗ってみて近所を一周したが支障はなかった。 ただ信号がないところを選び停まることがなかったので問題なしだったのだが、もし信号などで停まって待つような場合、ふらついて右足で自転車と体を支えそこに過重がかかるようなことは避けなければならないので、そんなことになって更に負傷することを避けるためにはもう2,3日は養生しなければならないだろうし、来週の月曜日には家庭医のところでちゃんとお墨付きをもらうまで遠出は避けたほうがいいようだ。

それにしても家の中を移動するときも松葉杖を突くような不自由さといつも痛みを感じながら生活をするこの一週間のことを思い、様々な障害者のことにも想いが行き、またこれが例えばこれから20年後の自分の日常になるかもしれないと思うと憂鬱にもなるけれど、若くしてもこういう状態になる人も多くいるということにも想いが行き、ただため息をついているだけでは生活できない、ということも実感するのだった。 

痛さを満喫とは

2011年10月17日 17時54分02秒 | 健康
土曜のマーケットを歩いていて一瞬のうちに転んでしまった。 

人ごみの中を魚屋に向かって昔ながらの石畳を人の後ろについて歩いていて急に空足を踏んだものと思われる。 歩道でほんの3,4cmの段差が或るところで右足が空を踏み踝をひねったようで、そのとたんに普通に横に転ぶのなら分かるけれどどういう訳か前につんのめり転んで石畳に膝をつきうつぶせになったのだ。 幸いなことに手や顔、鼻をすりむくのでもなく、とっさに両手を地面についてて支えたようだ。 ようだ、というのはそのとっさの事態をはっきり覚えていないからで、周りの人たちは、転んでいる自分の周りから私を見おろしながら声をかけて驚いている風だったけれど、大丈夫、大丈夫とこちらから声をかけて何とかすぐに人ごみの中で立ち上がり脇に退いて様子をみた。 歩道に段差があって踏み外したということは分かったけれど、なぜ後ろから押されたのでも無いのに前につんのめったのかは分からない。 ひねったときに足の甲を内側に巻き込んだから自然と前に転んだのかもしれないし、その痛みをカバーするために少々前に勢いがついたのかもしれない。 立ち上がったときには奇妙なことには両膝に手を付いて呼吸を整えるほどの軽いめまいのようなものを感じてそれには少々妙だなと思った。 去年か一昨年にも右足の踝を捻挫したことをこの日記に書いて写真も載せた記憶があるのだが、そのときは医者の診断の通り2週間で完治した。 今回もそれと同部位の同様の捻挫だから2週間だと自分で判断して前回と同じように処置をした。

少々の痛みはあったものの普通に鍋物のの材料の買い物をしたあと自転車で家に戻り、メントール系の湿布を踝に施し夕食も済ませて就寝したのだが例の通り、翌日には腫れて痛んだ。 日曜、月曜と家でベッドに横になって静養し、本を何冊か読むほどだったのだが痛みは月曜の朝には耐えられないような痛さを伴った。その痛みが捻挫の痛みではなく激痛であり妙だな、とも思いこの痛みは前にも経験したものでもありそうだと思い出してみると、もしかして通風かもしれないとも思った。 捻挫は確かでその上に通風とは堪らない。 久しぶりに青い錠剤を口に含み飲み込んで4時間ほどするとその痛みは徐々に引いたものの捻挫の痛みは残っている。 こんなところで痛さのダブルパンチを味わうとは思わなかったし、その痛さで原因を探れるとは妙なものだと感心したのだがそれでも痛みはまだ残っている。 

月曜日に家人と銀行に行く用事があったのでウォーキングのときに使う杖をついて車の助手席についたのだが家を出て車に乗るまでが長かった。 痛み止めを飲んでいたのだが殆んど効き目が無いようだ。 特に足を折り曲げるとき、姿勢を変えるときには踝を使うようでその回りにあるさまざまな神経に触れるようでさまざまな部位がいろいろな痛み方をする。 痛い足をかばうから自然ともう一方の足に負担がかかり、そのかかり方が普通に筋肉をつかうところではないから100mの距離が何キロにも感じられるほどでもあり歩く速度は極端に遅く歩くたびにあちこちが痛む。 なんとか銀行での話を終え家にもどる途中で近所のクリニックに寄って肘をサポートしながら手を押して歩を進める杖を左右二本借りて帰ったのだが痛みは少々軽くなるものの日常生活に支障をきたす。 手が使えないのだ。 この数日でこのような障害がある人の不自由さを実感しているのだがこれも所詮喉下すぎれば何とやらなのだろう。 

火曜には仕事で事務所に出かけなければならず自転車で行くこともままならないから家人に車で送って貰ったのだが皆から同情の目で見られるのが嫌でたまらなかったものの普段歩く距離の長かったこと、階段を使えずエレベーターでの乗り降りのときに同僚たちと同じ話を何回も繰り返すのにうんざりしながら明日も今日と同じことを繰り返すのかと早々にベッドに横になり読みかけの本のページを繰るのだがそれでも体は無意識のうちに足を動かして痛みの一番少ないポジションをさぐっている。


この前に捻挫したのが2008年の12月10日ごろでほぼ三年前だった。 そのときには同時に夫婦そろって足首を捻挫したことが記録されている。 家人の方が酷かったようだ。
http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/57083195.html

前回通風の兆候があったのが去年の7月30日だったようで、それまで半年ごとに兆しがあったから今回はもうそれより1年三ヶ月ほど経っていて、尿酸値はそれまでに比べて安定しているようだ。
http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/60932824.html