その八 まさに銃後も前線である<o:p></o:p>
どうせ結局やられるんだ、早く片づけてくれ、などと昼間はいっていたのが、さすがにいざとなると動揺は覆いがたい。<o:p></o:p>
B29は今夜もまたよく墜ちた。赤い人だまみたいに炎の尾をひいて飛んでゆく奴もあった。煙が空中に満ちて、空が次第に見えなくなって来た。<o:p></o:p>
ゴウーと風が出はじめて、近くの邸宅の森の樹立が海鳴りみたいな音をたて出した。あまりの大火に凄まじい気動が生じるのは、この空襲がはじまってから身を以って体験した一事実である。<o:p></o:p>
ピカッと空にきらめく青白い閃光、轟音、投弾の響、女達の悲鳴。男の女を叱りつける威張った、そのくせかん走った声。みんな、なんども肝つぶして物陰に逃げ込んだ。<o:p></o:p>
何時間たったか分からない。もう星のまったく見えなくなった空に、敵機の爆音はなお轟いている。<o:p></o:p>
この白金台町もつづいて燃え上がり出した。目黒方面から、炎が潮のように迫って来た。黒煙は濃霧のように流れ、前の往来は避難の群集でいっぱいだった。<o:p></o:p>
蒲団をかぶった老人、大八車を引いてゆく姉妹、赤ん坊を背負った母親、しかしこの人々は何処へ逃げようというのだろう。敵機はまだ飛んでいる。安住の地は東京の何処にもないはずだ。火のないところと、敵は丁寧に投弾してゆくのだ。(人を、日本人をターゲットにした殲滅作戦です。日本軍には投降は許されぬといいますが、無防備の市民を助ける術もないということなのか?)<o:p></o:p>
見るがいい、さっきまでは暗かったただ一つの方角の空にも、まるで金の砂のように焼夷弾がふってゆくではないか。焼夷弾は地中にめり込む鉄の筒だ。凄まじい速力で落下するにきまっている。しきしそのあとの空中に、オーロラのごとく垂幕のごとく、徐々に徐々にふってゆく金色の砂みたいなものはいったい何だろう。幾千億の花火が傘をひらいて降りてゆくようにも見える。そして風の唸りがはげしくなって来た。<o:p></o:p>
空を仰ぐと、火の潮みたいに赤い火の粉が渦巻き流れてゆく。無数の赤い昆虫が飛んでゆくようにも見える。大きな燃えカスが、屋根や路上に落ち、ころがり回って危険なことこの上ない。自分と勇太郎さんは屋根に上がって火叩きをふりまわした。みな、往来をころがってゆく大きな火の粉に必死に水を浴びせている。(火叩きも現実に活躍したわけです。防空演習ではよく見たものですが…)<o:p></o:p>
「水を使うな、そんなものに水を使うな!」<o:p></o:p>
と、だれかが叫んだ。しかし目の前に飛びめぐっている火の塊を見ると、みな本能的に飛びかかって踏みにじらずにはいられない。<o:p></o:p>
電車通りをはさんで左側一帯を焼き払ってくる姿は、とうとう右側にも移った。焼ける音が凄惨にひびいた。<o:p></o:p>
「みんな逃げるな、最後まで敢闘せよ!」<o:p></o:p>
ここの防空群長をやっている在郷軍人が凄まじい声をあげて、荷物を背負った群集の逃げ惑う往来を歩いていた。しまいには、<o:p></o:p>
「白金台町は断じて燃えない! 逃げるやつは厳罰に処するぞ、逃げちゃいかん」<o:p></o:p>
と棒を持って群集の方へ躍りかかっていった。