うたのすけの日常

日々の単なる日記等

大気の状態、いつ落ち着くの

2015-04-17 16:59:45 | 日記

初夏の気分を味わったのは昨日一日だけ。朝の内はまあまあだが午後からは雷、雹、突風に御用心と気象情報は繰り返す。一天俄かにの状態となったら、近くの頑丈な建物に避難をと毎度促す。しかしこのこと真っ当には受け取れぬ。ご親切はありがたいが、残念ながらわが家の近辺にはそんな建物は見当たらぬ。たとえあったにしても、付き合いもない見知らぬ建物に飛び込むわけにもいくまい。
 まったく大気の状態が不安定だと世情も荒れ放題。お歳をめした女性が殺されて大金を奪われたり、西洋弓矢で太ももを射抜かれたりの事件が起きたり。まったくもってえらい世の中になったものである。


久しぶりの青空

2015-04-16 06:22:22 | 日記

 それも早朝から、実に気分が良い。うつうつとした気分が一掃されて生きかえったようである。ここ数日ただただ家にこもり、テレビを観るでもなし、点けたままボーっとした状態で過ごしていた。

今日は気分も良しで外出でもするかと想を巡らしている。

 他愛なし 青空一つで うつ消えた


寒気が続く

2015-04-10 19:20:07 | 日記

例年ならば、千波湖の桜を見に行くのだが、今年は花冷えとでも言うのか、テレビでもっぱら各地の花見でお茶を濁している。
 散歩にも出ず、お籠りを続けている状態である。今日も曇天そして雨イヤになる。なんたって寒いのだからどうしようもなしだ。 


結婚のこと

2015-04-09 04:18:31 | 結婚のこと

うたのすけの日常 娘が誕生しました

2007-02-22 05:51:22 | 結婚のこと

   四月に結婚して翌年四月に赤ん坊が生まれました

 当たり前の話と思いますが、昨今は少子化時代なかなかこうすんなりと子供は生まれませんよね。先ずはお目出度いこと、両親にとって初めての内孫誕生ということでした。かみさん臨月のお腹を抱えて実家に帰ります。あたしが付き添います。足にむくみがきて、いささか心配しましたが無事出産にこぎ付けました。当時のことです、産婦は出産後21日間は水仕事は厳禁です。かみさん実家で一月の余過ごすことになります。嫁いで一年、なにしろ農家の娘が商家に嫁いできたのです。舅姑に仕え、おまけに鬼千匹といわれる小姑がさしあたって三人もいたのですから、並大抵の苦労ではなかったかと思います。それより亭主がこれまた頼りないときてましたから、その苦労押して知るべしです。
 
 赤子の名前は義父に頼みました。家の親父の勧めでそうしたのですが、これが気配りというものか、そんなことを思ったりしました。かみさんからは確か四つほどの名前が候補として手紙で知らせてきました。あたしは両親とも相談して決めて電話をしました。あとでかみさんが言うには菩提寺の住職に候補の名前を挙げてもらったという事でした。
 姉が出産見舞いに田舎に行ってくれました。一番上の姉ですが、子供がいないので何かというと母が召集をかけるのです。帰ってきての姉の話です。衝撃的でした。姉が言うにはおっぱいの出が悪いと言うことと、それから眉を寄せて言いました。犬のような大きな猫が、赤ん坊の枕元で長々と寝ていたというのです。そしてかみさんにこんこんと言ってきたそうです。猫を寄せ付けるな、万一上へでも乗られたら息が止まってしまう、顔の上でも乗られたら即窒息してしまうと。「どうも田舎の人はのん気で困る、指でも齧られたらどうするんだ」そしてあたしの口からもよく言えというわけです。
 
 いや、あわてましたねあたしは、翌日田舎へ飛んで行きました。先ずは母子とも元気なのでホットしました。そしてかみさんにくどいように猫のことを言いました。かみさん大丈夫よ、この猫年取ってるし、すごくおとなしいんだからと平然としています。そういう問題ではないと思うのだが、家の人たちにとっては可愛い猫なんだし、余りむきになっても角が立つのでその話は打ち切りました。後はおっぱいの出が悪いということです。かみさんのことを、子供のころから可愛がってくれているというおばさんが来ました。あたしにおばさんは言いました。乳が出ないのではない、おっぱいは十分張ってるのだが、乳首が引っ込んでて赤ん坊が吸い付けないのだと言うのです。そして付け加えました。これは父ちゃんが悪いんだと、あたしのことです。「父ちゃんのかあちゃんの可愛がりがたが足りなかったんだ、しょっちゅうおっぱいを揉んだり、吸ってあげてればこういうことにはならなかったよ」

 昼日なか、面と向かってのあからさまなおばさんの発言には面食らいました。かみさんは下を向きます。たまたま来ていた近所のおじさんが「うんだ、うんだ」と相槌を打っています。あたしは、なるほどそういうことかと、一拍置いて納得させられました。
 まあなんだかんだと話を終えて、猫のこともう一度かみさんに念を押して帰りました。
 
 母子が義父に送られて帰って来ました。庭の物干しにさらしのおむつが高々と干されました、五月晴れの空に鯉幟も顔負けです。真っ白なおむつがへんぽんとひるがえっています。
 嬉しい眺めでした。
これで終わります。

 


結婚のこと

2015-04-08 06:30:29 | 結婚のこと

うたのすけの日常 昭和33年結婚しました 後編

2007-02-21 05:07:45 | 結婚のこと

      新婚旅行は伊豆への一泊旅行でした

 帰りのタクシー、バスほど跳ねませんがかみさんは角隠しの花嫁姿、叔母さんが一生懸命髪が崩れないように庇っています。車の中は他に誰が同乗していたのか、かみさんの叔母さんと、それに姉と仲人か、まあそれはどうでもいいことで、とにかく砂利道に、一斉にみな跳ねるのですから見ものでした。
 わが家に着いたのは三時か四時か、とにかく再度の結婚式です。店の奥のぶち抜かれた六畳間二つに、既に料理がめいめいのお膳に載って並べられていました。式場?はf両方の親戚で立錐の余地もありません。あたしの姉妹は上の姉を除いて給仕役、裏のおばさんが一人手伝いにきていました。店の土間で親戚同士の挨拶がせわしく交わされ、かみさんは叔母さんとあたしの姉に付き添われてご近所への挨拶にでかけます。あたしはただ一人座敷の正面に、かみさんの家から持参した、ひと際大きく厚い紺色の座布団に鎮座して、借りてきた猫状態でした。隣にはこれは紅いかみさんの座る座布団が置かれています。いささかまぶしかったのを憶えています。

 やがてかみさんたちも戻り式の始まりです。雄蝶雌蝶は姪と手伝いのおばさんの末っ子が勤めてくれました。宴もたけなわとなります、来賓の大半が田舎の人ですからお国言葉が飛び交い、唄もでました。しかしあたしとかみさんは中座して、新婚旅行に出発しなければなりません。なにしろ時間が押しているのです。かみさんは早々と新居に入り、そこで花嫁衣裳から外出着にお色直しというところでしょうか。あたしは店の土間でパンツ一つになって背広に着替える慌しさ、いささか冴えません。
 あたしとしてはもっとみんなと飲んでいたい心境でした。 いざ出発となって四月とはいえ、肌寒い感じ。かみさんコート姿。姉が声高にコートはという、そんなもの持ってなんかいません。背広だって昨日質屋から受けだしてきたぐらいなんですから。裏のおばさんが父ちゃんの新しいのがあるといって勝手口から飛び出していきました。どうやら格好ついたところで、かみさんはハンドバックはもちろん、カバンを下げています。あたしは手ぶらです。またおばさんが飛び出して行きました。空のカバンを持たされようやく出発にこぎつけました。新婚旅行なんてわが家ではあたしが初めて、両親が勝手わからないのも無理ありません。あたしだって新婚旅行なんか行きたくなかったのが正直な気持ちでした。しかし娘心をおもんばかっての、仲人の説得で承知したわけです。当時上野松坂屋の中二階にあった旅行案内所の前を、何回も行ったり来たりしてやっと旅館の予約をしたのです。

 東京駅には叔母さん一人見送りにきてくれました。叔母さんとしては姪っ子が心配でならなかったのでしょうが、あたしはなぜか気まずく、終始無言で列車の窓越しで会話を交わす二人を見ていました。そうでした、あたしはそのとき、のほほんとしてはいられなかったのでした。あたしの手にしている切符は普通車のです。ホームに上がって、それらしき男女がみな特別二等車に歩をすすめ乗り込むのです。自分の無知非常識を嘆いても始まりません。あたしはままよと悠然と特二に乗り込み、発車を待ちながら目で懸命に車掌の姿を探していたのです。
 発車のベル、叔母さんとかみさんは手を振りあっています。あたしは精一杯の笑顔を作っていたはずです。列車がやっとホームを離れたころ、入り口に車掌の姿が見えました。あたしは車掌目掛けてダッシュです。特二の切符に買い替え素知らぬ風に席にもどりました。幸いかみさんは何も気づかなかった様子でした。なにも隠すことなく、笑ってすませばいいことなのかも知れませんが、多少見栄ってものあったわけです。こうして結婚式の一日は終わりました。しかし後遺症が今日まで残っています。かみさんはことあるごとに言います。

 カメラなしの新婚旅行なんて聞いたことないと。


結婚のこと

2015-04-07 15:48:14 | 結婚のこと

うたのすけの日常 昭和33年結婚しました 前編

2007-02-20 06:44:10 | 結婚のこと

         昭和33年東京タワー出現

 高度成長時代の象徴といわれ、当時世界一を誇る鉄塔でした。この年関門国道トンネルが開通し、巷では日劇で第一回ウエスタンカーニバルが開催され、ロカビリー旋風が吹き荒れました。そしてスポーツでは長嶋茂雄が新人王を獲得しています。政界では第二次岸内閣が成立し、衆院の正副議長と16の常任委員長をすべて自民党が独占しました。
 あたしはこの年の四月結婚しました。かみさんは農家の娘であります。あたしには過ぎた女房。以来50年、来年は金婚式を迎えます。

 結婚は見合いです。仲人に連れられ常磐線に揺られ、私鉄に乗り換えて降りた駅からバスです。道が悪く横揺れではなく、バスはバウンドして頭が天井にぶつかるのではないかと危惧されました。連絡の不手際からかみさんは不在でしたが、とにかく見合いが終わったときは辺りはうす暗くなっていました。表へ出ると家々で風呂を焚いているのか、夕餉の支度か、薪の燃える匂いが懐かしく、たなびく煙が美しいの一言以外、表現の言葉がありませんでした。庭の一角からは牛の鳴き声が長閑に、そして哀愁を誘います。
 何日かしてかみさんが仲人に伴われ、父親も同行でわが家を訪れました。あたしは不在です。理由は勘弁してもらうことにして、母は組合の用事でよんどころなく外出していると、頭を下げました。これは後日聞いたことです。夕食の宴がもたれ母はかみさんに、食べたいものを遠慮なくと促したそうです。当時は鮨を取るなんて贅沢は許されなかったのですね。もっとも馴染みのすし屋自体が近所になかったわけです。かみさんは小声で中華の堅い焼きそばをと言ったそうです。このことは後々わが家では笑いと共に伝説になりました。なにしろわが家では中華そばの出前なんか取ったことはありません。来客時にはそば屋でざるそばを取るぐらいがせいぜいでしたから。妹たちもご相伴に預かったそうです。
 数日後母があたしの不在したことを責め、返事はどうするのだとせっつきます。既に仲人からは相手はぜひということで、こっちの返事待ちという事態になっていたのです。両親はすすめます、親が賛成ならあたしには言うことはありません。「貰うよ」あたしの一言で結婚はきまりました。かみさんとは一度しか会っておりません、それも農家の薄暗い電灯の下でです。しかし下町の吹けばとぶよな商家の嫁取りなんてこんなもんです。さあそれからが大変です。下町の住人は何事も早くが身上です。
 新婚夫婦の住まいの建築が間を置かず始まりました。二間続きの奥の六畳についてる廊下の外に、半間の間をおいて廊下を渡し、急遽六畳一間の新居の増築工事です。建坪四坪ほどの建築費は10万円?ぐらいではなかったでしょうか。そこに日もおかず、花嫁道具が送られてきます。桐の箪笥に洋服ダンス、ベビー箪笥に鏡台、えこう掛けに裁ち板針箱。盥に洗濯板に張り板。近所のかみさんが品定めに来て、遠慮なく箪笥を開けたりしていました。まだまだ貧しかった時代の、庶民の花嫁道具の定番だったのではないでしょうか。結納金はいかほどだっかは知りません。後年かみさんがポツリと言ったことがあります、結納金は桐の箪笥で消えたと。それから父や母がやさしそうだったから、結婚に踏み切ったということも。
 そうこうしているうちに結婚式です。

 結婚式はまだまだ、式場で行うなんてことは主流ではなかったのでしょう、当たり前のようにわが家で行われました。その前にかみさんを迎えに行き、そこでも結婚式を行うと言う田舎の仕来たりに従いました。もちろんかみさんの家でです。仲人と姉に付き添われハイヤーを奢りました。といっても全て親や姉まかせ、抱っこにおんぶで黙々と従うだけでした。
 式は親戚一同出席ということでしょうか、三々九度の杯を交わしたあと座は和み、杯が飛び交い賑やかな雰囲気でした。近所の人たちが庭先に詰めかけ、無遠慮に廊下の障子を開け覗き込みます。そのうち押し合って障子が倒れるといった騒ぎもありました。それから車を連ねて今度はわが家に向かったわけです。家での結婚式が待っているのです。途中写真やに寄ります。慌しいことこの上もありませんでした。


娘の結婚

2015-04-05 07:32:48 | 娘の結婚のあれこれ

うたのすけの日常 「娘の結婚」その三

2007-06-04 09:46:16 | 娘の結婚のあれこれ

      書くか書くまいかと考えていたのですが

 娘はあたしが最初から結婚を反対すると思っていたらしい。かなりのそれに対応する覚悟を据えていたと思います。それはあたしの反対ならどうするの問いに、反対されれば家を出ると、泪を浮かべての返事にも表われていました。しかしあたしの思惑もあっての承諾で、とにかく娘は卒業してから結婚ということになりました。その後彼の両親がわが家を訪ねてこられ、一人娘を嫁がして呉れるという事に、平身低頭されての挨拶がありました。
 娘たちは着々と結婚準備を整えている様子でした。最初に結納の儀は省略するということがあたしたちに告げられました。畏まったことは好みませんので、賛成でした。それから当分の間は、彼の両親とも同居しないと言います。若いうちはそれも良かろうとこれも賛成です。
 そろそろ嫁入り道具や結婚式場と、その費用にかみさんが心配しだす時期となってきました。ある日娘を呼んでかみさん主体での話の場が持たれました。娘は開口一番改まって所帯道具や衣類等は一切要らぬと言います。それではお母さんの気がすまないと言うのなら、出来たら洋服ダンスの一つも持たしてくれれば結構です。あとは今使っているもので間に合います。買って貰っても狭いアパートには入りませんとアッケラカンとした返事をして、母親を唖然とさせました。おまけに結婚式関係の費用は一切心配してくれるな、全て二人で賄うと追い討ちをかけてきました。かみさん真剣になりました。それじゃ親の出る幕がないじゃないかと半泣き状態です。相手の親が出すとでも言うのかい、そうはいかないよこっちとしては。嫁に出すほうなんだからね。娘は冷静でした。彼の両親からも援助して貰いません。一切自分たちでやります。結婚式場は先輩の勤め先のホテルが、その先輩の口利きで割安で引き受けてくれましたと、有名ホテルの名をあげます。
 あたしは娘に訊きました。それにしても安い金額ではないだろう、どうやって工面するのだと。娘は言うのです。
 「あたしたちの結婚はお父さんに頭から反対されると思っていたのよ。そしたら家を飛び出す覚悟でいたわ。でもどうしても結婚式だけは、たとえ二人だけでも挙げたたかったの。それで二人であたしが卒業したら結婚すると約束した時からアルバイトを、懸命に二人してやってお金を貯めてきたのよ。」
 「アルバイトってなにをやっのよ」かみさんが口を挟みました。
 「ありとあらゆるアルバイトよ。一番お金になったのは不動産屋のお仕事だったわ。駅前で幟を立ててビラをくばったり、お客を現地に案内したり楽しかったわ。契約が成立すると日当のほかにボーナスが出たしね。それにお父さん、叔母さんや叔父さんたちのお祝いも当てに出来るわよね。なにしろ両方の人数、両方の指で数えきれないんだもの。新婚旅行も行かせて貰うわよ。ハワイ」
 もうあたしたちには言う言葉はなかった。せいぜいお互いの兄弟に、それとなくお祝いを気張ってくれと謎をかけるしかなかったのです。
 それにしても頭から反対されると考えて、色々小さな胸で悩み、そしてそれでも結婚したいという気持が憐れでなりませんでした。

 どちらかと言えば奥手の温和しい子だったのに、こうまで人を好きになるということは、人間を強くするのかと、いささか複雑な気持になったことも事実でした。

終わります


娘の結婚

2015-04-04 05:02:48 | 娘の結婚のあれこれ

うたのすけの日常 娘の結婚 その二

2007-06-02 05:31:58 | 娘の結婚のあれこれ

     その娘も今は二十を頭に二人の子持ちです

 娘たち夫婦は仕事の関係もあってか両親と同居することなく、これも仕事で当地に所帯を落ち着けるまで、関東エリアでしたが数箇所にわたって住居を移している。
 その間あたしから見て、いろいろ浮世の辛酸を彼女らなりに味わったはずある。そしてこの地にきて15年の余、娘も二十と高校三年の子の親として、やっと僅かながら人生の基盤に腰を下ろしかけたといえるのではないのだろうか。しかし正直その生活ぶりを見るに、余裕には程遠いのではないかと案ずるもするが、しかしそれもよしとするべきと思う。健康で睦まじく、学生を除いて家族三人で働いている姿をみれば、幸福の二字に包まれている家族と思う。
 
 娘が嫁いで20年の余、世の移ろいはその速度を増していた。義母は既にこの世になく、下の孫の七才の祝いの宴には義父とあたしら夫婦だけの参席であった。そして義父はなんの波風たてることなく、下の息子二人との生活に入り、その後その息子は結婚し、自然と同居するかたちとなっていた。あたしも家内も娘に対して、極力こっちへは来なくともよいから、義父の許を訪ねるように言い、義弟夫婦にたいしてなにかと気配りを忘れるなと説き続けていた。
 その娘の義父もあたしより年上ではあったが、数年前に下の息子夫婦の看病の許に亡くなった。あとは自ずと分かって頂けると思う。全て自然の成り行きで、以前娘をこっちへ引っ張るなんて心積もりをした自分が疎ましくてならぬ。五年前娘夫婦が家を購入するさい、それを機会に同居の話が娘からあった。
 「遠く離れていては、いざ病気となってもすぐには駆けつけられない。看病するにしてもままならぬから、同居しない。」
 それにたいして家内は
「どっちか一人になって、足腰たたなくなってから世話になるより、元気なうちから同居したのが正解かもよ、お父さん」
 家内がそう考えるなら、あたしには異存はなにもない。
「そう言ってもらえるうちか花かもな」
 そんなことで同居が決まり、まだ元気だった猫を連れて、娘の連れ合いの運転する迎えの車に乗った。

 あたしは今安堵していることは、娘の家族と義弟夫婦の仲の良いことである。行き来があり、亡くなった両親の仏事に娘夫婦は孫を伴い誘いに欠かさず応じている。孫たちも年下の従兄弟が可愛いと帰ってからあたしらに話す。