12月30日(土)
昨日29日で「昔のお話です」が一区切りつきました、おかげさまですという以外発する言葉はありません。そして自分ながら途中でよく投げ出さなかったものと思います。いろいろその理由を考えますと、小さいことながら一つの歴史を書くことについて、気張らないということを前面に押し出しました。肩肘を張らず、忘れたことは無理に追いかけない、記憶はそのまま、自分でこれは事実であると納得させることでした。それが考証された事実と相違があっても、あたしの頭の中にはそれ以外記憶として残っていませんから、あたしにとっては何事にも変え難い事実ですと。そう強引にきめつけました。
そうしたことでずいぶんと気が楽になり、次々と記憶がよみがえって参りました。汲み上げる記憶は楽しみでありました。また悲しみでもありました。しかし書くことによって、われ生きるしるしあり、そんな昂揚した気持ちになったこともありました。お許しをいただければ誇らしげな、自分を褒めてやりたい、そんな尊大な、恥ずかしいことですがそんな気分に浸ったこともありました。赤面の至りです。
繰り返しになりますが、書く過程においてこれは事実と違うのではないか、事の起きた月日が、実際と相違しているのではないかといった恐れが多分にありました。読んでくださる方々に事実を違えて報告して許されるのか。
ですがあたしは敢て考証の仕事を避けました。それによって思考の中断を恐れたのです。スムースに紐解かれる記憶が断絶し、大袈裟な言い分になりますが、このまま記憶が帰ってこないのではないか、そんな気がしたのです。またもう一つの心配は尊大と取られるかもしれませんが、文脈が無味乾燥なものになってしまうということです。
手近な年表を開き、何年何月何日これこれの歴史的事件、あるいは小さな街の事件、それによって確実なる史実を考証しても、単に事を羅列するに過ぎないとおもったのです。
そのとき、そこにあたしはいた。薄れた記憶ながらそれをありのままに書いていく。たとえ事実と相違があっても、あたしはそこに読んでくださる方に、つたない書き物ながら、温もりを感じていただけたらと思ったりしました。
そして書きました。お読みくださりありがとう御座います。