うたのすけの日常

日々の単なる日記等

うたのすけの日常 昔のお話です「番外編」

2006-12-30 06:37:33 | 昔のお話です
        どうにかこうにか四十編書き上げて

 12月30日(土)
 昨日29日で「昔のお話です」が一区切りつきました、おかげさまですという以外発する言葉はありません。そして自分ながら途中でよく投げ出さなかったものと思います。いろいろその理由を考えますと、小さいことながら一つの歴史を書くことについて、気張らないということを前面に押し出しました。肩肘を張らず、忘れたことは無理に追いかけない、記憶はそのまま、自分でこれは事実であると納得させることでした。それが考証された事実と相違があっても、あたしの頭の中にはそれ以外記憶として残っていませんから、あたしにとっては何事にも変え難い事実ですと。そう強引にきめつけました。

 そうしたことでずいぶんと気が楽になり、次々と記憶がよみがえって参りました。汲み上げる記憶は楽しみでありました。また悲しみでもありました。しかし書くことによって、われ生きるしるしあり、そんな昂揚した気持ちになったこともありました。お許しをいただければ誇らしげな、自分を褒めてやりたい、そんな尊大な、恥ずかしいことですがそんな気分に浸ったこともありました。赤面の至りです。

 繰り返しになりますが、書く過程においてこれは事実と違うのではないか、事の起きた月日が、実際と相違しているのではないかといった恐れが多分にありました。読んでくださる方々に事実を違えて報告して許されるのか。
 ですがあたしは敢て考証の仕事を避けました。それによって思考の中断を恐れたのです。スムースに紐解かれる記憶が断絶し、大袈裟な言い分になりますが、このまま記憶が帰ってこないのではないか、そんな気がしたのです。またもう一つの心配は尊大と取られるかもしれませんが、文脈が無味乾燥なものになってしまうということです。

手近な年表を開き、何年何月何日これこれの歴史的事件、あるいは小さな街の事件、それによって確実なる史実を考証しても、単に事を羅列するに過ぎないとおもったのです。
 そのとき、そこにあたしはいた。薄れた記憶ながらそれをありのままに書いていく。たとえ事実と相違があっても、あたしはそこに読んでくださる方に、つたない書き物ながら、温もりを感じていただけたらと思ったりしました。
 
 そして書きました。お読みくださりありがとう御座います。

うたのすけの日常 わたくし事の続きです

2006-12-25 09:31:20 | 芝居話

上は舞台のスナップ写真です
                        下は頂いた花束花瓶に活けました    


 

 今朝も当地はいい天気です。三日続きとなります。昔のお話2ちょっと息抜きしました。申し訳ありません。
 あすから気を取り直して書いていく所存でおります。よろしく願います。


うたのすけの日常 最後の出演でした

2006-12-24 21:36:33 | 芝居話

        わたくし事ながら劇団をやめました

 
12月23日(土)晴れ
 緞帳が上がり出演者一同舞台に並び頭を下げる。ファンから花束を頂く。ロビーにてお客さんをお見送りをすます。楽屋に戻りほっと息を吐く、もろもろの感情を込めて。
 花束に添付されたお子さんのレターを読む。
 「公演おめでとうございます。今日私は見に行けなかったので、また今度うたのすけさんのしばいを見たいと思います。今日の公演でやめるという話も聞いてますが、やめないで、これからもがんばってほしいと思います。これからも、風邪に気をつけてがんばって下さい!!」

 去年の十月退団届けを提出したのですが、受理されぬまま一年の余宙ぶらりんでした。やっと今回の公演を機会に形のうえで退団が決まりました。しかし肩書きがつきました、名誉団員。今後なんかの時は駆けつけるという余韻を残した処理ということでしょうか。
 打ち上げ後、稽古場に泊まる。若い団員が布団を敷き、暖房の設定に気を配ってくれる。

12月24日(日)晴れ
 帰りの車中で劇団にメールを送る。「日本一の幸せ者今車中」それと花束を頂いたお客様に「花束を抱いてにっこり帰途につき」
 因みに今回は朗読に出演、オキ・シローさんのショートストーリーより、「粋なピンクジン」をカウンター・バーのセットを背に読みました、ジャズ・ピアノの生伴奏に乗せて。
 満席の場内にいささか興奮しましたが無事終わりました。
 
 今回の朗読は劇団から遠く住まいが離れてしまい、劇では稽古がままならぬため、一人稽古に励めるといった劇団の配慮からでした。
 こうしてあしかけ二十年の劇団活動に終止符をうちました。

 

 


うたのすけの日常 今日は冬至

2006-12-23 04:52:28 | 身辺雑記

 12月22日(金)曇り

 どんよりとした空模様、さむい一日だった。例の如く悪循環とでもいうのか、夜起きていられず、九時には寝てしまうので明け方四時には完全に目覚めてしまう。夏場なら散歩に出る手だてがあるのだが、冬場ではそうもいかない。当たり前の話、外は真っ暗おまけに寒い。せめて六時までは寝ていたいので、夜懸命に起きていようと努力するのだが、子供じゃないが八時にはあくびをしだし、瞼が自然と重くなり、とどのつまりは布団に入ってしまう。
 
 今日は冬至、かみさん昨日からかぼちゃをスーパーで、出来合いのを買うか自分で煮るか悩んでいる。孫たちはともかく、娘まで好みではないのである。たくさん煮ても二人だけではいつまでも残るし、少しばっかり煮るのも不得手だしというわけである。
 そんな話を交わしていると近所のおくさんがくる。ごぼうを三本持ってきてくれる。かみさん朝方玉子の安売りがあってでかけた時、散歩の途中の奥さんに会って安売り云々と話すと、奥さんも買いたいが、散歩の途中で財布を持っていないと残念がるので、かみさんいいから一緒にいきましょうと、玉子代立て替えたそうな。そのお礼というわけである。

 ごぼうは田舎から貰ったのだと言っていた。あとでここも田舎じゃないのとかみさんに言うと、実家のこと言ってるんでしょうと。なるほど、近所から嫁入りしてきたんだ、女性にとって生まれた在所は実家であり、田舎というわけか。なんだかよく分からんが納得する。

 かぼちゃは結局スーパーへ行って現場で判断することにした。午後から一緒に家を出る。かぼちゃ一個買うのに二人で行くこともないのだが、昼前散歩していなかったので、足慣らしにと腰をあげたのである。
 かぼちゃ四分の一のが90円、その半分ぐらいの量で煮てあるのが300円からする。かみさんためらわずに四分の一のを籠に入れる。あと柚子を買い、小生三時のおやつに茶饅頭を籠に、あと石衣とかりんとうを追加する。

 そんなわけで夕方早々に柚子湯につかり、きんぴら、かぼちゃを食する。かみさん味どう、と聞くのでうん、よく煮えてると返答して今日一日は終わった。


うたのすけの日常 歯医者と床や

2006-12-20 18:59:48 | 身辺雑記

12月20日(水)晴れたり曇ったり

 昨日は歯医者へ行って、抜歯の日をを年明け早々の五日と決める。確か先々月六ヶ月検診で、右奥のかぶせた歯に違和感があると訴えたのですが、医者は金槌でかんかん叩いて、大丈夫でしょうのご託宣。それが数日前になって、腫れてきて咀嚼か痛くて出来ない事態となったので、慌てて駆け込んだということです。

 早速今回も金槌でかんかん、痛くない。医者は手で揺らす、思わず唸る。レントゲンを撮りますということで、レントゲン室で撮影。しばし椅子に戻って待機する。医者写真を手に、大変なことになってますよ、歯の根っこが折れててそこが化膿してます、抜歯してブリッジで義歯にします。今日抜きますか、長くかかりますか、これはあたしの質問。ですからホントは今年は押し詰まってますから、明けてからのがよいと思います。ではそのように願いますと診察台で頭を下げる。差し歯が一本あるだけで、完全無欠の歯がとうとう一本消える。無念ではあるが、これで人並みと諦める。

 一応化膿止めの薬と痛み止めの薬を頂く。腫れがひどくなったり、痛みがひどかったらいつでもきてください。ありがたいお言葉を後にして帰り、抜歯の日を決めたのが昨日のことなのであります。
 そして痛みもなし、腫れてもこないし気分もよし。天気もまあまあなので床屋へ行こうと思い立ったわけです。するとかみさん、あたしも一緒に行くという。最近めがねをかけなくては顔を剃れなくなって、手で摘めるぐらいに伸びちゃっているというのであります。別にかまわないから一緒に行きました。

 床屋はバスで行きます。目医者へ通うさい、たまたまとびこんだその床屋が気に入り、爾来利用しているわけです。その床や多少お喋りが過ぎるのですが、五月蝿く感じたりしたら眠ったふりをします。
 あたしが先、床やかみさん相手に釣りの話から熊の出没の話と弾みます。あたしは目をつむっているうちにうとうとする。かみさんに替わって終わりです。料金を払う。あたしが三千円、かみさんが二千円、相場より安く、バス代二人で千百二十円使っても安いと思う。それにあたしの場合、医者通いのついでにかかるのですから。

 昼近くなっていたので、スーパーを一巡してから喫茶店で、サンドイッチを食して帰りました。

 


 


うたのすけの日常 みかんの収獲

2006-12-09 05:55:06 | 身辺雑記



12月8日(金)曇り時々雨  鳥に食べられ大慌て
 
 
鳥は利口である。目に入らない反対側のみかんを何個かついばんでいる。くちばしの黄色い鳥、鳥には詳しくないのだがもずではないだろうか。食い荒らさないで一個づつきれいに食べてくれればいいのだが、致し方なし。もう少し眺めていたかったのだが、急遽もぎることにする。鳥用に五六個残す。みかんの枝にとげのあることをはじめて知った。よくみかん狩りのニュースを見るが手を刺さないのだろうか。

 数えてはみないが50個はあるだろう、豊作であると思う。鳥が食べるぐらいだから甘いに違いないと、期待がふくらむ。去年は鳥は見向きもしなかったのだから。

試食、期待外れる。甘味4酸味6といったところか、みかんは多少すっぱくなくてはと自らをなぐさめる。





うたのすけの日常 禁煙の経済効果

2006-12-03 10:39:31 | エッセー

         禁煙から派生したいろいろな話

 
午後かみさんと連れ立ってスーパーへ行く。往復ゆっくり歩いて30分か、まあ散歩がてらの買い物、適当な距離であろう。買い物はおやつ、間食の菓子類が目当てで、買い上げたもの下記の通りである。そんなにしゃちこばっていうほどのことはないが。
  
  
五家宝       170グラム        170円
  黒糖かりんとう   170グラム        170円
  ぬれ煎餅                     298円
  あげ餅                      178円
  オールレーズン                 118円
  チョコビスケット                 105円
  カクテルサンド                  291円
  でかどく京味風   230グラム        291円
  みかん                       498円
  合計                        2006円

 以上の買い物をすませて帰路についた。何故に子供だましみたいな菓子類を買うかのかというと、要は口さびしいのである。それは禁煙をしたせいである。
 去年の今ごろ禁煙の決断をしたのだが、禁煙についてはベテランである、過去に何度禁煙したことか。しかし長くて一日、短くて一時間、アットいう間に吸い出す。それはしょうがないでしょう。なにしろ吸い出したのは一応成人してからとして、50余年吸ってるのです。

 しかし今回の禁煙が続いてるのは条件がよかった。その一、煙草の値上げ、あたしの煙草は300円になった。第二に自販機まで歩くしかないのだが往復30分かかる。そして第三、家族は六人、吸うのはあたしだけということ。四面楚歌である。
 娘夫婦と暮らすようになってあしかけ五年、世間では周りの人の健康をも害するという。ほんとうかなあと一応首をかしげる。なぜなら、かみさんはあたしとくらして50年、鼻つきあわして暮らしてきてるのだが、持病はあるがまあまあ元気だし、飼い猫の花は二十数年ともに暮らし、世間相場以上に長生きして老衰で死んでいる。まあそれはおいといて、一番の原因は値上げですね。
 
 ひと月40箱は吸います。単純計算して12000円。年に144000円ですね。
月12000円でなにがまかなえるかというと、あたしの場合ぷららの利用料6510円、携帯の電話料3600円の計10110円也です。お釣りがきます。
 そんな計算してたらついでだと思って、つまんない計算を始めてしまった。一年に支払った煙草銭が144000円、過去55年七百九拾弐萬円だあ。

 だからどうだっていうことは言っておりません。反面考えるんですよ、煙草をやめてよかったのか、この齢になっていまさらと。口さびしいといって今まで食べたこともない菓子を食べる、考えたら極端な話、年中口をうごかしている。おかげてこの一年で七キロ太ってしまいましたよ。これではコルステロールとか肝脂肪、体脂肪の心配も出てくる。しかしいまさら喫煙に戻る気は毛頭ありません。このまま通します。

 余談になりますが、以前友人と飲み屋で一献傾けながら話したんですが、よく世間で日本が今日の繁栄をみたのは、先人、これはあたしたちぐらいの年配者をさしいるのだが、傍目もふらずに働いたおかげというがホントかねと。俺たち、それからあいつも、あいつもと、お互い友だちの名をあげて、そんなに働いたかな、がむしゃらに。ハタラカナイとあたしは即座にいったものである。相手も相槌を打ち、年中飲んで歩いていたものな、お前もおれも。日本の繁栄になんか貢献してなんかいないよと。だが待てよと友人はにやにやしながらいったものだった。

 ようっ、こうして毎日煙草を吸い、夜な夜な酒を飲み歩いた。煙草だって半分以上税金だし、酒税はべつにしたって、飲食税遊興税、これは昔あったのです。飲食店には必ず税率が書かれた紙が貼られていたものです。それから押すと俺たち、もろもろの税の上に、ずいぶん税金払ってきたものだと。
 
 「日本経済の発展に及ばずながら貢献してきたわけだ」。これはそのときのあたしの結論でした。