警察は 逃走犯に 侮られ
お役所は 障碍者を 敬遠か
熱中症 危険個所に 病院も
家族間 殺し殺され とどめなく
死体遺棄 死体損壊 果てしなし
恋人間 あっという間に 切った張ったに
犯罪の 陰に男女も 同権に
痛ましや 幼児虐待 茶飯事に
警察は 逃走犯に 侮られ
お役所は 障碍者を 敬遠か
熱中症 危険個所に 病院も
家族間 殺し殺され とどめなく
死体遺棄 死体損壊 果てしなし
恋人間 あっという間に 切った張ったに
犯罪の 陰に男女も 同権に
痛ましや 幼児虐待 茶飯事に
益々暑さが増していく日々
かみさんとボケの、サバイバルゲーム展開中といった日々が続いています。願わくはお互いに可愛らしく惚け、互いに揚げ足取りなどせず、互いに笑みを絶やさず、あの世に行きたいと思っています。どちらが先か、こればっかりはどう転ぶかわかりません。強いて言わせてもらえば、あたしが、一日でも早くにと切実に考えております。かみさんの世話は娘に、大変なことだがお願いするしかありません。娘のことです、上手に要領よく看てくれるはずです。それに、娘の亭主が限りなく優しいのでその点安心です。孫が二人とも娘なのが強みと、勝手に信じております。
何年か後に、アレッ、こんなこと書いていたのかと、かみさんと笑いあっている自分を、想像したりもしています。
実は前日行くつもりだったが
よりによって、暑さのぶり返した昨日になってしまった。でもそれが良かった。捨てる神あれば拾う神在りで、結婚している下の孫娘が夜のうちに遊びに来ていて、送り迎えしてくれるという。昼過ぎに帰ればいいのだそうだ。
九時出発。車がなければ当地では暮らしにくいと、つくづく実感する。先ずは内科、いくらか腎機能の数値が良くなっているとのこと。息苦しいのは、心臓の状態は問題ないので、原因は遥か昔の結核の手術の後遺症ということだ。情けない話である。
次は跳ね指の経緯を診てもらう為に整形外科へ。患部に懸命に塗り薬をすり込んでいたのだが効果なく、結果として許された二回目の患部への注射をすることになった。それで駄目なら手術である。左はそれで完治している。看護婦さんが二人スタンバイ。先生入念に患部を消毒、細い注射器、長い針五センチぐらいあるか。これが痛いのである。半端ではない。うううっと呻いて手が丸まりそうになる。看護婦さんが手の甲を抑え込む。なんたって患部に針をえぐるように動かすのだ。手術のがよほど苦痛がない。なんたって麻酔を注射してくれるのだから。
昨日は甲子園、休養日?で試合なし。
昨日のうちに水戸行きは決めていた。昼近くにバスで出かける。相変わらず客はガラガラである。駅に入り先ず金をおろしショッピングであるが、格別買うものはなく、食が進まないので佃煮を二種類購入。後はぶらぶらして食事を済ます。娘と孫に土産を買い、これで一応用は終わってしまう。かみさんは元気だが、小生は体力限界情けなし。タクシーで早々と帰宅する。
今日もこの涼しさならと。
久しぶりに水戸駅まで出かけようと、朝からその腹積もりで居たのだが。好事魔多しで腹の調子が悪く、早々に水戸行きを諦める。娘がサッカーに行くから、夜のおかず買ってきておくというが、あるもので済ますからと断り、今日も一日高校野球と決める。正露丸を飲み万全の構えで時間まで横になって待機する。しかしあの暑さが夢のように消え、少しは体の調子も良くなるだろうと期待する事大である。
要は、息切れが解消しなくてはならないが、肺がぼこぼこと言われているので、望みは持たないほうが良いと思っている。
終戦の日を挟んで
新聞テレビと盛んに終戦時の悲劇惨劇を報じている。特にソ連の邦人に対する残酷さは、シベリヤ抑留を主として人間性の、ひとかけらもない仕打ちである。よく新聞などで、中国や韓国に対して日本人の好感度の世論調査が行われている。その結果はともかく、ロシヤに対して行われたという話は聞いていない。北方四島返還に関しては、もちろん要求に積極的ではあるし、政府も先導して運動を続けていることは承知している。もしも好きか嫌いかの調査をしたら、嫌いと答える人は100パーセントだと思う。あたしも勿論大嫌いである。しかし政権に対してであって、国民に対してはその限りではない。これははっきりしておかねばならないであろう。
不可侵条約を結んでいた瀕死の日本に対し、火事場泥棒、いや、放火泥棒そのものの行為で樺太は勿論、北方四島を占領して未だに澄まし顔の厚顔振りである。
そればかりか満州になだれ込み、多くの婦女子を凌辱し、逃げ惑う邦人を虐殺し、挙句の果てに満州の施設を自国に運び込み、一緒に日本人を抑留するといった徹底ぶり。そして悪条件のもと強制労働に就かせる。まさに悪魔の仕打ちである。
ところで安倍政権は、心底ロシアが北方四島を返還すると思って、交渉を続けているのだろうか。はっきり言って、経済協力を餌にいいように、手玉に取られているような気がしてならない。
戦争の終わった日のことは、年々記憶から薄れてきて、特に最近は加齢の故か遥か彼方のことになってしまった。当時わたしは福島に学童疎開をし、終戦の年国民学校を卒業して、家庭の事情もあって数人の仲間と地元の中学に入り、下宿生活をしていた。
田舎の町でもある日、艦載機の空襲を受け、かなりの被害を被っていた。そしてその日昼前に家族の人たちと協力して、作っていた防空壕が完成したのである。そして食事もそこそこに、下の座敷に置かれたラジオの前に、家族や知り合いの人が集まって重大放送を待った。内容は良くわからなかったが、大人の人の解説で戦争の終わったことを知った。
当時の心境は今は定かではないが、ほっとしたことは確か、これで東京に帰れると徐々に嬉しさがこみあげてきていた。そして夜になってのことは、鮮明に覚えている。電気を煌々と付け、灯りが前の畑を映し出したのをみんなして眺めていた。その時、何処からか「疎開ら、電気なんか点けるな」怒鳴り声が聞こえた。私たちはその何処かに向かって怒鳴り返した「もう戦争は終わったんだ。空襲なんかもう無いんだ」と。
選手たちの先ずは、用具や身の回りの持ち物について。
以前は気にならなかったのだが、今年で100回記念大会ということで、気付いたことを並べてみる。その様子は選手たちの、試合が終わって退場するときに見られる豪華さである。何しろ揃いのリュック、肩からさげる大きなバッグ。おそらく高価なものに違いない。ここで映画の一シーンを紹介する。「幸せの黄色いハンカチ」。高倉健が旅先での若い男女のやりとりで、男をたしなめる台詞である。正確ではないが、草野球のキャッチャーみたいな真似はするな、と。その落ちは「ミットもないことはするな」である。戦後、三角ベースで板切れのバットで遊んだ小生にとって、身に染みる台詞あった。
それから選手たちのグローブと技術的な面である。素人がと笑われるのを承知で並べる。キャッチャーミット。テレビを通しても、その柔らかさ手に取るように分かる。それで捕球は片手取りである。左右高低のボールを自在に捕球、次の動作に素早く対応している。昔の大きなフライパンのようなミットでは、素手の方で抑えなければ、とてもではないが捕球は出来ない。
内野外野の捕球動作。よく聞いた話だが打球を正面で、腰を落として両手で捕球。外野もフライは両手で捕球。今は走りながら片手ですくうように、それも挟むように捕球して投球している。見事な手捌きである。以上妄言多謝。
地元茨城の代表が、一回戦で敗退。
いささか気落ちしたが、この季節甲子園から目を離す訳にはいかない。連日熱戦を堪能している。ところで小生の応援のルールは単純である。細長い日本列島を横切りにし、先ずは出生地の東京、そして関東地方を応援。そして東部分に移り、縁のある県で学童疎開で世話になった福島。昔、家業を手伝ってくれた子の出身地の山形。アマ劇団で公演した鳥取県等〃で、もしも縁の深い県同士がぶかったら致し方なしで、両者を応援するしかなしである。
台風の影響で幾分涼しかったが、台風去って今日は朝から暑いこと。
ここ数日家に閉じこもっていて、欲しい物は娘や孫に頼みっぱなし。これでは足が萎えて益々歩行が儘ならぬことになると、今日は一念発起。十時過ぎに買い物車をかみさんが押してスーパーへ。玄関を出た瞬間ウオー、暑いと吠える。まるで熱波を浴びたようである。スーパーまで15分ぐらいの距離だが、汗をかくからゆっくり歩けば熱気に翻弄され、足早に歩けば息が上がる。ほうぼうの体でスーパーに飛び込んだ。
入り口傍のベンチで、しばし涼気に当たって息を整える。当分娘たちに余計な負担をかけないよう、メモを見ながらあっちこっち行ったり来たりして買い物を済ます。家に戻って買い物を整理するのが一仕事。やっと一息ついて高校野球の続きを見る。