娘 「駅長さん、駅長さん」
N やさしい声が乙松を呼んでいる。
乙 「誰だあ、こんな時間に。急病人でも出たんかい」
N 蒲団をかぶって眠りこける仙次を気遣って、乙松は足音を忍ばせた。カーテンを開けると、赤いマフラーを巻いた女の子が、出札口に肘を乗せていた。ゆうべの子供より大きいが、一重瞼の目元が良く似ている。
乙 「やあ、忘れ物を取りに来んなさったのかい―、あんた、姉さんかい」
娘 「お人形さんがないって泣くから」
乙 「そりゃ感心だわ。あんたら見かけないけど、どこの子だい」
娘 「天神様の近くの、佐藤」
乙 「へえ。したって佐藤っても、ここらの家はみんな佐藤だべさ」
―間―
娘 「おじいちゃんちに、来たの。お正月だから」
乙 「一人歩きは危ないべや。まあ、ここら熊は出んにしても、雪に嵌まったり土手から落ちたりすりゃ、命にかかわるべ。送っててやるから、待ってんさい」
娘 「いいですいいです、近いから。お月様で明るいし」
乙 「あんた、いくつだね」
娘 「十二です」
乙 「へえ、中学生かい。ちょっとちっちえな」
娘 「まだ六年。こんど中学なの。あの、駅長さん―」
N 少女は寒そうに足踏みしながら、少し言いよどんだ。
乙 「はあ、小便かい。トイレは改札を出て右。待ってろや、電気つけるで。ホームの端っこだがね」
N スイッチが入れられ、鈍く瞬きながら、雪のホームが照らし出された。
娘 「あのお、おっかないから、随いてってけらっしょ、駅長さん」
乙 「はいはい、行ってやるべさ―、なんもおっかなくないべや。ああ、よしよし」
N 小さな掌を握ると、乙松は悲しくなった。なんだかゆうべの妹も、この姉も、死んだユッコのような気がしてならなかった。こんな気分になるのも、あと三カ月で終わる暮らしのせいなのだろうか。
風邪さえひかせなければ、ユッコもきっとこんなふうに大きくなって、毎晩トイレ通 いに自分を付き合わせたことだろう。それもこれも、医者さえいないこの村に生まれて、すきま風の吹く事務室つづきの部屋に寝かせていたからだ。仕事が子供を殺してしまったのだと思うと、乙松はやり切れない気持になった。
トイレの前で少女を待つ間、乙松はぼんやりと向かいのホームを見つめた。
十七年前の吹雪きの朝に、女房の腕に抱かれたユッコをあのホームから送り出した。いつにかわらず指差喚呼して、気動車を見送った。そしてその晩の気動車で、ユッコは同じ毛布にくるまれ、ひやっこくなって帰って来たのだった。
妻 (あんた、死んだ子供まで旗振って迎えるんかい)
乙 (したって、俺はポッポヤだから、どうすることもできんしょ。こんなもふぶいてるなか誰がキハを誘導するの。転轍機も回さねばならんし、子供らも学校おえて、みんな帰ってくるべや)
妻 (あんたの子も帰ってきただべさ。こんなんなって、ユッコが雪みたいにひやっこくなって帰ってきただべさ)
N 妻が乙松に向かって声を荒げたのは、後にも先にもその一度きりだった。
押しつけられた、なきがらのよろめくような重さを、乙松は忘れない。それはたしかに、凍える転轍機より重かった。
記憶の中で、もう一つの声が甦った。
秀 (おっちゃん。ユッコ、死んじまっただか)
N 高校生だった仙次の息子の声だ。ズックのカバンを放り出して、秀男は夫婦の中に割って入り、立ちすくむ乙松の腕からユッコを奪い取った。
秀 (やあや、ユッコかわいそうだね。俺の嫁さになるべかって思ってたんだけど、おばちゃん、ごめんな。したって、おっちゃんは俺らのために旗振んなさってんだから、叱らんでくれしょや。な、おばちゃん)
N 辛い思い出を綿入れの懐にしまい、乙松は襟をかき合わせて俯いた。
春になってポッポヤをやめたら、もう泣いてもよかんべか、と思った。
N トイレから出てきた少女に、乙松は胸の中で温めていた缶コーヒーを手渡した。
乙 「あんた、めんこいねえ。おかあさんもさぞ美人じゃろう。さあて、誰の子だろかい」娘 「はい、半分こ」
乙 「おじさんはいらんよ。遠慮せんで飲みんさい」
N 少女は缶コーヒーを飲み干すと、乙松の袖を引いた。手振りで屈めと言う。
乙 「なんね」
N 顔の高さに腰を屈めると、やおら少女は乙松のうなじを抱き寄せた。口うつしのコーヒーが乙松の舌の上に流れ込んだ。
乙 「うわあ、いきなりなんだね。びっくらこくでないかい」
娘 「駅長さんと、キスしちゃった」
乙 「こら、おだつんでない。まったく、いたずらな子だな」
娘 「そんじゃ、あしたまた来るからね。バイバイ」
乙 「ああ、バイバイ。気をつけてなあ、道のはしっこ歩くと雪に嵌まるで、急ぐんでないよ。こら、走るんでないってば」
N 人形を抱いて事務室に戻ると、乙松は机に向かって、記入する事項など何もない旅客日報を付け始めた。
《電話の音》
N 札幌の本社から電話が入ったは、仙次が朝の気動車で帰ったその日の午後である。本社と聞いて思わず直立不動になった乙松の耳に、懐かしい声が聴こた。仙次の息子の秀夫だった。
秀、「おっちゃん、あの、幌舞線の廃線のこと―、今さっき書類をそっちに送ったんです。そんなふうじゃあんまりおっちゃんに失礼だと思って、一言おわびを」
乙 「なんもなんも。そったらことより、おめえずいぶんと上役の人に無理ばかり言ってたんでないかい。出世に響くようなことはないだべか」
秀 「いや、俺はなんもしてないです。むしろおやじがね、本社に日参していろいろ上の人にかけ合ってくれたりして。美寄の町で毎年一万人からの署名も集めてくれたんだ
よ」
乙 「やあ…そうかね。知らなかったあ」
秀 「こったらこと息子の口から言うのも変だけど、だからおっちゃん、そりゃ言い分はあろうけど、おやじのこと恨まんでやって。すんませんでした、この通り。俺の力が足らなかったです」
乙 「いや、なんも…もったいねえべや、課長さん」
間
秀 「おっちゃん、俺はね、心の底からおっちゃんに感謝してるんです」
乙 「はんかくさいこと言うんでないって。照れるわ」
秀 「いや、本当なんです。俺、ずっと頑張ってこれたのは、おっちゃんが雨の日も雪の日も、幌舞のホームで俺らを送り迎えしてくれたからね、うまく言えんけど、俺、おっちゃんに頑張らしてもらったです」
乙 「そんなことで北大に入れるものかね。上級試験の試験だっておめえ―」
秀 「だから俺、うまく言えんけど。みんなもそうだと思うよ。東京に出た連中だってみんな、おっちゃんのこと忘れてやしないから」
乙 「はあ…そうかね。たまらんわ」
《受話器を置く音》
N 受話器を置くと、力が抜けた。何だか半世紀の時間の重みが、いっぺんに肩にのしかかったようで、乙松は事務机に両手を付いたまま、しばらく立つことも座ることもできずにいた。
午後になってまた降り出した雪、ふと、出札口のガラスが叩かれて乙松は顔を上げた。おさげ髪の女子高生が、ギャバ地のコートの雪を払っていた。
娘 「こんにちは、駅長さん」
N ていねいに頭を下げるしぐさに見覚えがある。ゆうべの子供たちの、またその上の姉が忘れ物を取りに来たのだと気付くと、乙松のこころはたちまち晴れた。
乙 「あれえ、あんたまた姉さんかね」
娘 「わかりますか?」(おかしそうに笑う)
乙 「わかるもなんも、声から顔からそっくりだべや」
娘 「きのうは失礼しました。ごめんなさい、駅長さん」
乙 「なんも。遊んでもらったのはこっちだべや。さ、お入り。そこは風が抜けるで、…みんなして、親御さんの里帰りかね」
娘 「はい」
乙 「ははあ、あんたら、円妙寺の良枝ちゃんの子だべ」
娘 「え?(又コロコロと笑う)似てますか」
乙 「ああ、良枝ちゃんの高校生のころとそっくりだべさ。やあ、やっと胸のつかえがおりた。誰の子だべやって、ずっと考えてたんだわ。さ、お入りな。そうとわかれば汁粉の一杯もふるまわねば」
N おじゃまします、と少女は事務室の扉を開けた。コートを脱いできちんと畳み、ストーブに手をかざす。横顔が輝くばかりに美しい。
ふと、紺色に白いリボンのついたセーラー服を見て、乙松は愕いた。
乙 「あれえ、その制服、昔の美寄高校のとそっくりでないの。今はブレザーに変わっちまったけど、はあ、そうしているとまるっきり良枝ちゃんだわ」
《吹雪の効果音》
乙 「やあや、ふぶいてきちまったなあ。ゆっくりしてったらよかんべ。横なぐれに吹いてるし」
N 答えがないので振り返ると、少女はいつの間にか座敷に上がって、棚に飾られた乙松のコレクションに見入っていた。
乙 「おや、あんた好きなんかね」
娘 「高校のね、鉄道同好会に入ってるの。女子は私ひとりなんだけど」
乙 「へえ、珍しいねえ。よかったら、何でも好きな物持って行きんさい。金なぞいらんよ」
娘 「ほんとに、デゴイチのプレートでも?」」
N 娘は汁粉を食いおえると、勝手知ったる家のように、すうっと台所に消えた。薄暗い台所に百合の花のようなセーラー服の背を向けて、少女は水を使い始めた。
《茶わんを洗う音、音楽》
娘 「ねえ、おじさん。もっと話きかせて」
N 少女は決して饒舌ではなかったが、老駅長の語る思い出話を、いちいち感動をこめて聞くのだった。自分でもどうかしていると思いながら、乙松は半世紀分の愚痴や自慢を、思いつくはしから口にした。ひとつの出来事を語るたびに、乙松の心は確実に軽くなった。
一番つらかったことは何かと訊かれて、乙松は娘の死を語らなかった。それは私事だからだった。佐藤乙松として一番つらかったことはもちろん娘の死で、二番目は女房の死にちがいない。だがポッポヤの乙松が一番悲しい思いをしたのは、毎年の集団就職の子らを、ホームから送り出す事だった。
ポッポヤはどんなときだって涙のかわりに笛を吹き、げんこのかわりに旗を振り、大声でわめくかわりに、喚呼の裏声を絞らなければならないのだった。ポッポヤの苦労とはそういうものだった。