うたのすけの日常

日々の単なる日記等

ハーレーと鼾

2006-04-21 10:01:00 | エッセー
 目的地の磐梯熱海のホテルに着いたのは三時ごろか、既に周辺は夕方の気配が漂う、何年か前の秋も深くなったころだ。
 わたしその日、車での東北旅行の途中だった。同行者は妻、そしてあたしと妻の友人、AとB総勢四人の気ままな旅行だった。

 駐車場から玄関に向かおうとしたその時である、なにか辺りの空気を震わす鈍い連続音が響いてきた。振動は轟音を加え、一群のオートバイが駐車場に続々と進入していく。隊列も整然と。わたしの脳裏を戦時中にみたニュースの一こま、ドイツ機甲師団の圧倒的な侵攻振りがよぎった。

 乗ってきたワゴン車も、ほかの車も悄然と霞むほどに、駐車場を埋めつくすオートバイの大群、圧巻である。
 玄関の看板に書かれた文字は、東北六県ハーレー愛好なにがしとある。ロビーに大挙して乗り込む人たち、ほとんどが中年以上、なかにはヘルメット片手に乱れた髪に手をやる女性もいる。

 わたし達は早々に部屋にいく。明日の行程を思って早目に寝ることにした。
 Aが自分の布団を壁際ピッタリに引っ張っていく。
 「おれ、鼾かくから」。
 妻が「あたしたちみんな寝付きがいいから心配無用よ」と言う。
 だがわたしは寝付きが悪い、一分とたたないだろう、鼾が聞こえてくる。不思議だ、壁際からではない、天井から。それも急速に音量を増し、爆音といっても大げさではない凄まじさ、そっと薄明かりの中壁際に目をやる。分かった、鼾は壁を伝って天井を這い、降り注ぐのだ。鼾が降るとは初めての体験である。

 翌朝早立ちの車内、心なしか元気なのはAだけのようだ、窓をよぎる紅葉の見事さも話題にならず、そのうち後ろの席で女二人が、くすくすと笑い出す。そしてBがこらえ切れないといった調子で言った。
 「あたし、ハーレーが何百台もお部屋に飛び込んできたと思ったわ」
 
 車の中は爆笑の渦と化し、帰り着くまで鼾の話は尽きなかった。

幼馴染の死  徐々に淋しさは募る

2006-04-12 06:19:50 | エッセー

 小学生時代からの親友に、死なれてしまった。戦争で辛酸を共に味わった人たちが、戦友として固い絆にむすばれている話をきくが,あたしたちもそんな仲ではなかったのではないだろうか。
 戦争が激化していく中、親兄弟と別れ、冬は雪と氷に閉ざされる寒冷の地での学童疎開の日々、親恋しさに涙し、飢えに耐え、蚤しらみに苛まれながらも勝利の日を信じて、少国民として次の日本を担うべく勉学に励んだ仲間だ。
 結末は悲惨、無残な姿でたどり着いた生まれ育った下町は焦土と化し、戦後の荒廃した世相に翻弄され、時には悪の道に踏み入りお互い悪あがきした、そんな幼馴染でもあった。
 彼は一時期、所謂てきやの親分として一家を構えていた。
 彼の家には常時十人近い子分が寝起きをし、稼業の実態は皆目不明だったが二人の交遊は家族ぐるみ続いた。彼は近隣の人たちと紛争も起こさず、地域の人から反感を買うようなこともなかった。
 そうした年月を経たある日、彼は一家を解散した。
 「真っ当な稼ぎじゃ若いもん食わしていけなくてね」
 
 その後の彼は町内の世話役、学校の役職にと果敢に取り組んでいった。やくざもんがと、初めはかなりの反発もあったようだが、元々義理人情に厚い男が、私心を捨てて猛進するのである。誤解が賛辞に変るのに時間はかからなかった。
 そんな彼が不治の病に倒れた。
 お前の葬儀委員長は俺がやるからなと、冗談を言っていた彼がである。
 何回目かの見舞いの時の、それが最後になってしまったのだが、
 「こんなに足がむくみやがって、もうウチにはけえれそうもねえや、情けねえったらありゃしねえ」 
 それは余りにも悲痛で、慰めの言葉に詰まった。

葬儀の日、弔問客は長蛇の列をなし別れを惜しんだ。
 あたしはその情景に胸を撫で下ろし、淋しさをこらえ遺影に手を合わした。

 

古稀川柳十二句  誰も年はとりたくない

2006-04-09 10:11:23 | 川柳

齢かさね女房殿に後光さし

いつの間に猫専用の膝枕

猫の蚤必死にとって睦む仲

姫始めわたくし事でも死語となり

ガングロの太ももまぶし老いの身に

階段でお尻のバッグ目に障り

前の席組む太ももに落ち着かず

目に眩し大事にしたいその気持ち

惚けたねと惚けがにっこり惚けに言い

おとぼけとぼけの間を綱渡り

惚けたねにええあなたもと三時どき

木瓜の花ボケが見ている昼下がり








庭のみかん  樹木も人間の気持ちを察するのか?

2006-04-08 10:11:48 | エッセー



 その大きな樹は、歩道に面した庭の道すれすれに、わたしがこの家に入居したときから植わっていた。
 鬱蒼と枝葉を伸ばした、なんの変哲もない樹である。十年近く過ぎても枝を伸ばし、幹を太らせ続けるだけである。妻は柑橘類だというが確かなことは分からない。
 私は気懸かりだった。雨の後など、道行く人の頭上を覆う枝葉から雨滴が落ちる、恐らく枝を見上げて舌打ちしているに相違ないと。

わたしはこの大木を伐ると妻に宣言した、実はおろか花一つ咲かせぬ樹に用はないと。
 そして、鋸の切れ味を吟味し、梯子まで用意した四月初めの朝のことであった。
 「おとうさん!花が咲いてます、白い花が」私は庭に飛び出した。見れば白い小さな花を枝々に喰いつかせるように、無数に咲かしているではないか。胸がじいんと熱くなった、伐るという私の一言に、健気にも満身の力を振り絞って一気に花を咲かせたのか。そればかりか、花を散らした後には、青い実を誇らしげに覗かしているではないか、それも気が遠くなるような数の。
 
 青い実の種類は定かではなかったが、私はなんのためらいもなく、その実を庭のみかんと称した。
 それ以来庭のみかんは、近所の人、道行く人の目を楽しませてくれている。色づかぬ実を、水盤に活けたいという人があれば、枝ぶりを見て差し上げ、色づいたみかんを、立ち止まって見上げる、孫の手を引いたお年寄りを目にすれば、飛び出して行っ
貰って頂く、なんとも嬉しい日々である。

 以来、毎ねん十分に熟し色づいた庭のみかんは、爽やかな風に身を委ねたゆたい、夕陽に肌を焦がし、降る雨に艶やかに濡れる様は、ひとつひとつが艶を競って、私をなぶるようである。

 私は庭のみかんに、いくばくかの後ろめたさを感じながらも、良き友を得たような感慨を抱き、一年一年が充実した日々であることを感謝している。

糖尿病とジョキングの土産

2006-04-07 10:22:03 | エッセー

 携帯電話を持たぬ妻は、最近の公衆電話の激減にむかっ腹を立ている。それで思い出したことがある。
 大分以前の話ではあるが、当時妻は糖尿病と診断されて十年を経過していた。幸い症状は軽く、ジョキングを薦められ、それは古希を越した今も一日も欠かすことなく励んでいる。
 糖尿病に完治はなく、生涯の病気と妻は達観し、生甲斐をを見つけたかのように、昂揚した表情で朝夕ジョキングに出発する。
 季節に合った、年より幾分派手かなと思われる華やかなウェアーをまとい、ブランドもののカラフルなシューズをはき、微塵も闘病の悲壮感を漂わせないでいた。あたしとしては病気さえ気遣わなければ、至極満悦であった。
 だが心配な面もあった。冬場など夕方の出発の時刻は既に表は暗い、若い娘とみまごう妻の後姿にあたしは言う、
 「なるたけ暗い道は避けて歩くんですよ、どこにどんな慌て者がいないとはかぎらないから」
 しかし妻は、
「ほっほほほっ、お父さん心配?」と、屈託のない笑いを残して颯爽と出かけていった。
 そんな日々、妻はジョキングの帰り、あたしに土産を持って帰るようになった。買って帰るのではない、文字通り持ち帰るのである。
 テレホンカードである。あたしが旅先で買い求めたのがきっかけで始めた、カードの収集に協力してくれるのである。
 ジョキングの途中、公衆電話の受話器の周辺、床などに落ちているカードを拾ってくるのだ。
 不特定多数の人の使用したカードは多種多彩、十二分に目を楽しませてくれる。あたしはそれらを厳選してコレクションに加えるのである。
 ジョキングは妻の健康とともに、思わぬ副産物をあたしにもたらした。ささやかな秘密であるが、使用度数の残っているカードが結構あるのだ。
 
 当時真面目に悩んだものである、もしかしてあたしと妻の行為は取得物横領の科に問われるのではなかろうかと。


人生控えめに

2006-04-06 09:17:42 | エッセー

 「人間死ぬとき、畳一畳の広さがあれば十分」だれの言葉か定かではないが、この言葉が大好きである。いろいろ解釈の仕方はあると思うが、この世を生きて行くのに身辺簡潔でありたい。衣食住最少限の範囲内に腰を据え、余分なもので生活を飾らない。消極的な生き方と取られる恐れがないではないが、煩わしいのはいやだ。
 同時に、人間この世に生を受けた以上、人との関わりを避けて通れないのも紛れもない事実である。客が来れば接待しなければなるまい。畳一畳の生活を押し通すことは至難の業である。身に破衣を纏い、一汁一菜、廃屋での雲水のような生活を理想としても、結局は願望で終わりそうだ。ただ信条としてはそんな精神を持ちたい。
 二歩前進一歩後退 、例え牛歩の歩みでも周囲を眺め愛で、十の力己にありと自負しても五に押さえ、残りの五は周りへの潤滑油に残して融和を計りたい。
 鋭利な切れ味はとかく周囲を撹乱する、鈍刀で遅れをとってもやさしさで人に接するようにありたいと、日ごろ切望している。
 
 時々夢のようなことを切実に願うことがある。
 タイムスリップして時は江戸時代。花のお江戸は下町の裏長屋。宵越しの金は持たない、米の飯とおてんとうさまはついて廻るの人生哲学。一見自堕落に見えても、そこにはしたたかな、自己確立を基礎とした人生を垣間見ることが出来るのではないだろうか。
 その生き方を身につけ、目いっぱいに目標を置かず、遊び心を適宜にまぶした余生を、遅まきながら送りたい。

いい加減な生き方が好きだ

2006-04-05 09:22:01 | エッセー

 あたしはとちらかというと堅い言葉は好まない。座右の銘、社是、守るべき五訓とかいう粉骨砕身、身を挺して守るべしといった、皮肉を込めて言えばあらかじめ実行不可能を前提とし、それを先刻承知しながらお互い斉唱するといった雰囲気。またそれらを額に掲げて身を持するといった生き方、いやいやもって真実息苦しく柄ではない。
 硬より軟、直線より曲線または放物線といった感じか、そんな意味合いを含んだ言葉が好きだ。それは好きというより、そうした状態に身をおきたいという願いが正直なところか。願望、乃至は渇望である。
 あたしの好きな言葉、それは「いい加減」という言葉だ。唐突かもしれないが「いい加減」と字句を続けると、だらしがないといった、無責任な状態を多分に含んだ意味が濃厚に感じられる。しかしいまそれを二つに分断すれば、「良い」と「加減」、加減が良いということになり、実に奥深い意味を持った言葉に変わる。決して駄洒落でもなければ屁理屈を言ってるつもりは毛頭ない。
 さじ加減、これは料理における調理の案配か、はたまた医者の薬の調剤の巧拙か。いいさじ加減、つまり「いい加減」といった言葉は、棘のない温かみの感じられる言葉ではないだろうか。ここで念を入れれば、風呂の良い沸き具合を称して一口にいい湯加減という。熱過ぎず、といってぬるくもない、実にいい湯加減と人は目を細めるではないか。
 さようにあたしは「いい加減」という言葉に執着する。だがそれを実生活において全うするということは実に至難の業である。とかく顰蹙を買いかねない。「あいつはいい加減だから」と風当たりは総じて芳しくない。
 だがあたしとしては中庸な生き方を目標としている。過激に走らず、といって消極的にならず、自説を真綿でくるんで他の人ををおもんばかる。
 それがあたしの好む「いい加減」な生き方である。


旅への想い

2006-04-04 09:30:07 | エッセー
 
 旅はよく人生に例えられる。 結婚式の披露宴での仲人の挨拶にも、山あり谷あ
り、人生棘の道であると説く。実際の旅も旅行会社お仕着せのものでは、安穏無事で終わるかも知れぬがどこか物足りぬ。
 旅が人生なれば、波乱万丈は必死であろう。古希を過ぎ、振り返れば我が人生、戦争を挟み、軍国少年、学童集団疎開、戦後の飢餓、しかしこれらは、好むと好まざるにかかわらずお仕着せの波瀾だ。しかし、旅の起点としては最高のお膳立てであった。その後の道程の険しい山も、いかに深い谷も、物の数ではなかった筈だと思う。
 勉学、挫折、酒、恋、闘病、奮起、結婚、家庭と、人生の旅も詰めに入った今、思い出す字句は、峠の茶屋での一服の茶のように懐かしい。だが御茶請けに、孫の一字が加わるとなんともほろ苦い。孫に手を引いたり引かれたりの旅もいいが、なぜか先を急かれるような気分になる。旅は気ままがいい。そして気に入った場所での長逗留モ悪くない。
 定年、還暦、古稀とこの時期、あたしは住んでいる街のアマチュア劇団に参加して、そこにじっくり腰を据え、旅の醍醐味を満喫している。あたしの年頃が重宝がられてのこととは思うが、芝居のいろはも分からぬ入団時から、公演の都度役を頂いている。と 数えれば、黒子からお婆さん、やくざ、バーのママ、棟梁等‥。
 いうなれば山間は百花繚乱。緩やかな斜面を愛でつ眺めつ、行きつ戻りつ途中下車した街を、貪欲に探索しては、未知の世界に遭遇し、、それに対決し驚きと喜びを見出す日々に居る。
 旅も終わりに近づきつつあるあたしにとってこの旅程は、遅きに失した感がないではないが悔いはない。
 願わくは終着駅に到達したとき、ホームのアナウンスを祝着駅……、と聞きたい。

父の死

2006-04-03 12:57:56 | エッセー

父は八十二才で死んだ。この頃父の死のまぎわがしきりと思い出されてならない。歳のせいでもないだろうが。
 父は死ぬ一年ほど前から気力体力ともに衰え、寝たきりといった状態になっていた。幸い仕事が自営の飲食店だったので、商売のかたわら看病するのに支障はなかった。父も年寄りに有り勝ちな頑迷さはなく、妻の言うことを素直にきいた。時たまみせる我侭も、夫婦で笑ってしまうほど、忙しい時間は上手に避けるのであった。かかりつけの先生も、「老衰の兆候ははっきりしているが、今どうのということはない」と、おっしゃって下さっていた。そんな父は往診にみえる先生を離したがらず昔話に誘い込んだ。先生も枕元でしばらくのあいだ相手をして下さるようで、父の嬉しそうな声が、仕事中の私どもに聞こえてきたりした。先生は帰りぎわ「おぢいちゃん、若いころなかなかご婦人に持てたようですね」と言って苦笑なさっていた。
 気がかりは食欲の衰えだった。父は心配する妻に、「年寄りはそうそう食わなくたって死ぬもんじゃない、まして寝てるんだ、心配しなさんな」と屈託がない。
 ニュースを見、新聞を手にし、疲れれば気ままに正体なく眠ってしまう。夜が更けても寝付けないと、「昼と夜ととっちがえてしまった」とぼやきながらも、「なんの仕事もできない年寄りだ、せめて夜は起きていて火の用心、夜番の役ぐらいしなくちゃ」とひらきなおる。
 妻は毎晩大きな湯呑に玉子酒をつくり、枕元に置く。夜中に玉子酒を啜る気配がするとほっとした。そんな父も、衰弱は確実に進んでいった。
 その日の明け方、父の額に手を当てた妻が悲痛な声をあげた、「おぢいちゃんが冷たい」。かけつけてくれた先生は「大往生です、人の死はこうありたいものです」と合唱してくださる。
 私と妻は、家で父を安らかに死なせてくれた先生に、深々と頭をさげ、心で手を合わした。

亡き母を想う

2006-04-02 11:48:30 | エッセー
 弁当箱のふたをとる、中学校の昼食時、騒然とした中にも開放感が教室中に充満する。今日の私の弁当はいつもとは格段の相違で真っ白である、ぎんしゃりである。いつもなら進駐軍の援助物資であるとうもろこしで作った団子が詰められ、それに粗末なおかずが添えられているだけだ。 「みんなの弁当すげえんだよな、ぎんしゃりだよ母ちゃん、パンだって真っ白なの食ってるんだよなぁ」「お前、黄色い団子や黒いパンたべてるの恥ずかしいのかい」「恥ずかしくなんかないよ、おれ堂々と食ってるよ」 昨夜母とそんな話をしたばかりである、母ちゃん無理したな、私は飯を口に運んだ。うっ、やったな母ちゃん、一瞬複雑な味が口中を走る。弁当の中味はぎんしゃりとは程遠い、大根を極細に千切りした炊き込みご飯だ、それも米二に大根八の割合だろう、おまけん真ん中に梅干とは芸がこまかい。私は母にエールを送りたい気持ちだった。 当時、終戦直後のことだが、私の家は戦前からの家業をかろうじて続けていた、外食券食堂と呼ばれたそれである。焼け跡にやっと建てられたバラックの店、そんな中、母は闇米を決して扱わず、当然客に提供するものは代用食のみ、外食券のない客は丁重に断り、世にも不思議な顔をされ、時には怒声をあびたりした。母の思いはただ私たち子供に、世間様から後ろ指を指させたくないという一念だったのだ。 私の生まれ育った下町は、曲がったことに対する攻撃は辛辣容赦がない。人の口に戸は立てられない、どこそこの誰は闇で警察に引っ張られたといったうわさは瞬時に街中に広まる。 歌の文句ではないが、「ぼろは着てても心は錦…」 母は家族みんなが、苦労の時代だったからこそ、胸を張って生き抜きたかったのだ。