うたのすけの日常

日々の単なる日記等

うたのすけの日常 一生懸命子供は遊んだ

2006-11-28 10:16:32 | 昔のお話です

            危険と背中合わせだった

 
ベーゴマという子供の遊びをご存知ですか。鉄あるいは鋳物で出来たコマを、張られたシートの上で廻して相手のコマを外にはじきだし、コマの優劣を争う遊びです。
 もちろん外に蹴散らしたコマは、総取りといって最後に残ったコマの所有者のものになります。これは二人の対抗であったり、大勢がいっせいに取り組んだりしますが、多くて五人ぐらいでしょう。
 コマをひもで巻き、気合を入れて廻します。バケツまたはその上に洗面器を置き、その上に古いござや、古びた雨コートを適当に裁断したのを、いわゆる丈夫なシートです。それをかぶし、ときには回りをひもで縛ります。へこみのついた、丸いシートのベーゴマ遊びの舞台の出来上がりです。
 へこみの浅い深いでゲームの面白さが左右されたりします。勝負の決着のつくのが早かったり遅かったりするわけです。

 しかしベーゴマにはどこか暗いイメージがあり、メンコやビー玉遊びと違ってどこの
親も子供には禁じていた。少なくともわが家ではダメだった。学校はもちろん禁じている。だから必然的にゲームに興じるのは高等小学校の生徒や、町工場の少年工たちであった。それもいくらか不良がかったものたちである。
 しかしダメといわれればやりたくなるのは大人も子供も同じ。あたしたちもチビ同士集まっては、いっぱし袋小路の隅っこで遊んだものである。見よう見真似でコマの細工も覚えた。コマの上にローソクを溶かして埋め込み、マークや字を書いたりする。コマの周りを研いで、相手をいかに先にはじき出すかの工夫もしたりした。
 それをやるのに、長い細竹のさきにコマをはめて固定させ、大通りへ出てコンクリートの道路に当てて走るのだ。時々コマの位置を変えて光らす。それこそ何人もでいっせいに走って走ってリャカーや馬車の脇をすり抜ける、馬方はこらっー、と呶鳴るが子供たちは意に介しなかった。

 研ぐといえば今おもうとゾットするようなこともした。三寸くらいの釘を家から持ち出して、たいていの家には道具箱や釘入れ、それは細長い箱の中を適当に仕切ったもので、いろんな長さの釘、あらかた錆びの出た釘が入れてある。ときには古い戸車や水道のパッキン、そして電気の安全器のヒューズ、かすがいなどが入れてあったりするのである。

 持ち出した釘を線路内に侵入し、レールの上に置き、草むらに隠れて貨物列車の通過を待つ。列車が近づく、あたしたちは這いつくばってレール上の釘を見守るのである。機関車に釘は弾き飛ばされる、列車は過ぎ去る、一呼吸おいていっせいに、それぞれの見定めてある釘の飛んだ場所を目掛けて走り、手にすると安全な場所まで懸命に逃げる。別に追われているわけではないのだが、子供心に悪い行為であることは、十分に承知しているわけだ。

 薄っぺらになった釘を大通りの路肩にみんなして腰を下ろし、コンクリでこすって磨きあげ、ピカピカに光らすのだ。そのあとやることはきまっている。子供のやることだ、路地裏の壊れかかった板塀に向かって手裏剣あそびだ。

 もしそんなことが見つかったら今ならさしづめ、「小学生、線路の上に釘を置く危険な遊び」なんて記事になるのでしょうね。反省してます。


うたのすけの日常 素朴な疑問

2006-11-19 13:47:00 | 一言

         北の犯罪がまた一つ明らかに

 二十九年前に、鳥取の海岸で行方不明になった米子市の松本京子さんを、北朝鮮による拉致被害者と警視庁は断定した。

 なんたる残酷非道なる仕打よ。テレビで三十年の歳月を
嘆き悲しむ年老いたお母さんの姿は、涙なくしては見られぬ。被害者はこれで十七人、このうち救出されたのは五人。残る十二人の存在を北朝鮮は認めない。そればかりか六カ国協議に日本の参加を、およそ品格皆無の言葉で拒否している。横暴、厚顔無恥の所業に反駁する気も萎えてくる。
 そのほかに民間の特定失踪者問題調査会は、
百六十人を拉致された疑いを否定できないとしている。かように多数の同胞を、あの北朝鮮は国家的規模で連れ去っているのだ。本人の苦しみ、肉親の長年にわたる悲しみはいかばかりか。
 政府も遅きに失したが真剣に拉致問題に取り組んでいる。
核実験がらみながら、各種の経済制裁に踏み切ったが。もっとほかにとる選択肢はないのだろうか。

 あたしはここで皆が、心のうちに微かながらは持っているだろうと、想像の範囲だが疑問を敢て述べてみる。それは日本国に存在、いや在留している北朝鮮国籍の人たちの存在である。国家的犯罪を犯している国の国民が、それも日本国民に対して犯した国のです、この国の空気を吸い、生活基盤を有して生活しているという事実です。あたしは国家主義者でもないし、極右でもなければ、彼らの日本での存在を云々言うものでもない。
 彼らから自国の指導者の非道な政策に対して、なんらかの発言があってしかるべきではないかと思うものです常々。そうです、お国の指導者の施策に反発抗議する姿勢がほしいのです。

 でなければ彼らはこの国で生活し、少なからぬ恩恵なり利便を享ける権利はないと思います。政府も積極的に日本に在留する北朝鮮国籍者に、なんらかの措置をとるべきです。報復ではない人道的な姿勢をもって強硬に。






うたのすけの日常 かみさんの蒐集

2006-11-19 09:09:00 | 落書き

わが家は、右を見ても左を見ても人形だらけなのだ。 

それにしても写真の挿入がうまくいかない、見てくださいよこの配置。
それにしてもまだまだあるの人形が、これが三月の節句ともなればミニ雛が百余体、それに娘と孫娘二人の三組のお雛様が座敷を占領するのだ。これみなあたしとかみさんの仕事。出して飾って又仕舞う。大変な作業なのだ。いつまで続けられるやら、楽しみでもありスリリングでもある。
        


うたのすけの日常 強制疎開って知ってますか?

2006-11-16 10:48:03 | 昔のお話です

          目の前でわが家が壊される

 
昭和十七年、まだまだ東京は勝ち戦の勢い衰えず、表面だけは平穏な日々が続いていた。しかしその年の四月十八日、アメリカの艦載機による空襲に突如見舞われたのである。まさに市民「都民になるのは一年先のこと」いや国民、それよりも軍部は冷や水を浴びせられた慌てようであったという。
 当時下町に住まわれていて、最近亡くなられた作家の吉村昭氏は書かれている。敵機が低空で飛行しているのを目撃、パイロットの表情や、首のマフラーの色まで識別できたという。氏はたまたま物干し台におられたそうである。  当時の日本家屋の多くには二階からすぐに出入りできる、洗濯物を干す物干し台が一階の屋根部分に設けられていた。一部には二階の屋根に付けられている家もあった。
 
 
夏は格好な涼みの特等席であり、消防自動車のサイレンが聞こえたり、半鐘の音が響けば、われ先にと物干し台にでて、火の手のあがるのを見たものである。火事が近ければ大人たちは仕事を放り出してかけつけた。
 
話を戻そう、あたしの兄もそのとき中学生で、たまたま軍事教練で富士の裾野に行っていたのである。
 小休止の号令で仰向けに寝転ぶと、目の上をすれすれに飛ぶ飛行機を見たそうだ。黒く彩色された、それは不気味な物体に見えたそうである。敵機はレーダー網を避けて低空で日本領土に侵入したわけだ。

  軍部が喧伝する、敵機の空襲が現実味を帯びてきたのである。翌日警防団員だった父は、隣組の人たちを引率する形で、罹災現場を見学に行っている。大人たちの見学談を聞くと損害は相当なもので、軍部の発表とはかなりのへだたりがあるらしかった。下町の工場民家だけでなく、京浜地帯の軍需施設にもかなりの被害がそのときでている。

 軍部や政府のとった措置が、強制疎開である。空襲で発生する火災の延焼を食い止めるためのもので、密集地の家屋や、線路脇の家屋などが取り壊しの対象となった。昭和十九年四月のことである。わが家は貨物列車の行き来する線路脇で食堂を開いていた。鉄道線路が爆撃の標的になるからであろう、そのため連なる商家が軒並み壊されるのである。米や、そば屋、草履や、床や、カフェエ、いま思い出せるのはこのくらいか。道路を挟んで向かいの商店も、それぞれ後ろに位置した長屋作りの民家も、早い話が一網打尽の憂き目をみたわけである。線路の両脇のどのくらいの範囲だったか、今は定かではない。要は江戸幕府が江戸の町を頻発する大火から守るため、各所に広小路なるものを設けたのと同じ発想なのであろう。

 大家は線路の一番そばで米やをやっていて、店子から因業大家と陰口をたたかれていた。「因業おやじと世間では言うがそんなことはないよ」と母は常々言っていたが、その母の言った言葉を覚えている。大家さんは、家作が土ぼこりを舞い上がらせて崩れ落ちるのを見て、しきりと流れる涙を拭いていたという。口の悪い店子は鬼の目にも涙だだと称したそうである。

 繋がっている家々の瓦を剥がし、建具を取り払い、頑丈な壁はぶち抜き、数本の柱にロープをかけ、兵隊に鳶頭(かしら)が混じっていっせいに引き倒すのである。轟音と共に土ぼこりが周囲に立ちこめ、見物人の溜め息と喚声がわくのであった。

 もっとも倒される前の丸裸になった家屋は、あたしたち子供の格好の遊び場である。さながらチャンバラ映画で見る舞台そのものであった。

 後日その頃始まった学校給食の炊事用の燃料を集めに、疎開現場に連れて行かれ、木っ端集めさせられたことを憶えている。その中にわが家の建物の一片も混じっていたわけである。


うたのすけの日常 戦後の焼け跡

2006-11-15 11:37:24 | 昔のお話です


        我が家から駅のホームが見えたのだ

 敗戦の直前あたしの家族は三つに分散していた。東京には四人、両親は商売上から、姉と兄は勤労学徒として軍需工場に動員されていたため。
 父方の親戚の家の離れに上の姉が、妹三人引き連れて縁故疎開。あたしは学童疎開していて卒業を迎えたが、両親の説得で級友と一緒に東京に戻らず、下宿して疎開先の地元中学に入学していた。

 数えてみると家族は両親と兄弟七人の九人である。当時としては平均よりやや多めの人数だったと思う。この家族が三箇所に別れて生活していた。子供だったせいもあって、当時の父や母の苦労は意になかった。今思うとただ申し訳ない気持ちでいっぱいである。まして東京に居残った両親たちは戦災にも逢い、命からがら逃げ迷っていたのである。もっともあたしも縁故疎開の姉たちも、空襲の憂き目には逢っている。しかし当然東京とは比較以前の規模であったろう。

 やがて戦争も終わり家族は一同に会した。といっても再会した場所は六畳一間の間借り先、二階である。そこに九人が生活を始めたのである。まして一番下は頑是ないよちよち歩きの妹、家族崩壊寸前の状況である。そして階下の大家にも、次々と疎開先から家族が戻ってくる。あたしたちを追い出そうと、皆が苦労の時代だからおおっぴらには出来ない、陰湿な嫌がらせの開始である。両親はあたしたち子供を宥め、知人の世話でつぎなる貸間に、焼け残りの家財を家族全員でリヤカーで運んでのお引越しである。

 しかしながら六畳が八畳になっただけで状態はおなじである。
 両親は決断した。バラックを建てることである。今となっては両親や上の姉が、いかような金策をしたかは分からない。貯金も戦後のインフレや貯金封鎖で資金調達はままならなかったはずである。子供心におぼろげに理解できたのは、疎開してて戦災を免れた衣類家財を金に換え、建築資材や大工さんの手間賃に当てたということである。

 百五十五坪の土地に十二坪の家。六畳二間に店に当てる土間、奥の六畳には廊下、そして濡れ縁。屋根は杉っ皮、壁は荒壁のまま。ガラスは入らず表戸には障子紙を貼ってしのぐ、もちろん雨戸は入っていたが。後にガラスは入ったが寸法足らずなので、繋ぎあわせて障子紙で補強するといった案配。しかし我が家は我が家である。ただただ家族は笑顔笑顔であった。

 日当たりは最高、なにしろ敷地の境界なんてないのである。なんの障害物もなく駅まで一望、駅上の高台まで見渡せるのである。
 電車が左手からホームに入ってくる、やがて発車。カーブでゆれる様さえ見える、そして次なる駅に進入していく。
 
耳をすませばホームのアナウンスも聞こえ、乗客の歩く姿も見える。

 住宅地獄から解放されたそのとき、これで慢性的な空腹感に悩まされなければ、我が家は天国てあると思ったりした。

 地獄から天国、我が家族の波乱の戦後がそのとき始まったといえる。



 


うたのすけの日常 子供の自殺相次ぐ

2006-11-14 13:23:44 | 怒り


             無理に学校へ行くな!

 なんとも痛ましい!
 中高校の教育現場はどうなってるんだ。こうなったら子供の親たちは発想をかえるべきです。親は子供をいじめによる自殺に追い込むために、学校へ行かせてるのではないはずです。それなら、ふだんから子供の行動や精神状態の変化に気を配り、いじめられている兆候が見えたら即、臆することなく登校を止めるべきだ。死なれたらおしまいです。なにも学校だけが教育の場ではない、自分が一緒に勉強するぐらいの気力を持たねば、いじめからわが子の命は救えない。

 学校や教師なんかあてにするなといいたい、これほど
いじめによる自殺が続発しているのに、いじめの兆候も把握できずに、対策は後手後手にと廻っている。そしてマイクの前の校長の言うことは異口同音だ、自殺したのはいじめが原因か調査中と。
 あたしに、この悲しき連鎖を食い止める手段があるわけではない、その力もない、だからこそ声を荒げて言いたいのだ。政府も学校も、悪評高き各地の教育委員会も、死ぬ気で対策を講じてくれと言いたいのだ。

 次々と自殺予告の手紙が、文科省にとどいているのだ。どうするの、まさに事態は深刻であり、異常事態ともいえる形相を呈しているのだ。事なかれ主義の美辞麗句の施策は願い下げだ。まだるっこい答弁もゴメンだ。迅速大胆明瞭な施策を立ててもらいたい。ただそれだけ。

 見なさいよ、必修科目問題なんか、吹っ飛んでしまったじゃないですか。子供の命が確保されてこその教育であり、必修があり、受験があるんです。

 あらためて言います。わが子がいじめにあってると気付いたら、登校させるな、緊急避難です家庭に。家庭に勝る教育の場はないと信じ、子供を守り、それから学校に対応すべきです、徹底的に。

 そしていじめの元凶が完全に断ち切られてから、善後策をこうじても決して遅くないと信じるべきです。なぜなら、可愛いわが子は腕の中にいるのですから。




 


うたのすけの日常 野次馬根性発揮

2006-11-13 11:43:42 | 落書き


          離婚待機組が息をころして

 離婚件数がピーク時からみると、ここ数年減少傾向にあるそうな。数字でみると2005年は約26万2千件で、ピーク時の02年より2万8千件少ないそうだ。これはなにを意味するか、別に夫婦仲が急に熱くなったわけではありませんぞ。来春から離婚した場合、亭主に支給される年金が分割されて、元妻に支給されるようになった。種明かしすればそうなる。
 今離婚すると妻たちは最悪の場合、生活保護に頼らざるを得ない場合がある。もう少し我慢するということかな。
 そうすれば、うまくいけば半分年金を貰って、三くだり半をぐたぐたうるさい亭主に叩きつけて、わが道を行くって腹積もりなのだろう。結婚期間が長いほど分割される割合が多くなるってんだから、ここへきちゃ多少の不満は我慢辛抱だってところでしょう。

 世の亭主どのよ、なにしろ結婚していた期間、専業主婦だったら最大で夫の厚生年金の半分を手にできると、法律は謳っているのですぞ。足元をすくわれないように、くれぐれもご用心だね。俺は大丈夫なんてのほほんとしていて大丈夫かな、疑問だね。長年奥方をまめにまめに、やさしく遇してきたかね。夫婦なんて元々なんのつながりもない他人なんですよ。恋愛だって見合いだってそんなこと関係ないよ。今時の奥方はいろいろ多方面に知識が豊富だし、趣味も多彩、定年のしょぼくれ亭主になんて、かまっていられないってのが事実じゃないかな。

 あたしだってそう思うよ、近頃の熟年夫婦をみてると奥方のが颯爽としてるもの、要注意だね。
 でも奥方だって離婚にはあくまで慎重でなければいけませんよ。昔から言うじゃない、二人口は食えても一人口は食えないって。二人だとなんとかやっていけるのよ生活ってのは、これが一人だと無駄は出るし容易じゃないんだ。
 第一住まいの問題だよ、仮に家がいまあるとして、離婚します、あなた出て行ってと、そこまではいけ図々しくはできないでしょうよ。もっともそれができりゃたいしたもんだが。

 昔こんな話があったよ、終戦直後の半端じゃない住宅難の時代ですよ。ある夫婦が離婚したはいいが、お互いほかに家があって離婚したわけじゃない、しょうがないからかみさん、下から二階へ転出。役所で移転さきの住所が同じなので、当時ご近所の噂になりましたね。もっともじきに又くっついちゃいましたがね。

 とにかく団塊世代の離婚が、来春一気に増えるって予想されてんだから恐ろしいよ。

 離婚予備軍が四万二千組に昇るという、これが現実。でも、お前百まであたしゃ九十九まで、共に白髪の生えるまでっていうじゃありませんか。離婚騒ぎで無駄なエヌルギーを浪費しないで、そのエヌルギーを、もっと二人で建設的な老後を構築するためにつかいましょうよ。


うたのすけの日常 母とパチンコ

2006-11-13 06:02:31 | エッセー


       パチンコは母の駆け込み寺だったのか

 それはパチンコが流行の兆しが見え始めたころです。パチンコ台も一つ一つ玉をいれてはじき、二つとか三つころころと出てくる、一番上の穴に入ってせいぜい十個の玉が出るといったそれである。その後オール10からオール30といった台がちらほら導入され始めた。
 その頃母はパチンコにのめりこんだ。半端ではない、毎日毎晩時間を選ばず出掛けた。

 母には計り知れぬ心配事があったのである。それは母一人だけが抱えていたものではなかったが、母としてその憂いは一入だったはずである。当時あたしの兄は、女性問題のもつれから身の危険もあって出奔していた。家の金をいくばくか持ち出して。そのとき既に三年余の歳月がながれていたが、消息は完全に絶えていた。
 
 
階段、または坂をこえたわが家から反対側の駅のそばに、母の姿をしばしば見かけるといった話が、人づてにきかれるようになった。
 駅のかたわらの、薄暗い場所に店を張る易者の前に立つ母の姿である。父をはじめあたしも、当時まだ家にいた二人の妹たちも、そして家を出た姉たちもなにもお互いそれを知っても、それについては黙して語らなかった。

 そして今度がパチンコ通いであった。家業でる食堂は午後は比較的ひまな時間である、それに店はあらかたあたしと家内が切り盛りしていた。パチンコ通いは、家のものはすでにみんな知っている。母は照れくさそうににやにやしながら、それでもいそいそと家を後にする。もんぺをはき割烹着をはおり、足元はフェルトの草履、この扮装(いでたち)は近所では有名である。あたしはこの母の、戦前戦中戦後と働き通してきているスタイルを誇りにしていた。恐らく口には出さないが、ほかの子供たちもそうだったと思う。

 母のパチンコは長時間にわたる。ただただ無心に心配事を忘れるために玉をはじく、その繰り返しで損得は初(はな)っから度外視したものだろう。そして嬉しそうな表情を作って帰ってくる。戦果は大変なものである、煙草、カステラにキャラメルそしてチョコレート等々。

 割烹着の裾前で包んだ戦果を座敷に広げる、母にとって兄の身の上の心配を忘れる、いっときの至福の時間であったのだ。


 
 


うたのすけの日常 高野連って何様まの?

2006-11-12 09:35:00 | 落書き


           苫小牧野球部でまた喫煙

 高校生の喫煙をとやかく言ってるんじゃないよ、あたしは。野球部員に限らず、今時の高校生の喫煙を云々取り上げてなんになるというの、新聞社に言ってるんじゃない、そんな風潮がおかしいって言ってるの。土台考えてみてよ、高校三年にもなれば法律上はともかく、もう体だけは立派な大人だよ。あたしは断言してもいいね、彼らの半分は間違いなく喫煙してるよ。そんなこと教師だって、周りの大人だって、自分の同じ年の頃を思い出してみてよ。自明の理でしょう。だからって喫煙を奨励なんかしてませんよあたしは、断っておくけど。

  あたしの言いたいのは喫煙が発覚してからの、事態の収拾のことですよ。新聞は鬼の首を取ったように書き立てる。そして今回はプロ野球「楽天」と仮契約した子は、喫煙の仲間に入っていなかったと、ファンをホットさせる気遣いは忘れない。正直あたしも胸を撫で下ろしましたよ。
 学校は道高野連に報告、道高野連は日本高野連に恐る々々お伺いを立てる。学校側は前科もあることだし、襟をただして判決を待つ、といった図式である。

 学校も父兄も戦々恐々として判決いかにと待っているわけだ。校長は信頼を裏切ったことをお詫びすると頭を下げるが、下げなくたっていいよ、だれも元々信頼なんかしてないよ、高校生の喫煙なんかいまさら騒ぎ立てることじゃないっていうの。言いすぎかな。それはともかく一人の不始末をもって全体に責任をとらせて、試合の出場停止処分なんてないよ。学校側も当事者を処分して、出場を辞退なんかして謹慎、反省の態度を世間に吹聴、言葉悪いかな、それでは披瀝する。といった案配が現在まかり通っているわけだ。

 過去にも幾多の例があるわけよ、出場停止処分とか辞退とか、それじゃ関係ない子や、父兄そして地元の人たちが気の毒じゃないの。またそれによってだよ、不都合を働いた子や、また親たちとの間に不要な軋轢が起きるや知れず、あたしはそっちのほうを心配するね。もっともそれはあたしの取り越し苦労で、地元では皆うち揃って身の不運と諦め、来期に期するというなら、なにおかいわんやではあるが。

 あたしは考えたねあるとき、もしあたしが高校球界の影の男だったりして、策略をめぐらす。ある地域のAなる高校を甲子園に出場させたいと要望がくる。そこで出番というわけだ、勿論ビジネスとして。
 ライバル校を標的に、あとは言わずともお分かりでしょう。ありとあらゆる悪辣な手段を弄して、そのライバル校を出場辞退ないしは、日本高野連に停止処分の指示をださせるのです。
 
 だからってわけじゃないが、全体責任をとらせるなんてことは止めなっていうの。一生懸命練習してきた高校球児が、ここでは敢て純真なんて言わないよ、今どきその名にふさわしいのは、ハンカチ王子ぐらいかも、かわいそうだよ。そのぐらいのこと分かんないのかな日本高野連は!?



うたのすけの日常 ジンマシンで悲鳴

2006-11-11 10:08:56 | 身辺雑記


              しめ鯖にあたる

11月10日(金)晴れ

 
およそ一ヶ月ぶりに市内に出る。デパートで催うされている、絵画の展示即売会を見に行こうと、思い立ったってのことである。題材は猫。
 かみさん、たまには天気はいいし、虫干し兼ねて着物を着て行くという。べつに異論はないが、一応10時50分のバスで行きましょう、あと一時間余裕がありますと、それとなく念を押しておく。

 デパートまで水戸駅経由で約三十分、一人片道440円、往復二人で1760円也、なかなか交通費もばかにならないってことです。
 絵はもう少しかわいい絵を想像してたのだが…、値段もかなりのものだ。勿論はなから買う気は無いが。

 帰りは駅までショッピングしながらぶらぶらと歩いて行く。駅へつく頃、朝食が遅かったので午飯には丁度いい時間。駅ビルのなじみの寿司や入る。けっこうたてこんでいる。
 先ず生ビール。ぽかぽか陽気でおまけに歩いたので、喉越しすこぶるよろしいといったところか。つまみは鮪にしめ鯖、季節のてんぷら、それに冷奴、かみさん松茸の土瓶むし、かなり薄い松茸をあたしに勧める。一つの入れ物を二人でつっつくなんてミトモナイので、食べたければ別に注文するからと小声でいう。酒を注文、燗で頼む。燗酒もたまにはよし。

 予定のバスに逃げられ、まだ一時間も間がある。喫茶店にでも入って時間潰すかと、かみさんと協議。結論はお茶代を払うのと、タクシー代払うのと、それにバス停から家まで歩くことを考慮すれば、自ずとどちらが利か判明。タクシーで帰る、そして夜椿事が襲った。

 軽く夕食をすませ部屋に戻ってから、ばかに息苦しくなってきたのだ。それに変に体が熱っぽいし、なんか吐き気がする。あわててトイレを何回も往復する破目になる。そして体のかゆみ、みるみる腹部に太もも、わきの下と紅い湿疹、ヒャー、じんましんだ。昼間のしめ鯖が見事に当たったとみた。どうするとかみさんと思案、娘に車で夜間診療の病院へ送ってもらうかと。
 しかしあたしは一晩ようすをみることにきめた。娘も心配して即送ってくれるのはわかっていたが、必ず口に出すだろう言葉「全く、年甲斐も無く昼間っからお酒なんか呑むからよ。」

 可愛げないけど、朝まで黙ってようすをみるのが、気が楽というものだ。そうと決まればふとんをかぶって寝るだけだ。かみさんも腹をきめたらしい、枕元でほかにも当たった人いるでしょうね、どうなるのかしらと言う。あたしは別に生きが悪かったわけではないよ、その人の体の調子の良し悪しでそうなることば多々あること、あたしだってこんなこと初めてだ。肉より魚を好むあたしだ、若い頃は生は悪くなりかけが一番美味だなんて言ってたんだから。要は齢には勝てないということよ。

 そうかもね、あなたもこれを機会に節酒だなんて言ってないで、思い切ってお酒やめたら。あたしはとたんに寝たふり。
 今朝は湿疹も消え、気分も悪くない。かみさんの作ったお粥を食しながら、塩味が丁度いいなんて世辞を言ってるあたしでした。