その十五 皇后陛下の御歌<o:p></o:p>
きいてみると、<o:p></o:p>
「つぎの世をせおうべき身ぞたくましく<o:p></o:p>
ただしくのびよ里にうつりて」<o:p></o:p>
という皇后陛下のお歌だそうだ。それから、やあっというかけ声勇ましく体操をはじめた。<o:p></o:p>
九時に宿をひきあげる。二晩泊まって四十九円いくらかであったらしい。半分以上は税金の由。しかし、夕食など、蟹、かれい、鯨肉と筍、おひたし、茗荷汁、お新香と、東京では夢のような御馳走であった。<o:p></o:p>
大山に帰り、湯疲れの気味もあったが、午後また鶴岡へゆく。帽子のアゴヒモを買う。この間火の中で、水につっこんではかぶり、つっこんではかぶりしていたので何処かへ飛んでしまったのだが、こんなものでも東京にない。ハブラシ四個(一個一円五十銭)と団扇二十本を買う。店で買えるものといったら、こんなものしかない。<o:p></o:p>
夕、大山の古峰山と泰平山に上る。森々たる杉が宵闇にそびえ、堤の水が廃屋に残った鏡のように白くひかり、蒼茫と芦がそよぎ、釣り船一つ二つ南画みたいに浮んでいた。勇太郎さんの長姉、山の家へいって紅茶をもらう。このあたりは、紅茶を紙で巻いて煙草の代わりに吸っている由。<o:p></o:p>
闇の中を、葱の白い坊主が幻のようにゆらめいている道を帰る。<o:p></o:p>
明朝いよいよ帰京するというので、夜は一時過ぎまで、味噌を樽につめたり、鰯の塩漬や米や弁当をリュックにつめたり大騒ぎ。みんなはほんとうにいい人だ。幸福な家庭だ。<o:p></o:p>
これは決して勇太郎さんの家を見ての感想ではないが、自分は幸福な家庭を見るとき、いつも胸の中で何者かが薄暗く首を垂れるのを感じる。そしてまたその首が薄暗くもちあがるのを感じる。その首がつぶやく。この不幸がやがておれの武器となる、と。<o:p></o:p>
六月二日<o:p></o:p>
朝四時半ごろ起きる。家の人々はもう起きて準備万端整えていてくれる。お礼をいい別れを告げて家を出る。曇っているが暖かい。五時五十五分、羽前大山駅発車。<o:p></o:p>
越後に入ると、雨になった。越後堀の内のあたり、新緑ちらほらと菜の花が咲いているのに、山かげや山のひだひだには、なお薙刀のように雲がひかっている。六月にこの残雪はただごとではない。<o:p></o:p>
小出で弁当を売っていた。百キロ以上の切符を見せなければ売ってくれない。湯檜曽界隈は、青い雪崩のような山峡に漠々と白い霧がみち、渓流に濁水が奔騰していた。越後から群馬に移るあたりは、遠くにまだ残雪をいただいた群嶺がひかり、雄大なスロープに牛が遊んでいた。暗い森の中を汽車が走るとき、雲が切れて金色の日光の縞が樹々を染めた。森の中を黒くひかるながれが、冷たそうなせせらぎをあげていた。車中、バルザック「アデイユ」を読む。<o:p></o:p>
沼田で乗りこんできたおばさんが、あたりの白い霧に浮びつつ消えつする山々をふりかえって、「猿飛佐助の現れそうな山だ」といった。このおばさんは、五月二十九日に上野駅にいたという。横浜が大空襲された日だ。南から流れて来る黒煙のため、東京は夕暮のようになり、上野辺でも煙で眼をあけていられなかったという。