うたのすけの日常

日々の単なる日記等

その日その日で気儘に 今日は終戦の日

2018-08-15 09:45:55 | 思い出

 戦争の終わった日のことは、年々記憶から薄れてきて、特に最近は加齢の故か遥か彼方のことになってしまった。当時わたしは福島に学童疎開をし、終戦の年国民学校を卒業して、家庭の事情もあって数人の仲間と地元の中学に入り、下宿生活をしていた。
 田舎の町でもある日、艦載機の空襲を受け、かなりの被害を被っていた。そしてその日昼前に家族の人たちと協力して、作っていた防空壕が完成したのである。そして食事もそこそこに、下の座敷に置かれたラジオの前に、家族や知り合いの人が集まって重大放送を待った。内容は良くわからなかったが、大人の人の解説で戦争の終わったことを知った。
 当時の心境は今は定かではないが、ほっとしたことは確か、これで東京に帰れると徐々に嬉しさがこみあげてきていた。そして夜になってのことは、鮮明に覚えている。電気を煌々と付け、灯りが前の畑を映し出したのをみんなして眺めていた。その時、何処からか「疎開ら、電気なんか点けるな」怒鳴り声が聞こえた。私たちはその何処かに向かって怒鳴り返した「もう戦争は終わったんだ。空襲なんかもう無いんだ」と。


その日その日で気儘に

2018-05-31 12:13:09 | 思い出

昨日に続きます居住区の綴りです

 昨日の綴りでは、あたしの敗戦直前の事が抜けています。あたしは学童疎開の一員として、福島は田村郡の小さな町に住居を得ました。駅前の旅館です。そこでの生活の様子は、ずっと以前に書いたことがあり割愛します。やがて年を越し、終戦の年に小学校卒業です。多くの仲間の六年生は卒業式は東京でということで帰京しました。
 あたしは家の事情もあって、地元の中学を受験し運よく合格。数人の仲間と町の有力者の家で下宿生活を、終戦後の九月十七日まで過ごし、そして父の迎えがあって日暮里の長屋の二階を住居としたわけであります。

 徹夜して手にした、九月十七日と印刷された切符の日付は、生涯忘れることはないです。


その日その日で気儘に

2018-05-30 08:28:52 | 思い出

 思い出といっても暮らし育った住居に関して綴ってみました

 というのも今朝の朝刊の、家庭欄とでもいうのか、そこに都会から田舎生活に移住した人達の成功談や失敗談。そして地元の人の反論やアドバイス等が掲載され、なかなか面白い読み物になっていました。わたしもどっちかと言えば田舎生活にあこがれがあり、未だにそんな誘惑に駆られることがあります。しかしこの齢では受け入れる自治体の方で迷惑であろう。そんなことは当たり前で、過疎地帯では若い人たちを歓迎しているわけで、わたしとしても田舎生活に対応する術に十分欠けていることは承知しているわけであります。それに現在の住所は、水戸市と頭にあるものの、駅に出るには、一時間にやっと一本のバスを利用、休日ともなれば本数はさらに減るといった、田舎と大差ありません。
 まあ愚痴はそれぐらいにとどめて本題に移ります。わたしの住所遍歴とでもいいますか。
 先ずは生まれは東京は荒川区日暮里七丁目で家業は食堂です。そこが線路際にあったため、今度の大戦で強制疎開で取り壊され、通称山上と呼ばれた日暮里三丁目に移転営業再開。空襲が激化する恐れからあたしは福島に学童疎開。姉と妹たち三人は縁故疎開で茨城県へ。東京には両親と勤労動員されていた兄ともう一人の姉が残りました。やがてそ営業再開しましたが敗戦間際に焼け出され、親たち四人は日暮里四丁目の長屋の二階六畳間に間借り生活をはじめました。
 そして戦争が終わりました。縁故疎開組が、あたしが福島から六畳間に合流し、総勢、両親に兄、姉二人、妹三人の八人の大家族が寝起きしていました。一番下の妹はまだよちよち歩きの、戦時中に夫婦して亡くなった一番上の姉の子です。やがて下の大家にも家族が疎開先から帰り、当然ながら立ち退きを迫られ、常磐線の三河島にほど近い一戸建ての二階八畳間に引っ越ししました。尤もその前後には上の姉は住み込みで職を得、兄は家に滅多寄りつかぬ生活を送っていました。
 そしていよいよわが家族の復興でした。あたしは既に中学生、敗戦直後の東京は盛り場を彷徨したり、図書館で読書に耽り、映画に通うといった、学業そっちのけの日々でした。
 やがて親たちは姉も含めて建築資金に奔走し、日暮里駅近くに、十二坪のバラックを建て、営業再開に満を持したのです。


一年前のブログ

2016-07-17 14:09:48 | 思い出

思い出すままに 一

2015-07-16 02:30:09 | 思い出

うたのすけの日常 思い出すままに 一

2007-04-05 06:34:06 | 思い出

         能登の避難所の高齢者を見て、父とのあれこれ

 避難所で横たわるお年寄りを見て、無性に父母のことを思い出す。これも自分がそれだけ齢をとったということか、とにかく今朝は父のことを書いてみる。
 父は一口にいって几帳面な人であった。戦後のことであるが、バラック建ての二間の座敷に柱時計がそれぞれかかっている。空襲の時かろうじて持ち出したものである。もちろんゼンマイ巻きで、戦時中の国策から、24時間制に直されていた。文字盤は12時の表示の下に、赤字で24と書かれ、あとは順に1時の下は13と入る。午後一時は13時と言わされた名残の時計である。民間のすべてを軍隊式にする一環なのであろう。そのゼンマイを巻くのが父の仕事であった。時刻を知らせるボンボンの音が少しでも間延びすると、踏み台に乗ってゼンマイを巻く。ラジオの時報に即応し狂いを直し、毎度首をひねりながら振り子のネジを上げ下げして調整していた。
 
 店に直結している座敷に大きな火鉢が置かれている。かなりの大きさがあって、冬場などその上に乗ってよく叱られたものである。この火鉢の火を絶やさず炭を補給するのは専ら父がしていた。戦後数年たった時期であろうと思う。裏の物置から堅炭を大きな十能に乗せ、火鉢の中のへりにぐるっと並べて入れるのである。こまめに往復していた。叔母に言わせると、父のような人のことを御用火事というそうである。なんとなく納得させられるネーミングである。
 父はまた外出から帰ると濡れ縁に立って、冬場でも下着一枚になって背広にブラシを丹念にかける。ポケットの中袋を引っ張り出して、ゴミを払うといった徹底振りである。。ときたま落花生の渋皮が舞ったりする。こういうときは競馬へ行ったのである。ポケットの中でセロハンの袋を破り、競馬場の行き帰りにつまんでいたのであろう。

 ここで話しは戦前にさかのぼる。下町のこと、風呂は姉に連れられたり、子供同士で銭湯へ行ったものである。しかしときたま母から強制的に父と行かされる。「毎日風呂へ何しに行ってんだ。耳ん中も後ろも真っ黒じゃないか」といったわけで、父に襟首をつかまれて一緒に行く羽目になる。父は銭湯で雪ダルマとあだ名されるほどの潔癖症である。二回は体を石鹸の泡だらけにして洗うのである。その伝で徹底的に、石鹸が目に入って悲鳴をあげようが何しようが、ゴシゴシ洗われる。でも帰りに必ず、ねだらなくてもキャンデーを持たしてくれたものである。父はそれからあたしの鉛筆をよく削ってくれた。
 
 筆箱を店が比較的暇になる午後、あたしは黙って父の前につん出す。父は黙って数本の鉛筆を、刺身包丁でくるっくるっと一刀で削ってくれる。あたしは感嘆の目でしゃがみこんで見ていた。

 父は仕上げにコンクリの土間で、丁寧に芯を尖らしてくれた、終始無言で。

 
 

思い出すままに 十四

2015-07-29 02:33:31 | 思い出

うたのすけの日常 父が迎えにきました

2007-04-13 07:37:11 | 思い出

                  それは戦争が終わって一月後でした

 八月十五日に終戦の大詔が下って、それから一月の余の疎開地での記憶がすこぶる曖昧なのです。学校へは通っています。何を勉強していたのか、友だちとの付合いはどうだったのか、思い出せないでいます。下宿で食卓に何が並び、何を食べていたのか、空腹に悩まされていた筈なのに、その間のことが空白なのです。ただいくつかのことは覚えています。点々とした記憶ですが辿ってみます。
 
 
勉強ですが、英語の発音練習で苦しんでいます。口の開け方、舌の使い方、息の吸い方、吐き方。ですからこの時点で、あたしの英語能力は限界に達しています。それに算術が、代数幾何にとって代わり悪魔の形相であたしを襲いました。もう一つ化学が、化学記号に集約されてあたしを翻弄しました。しかし軍事教練や、開墾がなくなった嬉しさは忘れません。そうでした、あたしの手元に分厚い辞書がありました。
 
 おそらく家が空襲で焼けるとき持ち出したものを、中学に入学したとき、親が寸暇を割いて送ってくれたものと思います。今の広辞苑ぐらいの厚さがあり、確か「新字鑑」とありました。  この辞書は店のお得意さんの「ぶんせいかく」、どういう漢字を当てたかはわかりませんが、印刷会社がありまして、そこで姉たちが頂いたものです。既に紙不足だったのでしょう、色々な種類の紙質が混じって製本されていました。その辞書を引いたり、時には枕代わりに空きっ腹の体を横にしたりしていました。空きっ腹といえば何を食べていたのでしょう。食糧事情は確かに戦中より終戦直後のが悪化したのは事実と思います。
 

 下宿の小さな男の子が、泣き叫んでいたのを鮮明に覚えています。おばあさんが白いお粥を食べていました。それを欲しがって子供が足をばたばたさせていたのです。おばさんはあたしたちに気兼ねもあったのでしょう、声を殺してばっちゃんは病気なんだと必死に口説いていました。大袈裟に言えばこの世の飢餓地獄を覗く思いをしたといえます。
 
 学校は一駅先の汽車通学です。列車は復員する兵隊さんで一杯で、ある日上級生の一人が彼らに、聞こえよがしに敗残兵なる言葉を発したことがあります。幸い言い合いだけで終わりましたが、学校には次々と予科練や各種の少年兵に志願した先輩たちが戻ってきました。一時彼らの軍服で校舎が兵舎と見まがうほどでした。学校は生徒の軍隊志願を強烈に指導していたのでしょう。後に校長は公職追放になったと聞いています。
 
 そんな頃父が迎えに来てくれました。一日千秋の想いとはまさにこのことです。父は平和な時によく着ていた背広姿でしたが、頭には軍帽そしてゲートルを巻いていました。
 翌日前夜に深夜まで並んで買った切符の日付は、20年9月17日です。それだけは克明に覚えています。そして嬉々として父に伴われ一年半振りの東京に向かったのです。乗換駅の郡山では窓から満員列車に乗り込みましたが、記憶はそこまでで車中のことは何一つ覚えていません。しかし夜に東京近郊に列車が入る頃、窓の外の延々と続く焼け野原には恐怖さえ感じたものでした。
 

 後日父は語っていました、溜め息混じりにことあるごとに。それはあたしを迎えに来た時の、郡山駅のホームでのことです。汽車を待つ間ホームのベンチに、農家の子とみえる男の子の兄弟が座っていて、やおら風呂敷包みをほどき、握り飯を取り出したそうです。その男の子の頭ほどもある純白の飯のお握りだったというのです。
 父は生唾を飲み、金はいくらでもやるから売ってくれと、子供に危うく頼もうとしたと言うのです。
 既にその頃は白米の二字は一般国民にとって手に入りがたい高嶺の花となっていたのです。


思い出すままに 十三

2015-07-28 02:57:38 | 思い出

うたのすけの日常 エフちゃんの結婚

2007-04-14 06:35:30 | 思い出
     
                エフちゃんは店で働いてくれた娘さんです

 知り合いの紹介で店で働いてくれることになったエフちゃんは、山形出身の色白の器量良しの娘さんでした。当時まだ二十まえだったと思います。昭和35年ごろで、店も戦後の苦しい時期を経て、なんとか軌道に乗りつつありました。あたしも結婚してなんだかんだあって、どうやら落ち着きを取り戻した頃でした。かみさんも商売にも馴れ、人手が増えたことで娘にもかまってやれ、これであたしがもっと商売に身を入れてくれたら、言うこと無しといったところでした。事実近所に町工場も徐々に増え、従って客足も伸びてきました。
 
 エフちゃんの仕事の仕込みは専ら母が当たりました。それは徹底したものです。来た当初の冬、山形でもそうだったというのですが、霜焼けあかぎれがひどかったのですが、母は水仕事にも一切加減をみせませんでした。かみさんには嫁入りした当初から、母はこれといって厳しい教え方はしていません。あたしの目からは、その分エフちゃんに面当てのように対しているような気がしてなりませんでした。
 
 かみさんが嫁に来て間もなくのころです。ある日所用できた姉があたしを呼び言ったことがあります。「かあちゃん、こんなこと言ってたよ、あんたが嫁さんがかまどから釜を下ろそうとしたら、俺がやると言って手助けしたと、この年寄りがやってたって、ただの一度もそんなこと言ったことがない。良く出来たかあちゃんだけど、世間の姑とかわりないんだよ、気をつけな」と。
 しかし仕込みの厳しさを見るのも慣れて、そのうち気にならなくなりました。エフちゃんもよく頑張り、短い間に店の一員として立派に仕事をこなすようになりました。翌年の冬は霜焼けもあかぎれもできなくなり、みなほっとしました。

 それから五年はたったでしょうか、そのころあたしは商売の実権を親から受け継いだばかりでした。あたしがいつまで商売そっちのけで飲みに出たりするのは、嫁や子供までいて、月々あてがい扶持では商売にも身が入らないという、姉の親に対しての強力な助言があってのことでした。あたしが結婚したときと、恥ずかしながら同じ状況だったといえます。それはともかくエフちゃんに縁談がもちあがったのです。それが二つも同時にでした。相手は店のお客で、近所の町工場で働く職人さんです。一人は町内の有力者で、人格者で通っている人の経営する、染物関係の会社の職人さん。もう一人は店の裏手の家具屋さんの職人さんです。もちろん母にそれぞれの経営者から話がきたわけです。

 母はにんまり笑って嬉しそうでした、手なごに育てたエフちゃんに二つも縁談が舞い込んだことに対してです。あたしとしてはもう少し店に居て欲しい心境でしたが、そうもいきません。相手は結局どっちにするか、当たり前の話エフちゃん次第ということに落ち着きました。
 相手は染物会社の人と決まりました。家具屋のかみさんが、うちあたりと、染物会社とは格が違うからと、盛んに口惜しがっていたという話が耳に入りましたが、あたしはそんなもんではないと思ったりしたもんです。近所では、なにしろやかましいで通っていた母に仕込まれたのだから、いいかみさんになると専らの評判でした。
 
 店からエフちゃんは嫁にいくことになりました。店に貢献してくれたエフちゃんです。しかしあたしの商売になってからは、エフちゃんはまだ日が浅かったのです。当然嫁入り仕度は母がしてくれるものとあたしは思っていました。しかし母からはなんの話もありません。日も迫ります。あたしは母に相談のかたちで話を持ち込むと、あたしはあの子には家事一切、それに立居振る舞い人様から後ろ指さされることのないよう、十分に仕込んだ。これがあたしからの祝儀だよ。家具なんかあんたたちで仕度してやんな。尻尾を巻くしかありませんでした。

 家具類は近所でもあり、例の家具屋さんに依頼するしかありません。あたしは職人の胸中を考えると、いささか辛いものがありました。もちろん染物会社の職人との結婚が決まった段階で、彼は店に顔を見せなくなっていました。
 しかし間もなく彼にも良縁があって結婚したという話をきき、ホットしました。

思い出すままに 十二

2015-07-27 10:49:16 | 思い出

うたのすけの日常 焼き場と豚やのお話

2007-04-15 06:50:04 | 思い出

               ちと大袈裟ですが、都市開発に関連して

 葬儀のことから話に入ります。母は年長の父に先立って亡くなりました。これを逆縁といって順当に反した法事になるそうです。従いまして街の長老や周りの助言で、父は正式の葬儀の席に着けず、火葬場へも行けませんでした。父は普段着の着物のまま淋しげに通夜や葬儀の日、弔問客がまだ見えぬ前や、帰ったあと線香をあげていました。この習慣はあたしの街に限られたものなのか、或いは全国的なものなのかはわかりません。あたしとしてはいささか納得できないものがありましたが、街に住む人間です、逆らうわけにはまいりませんでした。
 
 ところでここで焼き場が登場します。焼き場はあたしのところから、電車で二つ目の「町屋」と言う町名の場所ににありました。街の人たちは通常焼き場とか、火葬場とか言わず町屋と言います。町屋の人には申し訳ありませんが、それで通りました。年寄りはよく口にします、そろそろ町屋が近くなったとか、年寄りが長く寝込んでいると、そろそろあそこのじいさん町屋だなんて噂します。
 
 その火葬場の排斥運動が近辺の人によって起こされたのです。焼き場は立派な民間会社で、長年の歴史がありました。町なかに火葬場があるのは、町のイメージが悪いとか、一言で言えば原因は環境問題に帰するのではないでしょうか。この騒ぎは新聞にも取り上げられ、あたしたちも注目したものです。しかしこの騒ぎ、火葬場の社長の一言で幕を閉じたようでした。社長曰く、先々代?がこの場所に火葬場の営業を開始したとき、近辺には一軒たりとも人家は無く、沼地や鬱蒼とした森林地帯でした。狸や貉が生息していたのです。煙突から出る煙や臭いも大気に浄化される環境にあったのです。会社として周りを開発して住宅を誘致したおぼえはありません。火葬場が存在することを百も承知の上、皆様はここに蝟集お住みになっている。それをいまさら立ち退けとは、それは聞こえませんといった主旨でした。
 この社長の発言で騒ぎは鎮静していったようです。

 大体この話は昭和30年頃のことでして、わが家の食堂も客足がいささかながら伸びてきた頃です。
 その頃商売から出る生ゴミは、区の収集の大八車に頼っていました。チリンチリンと鉦を振り鳴らしてくるそれです。それがある日から、中華料理を営む友だちの紹介で、埼玉県で豚の飼育をしている人が残飯を集めに来るようになりました。もちろん無料で持っていってくれます。聞くところによりますと、飲食店から出る残飯は豚の餌には最高だそうです。化学飼料で育てた豚より数段発育も良く、その肉は美味だそうです。豚やは働き者らしく毎日決まった時間にトラックで収集にきていました。
 
 何年ぐらい来て貰っていたでしょうか、ある日突然豚やがきて廃業することになったと、挨拶していったのです。忙しい時間だったので詳しい話は聞けませんでしたが、友だちから後で聞きました。非情な話でした。豚やが豚を飼いはじめたのは、当初は人里から遠く離れた山間でしたが、ご他聞にもれず宅地開発の波が押し寄せました。とどのつまりは排斥運動が起こり、廃業に追い込まれたというのです。
 
 友だちは以前豚やに一度遊びに来いと言われ、かみさんと一緒に行ったことがあるそうです。豚舎は掃除も行き届き清潔に保たれてはいましたが、臭いは強く、蝿の多さには驚かされたそうです。そして笑って言いました。
 出されたスイカに蝿がたかり、種だか蝿だか見分けがつかないんだから。住民の抗議もわからなくはないと。


思い出すままに 十一

2015-07-26 09:45:31 | 思い出

うたのすけの日常 鯉のぼりと選挙

2007-04-16 07:02:57 | 思い出

          

              午後から話に聞いた鯉のぼりを見に行きました

 家から30分も歩きましたか、それは畑をまたいで両脇にクレーン車を置き、延ばしたクレーンの先端にロープを張って鯉のぼりを繋ぐといった、大仕掛けなものでした。近所の建築会社が行っているもので、話に聞くと年々持ち込まれる鯉が増えているそうです。最近の鯉のぼりは布ではなくビニールで出来た物が多くなり、処分に困っての事情もあるとか。将来はもう一台クレーン車を置きVの字に張るか、二段構えにロープを張って吊るすかと、思案しているそうです。いずれにしてもご苦労様なことで、この時期建築の仕事が暇なのかと、要らぬ心配をしたりしました。
 
 帰り路、選挙カーが愛嬌を振りまきながらそばを走りぬけます。今日当地では市長と市議選挙の告示がなされたのでした。窓から手を振る候補者を見送りながら、ふと昔のことを思い出しました。選挙にまつわることです。
 昭和も30年代も終わりのころと思います。当時店には千葉から野菜の行商のおじさんが来ていました。町の駅には朝大勢の大きな籠を背負い、両手に野菜の包みを持った行商の人たちが降り立ちます。殆どが中年以上の女性たちで、籠の上にも風呂敷荷物を乗せ、背をかがめ集団で階段を昇り降りる様は壮観といえます。みな濃紺のもんぺ姿で、その色合いから「カラス部隊」といわれていました。おじさんはおばさんたちのリーダー格でした。おじさんはお得意さんを一巡りすると、最後に店に寄って売れ残ったものをまけて置いていきます。それは大量であったり僅かなときもありましたが、母は黙ってみな引き取っていました。そんなおじさんが、ある日ぷつっと姿を見せなくなりました。通りがかるおばさんたちに
聞いても要領を得ませんでした。
 
 ひと月ぐらい経ったでしょうか、幾分太った感じのおじさんが顔を見せました。そんなおじさんに母が聞きます。「どうしたの、病気でもしてたの」それにしては血色も良く、頬もふっくらとしています。おじさんはただにやにやしていましたが、「入っていたんだよ」と言います「入っていたって病院にかい」と母が首をかしげています。「そうじゃないよ」おじさんの否定に父が「豚箱だろう」と一言言いました。おじさんは黙って肯きました。
 時期でもあったし、おじさんは村の顔役ときいています。それに顔の色艶もよく太った体は、三食豪華な弁当の差し入れで美食三昧の拘留のなせる結果と、父はそう推理したわけです。それでどうしたの、実際選挙違反やったのと母はおじさんを問い詰めました。おじさんはにやにやしているだけでした。後で父は起訴され保釈中だろう。そのうち裁判で、初犯なら執行猶予だろうなんて言ってました。

 選挙ではかみさんの実家の村でもこんなことがありました。、村と言うよりもう一つ単位の低い坪という地域の集合体でのことです。かみさん所用で実家に行ったとき、小さいときから世話になった近所のおばさんの家に挨拶に寄ったそうです。家には居るはずの娘夫婦も居らず、なんとなく家の空気かおかしい、そういえば実家でも弟はおらず、嫁さんもなんか態度が変だったと言います。おばさんはかみさんを傍に寄せて話したそうです。坪中選挙違反容疑で警察の事情聴取を受けているのだそうです。次から次へと数珠つなぎで任意で調べを受け、中にはそのまま留置される者も少なくないと話します。
 おばさんが言ったという言葉を聞いてあたしは笑ってしまいました。なにしろ坪うちで警察に呼ばれないでいるのは、オレと隣の中気で寝たっきりのオッちゃんだけだと。

 この話いずれもふた昔まえのことです、あくまで昔の話とお断りしておきます。


思い出すままに 十

2015-07-25 01:52:49 | 思い出

うたのすけの日常 改正道路と踏み切り

2007-05-05 09:08:23 | 思い出

             一応店の前はメインストリートでした

 食堂を営む店の前の道路は改正道路と呼ばれ、バスも通りトラックも走り人も行き交う。しかしあたしの子供の頃はその道路でトンボをモチ竿を持って追いかけたり、姉は自転車を練習したりした。兄なんかは中学に入って乗馬部に入り、思うように馬に乗せてもらえなかったのか、店の客の馬方に頼み込んで乗ったりした。一度馬が暴走して馬方が蒼くなって追っかけてたのを憶えている。要するに現在の道路の交通量とはかけ離れた閑散とした道路だったのである。昭和15、6年前後のことである。
 

 店のそばを貨物列車専用の線路が横断し、踏み切りが設けられている。その踏み切りを挟んで交通を遮断、道路のかなり長い部分を使って、NHKの朝の番組、ラジオ体操の全国放送が行われたことがあった。近辺の小学校の児童は勿論、町会単位で大人たちも動員され、拡声器から大音響の音楽とともに、号令が道路にこだましたものである。あたしはただただ唖然としたおもいであった。なにしろ店の前の道路が、こんなに人であふれるのを見るのは初めてのことなのである。
 
 そうした道路の日々、あたしは踏み切りが閉まり貨物列車が通過するときは遊びは中断、路地裏から飛び出し駆けつける。そして一台二台と声を出して数えるのが楽しみであった。夜はまた趣の違った気分にさせられる。踏み切りで足止めされた冬の夜など目の前を通過する機関車が、たまたま石炭をくべるため釜の扉を開けた時、一瞬ではあるが石炭の燃える炎が釜口から煽るように噴出し、機関手の顔を赤く染める。思わず吸い込まれるような恐怖が走ったりした。列車が通過し踏切が開くと駆けて家へ帰った。
 
 踏み切りの近くの線路に遮断機のない無人踏切がある。ときたまではあったが人身事故が、それも死亡事故が起きる。事故の後雨が降る夜、線路の上に燐が燃えるという青い火が出現するのである。姉はお客に知らされて確かに見たと、恐々あたしたちに聞かせたりした。ときには黄身がかった赤い人魂が浮遊したりすることもあるという。あたしも見たような気が今でもするのであるが、これは当てにはならない。
 
 踏み切りにまつわる事でもう一つ、もうとっくに時効になっているので、懺悔話といく。昭和18年小学4年生の時である。ある日のこととしておく、日にちは覚えていないのである。学校の帰り踏み切りが閉まっている。すぐには貨物列車は来ない、そのうちに便所に行きたくなったのである。それも大きいほうである。やがて貨車が通過していくが、数えるどころではない。おまけに車両がその日にかぎっていつもより多く繋がっていて、これはいつものことだが、先方にカーブがあってこの地点は速度を控えるのであるが、これもいつもよりゆっくり走っている。足踏みしてこらえていたが、我慢は限界に達したのである。
 静かに家まで歩を運び、裏口から階段を情けない気分でぎこちない足取りで昇った。二階にはだれも居なかった。急いで脱いだパンツを丸めて押入れの片隅に置き、新しいのを引っ張り出し外へ遊びに飛びだしたのである。後は野となれ山となれって心境だっのだろうか。しかし事は意外な方面に展開したのである。
 
 二つ上の兄がその日、たまたま修学旅行で関西へ出発したのである。アメリカと戦争を始めていたとはいえ、まだまだ世間は平和だったのだ。あたしは夕方叱責覚悟で帰ってみると、なんらいつもと様子は変わらない。その後笑いながら話している母と姉の会話に聞き耳たてると母が言っている。「あの子」兄のことである。「あの子ウンコ洩らしてそのまま猿股押入れに押し込んで遠足行っちゃったよ」
 ほくそえむとはこのことである。あたしはしめしめとにんまり兄に罪をなすりつけたまま、舌を出したのである。兄が帰ってきてどうなったのか憶えていない。おそらく忙しい商売の毎日である。そんなことは母や姉の頭からとうに消えていたのであろうと思う。
 


思い出すままに 九

2015-07-24 04:19:51 | 思い出

うたのすけの日常 田舎の親父と鯉と泥鰌の話です

2007-05-24 06:05:39 | 思い出

                      昭和40年代の話です

 娘が小学一二年のころでしょう。もっともこのことは、娘が生まれた当初からのことなのですが、田舎の親父としては外孫ながら娘は初孫です。孫の顔見たさに足繁くわが家を訪ねて来ていたのです。あたしも孫を持ったとき、当時の親父の気持が痛いほど遅まきながら分かりました。乗り換えに時間を要せば、片道3時間は取られる道のりです。田舎のことです手土産といえば野菜とか夏は西瓜、秋には庭に生る柿や栗、みんな年寄りには重いものです。ときには米を。これにはさすがにお袋が、米は売るほどあるのだからと、かみさんに丁重に断りを言わせたものです。
 
 そして時には土産に泥鰌が加わります。田圃の用水路でいくらでも獲れるそうですが、家では誰も口にしないのです。かみさんも田舎にいたときから食べたことないと言います。桶に放し、親父が帰ったあと裏の小母さんに上げます。大好物とかで大喜びでしてくれます。ですから泥鰌がくれば、いつも右から左で大量のときは、小母さんからご近所にお裾分けされます。いきなりご近所の人から、泥鰌の礼を言われて面食らったりしました。
 
 ある日のこと小母さん親父が家で顔をあわせました。かみさんが、娘がいつも世話なっている小母さんですと親父に言えば、小母さん「とんでもない、こちらこそいつもお父さんには泥鰌を一杯頂いて。それも獲れたての生きのいいのを」と馬鹿丁寧に礼を述べられ、ここでも面食らったものです。
 
 そんな日々に、親父が朝早くに来ました。おそらく一番電車で家を出たに相違ありません。そして土産です。親父はかみさんに盥桶を庭に用意させ、水をはらせます。ニコニコしながら風呂敷から取り出したのが、分厚い濡れた新聞紙の包み二つ。それを丁寧に解きます。出てきたのは鯉でした。盥に放します。目の下と言うのですか、ゆうに30センチはある大きな鯉です。盥で跳ねて元気に泳ぎだしました。ここでまたもや問題です。うちの手合いは誰も泥鰌と同じく川魚はお呼びではなかったのです。
 親父が帰った夜、裏の小母さんに食べて貰おうかといった話になりました。ところが娘が猛烈に反対します。食べちゃ可哀そうだと。もっともなことではありますが、飼う手だてはありません。そのとき娘が目を輝かして学校の池に持って行って飼うと言うのです。衆議一決です。
 
 翌朝かみさんと娘とで学校へ持って行き、先生立会いで池に放しました。娘が帰ってきて聞いてみると、元気に泳いでいて、みんなして餌をやったと言って喜んでいます。そしてこう付け加えるのです。先生が勿体無い、勿体無いと繰り返して言っていたそうです。

 あたしは「はははぁーん」と思いました。先生の頭には鯉こくや鯉の洗いが浮んでいたのではないのでしょうか。