四幕の三
綾 心ここにあらずって様子ですよ。
沢 なんだって。(座り直す)
綾 ほほほっ、慌てなくてもよろしいのよ。
沢 慌てるって、慌てることなんかなにもありゃしない、ただ…
綾 (鷹揚に笑いながら)ただなんですの。
沢 ただ、なんだってこんなことになったのか解せなくて。あの後藤という男よっぽどひどい仕打ちに出たんだろう。それに耐え兼ねて…かわいそうな女だ。
綾 涙を流しておやんなさいな。それが肌を合わした女に対する情ってもんですよ。
沢 (声を荒げ)なにを言い出すんだ綾…
綾 いいのよ、なにもかも承知。あの女に夢中で、とうっからただの間じゃないってことは。
沢 (肩を落とし)お前…
綾 いいんです。でもこれだけは言わせて、あの女がただの女で、あなたに想いを懸け ての仲だったら黙ってはいなかった。横っ面のひとつも張ってたかもしれない。
沢 (たじろぎ)それはどういうことだ。それよりいつから…
綾 いつからって、ほほほっ、素直ですね…みとめるんですね…初(はな)っからですよ。(沢、なにか言おうとする)黙ってお聞きなさい、怒ってはいやしません。あの女はいけない、男を奈落の底まで引きずり込むつくりですよあの軀は。あなたみたいなお坊ちゃん育ち、ひとったまりもないわ。
沢 そうか、あんたみんな知っていたのか、それで(おずおずと)たったの今も怒っちゃいないのかい、すまないって思いは…
綾 なによ今更、あたしは必死だったんですよ。どうしたらあなたが女に溺れていくの 止められるかって。下手に嫉妬(やきもち)焼いて騒ぎたてたら、あなたは女の中に溶け込まれ ていってしまう、そして残るのはあなたの惨めな姿、それが怖かった。
沢 もういい、あたしが悪い。
綾 いいの悪いのじゃないの、あなたは進むも地獄もどるも地獄にいたんですよ。あた しはあなたも大事、「つたや」の看板も大事、あなたの首根っこを押え、家へ戻すことはできたかも知れない。でもいっときだったでしょうねえあの上せようでは、ほほほっ、あの晩以来まるで蝉の抜殻、腑抜けだったんだから。
沢 (呆然として)あの晩て…それに腑抜けはひどい。
綾 そうですよ、腑抜け。日暮れになると、魂があるのかないのやら落ち着かず、あたしはずいぶんと使用人の目を気にしてたんですよ。
沢 参ったな、みんな見通しだったとは。あたしは綾の手の平で、一人踊ってた訳だ。
綾 そんなんじゃありません。あたしは必死だったのよ、あの女にまともにぶつかったら、逆にあなたは深みにはまるだけ、太刀打ちできる相手じゃありません。お女郎上がりのしたたか女ですもの。
沢 女郎上がり?
綾 そうです、あなたもあたしもあの女にかかったら、赤子の手を捻るようなもんです。骨の髄までしゃぶられこの先あなたは、まともな神経では生きていけなかったでしょう。
沢 (深く頷き)その通りかも、だが女郎上がりとはねえ…
綾 気づきませんでしたか、あたしは場所柄そうではないかと、思ってはいましたが、初めてあの店に行って、身近で見たときやっぱりとひと目でわかりましたよ。あたしは知っての通り花街(いろまち)に生まれ育った……女郎(おんな)たちの振る舞いや暮らしは目に焼き付いてます。いい匂いのするお部屋、そして花を活けたお部屋、それであたしはぴんときたんです。(憎らし気に)もっともあの女、大店(おおみせ)のお女郎なんかじゃありゃあしませんけどね。
沢 でも…結構花活けたり…
綾 (鼻で笑い)懸命に背伸びしてたのよ、廻し女郎がいいとこよ。手練手管が身上、ちょっとした身のこなしや腰付きに、凄い色気が漂っていたわ…それにあなたは蕩(とろ)けてしまったんですよ。わかる筈ありませんよね。
沢 いや、全くの素人とはおもっちゃいないが。
綾 上手だったんでしょう、床が…
沢 なにを言う、厳しいね。
綾 ほほほっ、気になさらないで。浮気は男の甲斐性、実家の父もあなたのお父さんもよく遊ばれたお人です。あなたの浮気の一つや二つで血迷いはしません。
沢 もういい。
綾 いえきいて頂戴、責めてるのではありません。ここであたしが悋気を起こして取り乱したら、大変なことになると考えたの…あなたは余計女にのめり込み、女も牙剥き出して溺(から)めにかかってくると。そしたらお仕舞いあなたもあたしも。そして「つたや」も。
沢 すまない、よく耐えてくれたねえ、すまなかった。
綾 (うなだれる沢に取り合わず)女の肌に惑わされ、盲同然のあなたでしたからね。それであたしは盲のあなたと一緒に騙されようと、二人が相手じゃ面食らうのではないかと期待したんです。蕩しこんだ男の女房に、懐にとびこまれては勝手が狂うじゃないかと、逆手をとって女の気持に賭けたんです。どうやら願いが通じたみたい、思いの外の、気の毒な終わりになったけど…
沢 どういうことだねそれは?
綾 あたしの狙いが…当たった。身を引く気になったのよ、あたしの必死の願いが、女の胸のなにかに遅れをとらしたんだわ。
沢 なぜ亭主を刺した…
綾 男が女の弱気に苛立って諍いになったんですよ、かわいそうなことをさせてしまった。あたしたちに女は心中立てしたんですよ。あなたを虜にした女ですけど、憎さは薄まってます。
沢 あんたをひどい立場に立たせる羽目にしてしまった。
綾 なに言うのいまさら…あなたは救われたのよ。世間にゃ知れません。なんであたしが情けない悔しい思いを殺してまで、あの女にあれこれしたと思うのよ。お取調べであなたの名前は一言半句出ません、あなたのことに関して一切しゃべりません。しゃべるくらいならご亭主を殺しはしない、あたしの崖っ淵からの願いに、必死で心を洗ってくれたのよ、安心なさい。
沢 (深く溜息をつくがほっとした表情)そうなんだろうか、しかし女は怖い。
綾 あたしのこと、それともあちら。あたしも女、怖いですよ。ねえ、いまだから言えるけど、(笑いを浮かべ)ずいぶんとあなた、夜のお仕事に神経つかってましたね。あたしとあちらとの兼合い、腹立たしいの通り越していじらしくなりましたよ。あたしが淡白だからいいようなもの、好きもんだったらどうなってたんでしょう、あちらに行って役立たず…
沢 おい、いい加減にしなさい年甲斐もなく。
綾 あれ、ご自分はどうなんです。いい齢して女の腹積もりも見抜けず、うつつを抜かして。
沢 手厳しいね、怒ってなんかいないってたったのいま言ってたじゃないか。
綾 そうよ、怒ってなんかいませんよ、これから先のこと心配して言ってるんです。
沢 (すっかり安心のさま)はははっ、懲りた懲りた悪い夢を見てたんだ。ところで話はもどるがあたしだってあれが金目当てだってことぐらいは…
綾 でも一度知った味が忘れず後引いて。
沢 そんなんじゃない、あれ、あたしの子が出来たって言いだしたんだ…
綾 (目の色を変える)ええっ!
沢 そうなんだ、みどりを養女と知らず実の娘と思ってたらしい、あたしに子種がないの知るわけないやね。
綾 それであなた…
沢 真に受けてやったよ。
綾 (思わず声を荒げる)まあ呆れた、そこで目が覚めずに。
沢 怒らないでくれ、言わして貰うよこの際だ。
綾 (落ち着いて)いいでしょう、言って。ききたい。
沢 ほんとにあたしの子を身ごもったかと一瞬思ったよ。その一所懸命騙しにかかってくる意気込みが逆に憐れに思え、始末しなとはっきり言うのが憚れた。まさか孕んでいない子を生んでくれとも言えないし、おかしな心地にさせる女だった。
綾 (顔をこわばらす)そうよ、おんな、おんな、だったのよ。もうご自分で爪を切り、ヤスリをかけてまで逢いに行った女はもう過ぎ去った女…なのよ…あたしはあなたの指を噛み切りたかった。
沢 うううっ…
綾 (すくっと立ち上がり)あの女に腕のいい弁護士をつけましょう。
沢 えっ?
綾 それにかづと言いましたね、女の子、あたしが引き取ります。
沢 (せきこんで)それで養女にでも…
綾 (冷やかに)お取調べが済み、裁きがついたら口入れ屋にあずけます。
舞台下手に、巡査に縄尻をとられたたえの姿が浮かぶ。頭を垂れ、寒風に裾を煽られ寒々とした風情。
舞台溶暗そして幕