うたのすけの日常

日々の単なる日記等

うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む147

2010-06-30 04:46:02 | 日記

敗戦にひた走る 1<o:p></o:p>

 

 たしかに日本は打撃された。大きな鈍器に打たれたような感じだ。<o:p></o:p>

 しかし、鈍い。一般には十二月八日のような昂奮は認められない。予期せぬことではなかったこと。どんな激情的な事実にも馴れっこになっていること。疲れはてていること。そのためか、みなほとんど動揺しないようだ。「とうとう、やりやがったなあ」と鈍い微笑の顔を見合わせるだけである。例の「運命を笑う」笑いにちょっと似ている。<o:p></o:p>

 夜それでみなこのことに就いて話す。<o:p></o:p>

 「日本が今まで敵に先手を打たれたことはないじゃないか。おべっかをつかって、張り飛ばされて、こりゃ醜態だな」<o:p></o:p>

 「厳重抗議、なんて間の抜けたことやらなきゃいいがね。だいたい日本は、横っ面を殴られたら丸太ン棒で殴り返す方なのだが、こんどは、おそるおそる抵抗、というようなかたちでゆくような気がしてならん。畜生、こうなったらウラジオなんか一挙にどっと攻撃してしまえ」<o:p></o:p>

 「こんなことになるなら、スターリングラード戦当時に、ドイツと相呼応すればよかったんだ。あんまり大事をとりすぎて、とり返しのつかないことになってしまった。海軍などもその通りだ。晴れの決戦らしい決戦もしないで、いつのまにやらなし崩しにぐずぐず無くなってしまったようじゃないか」<o:p></o:p>

 「しかし、今度の事だけは、ソ連が日本の弱っているのにつけこんで、背中からいきなり殴りつけて来たことに間違いはない。この恨みは絶対に忘れまいぜ」<o:p></o:p>

 「もともとソ連こそ日本の宿敵なのだ。それが大東亜戦争以来、すっかりその意識が拡散しちまっている。これをいま火をつけたって、急には盛り上がらないしなあ。それにそもそも関東軍はレイテや沖縄であらかた無くなっちまったというじゃないか」<o:p></o:p>

 これらの言葉を叫ぶ声激烈なり。<o:p></o:p>

 「もうこうなったら、やけのやんぱち、もっと宣戦布告してくるめぼしい国が欲しいくらいのもんだ」<o:p></o:p>

 「アメリカに、もうおまえのとことの喧嘩は飽いたよ、新味はないよ、だから、おまえさんは暫く見てる気はないか、こつちは当分ソ連とやるから、っていってもきかないかね」<o:p></o:p>

 「そうはゆかんよ。これで米軍の上陸もいよいよ迫ったな。第一、B29の基地が沿海州に出来るにきまっている。いよいよ夜も眠れん状態になるぞ」<o:p></o:p>

 「いよいよおれたちも出る番だな。なに、出された方がいいんだ。大体おれたちが今ごろここにいるのが変なんだ。こうなったらもう暴れ死しようや。一日でも長く全世界を相手に戦ったら、それだけ日本の箔がつくことにならあ」<o:p></o:p>

 「問題はメシだな。もう先のことを考える必要はないもの、うんと食わせてくれたらいいんだ。メシさえ腹一杯食わせてくれたら、なに百年だって戦争してやる」<o:p></o:p>

 「それからメッチェンだ。これももう先のことを考える必要はないんだから、こっちも腹一杯。…」<o:p></o:p>

 そこで、みな大爆笑。まさにソ連は日本に強心剤を与えた。ただし二、三日効果が続く程度の。しかし問題はそのあとだ。警戒すべきは今の日本人の自棄的な笑いの反動である。恐るべき事態はその後生じるであろう。


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む146

2010-06-29 17:26:57 | 日記

広島に新型爆弾、ソ連参戦<o:p></o:p>

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八月七日(火)晴<o:p></o:p>

 連日天地炎々。午前外科、内科。午後、飯田に疎開させたる図書室の書籍の目録を作る。<o:p></o:p>

 帰郷せる松柳に帰寮督促の手紙を出す。<o:p></o:p>

 「今や国家存亡のとき、むなしく故郷にありて狸腹便々。大事去って千載の悔を残すことなかれ。ただちに吾らが戦場に復帰せよ」云々。<o:p></o:p>

 ヒトラーが生きているという噂が絶えない。確証ある屍体が発見されないのだから、これは当分連合国側の夢魔であろう。<o:p></o:p>

 若し真に生きていて、エルバ島から現れたナポレオンのごとく風を捲いて起つ日があるか、顔を焼いてどこかの巷に潜んでいるか。これは小説で、彼の死にまちがいはないであろう。<o:p></o:p>

 しかし、屍骸が見出さぬ以上、後年のデュマは必ずこれを利用するだろう。とんだヨーロッパの秀頼公だ。<o:p></o:p>

八月八日(水)晴<o:p></o:p>

 烈日。休みて午前中図書室目録を作る仕事を続ける。<o:p></o:p>

 広島空襲に関する大本営発表。<o:p></o:p>

 来襲せる敵は少数機とあり。百機五百機数千機来襲するも、その発表は各地方軍管区に任せて黙せし大本営が、今次少数機の攻撃を愕然として報ぜしは、敵が新型爆弾を使用せるによる。<o:p></o:p>

 「相当の損害あり」といい「威力侮るべからざるものあり」とも伝う。曾てなき表現なり。いかなるものなりや。<o:p></o:p>

八月九日(木)晴<o:p></o:p>

 松葉数日前より身体違和を訴え食欲頗る不振なり。清水教授に診断を仰ぎしところ、栄養不良による腸カタルなりと。<o:p></o:p>

 一日も早く帰郷せしめて一週なり十日なり栄養物をとらしむりにしかずと、午前飯田駅に彼の帰郷の切符買いにゆく。<o:p></o:p>

 <st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="20:長野県飯田市;" Address="飯田市">飯田市</st1:MSNCTYST>内にもついに建物疎開始まる。白日の町に埃まきあげ、各所に嵐のごとき家屋除却作業始まる。学生みな動員さる。<o:p></o:p>

 (まさに風雲急を告げる空気がひしと伝わってきます。)<o:p></o:p>

 今、夜十二時十分前だ。<o:p></o:p>

 昭和二十年八月九日、運命の日ついに日本に来る。夕のラジオは、ソビエトがついに日本に対し交戦状態に入ったことを通告し、その空軍陸軍が満州進入を開始したと伝えた。<o:p></o:p>

 ソ連についてはこんな噂が囁かれていた。ソ連はなお疲労している。まだ手は出さないだろう。第一日本とアメリカをヘトヘトになるまで戦わせるのが彼の目的であるから。いや、すでにソ連は日本に対し続々と石油を供給しつつある。B29がしきりに日本海に機雷を投下しているのはそれを妨害するためだ、とか、松岡洋右がソ連へいって、アメリカとの戦争の仲裁を頼んでいる、とか。…こんな噂に耳をすませていた輩は、この発表に愕然と蒼醒めたことであろう 


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む145

2010-06-28 04:36:02 | 日記

校長、講話を締めくくります<o:p></o:p>

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つい昂奮してしまって、みな固くして相すみません。しかし、老いた私は諸君学生が力なのだ。頼りとするのは諸君だけなのだ。諸君、どんなことが起ころうと日本を忘れるな。日本を挽回するのは誰がするのか。諸君の外に誰があろうか。だから諸君にお願いするのです。心からお願いするのです」<o:p></o:p>

これらの言々、校長の眼に涙あらずやと思わるるほど激情的に吐かる。みん感動して身動き一つせず、大広間に窓外の梧桐の青葉日にゆれて、薄き緑の反映動くのみ。<o:p></o:p>

これより、午後一時より三時半にわたって病理学総論講義。実にこの夏の午後、二時間半、みなを欠伸一つするどころか緊張せしめ、眼をかがやかせ、講義後疲労困憊を覚ゆるまでにひきずりこみたる緒方校長の講義、実に偉大なり。<o:p></o:p>

八月一日(水)晴<o:p></o:p>

 午後校長の病理学総論つづく。<o:p></o:p>

 白熱酷暑。<o:p></o:p>

八月二日(木)快晴<o:p></o:p>

 一昨夜も昨夜も、日暮るるや警報鳴り、昨夜のごときほとんど一晩中、サイレン半鐘の乱打つづく。<o:p></o:p>

 夜半町の物騒がしきに眼醒むれば、蒼穹に陰暗たる一条の黒雲棚引き、猫の眼のごときぶきみなる白き半月、蒼白く部屋にさしこめり。B29の爆音きこえ、「敵十九目標は富山西方を東進中」などのラジオの叫び聞ゆ。<o:p></o:p>

 ゴーゴリ「肖像画」を読む。かくのごとき妖気と飄逸、凄味と笑いをかねたる風の作家いまだ日本に見られず。酷暑つづく。<o:p></o:p>

八月五日(日)晴<o:p></o:p>

 午後緒方病理。今日にて校長の授業は一段落。<o:p></o:p>

 岸田国士氏がこの飯田郊外に疎開しているという。それが百姓たちの評判かんばしからずという。なぜかというと闇で米を買う体という。煙草をふかしてぶらぶら歩き回るからだという。<o:p></o:p>

 闇をしなくても生きてゆける百姓は幸いなり。おまけに散歩まで悪口の対象になっては、岸田先生立つ瀬がない。<o:p></o:p>

 (文士が散歩するのを咎められてはたまりませんね。)<o:p></o:p>

八月六日(月)晴<o:p></o:p>

 丸山国民学校の内部は一部工場化されつつある。機械すえつけ作業にモンペ姿の女学生たちが動員されて、やけつくような炎天の下を、営々として蟻のごとく石塊を運ばせられている。<o:p></o:p>

 ドイツ処分案過酷を極む。トルーマン、チャーチル、スターリンの三人は、人間の馬鹿の標本である。<o:p></o:p>

 そう思うと実に人間の滑稽を感じるが、しかし現実に第二のドイツと目されている日本を思うとき、決して笑いごとではない。滑稽なる喜劇であればこそ、敗北せる当事国はいっそう悲惨な、戦慄すべき状態となる。決して負けられない。況や降伏をや。降伏するより全部滅亡した方が、慷慨とか理念とかはさておいて、事実として幸福である。


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む144

2010-06-27 04:57:21 | 日記

緒方校長断腸の弁<o:p></o:p>

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七月三十一日(火)晴<o:p></o:p>

 昨日まで茅野にありて一年の面倒を見ておられた緒方校長、飯田に来られ、きょうより入学以来はじめての校長の病理学講義始まる。<o:p></o:p>

 気分悪いと寝ているもの、三年までも吾らにまじって上郷村の天理教会にゆく。<o:p></o:p>

 病理学講義に先立って次のごとき演説をせらる。<o:p></o:p>

 「諸君は茅野にいる一年生よりはるかに恵まれていることは事実である。第一に諸君はごらんの通り、たたみに座って勉強が出きる。茅野は実に一介の寒村で、寝るのも板敷き、教場もむろん板敷き、桑の倉庫なのだから、汚いこと言語に絶し、食物はいうまでもなくお話にならない。だから雨のふる日など、みな家が恋しくてたまらないらしい。それで私なども真っ先ににぎやかにやっているわけですが、私の信念としては、この苦痛を明るくするものは、ただ勉強、勉強より外にないと考えている。<o:p></o:p>

 危急存亡といおうか、この未曾有の国難に際し、諸君にはそれぞれ煩悶があろう。学問は国家あっての学問である。国家なくして何の学問ぞや。私も、この研究が果たして何になるのか、そう考えると、夜も眠られないことがある。諸君にとってはなおさらであろう。しかしながら、現在の吾々にとって、学問するにまさる愛国の道は絶対断じてない。戦争は軍人に委せようではないか。吾々は学問しよう。研究しよう。困苦欠乏にめげず、あくまで医学にかじりついてゆこう。飯田で焼かれたら、さらに山に入ろう。私はどこの果てまでも、諸君とともにゆく。あくまで諸君を、インチキ医者ではない立派な医者に、必ず育てる。<o:p></o:p>

 日本をこの惨苦に追い込んだものは何であるか? それは決して物量などではない。それは頭だ。それはこの頭なのだ!<o:p></o:p>

 日本医学がなんで世界の最高水準などに在るものか。下らないひとりよがりの自惚れはもうよそうではないか。日本医学は決して西欧医学の水準には達していない。医学ばかりではない。工学でも物理学でも化学でもそうである。その例はあのB29に見るがよい。日本中の都市という都市が全滅してゆくにもかかわらず、なおあの通りB29の跳梁に委せているのは、物が足りないのではない。あれが出来ないからだ。あれを打ち墜とす飛行機が日本にないからだ!<o:p></o:p>

 諸君、このくやしい思いを満喫しなければならないのは、吾々の頭が招いたことなのだ。はっきりいっておくが、毛唐は日本人を対等の人間とは認めていない。黄色い猿だと思っている。この軽蔑を粉砕してやるのは、吾々の頭だ。学問だ。研究だ。不撓不屈の勤勉の勤勉なのだ。<o:p></o:p>

 諸君にはもはや私達のような学問の生活を送ることはできないだろう。この戦いのあとは惨憺たるものであろう。医者の資格さえとればそれでよい。開業すれば何とかやって、金さえ儲ければよい、とまではゆかなくても、単なる安楽な、こぢんまりした平和な生活を望んで、ただそれだけで満足してもらいたくないのだ。これから頼りになるのは、本当に自分の実力だけである。金とか親の威光などというものは何にもなりませんよ。断言しておきますが、近い将来に日本には恐ろしい変化が起こります。明治維新以上の大転回が参ります。そのときに頼りになるのは自分自身だけですよ。


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む143

2010-06-26 04:48:46 | 日記

風太郎氏、徹底抗戦の激をとばす<o:p></o:p>

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またこの文章により、前大戦に於いても人々は、「ドイツが徹底的に敗北せる」ように感ぜしことを知り得、今次また然り。而して前大戦後二十年にしてナチスは大勢を挽回せり。今は徹底的に抑えられあれども「時」の恐るべき力は連合国側の手綱を緩ませずんば止まざるべし。ドイツ人の素質一変せざる以上は、ドイツふたたび勃興せんこと疑いあるべからず、と考えるは余が甘きか否か。<o:p></o:p>

 日本は、誓う、この戦いはまさしく最後の一兵まで戦うべし。この白村の評の絶対当らざることを余は祈る。<o:p></o:p>

 「日本人が宣伝運動に拙だったと評した人があるが、思想のない者が何を宣伝するのであろうか。宣伝しようにも宣伝する思想がないではないか」<o:p></o:p>

 然り、八紘一宇、何ぞ他民族に対して不可解の理想なるや。日本人たる余にもよく分からず。況んや他民族をして信ぜしむるをや。ただし理想の旗の文句はどぅでもよし。要は力なり、武力なり。これ本次大戦により吾らが得たる悲痛なる最大の真理なり。<o:p></o:p>

 「政府を官僚的だなどときいた風なことをいうが、日本は民族そのものがすでに官僚的なのではないか」<o:p></o:p>

 まさに然り。実に現在の日本をかかる暗澹たるものにせる最大の原因の一つなり。<o:p></o:p>

七月二十九日(日)晴<o:p></o:p>

 日曜なれど、国民学校を借りている関係上、授業あり。内科。<o:p></o:p>

 午後、<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="10:吾妻町;" Address="吾妻町">吾妻町</st1:MSNCTYST>一丁目の太陽製作を訪ぬ。風呂屋なり。浴場脱衣場を工場にするつもりと見え、ここにいまだ梱包せるままの荷雑然と積まれあれども、おやじの姿見えず。だれの姿も見えず。<o:p></o:p>

 夜、東南の山のあなたより遠く深照燈、夜空を這うが見ゆ。十九夜くらいの月美し。先日アルコールを飲みて窓より吐きし吐物、隣家の屋根にかかりて談判し来る。夜更けこれを掃除す。月光縹渺として吐物また乳のごとくうるわし。<o:p></o:p>

 チャーチル引退し、アトリー代わる。ここしばらくの世界史にチャーチルの名消ゆべし。いささか感無量。チャーチルは総明なりしか。彼には妙に一面鈍なる悟りの悪しきところなかりしか。古来の英雄ことごとくこの一面を具え、チャーチルたしかにこれを具う。<o:p></o:p>

 鏡花「女系図」を読む。これだけ愚なる内容をこれだけ引きずってゆく鏡花の手腕感服するに足れり。<o:p></o:p>

七月三十日(月)晴<o:p></o:p>

 午前、腫傷講義、午後病理。酷暑。<o:p></o:p>

 大和寮の食事。<o:p></o:p>

 朝は豆三勺米三勺の飯に、湯呑茶碗一杯程度の人参の味噌汁。<o:p></o:p>

 昼は飯は朝と同じく、菜は大豆を煮たるもの小皿一皿。<o:p></o:p>

 夜は朝昼の飯量の半ばをかゆにせるもの。これに卓の真中に小皿ありて、黒き唐辛子の葉を煮たるものを戴す。<o:p></o:p>

 三十人でかゆ啜りつつ餓鬼のごとく一口にこれを食うなり。考えてみれば、これで動き勉強しているのが不思議なり。<o:p></o:p>

 緒方知三郎校長、飯田に来らる。


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む142

2010-06-25 04:37:42 | 日記

この田舎町にも英霊の凱旋<o:p></o:p>

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七月二十七日(金)晴<o:p></o:p>

 雲あれど地明るく蒸し暑し。丸山国民学校にて、外科、産科、耳鼻科講義。<o:p></o:p>

 英霊凱旋にや、町の家々国旗を出し喪章を付す。知久町にて背後より「山田さん」と呼びかける者あり。ふりむくと沖電気時代の下請工場大洋製作のおやじなので驚く。五月二十四日に焼け出され、この飯田に来てこちらに工場を作りかかっている由。<o:p></o:p>

 夜、みなアルコールをのみ、大いに嘔吐す。<o:p></o:p>

七月二十八日(土)晴<o:p></o:p>

 昨夜の悪酔いたたりて、ちょうど午前休講なれば、部屋に寝そべりて、うつうつ陶然たり。ガンジーの無抵抗主義が好きになる。<o:p></o:p>

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厨川白村「象牙の塔を出て」を読む。実に癪に障る話なれども、白村の炯眼なるを容認せざるを得ざるふしもあり。<o:p></o:p>

「日本人を熱し易いが冷め易いなどという陳腐平凡の語を以ってきいた風の批評をするものがあるならば、それは全然誤っている。熱し易いというが、最近四、五十年来、戦争の場合を除いて、真の文化生活のため、一度だって日本人が本当に熱したことがあるだろうか」<o:p></o:p>

たしかに然り。全日本人が真に魂の底から感動して震えしは、この大東亜戦争に於いてすらも、最初の十日間或いは三日間にあらざりしか。<o:p></o:p>

「しかし茲に唯一私が知っている確かな事実がある。それは世界の強国と称して威張っている国々が、不思議にもロシア人の思想と活動とをひどく恐れているという事実である。金もなければ武力もなくなったロシア人を恐れているという不可解不可思議の事実である。なかには自分の国は世界一だとばかりの大言壮語を吐く或る国のごときは、ロシアと聞いただけでもぶるぶると震え上がって蒼くなっているではないか。ただロシアの前世紀の思想や芸術から推測して見て、何でもこれはまた田舎者がその特有の野性を発揮し、馬鹿者の馬鹿々々しさと馬鹿力をいかんなく発揮しているのではなかろうかと思う」<o:p></o:p>

「欧州戦争はあの通りの人命と財貨を費やして、一方が片方を打ちのめし、叩き伏せ、ノックアウトという所まで戦った。いかにも毒々しい徹底性がある。特に戦後フランスのドイツに対する態度なぞを見ると特にこの感が著しい。然るに日露戦争に於ける日本は素早く火蓋を切って敏捷にぱちぱちとやりはしても、あとは一、二年で済ます。戦争は中途半端だ。懸軍長躯、敵の牙城を突くどころか、敵の玄関にすらもいかない、奉天あたりで切り上げている。単に国力が続かないのみではなく、小悧巧なだけに目先がきいて大抵の所で見切りをつけて引き上げる。世界戦争のような馬鹿げた真似は何としても出来ないところが日本人である」<o:p></o:p>

あたかも現時の戦争、世界大戦を言えるごとし。ソビエトは実に馬鹿力を以って勝ちしなり。


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む141

2010-06-24 05:35:28 | 日記

天竜峡に遊ぶ<o:p></o:p>

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四人が一人ずつ、二十分余り交互に行列して、あとはベンチに座って待つことにする。僕達は遠くから、切符切の少女駅員を観賞する。飯田駅随一の美少女だそうで、眼は非常に大きい。肌は蒼味がかって見えるほど白い。笑うとひどくエキゾチックな顔になる。……。<o:p></o:p>

天竜峡駅で下りて、六時前、天竜峡ホテルにつく。階下の十二畳。十畳つづきの部屋に通される。床の間の鰐みたいな変な木には埃がいっぱいたまっている。きいてみると女中はたった四人、しかもその二人はずいぶん前から休んでいるという。<o:p></o:p>

縁と塀の間の小庭には、桜、梅、松の青葉がそよぎ、紅百合が可憐に咲いている。蝉とひぐらしが鳴きしきり、すぐ下に淙々と天竜川の渓音が聞える。<o:p></o:p>

入浴、夕食、お菜には肉、魚一切なし。茄子や胡瓜のみ。しかも調味料不足でうまくも何ともなし。飯は一人七勺ずつ。…。<o:p></o:p>

就寝前入浴、手拭の代わりにまちがえて帯を持って湯に入り大笑い。月明蒼し。敵機しきりに跳梁すると見え、ラジオのブザー鳴りつづけである。爆弾の音を遠くできくような地響きも家を震わす。一、二度B29の爆音も空に聞く。<o:p></o:p>

厠に入る時窓から見ると、ちょうど裏にあたる天竜峡駅の構内に発着する電車が、無灯火のためか、荒々しい癇高い合図の叫びの中に唸っていた。……。<o:p></o:p>

七月二十六日(木)晴<o:p></o:p>

 朝六時、駅にゆく。いまのうちに切符を買っておかないと、きょう中に飯田に帰れないおそれがある。七時ごろ買う。五十銭。<o:p></o:p>

 八時彩雲閣に帰り、哀れな朝飯を食う。勘定をする。一人約三十円。<o:p></o:p>

 宿を出て、あたりを歩き回る。ほかにも旅館幾つかあり。いずれも「陸軍航空本部」とか「航空総軍」指定旅館などの看板をかかげている。こういう「趣味」はいよいよ好まない。<o:p></o:p>

 仙峡閣というホテル前の小橋から山路に入ってゆくと、赤松の林の中に忽然と大きな工場が出現したので驚いた。バラック建てだが、中では旋盤か何か轟々と唸って、青い菜っ葉服がちらちらと働いている。ここならB29も気がつくまい。傍の小山に上がって下る途中、重そうに鉄材をモッコにぶら下げた四、五人の少年に逢う。戦闘帽に金の糸で錨のマークが縫いつけてあるところを見ると、今の工場は海軍関係のものなのであろうか。<o:p></o:p>

 もとの橋にもどり、姑射(はこや)橋を渡り、竜峡園にいって昼飯を食う。玉葱を卵で煮たもの、胡瓜、椎茸、つけもので意外な御馳走であった。錨のマークのついた戦闘帽をかぶった少年や少女工員が十人余り来て味噌汁だけのんでいる。昼食代一人分二円五十銭。<o:p></o:p>

 (少年少女というが幾つぐらいの子達なのであろうか、親元から動員されてきているのでしょうか。しきりと憐れさが募ってまいります。)<o:p></o:p>

 天竜峡駅前の写真館に入り、記念写真をとる。物はみな疎開させたそうで、撮影室には家具もなく、背景の幕さえない。しかしこんなところから、さらにどこへ疎開させたのであろう。一人のが十五円、四人一緒のは三十五円だという。<o:p></o:p>

 十二時二分発。四十分飯田着。<o:p></o:p>

 夜ゴーゴリ「外套」を読む。


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む140

2010-06-23 04:51:34 | 日記

疎開地も刻々戦時体制<o:p></o:p>

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七月二十三日(月)快晴時々雨夜雨<o:p></o:p>

 午後、松葉、高柳と農業倉庫にゆき、リヤカーにて疎開書籍を上郷村天理教会へ運搬する。雲ゆらいで驟雨しきり。……、遠き赤石連峰に薄日美し。<o:p></o:p>

 このところ連日連夜、B29を始めとして小型機艦載機等、数千機を以って日本各地の中小都市、交通機関を攻撃しつつありし米軍、この二日ほど不気味に沈黙す。彼何を企むや。<o:p></o:p>

 バルザック「知られざる傑作」を読む。<o:p></o:p>

七月二十四日(火)晴午後雲出ず<o:p></o:p>

 午前九時半より天理教会に於いて、清水教授内科開講。<o:p></o:p>

 授業を受くる実に二ヶ月目なり。急性伝染病総論。六十畳の二階、みな胡坐して聴く。外に鶏犬の声、小鳥の声、また蝉の声。<o:p></o:p>

 本日終日、ラジオ、敵機の各地空襲を報じている。こちらも再開。夜月明美し。<o:p></o:p>

七月二十五日(水)晴<o:p></o:p>

 午前七時半より丸山国民学校裁縫室にて、飯田病院長原教授の内科(呼吸器)講義。大いにドイツ語を使う。飯田訛りのドイツ語なり。<o:p></o:p>

 裁縫室は四十畳余りか。左は桜、梅などの青葉ゆれて、ガラス越しの光あたかも青きカーテンを透かせるごとし。右は、畑なり。葱、ゴボウ、人参、薩摩芋など見ゆ。風越山、虚空蔵山に霧のごとき雲かかれど、光は地に満てり。<o:p></o:p>

(授業再開、空襲下の授業ながら美しい環境で、一瞬ながら平和がひしと感じられて、大いなる幸福感が滲んでまいります。)<o:p></o:p>

白き校庭には裸の児童、代用教員らしき少年の笛のもとに棒倒しなどす。光澄めども涼しくして初夏のごとし。風に桜、銀杏などの青葉ゆらぐ。しずかにして何のへんてつもなき小学校の風景なれど、幼き日の思い出胸に沁むがごとき感あり。<o:p></o:p>

飯田に天然痘発生せる由にて、種痘の児童ら渡り廊下に並ぶが見ゆ。いかなる庭、中庭にも甘藷を植えたり。裏には豚羊など飼える小屋あり。<o:p></o:p>

軍隊も入りある模様にて、或る建物には「越三一〇二一部隊」の看板かかる。また他の建物には兵隊の炊事所ありと見え、大釜にシャベル振るう男を誰かと見れば、われらもゆく町の食堂大安の主人なりき。二十日ほど前防衛召集受けしこの人、ここにあるとは意外なりき。工場もまた入りあると見え、或る中庭には機械並ぶ。戦災受けしものを運び来りしにや、赤く焼きただれしものもあり。<o:p></o:p>

午後、松葉、見塩、高柳と天竜峡に出かける。明木曜が休日となっているからである。<o:p></o:p>

午後二時、飯田駅にゆく。<o:p></o:p>

上りは駅内に、下りは駅外に、それぞれ四、五十人ずつ並んでいる。一電車毎に二十人分余り切符を売って、すぐに窓口を下ろす。<o:p></o:p>

二十人目の人と二十一人目の人とは、並んだときは一分の差でも、電車は二時間、三時間の差となって現れる。人間世界にはほかにもこんなことがありそうだ。


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む139

2010-06-22 05:08:54 | 日記

田舎町の出征風景<o:p></o:p>

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七月二十日(金)晴夕曇また雨<o:p></o:p>

 今日も真昼の町を出征の兵士がゆく。児童の行列がそれにつづく。以前の手に手に持った旗はないが、笛や太鼓を鳴らし、可憐なのどをあげて唄いながら歩いてゆく。<o:p></o:p>

 「天皇陛下のおんために<o:p></o:p>

  死ねと教えたちちははの<o:p></o:p>

  赤い血潮を受けついで<o:p></o:p>

  心に決死の赤襷……」<o:p></o:p>

 これをじっときいているうちに、次第に疼いてくる胸、浮かんでくる涙は何だろう? センチメンタルであろうか、教育の習慣であろうか。否、否、それでは世に美しいものは一つもない。<o:p></o:p>

 自分は日本を愛する。<o:p></o:p>

 しかし、迷信は絶対に信じない。<o:p></o:p>

 戦争が二、三年であったら、こういう疑いは心に起こらなかったであろう。暴風のような熱狂の中に終ったであろう。戦争も九年目くらいになると、いかなる人間も心胸一編の戦争哲学が心に編まれざるを得ない。<o:p></o:p>

七月二十二日(日)快晴<o:p></o:p>

 朝よりみなと上郷村の天理教会にゆく。教場となる別館二階六十畳に、教卓を運び上げ、黒板を設ける作業のためなり。<o:p></o:p>

 碧天、碧天。虚空蔵山の方にきららのごとき横雲あれど、白日路に燃ゆ。小伝馬橋に立てば野底川に濁流いまだ滔々。<o:p></o:p>

 教会の庭、先日まで麦、黄に光りしところ、すでにさつま芋を植ゆ。柿青空に黒し、実はいまだ葡萄大。ヒマ、玉葱に混じりて小さな花咲けり。……<o:p></o:p>

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 「恥辱ならざる餓死あり」<o:p></o:p>

 「戦争の前は憤怒なり。戦争の中は悲惨なり。戦争の後は滑稽なり」<o:p></o:p>

 「獣類社会の道徳には腕力を要す」<o:p></o:p>

 「右の頬を打たれてさらに左の頬を向けしは基督なり。右の頬を打ちてさらに左の頬を要求するは基督教国なり」<o:p></o:p>

 また、<o:p></o:p>

 「男子は結婚によりて女子の賢なるを知り、女子は結婚によりて男子の愚なるを知る」<o:p></o:p>

 「男子の貞操は連隊旗のごとく、女子の貞操は糠袋のごとし。前者の全きは侮られ、後者の破れたるは棄てらる」<o:p></o:p>

 「男子は羽織より売り始めふんどしに至り極まり、女子は肉より売り始め羽織に至りて極まる」<o:p></o:p>

 「女子は売品なり。男子は非売品なり。前者の売れざると、後者の買われたるは嘆きなり」<o:p></o:p>

 「臭覚なき者にとりては、屁は快活なる音なり」(「如是閑語」より)<o:p></o:p>

 (この項、正直よく理解できません)


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む138

2010-06-21 05:22:05 | 日記

疎開生活もやや軌道に<o:p></o:p>

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七月十五日(日)雨<o:p></o:p>

 七夕ではない。祇園祭なのだそうである。尤も祇園祭の祭神も知らない。雪祠も置かれている。門の大提灯には「家内安全町内繁昌、知久町」などと書かれてある。<o:p></o:p>

 午前、雨の<st1:MSNCTYST w:st="on" Address="白山町" AddressList="24:白山町;">白山町</st1:MSNCTYST>を通りてみなと農業倉庫の荷物を整理にゆく。女たちが撰台で真っ白な繭の山をかきわけて、病んだものや畸型のものをとりのける作業をしている。<o:p></o:p>

 午後、今度より寮となりし大和寮(元旅館)の部屋を抽選で選ぶ。余、松葉、松柳、安西の四人組となり、二階八畳の最もよき部屋に当る。<o:p></o:p>

 夜、隣室三畳の徳田さん酒を持ち来り飲む。闇夜豪雨にして青白き稲妻凄し。余と徳田さんを除きみな酔いて吐く。<o:p></o:p>

七月十六日(月)曇<o:p></o:p>

 大和寮にて終日暮らす。早坂一郎「随筆地質学」を読む。<o:p></o:p>

 町の大松座に前進座来り。夜、松葉と見にゆく。九円九十銭なり。<o:p></o:p>

 一、「元禄忠臣蔵・第二の使者」内蔵助は長十郎、十内は翫右衛門。二、「權三と助十」權三は翫、家主は長なり。<o:p></o:p>

 舞台貧しきためか忠臣蔵も以前東京で見たときより迫力なきように感ぜらる。第二の大岡政談に至っては、喜劇なれど可笑しからず、風刺もあるようなれどピンと来ず、綺堂が何のためにかかるものを作りしかその心理を疑う。(役者は所詮役者、B29を避けて地方公演、その根性には頭が下がります。)<o:p></o:p>

 その上、大松座の外より犬の声、車の音、さらにここに限らざれども、赤ん坊を抱いて芝居見にくるという馬鹿な母親数人ありて、落ち着いて観劇する能わず。<o:p></o:p>

七月十七日(火)雨<o:p></o:p>

 午前みなと農耕にゆく。雨ふり、全身濡る。後続の者来らず、空しく帰る。大豆隠元の葉青く、南瓜の花黄色く咲けり。<o:p></o:p>

 夜、大和寮、消灯の闇中にて松葉と人生問答。松葉はおのれを幸福にし、日本を幸福にし、世界を幸福にするはただ日本精神なりと確信するという。これを信念として行動するという。余これにさからう。余は例の意見なり。<o:p></o:p>

 すなわち人間は、いかに文明が進歩しても相対的には幸福量を増さない。従って何をしても無駄である。そもそも人間は目的あって生まれたものではない。大きな眼で見て、犬猫虫けらの生となんの変るところもない云々。<o:p></o:p>

 松葉、余を殺したくなったといい、また笑い出す。そして自分の精神理想に共鳴してくれとはいわないが、せめてその精神理想を知ってくれという。<o:p></o:p>

 夜半零時、豪雨の中に警報。敵機相当本土を北上中なりとラジオ聞こゆ。江知家に中風の老人あり。一旦緩急のときはこれを背負いて逃げてくれと、江知家の婆さんに依頼されあれば、雨の闇夜を江知家に駆けつける。ニヒリストも婆さんにはとうてい腕立てが出来ない。<o:p></o:p>

 北陸を襲いたるB29、南方脱去の際、しばし飯田上空を通過す。爆音凄し、雨声また凄し。