鬼床の話、絶え間なく<o:p></o:p>
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男はまたペコリとして外へ出でたり。(客が店側に世辞を使ったり、機嫌をとったりと、腹立たしい戦時下の一コマでしょうか。やりきれませんね。)<o:p></o:p>
正面の壁に丸刈り六十銭として、東京理髪組合、警視庁の赤き印いたずらに埃に薄し、一円ぽんと箱に投げ入れつつ、つり銭さぐりもせず機械的に「お釣りは」と問いかくるおかみ、見ぬふりして「いいんです」といいて去る客、みな「国民公定価格」なる芝居の俳優なり。<o:p></o:p>
「しかし床屋なんざ、やっぱりこの通り要るんだから、徴用などかけなきゃいいにな。若い者みんなひっぱってゆきやがる。床屋の若え者なんてひっぱったっておよそ役になど立ちゃしめえ、ろくなやつあいねえもの」<o:p></o:p>
と、鬼床は新しく代れる油だらけの工員に話しかけたり。工員はいまポケットより出したる煙草三個を台の上にのせ、<o:p></o:p>
「とっつあん、吸いなよ」<o:p></o:p>
「ありがとう。何だ、いま煙草一箱十円するっていうじゃねえか。すまねえな」<o:p></o:p>
「なに、いいんだよ。うん、とっつあんとこの庄さんも召集になったそうだなあ」と話をひきとりぬ。一箱十円の煙草ならばこれで三十円になるべし。八人椅子の悲運をまぬがれんとするにはそれ相応の犠牲を要するもののごとし。<o:p></o:p>
「あんなの召集くらった方がいいんだよ。徴用なんぞ、とても手に負えるもんじゃあねえ。いって三日もたつと工場逃げ出すんだからな」<o:p></o:p>
「あの時やおどろいたねえ。お父さん留守だしさ、あたしゃあんなにおどろいたことは初めてだ」と、おかみは口さしはさんで溜息をつきぬ。<o:p></o:p>
「どうしたんだい」 (あたしの父も、食堂という商売をしていながら、短期間でしたが軍需工場に徴用されました。きゃしゃな父でしたので、母がずいぶん心配していたのを憶えています。)