その三 猛火に追われる<o:p></o:p>
まだ家にいられたかも知れない。しかし周囲はすでに火の海と化していた。とても防ぎ切れるものではない。それに恐ろしいのは煙だ。眼を開けていられない。逃げられなくなってから逃げてももう遅いのだ。<o:p></o:p>
「逃げよう、もういい、もういい、山田君」<o:p></o:p>
と高須さんが叫んだ。二人は門のところまで逃げて来た。大通りに出る路地はもう火につつまれていた。<o:p></o:p>
自分は反対の遠藤さんの方向へ路地を走った。遠藤さんの家の前では、家財を背負った一家の人々が、<o:p></o:p>
「節ちゃんっ、節ちゃんっ、何してるの、早く来ないかっ、節ちゃんっ」<o:p></o:p>
と血声をあげていた。<o:p></o:p>
ふと傍を見ると、一緒にいると思っていた高須さんがいない。自分はふりむいて、<o:p></o:p>
「高須さん、勇太郎さあん」<o:p></o:p>
と、必死に叫んだ。眼とのどが痛く、濡れ手拭で顔を覆って自分は連呼しつづけた。しかし二人とも来なかった。勿論むざと焼け死ぬ二人ではないので、さては小口家の方角へ逃げたかなと思って、自分はそのままどんどん走って、欅の大木のある細い十字路に出た。<o:p></o:p>
真っ直ぐの方向はいちばん最初から燃えていたところで、まったく火の海だった。町会へ出る路は、すでに両側の家が燃えていた。その方角から数団の人々が駆けて来て、<o:p></o:p>
「駄目です、こちらは逃げられません」<o:p></o:p>
と叫んだ。<o:p></o:p>
自分の逃げて来た路も、もう駄目である。みな右の女学校へゆく細い道を走った。<o:p></o:p>
「逃げられますか」<o:p></o:p>
「分からないが、とにかくゆきましょう!」<o:p></o:p>
とだれかが叫んでいる。<o:p></o:p>
「うろうろしてると焼け死んでしまう。とにかく何処かへでなければ」<o:p></o:p>
遠いところで、ぐわう、と火がうなっている。あたりは夜霧のように煙がたちこめて、一尺先の人影も分からない。<o:p></o:p>
息が切れて自分は歩いた。歩いたりなどしてはいけない! と思ったが、苦しくてとても走れなかった。ふと、「死」が頭を掠めた。いま考えるとばかばかしいが、そのときは勿論物凄く緊張した顔をしていたであろう、煙が苦しくて、早く澄んだ空気を吸いたかった。自分は「死」を考えつつ、一人で夜霧のような煙の中を歩いた。<o:p></o:p>
「駄目です、こっちも火の海です」<o:p></o:p>
と、前方から二、三人駆けて来た。<o:p></o:p>
「そちらに道はありませんか?」<o:p></o:p>
自分たちは引き返した。またもとの十字路へ出た。<o:p></o:p>
「町会の方へ出ましょう」<o:p></o:p>
と自分は叫んで、傍の用水槽にざぶっと飛び込み、全身を浸すと水煙あげて飛び出し、両側の燃えている路地の中を、顔を伏せて走り抜けていった。<o:p></o:p>
大通りへ出たところで、高須さんと勇太郎さんに逢った。
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