うたのすけの日常

日々の単なる日記等

うたのすけの日常 後期高齢者の日めくり その八十七

2010-01-31 06:52:08 | 日記

義妹の亭主の二十三回忌<o:p></o:p>

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 義妹は若くして夫に死なれ、女手一つで男の子二人を育てあげ現在に至っています。<o:p></o:p>

 義妹は小生の家業である食堂を一時手伝っていたことがあるのですがそんな時、店に出入りする家電店の青年に猛アタックを受け、家電店の主人の仲人で結婚しました。なかなかの好青年でしたが、義妹は不幸にも小学生の子供二人を抱えたまま、夫に癌で死なれてしまったのです。<o:p></o:p>

 爾来23年経過し、これが最後の年忌として塔婆をあげる段取りとなりました。お寺は取手にあり、我が家から常磐線一本で行かれます。もちろん駅からはバスを乗り継がねばなりませんが20分ぐらいで着きます。<o:p></o:p>

 29日天気予報は見事に外れ、朝から雨模様で寒い一日となってしまいました。義妹の息子たちに会うのも何年振りといったところで、二人ともこの不景気にも、職に恵まれているようでなかなかの物腰でして安心させられます。一行は普段まめに連絡しあっている義妹の直ぐ上の姉と、あたし共夫婦と子供達の6人の、極々身内一行といったところですが、これであたしは良しとしました。なにも大仰に構えることはありません。<o:p></o:p>

 お寺の接待所で一休みしてから、塔婆と花線香と取り揃え、墓所に向かい、質素ながら温もり一杯の墓参りを済ませました。<o:p></o:p>

 帰りのバス停は吹きっ晒しの中、幸い時間通りでバスが来て一路帰りの車中の人となりました。駅ビルの中の飲食街でお店の品定め、女性群なかなか決めかね甥っ子と笑います。<o:p></o:p>

 丁度食事時間にぶつかったためしばらく待たされましたが、久方振りの姉妹中心に食事会といったところです。あたしは甥っ子と冷酒の昼酒と相成りました。銀座の有名店の出店とかで、料理は味良し酒また良しで結構な時間をすごしました。<o:p></o:p>

 帰路はみな常磐線で、皆は上り、あたし共は下り。改札を入って手を振り合ってお別れであります。<o:p></o:p>


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む19

2010-01-30 06:04:53 | 日記

鈴木文四郎氏結局は<o:p></o:p>

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この恐るべき敵を相手として、吾人何すれど今までごとき苦労にて大東亜帝国の建設成るべきや。蘭印ビルマ、支那、フィリッピン、かくのごとき無限の宝庫、これを手に得ればまさに有史以来未曾有の強大帝国現前するや必せり。而してかくのごとき広大富裕の地を、僅々四年未満の歳月を以って手中にせんとはあまりに虫よき話なり。吾人はさらに血と涙と汗を流さざるべからず。<o:p></o:p>

(参りました。論点凄まじいものがあります。まだまだ国民に犠牲を強いるのですか!)<o:p></o:p>

ドイツや危機に瀕し、ベルリンの命運あと数週も如何と思わる。ソビエトとの中立条約期限満期迫り、日本は侵略国なりと不気味なる言をスターリンの演説にきく。<o:p></o:p>

ルソンの戦局暗澹として、B29連日連夜本土を襲う。実に恐るべく肌に粟を生ずる未曾有の国難眼前にあり、日本の運命決すもこの二、三ヶ月かとすら思わる。諸君奮起せよ、祖国千年の計、否、永遠に決するの時は今にあり。東京灰燼に帰するはもとより覚悟の前なり。米は日本を日清役以前のものに追い落とすと呼号しているにあらずや。<o:p></o:p>

皇軍を解除され、工業力を奪われ、ひたすら蚕のみ飼いてヤンきーの女の靴下製造国に甘んじ得べきや諸君と。<o:p></o:p>

鈴木氏の講演終わり、新宿に急ぐ。雲冷たく夕空を覆いて風寒なり。<o:p></o:p>

 二月二日() 雪、曇、夕晴<o:p></o:p>

 昨夜十二時寝につく。いまだ眠りに入らざるに警戒警報発令。敵一機関東東西部に入る。帝都に入ることなく相模湾より南方海上に退去せり。<o:p></o:p>

 明くれば雪なり。大いなる牡丹雪、霏霏としてふり、また霏霏としてふる。またたく間に一寸ちかく積もる。街上雪水に濡れ果てて、靴底の隙より入れる冷水、靴下を浸して足指凍らんとす。夕、銭湯にゆく。空碧く晴れ、夕照赤く樹々にかがやく。……。


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む18

2010-01-29 05:52:19 | 日記

鈴木文四郎氏の講演はまだまだ続きます<o:p></o:p>

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鈴木文四郎 ジャーナリスト 筆名文史朗(18901951)19506月参議院議員に当選。名文家として世に知られました。<o:p></o:p>

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本土来襲のB29の内部を点検してまず気のつくことは、あの巨体の操縦法、約していわば、まず全然飛行機に未経験の者もただちにこれを搭乗操縦し得るにあらずやと思わるるまでに、簡明にして平易なることなり。(何となく、そうであろうと納得させられます。)<o:p></o:p>

三、清潔なることなり。フォード会社のごとき八人に一人の割りにて掃除人つくという。…。日本はなるほど自らの家庭は茶室的にこまめに磨き清む。しかしひとたび社会に出ずれば実に痛嘆の極みなり。街頭に痰を吐く、鼻紙を捨つ、甚だしきは、先日東京駅地下道にて見たることなるが、大の紳士の堂々と立小便しているにはかつ呆れかつ憤激にたえざりき。公園、病院等最も美しく清潔なるべきものが最も不潔なり。……。<o:p></o:p>

四、平等主義にして、身分高き人も低き人も、いたづらにいばることなく、いたづらに卑下することなく、人のいうことはまず信ず。人を見たら泥棒と思えという日本とは反対なり。大阪商人にはユダヤ人もはだしで逃げるという。……。 <o:p></o:p>

五、勇気あることなり。このあたりより、米国人の厭うべき点をあぐ。勇の道誤りて凶暴残忍の気味あること、女性崇拝の観念ゆきすぎて女性傲慢にしてまた男女の道乱れたること、賭博を熱愛すること等。(なるほどと納得です。やはり帳尻を合わさなくては弾圧は避けられないということらしいです。)<o:p></o:p>

海賊に発せるアングロサクソンの中、さらに勇敢無比の青年海を渡りて建国せるよりいまだ二百年、ロッキーを越えて西の方太平洋に至り、ハワイを奪い、フィリッピンを取りてさらに西へ、アジアへ手をのばさんとしてここにわが日本帝国に阻まる。


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む17

2010-01-28 05:48:34 | 日記

敵の国民性について<o:p></o:p>

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 二月一日() 曇寒<o:p></o:p>

午後三時より鈴木文四郎氏の「敵の国民性」なる講演あり。鈴木氏小柄にして痩せたりといえども、顔色褐色に焼けて光頭げに赫然たり。精気全身より発し、しかも温厚の気を失わず。主としてアメリカ人の国民性に就いていう。まず美点をあげんに曰く。(なかなか興味ある話ですが、長尺でもあり、多少省略して載せてみます。)<o:p></o:p>

一、       米人は恐るべく勤勉なり、今の日本で最も働き最も能率をあげい<o:p></o:p>

る者は誰ぞや、そは囚人と米軍の捕虜なり。囚人は知らず、米捕虜の働くは必ずしも背後に銃剣あるに依らず。彼らは実に働くをたのしみとなす国民なり。余、今次大戦始まる前、米に渡り而して欧州にゆき、ふたたび米に帰れるに、その印象、欧は午後三時の国にして米は実に午前十時の国なりということなりき。<o:p></o:p>

ヨーロッパ、その文化絢爛たるものありといえども何となく黄昏ちかき気あり、然るに米国、白日かがやきて新風赫灼、道ゆく人々の顔、あがる物の響き、生気充ち満ちてまひる近き朝の国なるを感ず。(戦時言論統制も厳しいはずなのに、かくまでアメリカを賞賛する講演に驚きを感じます。賞賛はまだ続くのです。)<o:p></o:p>

二、       彼らの組織力に富むことなり。而して何事も極度に分化し、平易<o:p></o:p>

化せしめ、以って驚嘆すべき能率をあげることなり。フォード会社にては、自動車一台作るに費やすは四十五分のみ。四十五分後にはすでにガソリンを注がれて出口より疾走して去る。案内の人曰く、お気に召さばこの車記念に買い上げ給え、値三百ドル、ただちにさしあげんと。<o:p></o:p>

日本ならばこちらが注文するも、いやこれは駄目なり、御所望ならば営業部販売係へなどいいて小半日もかかるべし。(終戦の年、二十年にアメリカの生産力について、かくまで爽やかにつまびらやかに喝破する論客がいたということは、ますます驚かざるを得ません)


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む16

2010-01-27 05:29:18 | 日記

母校に微笑ましき想いあり<o:p></o:p>

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 一月三十日() 晴<o:p></o:p>

 午前は医者にゆく。サンプラを嵌む。二十五円也。金足らず走り帰りて奥さんに借る。払い終りて五反田を回り新宿へ、淀橋病院へゆく。(丁度三年生の試験で、森戸教授の立会いで先輩戦々恐々の診察です。)<o:p></o:p>

 下級生の余に対しても、「おのどを」「お舌を」などと真剣なり。痛快の至りなり。(戦時下の一服の清涼感が漂います。)検温三十六度八分、血沈のブレートを採る。やはり風邪のごとし。費二円五十銭、中一円は瓶代、つまり診察代と薬代は一円五十銭にして、余のごとく全然医者の勉強せぬ者に対してすらひとしくこの恩恵を垂れたまう母校、げに感激の至りなり。<o:p></o:p>

 一月三十一日() 晴午後曇<o:p></o:p>

 下校時、新宿駅前の露天にて七味唐辛子を買う。四十人余りも延々たる行列、並んで十分ほどたちて失敗ったと思えど、あとは助平根性出してついに買う。一握一円余り。これを十円分も買いてゆきたる人あり、何にするつもりなりや。<o:p></o:p>

 最近極めて突忽として厭戦気分一帯に瀰漫せるように感ず。あたかも火の柱たりし樹木のぽっくり焼け落ちたるごとし。<o:p></o:p>

 これ余が病みて気力衰えたるためもあらん、先日の大空襲のためもあるべし。されどまた、いったい日本は勝てるやという一事に、日本人が根底より自信を失いつつあることは事実なり。<o:p></o:p>

 ドイツ今や決河のごとき赤軍の前に崩れんとす。ルソンの米軍次第にマニラに近接、山下いずこにありやとみな疑う。アジア全土米機の跳梁せざるなし。曾てその夢見たり、まさしく正夢なりしなり。<o:p></o:p>

 日本は勝つ、かくして勝つという明確なる指導理念、炬火のごとき鉄血の意志を台閣示さざれば、日本潰ゆるの虞れなしとせず。日本に穏やかなる政治家は要らず。欲するはむしろロベスピエール、ダントン、マラー或はクロンウェルの徒。 


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む15

2010-01-26 05:40:23 | 日記

空襲の惨禍痛まし<o:p></o:p>

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 深夜十二時、敵一機襲来、焼夷弾投下して去る。<o:p></o:p>

 一月二十八日 () 晴<o:p></o:p>

 午前十時、(警報も鳴らさずに突如高射砲を打ち出し、即ち敵一機来襲で、昨日の戦果を偵察に来たといいます。緻密に計算尽くされたアメリカの日本本土に対する無差別焦土作戦が、本格化してきたといえそうです。)<o:p></o:p>

 つづいて午前十一時また一機来りただちに去る。午前十一時検温三十七・五度。咳嗽やまず、これが最もイヤなり。午後四時三十八・二度。(熱と爆音に苛まれ悲惨な状況、憐れであります。)午後十一時敵一機来。<o:p></o:p>

 今日上野へ行って来た奥さん、浜松町より上野まで沿線惨憺たりと話す。日劇、有楽座、朝日新聞社等満足なる窓ガラスなし。倒壊家屋おびただしと。昨日切符買行列の人々ことごとく死せるため、きょうは有楽町駅に電車停まらざりと。(何気なく語る事実にぞっとさせられます。)上野界隈も兵士学生の出動に満ち、嗚咽しつつ往還の人に訴うる老婆あり。埋没中の家族を必死に発掘中の人々あり。思い出しても肌に粟を生ずと。<o:p></o:p>

 一月二十九日 () 晴<o:p></o:p>

 午前一時敵一機来。午前四時また警報。これは伊豆諸島のみ爆撃して去る。外に寒風の声凄く、防護団の人なるか、この隣組に見張り一人も出ておらずとどなるが聞ゆ。高須さん出でゆきて大いに叱らる。<o:p></o:p>

 午後五時三十七度二分。全身爽快、元気回復するをおぼゆ。いまだ軽き咳やまず。(先ずは快気祝いを申さねばなりません。元気が出てきたところで、世相、人心に対して辛辣な苦言を述べております。)<o:p></o:p>

 戦争は人間を正直にすという。戦場にある者或はしからん。しかれども国民の大部分を不正直にすることはたしかなり。少なくとも日本の作家にして、戦争以来正直なる者未だ見ず。戦争以前も不正直なりき。而も彼らはそれを人に隠さざりき。……。(作者は正直をどのような意味で言っているのか?) 


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む14

2010-01-25 04:58:22 | 日記

空襲の恐ろしさ<o:p></o:p>

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一月二十六日 () 晴<o:p></o:p>

午後友人らと、学校屋上にて日向ぼっこす。(忙中閑ありですか、戦時下の学生達の身の上が、何となく憐れに思えてまいります。)空気澄みて日がかがやく。風冷やかなれど教室よりマシなり。身体暖かきがごとく寒きがごとく、陶然たるがごとく不快なるがごとく、終始黙す。みな、恐ろしくシュルンペン(憔悴)しておるなと笑う。帰宅後眠る。全身の関節なかんずく肩腰痛く、咳烈し。<o:p></o:p>

夜十時B29一機来。<o:p></o:p>

一月二十七日 () 晴午後曇<o:p></o:p>

昨夜にひきつづき、一時また一機、さらに三時ごろまた一機、暫時してまた一機来る。高射砲の音凄じ。(念入りな偵察でしょうか、はたまた神経戦でしょうか。)<o:p></o:p>

余起きず。高須さん必ず起きて身支度して待つ。半ば精勤、半ば臆病、頗る滑稽なり。「おまえみたいに図々しいヤツはねえ。あんな音でよく寝ておられるもんだ」という。(小生、高射砲の発射音がそんなにも大きいとは初めて知りました。)<o:p></o:p>

午前中、近傍の谷山なる医者にゆく。診察、注射、散薬二日分、診断書にて九円。流感なりという。ついでに歯医者にゆけども留守なり。<o:p></o:p>

午後一時半ごろ、敵二機先ばらいとして来る。これに続きて約七十機のB29五梯団に分かれて怒涛のごとく襲来。雲低くして雲上の彼方より轟き来り。ヘリオスのごとく頭上を翔けり去る音不気味なり。一編隊東南洋上に去らんとして次なる編隊西より進入、これいまだ帝都を去らざるに第三編隊静岡に侵入、東方に進み来るといったありさまなり。

二階に上がりて東方を望めば、京橋、日本橋より上野にもかかるべきか、ともかくも日翳りて蒼暗き家並の地平線、黒煙漠々と天を覆い、その上空の横雲、日中なるにあかねさしたる如く赤らむ…夜に入るも空なお赤し。<o:p></o:p>


うたのすけの日常 小沢さんの事情聴取

2010-01-24 07:11:41 | 川柳

何となくしっくりせず<o:p></o:p>

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獣でも 親は子供を 庇うもの<o:p></o:p>

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寒空に 子らは格子の 中にあり<o:p></o:p>

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世の母と 壇上の顔 比べ見る<o:p></o:p>

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一件が 落着ならば あの子らは<o:p></o:p>

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お互いに 白亜の人よ 庇いあえ<o:p></o:p>

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人に添い 教えを受けて 囚われて<o:p></o:p>

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今さらに 金は仇と 思い知り<o:p></o:p>

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郎党は 仇の金で 返り討ち<o:p></o:p>

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塀の中 それはないよと ぼやき節<o:p></o:p>


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む13

2010-01-24 06:12:36 | 日記

空襲下の医科大学の一面を見る<o:p></o:p>

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 一月二十二日 () 晴<o:p></o:p>

 朝検温三十七度二分。登校。十時半より独逸語試験。<o:p></o:p>

 生理学教室の二階より中庭を見る。明るき日に影美しく角帽の群三々五々と流る。紫煙談笑。本館の塔の影の背景に、碧空霞む。何となく春を感ず。わが全身熱く酔いたるごとし。(こちらも何となく戦時下の淡い青春の一端を探り当てたようで、ほろりとさせられます。そして教室の壁の落書きの紹介に苦笑します。)<o:p></o:p>

「大いなる悲観は大いなる楽観に一致す」<o:p></o:p>

「試験亡国論を著す者なきや」<o:p></o:p>

「ならぬカンニングするがカンニング」<o:p></o:p>

「諸君はなぜこんなに落書きするのか。それで医学生といえるか。アーン?」<o:p></o:p>

「公認殺人者養成学校」<o:p></o:p>

 一月二十三日 () 晴<o:p></o:p>

 午前零時半警報発令。敵一機また静岡に入りしが西進して去る。<o:p></o:p>

 熱をおぼえざるも咳止まず。胸背に一種異様の感覚あり。去春のことあれば大事をとりて休む。……。<o:p></o:p>

 一月二十四日 () 晴<o:p></o:p>

 咳止まず、夜盗汗あり。<o:p></o:p>

 一月二十五日 () 晴寒<o:p></o:p>

 午後三時より第一教室にて、同盟通信社海外局欧米部長という頗る長き肩書をつけた三輪武久氏の講演あり。演題は「最近の世界情勢」なれど、多くは宣伝戦の話なり。新聞にリスボン発同盟、ストックホルム発同盟などあるはことごとく嘘にして、この日本に於いて直接米英の電波を受けたるものなりと。<o:p></o:p>

 咳烈しく、全身に悪寒あり。


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む12

2010-01-23 06:14:25 | 日記

作者は風邪を引いたようです<o:p></o:p>

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 噂によればドイツ技師団指導のもとにてV2号製作中なりと。(神風の吹くことを待ち望む心理と同じと見ます)夜雪。のち晴れて満天の銀河凍る。風邪心地。<o:p></o:p>

 一月二十日(土)晴<o:p></o:p>

 十八日、帰宅時寒かりき。家に火なく、心荒涼たるものあれば、ついふらふらと映画館に入る。館中また寒く、而して出ずれば日暮る。駈けて帰りしが、突然寒冷なる空気を肺に呑吐せしゆえなるか、爾来のど乾き咳嗽出で、かつ水洟垂る。今日に至りて舌乾き顔火照り、脳かすかに混獨をおぼゆ。全身に悪寒あり。奥さんの命により検温するに三十八度二分。(さすがに医学生らしく、的確に症状を連ねております。親元はなれての下宿生活、ましてや物資不足の東京にての生活に憐れをおぼえます。)<o:p></o:p>

 一月二十一日(日)曇<o:p></o:p>

 昨日は午後三時より六時まで眠りぬ。夕食を喫し、また七時よりけさ七時まで眠る。一夜長かりき。蒲団熱くさく、時に身体を動かせば筋々痛めど、また一種の快感ありて、混濁せる眼にて恍惚と暗き窓見て、また混沌と眠る。<o:p></o:p>

 而して今日もまた一日じゅう眠る。午前十時検温、三十七度九分。午後四時三十八度一分。奥さんには三十七度ちょっと越すばかりという。いたずらなる心配かけるが心苦しければなり。<o:p></o:p>

 べつに今の病気により考え出したるわけではないけれども、余は死を怖れず。勿論死を歓迎せず。死はイヤなものなり。第一解剖台上の屍体を見るも、死はイヤなものなり。しかれどもまた生にそれほどみれんなし。生を苦しと思うにあらざれど、ただくだらぬなり。金、野心、色欲、人情、もとよりこれらより脱する能わず。しかれどもまた実につまらぬものにあらずや……<o:p></o:p>

 (戦時下の一医学生の人生観らしきものを垣間見る心地です。)