うたのすけの日常

日々の単なる日記等

昔のお話です 二十四

2015-09-11 11:33:32 | 昔のお話です 2

           風呂に入るのも戦争でした 2006-12-11記

 空襲で民家が焼失すれば当然商家もその中にはいります。銭湯も焼失は免れません。空襲なんか受ける以前は、けっこう銭湯の数もあったのですが、ひろい生活範囲で焼け残ったのはたったの一軒きり、人々はその一軒に集中しました。

 ですから脱衣場から洗い場浴槽と、通勤電車さながらの満員状態、まさに芋洗い状態で壮観でした。脱衣場は板の間の被害は続出するし、着衣を入れる籠の争奪戦から、黒く汚れた浴槽に入るために順番待ち。あがっていざ体を洗う段になれば、蛇口の前に陣取るのが一仕事です。いやその前に、洗い桶を確保しなければなりません。いえそのずっと以前に石鹸を入手しなければなりません。闇市で手にいれた石鹸はといえば、硬くて懸命にこすってもなかなか泡がたたず、逆にやわらかくて強く握りでもすれば、指の間からにょろにょろって這いでてくる代物でした。PXからの横流しの石鹸なんか、庶民には高嶺の花でした。

 入浴を済ませ家にかえってからも仕事が待っています。灯の下、せっかく着てきた服を脱ぎ、シャツを脱ぎ裸になります。虱の検査です。銭湯で虱をしょってくるのです。母はめがねをかけ、下着を一枚一枚丹念に調べます。あたしももちろん裸のまま一緒にやります。とにかく虱は蔓延していたのです。
 一度兄と一緒に銭湯へ行ったとき、脱衣場で兄の着衣を入れた籠の上で、シャツをパタパタ叩く男がいました。それに兄が激高して、虱が落ちるじゃねえかと言い、相手がそれにまた、俺が虱ったかりとでもいうのかと、さえない喧嘩になったことがありました。

 余談になりますが、貯金の封鎖騒ぎのときです。その銭湯の番台にはいつもおばあさんが座っていたのですが、長年貯め込んだヘソクリを売り上げにもどすのに苦労したというお話です。一度にもどすわけにもいかず、毎日目立たぬように売り上げに混ぜたということです。

 世間にはまことしやかに、見てきたような噂を流す人がいるもんてすね。でもこの話、真実味をもって街に流れていました。




 


昔のお話です 二十三 

2015-09-10 05:54:10 | 昔のお話です 2

    中学生の焼け跡彷徨、なんて格好つけすぎですが 2006-12-10記

 疎開からかえったあたしは両親と兄と四人、焼け残った裏長屋は二階の六畳で、いかなる日々を過ごしていたのだろうか。父と母はそれぞれ違う食堂へ通い、兄はすでに学徒動員を解かれていたが、勉学にもどらず巷をふらふらしていた。たまに戻れば手製の煙草巻きをはじめる、鉛筆に紙を巻きつけたものの上に、はしに糊をぬった煙草紙を置いて、刻み煙草をまくのである。そしてふらふらっと消える。
 
 後に簡易煙草巻き器なるものが煙草紙とともに露天にならんだが、当初は紙には苦労したらしい。家では兄がもっぱらコンサイスの英和辞典の紙を使っていた。神田の古書街でいち早く開店した店や露天で、コンサイスの英和辞典が飛ぶように売れたという。それも半ば煙草紙として買われたらしいのである。


 父は後年酒の配給が途絶えても苦にならなかったが、煙草の切れるのは辛かったといっていた。農家から仕入れてきた煙草の葉っぱに、砂糖水ならぬ、人工甘味料のサッカリンを溶かした水をふきかけ、刻んでそれを巻き吸っていた。ときには乾燥させたトウモロコシの毛を代用に吸ったりしていたものである。

 あたしはなにをしていたのだろう。学校は転校したばかりで友だちもまだ出来ず、勉強に身が入らなかったことは事実だった。学校から帰れば当然だれもおらず、家主と顔を合わせるのも億劫だから、自然と足は駅へ向かう。
 よく浅草へ行った。上野から地下鉄で田原町、または都電で向島か柳島行きに乗ってこれも田原町下車。六区はそこからすぐだ。
 先ずは映画だ、大勝館が焼け残っていて、そこでターザン映画をよく観たものである。三階席まで超満員、一度三階で恐ろしい目にあっている。通路にいたのだが、だんだん押されて前へ前へと体を運ばれ通路の端、体がのめって下に落ちそうになる。前に柵がない、取り払われているのである。戦時中に金物の強制供出で、おそらく真鍮だった柵は献納されてそのままだったのだ。幸い後ろの大人があたしを抱え、ここに子供いるんだ、押すんじゃねえと怒鳴ってくれて、事なきを得たのだが、休憩になり席を得ると入れ替えがなかったので丸一回ゆっくり観た。大抵二回は観た。

 時には六区をぶらぶらする。映画館通りのはずれに露天が並び、売人が声を枯らす。食べ物やの前は黒山の人だかりである。シチューをドラム缶のような円筒の鍋で煮立て、丼に盛って売る店がすごい繁盛で、あとできくところによると、進駐軍の残飯をあれこれミックスしてシチュー仕立てにしたもだそうである。日本でも明治時代、貧民相手に飲食店の残り物を、残飯やの看板で売る店があったというが、戦いに敗れ多くの日本人が貧民になりさがってしまったのである。誰一人として望んだわけでもないのに。
 そんなシチューにコンドームが混入してたなんて話も聞いたりした。これを世の末といわないで、なんというのだろうか。
 
 かえりのホームの端には、頑丈な材木の黄色く塗られた柵があって、そこには進駐軍専用車両が停まる。時たまいかめしい、白いヘルメットをかぶったMPが警備している。あるとき満員のホームで、乗客の一人をMPが、ヘッイッといって
引きずりだした。復員兵らしかった。MPは彼の軍帽を取り上げ、星のマークをひきちぎった。そのときあたしは、子供心にもなにをそこまでとおもったりしたものである。

 有楽町の駅前ではこんな光景もみた。アメリカ兵から煙草を二三個買った男に一人の男が掴みかかり、なにごとか大声でなじり、煙草をひきちぎり投げ捨てふみにじっていた。集まった人たちはどちらを是とし非としたのだろうか。あたしはここでも、なにもそこまでと、買った男に同情したものである。

 銀座通りに足をのばしたこともある。まだまだビルの残骸はあちこち、しかしさすが銀座である、けっこうな人出である。アメリカ兵も数多く行き来している。初めて間近でみたときは顔が赤いのには驚いた、鬼畜米英ではないがまさに赤鬼の形相である。しかし恐怖感はない、が、つばの大きな帽子をかぶったオーストラリア兵はなぜか怖かった。腰にナイフをぶら下げたりしていた。  

 アメリカ兵は赤道直下から灼熱の下転戦してきたので日焼けしていたのであろう。そして既に銃なぞ携帯しておらず、丸腰で露天にしゃがみこんで、ハウマッチなんていっていた。相手のおそらくプロの商売人ではない人たちが、彼らと堂々と渡り合っているのは驚きであった。露天といっても地べたに茣蓙を敷いたり、直接地べたに品物を並べている。
 なにを売っていたか覚えがないが、おそらく焼け残りの人たちが、家にある外人好みの品物を、人伝てにきいたりして売っていたものと想像する。現に家にぶらぶらしてた兄は、長屋の人たちの家からときたまガラクタを集めていた。それは不揃いなお雛様であったり、神棚のお社、飾りっぱなしのおとり様の熊手、ときには仏壇、位牌ともろもろである。娘のおたいこ帯、派手な柄の着物、もちろん七五三の晴れ着。兄はあたしにとくとくと語ったことがあるのだ。尿瓶も売ってやったことがあるとも言っていた。

 服部時計店の四つ角にはMPが鮮やかな身振り手振りで交通整理をしていて、飽かずに見ていたものである。

 
  

 

 


昔のお話です 二十一

2015-09-08 05:21:48 | 昔のお話です 2

           南京虫をご存知ですか 2006-12-8記

 もちろん戦前の話です。あたしがまだ小学校に就学する前のことです。夏のことで、最初は蚊に刺されたぐらいに、両親もみな軽く考えていたのですが、かゆみが尋常ではない、刺されたあとがペアで残る。夏のことで浴衣の寝衣の手足の露出した部分がおもに刺される、そんなことから母が物識りでとおっている客にきいて、それは南京虫の仕業であると判明した。

 客の話ではうちだけで発生したものではなく、長屋形式の店舗住宅だから、おそらく徐々に隣から、あるいはその先から伝ってきたのだろう、お宅ははずれなのだから、全部の店にいるとのご託宣。さっそく母が大家さんを通して住人に問いただすと、みな前々から被害に会っているという。
 母は逆上、何故に早くに大家さんに注進して早めに対策をとらなかったのだ。大家さんも慌てた。うちの隣は大家だ、侵略されるのは時間のもんだいである。

 南京虫はてんとう虫を小さくしたような形をしていて、二ミリ~三四ミリの大きさで、血を吸うと赤くなり、ころころした形になる。戦後女性たちがあこがれた腕時計が、これに似ていて南京虫と呼ばれていた。それはともかく対策をこうじねばならない、抜本的な対策はともかく応急措置を両親はとった。なにしろ姉たちは年頃である。ペアに刺された食い後は、南京虫に食われたこと歴然である。かゆいより恥ずかしいの先だっただ
ろう。
 まず浴衣をやめてそれぞれ大きめのパジャマにした、そして腕と足の先を縫って手足が露出しないようにした。あたしたちはころころ布団の上で転がってはしゃいだものである。それより生まれてはじめてのパジャマである。
 その上で蚊帳を吊ったあとに、その周りをぐるっと50センチほどの細長い箱ですき間をつくらず囲むのである。

 その箱はクリークという名前で市販されていたのだから、南京虫は住宅の密集したところでは、その発生は日常のことだったのだと思う。
 その箱だが外側はなんの変哲もない白いボール紙、中側に工夫がある。といってもそんな大層なものではない。つるつるとした紙が貼ってあったか、塗料が塗ってあったかどちらかである。
 ここで余談ですが、クリークなる商品名の由来を。まえの大戦の中国戦線では、中国軍は陣地の周囲に敵の、この場合敵とはいうまでもなく日本軍ですが、その侵入を防ぐため溝を掘って水をいれ防御したそうです。あたしの義兄はこのクリークで行く手をはばまれ、冬のさなか一昼夜胸まで漬かって耐えていたことがあるそうです。そのためか義兄の脛ははつるつるで、すね毛が生えていませんでした。

 夜中に進入してきた南京虫は、箱の外側を伝って中に落ちます。後は行くにも戻るにも滑ってクリークの中に、義兄のように身動きを封じられ、翌朝水の入ったバケツに投げ込まれるといった案配です。昼間は活動しません。夜電気が消されるとざわざわと、ほんとに畳を這う音がすると母はいってました。彼らは柱の細い割れ目から出てくるのです。明かりを点けるといっせいに、凄い速さで割れ目に逃げ込むのです。これも母の話です。

 昼間母がもめん針で、柱の割れ目の中を突っついているのをよく見ました。南京虫退治です。そしていよいよ商店こぞっての駆除作戦が行われたのでしょう、あたしたち下の兄弟は練馬の祖父母の家に追いやられました。

 あたしは空襲で疎開するまえに、南京虫の襲来で疎開を経験してることになります

 


昔のお話です 二十

2015-09-07 10:39:49 | 昔のお話です 2


          玄関のある家が欲しかった 2006-12-7記

 

終戦を挟んで家族の住所はめまぐるしく替わった。あたしたちは後年昔話がでると、それぞれの住まいを別段皆できめたわけではなかったが、自然と統一された呼び名を使っていた。

 あたしが生まれ育った場所、父母が食堂を開業した場所だが七丁目。強制疎開で立ち退きを迫られ、引っ越したところが九丁目。焼け出されて、とにかく落ち着いたところが五丁目。そして半ば追いたてられていったところが三河島、番地は日暮里だが三河島駅に近かったのでそう呼んだ。
 そして家族が初めて、のびのびとした生活の場として得たのが四丁目。ここで父母は食堂を再開したのである。、

 七丁目時代はあたしにとって、まだ戦争の影も、比較的に迫っていなかったので、この時代は子供でもあったし、よき時代だったと思う。よく学びよく遊んだものである。商売のほうも今考えると、順調ではなかったろうか。水商売であるから多少の波はあっただろうが、何一つ不自由したという記憶はない。まあそれなりの不満はあったが、それもねだっものを即座に買ってもらえなかったという類(たぐい)である。

 大通りに面した店は間口はいかほどあったのか、ガラス戸が四枚はまっていたので二間か、俗に二間間口の店といわれたものであろう。奥行きはかなりあったはずだ。店は入って右側に小上がりがあってお膳が二卓、たたきにはテーブルが四つぐらい置かれていたのだろうか。調理場は板の間ですわり仕事、店との境は大きく開いて枠組みになっていて、その奥が水場で下流しである。洗い物や米研ぎは、これも腰を落としてやるのである。そこが一応勝手口というのか、出れば人一人やっと通れる路地。そこに七輪を並べて魚を焼いたり、ときには煮物もするので一般の路地とはおもむきが違う。まあ、こんな店が並んでいて、裏に並ぶ長屋とは低い塀でさえぎられてはいたが、何箇所は外されていて行き来は自由であった。

 調理場と水場の境の左手に便所、その前が二階への階段がある。やっと二階にたどりついたわけです。
 二階は八畳と六畳の二間、北側が店で八畳、それに六畳が続いているわけだ。南の六畳のガラス戸の外は物干し台、当然水場の上にせり出して作られているわけである。そこに家族九人が暮らしていたことになる。こう見ると戦後の間借り生活と大差ないような気もするが、そこは気兼ねというものがない分よかったのだろう。この時代、庶民の暮らしの実態なんて、この程度だったのだと断じるしかない。

 子供たちの出入りはもっぱら裏の勝手口である。うらの長屋には玄関と勝手口が並んである作りで、部屋は玄関に続いて三畳間そして奥に六畳ぐらいの部屋、廊下があって右か左か奥が便所。そしてよくネコの額というが、小さな庭がある、板塀があってそっち側にも長屋がならんでいるので日当たりは悪い。

 それでもあたしには玄関がたまらなく魅力だった。朝、勝手口からせまい路地を抜けて友だちを迎えにいく、友だちは行ってまいりますといって玄関から飛び出してくる。たまらなく羨ましかった。