自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

自然の力とチームの力~地域を豊かにし次の世代に伝える

2016-05-07 15:16:20 | 自然と人為

 中学校の同級生が「草刈り隊」で里山を管理していると言うので、牛を放牧したら美しい里山になるよとアドバイスしたことが、「大谷山里山牧場」の開設につながった。地域に「草刈り隊」の繋がりがあったからこそ、牛の放牧による「大谷山里山牧場」に進化することが出来た。
 その牧場の立ち上げ時の状態を写真と記録に残すことは貴重な資料になると考えこのブログに紹介したが、放牧牛が到着(2011.8.29)してから最初の導入牛の孫が生まれことを新聞の切り抜きで紹介(2113.2.28)するまで、軌道に乗るのがとても早くて皆さんの協力が幸運をもたらしたと喜んでいる。

 牛の放牧による里山管理は、北海道の斉藤晶牧場とアメリカの牧場のホリスティック管理から「自然の力とチームの力により社会を豊かにし、次の世代に伝えていく」ことを学び私も実践したいと思っていたことだが、その私の夢を故郷の仲間が実現してくれている。

 最近、「地方創生」とかで輸出力のある農業や「アベノミクス」に安倍政治は力を入れているが、なんでもかんでも輸出力があれば地方が創生されるものではないし、輸出企業が繁栄すれば日本社会が繁栄するものでもない。
 農業は地方の生活の柱であり、地域農業では「自然の力とチームの力により地域を豊かにし、次の世代に伝えていく」ことが何よりも大切である。アメリカやオーストラリアの肉牛生産は大規模化によるコストダウンという産業化より先に、まず痩せた大地を牛に管理させるためにある。大規模経営の産業は資源管理の副産物なのである。資源と気候に恵まれた日本は雑草の管理ができないで里山は荒れている。その里山を管理するために牛を利用することが、利益を追求する経営より本質的な問題であろう。もちろん牛の里山管理は「地方創生」の一つでしかないが・・・。
 ここでは、このブログ「大谷山里山牧場」を訪問していただく方が増えているので、もう少しホリスティック管理について考えて見たい。

 全てを知る者は神のみである。聖書には「初めに言葉ありき」とあるそうで、キリスト教は全ての根源は「論理」にあると言っているのかもしれない。仏教で「無」とか「空」とか言うのは「論理」の根源、始めと終わりのことを示しているのかも知れないが、「論理」そのものを物語ってはいないと思う。私が仏教で連想するのは「慈悲の仏」であり、「論理」よりも「感性」である。しかも日本の「神」は神話であり、もともと万物に霊魂があるという自然崇拝の物語が、明治の廃仏毀釈を経て、「論理」による個人が育たなかった日本では、「慈悲の仏」の「感性」を育てるよりも、西洋に負けるな追い越せの「優れた日本人」への願望の物語とされたのではないか。

 日本は明治以降、「神の国」という自惚れからか「大東亜共栄圏」を目指すとしながら、アジア諸国を侵略してきた。論理が嫌いで義理人情が好きな日本人は、自分の芯になる論理(動画)を持たないまま馬鹿な戦争を始め、無責任なまま戦争を止められず、終戦を迎えた。

 一方、「論理」の世界も、我々が生きる時代を超えたことに対しては「永久に不変」だと「感性」が思わせる。あの重力により宇宙の空間と時間は変わるというアインシュタイン方程式(宇宙方程式)(コズミックフロント 宇宙の終わりに迫れ 11分21秒~)を示した本人でさえ宇宙は永遠に始まりも終わりもなくて「永久に不変」だと考えて方程式に宇宙定数を入れてしまった。これは「宇宙は拡がっている」というハッブルの観測により10年後には「人生最大の失敗」と削除することになる。
 キリスト教の影響でコペルニクスの地動説を否定した人類の感性と同じように、「論理」と言えども「感性」の現状認識に囚われるようだ。

 似たような話だと思うが、アメリカ大統領選でトランプ氏が共和党の候補になりそうだが、本人も支持するアメリカ人にも自己中心的で他者への差別の意識はないか? アメリカ人にはキリスト教の影響で、共和党には共産主義の影響として進化論を認めず、人類は初めから人類であり、猿からの進化を認めない人が多いそうだ。
 共産主義も民主主義も目標ではあるが、現実はそれを追及する過程である。「民主化」は誰も否定しないが、「共産化」には個人の自由を組織や国が束縛するようなイメージがあり、アメリカも日本も共産主義が嫌いな政治家が多い。しかし、国民を守るという点で共産主義の「論理」に代わる政治理念を持っているのだろうか? 「自由」の名の下で行われている政治の問題として、「民主化」は強者による弱者の支配を克服出来るだろうか? 「分配」の問題に誠実だろうか? 
 「アベノミクス」という支配者主導型の政治に、私は危うさを感じる。

 また、人類も自然の一員。自然の中で人類を特別な存在と考えることは、自然よりも人類の力を過信するだけでなく、人類の中にあっても人類皆兄弟と力を合わせることよりも自分たちが優秀だと言う差別の価値観を生む。明治以来の「神の国」、日本もそうではなかったのか?
 自然の理解は観測装置の発達で進化していくだろうが、人間の理解は自己中心的であり、「動物は利己的である」(動画)が、これを利他的な考え方に訓練で変えることが人類の幸福にとって大切だと思う。

 戦争が始まった時、アメリカに留学していた鶴見俊輔はアメリカの恵まれた勉学生活を捨てて、国民として戦争に参加させられる日本に、日本人を捨てないために帰国した。
 日本人であることに拘る場合も、人類の一員としての「論理」と「感性」には大きな違いがある。鶴見俊輔は「戦争で人を殺さない、殺されない」という原点の「論理」と「感性」から、戦争に対する「国民」ではなく「人民」の記憶を求めた。「論理」も「感性」もぶれない鶴見俊輔のことを伝えた番組、NHK HTV特集「鶴見俊輔~戦後日本 人民の記憶~」の録画「鶴見俊輔~人民の記憶」が紹介されていることを最近知った。このブログ「一人一人の「自由」と「助け合う社会」に責任を持つ国が必要」で<知の巨人たち> 第2回 鶴見俊輔と「思想の科学」(動画)前編後編を紹介しているが、このHTV特集では「人民の記憶」の意味が一層伝わってくる。

 国を守るということは国民を守ることである。しかし、その時、軍隊の抑止力によって守ると言うことは、人類の中に「仮想敵国」を想定することになる。日本の憲法に示された理想の平和主義を追求していくには、自衛隊の任務を「災害緊急援助隊」に特化すれば、その存在を人類の幸福に普遍化して行く道がある。自然とチームで社会を豊かにし、次の世代につないでいく「ホリスティック管理」は、そこまでの「論理」と「感性」を備えている。

初稿 2016.5.7

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