年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

日本食文化の中のタクワン

2024年09月11日 | タクワン
沢庵漬とは、糠と大根を交互に漬けて重石をのせて発酵させた漬物です。塩や糠で漬けた大根の漬物は、奈良時代の漬物の製造法を記した『延喜式』(930年)には、須々保利(すずほり)という漬物が記録されています。これは、穀類や大豆を臼で挽いて、それに塩を加えて床を作り、カブや葉菜などを漬けたというものです。干した大根を塩と糠で重石を利用して漬けるタクワン漬は何時ごろどのような人に作られ名付けられたのか?
説1 沢庵禅師が明の国より寛永年間に伝え改良した。糠漬の方法は、古くから中国にあったもので、和尚は、学問をしているから、その方法をよく知っていた。
説2 貯え漬と呼ばれていたのが転じてタクワン漬となった。
説3 品川東海寺の沢庵和尚の墓石が漬物の重石の形に似ていて、その重石を用いて漬ける大根の糠漬を沢庵漬と名付けた。
説4 沢庵和尚が紫衣事件で出羽国上の山(今の山形県)へ配流されと時、和尚は、付近の農民とともに、その研究と工夫をしているうちに、だいこんを糠と塩でつける方法をあみ出し、「貯え漬」と名付けたという。

説5 関西・九州地方では、糠と塩で漬け込んだ物を全て、「じゃくあん」亦は「じゃかん」と言い、その「じゃく」は「潤う」「艶やか」などの意味で、「沢」の字を当て、あんは「庵(イオリ)」に貯えたことから来ました。この「沢」と「庵」を音読みして、沢庵(たくあん)になったと言う。
説6 日本食物史 樋口清之著より 鎌倉時代に大根を生干しにして塩漬にするのに糖や麹を加えると味を増すことを知った時代だった。
説7 司馬遼太郎のタクワン論 叡山の定心房がたくわんの始まり.元三大師(10世紀末)のころ
他に、まだまだ諸説あります。

現在の日本のタクワンの日本農林規格(JAS)の定義

沢庵漬
農産物ぬか漬け類のうち、干しあげ(天日干しで水分を除くこと。)又は塩押
し(塩漬けにより水分を除くこと。)により脱水した大根を漬けたものをいう。

 この定義は今の普通に販売されているタクワン漬の商品表示で、この基準によって、公正な競争が保たれている。しかし時代の変化と農業の状況から糠を使う本来のタクワン漬が減り、省力が出来る規格に徐々に変わりつつある。今の主流の製造方法は調味液で漬けるタクワンとなっている。

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タクワン 糠の歴史1

2024年09月11日 | タクワン
糠 普通は米の糠 小麦の糠はフスマ糠という
 糠とは玄米を精米した時に出る胚芽や種子の粉。
ビタミンB1、B2、ナイアシンなどが豊富に含まれており、食用や肥料 として利用されてきました。
糠の発生の歴史は大きく分けて①江戸時代以前、②江戸時代から昭和40年以前まで、③昭和40年以後現在まで
沢庵漬の糠(ぬか)江戸時代
戦国時代から江戸時代に変わるころ,用水土木技術が非常に発達し、新田開発の年貢が優遇されることによってますます土木工事が盛んになった。江戸時代の農業は、地域の資源を大事に集め、狭い地域で循環を完結させる農業だった。草を刈って畑にすき込んで肥料となし、人や牛馬の糞尿は堆肥にして畑にまく。林では小枝だけでなく落ち葉を集めて使う。室町時代には草地や林地は水田や畑の面積の2倍を占めていた.行過ぎた江戸時代の新田の開発は洪水の多発を招いた。1666年頃に「諸国山川掟」という法令が出来て、新田開発が環境破壊をもたらすので抑制された。この後すでにできていた田畑をていねいに耕作することによって収穫をふやそうという政策に変わった.この政策は日本の基本的農業政策となり昭和30年代半ばに米が恒常的に余るまで続けられた。
室町時代の水田の面積より江戸時代初めには1.5倍の面積になり,元禄時代には3倍になっていたといわれている.水田の面積の拡大と農業技術の発達と共に米の生産量が増え,江戸市中の武士や町民は精白米を常食するようにまでなった。
江戸時代の農民は慶安のお触書〔なかったと言う説もある〕に書いてあるように米はなかなか食べられなかった。したがって糠の発生量も少なかったとおもわれる。しかし,都市において米の価格が低下すると白米を常食するようになり、かなりの量の糠が発生した。江戸時代の都市において米糠の利用方法として,野菜の肥料、糠袋による入浴用洗剤、家の掃除、沢庵漬、糠味噌漬等に利用された。新河岸川の舟運の歴史を見ると、江戸からの下りの荷物に、糠、灰、塩等の荷物がある。
 糠を使用した大根の漬物は江戸時代以前から存在していたと思われるが広く江戸市民まで食するようになったのは米糠が大量、安価に手に入った江戸時代中期以後である。
 この文章が誤りであると判ったのはもう少しタクワン漬の歴史を調べた後で知った。なぜタクワンという名称が残っているか禅僧沢庵の歴史を知らないといけない。
2026年 寛永行幸400年祭が京都で行われる。その関係者の中で重要人物の一人として沢庵が人間関係の隠れた中心人物となっている。
  

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