年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

生活のため

2009年08月17日 | 福神漬
生活のため
政治経済の混乱期は文化人が生きてゆくには何時の時代でも厳しい。明治始めの江戸から東京になった時、戯作者(小説家)画家(浮世絵等)が生きてゆく手段として新聞という新しい媒体を利用した。
 上野戦争(慶応4年)のあと、東叡山寛永寺は荒廃し、その門前町である下谷の街も寂れた。このとき上野の山の開発として1870年医学校と病院予定地として提案されたが外国人の反対で公園化されるようになった。この上野戦争後から上野公園の発足し、人出が増えるまでが下谷地区の景気が一番厳しかったかも知れない。戯作者・画家の生活が一番苦しかった時だった。
 東叡山寛永寺や不忍池への観光客で繁盛していた池之端の香煎茶屋が幕末には3軒あったが明治になって1軒となってしまった。
 池の端酒悦主人が福神漬を創製したのも時代に合わせた商品で上野の地域の活性化を目指していたと思われる。さらに池の端で先進的な活躍をしていた薬舗守田宝丹の広告方法を模倣したと思われる。戯作者梅亭金鵞に商品名を依頼し、引札の文面(宣伝文)も考案してもらったのもこのような背景がある。戯作者や画家への費用が明治20年以前は非常に安かった。日本の美術の価値がわからず海外に流出した時期でもあった。
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