2024年台風1号の余波の雨で攻めの家事と言うことで、洗濯物をコインランドリ-で乾燥機にかける。予報では明日までは雨。当然自宅蟄居と雨の日はなっていたが、こんな時に暇人と付き合ってくれた老柴犬のロスが雑事を招く。何かしていないとロスの気がまぎれないので、雨天の気分転換ということで、軽めの本をコインランドリの稼働中に読む。
森まゆみ著 彰義隊遺聞
この著者によると、彰義隊の戦闘は短く、それゆえ記録や小説にするには難しいという。たった4か月で組織が出来て、そして上野で戦闘が始まり、半日で大勢が決し、多くの後日談が生まれた。
福神漬の創製に至る経過と、その普及には上野戦争の経過を知らないと本当の理解が進まない。著者の言うことには戦前・戦後の日本では右翼も左翼も薩長史観から歴史記述を学校で学んでいる。
福神漬の成立経過や輪王寺宮と下谷の人達の交流風景から、明治史観に一方的に組することは出来ない。この史観の谷間、分水嶺は明治憲法発布で分けられる。そこから昭和20年の敗戦まで、日本の歴史は破滅に向かう。
もしもっと後世になって、維新後の箱館戦争後から始まる20年間は、日本をどのようにするかのせめぎあいの時代で、小説家にとって面白い時代となる気がする。ただいまは細切れの文献から書くことは難しいとおもう。
彰義隊遺聞の本でも、輪王寺宮(北白川能久親王)の記述は上野戦争で敗北し、東北で投降したまでで、その後は詳しく書かれていない。明治憲法発布時期に様々な恩赦がおこなわれ、逆賊から消えた人もいる。その痕跡が今でも上野公園に残っていて、複雑な名誉挽回運動の結果が見える。西郷隆盛の像、小松宮像、彰義隊の墓等々。靖国神社の大村益次郎の銅像は目線を上野の山に向け、手には双眼鏡をもって江戸城富士見櫓から戦況を眺めている様子を模したと言われる。彼の完璧な戦略で半日で戦闘を終わらし、ゲリラ戦をもくろんでいた不平武士や寛永寺の恩顧を受けていた下谷・浅草の人の希望をけした。その作戦は梅雨時の大火にならないこともあった。木造家屋の多い江戸は何度も大火があって、朝廷と幕府の権力争いに無関係の市民にも被害が出る恐れがあった。この大火予防も大村の作戦でもあった。旧暦の上野戦争開戦日は今の暦では7月初めとなり、江戸では梅雨時で、文献でも長雨の記述がある。
今では家だらけの下谷だが上野の山の東は田圃だらけであった。西は不忍池で大火となりにくい地域で、敗走した上野方の武士の放火を避けるため、すぐに彰義隊狩りを始めたようだ。
森まゆみ著 彰義隊遺聞
この著者によると、彰義隊の戦闘は短く、それゆえ記録や小説にするには難しいという。たった4か月で組織が出来て、そして上野で戦闘が始まり、半日で大勢が決し、多くの後日談が生まれた。
福神漬の創製に至る経過と、その普及には上野戦争の経過を知らないと本当の理解が進まない。著者の言うことには戦前・戦後の日本では右翼も左翼も薩長史観から歴史記述を学校で学んでいる。
福神漬の成立経過や輪王寺宮と下谷の人達の交流風景から、明治史観に一方的に組することは出来ない。この史観の谷間、分水嶺は明治憲法発布で分けられる。そこから昭和20年の敗戦まで、日本の歴史は破滅に向かう。
もしもっと後世になって、維新後の箱館戦争後から始まる20年間は、日本をどのようにするかのせめぎあいの時代で、小説家にとって面白い時代となる気がする。ただいまは細切れの文献から書くことは難しいとおもう。
彰義隊遺聞の本でも、輪王寺宮(北白川能久親王)の記述は上野戦争で敗北し、東北で投降したまでで、その後は詳しく書かれていない。明治憲法発布時期に様々な恩赦がおこなわれ、逆賊から消えた人もいる。その痕跡が今でも上野公園に残っていて、複雑な名誉挽回運動の結果が見える。西郷隆盛の像、小松宮像、彰義隊の墓等々。靖国神社の大村益次郎の銅像は目線を上野の山に向け、手には双眼鏡をもって江戸城富士見櫓から戦況を眺めている様子を模したと言われる。彼の完璧な戦略で半日で戦闘を終わらし、ゲリラ戦をもくろんでいた不平武士や寛永寺の恩顧を受けていた下谷・浅草の人の希望をけした。その作戦は梅雨時の大火にならないこともあった。木造家屋の多い江戸は何度も大火があって、朝廷と幕府の権力争いに無関係の市民にも被害が出る恐れがあった。この大火予防も大村の作戦でもあった。旧暦の上野戦争開戦日は今の暦では7月初めとなり、江戸では梅雨時で、文献でも長雨の記述がある。
今では家だらけの下谷だが上野の山の東は田圃だらけであった。西は不忍池で大火となりにくい地域で、敗走した上野方の武士の放火を避けるため、すぐに彰義隊狩りを始めたようだ。