ある著名な異国人ユチュ-バ-が日本で桜の木でぶら下がり桜木を揺らした。日本人がそれを批判すると、逆に何がおかしいと多くの反論が出たという。
日本の保存再生文化は他国には感じられないしつこさがある。これは仏教伝来や神道の教えかもしれないが残念ながら神道には経典と言うものがなく、古事記・日本書紀のような物語となっていて、そこから解釈で今に伝わる。仏教も普通の人は経典の内容は知らない。寺院の従事者もどうも文献を読んでいるとごく一部の経典を理解し、宗派の意向を表明していると見える。江戸時代の寺院が今の戸籍役所のような制度から寺院経済が落ち着いてしまった。
桜の木を愛でる文化の具体的な文化が説明不足と感じていて、他国の花文化と日本のサクラ文化が異なるということを誰も文書で説明できていないと感じる。これは桜の空気感でただ無臭、無色で雨が降れば1日で散ってしまう。普通なら散った桜は秋の落ち葉の様にすぐに掃除され、集められ肥料の足しになっていた思い出がある。しかしサクラは雨で落ちると地面にしっかりとしがみつき、箒で掃いても集まりにくいし、量も少ない。大方は次の大雨で川に流され消えてゆく。これを花絨毯、花筏と言う。有名なのは弘前城のお堀の花筏。西洋で散った花びらをいつくしむ文化があるのだろうか。
今年のさくらの花びらが今は道や地面にしがみつき、そこを通る人に踏みつけられ、忘れ去られる。もう桜木は緑の葉でごく一部に名残の花。
サクラトラム都電荒川線に乗って、彰義隊の本を読みに行く。江戸のサクラはソメイヨシノ。ほぼ同時に咲いてまた散る。
AIに聞いてみると
ソメイヨシノの「ヨシノ」という名称は、奈良吉野山のヤマザクラが古くから「吉野桜」と呼ばれていたことに由来しています。江戸時代末期に江戸染井村(現・東京都豊島区)の植木屋が「吉野桜」として売り出したことから、混同を避けるために「染井」を冠した「染井吉野」と名付けられました。
吉野山は南北朝時代の南朝のあった所です。上野戦争の輪王寺宮は皇族の出でした。そこから彰義隊の戦争は短い戦いでも維新後の負の歴史となっていて、北白川宮の処遇に明治政府の苦労が見えます。これは福神漬の歴史を調べると感じる。特に荒川区は上野寛永寺の支配の土地で徳川の恩顧という意識が幕府崩壊後に残っていました。勝海舟は本所生まれ育ちで、この意識が欠けていたと感じます。上野戦争の戦死者が埼玉県の人が多いと感じていて、当時はどの様な意識があったのだろうか。
日本の保存再生文化は他国には感じられないしつこさがある。これは仏教伝来や神道の教えかもしれないが残念ながら神道には経典と言うものがなく、古事記・日本書紀のような物語となっていて、そこから解釈で今に伝わる。仏教も普通の人は経典の内容は知らない。寺院の従事者もどうも文献を読んでいるとごく一部の経典を理解し、宗派の意向を表明していると見える。江戸時代の寺院が今の戸籍役所のような制度から寺院経済が落ち着いてしまった。
桜の木を愛でる文化の具体的な文化が説明不足と感じていて、他国の花文化と日本のサクラ文化が異なるということを誰も文書で説明できていないと感じる。これは桜の空気感でただ無臭、無色で雨が降れば1日で散ってしまう。普通なら散った桜は秋の落ち葉の様にすぐに掃除され、集められ肥料の足しになっていた思い出がある。しかしサクラは雨で落ちると地面にしっかりとしがみつき、箒で掃いても集まりにくいし、量も少ない。大方は次の大雨で川に流され消えてゆく。これを花絨毯、花筏と言う。有名なのは弘前城のお堀の花筏。西洋で散った花びらをいつくしむ文化があるのだろうか。
今年のさくらの花びらが今は道や地面にしがみつき、そこを通る人に踏みつけられ、忘れ去られる。もう桜木は緑の葉でごく一部に名残の花。
サクラトラム都電荒川線に乗って、彰義隊の本を読みに行く。江戸のサクラはソメイヨシノ。ほぼ同時に咲いてまた散る。
AIに聞いてみると
ソメイヨシノの「ヨシノ」という名称は、奈良吉野山のヤマザクラが古くから「吉野桜」と呼ばれていたことに由来しています。江戸時代末期に江戸染井村(現・東京都豊島区)の植木屋が「吉野桜」として売り出したことから、混同を避けるために「染井」を冠した「染井吉野」と名付けられました。
吉野山は南北朝時代の南朝のあった所です。上野戦争の輪王寺宮は皇族の出でした。そこから彰義隊の戦争は短い戦いでも維新後の負の歴史となっていて、北白川宮の処遇に明治政府の苦労が見えます。これは福神漬の歴史を調べると感じる。特に荒川区は上野寛永寺の支配の土地で徳川の恩顧という意識が幕府崩壊後に残っていました。勝海舟は本所生まれ育ちで、この意識が欠けていたと感じます。上野戦争の戦死者が埼玉県の人が多いと感じていて、当時はどの様な意識があったのだろうか。