年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語 8

2009年10月28日 | 福神漬
了翁禅師
 平成12年3月20日の日本経済新聞の朝刊記事で、江戸時代初期に自ら考案した万能薬を販売して巨万の富を得、その私財をすべて慈善事業につぎ込み学校や文庫を作った僧侶がいた。その僧侶こそ秋田県湯沢出身の了翁禅師である。
 上野に僧侶の寄宿舎兼学問所『勧学講院』を開き、宿舎では大量の野菜屑が出たが,了翁は食べ物を粗末にするのを嫌い、すべて漬物にし、これが福神漬の元祖といわれる。
 台東区中央図書館には了翁禅師の本が郷土史料の所に3冊あります。しかし、どの本にも福神漬の記述はありませんでした。江戸時代の武士や町民の家計簿なんかを読むと酒・塩・味噌・米の購入の記録はあっても漬物を購入した記録はありません。
了翁禅師は秋田県湯沢の出身です。湯沢は地元ということで湯沢市民は福神漬の元祖を了翁禅師としています。でも、了翁禅師は上野の山に勧学講院(寄宿舎つき学校)をつくり、寄宿生のために野菜屑を美味く漬けていたのでしょう。その話を上野・池之端の酒悦主人が知り、明治の味に工夫したのではないのだろうか。そうなれば了翁禅師は福神漬元祖とも言える。
 河村瑞賢や了翁禅師の漬物は今の日本農林規格(JAS)の定義だと農産物塩漬の分類となります。

 秋田県湯沢市の人々は了翁禅師を慕っているが彼が全国的に有名でないのは僧侶が医薬品を販売し収益をあげたことと、その販売方法が僧侶らしくなかったから嫌悪されたのでしょう。彼は4度ほど毒物で殺されそうになりましたが、残り物を食べていたせいで、弟子が亡くなっています。

了翁禅師略歴
了翁禅師は幼いとき母を亡くし、次々と預けられた人が亡くなり不吉児といわれ、親戚が相談して12歳の時、寺に(雑用をする)小僧として預けられた。しかし、彼自身仏門に入る意思がなく度々逃げ帰った。不吉な子といわれたがある人は寺の仕事を丁寧にするので見所のある少年だと思って住持に小僧として扱うのでなく弟子として扱うように頼んだ。最初は出家を拒んだが了翁は次第に(不吉児)といわれた頑な心が仏弟子になることでようやく落ち着き,経巻を精読し僧侶の道に向かった。幼いときの処遇が後の彼の行動となって現れて来るのである。彼が経巻収集・経蔵復興の発願したのは14歳の時、奥州平泉の中尊寺の荒廃を見てからのことである。了翁自身の不幸な生い立ちと諸行無常の仏教的人生観が彼の心を経巻収集・経蔵復興の発願に向かわせた。
 (日本の公共図書館の始まりと言われる=不忍経蔵=上野不忍池にあった)
色々な寺で修行の後、あるとき荒行の途中、故郷の貧しい父を思い出し、なにも世話が出来ないのでせめて貧しさゆえ売ってしまった田畑を買い戻そうとして江戸に出て托鉢しながら、雑労働をして黄金3両を貯め故郷の父に書状と共に送った。了翁が23歳の頃である。僧侶でありながら労働して金を稼ぐ。後に彼の始めた薬『錦袋円』の販売事業はここからはじまる。
日本文庫史研究 下巻 小野則秋著より
承応2年(1653年)隠元禅師が中国から日本に来た。了翁は彼に師事したので了翁禅師と呼ばれるのであろう。
寛文4年宇治山田の黄檗山万福寺を出て(了翁35歳)諸国を回り江戸に向かった。そこで積年の厳しい修行による体のいたみが出、昔湯沢で世話になった人の処方した薬を飲んだところ痛みが治まった。そこで了翁はこの薬を広く江戸市民に施し同病の人を救うのも功徳となりと、またその利益をもとにすれば大蔵経を納めた経蔵を一国に一蔵置きたい了翁の希望がかなう時期も早められるだろうと思った。
 了翁は浅草の観音に参篭し薬の名前を占ったところ何度占っても『錦袋』と現れたので『錦袋円』と名づけた。『錦袋円』を販売するに当り僧侶の身分で商売するにはいささかためらいがあり親戚の者の力を借り,東叡山下不忍池畔に薬舗を開き、了翁が自ら店主となり、『錦袋円』を売り始めた。薬の販売は莫大な収入をもたらしたので、禅師はかねてからの大願の実現に専心した。(寛文5年了翁36歳)。
了翁禅師の経営している『錦袋円』の薬舗は現在の台東区池之端通仲町の地にあった。屋号は「勧学屋」といい、上野・不必池に接していた。
 彼は僧侶に似合わぬ販売方法で『錦袋円』を販売していった。薬の効能書きは、水戸光圀の揮毫になる「万病錦袋円」の文字に左甚五郎の額縁で「一人一度きり二度は売らぬ」と病人の心理を捕らえる宣伝と美少年を利用して江戸市中を売り歩かせるという販売政策で成功した。このことは当時でもかなり有名であった。
 了翁の商売には大助という美少年を抱えて「勧学屋」という屋号で商いをした。かの美少年は間もなく亡くなったが後にもまた大助といって前と同じような美少年が商いしたので薬を必要とする人ばかりでなく美少年を見るために「勧学屋」は混雑した。了翁の商売は直ぐにニセ薬が現れたり、僧侶の商売としての営利行為に対して世間の批判が絶えなかった。

 池之端 男ばかりの 総籬(そうまがき)

総籬とは江戸吉原で、最も格式の高い遊女屋。入り口を入ったところの格子(籬)が全面、天井まで達している。
 
 「勧学屋」開業6年後、黄金3000両の収益があったという。
この3000両を基にして,さらに寛永寺の支援により、最初に不忍池弁天島の南方に小島を作り小さな経蔵を建立し、大蔵経を納められた。この池は、経堂を建てた島と言うことで、経堂島と呼ばれた。(今はない)不忍経蔵(しのばずきょうぞう)を造った。
 この経蔵には大蔵経を中心に仏教ほか多くの書籍が収集され、しかも自由閲覧としたほか、仏典や儒教等の学術講座を開講したことから、我が国最初の図書館と言われている。了翁禅師42歳、寛文11(1671)年のことで、この年が我が国最初の図書館開設年とされている。
 了翁禅師の造った不忍経蔵は寛文12年(1672)に増築したが、間もなく地震によって倒壊してしまった、経堂島は人工島であったため地盤が弱かったためで、了翁はくじけることなく経蔵は再建された。とにかく地震・火災で度々経蔵は被災し、再建された。また、不忍池の中にあるため経巻が湿気で傷むこともあった。
 了翁49歳の時、『錦袋円』の繁盛をねたんだ同業者により寺社奉行所に「僧侶にあるまじき所業」と告訴された。寺社奉行所も一応尋問したが直ぐに無罪となって、かえって日頃の所業を賞賛したという。
勧学講院の創立
 延宝8年(1680)四代将軍家綱公が死去した。霊廟を上野の東叡山に造営することになり、代地を別に賜わった。その時了翁は代地の余地に経蔵をつくりたいと願い出た。請願以来2ヵ年半を要した後、天和2年(1682)東叡山の領地54間四方を賜わり勧学講院を創立した。北寮は3百に58間瓦葺で、其他南、西、東、に三寮あり、不忍池中の一切経蔵並びに文庫は、勧学講院に移された。ことに注意すべきは、東叡山の地にあった東叡山所化寮も勧学講院に合同されたことである。ここまで了翁の計画が進行したことにつき一部の根強い反対があって了翁はあやうく毒飯を食する様な危険な事件が4回もあった。

 
東京都文京区千駄木にある駒込学園の前身は勧学講院で、天和2年(1682年)に了翁禅師によって上野・寛永寺境内の不忍池のほとりに創立されました。社会に大きく開かれた「寺子屋」だったようです。
駒込学園の学校案内より
天和(てんな)の大火は、1682年(天和2年12月28日)に発生した江戸の大火。八百屋お七火事とも称される。勧学講院がまだ工事中にかかわらず類焼し「錦袋円」の薬を販売していた勧学屋も移転の予定していた経蔵に入れる経巻1万4千巻も火災に遭ってしまった。
この大火は父母や親戚を失った孤児や行き先を失った浮浪者が街にあふれ,了翁はこれを無視することできず,私財を投じてこれを救済した。
了翁禅師は被災者を救済するに当たって食事を与えたりしていた。勧学講院でも学ぶ貧しい人にも食事を与えている。このとき野菜クズで作った漬物をだしていた。(秋田県湯沢の伝説=福神漬元祖)
勧学講院の焼失と再建
 元禄16年(1703)11月、江戸大火があり勧学講院は類焼した。天和2年勧学講院が建立されてから21年を経たのであるが諸宗の学徒が競い学び、天台学徒の修行道場の中心となり東叡山寛永寺においてもその重要性を感じていた。ここにおいてニ品親王公弁門主に請願し、将軍綱吉に願出て、再建は幕府建立とする将軍の命令があった。一方再建のため宇治より江戸に来た了翁は法親王に御礼の言上をなし、親王は了翁を丁寧にねぎらい、その後、幕府による勧学講院となった。このことが了翁を忘れさせた原因の一つでもある。
了翁禅師は今ではあまり知られていない人だがその原因としてやはり江戸時代の士農工商の中でいかに仏道成就の為とはいえ僧侶が薬の商売をしていることの批判があったのだろう。

秋田県湯沢で伝わる了翁禅師の福神漬伝説
上野・勧学講院から生まれた福神漬
 了翁禅師は、1630年(寛永7年)3月18日に秋田県湯沢市八幡に生まれた。
 了翁様は砕指断根の苦行中に神佛の霊夢に授かった「錦袋円」という薬を作りたくさんの民を救った。薬の売り上げは膨大であった。その利益金で日本で初めての一般公開図書館を建て授業料、食事、宿泊料一斉は了翁負担で世界に類例のない教育文化施設を作った。
  毎日の質素な食事に大根、なす、きゅうりなど野菜の切れ端の残り物をよく干して漬物にした。存外美味であった。この漬物のことが寛永寺の輪王寺の宮様の耳に達して、「福神漬」と名前をつけていただいた。これが福神漬の始まりである。 
『輪王寺の宮様』の記事以後は明治19年福神漬をつくった酒悦の名前の由来と似ています。どこかで混同されたと思います。

酒悦の主人は福神漬創製時に了翁禅師の漬物を知っていたのではないのでしょうか。「錦袋円」を販売していた勧学屋は大正の大震災まで上野・池之端付近に店がありました。酒悦と同じ町内です。了翁禅師の漬物は福神漬の考案の端緒となったと思われます。江戸・上野の地の漬物が明治になって醤油と砂糖で味付けし、缶詰に入れて販売するなど工夫し,大正に入って全国的な漬物になったのが福神漬です。
           

コメント
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